砂の星・2
起き上がったムニと再び向き合って座る。ムニが先に口を開いた。
「そういや、クラスはどうしたんだ? 行ってるのか?」
きょとんとした目で見つめられて、私は深くため息をついた。
「まあ、ね……」
ムニとの会話は先生からの説得が始まったところで切れていたから、この話題は当然といえば当然だった。しかし、ムニと会ったときまでこんな話をしなければならない境遇が恨めしい。ムニが「どこも似たようなもんだよ」って慰めてくれたから、今は甘んじて良しとするけど。
「一応、授業には出てみたけど、ほとんど知らない場所に放り込まれた気分だよ。どうせ卒業前に友達作っていい思い出です、さよなら、みたいなのを期待してるんだろうけど、そういうの要らない。私にはムニだけで十分。足りてるよ」
のろのろと言うと、ムニは真顔で見つめてくる。うわあ、相変わらず異世界に飛んでしまいそうな眼をしている。じっと見つめ返していると、上下も左右も分からなくなりそうだ。空がひまわりで地面が宇宙で右が手すりで左が井戸で……。
「クラスに慣れといたほうがいいんじゃねえの?」
揺らいでいた脳内に言葉が飛び込んできた。私は目を見開く。ムニからそんな言葉が出るとは思わなかった。むしろ、けらけら笑って「大好き!」なんて言ってくれると思った。私は驚いてしまって、つい両手をついて身を乗り出した。
「なんで? 私、クラスが好きじゃない。一生懸命やっても全然うまくいかないのに。あんなところ、行きたくないよ。この間、ムニだってそうだなって言ってくれた」
つい大声を出すと、ムニは慌ててぽよぽよ跳ねる。
「それは知ってるよ。ちづるはすごく嫌がってたし、そんなに嫌なら無理することないって俺も思ったけどさ」
「慣れるって、嫌になるくらいクラスには慣れてるよ。もう十分だよ」
何度も話そうとした。何度も分かろうとした。だから、もう居残らないと決めたのだ。ムニだけいれば、何もいらない。いらないのに。
「でも、友達がいたほうがいいってのはオレも同感だぞ。オレだって、いつまでもちづると遊べるかどうかなんて分かんないんだし」
ぐっと喉が詰まる。言い返そうと思えばいくらでも言い返せたが、涙がにじんでしまいそうで何を言うこともできない。ムニがこんなに聞きたくないことばかり言うのは初めてだった。会えないこと、話ができないこと、もしかしたらそのうち、会えなくなるんじゃないかという不安。言葉にするのも怖かったことを、ムニは言い続ける。ひまわりが輝いている。宇宙はどこまでも青く沈んでいる。その二つの狭間で、頭の中いっぱいにハテナばかりが詰まっていく。
「私は! ムニだけが――」
ぐるんとひまわりが足元から頭上へめぐる。空が燦然とふさがり、足元には宇宙が沈んでいた。一瞬だけ、私はひまわりに吊られて足首を揺らした。
伏せた顔を少しだけ上げると、そこは教室だった。女の子たちが笑顔でそこにいた。帰ってきてしまったのだ。少し首をねじると、ほどけた髪が背中で動く。
「ごめんね、見ようと思ったら取れちゃって。でも、このかんざし、とってもかわいいね。神岡さんによく似合うよ」
かんざしを抜き取られただけだった。どうしてそれくらいでムニの姿が見えなくなってしまったのだろう。疲れているのだろうか。普段なら、これくらいじゃムニとの時間を邪魔されることなんてなかったのに。叩かれたり、大声を出されない限りは、私の世界は安全だったのに。
早くあそこに戻りたい。戻れるかどうかは分からない。でも、会えると信じて戻りたい。会ってさえいれば、話ができるのに。言葉がつながっていれば、なにも恐れることなんてないのに。焦りが全身を占めた。ざわざわと、肋骨の内側でスポンジが暴れている。私のすべてを吸い取ろうとしている。
その時、私は笑った。当たり障りのない、平均的で柔らかな笑顔だ。私はこの笑顔が得意だった。
「ううん、全然。すぐ直せるんだ、この髪型」
「難しそうだね」
「ねじって挿すだけだからすぐできるよ」
彼女たちの親切は伝わった。善意で、話題作りのためにあえてそうしてくれたのだ。幼かった自分と似ている行動だから、それはよく分かった。しかし、それをはねのけた男の子たちの気持ちも、今は分かる。――それどころではないのだ。私は目の前のことで頭がいっぱいで、よそからそんなものを差し出されても対応しきれない。だから男の子は水をかけ、私は笑う。私はさらに何やら話し始めている彼女らを遮って、いっそう感じの良い笑みを深めた。
「ごめんね。私、少し眠くて。後でまたお話しよう?」
彼女らは一瞬、妙な顔をした。それがどういう表情なのか考える暇もなく私は顔を伏せた。
願う。あの星へ。ひまわり畑へ。ムニのもとへ。
ぽんと放り出されて宇宙を漂う。奥歯をかんで真空をかき分けると、手繰り寄せるように小さな星に近づくことができた。失望が胸をよぎる。失敗したのだと思った。ふんわりと足を置く。見える色があまりに違った。黄色なんて一つもなかった。一面のひまわり畑はすべて消え、荒れた深い森になっている。私は足を踏みしめた。柔らかな足元は腐葉土のものだ。さっきもこの感触があったのを思い出し、私は唇を結ぶ。ここはさっきと同じ場所だ。そう信じる。きっとまだいるはずだ。そう時間も経っていないし、もう一度同じ場所に来ることさえできたのだから。信じていないと、折れてしまいそうだった。
