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お母さん

 玄関のカギ穴に鍵を差し込んで回す。かちゃんと音がしたのに、引いてみるとドアはあかなかった。もう一度カギ穴を回しながら私は内心首を傾げた。かけ忘れたわけではない。今朝心配になったから、わざわざ確かめに戻ったのだ。開けると、中にはお母さんの仕事靴が揃えてあった。お母さん、帰ってたんだ。

「ただいま」

 声をかけてみたが、返事はない。訝りながら階段を上がる。私の部屋に入ると、お母さんは中にいた。

ふっと胸騒ぎが背中をかすめる。

ドアの音に気付いてお母さんが振り返った。

「ああ、ちぃちゃん。おかえり」

 その手が持っているものに目が釘付けになる。

 ――ムニの絵だ。誰にも見られてはいけないはずの。

 音がするほどの勢いで血の気が引く。私は反射的に飛び出した。靴下がフローリングを滑ったが、構っている余裕はない。

「返して、見ないで!」

 お母さんの手からムニの絵を奪い返す。私は枕の下に絵を隠すと、ベッドの前に立ちはだかった。お母さんはただ少し首を傾けているだけだった。でも、私の中は混乱でおかしくなりそうだった。狂おしいほどの焦燥で視界に砂嵐が散っている。めまいがした。

「なんで勝手に部屋に入るの? しかも引き出しまで開けて。ふざけないでよ!」

 見られた。ムニを見られた。知られた。私のイマジナリーフレンド。誰にも理解されない、だけど何より大切な相手だ。絶対に穢されたくない。ムニは、ムニだけは。

 昏倒してしまいそうなほど緊張している私に対して、お母さんは少しも取り乱していなかった。

「勝手に触ってごめんね。その絵、そんなに大切なものだったのね」

 私は目を伏せて頷く。もう十年以上も前に書いた落書きだ。形もいびつで、色だってよく分からないからたくさんの色をクレヨンで重ね塗りしている。お世辞にもきれいな絵とは言い難かった。そんなものを今に至るまで大事にしていることは、おかしなことだと思われるだろうか。そんな汚い絵、と言われてしまうだろうか。

予想に反して、お母さんは少しも怪訝そうな顔をしなかった。むしろ、和らいだ顔で笑った。

「その絵に描いてある物ってなに? よかったら、お母さんに聞かせてほしいな」

 まるで小さな子供に教え諭すみたいな口調だった。反発心が突き上げてきたが、それを抑え込んだ後には不思議な落ち着きがやってきた。お母さんの態度があまりに落ち着いているからかもしれない。

私は深呼吸してお母さんの顔を見返す。背後のムニを思う。そして、心を決めた。

 私はベッドの端に腰かけた。一人分の隙間を開けて、隣にお母さんが座る。いざ心を決めても、ずっと胸の内に溶けていた思いを言葉に組み替えていくのには手間取った。ましてや、日記ではない。思った通りに口にしていても、必ず誤解が生まれる。順番を整理して、相手が理解できる形にしなくてはならない。間違ったことは言えない。絶対に、ムニとのことをいいように解釈されたくはない。

「幼稚園の、年中さんの時に、遊んでいたらその子に会ったの」

 私は生まれて初めて、ムニのことを口にしていた。それは驚きをともないながら、かすかに温かさを染み通らせていく。こうして話してみると、ムニと私はずいぶん長い付き合いだった。喧嘩もして、たくさん遊んで、相手は一風変わっているけど、それでも確かに友達だったのだ。ムニのことでたくさん悩んだ。その何倍も、ムニがいて楽しかった。私の頭に食い込むくらい、ムニの存在は大きかったのだ。

 話していくにつれ、その思いは強くなった。そのたびに会いたいと思い、そのたびにどうしてずれていくのかと悲しくなった。思いが言葉を超えないように、私は深呼吸して気持ちを整えた。お母さんは黙って聞いていた。だから、言葉は止まらなかった。

 この間の隠れ鬼のことまで話すと、空っぽになってしまったように言葉が途切れた。何も言えなくなってしまった私を見て、お母さんが私を覗き込んだ。

「ムニって人は千鶴の大切な相手なのね」

 お母さんが言う。お母さんは膝の上で手を組み合わせて息をついた。

「千鶴と千里は、お父さんが前に結婚してた人との間に生まれたでしょ。もう亡くなっちゃって、私がお母さんになってからのほうが長くなっちゃったけど、お母さんは二人とも大好き。だから、二人も私のこと、嫌いじゃないと思ってるんだけど」

「うん。お母さんはお母さんだと思うし、好きだよ」

 そのことについて嫌だと思ったことはない。病気だったお母さんの顔はもう思い出せないけど、私は病気だったお母さんも目の前のお母さんも、どっちも母親だと思っている。そういう家族のもとに生まれただけのことだから、疑問を抱いたことはない。不都合が降りかかってきたこともない。

