鬼灯
私は肘を突いて抱えた頭を掻きむしった。さっぱり頭に入ってこない。様子を見ていた女の子が前から教科書を覗き込んだ。
「……どこ?」
私は無言で問題文を示す。シャーペンの先が私の苦悩を察してミミズを描いた。
「あー、神岡さん、長文弱いねえ。ここは節と節のまとまりを意識してやると分かりやすいよ。スラッシュ入れて、一緒に構造を整理しよっか。私も同じところやってるから」
疲れた顔で笑って自分の問題に戻る。私は煮詰まりそうな頭を何とか動かして、英文の構造を分け始めた。
中高一貫でよかったと思えるのは、保健室が変わらなかったことだ。居場所が確保されていると思うだけで学校まで足を運ぶ気になる。中学三年の時にクラスが同じだったこの子たちは、高校に入ってからもこうして保健室を訪ねてくる。彼女たちの親切を振り切ってしまった罪悪感から、高校に入ってからは少しずつ彼女たちとも話をする機会を増やしている。今ではこうして勉強を教え合う間柄にもなった。
隣で古文の勉強をしていた女の子が、教科書を勢い良く閉じた。大きな音がして、私は思わずそちらを見る。
「あー、もうやだ! 全然分かんない!」
「どこ?」
今度は私が古文の教科書を開く。国語なら、多分得意だ。
「全部。何言ってんのか全然分かんない」
「あー、うん。だんだん頭ぐちゃぐちゃになってくるよね。とりあえず分かんない単語から調べておいたら」
私が苦笑すると、椅子の背に身を投げていた女の子が全身の力を抜く。だらんとぶら下げた指からシャーペンが落ちた。
「がんばれ。あとで数学教えて」
私が笑ってシャーペンを拾い上げると、
「うん……今ここ教えて、ティーチャー千鶴……」
「誰が先生なもんか。変なあだ名付けてないで勉強しよう」
私が笑うと、しおしおと教科書を開く。
この二人は、毎日のように来て勉強会を開いていく。放課後のことも多いが、こうして昼休みに来てくれることもある。名前も覚えた。英語が得意な山内さんと数学が得意な日野原さんだ。
こういうふうに別のことに集中しながら人と関われるのなら、少し楽しいと思えるようになった。私に分かることがあって、一緒に考えればそれを理解してもらえるというのは初めての経験だった。
辞書で単語の意味を一つ一つ調べていたとき、予鈴が鳴った。私は顔を上げる。二人は伸びをして手早く机の上を片付け始めた。私も教科書を閉じてリュックにしまう。
次の授業に向かっていく二人を見送って私は背後のカーテンを引いた。
「帰ったよ」
机の上に伏せていた境井はうっそりと顔を上げる。寝ていたのか、額に袖かなにかの跡がついていた。
「……やっと?」
「勉強見てもらってるし、そう言わないで」
境井も私と同じで、なるべくならクラスメイトとは会いたくない。境井の気持ちも分かってはいるが、彼女らは親切で来てくれているし、私も前ほど不快でなくなったから、境井のために断ろうとは思わない。
境井は寝起きのせいか、どこかぼうっとしていた。目をこすって席を立つ。ふらふらと長椅子に戻ってきて伸びをした。私も背中を向けてその椅子の端に座る。今日は会えるだろうか。会えないことを前提にしていないと、また八つ当たりをしてしまう。何度も許してもらえるとは限らない。しっかり頭に刻み込んで、文庫本を開いた。
ちょうど開いたページは、主人公がタイムスリップして住んでいる町の過去に飛んでしまったところだった。その描写を目で追っていく。足元をサッカーボールが転がっていった。座っているベンチはペンキがほとんど剥げていて、オレンジ色の錆が接合部分から滲んでいる。向かい側に建つ駄菓子屋の軒から小さな鉢植えがぶら下がっていて、しおれた花が咲いていた。私はベンチから立ち上がると、サッカーボールを爪先で触った。転がりそうになって、また足元に留まる。
