差し出せるものは
九月下旬。ついに異世界転移を実行するときがきた。
緑の父が残した情報や、緑化と緑花の二冊の本を手掛かりに、式を組み続けること二週間……ついに一枚だけ、その効力を発揮することに成功した。
自分の髪の毛を十本。魚の血を少々。墓石に使われていた石材を材料に構成されたその式は、炎が発生したり、悪魔が召喚されたりといった派手な魔術らしい現象が生じたわけではない。
ただ、媒体に用いた紙の一部が黒く変色しただけであるが、それでも発動成功の裏付けとなるため、僕はそこで式の鍛錬を止め、実戦段階へと足を踏み入れることにした。
式……と単純な一単語で言い表せるが、緑の父の文書通り、その形態は多岐にわたる。
己の体を媒介にするものもあれば、紙に記載して発動するものもある。
だからこそきちんとしたチャートが存在せず、その詳細は誰の口からも語られることなかったため、独学的に学ぼうとした僕はとても困惑させられたのだが……逆に考えてみれば、式には、機械を操作するような「精密な技術」や「正確な知識」ではなく、「覚悟」や「代償」といった概念の方が重要視されているということだ。
僕も、こんな曖昧で体系化されていない技術で魔法のような現象を発生させることができるとは到底信じられはしないが……そのように疑うことこそ、現代社会の常識に囚われた思考のなせる業なのだろうと考え直すことにした。
式に大切なのは、代償である。何を差し出し、何を得ようとするのか。
その辻褄は、偶発的な要素――神の気分で決定される。
だからこそ理屈や論理で考えず、感覚で行うべきである。
何も知識が無い、そのような状態では、あれこれ考え続けるよりも体を動かした方が目的達成に近づく。そして何より、後一年感覚を開けてしまうと、おそらく優柔不断な僕はもう転移をしたいという気持ちを失っている可能性が高い。だからこそ実行は早い方がいい。
場所は馴染み深い所がいいと思った。そして感情が大きく揺れ動く場所がいい。
そう知った時、真っ先に僕の脳に浮かんだ場所は……緑の墓場だった。
他者の死が祭られる墓場という場所は、転移を行う場所としてベストだと判断した。
そして何より緑の墓石がある墓場は……偶然にも自分の母が埋葬されている場所でもあった。
大切な母と彼女の眠る場所……これ以上、式を発動する環境において最適な場所は無い。
代償として捧げるものは、まず母の遺骨。それも胎盤付近の仙骨がいい。
式の中に「自分の生」を象徴する物体を組み入れる。そうすることで自分の「生」に箔が付く。だから、その臓器と密接に関わる遺骨部位を取り入れることで、生の価値を格上げする。
他にも、生前の記憶を想起するものが必要だ。持っている写真をありったけ使用しよう。
生の記憶を鮮明に思い出すことで、死に際に感じる生に対する執着心をあげるのだ。
この式を完成させるための基礎部分は「どれだけ大きな代償を払えるか」に依存している。
その代償を、自己完結の範疇に収めるためには、自分を犠牲にするしかない。
簡単な方法はある。他人を傷つけ、その死体を式として転用する方法だ。
しかしその方法を選べるほど僕は薄情な人間でない。
また、この異世界転移を行う目的は二つある。
① 緑が語っていた「あらゆる難病を治癒し、死すらも克服させる彼岸花」を発見すること。
② 緑の父や、緑が異世界に転移している場合は彼らを見つけ出し、共に現実世界へ帰還すること。
なるべく犠牲となる範囲は「自分自身」に限定したい。
更に、先ほど挙げたアイテムや、場所などの様々な条件を組み入れることで式の発動率を底上げする。そしてさらにそこに「自死」という最も大きな代償を払う。
そうすることで初めて、異世界転移という大業の達成、その断片が見えてくる。
しかし、それでもまだ足りない。
