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リンカーネーション  作者: 鹿十
第一章 異世界転移編
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転生

 

 走った。もっと早く、風を切るように。ダメだ。こんなんじゃ。もう時間が無いんだ。

 吐いた息が荒れている。

 足が悲鳴を上げている。

 体中に湧き出た乳酸が、俺の運動を妨げようと励んだ。四肢がちぎれそうだ。肺が壊れそうだ。でも走った。心に浮かぶ不安と恐怖を忘却するために。

 

 ピンク色のサザンカの花言葉は「永遠の愛」であることを僕は知っていた。

 その花を受け取ることを拒否した彼女はすなわち……。

 自分でも悟っていたのだろう。もう死が間近に迫っていることを。

 

 永遠の愛。それは叶わぬ理想。桃源郷と似た類の、おとぎ話。

 ここで彼女が朽ちる定めならば、それは実現しえぬ願望。

 どうしようもできない。

 僕が何をしてやれる。何が出来る。無力感で打ちひしがれ、カッコつけた言葉を吐いて、緑を鼓舞する? だとしても、彼女の死期が長引くことなんてあり得ない。

 

 五臓六腑は着々と調和を乱し、皮膚や体表には内部の悪化が鮮明に映し出されていた。

 もう長くはない、彼女は死ぬ。そう確信して、俺は走るしかなかった。

 どこかに行きたい。ここではないどこかならどこでもいい。

 もう沢山だった。このまま消えてしまえばどれだけ楽なことだろう。

 そんな自殺願望に支配されそうになって、怖くなり駆け出した。

 体中の全部の力を使いきれば、そんな馬鹿げた行為も不可能になると考えて。


 土手の道を全速力で駆けている間、俺はずっとある一つの事柄だけに意識を集中しようと努めていた。疾走し向かう先のことを考えていた。

 そうだ。彼岸花だ。僕には役目がある。彼女のためにしてやれることが一つだけある。

 彼岸花だ。それを探しに行こう。

 

 薬も、手術も、言葉も、治療も、処方も、慈愛も何もかも意味を成さない彼女の心と体に、唯一、何かを刻み、変える力があるとすれば、それは彼女の願望が叶った瞬間に他ならない。

 

 彼岸花。数年前に土手の下――橋が架けられていた下に咲いていたのを思い出す。

 ああそうだ。そこに向かおう。俺はそのために走っているんだ。

 そうやって自分の不可解な行為を正当化した。

 

 恋愛も。仕事も。勉強も。生きてさえいれば、もっと多くのことを経験できるはずだった。

 全てを奪われ、これからゆっくりと衰弱し死に至る彼女に残された唯一の希望は、彼岸花を見ることしかない。それすら叶えさせることができない僕は一体何のために彼女と日々を共にしていたのか。

 

 死んで、ただの肉片と化す彼女。

 肉片となる時期はいつだ? 長くて半年、短ければ明日にも訪れうる。

 だから、その前に、彼岸花だけでも見せてあげよう。

 それくらいしか、僕がやれることなど無いのだから。


 幼少期のころの記憶というものは、曖昧で着色され誇張されがちな情報である。

 土手の向こう岸とこちら側を繋ぐ橋の下で、小学生の頃、よく水浴びをして遊んでいたことを僕は思い出していた。

 その時、橋柱の下――水が膝につかるくらいの浅瀬の所に、真っ赤に生い茂った彼岸花が咲き乱れていた光景が今でも瞼の裏に焼き付いている。

 

 病院から離れた僕には、何故か花屋で購入するという手段があることに気づかず、自然発生した彼岸花を摘みに行こうという強迫観念のような考えに取りつかれていた。

 きっと、彼女の語った「緑花旋律」という本に記載してあった「あらゆる病気を治癒し、死すらも超越することが可能な彼岸花」は自然で発生したものであり、人工的な手腕が取り入られていない花だと、僕は確信していたからだろう。

 だからこそ、人の手が関与した花ではなく、自然で発生した彼岸花を彼女に見せてやりたいと願ったのだと思う。

 

 時刻は夜の十一時を過ぎていた。空は曇っていたため月明かりは無いが、もし彼岸花が咲き誇っているのであれば、その紅色がたとえ真夜中であろうとも目立ち、僕を導いてくれると信じていたため、迷わずその場所へと向かった。

 だが、それは幼い頃の記憶だった。

 しかも、僕はあまりに無知で、現実は余りにも非情である。

 肺が壊れるほど走り続け、ついにたどり着いた橋の下には。

 綺麗な朱色など存在せず、ただ荒れ果てた雑草が生い茂るのみであった。


 そして偶然か必然か、それとも神の気まぐれか、悪魔の悪巧みか。おそらく後者だろう。

 これが神の気まぐれにより生じた現象であるならば、神という存在は些か凶悪過ぎている。

 時刻にして、丁度僕が橋の下に辿り着いた瞬間のこと。

 後から知ったことだが、ほぼ同時刻であったらしい。

 病室に残された彼女は、何の前触れも無く、何の予兆も無く、一人、静かに息を引き取った。

 それはあまりにも穏やかで、あまりにも急すぎる死であった。



 喪服なんか持っていない。黒い服は嫌いだった。汚れが目立たないからだ。

 僕は白い服の方を好き好む人間である。それは、白い服は正直で虚偽を含まない正当な色を有していると思っているからだ。

 

