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黄色い花・2

 会えなかった。また今日も。クレヨンの一つ目が私を見ている。私もじっと見つめていたのだ。心が通じるくらい目を合わせたはずなのに、今日もムニには会えなかった。もう何日会っていないだろう。顔を合わせてもすぐにいなくなってしまうのだ。遊んでいる最中に、急に釣り上げられた魚みたいにみょんと飛んで行ってしまう。そういうとき、ムニは必ずびっくりしているから、ムニが望んでどこかに行ってしまうわけではない。それは十分分かっているつもりだが、遊びの途中でどこかに行かれてしまうと面白くなかった。ろくに話もできないのだ。

大きくため息をついて、リュックを背負う。千里は今日も朝練か。毎日ご苦労なことで。

通学路では、近所のおじいさんが連れている犬とか、ゴミを漁るカラスとかがみんなしてひょこひょこしていた。うん、今日も至って平和、平和。穏やかな朝だ。

 のそのそ歩いていると、後ろから追い越していった車が少し先で止まった。運転席のドアが開いて、女の人が出てくる。

「神岡さん! 乗ってく?」

 白の軽自動車から降りてきたのは境井のお母さんだった。境井の送迎ついでに何度か保健室で話をしたことがある。相変わらず活発な感じで、痩身に白いスキニーと紺のジャケットがよく似合っている。

「え、……あ、おはようございます」

小走りで寄っていくと、返事もまだなのに後部座席のドアを開けて私を押し込む。顔を上げたときには、運転席に戻ってシートベルトを引いていた。私は前の座席の隙間から彼女に声をかけた。

「あの、ありがとうございます」

「細かいことは気にしない。いつも冬樹と仲良くしてくれてありがとうね」

 仲良く……? いや、これはいわゆる社交辞令ってやつかな。そういえば境井の下の名前は冬樹なんて言ったんだっけ。名前からして冬生まれなんだろう。陰気な感じがよく似合ってるよ、と言ってやりたいところだけど、こんなに優しいお母さんの手前、控えてみる。

助手席にいる境井は私が乗車したことなんてまるで興味もないような様子でぼうっと外を見ている。まあ、境井だしね。私だって彼が急ににこにこして「おはよう」なんてうすら寒い挨拶をしてくることは求めてない。それでも、「仲良く」している相手だから、挨拶くらいは普通だろう。

「……おはよ」

 遠慮がちに声をかけてみたが、境井は振り返らない。ビビりの肩すら、ぴくりとも動いていない。エンジン音で聞こえなかったのかもしれない。

私はリュックを膝に回し、やっと背もたれによりかかった。いつもはそれなりの時間を要する一本道もするりと通り抜ける。車って快適なんだなあとのんびりした気分が浮かぶ。車は正門を入っていった。駐車場に車を止めると、境井は荷物を持って車を出ていく。私も慌てて車を降りた。

「ありがとうございました」

「いいって。冬樹のこと、よろしくね」

 境井のお母さんにお辞儀をし、遠のいた境井の背を追って走る。隣に並ぶと、私には見向きもしないくせに、あからさまに嫌な顔をして口を結んだ。いつものことだから、前ほど不快には思わない。そりゃ、おはようくらい返してくれたって罰は当たらないだろうに、とは思うけど。

 生徒玄関を通り越し、直接保健室に向かう。かちかち鳴る白い杖が私たちを先導する。境井の足取りは淀みない。境井のお母さんはよろしくね、と言ってくれたが、私が手を出さなくても、境井は一人で何でもできた。校舎を回り込む。グラウンドに面した位置に段差が設けてあって、その上に小さいノブ式のドアがある。

 開けると、中では先生がすでにデスクについていた。そりゃそうか。もう九時半だもんね。先生と挨拶を交わしたりして、にこにこしてみたり。私は運動靴を脱いで足元のカラーボックスに収め、代わりに上履きを引き抜いて落とす。いやはや、上履きがなくならない生活ってのは、いつになってもいいものです。荷物の多い境井は放っておいて、さっさと机にリュックを下ろす。文庫本片手に長椅子に座ると、向こうの机に荷物を下ろす境井と目が合った気がした。うわ、また睨まれるかな。思ったが、境井は何も反応を示さず手近なパイプ椅子に腰を下ろす。目が合ったのも、睨まれる予想も気のせいだったのだろう。私はさっさと文庫本を開いてしまう。

