抱きしめたい
おじいさんが客車に帰ってくるのを見計らったように、悲しい汽笛が響いた。私たちはそれなりに堅い列車の座席に腰を掛けたまま月を離れる。ガガーリンはこんな時いったいどんな気持ちだったんだろう。あれ、月に降りたのはアームストロングだっけ、どっちだけ、ヤバい、浅学がばれる。
ぐん、と座席が私の身体を抱き寄せる。ああ、飛行機。空を飛ぶ。足の下に地のない感覚。慣れない。慣れたくない。慣れない。
ぶるぶるぶるりと身体が震え始める。温度の高い寒さ。
「何だ嬢ちゃん、そんなに震えて。まるで雪の下の猫だぜ」
ひ、飛行機が嫌いなんです。昔から。怖いんです、とにかく。この浮かぶ感じがまるで飛行機のそれなんですよ。恐怖、恐怖、恐怖の大王!
「へー、若いオンナってのはコンテンポラリーなモノに強いもんだって相場が決まってるもんじゃねえのか。毎月ブランドもんのバッグ買いに海外旅行へ行ったりすんだろ、当代のオンナっつうのはよ」
へ、と私は震えながら声を出す。
偏見、偏見、大偏見ですよ、吸血鬼さん。この旅行だって鉄道って名前だからこれを選んだんです。『この列車は空を飛びます』って書いてあったら船の方にしてましたよ。詐欺です。ペテンです。大嘘、空想、妄想です。
「そんなに怯えるほどのものではなかろう。空を飛ぶは長く人類の夢。鳥が飛ぶとき怯えるか。蝶は飛ぶとき震えるか。じっと腰を据えているがよかろう」
まったくもってその例えは間違っています。鳥は墜落するのは自己責任です。蝶は墜落して死ぬところを私は見たことありません。人間だけです、空飛んで、私の頑張りと関係なく死ぬの。馬鹿みたいです。空を飛びたいなんて子供みたいな夢を見ずにいたら、飛行機なんてものが開発されずに、墜落事故なんて馬鹿な死に方なかったんですよ。ホント、バカみたいじゃないですか。
言うと、ぴぴい、と汽笛が鳴る。月から離れた、銀河鉄道。真ん丸、真ん丸お月様。御団子みたいなお月様。今日は近い。今はとても近い。大きい。明るい。手を伸ばせば、ホントに届きそうな、そんなお月様。
窓の外に見える、この光景を、私は、永遠に、忘れない。
死んでも。
「もう、だいぶ震えもおさまってきたんじゃ、ああ、ないかな」
おじいさんが髭をくるくると巻きながら呟いた。
確かに。私の身体の震えもだいぶ収まってきた。心はまだまだ震えるけれど。こういうときは身体の言うことの方が信用の利くモノだ。私は胸に手を当て、銀河の空気を肺一杯に入れる。
「落ち着きましたかな」
はい、それなりに。
私の身体を巡った汚い空気を私は、はあ、と吐き出す。このまま私の中に巡る、何から何まで全部全部出て行ってしまえばそれでいいのに、どうやらこうにかうまくはいかない。
「うん、お嬢さん。やはり顔色がまだ悪い。これはいけない」
そんなことないです。大丈夫ですよ。全然全然。
くきゅるる、とお腹を鳴らして私はアピール。
「ええ、ですからお嬢さん。この買ってきたお弁当、良かったら展望室に持ってお行きなさい。あそこで弁当を広げればいい。そうしたらきっといい眺めで食事ができて、うん、きっと気持ちも落ち着くはずだ」
おじいさんの言葉に私は宇宙遊泳をイメージ。ふわふわふわふわ宇宙に浮かぶレジャーシートの上で、私一人がおにぎりをパクリ。梅だか鮭だかオカカだか昆布だか。何でもいいけどパクパクパク。きっとおいしい。おいしくなくても、それはそれで、うん、いい。漂う、漂う、一人で漂う。ぴったり。私の型にきっとぴったりはまる。他の子から見た私なんて、きっとそんなんだから。だから。
それもいいかもしれませんね。行ってきましょう。うん。
私はおおげさに頷いて見せる。
「嬢ちゃんが一人で展望室へ行っちまうんだったら、俺たちは大人三人衆は酒盛りでもしようぜ。月見酒とでもしゃれ込むのもオツってやつじゃねえか?」
「おほほぉ! そういうことならいい酒があるでござるよ。故郷の地酒でござる。キビ団子を肴に一杯やりもうすか」
