彼女の行方
緑が死んでから三か月ほどが経過した八月。
おかしなことが起こった。
宛名の無い手紙が僕の部屋へ大量に届くようになった。
始めは一週間に一枚程度届いていた手紙だが、日を跨ぐごとにその量は増えていく。
内容を確認するが、見たことも無い言語形態で描かれているため解読が不可能だった。
最初はだれかのいたずらだと思った。
しかし犯人が特定できない。
時間が経過してそうな年期の入った古紙で構成された手紙だけが何十枚も家に届く。
いたずらにしては少し手が込みすぎている。
唯一の共通点は手紙の最後に描かれている一文のみ。
その一文のみは日本語で記載されていた。
【彼岸花を探してください】
全く、意味が分からない。
ずっと無視をし続け三か月が経過した頃。
ついに、僕は緑の遺品である「緑花旋律」という本に手を出そうとした。
別に特に理由があったわけじゃない。ただなんとなく。
緑の残したこの本や、どんどん届く謎の手紙を消費しなければ、僕の人生はこれから先に進まないというある種の使命感にかられていたんだと思う。
*
今年の夏は歴史的にも稀にみる猛暑だった。
彼女の死をようやく受け入れ始めた僕は、ふと自分の部屋に積まれてあった本の一冊――「緑花旋律」に目を通した。薄緑色の表紙であり、タイトルは見たこともない言語、字体で、金色のインクを用いて記載されている。
僕は机の上に積まれたその本を取り、フローリングに胡坐をかいて座った。
そして優しく撫でるかのようにその本に手の甲を置いて摩る。
重厚な歴史書のような本だ。ファンタジー作品の大作……のような風貌をしている。
僕は一呼吸を置いた後、その本をめくった。
表紙の裏表紙には、ナイフで削られたかのような乱雑な字体で、こう記載されていた。
【健全なる魂は、健全なる器に宿る】
俺は止まらずに、ページをめくった。
その本は、口絵や凡例、目次や図版が一切乗っておらず、最初のページからいきなり書きなぐられた痕でびっしりとページが埋められていた。
それは物語というよりは、個人的な日記などに近い。他者に分かりやすくその内容を伝えようという気配りは感じられず、ただ事実を列挙しているという印象を抱かせた。
その文章は、著者の書き方の癖からか、それとも言語形態が日本語のそれとはまるで異なるせいか、大半は読み取ることが不可能だった。
全ての文字が繋がっており、まるで英文のような書き方をされている。
そんな文字列が、一ページに空白を開けることもなくびっしりと書き込まれているものだから、解読など出来たものじゃない。
僕は、ページを開いては解読可能な一部を読み取いていく、という歴史家がするような地味で面倒な作業を繰り返し、「緑花旋律」の本に記載された情報を少しでも多く得ようと励んだ。
そして四時間ほど経過した後、必死に読み取って、理解できたほんの少しの情報をまっさらなノートに箇条書きでまとめた。
本の内容が列挙されたそのノートを見返して、俺は思わず笑ってしまった。
【その世界には、ファンタジー世界で見られるような魔物やモンスターがいる】
【人間はある大陸に住み着いており、そこで暮らす人々は電気や石油などのエネルギーではなく、魔法のような力を酷使することで生活を送る】
【大陸は大きく区分して九つに分かれており、中央の大陸には僕たちの世界に存在するあらゆる建造物や山々よりも巨大な樹木がそびえたつ】
【魔法のような非科学的な現象が多発している。おそらく、あちら側の世界では現実世界の物理法則や常識は一切通用しない概念となってしまう。故に、著者はこの世界を我々の住む「世界」とは別の「異世界」と表記することにしている】
【そして最後に、この異世界に稀に転移や転生を遂げる者がいる。その正確な原因などはまだ判明はしていないが、僕もその中の一人なのだろう】
それは、あまりにありきたりで、突拍子の無いファンタジー作品であった。
肝心な細部は詳細に読み取れず、唯一、理解できた内容は漠然としていて凡庸な幻想世界の設定。これでは何も得ていないのと同じ。
