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さいわい

 天の川。さらさらと星が流れる。

 川の水を両手で掬い顔を洗う。冷たい。冷たさが心地いい。もう一度天の川を救い上げ、今度は星ごと私の手の中。すると、小さな星のかけらはぱちんとはじけて空へと飛んでいく。

 桃太郎さんは一つ前の駅で降りた。ドラキュラさんもここで降りる。

 きっと私の旅もそろそろ終わるのだ。終点に着いて。ホントの『さいわい』に着いて。

「二人になってしまいましたね」

 私はおじいさんに言った。おじいさんと並んで座る。私は川面をじっと見つめる。

「本当に終点までいくのですか?」

 おじいさんも川から星を救って空に放つ。

「ええ、ホントにそのつもりです」

 私も負けじと星を放つ。

「つらいですよ、きっと。思っている以上に、ずっと」

「つらいのには慣れています。どっちにしてもつらいなら私は前に進みたい、そう思ったんです」

 私の放った星とおじいさんの放った星がこつんとぶつかった。ちかちか光ってそのままどこかへ消えた。

「思うんですよ、わたし。あなたはまだ十分すぎるほど若い。まだそんな風に気張って前を向かなくたっていいじゃないですか。下を向いたって、上を向いたって、時には後ろを向いたって、わたしはそれでいいと思うんですよ」

「それこそ、今までずっと私は下しか見てませんでしたよ」掬った星をぱしゃりと川に投げ返す。「いや、違いますね。そうじゃないかもしれません。私は、そう、いままで何も見てなかったんです。前も後ろも右も左も。私は何も見ずにただ目をつぶっていたんです。私はこの旅で初めて目を開いたんです。生まれたての赤ん坊と同じです。今日、私はまた新しく生まれたんです、ここに」

 冷たい川に足を浸していたせいですっかり身体は冷えてしまった。私は足を川から引き上げそっと摩った。

 もうすっかりなじんだ汽笛が鳴り響き発車の準備ができたことを知らせる。私をさいわいまで運んでくれる銀河鉄道。

 私はホントに幸せになりたいのだろうか。立ち上がって少し考える。

 いや、きっと違う。

 これ以上、不幸せになりたくないんだ。

 他人が不幸になれば相対的に私は幸せになる。私が不幸になればみんなが幸せになる。もう私はこれ以上他人を幸せにしたくはない。だから私はホントのさいわいが欲しい。

 私はそんな女。




「ケンタウル露をふらせ」

 広がる銀河を眺め私は呟いた。意味もない言葉を意味なく呟くのは得意。むしろ意味のある言葉を呟くことなど人生に何回あるのだろう。

「おじいさん」

「はい」

「私、飛行機が嫌いです」

「わたしもですよ」

「何であんなものを人間はわざわざ作ったんでしょうか」

「太陽に、月に、星に、空に、近付きたかったんですよ。みんな」おじいさんは髭をそっとなでる。「本当にそこに、それらがあるのか、確かめたかったんですよ。今のわたしたちと同じように、ね」

 窓の外に広がる名前のない星々。明るく光る星、鈍く光る星、光らない星。どれも確かにそこにある。

 そうか、私はこれを確かめたかったんだ。ホントは。

「わたしも飛行機は大嫌いです。でも、人々が空を飛ぶことを求めてきた理由は、うん、わかりますよ。本当はみんなが、生きているうちに銀河鉄道に乗れたらいいんですけどね」

