雨の墓・3
聞き耳を立てていたが、私が部屋に戻るまでの間には、先生もお母さんも何も話さなかった。私は自分の部屋に戻ると、フローリングの床にごろりと横になった。リビングの声はこうしていればだいたい聞こえた。日差しでじんわり温かい床に耳を付けると、お母さんの声が聞こえてきた。
「勘違いではないんですか? 千鶴はほら、先生もお気づきかもしれませんが、少し変わったところのある子ですけども。脅したとは考えにくくて。それなら何か、誤解かすれ違いか、そういうもののほうがよっぽどありそうな話なんです」
先生が少しの間を空けて答える。
「こんな時期に水をかけるなんて言うのは普通じゃありません。やっぱりそういうのは、脅すつもりじゃなきゃ出ない言葉でしょう」
「でも……冗談のつもりだったかもしれないじゃないですか」
「だとしたって、伝わらない冗談ばかり言っているようでは、何かとこの先、障害になってしまいますから。少しずつですね……」
「千鶴は優しい子ですよ。おそらく、先生よりは私のほうが千鶴のことを分かってあげられるはずです」
「もちろんです。でも、少しでいいので、聞いてみてくださいませんか。どうしてそんなに……脅したように聞こえることを、言ってしまったのか」
少しの間、空白がある。
「ええ……はい、聞いてみます。ごめんなさい、少し、驚いてしまって……大きな声が出てしまって……すみません」
「いえ、すみません。こちらこそ、出過ぎたことだったのかもしれません。本当に、千鶴ちゃんはいい子ですから、周囲に溝があることだけが心配で……」
いえ、すみません、いいえ、ごめんなさい、繰り返し続く。
私は身を起こした。不思議な気がしていた。お母さんはこんなことで声を上げるような人ではないと思っていた。お母さんはちょっとおっちょこちょいだけど、おっとりふわふわ優しくて、私にも千里にも声を荒げたことなんてほとんどない。
世の中は不思議なことでいっぱいだ。私はまたベッドに身を投げる。ぼよん、ぐらぐら。また体が重い。
会いたいなぁ。
また、思った。ぎゅっと目をつぶってベッドに頭をこすりつける。目を開くことができない。目の前にあるのが一つ目でなければ目を開きたくない。クレヨンの匂いがなければ笑いたくない。画用紙が髪に擦れる音しか聞きたくない。でも、動けなかった。立ち上がって、引き出しを開けて、ムニの絵を取り出すまでどれほどの力をふりしぼらなければならないだろう。ここから机までは、あまりに遠かった。今は息をするのさえ億劫だと言うのに。
どこか近所から車が走り出す音が聞こえた。聞きたくなかった。私は布団に顔を埋めたまま、毛布を手繰り寄せて頭からかぶった。風の音が聞こえた。聞きたくなかった。枕を布団の中に引っ張り込み、頭の上にかぶった。ぼふっと物音が遠のく。急に安心した。ほっとした途端、布団の温かさが全身を絡めた。
あ、すごく眠い。首の後ろが痛い。このまま寝てしまったら、寝違えそうだ。
ごろんと仰向けに寝転がる。ぽかぽかしている。ふわっと額をすり抜けた風も、陽だまりみたいに暖かかった。まぶたの裏が白くて、そっと目を開けると沈みかけた曇り空が見えた。いつの間にか私は砂の上に寝転がっていた。薄暗い花曇りの空を鳥が飛んでいる。すい、すい、と空を横切っていく。眺めているうちにだんだんと目が覚めてきた。黄色っぽい砂が大の字に広げた手足を柔らかく埋めて、風に疼こうとしている。
空を飛んでいた鳥が、急に向きを変えて落ちていく。鳥の行く先を見たかったのだが、首を曲げると目にも口にも砂が入りそうで、ほとんど動かすことができなかった。
仕方なしに身を起こすと、ときおり落ちてくる鳥の様子がよく見えた。ツバメだろうか。濡れたように黒い羽が鋭利な形をしている。脇の内側の白い羽が柔らかそうだった。私は足の指で砂を掴んで立ち上がる。はぐれてしまった黄色い砂を風が吹き散らしていく。どこまでも広がるくすんだ群青の曇り空を切って、ツバメが落ちていく。
