いちごの飴・2
「おはようございまーす」
「おはよう。今日は早いじゃない」
上履きに履き替えながら声を上げると、先生がいつものように挨拶を返してくれる。境井はもう来ていた。奥の長椅子でぼうっとしている。
「おはよ」
声をかけながらリュックを下ろすと、境井が振り向いた。
「……おはよう」
小さいながら返事が返ってくる。おお、これは進歩。挨拶が返ってきたのなんて、もしかしたらはじめてかもしれない。今日はいい日だ。
先生は机の上の書類を揃えて引き出しにしまい、立ち上がる。
「私は職員会議行ってくるから、もし誰か来たらそう言っておいて」
「はぁい」
いつものように間延びした返事を返して、いつものように境井の座る長椅子へ。
「昨日はさっさと帰ったね。お腹でも痛くなった? 私の助けを無視した天罰だったりして」
皮肉たっぷりに言ってやる。昨日、説得中に見捨てられた恨みは忘れてやらないぞ。じろりと境井の目が私を睨む。うえ、やっぱりきつい目だ……。堪え切れずに目を逸らそうとすると、境井が何かに気付いたように表情を変えた。
「……なんかあった?」
「――え?」
意外な言葉に私は逸らそうとしていた目を境井に戻す。境井は時々するあどけない顔で私を見ている。こういう顔をしている境井は壁がなくて好ましい半面、素の顔を見てしまった気分がして、なんとなく落ち着かなくなる。
「元気ないの?」
重ねて聞かれて、私は慌てて首を振った。
「いや? そんなことない。元気元気」
「嘘だ。顔見えてないからって分からないとでも思ってるだろ」
すかさず境井は私の言葉にかぶせてくる。否定することが分かっていたかのようだ。境井は敏感に切り返したが、目ざといのはもう嫌というほど分かっている。
「そういうのじゃない。本当に」
ただ、なんとなく気まずいだけだ。勢いでムニにぶつけた憤りを、境井にもぶつけようとしていた。そうなっていたら完全な八つ当たりで、合わせる顔があるはずもない。結果的には境井が先に帰ってくれたからそうはならなかったが、その申し訳なさと気まずさが伝わってしまっているのだろうと思った。
境井はじっと私の顔を見ていたが、やがて息を吐いた。
「何があったかなんて、俺には関係ないけど。聞いてほしいなら話していいよ」
なんだ、その上から目線の態度は。言葉にしかけて、ハタと言い止む。
「……それ」
いつだったか、私が言った言葉だ。確か、夏だったはずだ。出会ったばかりの境井に言った。全身で話を聞いてほしそうにしているのに、口先だけは頑なに言い出そうとしないから。今の私は、あんなふうに見えているのか。境井が私のほうをちらりと見て、小さく笑みを浮かべる。
「俺、記憶力はいいほうだから。言葉には気を付けろよ」
境井が笑っている。気色悪いと思えない自分がひどく参っているのだと、今更ながらに気付いた。そうだ、境井には関係のない話なのだ。きっとどうでもいい話だろう。痩せっぽっちの境井の身に堪えることもないはずだ。そう思うと、全身から力が抜けるほど救われた気分がする。
私は境井が座る長椅子の端に腰を下ろした。長方形の短辺に座ったから、境井には背を向ける格好になる。いつも通りの調子でいるための、せめてもの足掻きだった。
「昨日、クラスに入ってみたでしょ。何にもいいことなかった」
「具体的に」
境井の声には抑揚がない。ひとつずつ、心が軽くなる。
「どうしてあんなに構おうとするんだろう。自分の目の前で手いっぱいで、クラスのことまで相手にできない。それで変な顔するくらいなら、私のことなんて最初から放っておいてくれればよかったのに」
境井は少し間をあける。ちょっと言葉を選んでいるふうだ。
「知らない奴が教室にいると怖いんだろ。だから分かろうと思って、頑張って話しかけてる、とか。そういうふうに思ったこと、ない?」
理解はできる。理屈では、そういうこともあると思う。でも、そんなふうに思えるなら、私は保健室には来なかったし、たぶん境井とも出会っていないだろう。
「ない。近づかないなら、分からなくても怖くない。分かる相手だけでいい。他人なんてどうでもいいんだよ」
境井は口を閉ざした。この沈黙は、私に呆れているわけではない。言おうか迷っているのだ。私は言葉が出てくるのを待つ。この沈黙を遮ってもいいのだが、境井は一度引っ込めた言葉を二度と言い直さない。あとから聞きたいと思ってもなかなか聞けないから、言いたいだけ言わせておく。
境井が息を吸う音がした。
「……俺は怖いよ。いろんなことが」
怖い。いろんなことが。……怖い?
私はゆっくりと振り返った。驚いていた。意外だった。境井が怖いという感情を持っていることが。確かに境井はビビりで、小さな音も聞き逃さないし、自分に向けられた攻撃には必ず気付く。でも、怖がりかというと、そうではないと思っていた。態度や言動から、傷つくのをおそれずまっすぐ向き合える奴なのだと思っていた。それは勝手な思い込みだったとしても、私はそういう境井の態度を、実は羨ましいと思っていた。だから、いちいち腹を立ててもずっと話をやめなかったのだ。境井はいつでも正面から向き合ってくれたから。
境井はこちらを見てはいなかった。どこか遠くに思いを馳せるように、懐かしそうな眼をして窓に映った何かを見ている。その顔は、驚いた時の顔よりよほど私を落ち着かなくさせた。
私は何か話そうとした。しかし、空気を変えられそうな話題はなにもなかった。初めて、教室で女の子たちといろいろ話しておかなかったことを後悔した。
私は次ぐ言葉を見つけられないまま、境井の横顔を見続けるしかなかった。やっと私の視線に気づいたのだろう、境井がこちらを向いて、それから私に手を伸ばした。避けられないまま、境井の手は私の頭に触れる。一瞬だけ、握るように髪を撫でて、すぐに離れた。動けなかった私は、やっと呪縛から解けたように頭を押さえて身を引く。そのどれもが反射的な行為だった。一部始終を、瞬きもできずにぽかんと見ていた。
慰めてくれたのだろうか。境井はどんなことを考えているのだろう。迷った末に、怖いと教えてくれたのはなぜなのだろう。境井が怖いと思うものは何だろう。疑問が湧き上がる。その疑問は嫌な気のするものではなかったが、私は首を振って考えるのをやめた。どうせ、想像では何も答えなんて分かりはしない。それに、と私はムニを思う。答えが分かったって、思い通りになるものではない。無闇に答えばかり探すのは、あとになって苦痛を生むだけだ。ムニと付き合う時でさえ、私が私の思うように動いてくれないように。




