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雨の墓・2

 こってりお説教を食らい、的外れなことを繰り返し言い含められて、ようやく解放されたのは放課後になってからだった。まるまる一時間も怒られていたのだ。男の子たちの言い分も先生がしつこく怒ることも、結局最後までよく分からなかった。

 さらに運の悪いことには、今日は家庭訪問の日だった。先生はきっとお母さんにさっきのことを言いつけるだろう。

「嫌だな……」

 小さくため息をつくと、体の芯から力が抜けていくような気がした。ランドセルも重く、歩くのがいつにも増して億劫で、帰り道が長く感じた。

 つま先で蹴った石が転がっていく。水たまりを跳ねたあと、ミミズのような跡を残して転がるのをやめた。

急に、思い出したように寒気が来て、濡れた着替えの入ったビニール袋から冷蔵庫みたいな冷気を感じた。

 とぼとぼ帰り着いて玄関を開けると、靴をそろえていたお母さんが顔を上げた。

「あ、おかえりなさい。ちいちゃん」

「ただいま」

 返しながら憂鬱な気分が抜けないままでいる私を見て、お母さんは首を傾げた。

「あれ。また体操服で帰ってきたの? 転んじゃった?」

「遊んでたら濡れちゃった」

 そっかぁと言いながら、お母さんの意識はもう別のところに飛んでいるようで、そわそわとしていた。

「ねえ、ちいちゃん。いつもよりお部屋きれいになってるかな? 先生が来たらこのお部屋じゃ汚くて恥ずかしい?」

 平気だよ、とよく分からないなりに頷くと、それでお母さんは満足したようだった。

 運動靴を脱いでそろえて二階に上がろうとすると、うろうろと歩き回るお母さんが声を上げた。

「先生が来たら呼びに行くからね」

「分かったってば」

 強めの口調で返して二階に上がり、自分の部屋のドアを閉める。ランドセルを背中から落とすと、ベッドに身を投げ出す。目を閉じたままでいると、受け止められた反動でぐらぐらした。

 日差しのかかったベッドは暖かく、すぐに眠気を誘った。今にも眠ってしまいたいくらいだったが、お母さんに呼ばれるまでは眠るわけにはいかない。身を任せてしまいたい怠さを堪え、私はやっとの思いでベッドから身を引きはがした。

 両手を着いたまま部屋を見渡すと、白けた西日がアイボリーの壁を焦がしている。その焦げ目から何か出てきそうな気がした。私は慌てて頭を振って壁から目を逸らす。怖いものが出てきてしまいそうな日差しが、たまらなく鬱陶しかった。

重たい体を引きずって勉強机の前まで辿り着くと、一番上の引き出しを開けた。中には一枚の絵が入っている。ムニを絵にしたものだ。あんな変な生物には、あの日以外にお目にかかったことはない。猫にからかわれたり、時計がおじいさんになってお話することもあったが、変な生物はムニひとりだけだ。もう二度と会わないと思うとなんだか惜しいような気がして、幼稚園の時に書いたこの絵を眺める癖がついてしまっている。クレヨンをこすり付けた画用紙はところどころ色移りがして、独特の甘く塞がった匂いがする。

 会いたいなぁ。

 体が重たい日には時々そんなことを思った。今となっては、もう一度くらいならムニと楽しく遊んでもいいとさえ思っている。髭の生えたベンチも眼鏡をかけたアヒルも、ムニほど私を驚かせてくれなかったし、笑わせてもくれなかった。学校のお友達なんかなおさらそうだ。

それでも、私に話しかけてくれる時の顔は嫌いじゃなかった。赤くなったり青くなったり笑ったり驚いたり、くるくる動く顔を見ているとなんだか楽しいような気がしてくる。だからその瞬間だけは好きだった。

ただいまぁ、と高い声が玄関のほうから漏れてきた。妹の帰ってきた声だろう。周囲の評価は人当たりがよく活発で、少しばかりわがままなのが玉に瑕の元気な子らしいが、私はいまいち千里を掴めないでいる。まず第一に、千里はわがままではない。むしろ、どちらかというと控えめだ。物をねだることも人の行動を押さえつけることもなく、周囲を捻じ曲げてまで自分の意見を通すこともない。それに、元気というわけでもない。隣の部屋でしくしく泣いていることがあるのを、私は知っている。

