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夜のキャンパス

 柊はひとり深夜の研究室で、実験台に頬杖をついている。


 台の上に置かれた筒状の器具の先端からは、赤褐色の液体がポタポタと(したた)り落ちる。


 見るともなしに見ていると、液体は赤みを増してきた。


──血みたいだ。


 ふと思った。


 そしてその色は、父が最期を迎えた西日の部屋を、否が応でも連想させる。


 こうなるともう止まらない。柊の元を去っていった人々のことが次々と脳裏に浮かんでくる。


 幼い頃に男と逃げた、柊を産んだだけの女。

 柊を置き去りにしながらも、自らも父に人生を歪められた二番目の母。

 そして、柊の元から突然消え失せ、五十代で孤独死した父。


 父は世間の父親にありがちな、不器用で寡黙なところのある何の変哲もない男だった。少なくとも、いなくなるまでの話ではあるが。


 柊の最初の記憶は、近所の草むらにショウリョウバッタを捕りに行った時のことだ。

 とがった草に引っ掻かれた脛の痛みと草いきれ、草を揺らすと飛び出してくるバッタのチキチキという鳴き声。

 それに柊の手を包む、父の厚い乾いた手。


 でも彼は消えてしまった。


 父がそうした理由を今さら知る術はないし、知りたくもない。


 しかしどういう人生を歩もうと、自分の行き着く先はあの腐臭の染みついた狭いアパートのような気がしてならなかった。


 柊は器具をいじって液体の滴下を止めた。


 気分を変えるために職場に来たのに、これでは本末転倒だ。


 今回の「発作」はやけに長引いた。夏帆のことを引きずっているのだ、と自分でわかっていた。


 立ちあがろうと丸椅子を回すと、ギッと耳障りな音がして、足が大きな紙袋に触れた。今日行った結婚式の引き出物である。


 新郎である先輩には学生時代に大変世話になった。他県の大学で講師の職に就いている彼は、しばしば「結婚は絶対にしない、お金も吸い取られるし遊べなくなるから」と言っていたものだった。


 ところが彼の今日の有様はどうだ。ファーストバイトでやに下がる姿は、以前の彼とは別人のように柊の目に映った。


 そうでなくとも披露宴会場の華やかで友好的で活気に満ちた雰囲気は、柊を場違いな気分にさせるのだ。


 帰りの新幹線で引き出物を開けてみると、お湯を注ぐと新郎新婦の笑った顔面が浮かび上がるマグカップが入っていた。

 柊はその場でその百パーセント箪笥の肥やしになるであろう物体をかち割りたい衝動に駆られたが、すんでのところで堪えた。


 人の心は簡単に変わる。


 そしてそれは、きっと夏帆も同じこと。


 人肌の温もりは、柊にこの上ない癒しをもたらした。快楽以上に、彼をこの世に繋ぎ止めてくれる何かだった。

 だが、それと同時に怖かった。


 深入りしすぎた、長くいすぎた、近づきすぎた。


 潮時なのだ、きっと。


──どうせ離れていく癖に。どうせどうせ、結局はひとりだ。


 こちらから接触を絶てば、そのうち諦めるだろうと思った。新しい職場で、彼女は新しい恋を見つけて夢中になるだろう。柊の存在なんて、すぐに忘れてしまうだろう。


 酷いことをしているという自覚はある。でも、もっと酷いことになる前に手を打つのだ。


 夏帆は柊にとって唯一、強引にでも心の中まで入ってきてくれた存在だ。

 これ以上傷つけたくはなかった。


 二の腕に付けられた爪痕は、とうに消えてしまった。


 人の心は簡単に変わる。


──ただし、俺以外は。




 脱いだスーツの上着とかさばる引き出物の紙袋をまとめて抱え、学部の入り口を出た。


 水産学部を出てすぐの場所には小さな噴水が設置されている。今は水の噴出は止められ、水面にただ闇を湛えている。


 そのへりに座る影があった。


 柊が近づくと影は立ち上がった。


「……先生」

「……倉永か」

 柊は足を止めた。ついさっきまで頭の中にいた女が現れたので、少し驚く。


「お久しぶりです」


 ひと月ぶりに、闇を通して見つめ合う。


「今日の先生はなんだかフォーマルですね」

「……あぁ」


 どこかで「チーチー」と、名前の知らない虫の鳴き声がする。


「少し痩せました?」


 夏帆は柊へと近づいた。街灯に照らされて、睫毛の影が頬に落ちる。

 お前こそ、と思ったが口には出さなかった。


「ニュース見ましたか? 最近このあたりで通り魔事件があったらしいですよ」


 柊は無言でいる。夜風が噴水のそばの樹々を揺らす。


 少しの間の後、柊は言う。


「で……?」

「だから先生も気をつけ──」


「お前さぁ。いい加減にしろよ」

 自分でもドキリとするくらい冷たい声が出た。夏帆の肩が跳ねた。


「ウザいんだよ」


 すっかり見慣れた長い睫毛が伏せられる。

「見たくないんだよ、お前の顔。二度と」


──どうせ離れていく癖に。


 女の口元が歪み、大粒の涙が溢れ落ちる。

 女は背を向けて走り去った。


 柊はその場にしばらく佇んだ。


 寄りかかってしまいそうだった。

 ああでも言わなければ、十も歳の離れた女の胸に縋って、号泣してしまいそうだった。


 これで良かったのだ、お互いにとって。


 水面の闇が揺れている。

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