自身の生の価値を高め、その生を自分の手で終了させるというリスクを背負い、そこに彼岸花を混ぜ込んだとしても、まだ足りない。
そこまでしてやっと、成功率は二桁に乗るかどうかくらいだろう。
少なくとも、五割は欲しい。コインの表と裏、そのどちらかを選び、当てる――それくらいの確率が無ければ、実行するに耐えない計画である。
だからこそ、その確率をさらに底上げするために。僕は必死に考えた。
何度も文献を読み、そして思考をし、ついに行き着いた結論は一つ。
夜の丑三つ時。九月の下旬。千歳緑と母が眠る墓場。そこに隣接した寺の前。
式の構成要素となるアイテムを円形に並べた。
そしてその円形の中心に、俺は立った。
固唾を飲み込む。リュックの中からナイフを取り出す。
彼岸花の花を絞って得た赤色の液体にナイフを浸す。
目を閉じ、両腕でナイフを掴み、鋭利な刃先を自分の腹に向ける。
足の力を緩めて、その場に正座をする。瞬間、僕の脳裏に様々な記憶が駆け巡った。
生きていた頃の記憶だ。すると「死にたくない」……という感情が生まれる。
死を拒絶し、死を恐れる感情が襲う。恐怖でナイフを持つ手が震える。
でも、これでいい。もっと恐れろ。もっと怖がれ。もっと生に執着しろ。
今までに体験した様々な感情と、経験が混ざりに混ざって僕を襲った。
僕が愛していたものが、走馬灯のように輝かしい記憶となって想起される。
手が震える。死にたくない。僕はまだ死にたくない。
止めようか。という刹那の感情が僕を襲う。
緑が死んで、悲しい思いを沢山したとしてもさ、彼女よりも好きな女性ができて、もっと幸せな生活ができるかもしれない。
だが、未来の幸せな自分を想像するたびに、その横に緑がいる風景が浮かんでくる。
馬鹿な男だ、と思う。そして緑もおそらく、今の僕を見てそう断言するだろう。
少年時代の恋愛は美しいものだ。それがどんな形であれ、僕らはその淡く、幼く、純粋で、青色に染まった輝かしい青春時代を夢見られずにはいられない。
いつか壊れ、いつか忘れ、いつか消えゆく。 儚く脆い。だからこそ美しいと思う。
だから、その美しさに賭けようと思う。
(どうせいつか忘れてるよ。緑のことなんかさ)
内なる自分が突然、語り掛けてきた。拒絶しようとしても無視できる発言ではない。
それは僕の根底部分から発生した、紛れもない本音であったからだ。
事実である。紛れもない事実だからこそ、無視できない。
止めるべきだ。こんな馬鹿げた真似は。
体の良い「自殺理由」を並べあげているだけじゃないか、自分が苦しんでいるから死にたいだけじゃないか、その言い訳に、緑を使っているだけじゃないか。
ナイフを持つ手が緩まる。力が緩まる。硬直した体が動き出し、乱れた動悸が治る。
ふと、安心した。こんな馬鹿な行為今すぐ止めよう。
緑の死を受け入れ、「彼女を欠いたとしても成立する幸福の形」を、新たに探し出せばいい。
そうさ。きっと僕なら見つけ出せる。だからナイフを捨てよう。
前を向いて生きていこう。辛くても悲しくても、現世で生き抜こうよ。
自殺を諦めかけたその時、ふと心の中に、緑との最後の会話が反芻された。
【その物語の中に、あらゆる病気を治す樹液が登場する。その樹液は、たとえ幾千年を経ても、腐らず、気化せず、それを処方された人間は、どのような病からも開放され、死体は息を吹き返す。だけどその樹液は、神の守り人が守護を勤め、蟻の一匹も近寄れない】
【その樹液は、彼岸花の形を模した造花を器に生成される。その物語の世界にあるどこかの彼岸花がその樹液を孕む。彼岸花は、あの世とこの世を繋ぐ架け橋となる。故に、死者の魂すらこの世に引き戻す力を持つ……だってさ。私、彼岸花が見たいな。真っ赤に咲き誇ったやつ】
ああ、僕は、一度でも、彼女の願いを叶えたことがあっただろうか?