私はひとつ息を吐くと、絵を置いて部屋を出た。ちょうど階段を上ってきた千里が私に気づいて笑う。

「お姉ちゃん、ただいま!」

「おかえり」

 千里はにこっと笑って自分の部屋に向かおうとする。

「ちょっと待って、さとちゃん。いいものあげる」

 私は入り口近くにある棚から飴を拾い上げ、千里に渡した。

「ほら。さとちゃん、いちごの飴好きでしょ」

 千里の顔がぱあっと華やぐ。両手で飴を握り込む。私を見上げる顔がきらきらしていた。

「うんっ。好き!」

 ぴょんとその場で跳ねて、にこにこ笑う。元気は出たようだ。

よかったよかったと一人頷きながら自分の部屋に取って返したとき、差し込む日差しの色が変わったのに気付いた。壁を振り返ると、光を吸ったアイボリーが今にも飛び立ちそうにふわふわしている。私はもう一度頷いた。いつの間にか体も一緒に軽くなっていた。先生が来たって大丈夫だ。そりゃ、今日のことでまた怒られるのは嫌だけど、もう決着のついたことなんだから。

机の上から絵を取り上げると私はムニに笑いかけた。

「さとちゃんっていい子でしょ。ムニも会えたらいいのにね」

 くすくす笑って、ベッドに背中からダイブする。額に絵を当てて目を閉じる。夕焼けに似た朱色の空に、しっとりした甘い匂いが層になって浮かんだ。

「ううん、さとちゃんにもムニは秘密。誰にも秘密。もう会えないのかな……」

 私は目を閉じたままじっとしていた。隣の部屋で千里が椅子を引く音が聞こえてくる。お母さんは何をしているのだろう。一階からごとごととくぐもった音が聞こえてくるけど、お部屋は十分きれいだからこれ以上いじっても変わらないんじゃないのかな。お父さんは何時に帰ってくるだろう。ああ、今はもう夕方なんだ。カラスの声が聞こえるなあ。今からおうちに帰るんだろうか。空は地面より寒いって聞いたことがあるけど、カラスの羽も冷えてしまわないといいな。私も寒い。そっか、今日はずいぶん寒い日なんだ。

 つむじから足先まで冷たい感覚がよみがえる。前髪から頬を伝って顎からぽとりと落ちる雫があった。だらっとぶら下げた指の先からも軽い雫が落ちていた。濡れた服が重かった。襟の中から生ぬるい柔軟剤の香りがしていた。首筋に張り付いた髪が冷たかった。――冷たかったのだ。

 私は必死に目をつぶった。クレヨンのにおいが視界いっぱいに広がった。震えてしまいそうな体を何とか温めたかった。震える前に、しゃんとしたかった。

「ちいちゃん、降りてらっしゃい」

 お母さんの声ではっと目を開く。ムニの一つ目と私の瞳がかち合った。近すぎてぼやけてしまうその目を見て、私はぐっと唇に力を込める。

「今行く!」

 声を上げて起き上がった。引き出しの中に画用紙をしまって階段を下りる。先生が玄関に上がっているところだった。スーツ姿でかつかつと靴を脱いでいた先生が私に気づく。その目が何かを言ったような気がした。私は聞かなかった。お母さんの後ろに寄り添って先生の口元を見ていた。

 リビングに通されて、先生も少し落ち着かなそうに見えた。あたりのものをぶつ切りに見て、お母さんが出したお茶に瞬く。

「あ、いえ、お構いなく……」

 どうぞ遠慮なさらず、といつも通り笑って、お母さんは先生の向かい側に座った。その隣の椅子を引いて、私を呼ぶ。私が椅子によじ登ると、先生は私の顔をちらりと見た。

「いつも千鶴がお世話になっております」

 おまじないみたいなお母さんの言葉に軽く会釈をして、先生はお母さんの方に向き直った。

「千鶴さんはおっとりしててね、お勉強もよくできますし、担任としてはやりやすいですよ。ね、いつもテスト満点だもんね」

 と、こっちを見て。お母さんは照れてにこにこしている。

「いえいえ、そんな……先生の教え方がよろしいんですよ。それに、もともとはっきりした子だから、もしかしたら学校では少しわがままをしているんじゃないかって心配してたくらいで」