 おじいさんの息がそっと揺れた。私はそれに気づかないふり。窓ガラスを人差し指で星座の形になぞる

「やっぱり普通は乗れないものなんですね、コレ」

「はい。あなたは幸せです」

 断言するおじいさんに、私は思わず笑ってしまった。

「私は不幸せだったから、今これに乗ってるんですよ」

 私の言葉におじいさんは頭を振る。

「いいえ、あなたは幸せです。自分の意思でこれに乗ったんです。そして望めばまた元の場所に帰れるんです。わたしと違って」

「帰る気は、もう、ありませんよ」

 今度は私の声が震える。私は口の中に急速に広がる苦みを必死に呑み込み、自分の身体を抱きしめる。

 おじいさんは、それに気づかないふりをしてくれる。そして「知っていますか?」と私の目の奥を覗いた。

「飛行機事故ってのはね、落ちるとき本当に一瞬なんですよ。わたし、死ぬのは苦しくなかった。ただ死ぬまでが長い。機体の異変に気が付いてから、ああ、もう死ぬんだって覚悟するまでがつらかっただけで、そんなに苦しい死に方じゃなかったんです。気付いたらこっちの世界の住人になっていましたし、わたしはそういう意味では幸せでした。もう十何年も前の話です」

 乾いた涙を混ぜた声が車内に響いた。

「たったひとつの不幸は、残して逝く妻と娘と三歳にもなっていなかったあなたのことを思いながら死なねばならなかったことです。そうやって死んでこの鉄道に乗ったんです。カンパネルラですね、わたしは」

「私はジョバンニ?」

「だったらどんなにいいでしょうか」

 きゅん、と喉の奥が鳴って声が出なくなった。

 スカートの裾をつまんだまま私は正面をじっと見た。黙って。そのまま。

「名前のない星も、光ってない星も、星は例えどんな風に人が言っても星でしょう? わたしたちが発見できる星だけが星ですか? 星座なんて、勝手に誰かが名付けただけのものです。もしあなたに名前がないのだとしたら、それはあなたのせいではない。あなたという星が、その人たちよりも遠く先で光っている、ただそれだけのことなのですから」

 とん、と言う。

「あなたは、間違いなく、あなただ」

 途端、世界が音を立てて瓦解した。色彩のない世界に、色を付けたのは言葉だった。

 アナウンスが流れる。駅長さんの声が次の駅名を告げる。サウザンクロス。ジョバンニとカンパネルらが最後に止まった駅。

「おじいさん」

「なんでしょう」

「おじいちゃんって呼んでもいいですか」

 ジョークではない。

 おじいさんはサンタクロースみたいに大きく笑った。

「ええ、その方がわたしもうれしいです」

 笑顔返品主義。

「おじいちゃんはどう思いますか」

「何をです」

「私が、もう、帰らないって言ったこと」

 返ってくる言葉が分かっていても訊く。聞きたくないことを私から訊く。こういうところが私自身の嫌いな私のダメな部分。

 だからそんな分かり切った返事をおじいちゃんは笑いで示す。

「わたしはね。もう十と何年か、ずっとこっちにいるんだ。その前にはそっちにも六十年弱ね。わかってるつもりだよ、君の気持ちも。よく分かる。だから言うんだ」

 おじいちゃんは私の目をじっと、私の目の奥をぐっと覗いた。心の中まですっかり見透かされたような気がした。怖くなって、震えた。涙があふれた。ぽろぽろ零れた。私の奥から声が漏れだした。

 私は耳を塞いだ。聞かないふり。聞きたくない。

 何を言うのか分かってる。おじいちゃんが何を言いたいのか分かってる。だから耳を塞いだって意味がない。分かっている。聞こえる。耳を塞いでいたってどうせ聞こえる。大人の正論。ホント。私は耳を塞いで縮こまる、ただの子供。

 嫌だ、嫌だ。馬鹿になったみたいに私は首を振り続ける。

 と、

 あたたかさが私を大きく包んだ。

 優しさに私の両目はゆっくり開かれた。眩しい光の先でおじいちゃんが私の身体をぎゅっと抱きしめていた。

「どっちでもいいんです。わたしは自分の孫を信じるくらいできる老人です。わたしはあなたを信じている。あなたの信じるほうを選びなさい」

 初めての感覚。うさを抱きしめた時とは違う。ああ、これが優しさだと分かった。

 おじいちゃん。顔も覚えていない、私のおじいちゃん。私に見事にトラウマを一つ植え込んでくれたおじいちゃん。私は精いっぱいの優しさを返す。おじいちゃんの大きい背中にギュッと力を込めた私の小さな手を回す。