緑はこの本のどこに惹かれ、熱心に読み込んでいたというのだろうか。
僕はメモをしたノートを破り、胡坐を解いて床に寝そべった。
部屋の天井にある照明に向かって、切り取ったノートを透かしてもう一度眺めた。
この本がもしも、緑の遺品では無かったら、もう放り投げてゲームでもしていたと思う。
けれど、それがどんな内容であれ、大好きだった彼女の大切な品なのだから、飽きっぽい僕でも、流石にそんなことはできない。
「明日……土曜日……高校の図書室、解放してるよな? ……多分」
一人天井に向かって呟いた。
僕にはまだ、やらなければいけないことがある。
それは緑の母からこの本を譲られた人間として、成すべき行為であった。
*
僕の高校の図書室は、土曜日でも自習室として午前九時頃から解放されており、休日でも使用することができる。
訪れる目的は、勉学をするためではなく、高校の図書室にあるとされる「緑花旋律」の原本を読むためだ。緑の父が参考にしたと思われる「緑化旋律」の本である。
緑があの「花」の方の怪文を理解できたのはおそらく、そのオリジナル元である「緑化旋律」を学校の図書館で読み込んでいたからだろう。
そうでなくては、あの怪文書を一体誰が読むことが出来ようか。
僕もその原本を読むため、休日であるにもかかわらず、図書室に向かっていた。
自分の家から高校までは二駅くらいの距離がある。外気は暑苦しく、図書館についた時には自分の着用している服が汗で濡れて皮膚とくっついてしまっていた。
図書館内にはクーラーが可動してあり、ドアを開けた途端涼しい風が吹き込み、心地が良い。その後、窓際の角の席――伊織がいつもいた場所に着席して、机に荷物を置いた。
入口付近に取り付けられているパソコンを用いて、本の検索を行う。
検索欄に「ファンタジー 小説 外国語 異世界」など目ぼしい単語を羅列した。
探し続けること十分後、ついにそれらしき小説が検索結果に浮かび上がった。
画面には、伊織の遺品である「緑花旋律」と似たような表紙の小説画像が。
お目当ての物品を見つけ出した僕は、その画面が指示する場所へと向かい、ついに「緑花旋律」のオリジナルであると思われる「緑化旋律」という本を見つけ出した。
緑の座っていた場所に着席し、僕はその本を開く。
目論見通りに、意味不明な文字記号のいくつかは日本語で翻訳された箇所があった。
自分が読み取ることが出来た箇所のみを抜選して、持ってきたノートに纏める。
しかし、何事も予想通りにはいかないようで、読解できた情報は「緑花旋律」のそれと大差なかった。
三時間ほど熱心に熟読した結果、「緑化」と「緑花」その二冊に書き記されていた内容はおそらく、異なるものであるはずなのだが、読解可能なポイントは寸分変わらなかったため、結局、図書館にわざわざ訪れて原本を確認しにきたことは無駄骨に終わった。
と、思い。諦めてため息を吐き、本を閉じようとしたその時。
背表紙の裏に記述されていた一文に、僕は目を奪われた。
そこには、日本語でこう書かれてあった。
【異世界研究の成果は微々たるものであり現実世界への帰還方法は掴めずに終わりそうだ。だが、これは私にとっては全く有益な成果ではないのだが、異世界への「転移方法」ならば解明をすることが出来た。この書物を読む人間に転移を実行するような狂った人間はいないとは思うが……もしも、この本をいつかの時代で、何処かの場所で、偶然手にし、自らの意思で異世界への転移を望む者がいるかもしれないと思い、その転移方法のみをここに記載する】
【だが注意をしてほしい。この方法は正式な手順を踏んでいないし、かなり手段は強引だ。何しろ、別世界への転移などの奇想天外な行為には、莫大なリスクが伴う。その危険性を加味しつつ、それでも転移を望む大馬鹿者がいるのならば、私は喜んでその情報を開示しよう。しかし発生するリスクは背負うつもりはない。つまり完全なる自己責任である】
僕は思わず、唾を飲み込んだ。一呼吸を置いた後、その後の文に目を通した。
