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切り札

 柊はさらに遠ざかる。今までで一番遠い場所へ。


 靴を履いたままドアに内側からもたれかかるように座った。夏帆はしばらく動けない。


 どうやって帰ってきたのかわからなかった。街灯に照らされた彼の前髪の影に、暗い瞳が潜んでいた。


 夏帆には柊が何を考えているのか、結局さっぱりわからない。


──あと少しだと思ったのに。いったい何がいけないんだろう?


 どんなに酷いことをされても言われても、夏帆の心から柊は消えない。いつでも心の中心にいる。

 なんと言っても、彼は「運命の人」なのだから。


──会いたい。


 さっき、あんな形ではあるにしろ会ったばかりなのに、夏帆の全身はなおも柊を欲する。


 柊の身体は夏帆の身体に、とてもしっくりとなじむ。まるで、元々ひとつの生命体だったみたいに。


 また彼と抱き合いたい。抱き合って、その先までいきたい。あわよくば心を通わせたい。下の名前で呼んでほしい。


 柊が部屋に来るようになってすぐ、夏帆は会社の男性社員ふたりから立て続けに食事に誘われた。

 女性の先輩社員には「倉永さんってなんかフェロモン出てるよね」と言われた。


 全然うれしくなかった。


──先生じゃなきゃ意味ないのに。


 風呂場に残された柊用のシャンプーやボディソープを見るたび、夏帆の胸は張り裂けそうになる。

 流しの下の収納には、ボディソープの詰め替え用を置いてある。

 彼のために買った香水は、ひと月以上、ちっとも減らない。

 渡せなかった合鍵の、真新しさが目に突き刺さる。

でも捨てることはしない。


 そして土曜日の夜は、今でも必ず空けてある。



 よろよろと立ち上がり、靴を脱いで部屋に上がった。


 夏帆はクローゼットから例のタオルを取り出した。

また涙が溢れ、タオルを包むビニール袋の上に玉となって転がった。いくつもいくつも転がった。


「切り札」を使うべきか否か。それが問題だ。


 夏帆は長いこと煩悶した。

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