ハーフムーン(Half Moon)~彼らが去った後~
今回は、アランやヒカルが転移した後のお話です。
ハーフムーン(彼らが去った後)
コロンと穏やかなベルが鳴ると、「いらっしゃいませ」と店主が微笑むこの店は、「Half Moon」という。真新しい店とは到底言えないが、きれいに磨き上げられたテーブルはしっくりとした飴色に輝いている。
「ねえ塔子さん、聞いてよ。うちの旦那、昨日も午前様だったのよ。ホントに仕事してるのかしら」
「まあまあ、ご主人もお仕事がんばってらっしゃるんだから、そんな風に言わないで。ご注文は?いつものエスプレッソですか?」
「もう、塔子さんは優しいわね。ん、あなたにお任せするわ」
5席ほど並んだスツールの真ん中にとんと座って、近くに住む雅美は機関銃のように言い放つ。それを楽し気に聞いているのは30半ばの女性、この店の店長、有村塔子だ。もともとこの店はコーヒー専門店で、薄茶の髪のイケメン店長が娘と一緒に切り盛りしていた。塔子もその頃の常連客だ。そんな親子が突然行方不明になって5年。裁判所から格安で売り出されたものをタイミングよく買い取ることが出来たのだ。
コロン、またしても来客の音だ。「いらっしゃいませ」と穏やかな声が響く。窓側のテーブル席にゆっくりと進んでいく客は、店内を堪能するようにじっくりとながめ、目的の席に落ち着くと、そっとテーブルを指先でなぞった。
「ご注文はお決まりですか?」
グラスに入った水をテーブルに置くと、客の様子をうかがった。
「この店は、オーナーが変わったのですか?」
50を過ぎたばかりのその男性客は、山高帽をそっと隣の席において穏やかに問いかけた。頭には白いものが混じり始めている。塔子はふっと笑みを浮かべた。
「お客様もハーフムーンの常連さんだったのですか? 私も、実はよく利用しておりました。今の店はそろそろ8年になるところです。以前の店長さんたちが行方不明になって、いろいろあって、結局競売にかけられることになったのです。だけど、この店をどうしても失くしたくなくて、思い切って買い取ったのです」
男性は眉をひそめ、そのまま遠くを見るようにカウンターの向こうになる食器棚を見つめると、はぁっと大きなため息をついた。
「そうですか。そんなことがあったんですか。私は、おっしゃる通りハーフムーンの常連でした。あの頃、まだ小さかった娘さんがマスターを手伝っている姿が頼もしくて、なんだかこちらまで元気をもらえるような気がして、何かある度に立ち寄っていました。ところが、妻が認知症になって、介護が必要になったので、異動願を出してリモートで仕事をしていたのです。そのせいでお店から遠のいてしまったのです。そんな妻が先日亡くなって、無事見送ることが出来ました。介護生活が長かったせいか、自分は今までどんな暮らしをしていたのか、何をしたらいいのか分からなくなって、その時、この店を思い出したんですよ」
はっと思い立った男性は、余計な話を…と恐縮しながらブラジルコーヒーを注文した。
誰にでも、それぞれ事情はあるものだ。塔子は雅美には特濃ミルクを聞かせたカフェオレを、男性には苦みの利いた深入りのブラジルコーヒーを差し出した。
「ふふ、なぁに。カフェオレなんて久しぶりだわ」
そういいながらカフェオレを楽しむ雅美の表情は、ゆっくりと解かれ優しい色にそまっている。そんな様子を目の端に捉えながら、塔子は軽食の仕込みを始める。
道路に面した大きな窓から、小学生たちがわいわい話しながら下校していくのが見えた。そうだ、さっきのお客さんも言ってた通り、この店のオーナーには小学生のお子さんがいたわね。子供たちが通り過ぎた後にも、あの頃の記憶が塔子の脳裏に降り積もっていく。
「いらっしゃいませ」と、子どもながらに明るく声を掛けていたあの子、何て名前だったっけ。ひかり…、いや、ヒカルだったような。あの日、大学のサークル仲間だった萌絵が半年付き合った彼に振られて大荒れで大変だった。あの時、初めて講義を休んでこの店で彼女を宥めていたんだ。
店に入って彼女を座らせていたら、ランドセル姿の女の子が「ただいまー」と店内に入って来て、しばらくしたらすぐエプロンをつけて仕事を始めてた。マスターがほかの客に矢継ぎ早に話しかけられてる間に、あの子、萌絵の様子に気づいてそっとおしぼりを余分に持ってきてくれてた。よく気が付くいい子だったなぁ。
「さて、買い物にでも行こうかしら」
不意に声がかかって、塔子は現実に引き戻された。雅美はちょっと照れ臭そうに言う。
「ミルクなんて、ありきたりって思ってたけど、こんなにコクがあっておいしいものだったのね。なんでも当たり前だと思っていたら、ダメなのかもしれないわね。おいしかったわ。ありがとう。今日はお疲れ気味の旦那に美味しい晩御飯でも作ってあげるわ」
「お疲れ気味なら、消化のいいものをね」
OKと指で合図して、雅美はいそいそと帰っていった。
コロン、今度は真新しい制服を着た学生とその母親がやってきた。手にはたくさんの書類を持っている。そういえば、近くの高校の入学式だったはず。塔子はちらっとカレンダーを確かめた。
「いらっしゃいませ」
「あの、お店のオーナーさんが変わったのですか?」
おとなしそうな母親が遠慮がちに尋ねてきた。
「そうなんです。以前、このお店に来られていたのですか?」
「はい。何度か足を運んでいました。若い頃、その、いろいろと相談に乗ってもらったのに、結婚したらそのままこちらには来られなくなって。今年、息子がこの近くの高校に入学したので、つい懐かしくなってきてしまいました。」
「母さん、注文しなくちゃ。」
息子に言われて「あら、やだ」と母親は笑いながらコーヒーとサンドウィッチを注文した。塔子が厨房に戻っていると、後ろからまたコロンとカウベルの音がした。
「あら、山下さんもここに来ていたのですね」
「まあ、坂田さん。お久しぶりです。主人の会社のお祭り以来でしょうか」
二人は楽し気に話し出した。隣でもじもじする少女はどうやらこの山下さんの息子と同じ学校に入学するようだ。
「ほら、美晴、ご挨拶しなさい」
「あの、坂田美晴です。今日、桜が丘高校に入学しました」
「まぁ、じゃあ、うちの息子と同じね。」
「あ、僕、山下徹です。まえに父さんの会社のイベントで会いましたよね」
二組の親子の会話はどんどん弾んでいく。ここで何かに悩みながらマスターに相談に乗ってもらっていた母親のように、彼らもまた、ここでいろんな気持ちを解きほぐすのかもしれないと、塔子は静かにほほ笑むのだった。
おしまい
彼らがいなくなって5年、塔子が店を継いで約8年。13年の時が経っています。アイスフォレストではヒカルが25歳になっています。どんな暮らしをしているのでしょうか。
さて、次回はハワードの後輩の視点でささやかなお話をお出しする予定です。