 私は声を上げて泣いた。

「ねえ、悲しいの?」空気を読まず私の後ろでうさが鳴く。

 悲しさの涙ではない。

「じゃあ、うれしいの?」

 うれしさの涙でもない。

 今まで溜まっていた私のキタナイすべてを洗い流してくれる、そのための涙。

 涙の元は岩絵の具。そして私は日本画家。悲しさを、苦しさを、愛しさを、練って練って、練り込んだその分だけ涙は深く青く色味を増す。だから今までは流さなかった。流せなかった。溜める。溜め込む。それこそ馬鹿みたいに押さえ込んで違うところから何かに変わって飛び出しそうになっていた。全然、青くないから。そう思い込んで練っていた。私の中に眠っていた青色。

 ホント、ホント、ホントが溢れる。私の中にずっとあったホントが。見ないフリをしていたホントが。




「私は幸せになりたい」




 私の後ろにいるはずのうさは私には見えないけど笑ったような気がした。

「ひとりぼっちでもいいの?」

 うん、いい。

 おじいちゃんの腕の中で私は答える。

「わたしはもうあなたと一緒にはいられないよ」

 それでも、いい。

「ホント?」

 ホント。

 私の世界にもうウソはいらないから。私はホントを言う。

 ねえ、うさ。

「なあに?」

 好きな人、いる?

「あなた」

 ウソつき。

「ウソじゃないよ」

 あなたは私だもん。

「わたしはあなただからもうウソは言わないよ。そうでしょ」

 ……そっか。

「そうよ」

 私も、うさのこと好き。

「ありがと」

 大好き。

「うん」

 でも、もう会わない。

「うん」

 いままでありがと。

「どういたしまして」

 さよなら。

「うん。じゃあね」

 ホントのさいわいは私の真上に。

「ハルレヤ」

 ハルレヤ。

 呟いた。

 呟いたっきりうさの声は、もう、聞こえなくなった。

「見てごらん」おじいちゃんが私の身体を起こし窓の外を指し示す。「あれが石炭袋だよ。空の孔だ」

 星々の光その先にぽっかりと浮かぶ暗い闇があった。ジョバンニが恐れた闇だ。私の両目がじっとその闇を捉える。

 今までの私にとって、空はすべてがその石炭の袋で覆われていたようなものだった。でも今からは違う。私にはもう分かっている。空には石炭袋があっても光もちゃんとあるということが。

 怖くない。私はジョバンニじゃない。私は、私だ。

「  」

 おじいさんが私の名前を呼んだ。懐かしい感じが体中を包んだ。

 私はただ、はい、と返事をする。

「わたしはあなたのためならばあのサソリのように体を炎で焼かれてもかまいません。『みんな』のためではありません。あなただけのためです。わたしはこれからもあなたの進むべき道を照らします。それしか出来ません。わたしは『悪い虫』でも『良い爺』でもありませんから」