声を出したら全てが駄目になってしまいそうで、私は黙々と木々の隙間を歩いていく。来た道を振り返ると自分の足跡はほとんどない。それくらい空気は軽いのに、この森には押さえつけてくるような威圧感があった。知らないうちに、胸が浅く小さい息を繰り返している。心臓が、軽く早く胸骨を叩いている。その音を聞いていると、貧血を起こしてしまいそうだった。
あたりを歩き回り枝を掻き分けた先に、ついさっき見た木立の風景があった。足跡はなくても、目が覚えている。二度目についた時と同じ場所に出てしまったのだ。私はそこを避け、また別方向を掻き分けていく。木の根を越えたとき、また同じ風景を見た。踵を返して別方向へ進もうとして、ふと我に返る。これでは前見た迷路と同じだ。迷子になりかけているのだ。意地にならずに、冷静に探したほうがいい。しかし、自分がどのあたりにいるのか、私にはもはや分からなくなっていた。どうしてこんな小さな星で迷子になりうるのか、今はそんな小さなことはどうでもいい。決死の願いでここまで戻ってきたのに、ムニとも会えず居場所も分からないでいるほうがよっぽど問題だ。私は千鳥足の胸を拳で叩き、深呼吸した。本当はずっと、胸の奥からしびれるような不安が湧き上がっていた。ここはさっきとは違う場所なのではないか、同じだとして、ムニが今もここにいる確証はない。喉を掠めて浅い息を吸う。
繰り返し同じ相手に会えることが奇跡のようなものだと忘れていた。毎日のように会えることを、当たり前だと思っていた。毎日の奇跡を当たり前のように受け取っておいて、会えなくなることを意識しようとしなかった。これっきり、一度限り、最初で最後。本当はいつもそれが当たり前なのに。
心臓がひときわ重く鳴った。
こんなに探したところで、ムニはもういないのかもしれない。あんな終わり方が、ムニとの別れだったのかもしれない。これきり、会えないのかもしれない。そうだとしたら、私は。
歯を食いしばって大きな木を避けた先に、古井戸があった。私は浅く息を吸う。そういえば、戻ってきてから一度も見かけていなかった。その木枠の陰に、ぽよっとした塊がのんびり寝そべっているのが見える。
「――……あれ……?」
思わず声が漏れる。それに気づいて、ムニが振り返った。
「あっ、ちづる? すごい、戻ってこれるのか! すごいな」
ムニがびょっと跳ねた。寝そべっていたあたりの地面には、小枝で書いたらしいたくさんの落書きが散らかっていた。のんきな落書きばかりだった。ムニに会うためにあれだけ必死になった私を、馬鹿にしたかのような。
私はいまだ跳ねている心臓を胸の上から押さえた。息が弾んでいる。酸欠でめまいがした。
「お前が帰っちゃってから、ひまわり全部枯れちゃってさ。あれはちづるの花だったんだな。綺麗だったのに、残念だよなぁ」
気楽なものだ、と思う。自分の意志で戻ったんじゃない。ここから無理やり引きずり出されたんだ。
「……ふざけないでよ」
弾んだ息と一緒に、震える言葉が落ちる。ムニがきゅっとこちらを見た。
怪訝そうな眼が私を見ている。心臓が強く音を立てている。私は息を吐いている。息を吸っている。瞬きをしている。私の目がムニを見ている。そのどれもが、普段の何倍も速くて、普段の何倍も、私の中に染み込んでくる。
「いなくなっても平気な相手に、よくそんなに笑えるね。どうしてそんなにのんきでいられるわけ?」
ムニが戸惑ったように何度も目をきょろきょろさせている。そうして、私を見ている。困っている。私はいつもムニを困らせてばかりだ。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
そんなこと、知るか。ムニが困っているのはムニの問題だ。私の知ったことじゃない。
「ムニは友達じゃない。壊れるって分かっててあんな場所に押し込む人なんか、友達じゃない」
ムニは何も言わない。目の置き所が私に定まってくる。きょとんとした目は、こういうときばかりは表情に乏しくて、何を考えているかは分からない。知りたいとも思わなかった。教室はいつも大事なものを壊す。ムニと引きはがす。そこに行けという、誰も彼もが私には理解できない。
「私は一度もムニの中身なんて見てないのに。一つしか目がないくせに、当たり前に友達みたいな顔しやがって。その目で私の何が見えてるっていうんだよ!」
返答はない。私がムニの気持ちを考える気がないように、ムニも私の言ってることなんて気にならないのだろう。内臓が全部心臓に向かって蒸発していくような気がした。それは、耐え難いほどの苦痛を伴って胸を焼いた。
「くそったれだ、全部!」
言った途端、背筋から水を被ったように冷たさが襲った。背筋を、喉を凍らせるほどの冷気。奥歯を噛んで堪えようとする。私は背後の古井戸の枠を掴んで飛び降りる。足も手も縮めて落ちていく。入り口から、何かを言うムニの声がする。聞かない、聞かない、聞くもんか。
全身に衝撃があって、叩かれたような感触が皮膚を襲った。息苦しさがあって、やっと柔らかい冷たさを感じる。砂の冷たさ。砂に運ばれて、私は何も見えない闇に潜っていく。二度と目覚めなくていいと思った。何も聞こえない。何も見えない。何も感じない。そういう中でなら、目を覚ましてもいい。目を開いている限りそれが不可能だと言うならば、もう二度と、私を起こさないで。さようなら、さようなら、私はもう神岡千鶴ではありません。だから、どうかもう誰も声をかけないで。
身投げマンちづる




