Half Moonでよろしく 3
REALIZEのスピンオフとしては3作目のお話です。
今回はちっちゃなヒカルが登場します。
Half Moon でよろしく 3
電話の音が鳴り響く、キーボードをたたく音、何かの書類がプリントアウトされていく音、社員同士の談笑。会社にはいろんな音が響き渡っている。そんな中、割って入るように大きな声が響いてくる。
「田代! おまえ、またやりやがったな!」
「え?な、なんでしょう」
背筋がぐっと伸びる。頭の中で、思い当たる案件を探すが、さすがに今日はミスなどしていないはずだ。ところが上司の栗林課長はご立腹だ。
「なんでしょうじゃないだろう? お前んとこの新人だよ。佐山産業に送るはずの見積もり、佐川工業に送ってやがる!どんな教育してんだよ!!」
「ええ! ちょっと待ってください。それはまずい…。 佐伯君!」
課長はため息をついて言う。
「佐伯はとっくに帰ったよ。腹痛だとか言ってたから、俺が許可した。だから、お前がちゃんと謝ってこい」
「え、あの。どんな内容の物を送ったんでしょう」
「んなことは後だ。まずは謝ってこい!」
課長に追い立てられて佐山産業に向かうと、案の定佐山の課長はカンカンに怒っていた。しかも、内容をよく見もしないで謝りに来た僕を不誠実だとなじった。 ああ、だから先に内容を確かめたかったのに。頭を下げながら、思わず唇をかむ。
ひたすら謝って、なんとか機嫌を直してもらって帰社すると、事務所には誰も残っていなかった。しんと静まった事務所内では、掛け時計の秒針の音だけが絶え間なく聞こえていた。
「悲しき中間管理職か」
書類を整えると、帰り支度をして部屋を出た。階段の踊り場で他の課の若い連中がわいわい騒いでいる。今年の新人だろうか。
「あははは、マジか?おまえ、それってやばい奴じゃん。明日係長に叱られるぞ。」
「え、佐伯も飲み会来いよ」
「おお、駅前の居酒屋ぽん、俺らも今から向かうわ。じゃあ、後でな」
どうやら電話でしゃべっているようだ。スピーカーになっているので、佐伯の声もかすかに聞こえている。階段を降りるのを少しためらったが、うちのビルはあいにくエレベータがない。仕方なく降りていくと、びっくりしたような新人たちが数人、ぴたりと口を閉ざして僕を注視していた。
「君たち、今から飲み会にいくの?」
「あ、はい」
「うちの課の佐伯も行くのかな?」
「…ええ、まあ」
こちらがどう出てくるかと様子を見ているようだ。
「佐伯は今日、腹痛で早退しているんだ。無理な飲み方をしないように、気を付けてやってくれ」
僕にはここまで言うのがやっとだった。昔から気が弱くて、彼らのような勢いのいい連中は苦手だった。なんともやるせない気持ちで駅に向かっていたが、こんな顔のまま家に帰ったら紗江に心配をかけてしまう。妊娠中の彼女には、不安要素を見せたくない。どこか一息入れられる場所はないだろうか。
駅が見えてきたところで、珈琲専門店があるのを思い出した。
カランとカウベルがなって、穏やかそうなマスターが笑顔で迎えてくれる。 あ、なんだかほっとする。カウンターのスツールに腰かけて一息ついていると、小さな女の子がやってきた。
「ご注文はなんですか?」
「えっと、ブラジルコーヒーをホットで」
それを聞いて、きゅっと真剣な眼になった女の子は、メモ帳にひらがなでオーダーを書き留めた。ブラジルの「じ」が鏡文字になっている。それでも、すぐさまカウンターまで戻って、ハキハキとオーダーを通す姿は一人前だ。
あんなに小さいのにと思ったのは一瞬だった。レジにお客が向かうと、「ありがとうございました!」と笑顔で声を出し、マスターがレジを打っている間に、さっさとテーブルの上を片付ける。その無駄のない動きには感服する。
こんなに幼い子が上手に立ち回っているのに、僕はいったい何をやってるんだ。
「えーっとね。慣れです。」
「え?」
ぼんやり考えているうちに、どうやら口をついて考えが出てしまっていたようだ。そんな僕ににこっと笑って、女の子が答えてくれたのだ。