【やり方は簡単だ。別世界への転移は、転生とは異なり「肉体ごと」そのまま異世界へと移転することとなる。ここからは私の個人的な推測に過ぎないのだが、現実世界で死を迎えた人間は、その魂の情報が、死後も数日の間は現世に残り続けるらしい。そして魂は、感情と密接に関わっている。怨霊や呪霊などはおそらく、その者の魂が強く現世に留まることで発生した異常である。そのような霊的な存在は、「恨み」などの感情が死に際に大きく可動したことで、魂がその感情に共鳴し、通常、現実世界に留まり続けることのない魂が現世に漂ってしまったのだと推測される。つまり、簡単なことだ。その逆をすればいい】
不思議と汗と動悸が止まらなかった。創作物だと理解してはいるのに、僕の本能がそれを否定し、これは現実だ、真理だと訴えかけてくる。
【この現実世界に深く絶望し、そして自らの意思で命を絶て。その時に発生する大きな感情が、魂と結びつき、魂は此岸を「拒絶」する。その結果、怨霊化とは全く正反対の現象が生じる。
つまりは「魂は現世に一寸も留まることなく別の世界を希求し始める」。そして死の縁に思い浮かべるのだ。私が記載したこの小説に登場する「異世界」を。その想像と絶望が、深く、複雑で、鮮明であればあるほど、君の魂は異世界へと誘われやすくなるだろう】
自殺をしろと。そう書いてあるのだ。なんて本だ。こんな本を年端も行かない子供が読んだら、下手に影響を受けて、自殺を実行してしまう可能性だってあるはず。
しかし……僕は不思議と納得していた。いやそれ以上に、興味を抱いていた。
心を惹かれていた。緑と同じ光景を、やっと見れた気がした。
嬉しかった。やっと、彼女と同じ気持ちになれた。
【しかし、このような不確実で、論理もなく、危険極まりない行為を、私はこの本を見ている君には推奨しない。出来ればこの本が現実世界へと転移せず、誰の目にも触れられず、消えていくことを望む。だが、好奇心とは抑えようのない本能だ。君がもしも転移を実行しようとしているのならば、それは君が――】
心が鼓動した。緑と深く共鳴した。彼女が亡くなってから壊死した心が蘇った気がした。
彼女が生前ずっと抱いていた感情が理解できたことが嬉しい。きっと、彼女はこう思っていたのだろう。きっと彼女はこんな気持ちになれたから、この古びた本を大切に保管していたのだろう、今の僕には理由が分かる。
生前の緑と僕の感情が重なり、共鳴する。
それは、きっと彼女が――
【理想に生きる者であるのだろう。その意思が、その覚悟こそが、君が「魂」を保有している唯一の証明である。ならば止めはしない。進め。結果などは考えなくていい。ただ、進め。
その結果、己に残されたものが屍の山であろうとも、進め】
彼女は、緑は、理想に生きていたのだ。
父は「自分を捨ててどこかに逃げた」のではなく、「異世界に飛んだ」のだと、そう信じていたのだ。
ただの疑惑である。何も証拠などはない。しかしこの本には謎の確かな説得力があった。
父は、娘を捨てたのではない。異世界へと旅だったのだ。
緑は、この本を読むことで、その疑惑を確信へと変えていった。
「父は私を捨てていない」その証拠になりうるものこそが、この本だったのだ。
だから、緑のただ一つの、宝物でもあった。
そして……僕の元に大量に届いた正体不明の手紙……その差出人として予想されるのは――異世界に転移した千歳緑。ただ一人しかいない。
何も確証などないが、頭の中で全てが繋がった気がした。
気づけば俺は立ち上がっていた。拳を握っていた。
直情的な性格はしていない。
信念やら理想やらに燃えて、真っ当に物事に取り組む姿勢は、俺には向いていない。
そう自負していたはずだった、だが
「死者を復活させる……彼岸花、か」
気づけば、計画を練っていた。
決行時間は、九月中。彼岸花が咲き乱れている季節がいい。
この世を拒絶して死を選ぶ。
それは、自殺ではない。ましてやこの世に絶望したわけでもない。
ただ、理想を追うためにそうする。
その先にあるものが、ただの屍で終わろうとも。
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