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星の砂・1

 私はわざとらしく耳をふさいだままでいる。顔なじみの吉河先生がす勤勉に生活指導にかかった。

「神岡ァ、人の話を聞くときは、お前……」

 この人、何度ここに来たら気が済むんだろう。毎日二度は保健室を訪ねてきては、飽きるほど同じ言葉を繰り返していた。

「嫌ですよ。教室なんて行ってもいいこと何もないです。今朝もそう言ったじゃないですか」

 先生は必死で私を説き伏せにかかっている。目がくるくる動いていた。脳みそフル回転なのだろう。

「卒業式までに、ちょっとでもクラスに慣れといたほうがいいぞ。どうせ呼名の時には中に入ってやり過ごさなきゃいけないんだから」

「当日だけは我慢します。それでいいじゃないですか」

 私は吉河先生の前にリュックを押し出して背を向けた。背後で先生が困っているのは分かったが、承諾できるわけがない。卒業式にかこつけて、保健室登校の生徒を「更生」させようとかいう話だろう。どうあっても承諾なんかしてやるもんか。しかし、時を変え人を変え繰り返し説得され、挙句の果てには保健の先生からも背中を押されて、近頃はここにも居場所がない。

 吉河先生はさらに私を説き伏せにかかる。

「そんなこと言ったって、高校でも八割同じメンバーなんだぞ。持ち上がりなんだから」

 私は耳をふさいだまま全身で否定の意志を表現した。呆れたように見ている境井に無言で助けを求めたが、そっぽを向かれてしまった。境井の人でなしめ。

「ちょっと顔だけ見せたらすぐ帰ってくればいいじゃない。せっかく高校に行けるのに、ずっとここに居残り続けてもしょうがないでしょ」

 保健の先生にすらそんなことを言われ、私にはもう逃げ場がない。

「いいの? 境井だって行くようにしてるのに」

「あーもう!」

 私は勢いよく振り返る。境井を引き合いに出されてなお黙っていられるほど、素直な性格はしていない。私は先生を見上げた。

「分かりましたよ。行きゃいいんでしょう。昼休みからあとは教室に行きます。それでいいですか」

 半ばヤケになって言うと、吉河先生は安心した顔をのぞかせた。教室で役立つありがたいお言葉をいくつも私に言い聞かせて保健室を出ていく。

私は膝の上にリュックを引き寄せて抱きしめた。お腹が圧迫されて重い息が出てくる。

「一度行ってみたら案外大丈夫かもよ? 神岡さんが苦手って言ってた子たちとはもうクラスも離れてるわけだし。ほら、いつも遊びに来てくれる子たち。神岡さんの名前にちなんで千羽鶴作るって冗談まで言って仲良くしたがってるんだから」

 保健の先生は笑うが、私の気は晴れない。冗談を言うくらいだ、本気で仲良くしたいなんて思ってない。リュックを抱きしめたまま、長椅子に身を投げ出す。ぐらっと頭の中に詰まった水が揺れた気がした。視界がうっすらとにごる。脳みそいっぱいの水から行きたくない味がした。

 白い隠れ家から締め出されて、ざわついた廊下に放り出される。生徒玄関の横を通り、足を引きずって階段を上る。一段上るごとに気圧が二乗されていくようだ。重たい、座りたい、疲れた、行きたくない……。膨れ上がるだるさには知らないふりを決め込んで、平然と足を運ぶ。教室のある階までたどり着いた。自分の教室を探してまごついていると、数人の女の子たちが私に気付いて近寄ってくる。

「あ、神岡さんだ! 来たんだね。教室こっちだよ」

 例の千羽鶴の子たちだろう。私と同じクラスらしいこの子たちが来た時は先生が交流を図るのだが、私はそのたびに何かと理由をつけて逃げ回ってきた。関わる意味が分からない。彼女らと私は接点のない間柄なのだ。