「そっか、慣れか。」
「一つヒントを教えてあげる。あのね、自分は何をしなくちゃいけないのかってことを、ちゃんと分からなくちゃいけないのです。私は子供だから、お金を触らせてもらえないのです。暑いコーヒーも危ないからって、持たせてもらえないのです。だけど、お父さんが倒れちゃったら嫌だから、私に出来ることを手伝うことにしたのです」
「こら、光! お客様に失礼なことを言わないように!」
すみません。と頭を下げながら、マスターが女の子を回収していく。女の子はちょっと不満げに口をとがらせていた。
カランっとまた来客の音がした。
「いらっしゃいませ」とマスターの穏やかな声。コップに水を汲みながら、やってきた客の様子を見ていた女の子は、そろそろとテーブルに運んでいった。
「八百菱のおばちゃん、お疲れ様~」
「あら、光ちゃん。元気してた?」
「うん! でもおばちゃん最近来ないから寂しかったよ」
「ふふふ。嬉しいこと言ってくれるじゃない? アイスコーヒーをお願いね」
「はい、かしこまりました」
もくもくとメモ帳に注文を書く。それを八百菱のおばちゃんが楽し気に見つめている。注文を書き終わると、顔を上げておばちゃんと頷き合った。そして、カウンターに戻っていく。今度はちゃんと書けただろうか。そんなことを考えていたら、気持ちがちょっとだけ楽になっていた。
翌日、出社すると、新人の佐伯が何食わぬ顔で仕事をしていた。僕を見ても「おはようございまーッス」というだけで、謝罪の一つもない。悔しくて、だけど、気が弱くて挨拶すら言えない。
その時、あの女の子の言葉がふいに頭をかすめた。
そうだ。「自分がなにをしなくちゃいけないのかってことを、ちゃんと分からなくちゃいけない」のだった。
昨日の帰り、佐伯の同期達に早退したのに飲み会などに出るのはおかしいだろうと注意するべきだったんだ。そして、今は佐伯の上司として、注意することは仕事なんだ。
「佐伯君、ちょっと会議室に来てくれ」
「え?あ、はい」
ダルそうなしぐさだったが、佐伯は反抗するわけでもなく会議室についてきた。僕は、勇気をだして、昨日の見積書について確認した。
「あれぇ~そうだったっけ?」
「君は自分のしたことに責任が持てないのか? ミスは誰にでも起こりえる。だけど、大事なのはミスに気付いたら、すぐさまそれに対応することだ。誠意をもって対応するか、放置するかで、結果は大きく変わってくる。」
「ええ~、じゃあ田代係長が上司なんだから、代わりに謝りに行くべきでしょう。俺、昨日は腹痛で早退でしたし。」
こんなことを言われたら、今までの僕だったら下を向いてしまっただろう。だけど、今日は違う。
「会社を早退したのだから、当然病院には行ったんだろうな。領収書のコピーを提出しておくように。社会人として、責任のある行動を取りなさい。腹痛で早退した人間が飲みに行くなんて、おかしいだろ。僕は君の上司だから、君の勤務態度に問題があれば、自分の上司に報告する。それが仕事だ。管理職だからね」
「昨日は栗林課長が早退していいって言いました」
「栗林課長は君の伯父にあたるそうだね。課長の判断が間違っていたなら、課長も罰せられるかもしれないね。少なくとも、君がまだこの会社で仕事をしようと思うなら、ミスが起きた後の対応と、ミスが起こらないようやり方を考えるべきだ。これからの君の頑張りを見させてもらうよ」
不思議なぐらい、すらすらと言葉が出来てきた。自分が常日頃思っていることをこんな風に言ってしまえることなんて、今までなかったのに。
僕は、佐伯を残して先に会議室を出た。すると、他の部下から声がかかった。
「係長、隣の課の課長から佐伯に呼び出しがかかってるんですが…」
僕は、会議室にいることを伝えて静観することにした。どうやら昨日階段の踊り場で騒いでいた新人たちは隣の課の連中だったらしい。午後には栗林課長まで呼び出された。何があったんだろう。隣の課の木村にラインを送る。木村は僕と同期で隣の課では、係長をしている。
