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天窓・3

 鏡で見てみると、想像していたものよりはひどくなかった。やっぱり切り口は乱雑だし、斜めではあるんだけど、こういうのを雑誌で見たことがある。左右非対称だ。アシメヘアーってやつ。一度やってみたかったのだ。私は引き出しから髪切りバサミを取ってくると、分け目を綺麗に整えて毛先を揃えた。そうっと慎重に切ってみると、今度は伸ばしたままの後ろ髪のバランスが悪く見えた。やっぱりこういう髪型、似合わないのかな。鏡に向かってぎゅっと顔を顰め、それから手で長い髪をまとめてみる。首筋がすっきりすると、急におしゃれっぽく見えてきた。

そういえば、何年か前にお母さんがお土産でかんざしを買ってくれたことがあった。地味だし目立たないけど、家族からの評判がやたらよかったのが嬉しくて、大事にしまってある。普段からつければいいのにと散々せっつかれたけど、なんとなく気恥ずかしくて、買った日以来一度もつけていなかったものだ。

 私は引き出しから細い紙袋を取り出した。中を開くと、軸がすっと伸びていて、黒光りしている。その艶もしっとりした質感で、悪目立ちしないのが綺麗だった。青ともグレーともつかないトンボ玉と、それより一回り大きい、落ち着いた朱色のトンボ玉とが隣り合って収まっている。私は鏡の前に戻ると、もう一度髪をまとめ直し、ねじって丸めた根元にかんざしを挿し込んだ。多少の手ごたえがあって、髪がまとまる。うわ、自分で思うのもあれかもしれないけど、この髪型は私によく似合う。前髪ともうまく合った。ひとりくすくすと笑って、私は時計を見た。お母さんが帰ってきたら、このかんざしを見せよう。お母さんも千里も、きっと喜んでくれる。起きていられたら、お父さんが帰ってくるのを待って自慢してやろう。お父さんのことだからどうせ褒めてはくれないだろうけど。

 次の日の朝、爪先で駆けるようにして通学路を急いだ。私としたことが、お父さんが帰ってくるのを待って夜更かししていたがために寝坊をしたのだ。いつもは景色を見ながらゆっくり登る坂を駆け上がり、フェンスのそばを走り抜けて正門に飛び込む。生徒玄関には遅刻常連らしい男子生徒がちらほらと見えた。私は運動靴を足からもぎ取り、上履きに履き替えて教室へ急ぐ。階段を駆け上がったとき、後ろから「神岡ァ、廊下は走らなァい」といつもの声が聞こえたが、聞こえなかったふりで踊り場を踏みしめる。もう大丈夫だ。残り二分。セーフ。私は息を整えるためにかんざしを挿し直してから、ざわめきが漏れる教室のドアを開けた。

 ドアの音に気付いてみんなが振り返る。入ってきたのが私だと気付くと、変な顔でぴたりと口を噤んだ。ざわめきが静寂に作りかえられてしまうまで、三秒もかからなかった。いつも通りではない空気に、私は瞬く。いつもなら口なんか閉じず、気づかなかったふりをして目を逸らしてしまうのに。ひとりひとりの顔を見ると、それぞれ何とも言い難い顔をしている。完全に引いている。全員が「ドン引き」って顔をしていた。私はそれ以上中に踏み込むことができなかった。このクラスの縄張りに入り込んでしまった気がした。それ以上に、私の居場所も侵されている気がした。

 私は下ろしかけていたリュックを背負い直すと、踵を返して教室を出た。階段を下りて生徒玄関を通り過ぎ、白いドアを開ける。目の高さにかかっていたレースカーテンをぺいっと手で持ち上げ、中に入った。中は白い色を基調に淡いピンクや黄色のものが多く目に優しい。奥のデスクで書き物をしていた保健の先生が振り返った。女っ気みたいなものはないが、さっぱりとひとつで括った髪型がやけに似合っている。

