いちごの飴・1
廊下を進む私の足取りは激しかった。早くあの白い部屋に戻りたい。胸にわだかまって視界まで黒く霞ませる何かを早く出してしまいたい。自分一人で抱えているには、あまりに鬱陶しすぎるものだった。
振り切ってきた彼女らの顔は考えない。何とも言えない顔をしていた。考えてしまうとその表情の意味も分かってしまえそうだから、あえて憤りで頭をいっぱいにする。他人の事なんか考えたくない。私以外の人間の事なんか考えない。誰が傷ついたって見ないふりしてやる。誰が怒ったって気づかないふりしてやる。私は私のことでいっぱいいっぱいだ。知らない。私は何も見ていない。
ドアを開けて中に入る。先生が振り返った。
「あれぇ、おかえり。どうだった?」
「……境井は?」
あたりを見回す。またベッドの陰だろうか。先生はボールペンで頬を叩いた。
「迎えが来てさっき帰ったよ」
帰った。そうか、もう放課後だ。もちろん、当然だ。境井はいつも、この時間には下校している。膝が萎えて、私はリュックを背負ったまま長椅子に倒れ込んだ。
「お疲れ。しんどかった?」
私は顔も上げずに首を振る。教室でつらいことは何もなかった。水もかけられてないし、筆箱も靴もなくなってない。
「やっぱり散々でした。教室なんて行きたくない」
私は両手を着いて体を持ち上げると、外に繋がるドアに向かった。
「帰ります。さようなら」
「ああ、うん、さよなら」
気掛かりそうな先生を置いて外へ。誰かと顔を突き合わせるのも億劫だった。
家に着いてからも頭を占めるのはムニの事ばかりだった。考え直せば直すほど、ムニの表情に乏しい顔は軽蔑を表していたようで、頭がねじ曲がりそうだ。ベッドでうめく。憤りは消えたが、今すぐムニと会いたいとは思えなかった。もし、あれが最後だったとしても。
コンコン、と遠慮がちなノックの音が聞こえた。誰だろう。
「なに」
「あのさ、お姉ちゃん。これからコンビニ行くけど、お姉ちゃんも一緒に……」
千里か。部活はもう終わったのだろうか。
「ごめん。行かない。ひとりで行ってきて」
「欲しいものとか」
千里は細く開けたドアからおどおどと顔を覗かせている。近ごろはあまりこういう顔をしなくなったから、なんだか物珍しい。
「特になし。そのぶん、さとの好きなもの買っていいから」
すごすごと頭が引っ込む。やっと静かになった。
静かになってやってくるのは、後悔の芽だった。下らないことを言った。思い返してみると、あの時私は本当に本心を言ったのだろうか。本心で、あんなひどいことを考えたことがあっただろうか。全力で吐き出したのは嘘の言葉だったのかもしれない。私はムニが一つ目であることも、友達であることも、疑うことなく受け入れていた。大好きだった。ムニは私のことを分かっているし、私もムニのことは知っているつもりだった。でも――と私は寝返りを打つ。
下手くそなムニの絵も、うっすら紙が変色してきている。長い間、物心ついてからずっと、大事にしてきた宝物だ。
――でも、よくよく考えてみれば、私はムニのことを何も知らない。どういう生物で、普段はどんな生活をして。親がいるのかいないのか。年はいくつなのか。性別は……たぶん、男の子だと思うけど。そういうことも、何一つ知らない。考えたこともなかった。ムニはあの通り人ではなかったから、そんなことは聞く意味のないことだと思っていたし、考えなくてもいいとどこかで安心している自分もいた。それに、私だってうすうす分かっている。私の見ている風景を、みんなは見たことがない。「目の前」が二つあるなら、私の知っている「目の前」も私のものでしかない。ムニだって、私だけにしか知られていないのなら、本当にいるかどうかなんて分かりっこない。全部私の妄想かもしれないのだ。
それでもムニは私と遊んでくれた。血液型や星座占いの話題を振らなくても楽しくおしゃべりできた。無理に繋ごうとしなくても一緒にいられる間柄だったはずだった。私がその間柄を壊したのではないだろうか。
私はあの時、何と言ったのだろう。頭に血が上っていたから、もう細かいところまでは思い出せない。その程度のつもりで、取り返しのつかないことを言ってしまったのではないだろうか。
ムニの絵を引き出しにしまいこんで、またベッドに身を投げる。考えすぎて軽い頭痛がしていた。眠ってしまおう。眠って目が覚めなければ一番いいけど、そんなこと滅多にありえないから、起きたらおいしいご飯を楽しみにする。お母さんが作る献立をあれこれ想像して、帰ってきたら答え合わせをするのだ。寝て覚めて頭がすっきりしたら、きっとそうやって一日を終える。一日をやり終えたら私の勝ち。乗り切るほかない。そういうふうにしか、乗り切る方法を知らなかった。
またノックの音がして、私ははっと目を開けた。本当に眠っていたらしい。もしかしたら、疲れていたのかもしれない。寝起きのぼーっとした頭で考えていると、もう一度ノックの音がした。
「なに?」
ためらいがちに開いたドアの隙間から、千里が顔を覗かせる。
「ただいま。お姉ちゃんにこれ」
言って、提げているコンビニの袋からキャンディの袋を取り出す。
「これ、あげる。いつも私にくれるから、お姉ちゃんも好きなのかなって……」
千里の好きないちごのキャンディだった。私は食べたことがないから味は分からないけど、とてもおいしいのだといつも千里が主張している。私がこれをあげる時は、千里が落ち込んでいるときだ。それを思って、私は少し胸のうちがほぐれるような気がする。
「私もこれ、大好き。ありがとう」
笑って見せると、千里はホッとした顔で笑った。
「よかった」
そう、その笑顔だよ。私はいちごキャンディより、千里の笑う顔が好き。千里に限らず、そうやって笑う人の顔が一番かわいいし、綺麗だと思う。私がその笑顔を引き出せるのは、家族とムニくらいのものだけど。だから、こんなに大事にしているのだ。知るか、で失えるだけの間柄ではない。
千里が自分の部屋に帰ってから、私は何度もムニを探した。ちらりとでも会えないだろうか。謝ることはできないだろうか。けれど、結局会うことはできなかった。ただ、廃墟のビルから悲しげな幽霊がいっぱい出て来て、泣いていただけだった。
僕は最近になるまでいちごみるく飴のおいしさがいまいちよく分かりませんでした。
今は味覚が変わったのかあの味に慣れたのか、割と好きです。
でもあの味のくせに舐めすすめるとささくれてミルフィーユ状になるのが解せません。
なんかなめらかに減っていきそうじゃないですか、味的に。