 今朝の占いを思い出した。ラッキーカラーが黄色で、ラッキーアイテムは花だったっけ。でも順位は六位だったんだよなあ、大変微妙だ。

そんなことを考えていたら、見開きの右上の角、振ってあるページ番号からごく小さな花が咲いた。ピンク色の花。道端の雑草の中に紛れそうな小さな花だ。一文字よりも小さい。今度は本文に目を転じる。段落下げのところから一文字分の花が咲く。先から藍染をしたような清楚な花。これでもない。次の一文字、オレンジの明るい花。一文字、紫。一文字、白。一文字、赤。一文字ずつ追っていくのに、黄色の花は咲かない。様々な花が咲いた。紫露草みたいに、そのままの大きさのものもあれば、牡丹が一文字分に縮まって芽吹くこともあった。

ふと、不安が胸をよぎる。私が目を凝らしている限り、黄色い花は咲かないのではないだろうか。私が見ているから、ページいっぱいに咲いていく花の中に黄色い花びらを見つけることができないんじゃないだろうか。意地になって目を凝らしていると、肩を叩かれた。ばっと首をねじると境井が戸惑ったように顎を引く。

「……何?」

 私が訊くと、境井は何度か瞬く。

「昼休みだけど。弁当食べないつもり?」

「――…………」

 私は時計を見た。十二時二十分。確かにその通りだ。名残惜しく文庫本に目を戻すと、ページいっぱいに咲いていた小粒の花はすべて消えていた。私は小さくため息をついてそうっと本を閉じる。境井が声をかけてきた理由は正当だ。むしろ時間を知らせてくれたのだから感謝すべきだ。――湧き上がってきた感情に気付く前に、私は自分に言い聞かせた。くらっと、ほんの一瞬だけ立ち眩みがして視界が黒く濁った気がした。

 私は何か気後れしているらしい境井の制服を引っ張ってきて、カーテンで区切られたスペースの机にお弁当を置いた。境井もその向かい側に座る。ここに通うようになってからの習慣だった。昼休みは保健室にも何人か生徒が来る。そういう人たちの興味深そうな視線を避けて、先生がこのスペースを作ってくれている。もともと境井一人が使っていたらしいそこに私も押し込まれた格好で、向かい合ってお弁当を食べる。日中のほとんどの時間、背中を向け合って過ごしている私たちが、唯一お互いの顔を突き合わせなければならない時間だった。だから、私も境井もほとんど何もしゃべらず、自分のお弁当の中身だけに集中して黙々と昼食を済ませる。

今日も相変わらず、境井は目が見えていないことなど感じさせない素早さでおかずを口に運んでいた。その手元に目が吸い寄せられる。箸の持ち方は正確ではないが、指つきまで綺麗に見せる持ち方だった。境井のお母さんがこの持ち方で食事をしていたらさぞ綺麗だろう。それに比べて私は。何とも言いようがない。お手本通りの正確な持ち方なのに、どうしてこう見栄えがしないんだろう。別に目立ちたいわけではないが、境井がこんな根暗な見た目で見栄えのする箸の持ち方をしていると、負けた気がして、いい心持ちはしない。癪だが、境井の持ち方を真似してみようか。

境井がふと、心底鬱陶しそうな顔を持ち上げた。

「いい加減にしろよ。いつまでじろじろ見てるつもりなの」

 おっと、出ました。君こそいい加減にしてよ。なんでそんなに目ざとく気付くのかね。何度その見下したような目で私を馬鹿にしたら気が済むのか。ということも胸にしまっておく。

「箸の持ち方が綺麗だなって思ってたの。いいところ見てたんだから素直に喜んだらいいのに」

「本当にいいところだと思ってる口調じゃないよね。喜べるわけないだろ」

「この……」

 天邪鬼が。私はさっと口を押えて、卵焼きと一緒にその言葉を飲み込んだ。危うく全部出てしまうところだった。しかし、境井はそんな努力を認めてくれるような広い心なんて持ち合わせていない。