足元にたまった自分の影を見ていると眩しかった。空がよく晴れていて、からりとした空気を輪郭の曖昧な雲が駆け抜けていく。雲は頬にも指先にも絡みついては溶け消えていった。製薬会社の看板が日に照らされて黄ばんでいる。その看板の足元に、キジ猫がいた。ごろりと身を倒して毛づくろいしている。猫は好きだ。私はそうっと近づいていく。猫は私に気づいて、眩しそうにゆっくりと瞬きをしてから立ち上がった。路地に入る、その手前で振り返る。意味ありげな瞳に私は喜んで、そのキジ猫のあとをついていく。猫は案内するように私を先導した。路地は薄暗かったが、建物と建物の隙間から空が見える。よく晴れた空は冴えていて、飴色の建物の色を心沸き立つものに変えていた。私は猫を見失わないように歩いた。塀の上、鉢植えだらけの中庭、屋根の上。
建物の屋根を進んでいった先に、白い光を灯す街灯があった。キジ猫はその前で尻尾を揺らして、私が追い付くのを待っている。両手でバランスを取りながら近づく。
急に猫が首を延ばした。するすると体が伸びて、水色を基調とした妙な着物を着た人になる。顔立ちは分からない。面布で顔を隠していた。猫の人はすっと私に一礼すると、街灯に手を突っ込んで光を取り出した。街灯の電球は色をなくす。代わりに光は、白い鬼灯の中から漏れていた。猫の人は鬼灯を私に手渡すと、またするすると猫に戻った。
ふと、道を挟んだ向こうの屋根に目をやると、橙色の着物の人がするすると犬になるのが見えた。縮んだ犬の向こうから、赤い鬼灯を手すりに提げたムニが見える。会えた!
私は息を呑んでムニに手を振った。ムニも気づいてぽよぽよと跳ねる。向こうに行きたいが、降りる場所が分からない。狼狽えていると、猫の尾が白い鬼灯を軽く叩いた。
「これ? これをどうするの?」
キジ猫は鼻先で鬼灯に触れる。猫の呼吸で、白い光が鱗粉のように漂った。私は自分の口元に鬼灯を持ち上げると、そっと息を吹いた。風に乗って鱗粉が伸びていく。向こうからも、赤い鱗粉が伸びてきて、道の真ん中で溶け合った。色が溶けたところから、見えない骨組みに鱗粉が吹き付けられるようにして、太鼓橋が架かった。私は首を傾げている猫に鬼灯を返すと、太鼓橋に足を乗せた。
走っていくと、ムニも飛んでくる。橋の真ん中でぶつかった。抱きしめると、ムニはそっと距離を取ろうとする。一抹の淋しさを感じないわけではないが、最近のムニはいつもこうだから、いい加減慣れた。ムニがぽよんとひとつ跳ね、橋の下に飛び降りていく。私もそれを追った。
地面に落ちると、私はムニのハンドルに触れる。
「今日は何しようか」
「隠れ鬼! オレが先鬼やる」
なぜだか分からないが、ムニの元気がないような気がした。返答が早すぎる、というか。返答が遅れないようにわざわざ答えを用意してきた感じがした。
ムニはもう数を数えている。私は道を走りながら、ムニの声を聞いていた。空元気で遊んでいるのではないか。私に気づかれたくないのか。しかし、その声だけでは何も分からなかった。私は手近な物陰に隠れる。ムニが声を上げた。
「もーいーかい!」
「もーいいよ!」
あちこち動かしていた目が、声を聞きつけてこちらに向く。相変わらず鬼ごっこではムニにかなわない。びょっと飛んでくるから奥の物陰に逃げ込んでみるけど、すぐに捕まえられてしまった。
「次、ちづるが鬼な」
いつもこうやって一瞬で終わってしまうのに、先に鬼をやる意味はあるんだろうか。私は開けた道で数を数える。ムニならどこに隠れるだろう。それを考えるのが楽しいから、私はムニとする隠れ鬼が嫌いじゃない。返ってきた声を頼りに、アタリを付けて探す。ムニなら捨てられた置物に紛れるか、骨董品を置いてある店の、大きな壺の一つか。それとも……と私は路地裏のゴミ箱の蓋を開けた。
「見っけ」