黄色い砂丘はなだらかな繰り返しを続けている。風が吹くたび砂が舞い上がった。ところどころ、艶やかな緑が固まっている。植えたように、また岩にしがみつく苔のように、砂丘の表面に群生して萌えている。小さな花をつけているものさえあった。
私は裸足でこぼれていく砂を掴んだ。地面を蹴ると風に溶け、地面を離れたつま先に細く黄色く糸を引く。
ぬるい風が吹いて、ツバメが地面に向かって落ちていく。私はその行方を目で追った。砂丘に吸い込まれるように落ちて砂けむりがあがる。そこから広がるようにして鮮やかな植物が生えてきた。ツバメは落ちる。落ちたところに小さなオアシスができる。
「お墓だ……」
ここは墓地だと思った。ツバメの運ぶ雨が、こうして死んでいく。墓石に緑を選んで。そんな気がした。
私は立ち尽くしたまま、思い出したように落ちていくツバメを見ていた。小さな影は自ら地面に向かって突っ込んでいく。緑が固まって、風が吹くたび少しずつ砂に埋もれていく。ふいに私は息苦しさを感じた。それは真正面から吹き付けた風のせいなのだと思った。風向きは幾度となく変わり、息苦しさは止まない。それでやっと、頑なに息を吐こうとしない自分に気が付いた。息ができる場所を探そうとは思えなかった。ここはどこも風が吹いているから。
曇り空を旋回するツバメの数はいつまでたっても変わらなかった。ただ、広大な砂丘に少しずつ緑が増えていく。薄暗い群青の中を落ちていくツバメは、流れ星か夜の雨みたいに見えた。
空を見上げると、旋回している影の一つがこちらに向かって落ちてくる。どうしてだろう、その影は片方しか羽がないように見えた。みるみるうちにその影が大きくなる。私もお墓になるのだ、と思った。それはそれで心地のいいことのように思われた。あの緑になって砂丘にしがみつき、風に吹かれるたびに浸食されて、いつしか黄色い砂に埋もれるのだ。大きくなっていく影を見るともなく見つめる。その影が落ちてくることを受け入れたいと、素直に思っていた。
その影が突然小さくねじれて一つ目がこちらを向く。ぱちんと瞳がかち合って、とぼけたような目がきゅっと動いた。風の音が急に止む。
「――――ちづる?」
声を上げる間もなく、見開かれた瞳が目の前まで近づく。反射的に目を瞑ると、額の上でぼよんと跳ね上がる感触があった。重くはない。水風船をぶつけられたような感触だった。はっと目を開けると、宙に舞ったムニがきらきらした顔をしていた。――顔のパーツなんて一つ目しかないのに、それが分かった。
「ムニ!」
「ちづる!」
真上から落ちてくるムニを、両手を広げて抱き留める。バランスを崩して背中から砂丘に落ちると、砂塵が盛大に舞い上がって視界が黄色く煙った。ムニの体がぼよんと跳ねて、私の腕の中から飛び出す。私はすぐさま起き上がってムニを探した。
「どこ? いたよね。夢じゃない? ムニ!」
「ここ! 夢みたいだ、ちづる。本当にまた会えた!」
砂塵が落ち着いていく中に、丸っこい塊と手すりのような影が浮かんでくる。私は迷わず飛びついた。ムニも倒れ込むようにして飛びついてきたせいで、互いの衝撃に息が詰まる。
「会いたかったよぉ、ずっと探してたんだからな」
ムニが高い声を上げる。ずっと会いたかったのだ。私も嬉しかった。きゃあきゃあ言いながら再会を喜んでいると、ムニが勢いよく体を離した。
「今日は遊べる? 約束だったろ」
ぽかん。約束? 何の話だろう。ムニが焦れたように頭部を振った。
「ああもう、忘れちゃったんならいいんだよ。遊べるんだろ? 何して遊ぶ?」
私は笑った。
「なんだっていいよ。どんなことだって楽しい」
ムニが嬉しそうに跳ねる。私の胸も嬉しくなって跳ねる。
「鬼ごっこしよう。オレが先に鬼やるから。じゃ、いーち、にーい……」
