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天窓・1

 早い時間に登校するのは私の習慣だった。湿った空気の中、中学校へ続く坂を上る。風に乗って、運動部がグラウンドを走る掛け声が聞こえてきた。坂に合わせてデコボコと高さを変える塀の向こうで、木が生い茂った小さな庭が覗き込めた。私はリュックを揺すり、ゆるく長い坂の続きに戻る。掛け声は遠のいている。学校の裏手にあるグラウンドは、風向きによってすぐに音が大きくなったり小さくなったりした。

 坂を上るのは私だけだった。帰宅部だっていうのにこんな朝早く登校するのもそのためだ。静かで、足並みをそろえる必要もなく、声をかけられることもない。遅刻すると先生がうるさいから、わざわざ一時間も早く来ているのだ。この時間なら、寝坊した運動部の子が時々追い越していくくらいで、あとは静かなものだった。

 くいっと曲がるカーブの先に緑色のフェンスが見える。古びたボールが流れ着き、雑草が生い茂ったフェンスの下側は朝露に湿っている。私はフェンスに沿って正門を目指す。ふっと部屋の中に入ったように夏のにおいが強くなり、息が詰まった。フェンスから糸を吐いているのだろう、ふわふわと宙に浮く蜘蛛をそっと避け、まだ半分しか開いていない門の隙間に身を紛れ込ませた。

 生徒玄関に入ると、しばらくは目がちかちかした。砂嵐でかすんだ視界に白黒反転したように見える下駄箱が陣取っている。夏の朝は思ったより明るかった。砂っぽい簀子の上で靴を脱ぎ、つがいの緩んだ下駄箱を開けて、私は瞬いた。

 あれ、上履きがない。

 忘れてしまったのだろうか。しかし、週の真ん中、水曜日に何を思い立って上履きを持ち帰るのだろう。理由もなく持ち帰るものだろうか、私ならあり得なくもないけど。

 私は下駄箱の中に運動靴を突っ込むと、踵を返して職員室に向かった。するする滑る廊下を靴下のまま進む。野球部がキャッチボールをしている声が聞こえた。ボールがミットに収まる音が窓を絶えず叩いている。そのあるかなしかの振動を頬に感じながら、私は職員室のドアを開けた。「ノックゥ」と飛んできた声が私を責める。ぴゃっと首をすくめ、すでに閉めてしまったドアを小さく叩いた。

「スリッパ貸してください」

「あァ? 何度目だ、お前」

 振り返ったのは顔なじみの吉河先生だった。この先生の授業を受けたことがないので何を教えている人なのかは分からないが、生活指導をしているだけあって、毎朝早い。

「知りませんよ。入れといたらなくなるんですもん」

 吉河先生が苦虫を噛み潰したような顔で黙る。

「……心当たりは?」

 喉がつかえたような声がして、私は緑色のスリッパに突っ込んでいたつま先から視線を上げた。先生は何か隠し事でもありそうな顔だ。

「さあ……どうですかね。ない、と思いますけど」

 それ以上先生が言葉をかぶせてくる前に、私は踵の余る大人用のスリッパを引きずってドアを開けた。先ほどと同じ口調で「アイサツゥ」と飛んでくる声には「失礼しました」を返して、自分の教室に向かった。

 建付けの甘い教室のドアを開けると、中には先客がいた。

「あ、神岡さんだぁ。おはよう」

 やけに含みの強い挨拶だった。確かバレー部の面々だったと思う。今日は朝練がなかったのだろう。しかし、女の子が三、四人固まっていると、どうしてこうも悪巧みをしているように見えるものか。

「……おはよう」

 女の子たちが押し殺したように笑み崩れるので戸惑った。何となく雲行きが怪しい。

 私はそれ以上かかわらないように、ひそひそ笑い合う女の子たちの横を抜けて自分の席にリュックをかけた。もろもろを机の中にしまい、最後に机の目印として筆箱を出して、すぐさまトイレへ。いったん席を外してしまえば、あの執拗な視線も外れるだろう。

 トイレを済ませて戻ってくると、自分の席を一瞬見失った。不思議に思いながら自分のリュックが下げてある机を見つけて、それから机の上に置いてあったはずの筆箱が消えているのを不審に思った。いつも一瞬で見つけられるように、筆箱だけは位置を変えないのに。彼女らは何か知っているだろうか。

「あーの……私の筆箱知りませんか」

 控えめに聞いてみると、中の一人が肩越しに振り返った。その顔にはどうしようもないものでも見るようなためらいがちな笑顔が浮かんでいる。

「え? 知らないです~」

 強い含みはここでもあたりの景色を湿気っぽくした。彼女らは何を思ってこんな顔になるのだろうか。こういう時、彼女らは決まって嫌な顔をした。どう嫌と聞かれると何とも答えようがない。別に怒った顔をしているわけではないのだが、しいて言うと、プールの後、背中を拭き忘れたまま服を着てしまったときに感覚が似ている。

 それにしても、私は筆箱を机の上に置いたあと動かしていないし、教室にずっといたはずの彼女らも知らないと言うし。さて、どうしたもんかな。

 ふと思い立って、私はすでに内緒話に戻っている女の子たちを置いてゴミ箱に向かった。話に区切りの付いたらしい女の子たちが、私のやることに注目しているのが分かった。ゴミ箱のふたを開けて中を覗く。ビンゴ。やっぱりこんなところにいたのか。ものがなくなった時はたいていゴミ箱から見つかるのだ。

 昨日の掃除のあと、誰もごみを捨てなかったらしい。ゴミ箱にかかった半透明のポリ袋の中に、私の筆箱が落ちていた。まるで罠にかかった旅人みたいだ。上からジュースの空き缶とか捨てられていたら災難だった。得した気分で女の子たちの元に戻る。女の子たちは楽しくて堪らないような、逆に緊張したような、妙な表情をみなぎらせていた。

「ありました。お騒がせしてごめんね」

 軽く人当たりのいい笑顔を浮かべてみせると、女の子たちは世紀の大発見でもしたような顔でお互いを見交わし、戸惑いを演じるような笑い声をあげた。

「ああそう、うん、良かったね?」

「見つかって良かったよねえ?」

 言いながら、笑いが堪えきれなくなっているようだった。違和感を覚えつつ自分の席に戻る。よく分からないが、なんだか面白そうだからそれでいいのだろう。


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