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柱の陰でコーヒーを

作者: 榎本 みどり

 ほんのすこし前まで僕には白衣が嫌いな恋人がいた。僕が毎日着る大嫌いなそれを彼女は毎日洗濯していた。



「別れる男に、花の名をひとつ教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます」

文豪、川端康成の言葉だ。彼女はその言葉が好きだと前々から言っていた。毎年咲く花を見るたびにかつての恋人に別れた自分のことを思い出して欲しいなんて重いし第一うざったい。そういった僕を彼女は呆れたようにみた。

 それがロマンチックなんじゃない。貴方ってちっとも文学的じゃないのね。

 僕が理系なのを知っているくせに僕のもと恋人はそういうことをよく言う子だった。彼女自身が学生時代に理系から文転したのを気にしているせいだということはわかっていたから反論しようと出かかった言葉をのみこんだ。理系を目の敵にしている彼女を気遣ってではない。これ以上非難の目を向けられるのは不愉快だったからだ。

 もと恋人は尊敬する川端康成の言葉を自分なりに解釈して律儀に実行に移した。僕らが別れるとき、彼女は僕の白衣を投げつけてそれが大嫌いだったと言ったのだ。


 毎日洗濯していたけれどうんざりしていた。付き合っていなかったらごみ箱に放りこんでいるところだった。医者や病院や苦い薬を連想させるようで見るたびに虫酸が走る。第一あなたには似合わないのよ。


 最後の一言はいらないんじゃないのかなあ、とは思ったけれど口には出さなかった。彼女がどうして別れ際にいきなりこんなことを言ったのか想像するのは容易かったからだ。限られた期間にどこに咲いているかもわからないような花よりも白衣のほうが僕には身近で確実に頻繁に目にする存在だ。だからそのたびに自分のことを思い出して、ついでに自分を馬鹿にしたという苦い記憶を毎朝呼び起こさせようという魂胆にちがいない。

 あながち間違いではないだろう。彼女は家を出て行くときに置き土産として飲みかけのコーヒーを白衣にぶちまけていったのだから。おかげでコーヒーを見るたびに白衣に残るうっすらと茶色いしみと泣く泣くネットで新しい白衣を購入した記憶が蘇ってくる。対象は違うとはいえ奇しくも彼女の思惑は成功してしまったわけだ。

 幸いなことに僕はコーヒーよりも日本茶が好きだからそれを目にする機会はあまりないし、茶色いしみのついた白衣は先週ごみの日に出してしまった。これでもう彼女を思い出すことは当分あるまい。


 でも白衣を見て思い出さない女がいないというわけではない。僕には毎朝それに袖を通すときに思いを馳せる人がひとりいる。恋人だったわけでも友達だったわけでもないけれど、ふと思い出してしまうのだ。



 学生時代、僕には生活能力というものがあまりいなかった。今もあるとはお世辞にも言えないけれど、そのときはゼロに等しかった。彼女を家に呼んで家事をしてもらおうなんて思いつきもしなかった頃だ。炊事洗濯掃除、そんな家事全般を母親任せにしてきたことで一人暮らしを始めた途端、僕は途方にくれた。お腹がすいたころに当たり前のようにあたたかいご飯が用意されていて、掃除されたきれいな部屋で眠り、朝がきたら柔軟剤のあまい匂いのする清潔な服を着ることのできるありがたみを痛感した。

 それでもお湯くらいしか沸かせないものだから当然まともに料理なんでできるはずもなく、僕はお腹が空くと大学の食堂へ通っていた。朝は講義の前に食堂へ行って朝食をとり、昼すぎに空き時間に食堂へ行ってBランチを頼み、辺りが暗くなってそろそろ家に帰ろうかというときにまた食堂へ寄る。三食すべてが食堂でまかなわれていた。有難いことに学食のメニューはどれも学生にやさしいものばかりで、経済的には切り詰めれば何とかなったし困ることはない。何よりあたたかいごはんが食べられる。僕は一日の大半を食堂か研究室のどちらかで過ごしていた。少々騒がしいという難点はあるものの柱の陰の死角となっていた席をみつけてからはそこはとても居心地がよかった。