「たぶん、これは初めて言うことだけど、ずっとコンプレックスだったの。こんなに大事な二人が私と血がつながってないなんて、って。ああ、誤解なく伝わってほしいんだけど、分かる? とっても微妙な意味合いだから、悪いほうに取ってほしくない。私、本当のお母さんになりたかったのよ」

 私は浅く頷いた。

「分かると、思う」

 微妙な意味合いの会話なんて、ムニとの間でいくらでもしてきた。世の中のほとんどはいちいち正しい意味なんて求めないまま進んでいくのに、どうして人と人との間の話はこんなに神経質にならなければならないんだろう。それは私にも言えることだ。

「だからね、できるだけ縛りたくないし、どうしても心配性になっちゃう。……でも、心配いらなかったね」

 お母さんははにかんだように笑った。まるで、同級生に向けるような、幼ささえ感じられるような笑顔だった。

「いつもそんな大事な人に会いに行ってたんだったら、やっぱり邪魔しなくてよかったんだって、ちょっとホッとしてるのよ」

 お母さんを、完璧な人だと思っていた時期もあった。そうでもないと分かったのは、そんなに大きくなってからの話ではなかった。いつかの家庭訪問の日に、何かにおびえて大きな声を出すお母さんに失望したこともある。だけど、こんな人だと分かったのは初めてかもしれない。

お母さんもずっと不安だったのだ。私がお母さんのことを気にかけなくても、お母さんは私を気にかけていた。私が誰も見ていなくても、誰かが私を見ていたのかもしれない。

誰の目にも触れないように努力してきた今までが急に恥ずかしく思えてきた。どんな人でも、一人ではいられないのだ、良くも悪くも。そんな当たり前のことに高校生にもなって初めて気づいた。そんな言葉はおとぎ話だと思っていた。逃げられないものだなんて思っていなかった。決して捕まりはしないと躍起になっていた。でも、こうして私を照らしてくれる光でもある。

逃げてはいけないなんて誰も言わない。善意のある人は、逃げてもいいよ、と言う。もっと優しい人は、逃げてはいけないよと言う。でも、どれも正しくない。逃げられないのだ。そういう言葉は、逃げられる位置にいる人に言えばいい。人の手が届いてしまう私には意味のない言葉だ。どこに行っても私は首を絞められるし、その手で抱きしめてもらえる。裏表だ。お母さんはお母さんでいるために、人間であることを隠さざるを得なかったのだ。それを私が求めたから。

私は顔をあげてお母さんを見た。こういう時、お母さんがこれだけ心震わせているのだから、私だって少しくらいそういう顔を見せたほうがいい。それは分かっていた。でも感動なんてものは少しも感じないし、そういう顔を作ることもできなかった。私は物心ついた時から縛られていた物思いから解放された。人に触れなければ自分も相手も傷つけないなんて、それこそおとぎ話だった。そんな必要はなかったのだ。今は、その清々しさで胸がいっぱいで、どんな表情も浮かべられなかった。自分がどんな顔をしているのかも分からなかったが、胸の内を駆け抜ける清涼感で、眠気を誘うほどの安らかさを感じていた。

それと同時に、胸の裏側から染み出すようにムニのことを思った。人から逃げることができない現状に対して、ムニとの間柄はどうだろう。逃げるつもりなんて決してない。お互いに向かい合おうとしている。それは何の障害がなくとも難しいことだ。それが当たり前のようにできているというのに、どこまでも掴みがたく逃げていくように思われる。ムニ自身よりも、ムニとの時間が。どこにあるのだろう。

私はたとえ何を捨ててもムニの隣にいたかった。ずっとおしゃべりをしていたかった。それが叶わぬことかもしれないと、認めてしまうわけにはいかない。ムニとの時間を求める自分。ずっとそうしてきたから、諦めてしまえば私は私でいなくてもよくなってしまう。これは私の一本軸みたいなものだった。しかし、現実的に考えてそんなことが可能なんだろうか。だって、ムニは私の頭の中だけに生きていて――だけど、認めない。認めないでいれば認めるまでの時間稼ぎになる。私は理由がほしいだけだ。ムニを待つ理由、私でいられる理由を。

座っているのが苦痛になった。私は立ち上がり、窓の外を見た。夕日はもう沈みかけている。

「私、ちょっとそのあたり散歩してくる」

 お母さんが驚いたように私と窓の外を見比べた。

「でも、もう暗くなるのに……」

「大丈夫。ありがとうね」

 なんだかおかしな言い回しをしてしまって、変に笑いが漏れてしまった。それがかえってお母さんの心配を取り除いたらしい。

「気を付けて。携帯持ってってね」

「ああ、忘れてた」

私は苦笑したし、お母さんも笑った。

 私服に着替えて外に出ると、夕風が首をすり抜けた。昼間は長袖だと少し暑いような気もしたが、今の時間でならちょうどいい。それも、袖をまくっていてちょうどいい天気だった。私はこういう気温が一番好きだった。

