天窓・2
今日も変わらず退屈だ、と毎日変わりなく思う。上履きがなかろうが筆箱がなくなろうが、退屈な日々が変わるわけではない。
午後は特にそう思った。昼を終えてあと二時間。耐え忍ぶ二時間はその苦痛のぶんだけ長い。特に眠いわけでもない。みんなが廊下で喚くほど、私は午後を眠いと感じたことはなかった。しかし、それだって暇がなくて目が冴えるわけじゃない。ひたすらやることがなく、寝ることもかなわない。
私はあきらめて机の上に腕を組んだ。顔を伏せると、もう音しか聞こえない。扇風機は回っていたが、教室の中はめまいがするほど蒸し暑かった。時々吹き込む風も、廊下側までは届かない。しかも、廊下は廊下で温室のように熱気が閉じ込められていた。
うなじに浮いている汗が、扇風機の風に滑り落ちていった。蝉の声が続いている。せわしなく重なり合っている。アブラゼミとミンミンゼミと。あと一つはなんだろう。節を切るような音が断続的に続いている。お経のような先生の声がxにyを代入している。計算ミスで値が合わない。面倒くさそうにつまずきを探す。合った、と少しも合った気がしない声がする。すっきりしない、焼けた砂のにおいがする。さっき見た窓の外は別世界かと思うほど日差しが強かった。濃い青の空と、えぐるほどの入道雲と、焼けた屋根の列とグラウンド。コントラストで目を痛めてしまった。四時間目のプールの水面もそうだった。湿ったプールサイドに熱がこもって塩素が焼けて鼻の中がしみる。見上げた校舎もハレーションを起こした目には真っ白でめまいがした。時計なんて見えなかった。昼休みまであと何分か確認したかったのに。
鐘の音がした。はっと見上げると、ごとごとと揺れる馬車の小さな窓からは荘厳なお城が見えていた。時計塔が鐘を打っている。
「ああ、始まっちゃった。急いで!」
私はドレスの裾を手繰る。馬車が止まって、召使が戸を開けた。
私のほうを見て歓声が上がる。気後れしながら光り輝くお城の中に踏み込むと、王子様が私のほうに歩いてきた。うわ、やっぱりかっこいいなあ。王子様は、深く一礼して、優雅なしぐさで手を差し出す。
「お手をどうぞ。ぜひ、私とダンスを……ちづる姫」
差し出された手を見ていた私ははっと顔を上げた。そして固まる。いつの間にかかっこよかった王子様の顔が一つ目に……というかムニになっている。ハンドルもきっちり突き出たまま。私は呆れて、手を取った。人の体からムニの頭部になっているのは何かしら奇妙な感じがするが、それがムニなら何でもありだという気がする。
「私、ダンスなんて踊れないよ」
ため息交じりに笑うと、
「オレも!」
ムニがびょっと飛び上がった。私の前に落ちてきたときには、今まで着ていた王子の衣装を自分の体で踏んでいる。
「こんなところで何してるの? まさか私に会いに来てくれたりして」
「それ以外に何があるんだよ。ちづるに会いに来たに決まってんだろ!」
あっけらかんと言われるとかえってからかいにくくなる。私は自分の頭に乗っていたティアラをムニに乗せた。やけに違和感がないのが妙だった。きょとんとするムニの前に膝をつくと、お城の壁が溶けて消え、代わりに椅子やらテーブルやらティーセットが降ってきた。地面から壁が生えて上に伸びていった。天井がふさがるとふっと紅茶の香りが壁に押し込められて鼻先を包む。私は椅子に座りこむと頬杖をついた。
「さて、ムニさんのお話を賜りましょうかね? ここしばらく見ないと思った」
ムニは椅子の上でむずむずしながらティアラを見上げようとしている。どうしたって頭の上が見えるはずもないのに。
「しばらくったってひと月くらいだろ? オレだっていろいろあんのー」
ふくふくと揺れているのを見ると、それ以上怒ろうとする気も失せてしまう。そもそもたいして怒ってなんかいないのだ。今日はムニに会えたから。
