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幸福の淵  作者: 黒山幸和
3/3

 木工舎の窓に雲間から覗く三日月が映っていた。非常口を示す誘導灯の緑と混じりこの世とも思えぬ怪しさがある。振り返れば、坂の上の校門から見渡す町は深夜の田舎らしく暗闇に沈み、遠く山裾を縁取る国道の灯りが天の川を横切っていた。


 坂の上で唯一、校門の傍らに備えられた街灯に、虫がジリジリと群がっている。地に落ちた蛾が表裏に足掻く。屈み込みふっと息を吹き込むと、たちまち頭上の街灯に飛び上がった。


 携帯を見れば午後十一時五十分。いざ家を抜出してから一時間。此処まで二十分も掛からぬ道のりだから、かれこれ半刻は街灯の下で立ち往生していた。


 鉄の門扉から校庭を覗く。昼間にこっそり細工した理科室の端から二番目の窓を睨み付け、幾度も繰り返した様にそこに至るまでの五十メートルばかしをシミュレートする。


 門扉を乗り越えた途端警報が鳴り響き、校庭の半ばで学校の守護者たる二宮金次郎にのし掛かられ、なんとか理科室の窓に取り付いても宿直の剛田に捕まった。


 実際は宿直文化など昔に失われかつての宿直室は物置と化しているし、鬼の剛田は四月から別の中学校に異動したし、二宮金次郎はながら読みが危ないと掌を返され何年か前に撤去された。警報にしても、南京錠以外に当てがある程防犯意識の高い地域ではない。そもそも皆がみな家にすら施錠しない。留守となれば友達が勝手に上がって冷蔵庫の麦茶を飲み寛いでいるくらいだ。


 そんな訳だから街灯の下で尻込みしているのは臆病極まりないけれど、臆病を極めたところで側の茂みがガサついて飛び上がった。黒い何かが現れた時には勢い門扉を乗り越している。


 ガシャンと余程大きな音に飛び出たイタチが蜻蛉帰りに逃げた。


 呆然と静かに暗い茂みを見て、乗り越した門扉を見て、込み上がる笑いに昂揚しながら木工舎を仰ぎ見た。


 屋上の天の川に人影が浮かんだ。


 ああ、あれか。


 理科室の窓に駆け出した。



 発端は昼間図書室に川端康成を返した折、廊下ですれ違ったクラスメイトの新田だった。トランペットを抱えた新田は吹奏楽部の帰りで、同じパートの女子生徒と連れ立って朗らかに話し込んでいた。音楽に打ち込む好青年の姿だが、正体を知ればその笑顔に下心が透けて見える。  


 小学の時分は野球クラブの丸坊主だったが、六年生の夏休みに河川敷でエロ本を見つけてから色気付き始めてすっかり生臭坊主と化した。野球クラブのエースで四番が、女に囲まれたいと吹奏楽部に入った時には野球の諸先輩方から随分可愛がられたようだ。結局意地を突き通し、詳細は分からぬがそれ以降何故か上級生から一目置かれているらしい。


 その新田がアイドル風に伸ばした前髪を気にしながら言ったのだ。


「いやマジらしいんだって。初めは野球部の奴らが合宿した時に見て、それに新城先輩と部長が同じモノ見たんだから。暗がりだったけどセーラー服着てたみたいでさ、ウチの古い制服じゃないかって。幽霊だよ幽霊、まじで居るんだってこの学校」


 やだ〜と楽しげに盛り上がる女子生徒を横目に多少興味が湧いて立ち止まると、目があった新田も女子生徒に先を促した。


「なんだ一学期以来じゃん。元気そうだな、お前はどうせ本ばっか読んでたんだろ。文芸部なんかで青春腐らせてないで、吹部入れば良かったのに。こっちはいいぞ、なんかもう空気が違うのよ。なんで女子ってあんな良い匂いするんだろな」


「知らないけれど君は気持ち悪いな」


 つれないなぁ、と肩を組んできた新田が、


「もう夏休みも終わりだぜ。キミ、人の書いた本を読んでばっかじゃ詰まらないぞ。自分の人生のページも埋めてやらないと。俺なんか色々あったぜ、この夏だけで五冊は埋まるね」


と、思い出したのか鼻の下を伸ばしていう勘に触った。


「その一ページが幽霊って訳かい。ラブコメなのかホラーなのか、君は節操なしに詰め込み過ぎじゃないか」


「妬むな妬むな。積み込まざるを得ない人生ってわけよ。やらない後悔よりやった後悔って言うだろ。ぼぉっと過ごしただけ未練が募るってもんだ。お前もそのままじゃ、あの幽霊みたいに成仏できなくなるぞ」


