最終話
一樹へ
一樹、元気にしてる? 母さんは、天国で楽しくやってる予定だよ。
というかね、アンタ、この手紙を読んでるってことは、まんまと日給百万円のバイトに乗っかったってことよね。まったく、何やってんのよ。自分では用心深いつもりだろうけどね、結局隙だらけなのよアンタは。母さんが、イタズラであれだけ鍛えたのにね。
猜疑心が強すぎるのもよくないけど、こんな甘い話に引っ掛かるなんて論外。なんの技術もない若者が、犯罪でもないのに一日で百万円も貰える仕事なんてあり得ないんだから。美樹叔母さんの肯定的な言葉にも後押しされたのかもしれないけど、それでもこんな怪しい話に乗っちゃ駄目よ。まあ、美樹叔母さんには、母さんから頼んでおいたんだけどね。あえて背中を押してやってくれって。それでもこんな怪しいバイトに引っ掛からないくらいの判断力が欲しかったからね。
今後の人生では、どんな事だろうと、一旦立ち止まって慎重に考えなさい。信用できる人の言葉でも、安易に真に受けず、自分で考えられる頭を持ちなさい。人を信じる心は大事だけど、妄信は駄目。このあたりのバランスはすごく難しいんだけど、それは今後自分で必死に学びなさい。人生、日々勉強だから。
そういうことで、これが母さんからの、教訓を込めた最後のイタズラ、ってところかな。ただ普通に百万円を返すだけじゃつまらないからね。一工夫してみたんだ。
じゃあね一樹。これからも、元気でたくましく生きてね。母さんは、いつでも天国から一樹のことを見てるからね。人を騙さず、人に騙されず、幸せな人生を歩んでね。
母さんより
***
母さんが亡くなった時、もう人生でこれほどまでに落涙することはないと確信していたが、たった今、その確信が崩れた。両手で手紙を持ちながら畳に突っ伏し、しゃくりあげながら泣く俺の姿は、あの時と遜色ないだろう。
「この手紙ね、姉さんが入院した翌日に渡されたの」俺の感情が伝播したのか、叔母さんもすすり泣いている。「ほら、お昼に私がお見舞いに行って、仕事を減らすように説得するね、って言ってた日、あったでしょ。あの日、午後一時過ぎくらいに病室に行ったんだけど、姉さんはもう、この手紙を書き終わってた。あの時点ではただの過労って言われてたけど、自分の体のことだからね。何かを察してたのかも。その時にね、もし自分がこのまま死んじゃったらこうして、っていう計画を伝えられたんだ。ここに至るまでの日給百万円の企画は、全部姉さんが病床で練ったものなの」
「母さんが、考えたこと……」
「そう。でね、もし日給百万円のバイトに引っ掛からなかったら、普通にこの百万円を渡してあげてくれって言われてた。その時は、この手紙を見せず、必要なことを口頭で伝えてくれればいい、ってね。――でも姉さん、自信があったみたいよ。一樹君は、自分の最後のイタズラに引っ掛かって、怪しいバイトを引き受けるだろう、って。さすが母親ね。お見通しだったみたい」
バッグから取り出したハンカチで涙を拭っている。
「もちろん、『もし死んだらとか、そんな不吉なこと言うのはやめてよね』って怒ったんだけど、姉さんは笑ってた。その姿を見て、少し安心しちゃったんだ。これは一樹君へのイタズラじゃなくて、私へのイタズラかな、なんて思ってさ。でも、違ったんだよね……」
言い終わると同時に、小康状態を保っていた叔母さんの涙が、とめどなく溢れだした。
俺は、母さん最後の渾身のイタズラのこともさることながら、目の前にある百万円に納得がいかず、がなり立てるように言葉を発射した。
「母さんは……なんで俺の金を使ってくれなかったんですかっ? 借金を返すために過労で倒れるまで働くなんて……それだったら、この金も使えばよかったじゃないですかっ!」
嗚咽を漏らしながら泣いていた叔母さんは、無理やり自分を落ち着けるように何度か深呼吸してから、絞り出すように答えてくれた。
