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ミラーハウス

 ジャングルジムの上から庭を見渡すと、砂場で遊ぶお友達がやけに小さく見えた。地面に映った影の切れ目を行ったり来たり、蝶々みたいに忙しない。日に焼かれた砂がずいぶん暑そうに見えた。

私は二つあるジャングルジムのうち、楠のそばにあるほうで足をぶらぶらさせていた。日向にあるほうよりも涼しく、そして何より、誰も来ない。やんちゃな男の子もてっぺんまでは上れない。それに時々、毛虫も落ちてくるらしい。それが嫌で、誰も木陰のジャングルジムには寄り付かない。みんなは怖がりだ。それが嬉しかった。私はその怖がりがあるおかげで、気ままなお外遊びができるのだった。

庭の向こう側で、誰かが逆上がりに失敗して鉄棒から落ちた。泣き出した声が風に柔らかく揉まれて吹きつけてくる。揺らいで、折り込まれて、引き伸ばされた声がラッパの音になる。庭を走るたどたどしい靴音がラッパの隙間に収まり、鉄棒が縦に伸びて縞模様を作った。砂場に木の葉が落ちてコーヒーカップになり、色がついて膨れ上がる。隣にあった砂の山が、地中から突き出た柱に持ち上げられる。淡く光るユニコーンが雨宿りを乞うようにその屋根の下に駆け込んでくる、その角が真上に伸びて屋根に突き刺さったとたん、動きを止めた。つるりと背中を光らせながら、上下にふわふわ揺られ、輪になって回り始めた。ブランコの軋む音が音階を歌い、オルゴールの音になる。楠の香りがする。鼻腔に淀んでキャラメルの匂いになった。

私はいつの間にか噴水のふちに座っていた。たくさんの音楽と色が混じり合い、心臓を小気味よく叩く。白くざらついたふちを蹴って地面に飛び降りると、シャボン玉が後ろ頭をくすぐった。身をよじってくるりと回る。かすかな風にシャボン玉が揺らぐ。私はだんだんと浮かれてきた。駆け出すと、遠くのアドバルーンが観覧車の隙間からにゅっと顔を出した。

お姫様が描かれたミラーハウスが見えた。私はひとつ宙返りをすると、黒い頭巾と黒いマントに早着替えして、ミラーハウスの中に飛び込んだ。中は薄暗い。つかのま踏みとどまったが、私が踏み込んだとたんふんわりと足元から明るくなった。ところどころにぬいぐるみが落ちているのが見える。トカゲに、カボチャに、ドブネズミに。

私は駆け出した。鏡に映った何十人もの私もそれぞれの方向に駆け出していく。全員が笑っていた。ここでの私は生まれつきの黒髪でも、お母さんが好きだと言う「優しい垂れ目」でもなくて、外国人みたいな明るい栗毛のショートカットで、ぱっちりしたどんぐり眼だった。活発な足がマントの下で動いている。

「私は魔法使いのおばあさん!」

 声に反応したように足元のライトが色を強める。私は右に曲がった。不思議なことに、鏡に映った自分と一度もぶつからずに迷路を駆け抜けていくことができた。

 不意に、左の足元にぬいぐるみがあるのが目に留まった。私は足を止める。左に見える、ということは右だ! 振り向くと、くてんと首を垂らしたハツカネズミが宙を眺めていた。

「あなたは馬。お姫様を乗せる車を引くの」

 ぱっと指をさすと、ぬいぐるみは音を立てて白い馬になった。私は嬉しくなってさらに走る。正面にはさっきよりも大きなぬいぐるみがある。私は踵でくるりと回ると、後ろで寝ていたドブネズミを指差した。

「あなたは御者。しっかり頑張ってね」

 御者が帽子を取ってお辞儀を済ます前に、私はその左を駆け抜けていった。目指す先にはトカゲがじっとしている。

「あなたは召使い。お姫様にはやっぱりお付きの人がいないと」

 笑みをこぼして身をひるがえす。次はかぼちゃだ。どこにあるのだろう。あれがないと何も始まらないのだ。さっきから探しているのに、鏡に映った影ばかりで本物が見当たらない。

ちらりと視界の隅にオレンジ色が流れ込んできた。反射的にそれを追いかける。

私は魔女のおばあさん。灰色のお姫様をドレス姿に変えてあげるまでは、このミラーハウスからは出られない。

「あなたは――……」

角を曲がったらつま先にかぼちゃが転がっていた。

「あっ?」

 走ってきた勢いを止めきれず、前のめりに上体が折れた。ぎゅっと目を閉じた一瞬、ひらめくように声が飛んできた。

「お前は、オレだ!」

 勢い余って宙返りの格好になる。すとんと落ちてから、全身のどこにも痛みがないのを不思議に思った。いったい今のは、なんだったのだろう。ぽかんと正面を見ると、鏡の中にいたのはショートカットの女の子ではなく、変な格好のものだった。

