運命の人(彼)
ひと月が経った。
柊は昼食を買いに研究室を出た。
日曜日のキャンパスは、学生の姿はあまりない。さっきまで今を盛りと鳴いていたセミ達も小休止に入ったのか、辺りはひっそりとしている。
「……柊先生」
前と同じ噴水に夏帆が腰掛けて待っていた。
何も言わずに通り過ぎようとしたところ、夏帆は「安心してください、これで最後ですから」とわずかに赤い目で微笑み柊と並んだ。
「今日はお礼と謝罪を言いにきたんです」
「……今からコンビニ行くから、着くまでに話して」
「はい」
柊は夏帆の目を見ない。
柊は裏門へと歩を進める。夏帆も続く。コンビニは門から目と鼻の先だ。
裏門を出たところで、柊はやっと夏帆の顔を見た。
──この睫毛も見納めか。
沈黙を続ける夏帆に代わって柊は口を開いた。
「で、話って?」
すると夏帆は立ち止まり、ショルダーバッグから白い物を取り出した。無言で柊に差し出す。
柊は受け取り、折り畳まれた正体不明のそれを広げてみた。
『笹尾技研工業株式会社 祝!20周年記念』と書かれた、シンプルなタオル。
表面は毛羽立ち、文字もところどころ消えかけて、お世辞にも綺麗な状態とは言えない。
だがそれは、柊のとうに忘れた何かを呼び覚まそうと、手のひらの上で主張を続けている。
「あの時はありがとうございました。十三年も借りっぱなしでごめんなさい」
──なんだっけ、コレ。
確かに柊は二十歳の頃、笹尾技研でライン工として働いていた経歴を持つ。
──なんでコイツが持ってんだよ。
「返すというか、証拠品というか……ちゃんと洗ってありますから」
何を言っているのだろう、柊はもどかしく感じつつ、記憶の底をかき回す。
しかし、いくら記憶をひっくり返しても、肝心のタオルの映像はなかなか再生されない。
「先生ここヤバそうです早く進んで……」
夏帆が何かを言っている。
「先生早く!」
路上に立ち止まったまま、柊の意識は十三年前の職場へと飛んでいた。
ライン上を流れてくるエンジンに淡々と部品を取り付け続ける、静かでいて音に満ちた熱い空間。
「先生!!」
「倉永、コレ──」
瞬間、強い衝撃を感じ、仰向けに倒された。アスファルトにしたたかに後頭部を打ち付ける。
痛みと真上からの日差しと背中の熱さに顔をしかめながら起きあがろうとするが、上にのしかかるものが邪魔をしてうまくいかない。
見ると夏帆が力が抜けたようになって、柊に覆い被さっている。
「おい、早く立てって……」
夏帆は動かない。
仕方なく夏帆の体を抱き起こそうとした時、左手がドロリとしたものに触れた。
血だった。
どこかで悲鳴が上がる。「何何何何?!」「人が倒れてる!」「救急車呼びますね?!」「そっち行った逃げろ!」たくさんの声が飛び交う。
右の方でクラクションが鳴らされ反射的にそちらを向くと、車道の向こう側に駆けてゆく男の後ろ姿が見えた。男の手元が日差しを受け鈍く光った。
──刺された?!
夏帆は目を閉じて、ぐったりと体を柊に持たせかけている。その青白い顔にゾッとした。
血液は脇腹から脈打つように溢れ出してくる。
夏帆の体を抱きかかえるように支え、Tシャツをまくり上げて、そばに落ちたタオルで傷口を強く押さえた。
「しっかりしろ!」
「せんせ……けがは……?」
睫毛を震わせ、細く目を開けた。
「喋らなくていいから、俺は無事だから、お願いだからしっかりしろ!」
「……良……た………ガクッ…………」
首が折れる。腕にかかる重みがさらに増した。こんなに暑いのに、腕の中の体は徐々に熱を失ってゆく。
柊は夏帆の胸に手を当てた。早いけれど、か細い拍動を感じる。
「『ガクッ』じゃねぇよ……」
鮮血にみるみる染まる二十周年タオル、死にかけた女の白い肌、伏せられた長い睫毛、十三年前のお礼、右腕の古傷、真上からの強い日差し、焼けるようなアスファルトに広がる黒いしみ……。
──マジかよ……早く言えよ……。
しっかりと封をしたはずの記憶。柊は完全に思い出していた。
そしてあの夏と同じように、自分の元に横たわる女を励まし続けた。
「大丈夫、きっと大丈夫、がんばれ、がんばれ!」
炎天下の路上で、声を限りに励まし続けた。
──約十三年前。
その日、柊はくさくさしていた。
夜勤明けだった。工場の全従業員は各部署に整列させられ、モニターを通して社長の長い訓示を聞かされた。