すると、驚くような話が舞い込んできた。 昨日、あの後、栗林課長が佐伯達と合流して飲み会に興じ、他の客といざこざを起こしていたという。その中心にいたのが佐伯だった。しかもケンカを止めることもせず、課長はさっさと引き上げていたそうだ。ああ、それなら今朝の佐伯の態度も納得できる。
いつかこうなるような気はしていたけど、なんともお粗末な話だ。
退社時間になり、席を立つと、佐伯が戻って来て僕のところにやってきた。
「係長、昨日は申し訳ございませんでした。係長の言う様に、今後は自分の行動に責任を持てるように努力します」
「そうか、がんばれよ。 あ、いや。僕もまだまだだから、お互いに頑張ろう」
社屋を出て、真っ先に思った。今日はHalf Moonに立ち寄ろう。歩いていると、後ろから木村が追いかけてきた。
「田代、今帰り?今日は大変だったな。」
「ああ、びっくりだよ。そっちは落ち着いたか?」
木村は楽し気にふふっと笑った。
「毎年、学生気分が抜けない新人には手を焼くけど、今年は手ごわくて困っていたんだ。なぁ、どこかでお茶でも飲んでいくか」
「そうだな。じゃあ、Half Moonでよろしく」
カランとカウベルの音とともにいい香りに包み込まれる。
「いらっしゃいませ」
いつものマスターの声に重なって、元気な女の子の声も響いた。木村としゃべりながらも、女の子がちらっと視線をよこすのを感じて、会釈で返す。
「それにしても驚いたよ。うちの課の新人たち、田代のことをすごい人だって口をそろえて言ってたんだ。」
「ええ?」
根耳に水で声がひっくり返った。
「あの佐伯が仮病で逃げたのに、無理をさせないようにって、労わるような言葉を掛けたって。個人の感情に流されずに部下の体調管理までしているんだなぁって、田代係長は神だ!とか言ってたよ」
「ぶはっ」
僕は思わず吹き出して笑った。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
「じゃあ、俺はアイスコーヒーね」
「僕はブラジルコーヒーをホットで」
今日もメモ帳にひらがなでオーダーを書き留める。今日はブラジルの文字も間違わずに書けている。それを指摘すると、彼女はにんまりと笑った。
「はい、ちょっとだけ賢くなりました」
「この前はヒントをありがとう。とっても役に立ちました」
僕がそういうと、彼女は文字通りぱっと明るい表情になっていた。
「こら、またお客様のお邪魔をして。すみません。」
マスターが彼女を回収しようとするので、今日は思い切って声を掛けた。
「あの、昨日彼女にヒントをもらったおかげで、頑張れたんです。ありがとうございました」
マスターはちょっと驚いた表情になったが、それならよかったですといいつつ、彼女をつれてカウンターに戻っていった。
「おい、ヒントってなんだよ。」
木村が興味深々で尋ねてくる。
「ふふ、仕事に必要な心得をね、彼女に教えてもらったんだ。」
「はあ? おい、田代。大丈夫か? 係長の仕事はきついけど、無理するなよ。もうすぐ子供も生まれるんだろ?」
木村は本当にいいやつだ。また、一緒にここに来よう。そのうちに、こいつにも、僕の言っている意味が分かるだろう。
マスターがコーヒーを運んでくる。木村はさっそくアイスコーヒーを一口飲んで、驚いていた。
「うまい!」
「ありがとうございます。うちのアイスコーヒーは水出しコーヒーなので、後口も爽やかですよ」
「へぇ」
木村は実はコーヒー通なので、喫茶店はどこでもいいというわけではなかったのだ。でも、ここなら大丈夫だと思っていた。
「さて、帰ろうか。明日も仕事だ。がんばろー!」
「おー!って、ホント無理すんなよ。また、なんかあったら話ぐらい聞くからな。その時は、Half Moonでよろしく!」
やっぱり木村もこの店が気に入ったようだ。駅で別れてそれぞれの電車に乗る。今日は笑顔で帰れそうだ。
おしまい
今の時代からはちょっと時代遅れな感じがしなくもありませんが。。。
今ならパワハラですよ、栗林課長。w