私は口をとがらせてティーカップを手に取った。ティアラに躍起になっているムニは放っておいて、部屋の中を眺めわたす。
どこかレトロな雰囲気のある内装だった。シックな色の壁紙は、よく見ると少し濃いチョコレート色のストライプが入っている。蜜色のつやつやしたランプはテーブルのすぐ上に下がっていて、勢いよく立ちあがったら頭に触れてしまいそうだ。ドームのようになった天井の中央は六角形の窓が切られている。そこから煙突のように六角形の筒が上へ伸びていて、一番上は六角形のステンドグラスでふさがれていた。
「天窓に太陽の模様ってかっこいいな。曇ってても安心だ」
ムニの声がするから、私はあわてて視線を下げる。ムニはいつの間にかティアラをテーブルに置いて上を見ていた。のけぞった色つきの大福がにゅっと縮むと、一つ目がこちらに向き直る。とぼけたような目がにっと人懐こい笑顔に動いた。
「会えたってことは、今日は暇なのか?」
「どうかな、分からない」
私がちょっと首をかしげると、ムニがしぼむ。
「オレと遊ぶの、気が乗らない?」
私はあわてて立ち上がると、小さなテーブルを回り込む。椅子のそばにひざまずくと、ムニを見上げた。
「そんなはずない。本当にいつ帰っちゃうか分からないんだよ。いつもそうでしょ」
ムニはけらけら笑い声をあげた。
「うん、知ってる」
「でも」
「本当だよ。ちづる、オレが何してもなかなか慌てないからちょっとからかっただけだよ」
私は脅かされた気分のまま口をつぐむ。そんな風に見えているのだろうか。
「いつも慌ててばっかなんだよ」
ムニはきょとんとしていた。
「ちづるは大人なんだなあ」
「何言ってんの。……どうしたの? 今日は何だか変だよ」
「残念ながらいつも通りで候」
突然なぜにサムライ言葉? 思ったが、それでけらけら笑われてしまうと、いろいろなことを追究しようとするのも違う気がしてくる。
私はあきらめて立ち上がった。ふと壁際に目をやると、私の腰くらいの高さまで棚が据えてあって、中には隙間なくぎっしりと本が詰められていた。ぐるっと一周しても二十歩かからないようなドームは、その本棚のせいでよけい狭苦しく感じられた。私はそっとムニをつつく。
「ね、あの本って読んでもいいのかな」
ムニがぬるっと身をねじって私が指差すほうを目で追った。
「分厚い本ばっかだな。ちづるは本が好きなのか」
「絵本とか、物語とかは好きかな。ね、どう思う?」
私はムニを覗き込む。ムニのくちばしが頬に刺さりそうで、ひそかに手でよけた。ムニも私のほうを振り返る。振り払われる格好で、鼻先をくちばしがかすめていった。
「出してみたら? 触っちゃダメってことじゃないだろ」
私はなんとなくそっと足音を忍ばせて壁際ににじり寄った。しゃがみ込んでみると、本はどれも高価そうに見えた。不安になってムニを振り返ろうとして、すぐ隣に来ていることに気付く。
意味もなく私は頷いて、そうっと本を取り出した。古い紙の匂いがする。図書室で嗅ぐ、レトロな匂い。表紙には何か書いてあるけど、印字がかすれてしまって読むことができない。膝の上で開いてみると、ぎっしり文字が詰まっていて眩暈がした。文字は間違いなく日本語なのだが、列を目で追っていても少しも頭に入ってこない。少しの間は理解しようと努力したが、何度も繰り返すうちに急に熱意が冷めた。
パタンと本を閉じると、待機していたらしいムニがくちばしで私をせっついた。
「何の話だった? 面白い話?」
「全然分かんなかった……」
心の底からの声に、ムニはちょっと気の毒そうにする。
「難しそうな本だったし無理ねえよ。読もうと頑張ったんだもんな」
私は本棚に重い本を収めながらきょとんとした。
「読めなかったんだよ」
「次は読める」
本気でそう思っているらしい顔に、私は妙に感心してしまった。
「ムニは優しいんだねえ。すごいね」
ムニは戸惑ったようにぐりぐりとねじれた。