私は駆け出した。走るのは好きだ。ムニと走れるならもっと楽しい。ムニが数える声が響くなか、私は砂を蹴ってひたすら走った。遠くから、負けないぞとか、そんなようなことを言っている声が聞こえる。私だって負けない。ちらりと振り返ると、なだらかな起伏の一つ向こうにムニがもそもそと動いているのが見えた。あれなら私が負けることはないだろう。少し手加減が必要かもしれない。足をゆるめようとした瞬間、身を溜めていたムニが一直線にこちらめがけて飛んできた。ぎょっとして飛び退いたが、そんなことで避けられる速さではなかった。
「う、わああ」
ムニに突撃されて派手に転ぶ。例によって水風船みたいな感触しかないくせに、ぶつかられた衝撃は一人前だった。砂を巻き上げた私から、高笑いのムニが遠ざかっていく。
「こんなのあり?」
背部に叫びを投げつけてやる。それでもどこか、抑えきれない笑いが滲んでしまった。
「大ありだよ。油断したちづるが悪いの」
わっはっは、もうはるか遠くで笑い声がする。私は意気込んで拳を握ると、砂丘を踏み崩してムニを追いかけた。
ところが、ムニは素早かった。のそのそ動く背中に手を伸ばすと、触れないギリギリのところで身をかわす。ふらりのらくら、これじゃいくら足が速くたって勝ち目がない。悔しくなって回り込んでみたり、くぼみに隠れたりして勝機を狙ったが失敗に終わった。
ムニは変な動きで私を挑発してくるから笑ってしまう。だからって、負けを認めるわけにはいかない。足の速さで負けたことなんか、一度もなかったのに。
「ムニ、待ってよ!」
「やーだね」
またしてもスカだ。勢い込んで追いかける。また隠れて隙を狙ってやるつもりだった。
ずるりと踵が滑る。あ、と思った。とっさに背後を振り返ると、起伏の谷に緑が見えた。直感的に思う。あれを踏んではいけない。思ったが、砂に滑った足がそれで止まるわけではなかった。密に生えた草の中に足がぐっとめり込む。冷たい感触があって、めり込んだところから水が染み出す。湿地に踏み込んでしまった時に似ていた。泥水が急速に膨れ上がって、すぐに腹までが重い水に浸かった。谷からよじ登ろうとあがくのに、足首が何かに捕らえられて抜け出すことができない。草が絡みついているのだ。もがいているうちに、胸までが水に沈んでしまう。
「――ムニ! 助けて!」
聞こえないのだろうか。すでに泥水が喉までも冷たく締め付けている。私は精一杯首を延ばして上に叫んだ。
「溺れちゃう、助け――」
耳が埋まって自分の声が遠のく。冷たく重い水が顔じゅうに流れ込んだ。助けを求めて伸ばした手の先が粘りつくような抵抗に遮られる。目も口も閉じたとき、手首を強くつかまれた。はっきりと分かるくらい熱い手が、私を引き抜く。
「ぬおお」
変な掛け声が聞こえる。足首を掴んでいたものが強い感触を残して消えた。すぽんと宙に放り出されて黄色い砂の上に転がる。舞い上げた砂を風が吹きさらしていった。
「危なかったな。ほら、綺麗になった」
ムニがそう声をかけてくれた途端、どろどろだった全身が本当に綺麗になっていくのが分かった。服も髪も、地面に付いた両手までも。でも、全身が濡れていた。ムニを安心させるために、私は立ちあがった。
前髪から頬を伝って顎からぽとりと雫が落ちる。だらっとぶら下げた指の先からも軽い雫が落ちていた。濡れた服が重かった。襟の中から生ぬるい柔軟剤の香りがしていた。首筋に張り付いた髪が冷たかった。
立っていられなくなり、膝から崩れ落ちた。ムニが慌てたようにこちらに寄ってくるのが、うつむいた目の端に見えた。
「大丈夫か? どっか痛い?」
さっきと違って、ムニの声がおろおろしている。私は笑顔で上を向いたつもりだったが、ムニは何かに気付いているような気がした。私は膝を抱えて座り直すと、にこにこしたままじっと黙った。
これでは千里と一緒ではないか。どうしたってムニは心配するに決まっている。しかし、ムニはお母さんみたいにそれ以上慌てたりはしなかった。よじよじと私の右側に移動して、ぽよんと座り込む。そうしたら、私の口が勝手に話を始めた。