「せめて人生を纏めるならノンフィクションにしてくれよ。大方何かの見間違いか、酔っ払って夢でも見ていたんだろ」


 最近、どうも一部のグループで酒が出回っているらしい。勿論、まだ中学生なのだから違法である。まぁ、こっそり呑む分には誰の権利も侵害してないし悪とも断ぜられないが、その結果の幽霊で新田をして調子に乗らしめているなら問題である。


 無論、学友達の動向に余程詳しい新田も秘密の酒盛りについては耳にしている筈だ。もしかしたら参加した事もあるのかも知れないが。


「酔っ払うってお前、野球部のアホらは知らんが、吹部の部長とパートリーダーだぜ」


「品行方正と酒が関係あるか。夏目漱石だって下戸にしろ酒は呑んだんだ。機会があったら試してみるのは健全な好奇心の発露だと思うがね。ところで噂の火種は野球部なのかい」


「なんだよ、やけにつっかかるな」


と、誤魔化しているようで目が泳いでいるから分かりやすい。火があれば煙が立つのは道理だが、煙を扇いで広めているのはコイツじゃないだろうか。


「反力だよ反力。君がつっかかってきたから釣り合いをとったんだ。実はさして興味がないから失礼するよ」


と、肩を解こうとすると引き留められた。


「待て待て、ちょっと待て。ウチの部長とパートリーダーをそこまでコケにしといてそれはないぜ。夏の演奏会の前、リーダー会議での打ち合わせが遅くなっただけだ。素面の二人が見間違ったとして、本当は何だったんだ」


「そんな忠誠心があったのかい」


「いやぁ、結構上下に厳しいのよ。何処で聞かれているかも分からんし」


 特に男なんてあっという間に村八分だと、愉快気な口振りだが実際愉しんでいるのだろう。


「枯れ尾花も幽霊になるんだ、本当は何だったかなんて分からないよ。窓に映った月かもしれないし、唯の生身の人間かも知れない。そのリーダー会議とやらが酒盛りの隠語かも分からない」


「よし分かった。そこまで吹聴するなら今夜幽霊の正体を確かめるぞ」


と、一段強く肩を組まれる。話が拗れてきた。


「さして興味がないといったろう。何で俺がそこまで」


「良いじゃんか。夏休み最後の思い出作りだ。お前の白紙の青春も埋められるし、俺は興味深々だし、ついでに部長達とお近付きになれる。一石三鳥だぜ」


 取り分が釣り合わないと文句を垂れるも、結局は新田の押しに負け、二人して理科室の窓に細工した。建て付けの悪い窓の外に出した紐を引けば鍵の下りる簡単なものだ。遠目には見えないから簡易な目視による戸締りぐらい誤魔化せるだろう。


 此処に至っては幽霊よりもやけに手慣れた新田を気にする所だが、追求すれば寧ろ得意になって鼻を伸ばすのが目に見えているので黙っていた。


 じゃあ十一時にまた、と一旦分かれた新田から帰宅して早々電話があった。


「すまん、母ちゃんに宿題終わってないのがバレた」



 窓の仕掛けは上手く働き、いざ忍び込む時は緊張と背徳から得体の知れぬ快感の中にいたが、乗り越えた桟で脛を打ちつけ早々台無しになった。声を抑えて暫し悶絶する。悶絶しながら土足に気付き靴を脱いだ。蒸し暑い室内で足裏に伝わる床の冷たさが心地良い。教室に並ぶテーブルの合間を月明かりを頼りに中腰で歩き、引き戸を開け先を覗けば、板張りの廊下が誘導灯の緑に滲んでいる。


 如何にもな雰囲気に帰りたくなった。


 そもそも言い出しっぺの新田が一抜けたのだから放り出しても支障ないのだが、奴の顔を一つ明かしてみたくて此処まで来てしまった。明日の学校でいざ幽霊の正体を暴いて見せれば、新田は敵前逃亡した腰抜けだ。想像するだけで頬が勝手にニヤついてしまうから、自覚するより奴の言い分に苛ついたのかも知れない。望んで活字に埋れて夏休みを過ごしたのだ。勝手に寂しい人扱いされては心外である。


 それに、夜の学校に忍び込むというのは、なかなか文学的では無かろうか。物語の起に相応しい。青春の一ページを埋めるとしたら、悪くない案に思えた。奴の言い分を認めるようでシャクだが、事実この夏休みに思い出に残るような事は何も無かったのだ。以前、曽祖父の通夜で大人達が顔を赤くして話す子供時代の武勇伝を思い出した。将来、中学二年の夏を人に問われて何一つ答えられないのは、認める訳では無いが、一つの解釈として、少し寂しい気がした。


 外履きを片手に引っ提げ廊下を進み、中腰のまま階段を上がる。一つ二つと踊り場を過ぎて腰が痛くなってきた。誰もいる筈は無いから堂々と歩いて構わないのだけど、窓の外から誰かに見られる心配で立ち上がる気にもなれない。やたら呼吸が煩い。息を潜めて苦しさを我慢する。