「だって、頑張ったのに読めなかったのはしょうがないだろ。優しいとかそういう話じゃないと思うんだけどなぁ」
「うーん、大好き!」
私はムニに飛びついた。
「うわ、話聞いてんのか?」
困りながらも喜んでいるのが分かる。私は笑いながら餅みたいな体を抱きしめた。
「変な奴、オレも大好き!」
きゃあきゃあ言いながら抱きしめていたが、ふと我に返ると、自分でも呆れてきた。何やってるんだろう、小学生じゃあるまいし。おずおずと離れると、ムニも同じことを考えていたようで、妙な真顔になっていた。
「ごめん、なんか、柄にもなくはしゃいじゃったね……」
お互い自分に対して引き気味に笑う。普段からこういう振る舞いをしているならともかく、ムニ相手にだけこんな柄でもないことばかりしているから、我に返ると時々恥ずかしくなった。
「いや、なんか……こっぱずかしいな……へへ……」
「へへ……」
気持ち悪い笑い声を上げながら席に戻る。
「あ、最近どうなんだ?」
話題を変えてきた。助かった思いで私は首を傾げる。
「どうって?」
「学校とか、友達とか……」
意外なことを言われた。ムニでも学校とか友達とか気にするんだ。実は、そもそも「学校」を知っていること自体、意外だったりする。ムニは別段、変なことを言っている自覚はなさそうだ。それなら普通に答えたほうがいいのだろう。
「うーん、なんていうか、よく分かんないんだよね。やっぱ年頃みたいなやつなのかな。女の子たちが変な感じでさ」
「ふーん……?」
ムニにはよく分からないらしい。学校に行っていないはずだから当然だろう。
「あと、物がよくなくなるんだよね」
ムニは笑い出した。
「うっかりしてんなぁ。ちゃんと部屋片付けないと」
笑っているムニを見ながら、やっぱり首を傾げる。不思議に満ちた世の中で生きているから、腑に落ちないことが多すぎる。
「いや、学校だけなの。学校にいる時だけ。探せば出てくることもあるからいいんだけど」
ムニは笑いを引っ込めた。きょとんとした目は、じいっと見つめられると異世界に飛んでしまいそうで不思議な気分がする。
「学校で物がなくなるって、それ……」
ムニは真剣な顔をしていた。さわっと首筋がかすかな風を感じる。
「それ……七不思議じゃないか?」
私は瞬く。気が抜けてしまって、変な笑いが漏れた。
「そうかも。女生徒の上履きや筆箱がなくなる謎……それらを隠す何者かの姿を見てしまったら最後、憑りつかれて……」
私が低く揺れる声を作ってみると、
「ぎゃー! やめろー!」
ムニが叫んで左右に体をぶんぶん振る。へえ、意外な弱点発見。ムニって怖い話が苦手なんだ。
「そういえば、実は私、霊感があってさ……ねえ見て、私の額には……」
「やだ! もうやめろ! ちづるの馬鹿、嫌いになるぞ!」
ムニがひしゃげて椅子の上で暴れる。私は前髪を持ち上げようとしていた手をぱっと離し、ムニがぶつかったせいで揺れたテーブルの上にきちんとそろえた。
「それは困る。もう怖い話はしません」
真面目くさった顔をすると、ムニはホッとしたように上目遣いで私を見た。
「ほんと?」
一つしかない目いっぱいに涙を浮かべている。本当はもうちょっとからかいたい気もするけど、嫌われたら元も子もない。私は生真面目に頷こうとしたが、顎を上げた拍子に吹き出してしまった。ムニが傷ついた顔で飛びかかってくる。
「あっ、今オレのことバカにしただろ! なんだよ、怖い話が駄目で悪いかよ、この、このっ」
頭攻撃だ。ぐりぐり押してくるムニを適度にあしらった時、ふとステンドグラスから陰りが落ちてきた。
「――え?」
「ん?」
ムニが離れた瞬間、ステンドグラスが割れる大きな音が耳を裂いた。割れた破片とともに、大きな腕が煙突に入ってきた。その白く長い手はドームの天窓をも突き破る。細かい破片が降り注ぐ。私はとっさに腕を掲げ、頭を伏せて目をつぶった。