「この、なに? 『ひねくれ者』?『強情』かな。神岡さんだって人のこと言えないよ」

 私は答えない。ご飯を口に詰め込んで、これ以上下手なことを口走ってしまわないようにできるだけ頭を空にする。その空白に、境井は続ける。

「でも、似てるなって思った。だから神岡さんのことも嫌いだけど……でも、一緒にいるには苦痛じゃない」

へえ、あっそー、その通りその通り。

私は頭の中で適当な相槌を打つのに精いっぱいで、返事を返す余裕もない。どこが似ているというのか。何が……苦痛じゃない、ってどういうことだろう。空白の隙間にじわじわと境井の言葉がしみてくる。一緒にいるには苦痛じゃないって、それは褒め言葉でいいんだろうか。境井と一緒にされるのでは、貶されていると見たほうがいいのか。分からない。知るか。

私は考えるのを放棄してお弁当を掻き込んだ。

「ごちそうさま!」

 さっさと手を合わせると、出したものを片っ端からお弁当袋に詰め込んでカーテンをすり抜けた。

カーテンの外での楽しそうな会話が一瞬途切れて、話し込んでいた女の子たちが私のほうを見る。うわ、クラスメイトだ。先生は振り返ると声をかけてきた。

「あ、神岡さん。今ちょうどそっちに呼びに行こうかと……」

 私は人のよさそうな笑顔を浮かべる。

「すみません、お弁当食べたらお腹痛くなっちゃって。ベッド借りてもいいですか?」

 先生が少し私を見つめる。私の様子がおかしいことに気づいている顔だった。知るか。その子たちの前から早く離れたいのだ。先生の目の前で過激なことはしないだろうが、その目だ。急にここは彼女らの縄張りになってしまった。だから、私はどかなければならない。こんなに近くに私がいたら、彼女らは不快感を催すだろう。その結果、どんな過激な防衛に出るかわからない。

 先生の許しを待ってから、すぐに別のカーテンの内側に潜り込む。さっさとベッドによじ登って毛布をかぶった。枕に顔を突っ込んで、じっと青みを帯びた深いグレーの闇を見つめる。その消毒の匂いが漂う薄暮に、ざらついたレンガの迷路が組みあがっていく。カタカタと音を立てて組み上がっていくにつれ、迷路はより複雑になっていった。上空からそれを見ていた私はぽんとその中に落とされる。

 左右正面が三方ふさがりなのを見てとり、後ろに続く道をたどった。どう考えても一本道でしかありえない角を曲がり、これは果たして抜け道なのかと疑わしい小さな穴をしゃがんで潜り抜ける。私が探しているのは黄色い花とムニだ。きっと見つかるはずだ。

 私は左右の選択肢を比べた。どちらも大差なかった。なんとなく左を選ぶ。左方向のレンガはほかのものより赤い気がした。次は、右と前に分かれていた。何となく右を選ぶ。右のほうが入り組んでいないように見えた。次は、今度も左右で分かれていた。さっき左を選んだから、今度は右にしよう。進んでいくと、道は分岐もなく右に曲がっていく。私はレンガの隙間をたどる。入ってしまった以上、そうするほかなかった。そして、さっきと同じところに出た。三回連続で同じ方向に曲がったから、似たような場所にたどり着くことは予想していた。でも、大丈夫だ。同じところに出たのだから、さっきと別の角を曲がればいいのだ。さっきの角を逆方向へ。さっきと違う道へ。出口へ。

 また、同じところへ出ていた。変だな。どこで間違ってしまったんだろう。気を取り直して、今度は何も考えず進むことにした。直感で、行きたいほうへ。そうして、また同じところに出てしまった。

 認めざるを得ない。とうとう完全に迷ってしまったのだ。

 ここでの私は、黄色い花とムニを探しているはずだった。今や私が何よりも探さなければならないのは出口だった。と、そこで戸惑いが浮かぶ。出口を探すには黄色い花とムニが必要なのだ。出口までの道はムニが知っている。黄色い花は出口に咲いているから、花がなければ出口だと分からない。その二つを見つけないで、どうして出口を探し出すことができるだろう。そんなことができるのなら、私はそもそも迷子になんてならなかった。

 薄暮は次第に夕闇に閉ざされていく。私は空を見上げ、何度も出会ったこの道を見た。完全に日が落ちてしまえば道が探せない。朝を待つしかない。その場に座り込むしかなかった。

「お嬢さん、わしと話をせんかね」

 背中を預けたレンガの一つが話しかけてきた。私は首を振って答える。

「疲れちゃったの。今日はおしゃべりする元気がないよ」

「お嬢さん、わしと話をせんかね」

 私はかすかに背後を見上げる。どのレンガが話しかけてくるのだろう。気にはなったが、少し首をねじったくらいで見える位置にはいないらしい。私は首を戻してため息を吐いた。