いつも迷惑をかけ、いつも子供みたいに自分のことばかり考えていたのは僕の方だった。
彼岸花が見たい。そんな簡単な願いすらも叶わずに、儚く散っていった緑。
その死を僕が忘れたら、一体誰が千歳緑の理不尽な死に理由をつけるのか?
そうさ。僕らは始めから理想主義者だった。理想に生きられずにはいられなかった。
辛い現実を直視することができない脆き人間、ならば、その弱さを最後まで貫き通せ。
強くなくていい、特別にならなくてもいい。誰にも覚えてもらえなくてもいい。
素晴らしい生き方も。名誉のある人生も。魂の救済も。
何も望んじゃいない。ただ、身の丈にあった幸せを掴みたかっただけだ。
それすらも叶えられないのならば、物理法則をも歪ませ、「因果」の外にまで掴みにいく。
原点を思い出した途端、僕の体の震えは止まっていた。
もはや自死に恐怖は無かった。不思議と肌触りの良い風が吹いてきた。
この世の全てが――気色が悪く、心地が悪く、不快極まりなく、歪んでいて不潔で、矮小で、滑稽な、一つの線に感じられた。
気づけば、ナイフを腹に突き立てていた。
苦しい。痛い。血が流れる。脳の回路がぐちゃぐちゃに乱れる。腸に突き刺さったナイフの鉄分が、臓器と拒絶反応を起こす。今すぐ引き抜きたい。
だが、僕は当初の目的通り、式を完成させるため詠唱を行う。
それは禁忌の詠唱である。緑の父の怪文書に残されていた、禁断の術式。
払うは、不可能という因果すらも断ち切るほどの、多大なる代償。
〔『式』鎮魂歌〕
口から血を吐き出しながら、続きを詠唱した。意識があるうちに早く。
〔立花陽太。その魂を彼岸へと渡ることを禁ずる。その代償として、理想郷へと導きたまえ〕
自死。その代償を払ったとしても、十%以上、高まることのない術式の成功率。
その確率を底上げするために用いた方法は、「魂」そのものを代償に差し出すこと。
魂だの何だの。意味の分からない概念だ。魂の重要性も、その希少性も今の僕には分からない。もしかしたら今行っているこの契約は、割に合わない取引なのかもしれない。
その行為は悪魔と契約をするより遥かに愚行たる締結にあたるのかもしれない。
それでも、今の僕が差し出せるもので、至上のものは、魂しか無かった。
千歳父が残した文書の最後のページに記載されてあった禁忌の情報。
赤色で大きな罰点が上から描かれてあった。すなわち彼すらも断念するほどの方法だ。
目の前の光景が霞んで白く染まっていく。
己の死が訪れたことを予期した。それでも何故か心地よい。
隅から白く染まった視界は、段々と温かみのある蒼色に塗り替えられていく。
ふと辺りを見回すと、五体満足の状態で、僕は何もないその場所に立っていた。
虚無の他に存在するのは、高校の門のみ。
それは僕の所属する高校の北門にあたる門だ。
やんちゃな生徒が深夜に、鍵を無理やりこじ開けようとしたため、錠前の部分が壊れている。
それだけが、ポツンと、だだっ広い空間に一つだけ、放置されてあった。
それ以外は何もなく、はるか上は空のように青く染まっており、天井もない。
四方八方を塞ぐ物体が無く、ただただ広大な空間と、そして一つの門と、僕だけがその場に残されていた。
僕は止まっていた足を動かし、その門を潜り抜ける。
誰がそう告げたわけでもなく、本能的に。
半身が門をくぐり終わり、最後に左足の踵が門を抜けたその瞬間のことだった。
突然の急降下。
目の前が真っ青に染まる。
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