 三階を通り過ぎ、屋上に続く扉に辿り着いた。半開きになった隙間から淡い光が漏れている。何処か誘われている気配を感じ、門扉から見上げた人影を思い出して、今になって自分が何者と出会そうとしているのか恐ろしくなった。はっきり見えた生気ある人影に何だやはり幽霊は嘘だと得意だったが、考えてみれば人間だとしても怖い事に違いない。


 深夜に学校を徘徊する、得体の知れぬ人間だ。


 携帯を取り出し、写真アプリを起動する。何にせよ証拠は抑えなければならない。ついでに時計を見れば丁度十二時で、暦に従えば夏休みは終わっていた。


 早回しする心臓を抑え、深く深呼吸し、扉を開けた。


 稜線から流れ出づる天の川があった。待ち構えていた何者かは影も無く消えていた。


当ての外れた安堵に、


「こんばんは」


と、女の声に振り向き様、その両眼のあり得ぬ程大きく窪んだ化物に腰が抜けて尻餅をついた。ついた尻を引き摺って後退り、よく見れば化物ではなく少女だった。


 噂通りセーラー服で、噂にはなかったが大分小柄だった。眼窩と見誤った月明かりにもはっきり浮かぶ濃い隈が、整った顔を飾っていた。


 誰何しようも驚きの余韻で言葉が出ずに、池の鯉見た様に口をパクパクさせていると、


「御免なさい。脅かすつもりは無かったの」


と、手を差し出して謝罪された。誠実を繕いながらも口元を引きつかせて笑いを堪えている。


 小さな手に縋って立ち上がると、女の顔が胸元にあった。旋毛から漂う甘い香りに頬が熱くなり慌てて身を引く。誤魔化すように顔を逸らして落とした携帯を拾ってから、


「君は何なんだ。どうしてこんな時間に」


すると女は背中に背負った筒袋を見せて、


「天文部の活動よ。見ての通り、今日はわたしだけなんだけど」


「天文部なんて聞いた事がない。それにウチの制服はブレザーだ」


「これ?」と、スカートの裾を摘んで見せる仕草に目を逸らした。ニーソックスの上にチラリと素肌が見えて恥ずかしくなった訳だが、当の彼女は気にした様子もなく、


「違う違う。わたし東雲中だから。知っているでしょ? あっちの方なんだけど」


 言われれば見覚えのある制服だった。目当ての本を探して山向こうの図書館に足を伸ばした時にああこんな山奥に水兵だらけだと感慨深かった気がする。幽霊騒ぎの発端となった先輩達も見知っている筈だが、暗闇に朧げだったから夜の校舎の印象と相まって間違えたのだろう。


 正直、この顔相では間違えて当然だ。


「つまり不法侵入にしては堂々としているね」


「人聞きの悪い。ちゃんと許可を貰っているわ。ここら辺じゃ、この屋上が一番見晴らし良いの」


「先生の付き添いもなしで許可される訳無いじゃないか」


 他に人影はない。温い風が二人を撫でて眼下の街へと吹き降りて行った。


「許可は貰ったわ」


「嘘に決まっている」


「本当よ。夏休み前に顧問に相談したら、この学校に話をつけてくれて、活動の許可をくれたの。それで一度は皆で来たのよ? 私は折角許可を貰ったのだから足繁く通っているのだけど」


「君は一度貸して貰ったら何時でも借りて良いと思っているのか?」


 今時期の雑草も此処まで図々しくはない。


「解釈の違いね。その日に限るなんて聞いていないのだから、誤解があっても仕方ないわ。それに貴方の方がよっぽど不審よ。門扉の前でウロウロしていたの見ていたんだから。ひょろひょろで警戒するのも馬鹿らしくなったから、こうして声を掛けたのだけど」


 小学生みたいな女子に此処まで侮られると流石に涙が出そうだ。


「噂の幽霊を拝みに来たんだ」


「幽霊?」


「セーラー服を着た屋上の幽霊らしい」


「私じゃないの」


と、小首を傾げてクスクス笑った。


「尻餅ついた人なんて初めて見たわ。臆病な貴方が此処まで頑張ってきたんだもの。無事拝めた感想を聞きたいわね」


「此方こそ、不法侵入が露見してしまった感想を聴きたいね。元々、幽霊の正体みたりと発表するつもりだったんだ。本当に見つかったのは棚からぼた餅だったけど」


「棚から?しっかり尻餅ついていたと思うけど。それに貴方だって忍び込んでいるじゃないの」


「空き巣を追いかけても不法侵入は責められないさ」


「困ったわね。別の枯れ尾花を紹介するからそれで手を打たないかしら」


「やはり困る程には確信犯じゃないか。それで別とはなんだい?」


「付いてきて」と彼女は筒袋を背負い直して、


「案外、何処にでも幽霊はいるものよ」


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