ぬうっとムニが出てくる。ゴミ箱を開けたら大きな一つ目がこちらを見ていた、なんて、ムニの大嫌いな怪談にありそうなのに、自分でそれをやってしまうところがムニらしい。私はムニを捕まえて訊いた。
「どうかしたの? 今日は元気ない」
「元気でござる」
私に打ち明けてくれる気はないみたいだ。仕方なく、私はムニを解放する。びょんびょん跳ねまわるムニは、今やもうただの空元気にしか見えないが、触れてほしくないのなら私にできるのはそれまでだろう。
「次! 鬼だからね」
ムニに手を置こうとすると、一瞬ムニの姿がぶれて消えてしまった。
帰ってしまったのだ。このタイミングで帰るなんて卑怯だ、とひとり笑う。残される淋しさに慣れたわけではない。ただ、ムニとの関係がこういう不安定さをはらんでいるからこそ、何度も会って話ができるのだということを私も胸に刻むようにしているし、それはおそらくムニもそうなのではないだろうか。だから、笑うしかない。笑った後に、風が吹いた。
ムニの消えた町並みを歩く。安物のシャツに半ズボンで、擦り切れた運動靴を履いている。軒に吊るしたみかんの網が風に揺れている。二階の窓を守る柵に、濡らしてしまったらしいシャツが一枚かかっている。私はさっきの猫を探そうと思ったが、もう町に動くものはなかった。ただ、私が動くたびに風が吹いてみかんの網やシャツを揺らした。私は晴れた空を見上げた。顎先を形のない雲がまとわりついて消えていく。楽しいもの。楽しいものを探していた。
息を吐く。私はムニがいなければ楽しいものが探せなくなってしまったのだ。いつからこんなふうになってしまったのだろう。ずっと前、もう思い出すのも難しいほど幼いころだ。ムニと出会う前は、何をしていても楽しかった。それこそ、一人でかくれんぼもおしゃべりもした。それじゃ、ムニは私から楽しみを奪ってしまったのか、なんてひねくれた考えを浮かべてみるけど、そうでないことは私が一番知っている。人といる楽しさを知ってしまったのだ。どれほど嫌気がさしても、ムニとだけは話をするのが楽しかった。どれほど一人でいる心安らかさが甘美だったとしても、ムニと一緒にいる新鮮な楽しさには勝てなかった。私の知っている楽しみは、ムニの前では無力だった。
「ひとりでは何もできないんだなあ」
言葉にしてみたところで、何が変わるわけでもなかった。私は来た時と同じようにベンチに座った。こんなことで自分の無力さを感じるとは思わなかった。
私は立ち上がって伸びをする。今ではこうして意図的に戻ってくることもたやすい。コントロールが効く代わりに、前ほど頻繁に行くことはできなくなった。伸びたついでにくりっと振り返って境井の様子を確認する。
境井の物思いにふける顔は見慣れたものだが、こう沈んでいるように見えるのは珍しい。私は境井の隣に座りなおすと、物思いから覚めるのを待った。待つまでもなく私を見るのはさすが境井といったところか。相変わらず周りの動きに敏感だ。
「元気は?」
「さあ」
境井の返答はそっけない。私は小さく肩をすくめて、深く掘り下げるのをやめた。冷たくあしらわれるよりも危険なものが潜んでいたら自分の身が危ない。身を引こうとしていたから、境井がそのあとに続けた言葉を聞き漏らした。
「なんて?」
「相談、いいかって聞いた。相談ってほどじゃないけど、聞いてほしいことっていうか」
「いいけど」
珍しいことだ。何となく気色悪さも感じるが、聞いてやろうじゃないか。境井はかすかに猫背を揺らした。
「もしかしたら、目が見えるようになるかもしれない。その手術を……迷ってて」
目が見える、手術。
「……へえ」
相槌を打ちながら、私は言葉を吟味していた。