ぐいっと前髪を掴まれて、顔を無理矢理上げさせられる。痛みに自然と歯が噛みしめられた。
「いつまで寝てるんですかぁ。もう放課後なんですけどぉ」
がたんと大きな音がして、椅子が倒れる。痛みを堪えて目を開けると、今朝の女の子たちが立っていた。ということは、髪を掴んでいるのは別の人なのだろう。誰なんだ? 見たかったが、前髪を掴まれたままでは頭の上まで見る事は出来なかった。
「ちょっと痛いので、放してもらってもいいかな」
「放してもらってもいいかな、だって」
女の子たちは笑っていた。楽しそうだった。でも、痛いことは痛いし、これがどれほどの騒動になるのかも気になる。この教室には女の子たちの他にも人が大勢いるのだろうか。それが知りたかった。
「放しませーん」
中の一人がひときわ高い声で笑った。楽しそうなのは喜ばしいことだけど、ちょっと楽しみ方が雑すぎる。
何が起こるのだろうと黙って見ていると、リーダーっぽい子がハサミをちょきちょきしながらゆっくりと近づいてくる。
参ったなぁ。
私は少しばかり困ってしまった。このシチュエーション、私が想像しているものが正しければ、これから私はとんでもない髪型になることだろう。しばらく美容院にも行っていなかったことだし、これを機に短くしてしまうか。
それだけのことを考える間、リーダーは二歩しか前に進まなかった。そこで足を止めると、その顔に引きつったみたいな笑みが浮かぶ。
「神岡さんってさぁ、なんか暗いよね?」
「だよねぇ、分かる~」
賛同の声がいくつも上がる。私は昨日千里と観たドラマを思い出した。確かに裁判に似ていなくもない。もっとも、被告が圧倒的に不利なのは判事が不在のせいだろうが。私は被告よろしく、表情も浮かべずされるがままになっている。そうだ、思い出した。昨日のドラマでも被告はこう言っていた。
「余計なお世話ですよ。何が悪いんですか」
昨日の被告はどうして罪に問われるのかを分かろうとしなかった。でも、私の場合は「正当性」なんてものがあるんじゃなかろうか。見た目が根暗だと何か人に害を及ぼすのだろうか。印象が悪いことで損をするのは自分自身に限ったことだ。もし他人に害が降りかかってくるとしたら、それは私に不用意に近づきすぎるせいだ。私の中に入り込むから、私だけが受ければよかったものを被ってしまうのだ。そういうことを承知しないのなら、私に限らず、そもそも他者に近寄ってはいけない。自衛に専念した方がいい。
しかし、笑い合った彼女らはそれを理解してくれそうにはなかった。
「前髪が長いせいじゃない?」
「あ、それだ。ハルカ、冴えてる~」
あっはっは、なんて笑って。えらく楽しそうだな。だけどそれは私の問題なんだよなあ。
「『何が悪いんですか』なんて言っちゃってさぁ。校則違反は駄目でしょ、悪いでしょ」
おっと、それは確かにそうだ。自覚がなかった。前髪は目につくまで、だ。そういえば、この頃邪魔だと思っていたのだ。
「ですからぁ」
リーダーが気取った声真似をする。この子、普段笑っているときはかわいいのに、こういうことしてる顔で台無しなんだよなあ。普段冷たい顔をし慣れていないせいなのかもしれないが、私に向かうときはなんとなく不細工に見える。
「あたしが切ってさしあげますよ」
爆笑しながらじゃきじゃきと前髪に刃を当てていく。目の前を黒い影が過っていく。まつ毛の隙間から、鼻にも頬にも細かい毛が落ちた。
私はただその子の顔を見ていた。何がそんなに不細工に見せるのだろう。顔がむくんでいるとか。うーん、そういうわけでもないみたいだ。少しクマはあるけど、薄いしいつものことだし。顔色は? 体調が悪いと綺麗には見えないんじゃないのかな。でも、病床の女性ってなんとなく美人のイメージがあるし。だいたい、今日の彼女はとびきり顔色がいい。頬は桜色で、目が爛々と輝いている。
