観覧車
「さそり座の話は知ってるか、嬢ちゃん」
サソリ駅のホームで私の隣に立つドラキュラさんが言う。
「知ってますよ。本で読みましたから」
「意外に読書家だな。最近の女子高生にしちゃあ」
「すごい偏見ですね」
とがった牙を見せつけからからと笑うドラキュラさん。私はとんと駅のホームでタップを踏む。
「あの炎ですね?」
「ああ、そうだ。あの中に今でも自らの身を燃やして俺たちのために夜闇を照らしてくださってるサソリさまがいらっしゃるってわけだ」トマトジュースの缶をぷしゅりと開ける。「ずいぶんご立派な話だわな」
遠くに眩しく光り立ち上る真っ赤な炎。あれがアンタレス。確かにきれいな光だ。なんでだろう。命が燃えてるからだろうな、きっと。
「でもサソリは悪い虫なんでしょう」
言ってくすくす笑ってみた。
「お、なんだジョバンニの真似か? ハ、まあサソリは確かに悪い虫だわな。尾っぽのかぎづめにちくりとやられりゃ一瞬であの世行きだからな」
「そういうドラキュラさんこそ、その牙で何人もの美人さんを殺されてきたんじゃありませんか? ちゅうー、って血を吸って。ふらふらばたん、って貧血させて」
「カカカ、まあその通りだわな。だから、俺はいわば悪い吸血鬼様よう。あのサソリと違って悔いは改めねえけどな」
ドラキュラさんがまた笑った。
私も笑った。
笑い涙の目に砂が沁みる。埃っぽい駅。住みやすそうな場所では全然ない。乾いた風が私の髪から水分を奪っていく。
「桃太郎さん、大丈夫でしょうか」
偽善ぶってみる。
「爺さんがついてんだから大丈夫だろ。酒の飲みすぎで倒れるたあ、サムライってのも情けねえわな」
うれしそうな顔をしながら血の色のトマトジュースを喉に流し込むドラキュラさんを見ながら、私はパックの牛乳を飲む。骨密度の増強を図って。
「どうする? まだ発車までは時間があるぜ。爺さん方は放っておいてちょっくら駅ん周り降りて歩いてみんかい?」
「それはナンパですか?」
「ケケ、ああそうだ。嬢ちゃんデートをしよう」
手を差し伸べてくれるドラキュラさんに私は、うん、と頷いて、出来る限りの笑顔をあげる。
駅を降りたら、辺り一面、ずっとずっと砂場が続いていた。立っている地面も足元から沈んでいく。得意のタップも踏めない。私はここではきっと生きていけない。
逆説的に私にぴったり、かもだけど。
私たちは歩く、さくさく歩く。砂もさくさく、私もさくさく。
思えば地球以外の大地を歩くのは初めて、貴重な体験かもしれないかも。
地球は青かった、なんてことはいえないけれど。
「なあ、嬢ちゃん」
「なんです?」
「顔」
「顔?」
「最初にあった時とだいぶ顔つきが変わったな、嬢ちゃん」
ああ。私は砂風に息を加える。
「そですかね?」
トボケル。
「ああ、確かに変わった。俺の目に狂いはないぞ」
「そですか」
言って閉じた口の中で、じゃりっと砂が音を立てた。不愉快な音。
私たちはウサギ三羽分の距離を開けて歩く。近すぎはしない。遠すぎもしない。そんな距離。私たちは別に恋人でも友達でもないから、お互い見つめあったりしないけど、確かにその距離にドラキュラさんがいる。
こんな距離感で、いままで誰かと歩いたことがあっただろうか。考える。多分ない。
家族だったら、恋人だったら、手をつなぐ。あと一歩近づけばその距離になるそんな距離。私たちは並んで当てもなく歩く。
「あれ」私は指差す。「あれ観覧車ですかね」
砂に霞んだ視界の先に背の低いゴンドラが円を描いて並んでいた。遊園地には見えない、周りには何もない観覧車だけがそこにある。
「乗るか」
ドラキュラさんは私に尋ねるでもなく言った。
「乗りましょうか」
私もそれを観覧車に向かって言った。
砂場の中の観覧車から見る景色は、やはり一面に広がる砂場だった。遠くに光、サソリの炎。それ以外は砂。寂しさにあふれたところだ。
観覧車というのは不思議な乗り物だ。何もしないために乗るもの。ただ遠くを眺めて寂しくなるために乗る、変な乗り物。
斜めから星を見下ろす。歪んだ世界。歪んだ視界。
「英雄なんですよね。一応」
「サソリがか?」
「はい。神の使いなんですよね。異国の神話なんてよくは知りませんけど、確かそうですよ。それなのに星になってからもこんな扱いちょっとひどくないですか」
「そういうもんよ」ドラキュラさんは所在落ち着かない感じで足を揺らした。「いい仕事をする奴が嫌われないなんて保障どこにもねえんだ。神の使いだって同様。嫌われ者なのは事実だろう『悪い虫』なんだから。優秀過ぎるやつは大抵嫌われる。生えた芽は潰せ。出る杭は打て。そうやって世界が回ってくんだ。神話の世界だけ特別ってわけでもねえだろうな、んなの」
「そういうもんですかね」
「そういうもんなんだろ」
私たちの乗っていた銀河鉄道は砂場の中に埋まったようにそこにあった。車掌さんやら駅長さんが水やら石炭やらをえっさかえっさかと詰め込んでいるのが見える。燃料補給は何もここでなくてもっと楽しい場所ですればよかったのに。そしたらこんな寂しい気持ちにならなかったのに。