 あるとき、いつものようにBランチをお腹に収めてほっとひと息ついていると、一人の女の子が同じくBランチを持って食堂をうろうろとしているのをみつけた。席を探しているように見えたけれど、満席というわけではないからそうじゃないだろう。でも友達を探しているようには見えなくてその子の挙動が妙に気になった。その子はしばらく辺りをうろついたあと、僕の座っている席から程近いもう一つの柱のそばの席に腰掛けた。どうやらゆっくりと一人になれる場所を吟味していたらしい。ようやく合点がいった。

 その子は毎日というわけではないけれどたまに学食に来ては僕の座っている席から程近い柱の陰の席に陣取ってゆっくりとランチを楽しんでいた。その席は日当たりが悪いせいか人が座ることは満席でもないかぎりほとんどなかったから彼女が来ているか否かは一目でわかった。



 食事をするときには特別することもないから、僕は暇つぶしに周りの人を観察することにしていた。それはふたつテーブルを挟んだ席にいるカップルだったり、斜め後方の席の男子学生の会話だったりした。でももう一つの柱の陰の席に彼女がいるときには決まって彼女を観察するようになっていた。食堂へ来るときは毎回同じ席に座って同じランチを食べる、その行動パターンが僕によく似ていたからかもしれない。

 彼女は僕と同じように白衣を着ていた。同じ研究室でもないかぎり知り合うことは滅多にないけれど、こんな子が同じ学部にいたかとはたと考え込む。それにおかしなことに彼女は常に腕まくりをしていた。几帳面に折られた袖は彼女の性格を表すには十分だったけれど、薬品を扱うときに危険ではないのだろうか。それともこの部屋の空調が暑く感じるのだろうか。極度の暑がりだとしたら彼女の化粧っ気のない顔の説明がつく。女子大生というものは総じて髪を茶色に染め、同じように化粧をし、真っ赤な口紅の塗られた口で大声で笑う生き物だと大学生の僕は思っていた。

 でもそんないわゆる普通の女子大生と彼女は対極にいた。彼女の髪は真っ黒で蛍光灯の光を反射して艶やかにきらめいていたし、短く切り揃えられた爪には何も塗られておらず桜のようないかにも健全な色をしていた。服装は白衣に隠れて詳しいことはわからないけれどスカートなんて履いているところは一度も見たことはない。動きやすそうなズボンを身につけていて痩せているからかすらっとして見えた。でもそれはごく普通のものだったからお洒落というわけではなさそうで、むしろ服装には無頓着そうな印象を受ける。銀色のフレームの眼鏡はもとから彼女の顔の一部だと言われても信じてしまいそうなくらい肌に馴染んでいた。そういえば彼女の顔にはにきびなんてひとつもない。そんなことにふいに気づく。



 彼女の性格から家族構成までひたすら考察し終えるころ、僕と彼女は初めて会話をした。何てことはない。たまたまBランチが残り一食のところで注文にかち合い、たまには別なものでもいいかと彼女にランチを譲ったのだ。それがきっかけで何となく向かい合わせの席に座ることになった。


「ランチすみません。ありがとう」

「いや、別に。たいしてこだわりもないしね」

「でもいつも、Bランチを食べてるでしょう? ほら、あそこの柱の陰の席で」


彼女の指差した場所はまさしく僕の特等席。ぴたりと当てられて驚いた。


「知ってたの? 」

「少しだけ。私と同じように柱の陰の席で同じものを食べてたから」


僕と彼女の思考回路は似ているのかもしれない。僕も君のことを知っていたよ、なんて言えるわけはないけれど。


「あなたは薬学部のひとなの? 」


突然の彼女の質問に再び驚いた。


「うん、そうだよ。でも白衣着てるからか医学部に間違えられることが多いのに。よくわかったね。

もしかして君もそうなの?」

「ううん、わたしは違う」


そう言って彼女はコップの中のお茶をひとくち口に含んだ。


「気を悪くしないでほしいんだけど、薬学部のひとって白衣から少し薬品の匂いがするからすぐわかるんだ。

それにいつも白衣が清潔だから」


 君こそ清潔な白衣を着ているじゃないか、そう言いかけて口を噤んだ。彼女の後ろ姿はとても清潔でぴしっとした格好のように見えたけれど、正面からまじまじと見た彼女の白衣はなんというか、薄汚れていた。ほこりのような砂のような塵のような、そんなものでうっすらと変色していた。