「はぁい、どうしたの」

「今日から保健室登校します」

 先生はわざとらしく驚いた顔をし、ちょっと笑いをこらえるふうだった。

「具合が悪いところ教えて。来室記録書くから」

 私はちょっと考え込んでから、苦笑気味に返す。

「あー、『気持ち悪い』ですかね」

「はいはい、熱計るよ。こっちおいで」

 長椅子に案内され、大人しく座ると体温計を渡された。私が体温計を脇に挟む間に、先生はボードに挟んだ紙に手早く書きこみを入れた。

「学年クラス番号と名前」

「二の一、八番の神岡千鶴です」

「神岡さんね。カミ、オカっと。んーと、来室時間は……」

 先生が作業をしている間、私はその動きを目で追っていた。記入を終えた先生が、私の視線に気づいて瞬く。今度は本当に不思議そうに見えた。

「どうかした?」

「保健室登校するって言ったら、良くて説得、悪かったら怒られて、最悪教室に強制送還かなって思ってました」

 私が正直に答えると先生はからっと笑った。

「だって、教室が嫌でここに来たんでしょ。わざわざ追い返したりはしないよ」

 そういうものか。妙に納得して、私は鳴った体温計を先生に返す。平熱ですね、と先生が肩を竦め、ボードに書き込む。

「どうする? ここでいい? 今の時間は人が少ないから、体調悪い人が来るまではベッド貸してもいいけど」

 先生は訊くが、別に眠いわけではない。ベッドに入ったところで暇なだけだ。

「ここでいいです」

「あ、そう。じゃ、好きなことしてて」

「はぁい」

 私はリュックを開けると、カモフラージュ用の本を取り出した。開けばもう、大抵の人は邪魔しない。それが大人ならなおさら。

 私はぼうっとページを眺めた。ページの余白の白さが浮き上がって、文字なんか埋もれてしまう。もちもちと余白が膨れ上がってきて、私の指先を包んでいった。膨らんだ風船の中に取り込まれていく形で、余白が私を押し攻める。白が全身を包む。まるで大きな繭の中に入っていくような気分になった。繭はどんどん大きくなっていく。上を見上げると、天井に張った糸からいくつも色とりどりの旗がぶら下がっているのが見えた。眺めていると、上から白い柱が足を伸ばしてきて地面に収まる。その一本を皮切りに、次第に高くなりゆく天井からいくつも柱が降ってきた。細いものも太いものもあった。白木に見えるようなものも、ギリシャ風の飾りが彫り込まれているものもあった。地面に届くものもあれば、中途半端な長さで伸びるのをやめてしまうものもあった。

真っ白な丸い空間はどんどん広がっていく。それなのに、壁はいつまでたっても消えなかった。どこまでも、丸い壁に覆われていた。柱からもたくさん糸が伸びていき、後を追うようにいくつもの旗が生えてくる。天井から生えた旗と結びついたり、柱どうしで糸をつなぎ合ったりして、遠い天井がだんだんと色で埋まっていくように見え始めた。縦横無尽に張り巡らされるたくさんの旗は、糸が生える隙間を求めて次第に下のほうに移動してきていた。私はぺたんと座り込んでしまった。巨大なモザイク画が次第に近づいてくる。抽象画が私を飲み込もうとしている。そんなふうに見えた。

私は首を巡らせて辺りを見回した。いないのだろうか。いつも来てくれるのに。私は唇を結んだ。ムニの助けばかりを期待していてはだめだ。ここは私一人しかいない。白い壁は私を守ってくれるが、同時に逃げ道もふさいでいた。細い糸が肩を掠めて繋がれていく。それを追うようにカラフルな小旗が次々と生えてくる。じりじりと避けていても、糸はどんどん私の逃げ場所を封じていた。連なった旗が隙間を埋めていく。後ろから伸びた糸が私の腰とつながった。手首を掠めた旗から糸が伸びて、肘とつながる。視界が色とりどりの閉塞感でちかちかする。鼻先にも首元にも旗がある。息を吸うと、旗が口に吸いついた。息苦しい。閉じ込められた広大な繭の中で、私は旗に埋もれていこうとしていた。

私は意識して息を吐いた。もう二度と吸うつもりがないような長い息を吐きだした。私の息に揺れた旗がふらっと遠ざかる。私は息を吐き続けた。少しずつ旗が消えていく。遠のいては、消えていく。目にかすかな白を捉えられるようになったとたん、急速に余白が膨れ上がった。旗が白に埋もれて消されていく。加速度的に白が膨れ上がっていく。

視界が完全に白くなったとき、滲み上がるようにして文字が現れた。開いた時と同じ文字列、同じ白。私ははっと息を吸って伏せていた顔を上げた。

時計を見ると、もう昼近かった。下を向いていたせいか首筋が凝って、少し頭も痛い。

首をぐりぐり回しながら立ち上がると、先生が顔を上げた。

「あれ、本はもういいの?」

「あー、はい。目が疲れたので」

 伸びをする。先生は椅子を回して周りを見た。

「あれ? おかしいな、境井がいなくなった。さっきまでいたのに……」

 境井? 先生は首を掻いて私を見た。

「この部屋のどっかにいるはずだから探してくれない?」

「いいですけど、顔が分からないです」

 本をリュックにしまって、もう一度首を回す。先生はもう机に向かってしまっていた。

「男子だよ。ほかに来た人もいないし、多分、この部屋から出てないはずだからすぐ分かると思うよ」

 仕方なく私は辺りを見回してみた。先生の他には誰も見当たらない。長椅子の下を覗き込んで、ベッドの方へ向かう。カーテンを開けると、二つあるベッドの隙間にもう一枚仕切りカーテンが引かれている。その裾の方に黒い制服の塊が見えた。私はベッドを回り込んでカーテンをめくる。