 私は笑顔を浮かべてお礼を言う。女の子たちはご機嫌だった。得意げに教室に連れ込み、廊下側一番後ろの席に手を引いていく。掌の、触れ合っている皮膚がうずいた。

「何かあったらいつでも言ってね。私の席ここだから」

 中の一人がそういって私の前の席を示す。ここから見るだけでも、きちんと整理された机の中が印象的だった。

「ありがとう。次の時間、頑張るね」

 笑ってみせると、彼女らは嬉しそうにそれぞれの席へ散っていく。今のところまだ失敗はしていないようだ。

教室の中はざっと三十個の机が並んでいる。男子も女子もいた。

チャイムの音とともに先生が教室に入ってくる。みんなが静まる。全員、背中一面で私の存在を意識している。それが分かった。サバンナの草食動物みたいだ。とすると、みんなには私がライオンかハイエナみたいに見えるのだろう。しかし、ライオンは縄張りにたくさんの草食動物がいたって気が滅入ったりはしないはずだ。

 はーい、ライオンは静かに寝ていますからね。その間にちゃんと逃げておくんだよ。起こしたりしたら、食べちゃうかもしれないぞ。がおー。

 私はじっと座ったまま机の木目を眺めた。木目が色あせて青い色をにじませる。その青が凝って喜び始める。空には銀河が広がっていた。静謐な軽い空気が満ちている。青が集まった光と、黒を広げた星が交互にきらめいている。仰いだ首を戻すと、一面のひまわり畑だった。妙な錯覚を感じる。この一面のひまわり畑の明るさを、前にテレビで見たことがある気がする。例えば、宇宙から撮影した地球にそっくりだ。地球の表面いっぱいに巨大なひまわりを咲かせたら、こんな風景になるかもしれない。だけど私は人工衛星と違って地面にちゃんと立っているし、ここも地球ではない。真上よりも少し後ろのほうに、小さな小さな、ここからじゃトンボ玉にしか見えない地球があるから確かだ。

胸のあたりまでの高さのひまわりが私を見ている。そろそろと足を動かしてみて気づいた。一面ひまわり畑のこの星は、とても小さいのだ。『星の王子様』みたいだ。一本のバラの代わりにたくさんのひまわり。火山はないけど、それくらい小さいんじゃなかろうか。そのぶん、空気も軽くて、ちょっとつま先に力を込めるだけでふわふわ飛び立ってしまう。身がとても軽くなったようだ。気を抜けば地面から浮いてしまいそうなこの軽さが楽しく、嬉しかった。

私は時おり飛び跳ねながらひまわりをかき分け、畑の中を探索した。腐葉土の地面は柔らかい。でも、私は今ほとんど体重がないから、足がめり込むこともない。

一回り歩いてみて、ここには小さな古井戸がひとつと、あとはひまわりしかないことが分かった。古井戸はひまわりから遠巻きにされて開けたところにひっそりとたたずんでいる。おじいちゃんの裏山から探し出してきた古物みたいに「今」の匂いがしなかった。木枠と柱に手をついて中を覗き込むと、遠くのほうから砂を板に流すような音が聞こえた。途切れることのないそれは、ゆったりと永遠に流れ続けていくように思われた。

この星の核は砂なのだと思った。流れ行く砂がひまわりを育てている。私は上体を上げると、ひまわり畑にもう一度突っ込んだ。ひまわりが私を見ているから、日差しがいっぱいだった。ふと振り返る。背後から音がした。私が歩くとその足音もついてくる。私が止まると足元も止まる。ついてきてはいるものの、追いつくつもりはないのかもしれない。私は安心してひまわりの明るさを喜んだ。

――と、その足音が急に近づき始めた。何かが目の前に回り込み、背の高い花を揺らす。思わず踵を引いたとき、ひまわりの群れが割れた。

「無視しなくてもいいだろ!」

 涙声のムニが飛び出してきて、私めがけて跳ね上がるぼよんと衝突するのはおなじみのことだ。受け止めきれずに後ろに倒れこむと、根の強いひまわりが私たちを受け止めてくれた。