「話ができる気分じゃない。ごめんね」

「お嬢さん、わしと話をせんかね」

「しないよ。静かにしてほしいな」

「お嬢さん、わしと話をせんかね」

 しつこいレンガだった。

「うるさいな。放っておいて」

「お嬢さん、わしと話をせんかね」

「しつこい。黙って」

「お嬢さん、わしと話をせんかね」

「…………」

 何を言う気力も尽きた。返事をしないでいると、レンガもそれ以上話題は広げなかった。深く息をしたとき、また、声がした。

「ちづるさん、オレと話をせんかね」

 またか。無視だ。頑なに口をつぐもうとして、私はぱっと顔を上げる。今の声は? レンガの声とは違う声だった。隣を見ると、ムニが座っていた。

 声が出なかった。ただ口だけを動かしたが、何か言いたいことがあったわけではない。何度もうなずくと、ムニはたった一つの目で満面に笑みを浮かべた。

「なんか久しぶりな気がするなあ。元気だったか?」

 私は勢いよく首を振る。ムニに会えない日々が、元気なわけがない。そんな私を、ムニはけらけら笑った。

「なにそれ、すっげえ元気そう」

「ムニに会えなくてつまんなかった」

 私が正直なところを言うと、ムニが急に縮んで涙を浮かべ始める。

「オレもさみしかった!」

 私はきゅうっと嬉しくなって飛びつこうとしたが、ムニはにゅっと身をひねってかわしてしまう。おかげで地面に倒れ込んでしまった。私は派手に打った顎をさすりながら起き上がる。

「なんで避けちゃうかな……」

 あはは、と嘘くさい声でムニが笑う。

「ごめんごめん、ちづるも女の子だから、あんまり気安く抱きついちゃダメかなって思って。そういうの、嫌がる子もいるだろ」

「私は嫌じゃないのに」

 ムニは口笛なんか吹きながら目をそらした。しばらく会わない間にずいぶんとよそよそしくなったものだ。これも境井がムニに会う邪魔ばかりするから――と苦々しく思いかけて、私はひとり首を振る。私にも分かっていた。ムニにもムニの時間があって、私にも私の生活がある。お互い自分の時間に振り回されている以上、別の人のせいにするのは違う気がした。

ただ会える時間が少ないだけだ。だからこそ、こうやって会えるのが嬉しいのじゃないか。私は内心で言い聞かせて隣を見た。すでにムニはいなかった。隣には寒そうな白い地面だけがあった。ほんの一言交わしただけで帰ってしまったのだ。

 私は深く深く息を吐く。私だってムニを責められない。いきなり消えてしまったり、白い手に掴まれて引っこ抜かれたり、散々な別れ方ばかりしている。ムニは今まで、そういう別れ方に不満は一切言わなかった。どんな別れ方をしても、次に会うときには嬉しそうにしてくれた。それなのに、私ばかりがこんなふうに不満を抱くのは、何やら不公平な気が気がする。私は目を閉じた。

 息を吸って目を開ける。保健室の白い天井に日が差している。静かだった。もう昼休みは終わったのだろう。

 カーテンの外に出ていく。先生はいないようだった。デスクが空っぽだ。いつもの長椅子では、境井がひとりぼうっと外を見ていた。邪魔するのはさすがにかわいそうだから、長椅子は使わずにパイプ椅子を引いてそこに腰を下ろす。そのかすかな軋みの音を聞きつけて境井は振り返った。

「あ、やっと起きた」

 私は何だか申し訳ない気持ちでいっぱいになって身を縮めた。

「私の物音なんか気にしないで外見ててよかったのに」

「気になったんだからしょうがないだろ」

 境井はどこか表情が柔らかかった。傾き始めた日差しに頬が照らされている。

「……なんか、いいことあった?」

 私が聞くと、

「別に。秘密」

 かすかにうつむいたその口元に、あるかなしかの微笑みさえ浮かべている。相当いいことがあったのだろう。

 秘密と言われてしまった以上、さらに話題を掘り下げることもできず、私は口を閉ざした。境井がしているように外を眺めているけど、面白そうなものはない。においがするものも、音がしそうなものもなかった。何を見ているのだろう。

 相変わらず変な奴だったが、悪い人でないことも何となく分かってきた。


思春期かゆい

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