「あ、見つけた。……境井、くん? 先生が探してるっぽいけど」

 彼は首を回してこちらを振り返る。その目の冷たさに、私は驚いた。ほとんど無表情なのに、激しい嫌悪を向けられたのが分かった。こんなに拒絶の色に染まった目を見たのは初めてだった。額の目がぞくぞくと震える。瞼が痙攣しそうだった。

「……なに? なんでお前がこっち来るんだ」

 研ぎ澄ましたように冷たい声をしていた。少しの緩みもなく、息づかいさえ感じられない。

「先生に探して来いって言われたから。――そこで何してたの?」

 境井が立ち上がる。立ち上がってみると、その態度に比べて背が低かった。その分、貫くような視線がピリピリ痛む。まっすぐに突き刺さるようだ。

「来たらお前がいたから隠れた」

「私が何かやらかしそうに見えるから?」

 違う、と境井の口調は吐き捨てるようだ。痩せっぽっちの肩が鬱陶しそうに揺れる。

「誰だって同じだよ。別に何かしそうとか、そういうのじゃない。ただ、邪魔。ものすごく」

 私は境井の顔を見つめた。暗いと言われた私よりずっと暗い奴だと思った。それなのに、真っ直ぐ私を見る。そのせいで、冷たい目には凶暴な感じさえ含まれているように見えた。

「――私も、」

 不思議なことに、自分の声がとても落ち着いていた。抑えているのでもなく、低いわけでもない。

「邪魔されるからここに来たんだよ」

感情が消えてしまった声だと、自分で思った。

 境井の目がかすかに大きくなる。一度の瞬きで、その顔が少しだけ揺れる。

「どいて」

 境井は私を押しのけて、先生のもとに行った。その手に白い杖が握られている。足が悪いようには見えないのに不思議で、その白さが記憶に残った。

 私が出ていくと、境井の相手を始めていた先生は軽く笑った。

「ああ、神岡さん。探してくれてありがとう」

「いえいえ」

 ひらひら手を振りながら戻る。境井はちらりと迷惑そうにこちらを見た。先生はそれには気づかなかった様子で、彼を見る。

「神岡さんもしばらくここに通うと思うから、仲良くしてね」

「…………はい」

 あからさまに嫌そうな声だった。私だって好きこのんで仲良くしたいわけじゃない。嫌ならはっきり嫌だと言えばいいものを。

 私はもともと座っていた長椅子に戻ると、別の椅子に向かう境井の背中にべっと舌を出した。その瞬間、境井がぴたりと足を止めてこちらを振り返る。

「見えないと思って馬鹿にするな。見えなくても分かるから」

 鉄を引っかくような冷たい声が背骨を掴む。

またその目。やめてほしい。ものすごく嫌いな目だ。へいへい、おみそれいたしました。目ざとくて結構でございますね。私は顔を逸らし、境井に背を向けた。

「二人とも、仲良くしてよ。保健室でギスギスしたら具合悪い人に毒でしょうが」

呆れたような先生の言葉が降ってくる。正論だ。保健室は生徒みんなのものだもんね。

「了解しました」

 私は渋々ながらそう言ったのに、境井は返事も返さない。君の良心はどうなっているのかね。思っていたら、境井がわずかに振り返る。

「神岡、さん」

 向こうから声をかけてきた。私は人当たりのいい笑顔を浮かべて境井のもとに歩み寄る。仲良く、仲良くね。境井は長椅子の端っこに腰かけ、同じ椅子の反対側を指さした。

「そこ、座って」

「はいはーい」

 なんなんだ。いきなり声かけてきて命令ですかい。思ったが、理解のある先生に仲良くしてと頼まれた以上は、そうそう噛みついてもいられない。私は言われた通り、示されたところに座った。私と境井との間には一人分の空白がある。私は次の指示を待ったのだが、境井は何も言わなかった。沈黙が続いて、私はそうっと境井の顔を覗き込む。