会社の創立二十周年記念行事など、柊にはどうでも良かった。期間従業員である柊はもうすぐいなくなるのだし、半日も立ちっぱなしで仕事をしていたのだ、早く帰って泥のように眠りたかった。
祝いとして全従業員に一口大の紅白饅頭と記念タオルが配られた。
訓示が終わり、やっと開放される。ロッカールームでなされる周囲の社員達の和やかな会話は、柊に追い討ちをかけた。
「ウチも今年で結婚二十年なんだよ」
「まんじゅう、どうせチビ達に横取りされるから俺食えないんですよ」
そんな、家族の話題ばかりが耳に付いた。
外に出ると、午前中だと言うのに太陽は容赦なく照っていた。
真っ直ぐに帰寮する気になれず、ネットカフェに向かい漫画を読んだ。少しも頭に入ってこなかった。フリードリンクのコーヒーで、紅白饅頭を一気に口に流し込んだ。それから少しだけ眠った。
昼近くになりネットカフェを出たところで凄まじい音に首を曲げると、人間が宙を舞っていた。
それは目の前の車のフロントガラスにぶち当たり、アスファルトに落下。力なく横たわるのは小学生くらいの女の子だった。
柊の足は勝手に少女の元へと走った。救命処置を行わなければ、と少女のそばにかがみ込む。白く容赦ない光の中で、少女は身じろぎひとつしない。
まず出血のひどい右腕の肩近くを、貰ったばかりのタオルで縛った。腕は酷い有様で、解放骨折をしているらしかった。
海が好きな柊は、前年に海水浴場の短期アルバイトをやったことがある。監視員として従事する前に、AEDを用いた救命講習に参加させられた。その時のことを思い出しながら、呼吸の確認を行う。
呼吸はなかった。
柊はすぐさま彼女の胸に手を重ね、胸骨圧迫を始めた。人工呼吸まで施してみたが、少女はぴくりとも動かない。
柊は諦めずに処置を続けた。
──生き返れ!
額の汗が顎へと伝い、玉となって少女の上に降り注ぐ。
柊は心のどこかでまだ、人との繋がりを欲していたのだ。人間に絶望しながらも、誰よりも人間の温もりを渇望していた。
人間の温もり、それが例え見知らぬ少女への救命処置という刹那的なものであっても、いやむしろ、刹那的であればあるほど好都合であると、頭のどこかで直感的に思った。
確かめたかった。まだ間に合うかもと思った。
目の前に横たわる死にかけの少女は、柊自身でもあった。
誰かがAEDを柊に差し出した。
柊は講習通りに少女の服をまくり、膨らみ始めた胸の上下に電極パッドを貼り付けた。
何度目かの電気ショックの後、少女は長い睫毛を震わせ呻き声を上げる。柊は必死に彼女を励まし続けた。
大丈夫、きっと大丈夫、頑張れ頑張れ──それは自分自身への呼びかけでもあった。
誰かに言ってもらいたい言葉が口をついて出た。大丈夫、きっと俺は大丈夫。
やがて救急車のサイレンが聞こえた瞬間、怖くなった。
小五のあの夏、懸命に良い子であろうとした。でもその結果はどうだ。誰も帰って来なかったじゃないか、結局自分は父と二人の母に捨てられた。
礼を言われるどころか、罵声を浴びるかもしれない。
裸を見やがって、変態ジジイ、そんな幻聴が聞こえた気がして、リュックをひっつかんで逃げるように立ち去った。
柊は一心に駆けた。駆けて駆けて駆けて駆けて、最後の足掻きとも言うべき行為を記憶の底部に無理やり沈め、しっかりと蓋をした。
彼の一連の行動と残した血塗れのタオルが、ひとりの少女の人生を変えるとも知らずに──
*
大丈夫、きっと大丈夫──
柊は諦めずに「運命の人」を励まし続けた。
一千キロの距離と十三年の時を超えて、お礼を言いに来てくれた子。
命を賭して、自分を守ってくれた人。
あの時と同じタオルは、死にかける同じ女の血液を吸う。
二十周年のタオルは完全に鮮血に染まった。抱く身体は氷のように冷たい。
──悪かったよ倉永、俺は信じるよ、運命を。だから頼む、戻ってきてくれ!
──俺に流れる血のことも、過去の痛みも全て、運命には抗えないのだろう、きっと。
──運命なんだろ? 俺はお前の、お前は俺の、「運命の人」なんだろ?
──戻ってきて、応えてくれよ!
夏帆の声が頭の中に木霊する。
──言ったじゃないですか、先生のためなら死ねるって。
柊は夏帆の名前を呼んだ。数滴の涙がこぼれ落ち、どす黒い血液と混じり合った。
──死ぬなよ倉永、笑顔で家に帰るまでが「運命」なんだぞ!!