「とんでもない、私から見ていてわがままなんて少しも思ったことはありませんよ。――ただねぇ」

 私は机の下で握っていた拳を開き、体操服のズボンに押し当てた。腿にじんわりと熱か染みてくる。先生の顔が、一瞬だけ曇った。

「時々、お友達とぶつかってしまうことがあって。今日も男の子に水を掛けられちゃったんです。前には服を泥だらけにされちゃったりとかも。他にも……」

 お母さんが黙った。覗き込むと、顔が白くなって唇の色がくすんでいる。薄く切れた唇を息が出入りしていた。それを見て、先生が妙な顔をした。

「ご存じありませんでしたか?」

 お母さんはやかんにこびりついたカルキをはがすように、首を微かに揺らす。

「ええ……今日は遊んでいるうちに濡らしただけって……本当なの?」

 お母さんが私のほうを振り返る。曖昧に首を動かしてはみたが、果たして「さあ?」という意味になったかどうか。

 先生はそんな私の様子を見ながら言葉を継ぐ。

「相手は大体やんちゃというか、ふざけが過ぎることのある子が多いんですけど……ただ、何にもなしに、一方的にってわけでもなくて、発端が千鶴さんにあることが多くて。――もちろん、千鶴さんが先に水をかけたなんてことはないんですけどね。なんていうか、今日のことなんかで言うと、水をかけてやるって脅したそうなんです」

「脅した」

 お母さんが呟く。すっかり細く縒れた声になってしまっていた。

「夏ならおふざけで済むんでしょうが、この時期ですから。男の子のほうもなんだか怯えてしまって、それでこんな極端なことになったんだと思うんですが」

 極端だったろうか。私はお茶の表面を眺めるふりで、内心首を傾げる。私に「脅されて」男の子が怯え、やられる前にやる。単純な流れだし、当たり前の行動であるような気がした。私ももし同じ立場だったら同じことをしていただろう。同じことを思ったのか、お母さんもうんとは言わなかった。

「極端ですか、でも怯えてたんだとしたら、そうなるかも……」

 机の上をじっと見つめながら、口の中でそう言った。私も内心賛同していたのに、お母さんは唐突に顔をはね上げてこっちを見た。失敗した、間違えた、そんな風に見えた。お母さんは小さくあたふたして私の肩を抱いた。

「でも、この子が一方的に悪いわけじゃありません。それに、本当にそんなことしたんですか。人なんか脅す子じゃないんですよ」

 早口で付け加えた声がかすかに上擦っていた。

 また、『どっちが悪い』だ。どっちが悪いって、今回はどっちも悪くないのだ。私の親切が伝わらなかった、それだけのことだ。誤解した相手の男の子も悪いと言えば悪いのかもしれない。でも、それを言うなら誤解に気付かない私だって悪いことになる。そんなの、いつまでも言い争っていたってどうしようもない。さっきから何度も、同じことの繰り返しだ。

 だんだんと額にある目のあたりがうずうずしてきた。なんとなく視界が黒ずんでいる。先生を見上げると、途方に暮れたような顔をしていた。その眉間の、本来なら目があるはずの場所はぐりっと盛り上がって深いしわを刻んでいる。不機嫌な、困り果てた筋肉だと私は思った。そこからもやっとした塊が抜け出してきそうになって、私は慌てて視線を下に向ける。

 目の縁にサビのようなものを感じる。額に触ってみると、目やにであるのが分かった。

「まあ、とにかく」

 と、先生が布を叩くような声を上げた。お母さんの手がおずおずと私から離れる。

「千鶴さんは、その点を除けばとってもいい子なんです。お手伝いもたくさんしてくれますしね」

そこで言葉を切って、先生は私を見た。

「あとは、お母さんともう少しお話がしたいな。――構いませんか?」

 とお母さんに向き直って。お母さんが戸惑った顔で頷く。

「じゃあ、ちいちゃんはお部屋にもどろっか。おやつは?」

「あとで食べる」

 椅子から足を揃えて降りる。目の端に、先生のほっとした顔が見えた。


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