「わたしの白衣、汚いでしょ。後ろは綺麗だからびっくりされるんだよね。これでもちゃんと洗濯してるんだよ。もう汚れが染み付いちゃってるんだけど」


彼女は自分の白衣の胸元をつまんでみせた。薬学部ではないとして、他にそれを着るような学部はあっただろうか。


「こんなに汚れちゃってたら地球科学系ってすぐわかるでしょ、宣伝して歩いてるみたいでちょっと恥ずかしい」

「いや、知り合いがそこにいないからわからなかった」


なるほど、思いつきもしなかった。あそこも地質調査やら何やらの研究のときに白衣を着るんだったっけ。


「それならよかった。でも、わたしみたいな着方は邪道なの」

「邪道? 」


馬鹿みたいに彼女の言葉をおうむ返しする。さも間抜けにうつったことだろう。


「袖をまくるのは作業しやすいからなんだけど、薬学部がもしそれをやったら薬品が腕についたりして危ないでしょ。

白衣のあるべき本来の目的に反した着方っていうわけ」


本来の目的に反した、独特な彼女の言い回しに僕は曖昧に微笑んだ。何て返したらいいかわからなかったからだ。彼女がまたコップを手に取る。会話が止まって沈黙することのないように、慌てて口を開く。



「じゃあ君はどうしてそれを着るの? 」


彼女は一瞬、目を泳がせた。それまで正面から僕の目をまっすぐに見て、はっきりとした物言いをするようだったら僕も戸惑う。


「そのまま作業をしていると服が汚れるから泥よけのため、なんだけど……それだったらスモッグとかエプロンで事足りるはずだよね」


そこまで言うとしばし考えてから再び口を開く。


「たぶん、かっこつけたいからじゃないのかな。中学のとき、白衣を着ていた先生がすごくかっこよく見えて憧れだったの。そういう気持ちは共通なのかも」


白衣が憧れ、言われてみれば僕にもそんな気持ちがあったことを思い出す。フェティシズムでもなんでもないただ漠然としたかっこよさ、そんなものがそれにはある。


「白衣を着る理由はあるけれど、白衣でないといけない理由は考えたことがなかったから、ちょっと困っちゃった。

君って面白いね」

「君のほうこそ相当面白いと思うよ」


 僕らはそのあとも色んな話をした。笑い声をあげるような面白いことは何ひとつなかったけれど、そこには僕らだけの共通のユーモアがあった。食堂で顔を会わせるたびにかるく会釈をして向かいの席に座る。それがいつしかお決まりのように続いた。

 僕らはお互いの名前を知らなかったし、知っていたとしても必要はなかった。僕が「君」と呼びかければ彼女はこたえてくれたし、またその逆もそうだった。柱の陰の日当たりの悪い席で机をひとつ挟んだ距離が僕らにはちょうどよく、居心地がよかった。




 そんな奇妙にもみえる関係はとても脆かった。食堂にいないと僕は彼女を見つけられなかったし、また彼女もそうだった。大学には白衣を着た黒髪の男はどこにでもいたし、白衣の前の方だけが汚れた黒髪の女も同様だったからだ。僕は彼女は食堂にいてBランチを食べているものだと信じて疑わなかった。彼女が食堂の柱の陰にいない日が続いて、僕にも恋人ができて食堂に行く頻度が減ったときにはじめて、そのことに気づいた。

 ひろい大学の中で彼女を探すための手段を僕は知らなかった。連絡先がないと会うことすらできないのかと、僕は自分が情けなかった。食堂に行けばそこに会いたい人がいるその状況が特別だった。それに気づかなかった。気づけなかった。それが自分の愚かさだと思う。



 一度だけ、大学のそばの駅で彼女に似た人とすれ違ったことがある。そのとき彼女は白衣を着ていなかったし、僕もそうだった。だからほんとうにその子がそうだったのか僕にはわからない。声をかけようともしなかった。

 僕のとなりにはそのとき付き合っていた恋人がいた。彼女も長い髪の毛をした整った顔立ちの女の子と腕を組んでいた。僕が会いたかったのは柱の陰でひとり背筋を伸ばしてBランチを食べている君であったし、君が会いたいのも白衣を着て同じものを食べている僕だったと思う。そうでなければいけない。そうであってほしい、と半ば願いにも似た気持ちで思う。




「何となく好きで、その時は好きだとも言わなかった人のほうが、いつまでも懐かしいのね。忘れられないのね。別れた後ってそうらしいわ」

もと恋人の好きだった川端康成の言葉を、僕は強く噛み締めた。

 久しぶりにコーヒーでも飲もうか。僕はマグカップを用意するために立ち上がる。

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