前髪が終わったらしく、彼女が背中側に回ろうとする。私は彼女のセーラー服をつまんだ。楽しそうだった彼女の顔が、瞬間ぞっと青ざめる。う、これはあんまり……かわいくない……。やっぱり顔色が原因なのだろうか。ああ、ちょっと待って。
「もうちょっと顔見せて」
楽しそうに騒いでいた周りの声もぴたりとやむ。今までうるさかったんだなと驚くくらい、教室は静まり返った。……あれ? なにかまずいこと言ったのかな。
しぃんと静寂が響くなか、遠くから聞こえていた運動部の声が急に強くなった。リーダーは、叩き落とすように私の手を振り払って後退る。
「――……気持ち悪」
どこにも聞こえないような小さな声でそれだけを呟くと、隣に立っていた女の子の肘を引いた。
「帰ろ。こいつ、本当に気持ち悪い」
戸惑ったように他の女の子たちも頷いて、ぞろぞろと帰っていく。最後の一人が出て行って足跡が聞こえなくなるまで、私はその場に座っていた。
首をねじって時計を見ると、もう放課後だった。誰も来ないはずだ。部活が始まる前くらいだろう。あーあ、掃除して帰らないと。ムニじゃないけど、教室に大量の髪の毛が……なんて、学校の怪談が増えかねない。お節介は結構だけど、やるなら片付けまでやってくれないと。心の中でぶつくさ言いながら掃除用具入れに向かった。
「おい、神岡ァ。お前帰宅部だろ。さっさと帰れ」
背後から声をかけられた。振り返ると、顔なじみの吉河先生が教室の入り口に立っている。いちいち部活も名前も覚えて、勤勉な先生だ。生活指導って疲れそうなのに。
先生は私を見て、ぎょっとしたように顎を引いた。
「どうした、それ」
前髪のことを言われているのだと分かって、私は毛先をつまんだ。
「クラスメイトのお節介です。やるならもうちょっと丁寧にやってほしいもんですね」
私は唇を尖らせる。
「おまけに、片付けもしないし。先生、手伝ってもらえませんかね」
私が手渡したほうきを黙って受け取る。おっ、ラッキー。私はちゃっかりちりとりを手に、先生が髪の毛を集め終わるのを待っている。先生はほうきを動かしながら何か考え込んでいるようだった。
手早く掃除を終えると、先生は私のちりとりも回収してしまってくれた。
「前髪、切ってくれって頼んだのか?」
「いや? お願いしてません。校則違反だと言われちゃうとぐうの音も出ませんけどね」
ちゃんと校則を読めと小突かれる。その顔はどこか落ち込んでいるように見えた。どうしたのだろう。先生は迷ったように私を見た。
「切ってもらって気に入ったか?」
また前髪の事か。先生の方から聞いているくせに、否定してほしそうに聞こえるのはなぜだろう。
「さあ……まだ鏡を見てないのでなんとも」
正直に答えると、先生は鼻にしわを寄せた。不機嫌な柴犬に似ていて妙に微笑ましさがある。そのまま私の背中を押した。
「ほら、片づけたんだしさっさと帰れ。夕立が来そうだぞ」
「えっ。傘持ってきてないのに」
「だから、降り出す前に帰っちまえって」
先生の声に従って、私はロッカーからリュックを取り出す。教室を出ると先生がその後ろをついてきた。
「今日は家に誰かいるのか?」
「部活が終われば妹が帰ってきます」
「親御さんは」
階段を下りながら先生が訊く。この人は実は質問の多い先生だったみたいだ。私は記憶をたどる。今日は木曜日だったっけ。
「今日は七時頃帰ってきます」
先生は、そうか、とだけ言って黙り込んだ。生徒玄関に着くと、先生は職員室の方に引き返していった。
「じゃ、気を付けて帰れよ」
「はぁい」
下駄箱を開けて、私は朝と同じように瞬いた。ガタガタする下駄箱の中には上履きがある。乱雑にではあるが、突っ込んである踵にはカミオカと名前も書いてある。そういえば、今日一日スリッパだったんだっけ。私は返却手続きをすべく、曲がり角に消えた先生の背を追った。
れっきとしたいじめ、、