意味が分かるよりも先に動揺が押し寄せていて、深く考えることができない。私はなるべく平静を装った。目ざとい境井にはばれるかもしれないが、できるだけ取り乱したことが伝わってほしくない。抑揚のない境井の声を思い出しながら私は返事を選んだ。
「なんで迷ってるの?」
境井も言葉を選んでいた。
「……後悔したくないな、と」
「失敗すると、もう見えるようにはならない?」
私が聞くと、境井は首をうなだれた。
「そんなことはないけど、何かが変わるのかなと思うと、なんか……」
言葉が迷っていた。結ぶ言葉を見つけられていなかった。私はいつも境井がやっているように外を眺めてみたが、別に何か見たいものがあったわけではない。
「目が見えないのがコンプレックスなんだと思ってた」
私は自分の手を見つめる。これが手の形だと、もしかしたら境井は知らないのかもしれない。
「誰の話?」
「目が見えないって言ったら君のことでしょうが」
そっか、と境井が妙な納得をしている間に、私は言葉をつづけた。
私は責任が取れない。だから、できれば聞こえないでほしい。でも、言っておきたかった。
「期待があるなら、かけてから考えてもいいと思う。今以上に無くすものなんてないんだから」
それなりの覚悟で言ったのに、境井はくしゃくしゃと頭をかきむしって身を折り曲げた。
「そんな単純に済むならだれも相談なんかしないんだよ……」
難しいことなんだろうか。でも、考えてみると、確かにそうだ。生まれた時から見えていないのだとしたら、初めて自分の生きている世界を見るのだ。それは覚悟のいることだろうし、そうでなかったとしても、何年ぶりに出会う色や形なのだ。
見えるようになるってどんな感じのするものなんだろう。そもそも、いつから見えないのだろう。さっき私は、境井が手の形を知らないかも、なんて思ったわけだが、生まれた時からなら本当にそういうこともありうる。どうして見えなくなってしまったのだろう。病気? 怪我だろうか。
それに、見えないのに、よくもあれだけいろいろなことに気付くものだ。境井は何となくだと言うし、私もそれを疑ったことはなかったけど、考えてみるとそれはすごいことだ。視覚がない代わりに、そのほかの感覚を総動員して感じ取っているのかもしれない。だとすると、見えるようになったらあの目敏さはなくなるのだろうか。境井が感じている世界は、どんなふうなのだろう。
いきなり湧き上がってきた疑問の多さに、私は戸惑った。今までこんなこと考えなかった。どうして急に、こんなにいろいろなことが気にかかり始めたのだろう。そんなこと、知ってもどうしようもない。想像したところで、やっぱり答えは出ないのだし、考えるのをやめたほうがいい。
理屈をこねてみたが、そんなもので止まる量ではなかった。
代わりに、私は私のことを考えてみる。境井が知っている世界と私が見ている世界は、おそらく全然違う。しかし、境井になら伝わるかもしれない。例えば、さっき行った町並みや、鬼灯の太鼓橋や、水色の着物に身を包んだ猫の人のこと。ミラーハウスで探したカボチャや、ムニのこと。初めて世界をその目に映す瞬間になら、分かってもらえるかもしれない。
でも、と私は思う。たとえ分かってもらえたとして、それは意味のあることなのだろうか。それはみんなが認めていない世界だ。ありえない、そんなものは嘘だ、理解できない、そういう世界は、なかったことにされる。私は私の感じたままに、昨日のドラマの結末について話し合うみたいに話してみただけだ。その世界はどこにもないという。境井の知る世界でも、それはありえないものだろうか。
そういう世界を目の前にする私は、やはりありえない、嘘の、理解できない存在なのかもしれない。私が知る世界を本物だと受け止めてくれるのはムニだけなのだ。たった二人の友達のうちの、ひとり。一番大事な友達。だから、もう一人である境井にも話してみたい気がした。