 黒い服は駄目だ。実際に薄汚れているくせに、己のその汚さ、醜さに気づかない。

 だから黒い服を着ているとその内、感覚が麻痺してくるのだ。自分が醜く変化していることに気づかない危うさがある。だからこそ、たとえ傍から見たら汚れが目立っていたとしても、それが嘲笑の的となる原因になりえようとも、白い服を着る人間は正直で潔白だ。

 黒い服を着る人も、着る場面も、僕は到底好きになれそうにない。

 

 自我が発達し、一丁前に自分という「個」が出来上がってから葬式に参列するのは人生で初めてだった。実母の葬式に参列した際は、まだ自分が何をしているのかもわからず、母が死んだことにすら気づかず、何故、皆は母の写真を飾り、花で彩られた部屋で、パイプ椅子に座り込み、えんえんと泣きわめいているのだろうと疑問を抱いていたことを思い出した。


 親戚や母の旧友などの大の大人が、こぞって泣きわめいた後、僕を抱きしめ「辛いだろう」「可哀想に」と同情する行為が何を意味していたかなんて、幼い僕には到底理解が出来なかったのだ。

 

 葬式が終了した後、父にある質問をしたことを思い出す。


「お母さんはどこにいったの?」と。


 当時三歳だった僕は、死という概念を理解していなかったのか、又は、理解はしていてもそれを受け入れたくは無かったのか。父は質問を受け、とても辛い表情をしていた。そして再び幼い僕を抱きしめ、体を震わせながら語る。


「もうこの世界にはいなくなってしまったんだよ。でも、生きてるんだ。魂は生きてる」

「魂って何?」僕は、純粋な疑問を父にぶつけた。


 母がこの世にもう存在していないというのなら、何故母はまだ生きていると断言できるのか。

 魂とは何か? そんな根源的で哲学じみた難問を父にぶつけた。


「魂は……お母さんそのものだ。肉体は消えても、お母さんがそこにいたという事実は変わらない。人が死んだ後にも残るもの、それを魂というんだよ」


 魂。

 今思えば、それも幼い僕を慰めるための優しい綺麗事だったのだろう

 肉体が破壊され、生命活動を維持出来なくなったら、その人物の自我や意思は消える。

 

 魂なんて、存在しない。

 エンゼルケアを終えた彼女を見ていると、その推論は確信になる。

 もう動かなくなった彼女に、もうそこに「千歳緑」の魂や自我は残っていない。

 

 葬式には、緑のクラスメイトと思われる女子達も参列していた。

 彼女たちも集まって泣いている。彼女たちが持参してきた白色の小さなハンカチでは、次々と溢れ出る涙を全て拭くことなど不可能であろう。

 

 葬式は驚くほど速やかに遂行された。僕はずっと無心で平常心のままだった。

 母の死と同様に、まだ彼女が死んだという実感が薄いためだろう。否、受け入れたくなかっただけかもしれない。

 

 式が終わると、喪服に身を包んだ蘭の母親が近づいてきた。

 どことなく目元や唇に蘭の面影を感じさせる女性だ。年齢は三十代ほどだろうか。

 蘭の母は僕に近づく。目の下には手で涙を拭った後が何層にも刻まれており、顔はやつれていて、目は虚ろとしている。

 彼女は、一冊の本を僕に渡してからこう言った。


「立花君だね? 緑から聞いていたよ。私の娘と仲良くしてくれて有難うね」

「僕の方こそ、娘さんから沢山の思い出を貰いました」

「緑が言っていたよ。この本を私が死んだとき、立花君に渡しておいて欲しいって」

 

 そう言って差し出された本の名は「緑花旋律」と描かれた分厚い小説だった。

 そんじょそこらの国語辞典よりもページ数が多い大作だ。

 僕はその本を受け取り、表面に降りかかっている埃を手で祓う。


「少ない時間だけど緑と一緒に過ごしてくれて本当に有難う。娘は多分、天国にいっても悔いはないと思う。そう思えるくらい楽しい時間を与えてくれた。感謝してもしきれない」

「……こんな大事なものを貰ってしまっていいんですか?」

「うん。緑は立花君に持っていて欲しいって言ってたよ。それに……私が持っていても、しょうがないものだし……」

 

 緑の母親は目線を落とした。口を紡ぐべきか迷い熟考をし、ついに彼女は口を開いた。


「緑から聞いてるかな? その本は父が書いたものなんだ。娘が死んだ今も……葬式にさえ顔を出さないアイツが書いた本……だから、焼いて捨ててしまおうと何度も思った。けれどその度に、緑が泣きながら喚いて止めさせようとするものだから、結局、捨てれずに残っている本」


「……」俺はただ黙って見つめるしかなかった。


「立花くんに持っていて欲しい。そして時間があれば目を通して欲しい。私は結局、父親の顔が浮かんで読む気になれなかった。けれど、立花君、あなたならきっと……」

 

 こうして、僕は緑の大切な本を貰った。

 この本は、緑の母親からすれば、自分と娘を捨てた憎き男が書いた忌まわしき呪物であり、緑にとっては、父と自分を繋げる唯一の手段であった思い出の品だ。

 彼女の亡くなった今、その取扱い方を心得ている人物は……おそらく僕一人だろう。

 

 緑の生前は、この本の役割は「彼女」と「父親」を繋ぐものであったが。

 今の僕にとっては、「彼女」と「自分自身」を繋げるものへと変化していた。


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