「それは結果論よね。もちろん、倒れるってわかってたんなら姉さんもさすがに使っただろうけど、実際にそうなるまでは、まさか自分が、って考えるものでしょ。大丈夫、まだまだ働ける、そう思ってる時に、成人もしていない息子からのお金なんて、そう簡単には使えないよ。それが、親心ってものなの。私も、姉さんの気持ちはすごくよくわかる」
「……」
「親って、そういうものなのよ。親子の関係は理屈じゃない。割が悪いことや理不尽なことを優先してしまうことだってあるの。一樹君も、若い盛りなんだから自由にお金を使いたいだろうに、その欲望を我慢して、姉さんにお金を渡してたでしょ? まったく同じことよ」
途中から、叔母さんは涙声になっていた。顔を見ると、一度抑えたはずの涙と必死で格闘しているようだった。
俺は、依然声を発することができない。借金があっても俺が渡した金には一切手を付けなかったこと、死ぬ間際まで俺への教訓を意識してくれていたこと。どちらも、筆舌に尽くしがたいほどの愛を感じる。今一番知りたいことは、とめどなく溢れるこの涙を止める方法だった。
「イタズラの計画を私に伝えている時の姉さん、本当に楽しそうだった」叔母さんは、必死で堰き止めていたであろう涙腺を、再び決壊させた。「姉さんのことだから、もしこれが最後になるなら、壮大なイタズラを仕込んでから終わりたい、なんて考えてたのかもね。でも一番の目的は、万が一自分が死んだ時は、いつか、一日中自分のことを思い出す日を一樹君に作って欲しい、っていう思いがあったんじゃないかな」
言い終わると同時に、顔を両手で覆い、声を殺すように泣いた。
俺は、流れることをやめてくれない涙を無視したまま立ち上がり、母さんの部屋へ移動した。そして、お骨が置いてあるコーヒーテーブルの前に座る。テーブルの上には、つい先ほどまで執筆していた母さん宛のメッセージが記されたノートが置いてあった。
ノートを手に取り、お骨の入った桐箱の上へ置いた。そして桐箱を見据えながら、心の中で母さんに語りかける。
母さん、最後の最後まで俺のことを心配してくれてありがとう。母さんの言う通り、俺は自分でそこそこ用心深い人間だと思ってた。でも、どんな理由があろうと、こんな怪しいバイトに引っ掛かる俺はまだまだ脇が甘いってことだよね。どうしても母さんのお墓を建てたいっていう願望があったからとはいえ、それは言い訳にならないよね。
今回の件、ありがたく教訓として胸に刻むよ。今後は胡散臭い儲け話に乗っかることもないし、母さんが望んでくれたように、人に騙されず、もちろん人を騙すことなんてなく、生きていけると思う。
それにしても、母さんは本当にすごいよね。この世からいなくなっても、まるで今もこの世にいるかのような存在感を出すんだからさ。あまりの込み入ったイタズラに、まるで母さんが今でも生きているかのような錯覚に陥ったよ。俺が渡した金を一切使わず、それを日給百万円のバイトとして突っ返してくるなんて、母さんじゃないと出てこない独創的すぎるアイデアだ。生前の母さんからイタズラを仕掛けられたみたいで、今はすごく楽しい気分になってるよ。
母さんのことだから、きっと今も楽しく天国で過ごしているんだと思う。まだまだ先だけど、俺もいつかはそっちに行くから、それまでは新しいイタズラでも考えながら待っててよ。じゃあ、その日がくるまで、ごゆっくり――。
心の声で、母さんに挨拶を終えたその瞬間だった。桐箱の上のノートが、少しだけ動いた気がした。目をしばたたかせてから再度確認したが、俺が置いた位置からは、ややノートがズレているようにしか見えない。
母さんが、返事をしてくれた。
誰かに話しても信じないだろうし、我ながらバカバカしいと思うけど、それでも、俺は否応なく思ってしまう。母さん、お骨になっても、まだイタズラをやめないんだね、と。
【了】