あっはっはっは、と笑う男性陣に私はちょっくら失礼をして、弁当抱えて座席を離れる。
「いってらしゃい」おじいさんが微笑む。
いってきます、私も返す。
私の、いまの笑顔、たぶん最初におじいさんへ投げた笑顔よりはずっとずっと可愛いはずだ。
今の私はちょっと可愛い。
あいつらよりはたぶんずっとずっと。
※※※
上から見るとなんかすごい。なんとなくすごい。
子供の頃やったあの背伸びする感覚。少し大人になるあの感覚。大きくなった自分を少し先取りしたようなあの感覚。いつもの自分とは違った自分に憧れるあの感覚。忘れていたあの感覚。歩道橋の上に私とうさは立つ。その感覚を思い出して。親のいない間に小酒をぺろりと舐める悪戯心。かんかんとわざと音を立てて歩く。
トラックが下を通る。私たちの脚の下をやつらは通って行く。汚い煙を吐き出して私の股の下をくぐって行く。スカートは埃っぽい風に巻き上がる。ぐじゅぐじゅと腐ったトマトみたいな夕陽の汁を浴びてやつらが手振り足振り逃げていく。私はとんとんって音を立ててたんたんって足を動かして、私はうさの方を振り返る。
「ねえ、うさ」
「ん、何?」
「私、なんか疲れちゃった」
「え、大丈夫?」
うさは心配したように私の顔を覗きこむ。私はこいつをこうやって心配させる。うさの白い毛が私の方をそっと撫でる。こそばゆい。
放課後は夕陽時。安っぽいメッキの腕時計も茜色に染まる。誰かが後ろから持ち上げたようにスカートが揺れる。奴らの吐き出した灰色の煙が私の脚にまとわりつく。私はそれをたんと蹴る。
目が合う。うさと目が合う。にっこりとうさが笑った。
見つめる、られる、眼、鼻、みみ、手、眼、手、夕陽、真っ赤な眼。
スープが零れた。給食の時間。クラス全員分のスープが教室の床をトマト色に染めっていく。給食用の白衣の裾を少しばかり汚した女の子。それは私以外の誰かだった。クラスメートたちの声を受けながら、まるで世界中の絶望を一身に受けたような顔。私はそれを傍から眺めていた。そのはずなのに、あの時、私はその場にいた誰よりも、給食をダメにした張本人よりも大きな声で泣いていた。そんな記憶。
かなしさの音は甲高い。耳から決して離れない、あの音。
認められたい。誰かに。世界中のみんなに、私はここにいると、大きな声で叫びたかった。
あれ、どうしてだろう。どうしたのだろう。私の身体をかさかさと衝動が駆け回る。這いずる。かさかさ。ああ、ぎゅっとしたい。抱きしめたい。思った。そう。身体が思った。勝手に、勝手に。私の気持ちは、気持ちは。
人恋しさに襲われる。どうしよう。どうしようもないこの気持ち。今、私はきっと獣。ウサギを狙う飢えた獣。オオカミ、ライオン、トラ、私。
「……どうしたの?」うさの声がちょっとだけ震えた。
とん、と音が鳴った。
ふと。
ふと。気付くと私はうさの身体を力強く抱きしめていた。
ああ、ため息。むさぼる。負ける、私は私を私に。
結局は、そう、私のことは、私しか――。
小学生の頃、学校の裏で飼っていたウサギ。あれに右手を引っ掻かれたのを思い出した。こんな小動物のどこに人様を攻撃するだけの勇気があるのかと思ったくらいだった。けど温かかった。柔らかかった。可愛らしく丸っこい、あの温かさ。私は思い出しながらぎゅっと両腕に力を入れる。うさの体はあの時の小ウサギよりも優しかった。私の冷たい体には熱すぎるくらいに、温かさが悲しく染みてくる。
「うさ、」動く、口が。「さびしい、よ」
声が、息が、汚い煙に混じって夕陽へ飛んでく。私はソレを水の膜を通して眺める。
飛んでけ、祈る。飛んでけ、どこまでも。
「そう?」そう。「そっか」そう。「そうよね」そう。「私が」……。「私が」
真っ赤、真っ赤、真っ赤に真っ赤。夕日が、私が、うさの目が、街が、世界が、すべてが、私が。
ああ、思った。私は思った。
私の目から流れる、赤色の涙をそっと拭って私は思った。
もしも、私がスープをここに、どばり、と零したら。その時、うさは、うさの眼からは何色の涙が落ちるの、だろう、と。