 ぼう、と銀河鉄道が大きな泣き声を放った。その声は私の心を大きく揺さぶった。

「  」

 もう一度おじいちゃんが私の名前を呼んだ。

「そろそろですね」

 そろそろですか。

「ええ、」

 おじいちゃんはにっこり私だけに笑いかけてくれた。

 私も笑顔には笑顔で返す。

 ちゃんとうまく笑えたかは分からないけれど。

 おじいちゃん。

「はい」

 私、私は私だけのホントのさいわいを探します。

「ええ」

 ジョバンニにはなれませんから。

「いいんですよ」

 私は私だけで幸せになります。どこまでもどこまでも私は一人で進んでいきます。今度は二つの足で。どこまでも。

「わたしはあなたを信じます」

 言っておじいちゃんがこくり頷いた。

「  」

 私はおじいちゃんの手を掴もうと手を伸ばした。

 けど掴むことはできなかった。

 おじいちゃんの座っていた席にはもう誰もいなかった。

 私は二つの足で鉄砲玉のように立ち上がった。窓を開け、身体を乗り出し、誰にも聞こえないように大きな声で咽喉が引きちぎれるくらいに叫んだ。

 散らばる星の美しさが胸を打った。

 辺りがいっぺんに明るくなったようなそんな気がした。


 ※※※


 私は眼を開いた。胸はなんだかおかしく火照って、頬が涙で濡れていた。

 駅のホームに私は制服姿のまま、やっぱり一人で立っていた。

 ああ、そうだ。思い出す。

 銀河鉄道に乗る前の私に瞬間で戻る。

 カバンから無機質な鏡をそっと取り出す。

 鏡の中では可愛げのない私が涙で顔をくしゃくしゃにしていた。私はそれを見て笑った。

「うさ」つぶやく。

 返事はない。期待もしていない。

「可愛いかな、私って」

 返事はない。

 所詮は独り言。

 私は空を見た。相変わらずの空。黒い黒いお空。

 ヘラクレスもサソリもおじいちゃんもここからじゃやっぱり見えなかった。

「でも、あるんだよね」

 見えなくても、私はそこに、それがあることを知っている。

 今までの私じゃ、ない。強く、自分に言い聞かせるように、頷いた。

 ぎゅっと空を睨むと、涙で滲む視界に満月がぼやりと映った。

「あ、」

 声が出た。

 今まで見もしなかった月にあなたはいた。

「うさ」

 返事はない。期待もしていない。

 あなたはそこで楽しそうに跳んでいた。あなたは一人で、私を置いて楽しそうに跳んでいた。

 私もそこに行ったんだよ。つい数時間前の話。

 私はぴょんとウサギのようにその場で跳んだ。

 楽しい。

 もう一度跳ぶ。空を見上げながら私は跳ぶ。

 怒るかな? 私は考える。

「一人でもいいって言ったのに、こんなすぐに弱音を吐いたら、やっぱりうさは怒るかな?」

 怒らないよ。

 うさの声が聞こえた。きっと気のせい。姿は見えない。もう見えない。

 私はぎゅっと自分の身体を抱きしめる。私は私を確かめる。私は私を信じる。

 相変わらず真っ白な世界と真黒な空。その中に私が一人。

 このカンバスに星々は描かれていない。描かれていない、そこにある、確かなホント。

「あ、」

 私の目から青が流れた。それを人差し指で拭って気づく。私は気づく。

 そうだ私がこの油絵を完成させればいい。私が星を描き足せばいい。私はペインター。それが私の仕事なのかも。それでこの世界は完成する。真っ白なら私が塗ればいい。誰もやらないなら私が。

 簡単なことだった。どうして今まで気が付かなかったんだろう。私は震えた。心の奥からその考えに震えた。

 それしかない。

 私は空を見上げた。

 見上げたまま、ぴょんとウサギのように跳ぶ。

 胸がいっぱいでもう何にも言えなくなった。

 私はぎゅっと筆を握る。

 今から盛大な創作活動の始まりだ。後戻りはできない。アーティストは振り返らない。

 私は、

 私は、駅のホームで、ぴょんと、大きく前に、まるでウサギのように、大きく、大きく、跳んだ。

 歓声が上がった。耳をつんざくような大きな歓声。私の身体が遠くへ跳んでいく。涙はすっかり乾いていた。

 だから、

 その時になってようやく黒い夜闇の向こうに黄色い光が、散らばる星々が私の両目に映った。

 あ、やっぱりあった。

 私は笑った。笑ったはずなのに乾いたはずの涙が、なぜだかまたあふれ始めた。

 私は幸せになるんだ。誰かが呟いた。私かうさかどっちかが。

 私は幸せになるんだ。今度ははっきり私が言った。

 私は世界に色を塗った。青、緑、黄、白、黒、色々。

 私の身体が何かに跳ね上げられた。近くなる空。遠く地上。

 ねえ、見て。うさよりうまく跳んじゃった、よ。

 私は声を出して笑った。

 カンバスを、世界を、赤が染めた。

「わあ、きれいな色」

 誰かが言った。

 ホント色をした世界。

 私はその中で、目を閉じて、耳を塞いで、私は私に幸せを与える。

 私が幸せなら、私だけが幸せなら、私はそれでいい。それがいい。実際。

 私は、そう、そんなオンナだ。

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