「ええと、境井くん。私はどうしたらいいの?」

「黙ってればいい」

 私は返事も返さず口を閉じた。この調子で会話するよりは、確かに黙っていたほうがいいのかもしれない。そのまま黙り込んでいると、先生が書き物をしたり、時計が秒を刻む音がやたら耳に付く。音がくらくらと揺れ、縦に並び始めたとき、境井が口を開いた。

「黙って座っていれば、少なくとも仲が悪いようには見えない。お互い我慢が必要だろうけど、ここに居づらくなるよりマシだろ」

 すでに居心地が悪い状態だ、とは言わないで、私は適当に相槌を打った。また境井は黙る。私も前を向いた。空調の風がうなじを撫でる。乾燥している風と、加湿器の空気がぶつかって混ざる。その動きを感じていると、皮膚が溶けてくるような気がする。息を吹こうとした時、また境井が口を開いた。

「どうして杖のことを聞かないの」

 黙ってろと言ったわりにはずいぶんとおしゃべりだ。私は静かにしていたいのに。ということも言わずに置いて、私は軽く息を吐くにとどめる。

「杖があってもなくても、私には関係ないからね。聞いてほしいなら話していいよ」

 ちゃんと聞くかどうかは別ですがね。心の中で呟くと、境井はまたあの目を私に向ける。本当にやめてほしい。その目を見ていると、無性に腹が立ちそうな気がした。それから、無性に逃げ出したくなった。

「……目が見えないって、どう思う?」

 境井はほとんど呟くようにして訊いた。

 目? 杖の話題からどうしていきなり目の話になるんだろう。私は首を傾げた。

「別にどうも思わない。大変そうだなって思うくらい。なんで?」

 境井は目を逸らして、言葉を返さなかった。次の言葉を選んでいるのだろう。泳ぐ黒目にその迷いが映っている。おそらく、会話はまだ続いているのだ。境井は杖をわずかに持ち上げてみせた。

「これ、大っ嫌いだけど、ないと困る。目の代わりだから。それで、目もそうだったらどうしようって、いつも思う。いろんな人に意見を聞いてみるんだけど、目を嫌うとか、そういう感覚がない人ばっかりで、よく分からない」

「境井って目が見えないの? 見た目じゃ全然分かんないね」

 私が訊くと、またこっちをぎろりと睨む。うげ、地雷が多すぎる。いちいち分からないよ。勘弁してほしい。境井はしかし、すぐにふっと目を逸らす。

「これがあるせいで、普通は一発で分かるんだよ。白い杖って、目に障害があるってことだから。それで、かわいそうに、って顔をする。俺が見えてないからって、思いっきり哀れそうな顔してもばれないと思ってる」

「ふうん」

 私は耳の後ろを掻いた。だからなに、と思うのだが、そういう身も蓋もないことを言っていると、早々に攻撃対象に数えられてしまう。

「ひねくれてんね」

 おっと。妥当な評価を口にしたついでに、ついあくびが。会話中のあくびなんて、境井が怒りそうだ。内心少しばかり慌てながら目を向けると、境井はびっくりした顔をしている。そういう顔をするとずいぶんと童顔に見えた。子犬か子猫みたいなあどけない表情だった。えー、なんだこいつ。先生に頼まれて探しに行くのはアウトで、会話中にあくびはセーフですか。分からない。ひねくれている上に変な人だ。

「見えない奴がいて、何とも思わないの?」

 びっくりした顔のまま境井が聞く。面倒な人だな、とこぼしそうだったのを飲み込んで、私は顔を顰めた。

「正直なところ、かなりどうでもいい。見えなくて困ってるのは境井でしょ。私は別に困ってない。そこまで押されると、逆に何か思わなきゃいけないのかなって、心配になる」

 ぱっと浮かんだ言葉を細かく説明すれば、多少は棘が目立たなくなるだろう。……と思ったが、そうでもなかったかもしれない。境井の顔を覗き込んでみると、うつむいた横顔には考え込むような色がある。少なくとも嫌悪は見られなかった。ほっとしつつ私はリュックから本を取り出す。わざわざ紙の音が聞こえるように本を開く。ぺらり、という音に気づいたのだろう、ちらりと私の手元に視線が動いた。

ああ、そうだ。どうして目が見えないなんて思えないのだろうと不思議だったが、こんなふうに目を動かしているからだ。まるで見ているかのように目が動くから、全然違和感がないのだ。

私はじっと本に目を凝らす。ムニを探さなくちゃ。今日はまだムニに会えていない。待たせていたりしたら大変だ。それに、いくらよく会えるからって、油断していたら会えなくなってしまう。何度も同じ相手と会えていること自体、奇跡みたいなものなんだから。

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