 色は分からない。黒にもグレーにも、緑にも茶色にも見えた。そもそも生物なのだろうか。ぽよっとした丸っこい塊が、重力に従って床に柔らかそうにつぶれている。その上半分の中央に、大きなとぼけた目が一つ。鼻も口も眉毛もない。目のある高さの、向かって右面あたりには、手すりかくちばしのような形のものが一本、にゅうっと突き出ていた。

「うわっ、なにこれ!」

 叫ぶと元の姿に戻る。黒ずくめの格好に、栗毛のどんぐり眼。ほっとしたのもつかの間、先ほどの変なものが背後に控えているのに気付いて、私はぎょっと飛びのいた。

「…………」

 ドキドキしながら息を詰めていると、その変な生き(ているらしい)物はにゅっと身を伸ばして叫んだ。

「お前はオレだ!」

 ポンッと音がして、鏡に映る生物が倍の数に増える。二匹の変な生物。私と、そいつ。

「それ、さっきも言ったやつ……」

 どうやら言葉を発すると呪いは解けるらしい。半数がするすると私の姿に戻っていく。変な生物はぽよぽよと沈んで見せた。

「もちろん。二回言ったからな」

 内心びくびくしながら頷くと、変な生物のたった一つの目が私のほうに向いた。

「やーっと見っけた。さっきから楽しそうな声が聞こえるんで、混ぜてもらえないかと思って探してたんだよ」

 変な生物は大きな目をきょろきょろさせた。

「あれ、ひとり? 友達いないんだな!」

「うん。君も一人?」

 変な生物は楽しげに身をよじって笑い声をあげた。

「お前といるから二人だよ。な、一緒に遊ぼうよ」

 私はちょっとだけ不安になってきた。怪しい人とは一緒に遊んじゃいけないって、お母さんからも言われている。

「君の名前は?」

 答えてくれなかったらきっと怪しい奴のはずだから遊ばないことにしよう。そう思っていたのとは反対に、変な生き物は困った風もなく教えてくれた。

「ムニって呼んでよ」

 ずいぶん変な名前だ。見た目ほどではないけど。私はしゃがみこんで、床にたまったたるみをつまんだ。うひゃあ、くすぐったいとムニが笑いまじりに悲鳴を上げる。

「ムニムニしてるから?」

「ひゃははは、くすぐったい、放せよ、あはは」

 床の上を跳ねて笑い転げる。つつくと余計にぽんぽん動くのが面白かった。

「はは、もうやめやめ、くすぐったいって、あは、やめ……やめろって言ってんだろー!」

 いきなりびよんと跳ね上がった。私の心臓も飛び上がって、肩が震える。ムニはぷんぷんしながら頭の横のくちばしで私を押した。上からムニの頭らしきところを見ているだけでも面白いのに、鏡に映った無数の私たちも妙な取っ組み合いをしていて笑ってしまう。

「名乗りもしないでいつまでもくすぐりやがって、この、このっ」

 ぐいぐいやりながら、ムニもだんだん笑いが堪えきれなくなっているようだった。

「私はちづる。ね、もうすぐ戻らなくちゃいけないから、また今度遊ぼう?」

 ムニは身を離して、ちょっとの間黙っていた。私も口をつぐんだ。こんな風に遊べるのは一度限りだ。似たような場所で遊ぶこともできるし、似たような生物とも遊ぶことはできるかもしれない。だけど、同じ相手に会うことはできない。会えたためしがない。だから、一度きりをめいっぱい楽しむことにしている。

「また会おうね」

 それでも私が笑うから、ムニも頷いた。

「うん。またな、ちづる。今度は友達として遊ぶんだ。約束だからな、ちづる……――」

 ムニの声の輪郭がぼやけて、溶けて、混ざって、重なる。何度も声が続いた。

 ちづる、ちづる。ちづるちゃん。――ちづるちゃん。

「千鶴ちゃん!」

 突然大きな声で呼ばれて、私はびくりと瞬いた。

「また一人でぼーっとしてたの? お外遊びはもうおしまいだよ。みんなもう中に入ってるんだから」

 木の下から先生がこちらを見上げていた。私はジャングルジムの上に座っていた。私は小さくため息をつきながら地面に降りる。本当はもう少しだけでいいからムニと遊んでいたかった。どうせ一度きりしか遊べないのだから、好きなだけ遊びたいと思うのだ。そんなことお構いなしに、みんなは邪魔ばかりする。先生も、お友達も。

 私は先生に手を引かれて暑い日差しの中に出ながら、もう一度小さくため息をついて額に触った。そこには両目のほかに、もうひとつ目がある。触っただけでは分からないが、鏡を見ると確かにあるのだ。でも、みんなにはそれも分かってもらえない。みんなにもきっとあるだろうに、一生懸命説明しようとすると、寄ってたかって目をつぶしにかかった。なんにもないよ、と意固地に怒鳴る声が怖くて、いつしか私はこの目を隠すようになった。どうせ私にしか見えないらしいのだ。黙っていれば引っかかれることもなかった。

 誰にも本当のことは話さないし、どんな人にも秘密。そうしていれば、私は自由だった。



直しを入れたので、読みやすくなっているといいなあ。

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