「やっと会えたのに無視はひどいよぉ。オレ、何度も呼びかけたのに」

 ぐすぐすと鼻をすすっている。私は餅みたいな体をぎゅうっと抱きしめた。

「ほら、無視されたからこんなに胸が苦し……ちづる、腕ゆるめて……息できな……」

 喜び余って強く抱きしめすぎてしまった。いつぶりだろう。顔を見たのさえ、もうずいぶん久しぶりな気がする。話ができたのはもっと久しぶりだ。私は身を離すと、かわりに向かって右側のハンドルをなでる。

「ごめんね、聞こえなかったんだよ。私も久しぶりに会えて嬉しい」

 ムニがうるうるした目で見てくる。もしムニの見た目が小動物に似ていれば、犬か猫みたいでかわいかったかもしれない。私はムニを抱き上げて古井戸の近くまで運んでくる。出会ったときは同じような背丈だったが、今やムニは私のへそくらいしかない。私が大きくなったのだ。ひまわりの隙間に腰を下ろして向かい合うと、ムニが嬉しそうに飛び上がった。

「なにする? しりとり?」

「しりとりはいいや。おしゃべりしよう」

 言うと、ぽよぽよ跳ね回っていた体がすっと地面に沈む。しりとりしたかったんだなぁ。でも、私だっておしゃべりしたい。ムニとする話は、ほかの誰とする話より楽しい。私は苦笑して、ムニに聞く。

「最近何かいいことはあった?」

「田んぼ」

「……うん?」

 私は瞬く。農業でも始めたんだろうか。

「それが最近のいいこと?」

「時計」

「…………」

 私はムニの目をじっと見つめる。ムニの目は揺らがない。逆に私が吸い込まれそうだ。

「しりとりはいいから、」

「ラクダ」

「だからさ、」

「さなぎ」

「聞いてる?」

「聞いてない!」

 私は深く息を吐いた。そこまでしりとりしたいなら、押し通せばよかったのに。と、思うけど、たぶん、ムニがそう主張したところで私は聞き入れず話を始めていただろう。お互い頑固な部分はどうにもならない。

「分かったよ。しりとりしよう。そのかわり、飽きたらおしゃべりしよう」

「牛ー!」

 返事みたいに言葉をつなげなくても。よっぽどしりとりしたかったんだなぁ。しりとりなら一人でもできるのに。最近なんとなく分かるようになったのだ。一人でできることと、相手がいないとできないこと。

あまり認めたくはないが、それを知ったのは境井の存在が大きい。ムニと会える機会が減ったかわりに、ほんの暇つぶしに、境井と話をすることが増えたから。だからムニといるときは、相手がいないとできないことがしたい。ムニは言うまでもなく大事な大事な友達ってやつだと思うけど、境井も友達にカウントしても良いものか。こういうふうに考えていくと、私は案外友達が少ないらしい。境井を含めるとしても、二人? その数ではまずい気もする。だけど、ムニさえいれば、ほかの友達はいてもいなくても関係ない。つまり、境井はどっちでもいい奴ということだ。私は数にこだわるつもりはない。

 さんざんしりとりが続いて、語尾も同じ文字が繰り返されるようになってきた。ムニは体をねじって考え込んでいるが、「る」はもう出てこない。

「る、るー……るーるるるー……」

 うめき声で狐を呼んでもきっと出てこないだろう。それだけ長い間言葉をつなげてきた。地面でのたうち回るムニを見かねて、声をかける。

「かわりに答えていい?」

「まだある?」

 ねじった体から一つ目で見上げてくる。地面に刺さった手すりが苦悩の跡を残していた。私は小さく笑う。

「じゃ、いくよ。類人猿」

 ムニがきょとんと眼を開く。そして、古井戸にガスガス体当たりしながら駄々をこねた。

「今のなしだよぉ。やっぱりちゃんとオレが答える!」

「まだ結構あるよ。涙腺、ルパン、留守電。ええとね、あとは……」

「うるさいぞ、ちづる! まだきっとあるはず……」

 ムニはうめいて地面に倒れこんだきり、しばらく動かなかった。

「――そろそろおしゃべりしない?」

 私が声を潜めて聞くと、ムニは地面に顔を突っ込んだまま小さくうなずいた。

ねむい

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