私はゴンドラの中に視線を泳がしているドラキュラさんをちらりと見やる。エチケット、エチケット。私はこういう時、大人の男の人に対して怖いんですか、というような無神経さはもちあわせていないのに、
「怖がりの嬢ちゃん、銀河鉄道の発車は怖がってたけど、観覧車は怖くないんか?」
くすす、笑う。ドラキュラさんが怖がりごまかしに話を振ってくる、から、
「そういうドラキュラさんこそ先ほどから様子がおかしいですけど、まさかまさかですよね?」
「まさかまさか、だ」
クケケケ、とひきつった笑い。きっと離陸前の飛行機に座る私もこんな顔してたんだろうな、と思って私も笑い声を立てる。
アンタレス。サソリさんは一体どうしてあんなところで今も燃えているんだろう。みんなに嫌われてるってのにそれでもみんなを照らす光になりたいなんて言っちゃってさ。私には到底理解できない。
「私ね。私ね、ドラキュラさん。犬に吠えられたら犬が嫌いになって、お気に入りのシャツがスイカの汁で汚れたらスイカが嫌いになって、クラスメートに正論言われたらそのコのこと嫌いになって。私ね、そういう女なんですよ」
昇り調子だった観覧車も昇るだけ昇ったらあとは下がるだけ、折り返しに素直に従いそんなところで私と観覧車はかたかたと笑う。
「飛行機嫌いだってそうですよ。まだ私がたった三歳のころ、どこだか知らない遠くの、田舎の田舎のそのまた田舎。そこで墜落事故が起きたって、あとから聞いて、そんなんで嫌いになったんですよ。その中に顔も覚えていない私のおじいちゃんが乗っていたから、そんなんで嫌いになれるんですよ」
ぱらぱらとゴンドラの窓にあたる砂の粒。かっらからに乾いた空気が喉を焼く。岩と砂と鉄のにおいが鼻につんと響き。私はへへへと声を出す。
「私ね、嫌いなんですよ、だから、世界のすべてが。嫌いになっちゃうんですよ、ちょっとしたことで、何もかも。昨日のことも今日のことも明日のことも全部ぜんぶ嫌い。お母さんのこともお父さんのこともおばあちゃんのことも嫌いだったの。そんなみんなを嫌う自分のことはホントに大っ嫌いだった、ホントに」
笑い話。
「ずっと自分で自分を騙し続けてきたけど」
大笑い。爆笑も必然。エディー・マーフィーもきっと真っ青。
四分の三。あっという間。観覧車の中は時間の流れがちょっとおかしいもの。常識の話。
思えばそうだな。観覧車なんて何年振りだろう。乗ったという覚えはあるけど、乗ってる最中の思い出はない。そういうものなんだろう観覧車なんて。この観覧車の中のことだって、あともう少しで思い出せなくなるんだろう。そうなってほしい。
観覧車は不思議な乗り物だ。何もしないために乗る乗り物。何もしたくてもできない自分を見つめて泣きたくさせる、そんな乗り物。
「なあ嬢ちゃん、人生の五百年ばっかしの先輩である俺から一つだけいいか」
もうすぐこの時間が終わるそんな時に声がした。
「嬢ちゃんが夜の空を見上げた時、そこに何が見えた」
「何ですかそれ、……哲学ですか?」
「世の中の大半は哲学だ」
私はいつもの、一人歩く夜空を思い出す。真っ暗、真っ暗な空の孔。吸い込まれそうな闇。冷たく恐ろしい空。
「何も見えませんでした。都会の汚い空気のせいで」
「じゃあ帰れ」
とん、と言った。
「帰って、もう一度夜空を見上げろ。嬢ちゃんはもうそこに星があること、知っただろ。きっと今度は光る星が汚い空気のそのまた向こうに見えるはずだ。だから、帰れ」
時間が終わった。
「甘えたことは百年生きてから言え、小娘」
※※※
意味もなくカッターの刃を出す。意味もなくその刃で指先をなぞる。
指の先から溢れる赤は意味のない色。ぺろりとなめて鉄の味。
血。滴る血。ぽたりぽたりぽたぽたり。
それこそ、この腐りきった世界の中に残る、数少ない生者にのみに寄りかかることを許された真っ赤な支柱。
二十と八日の周期で血を吐く私の身体は、それだけに飽き足らずさらに血を流したがる。死に近づきたいからではない。それは全く逆。生に近づきたいのだ。私は。
生きている。生きて痛みを感じている。生きることが苦しみなのだとしたら、血の色こそが生の色。血を吐く限り、私はこの世界の住人だ。
セイの色。
思えば、私たちは生まれてきた時にも、血に染まっていた。母の股ぐらから、真っ赤な痛みと共に吐き出されたもの。人生で一度きりの母との交わり。
生きることの色を纏った、私の誕生。
鏡を覗く。震えたウサギ。くすす、と笑う。笑いながら世界を見回す。
真っ白。私の周りの色はほとんど真っ白。あとは赤と黒だけ。他は真っ白。だから赤で塗りつぶす。
ペインター。世界を赤で塗る。お空は黒が頑張ってるから、私は私の出来るところからこつこつこつこつ色を塗る。
けど足りない。絵の具が足りない。どうしたって足りない。
もっと、もっと塗らないと。私はまじめなコだから。昔からそれだけだから。ちゃんと、ちゃんとちゃんと赤で塗りつぶす。
それしかもう、私にできない。
鏡の中のうさぎがますます震える。それすらも今は心地いい。赤色を流しながら私は世界に身をゆだねる。黒い空の下の白い世界で私はじっと目を閉じた。
安眠したい。
柔らかなベッドで。
出来るなら、世界が終わりを迎える、その中で。