「どうして私はいつもこうなんだろう。さっきだってそうだった。うっかり踏み込んでひどい目に遭うの。私がいけなかったのかな。何がいけなかったんだろう。考えても分からないし」
私はたまらなくなって膝の上に顔を伏せた。
「聞いても、誰も教えてくれない。でも、私がいけないんだってみんな言う。なんでって聞いてもよく分からないことばかり言われて」
生まれて初めて、涙が出た気がする。ムニの前では、平気なふりがうまくいかなかった。
「私が駄目な子どもだからそうなるのかな……」
そう言ってしまうと、もう何も言えなくなってしまった。言葉にならない何かが両目から流れ落ちる。止まることはなかった。こんなことで泣きたくないと思う一方、本当はこんなことを一つ一つ泣いてこなければならなかったような気がする。そう思うと、ますます止まらなかった。
ふいに、頭の右側に何かが当たった。とん、と心地いい振動が胸を揺らす。微かに顔を上げると、髪の毛の隙間からムニの体が見えた。当たっているのはムニの頭の左側に突き出たくちばしだった。ムニはもしかしたら体勢を崩して私に支えを求めただけだったのかもしれない。手足がないからぐらぐらしただけなのかもしれない。もともと表情の乏しい顔だから、本当のところ何を考えているのかは分からない。
それでもいい。充分だった。何を考えているのか分からないムニとさえ、楽しく遊ぶことができるのだ。分からないから駄目ということではない。それなら、泣く必要もないのだと、そう思った。
私は腕で涙を拭って顔をあげた。目の前は真っ暗だった。砂丘も緑もない。しばらく呆然としていたが、瞬きをしてみるとまつ毛に抵抗があった。そうだ、布団の中だ。枕と毛布をかぶってじっとしていたのだ。すとんと変わった世界の色に、私は少なからずうろたえた。
まとわりつく寝具類を引きはがすと、部屋の中は真っ暗だった。入り口のドアのあたりに、電気の色で縦長コの字が引かれている。開けると、廊下の電気がつけっぱなしになっていた。一階から食器どうしのぶつかり合う音が祭囃子のように続いている。先生はもう帰ったのだろう。あの男の子たちの家でも同じ話をするのかもしれない、と今更ながら思い至った。
ゆっくりと階段を下りてリビングに入る。祭囃子の出所は台所だった。お母さんが食器を洗う音。私は中を覗き込んだ。
「お母さん」
「あれ、自分で起きたの? 偉いねえ」
お母さんが笑う。どこか控えめな、気後れしたような笑みだった。
私も控えめに頷いた。中に入ると、あたたかい湿気と料理の匂いが肩を抱いた。
「晩ご飯、なに?」
「イカと里芋煮たやつ。ちいちゃん好きでしょ」
私はぱっと笑った。
「ほんと?」
ほんとだよ、と笑う顔は、今度こそいつも通りに見えた。それが急に不安に思えてくる。
「……さとちゃんの好きなやつは? 今日はないの?」
「食後にいちご大福を買ってきました」
自慢するように笑う顔を見て、やっと不安が消える。私はお母さんの傍に行って手元を覗き込んだ。
「お皿洗い、手伝うよ」
「んーん、もう終わるから座ってていいよ。お箸持ってってね」
四人分のお箸を握ってリビングに戻る。テレビがついているのに気が付いた。お笑い番組がやっているけど、私はお笑い番組が面白いと思ったことはなかった。リモコンを手に取り、やっぱり考え直してお母さんの席の前に置く。お笑い番組がついているとみんながよく笑うから、嫌いではなかった。他に見たいものがあればお母さんが変えるだろう。
箸を並べながら思うのは、今夜の晩ご飯の風景だった。夕食を楽しみにすることが一日の楽しみだった。嫌なことがあっても、思うようにお別れができなくても、どうせ同じものには二度と出会えないし、同じ目に遭うこともない。だから、一番最後に食べるご飯がおいしければそれでいいのだ。
そういうふうに考えて納得する自分が、とても味気なく思えた。