 行き先に当てがあるわけではない。ただじっとしているのに耐えられなかっただけだ。私は適当に歩き出した。空を見上げると、電柱にいたスズメが飛びたつ。薄く藍色に染まった空に、真っ赤な雲が綺麗だった。まるで絵画か、組み合わせを間違えたパズルみたいだった。こんなに非日常みたいな色が、空を仰ぐだけで見られる。私は意外と普通の人間なのかもしれないと思った。

 塀に沿って適当に曲がり角を選ぶ。帰れなくなるかもしれないという思いがちらりと脳裏をかすめたが、あまり考えないことにした。私には電話すれば迎えに来てくれる家がある。今は迷子になってもいいのだ。

 目は少しずつ薄暗さに慣れ始めていたが、明るさは急速に吸い込まれて消えていく。鳥目をこすった先に公園が見えた。

この時間は危ないかな。道を曲がって避けようとして、一番外にあるベンチが目に付いた。ふっと記憶の断片がよみがえる。ほとんど陽炎のようだけど、確かな記憶だ。

小さいころ、本当に小さいころ、ここで遊んだことがあったと思う。私とやっと歩けるようになった千里。お母さんと、珍しくお父さんも一緒に遊んでくれた。お父さんはお母さんの隣にぴったり付き添っていたけど、私がせがんだら一緒に鬼ごっこをして遊んでくれた。病室でパジャマ姿ばかりのお母さんの記憶の中で、唯一私服で、唯一病室じゃなかった。残念ながらやっぱり顔は思い出せないけど、無口だったお母さんがいきなり大きな声で叫んだのだ。

「これは今からお母さんのベンチだ! お母さん命令、全員集合!」

私はその声に驚いて泣いてしまった。私の泣き声に触発されて千里も泣いてしまって、大泣きする我が子二人に珍しく戸惑っているお父さんの顔はなぜか覚えている。

 そんなことを言った日もあったのだ。いつもじっと白いベッドに座っていた、無口で物静かな印象しかなかったお母さんが。

 私は引き寄せられるようにしてそのベンチに向かった。安全だという確信があった。

 腰を下ろしてひとつ息をつく。寂しげなベンチだった。忘れ去られたような公園だった。私はいつか、大事にしていたいことも忘れてしまうのだろうか。私の頭は便利で、嫌なことはしまいこんだら忘れてしまう。それはありがたいことだけど、どんなに大事にしたいことも、会っていなければ忘れてしまうのだ。同じ思い出なのに、お父さんの顔は覚えていてお母さんの顔は覚えていられなかったように。

 すとんと天地の感覚がなくなった。ひとつ瞬きをしたら、私は夜明けの空を落ちていた。天と地との広大な狭間を、雲を突き抜け風を破って落ちていく。自分の心臓の音さえも分からないほどに、耳たぶから風の轟音が押し寄せてくる。とんでもない風圧があるはずなのに、不思議と息は苦しくなかった。

 いつものあれだ。しかしこんな切り替わり方は珍しい。終わるときはいつも唐突だけど、始まりはいつももう少し緩やかだったはずだった。

 私は夜明けを落ちている。怖くはなかった。

 落ちながら、私は暁を見ていた。赤い、とろけるような太陽がそこにはあった。太陽に気を取られていたら、急に筒に紙を突っ込んだような音が全身を包み、重くなる。思わず目をつむってしまった。目を開いてから、耳元のくぐもった音が水の中であることを知らせる。視界は鮮明だった。水の中なのに少しもぼやけない。むしろ、普段見ている景色よりくっきりした、鮮やかな影が見えるような気がした。

そこは草原だった。どこまでも続く草原に、風が吹くように水が漂っている。私は重力に従って、だんだんと草原に降りていく。私は水を掻いて体の向きを変えた。仰向けになると、口の中にたまっていた息がすべて逃げて行く。それでも落ちているときと同じように、少しも苦しくなかった。だんだんと遠ざかる水面に、赤い太陽が映っては砕けていく。

ほとんど寄りかかるようにして背中が草原にたどり着く。遠くの水面は絶えず揺れていて、太陽をいくつも映している。その揺らぎをじっと見つめていたら、不意に胸に何かが突き上げてきた。私はかすかに顔をしかめてそれに耐えようとする。

ああ、やっぱりだめだ。どうしようもなく泣けてきた。

私は涙をぬぐわなくても済むここが気に入った。目元の水が温かい。本当に泣いているのだろうか。涙は出ていないかもしれない。本当に泣けているかなんて確かめる方法はない。ここはどこも水が満ちているから。そんなふうに考えてみるのは、無駄な足掻きだろうか。


気づかないまま、いろんなことに心が守られてるんでしょうね。

それはそうと、私の作品の中には水の中から太陽を見上げるというシーンが時々出てきますね。

なんなんでしょうね。

好きなんですよねたぶん。プールに潜って鼻痛めながら見た水面越しの太陽とか。

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