第2話
斗真は朝から舞い上がっていた。理由は単純である。朝、登校してきた此葉が、
「広瀬くん、おはよう」
と声をかけたことで、舞い上がっているのである。実に単純である。
授業が始まってもそれは変わることがなく、前の席に座る浅井は、後ろから感じる幸せオーラにうんざりしていた。
「おい、広瀬。いい加減にしろよ」
休み時間になると、浅井は溜まっていた鬱憤を斗真にぶつけた。
「え? なにが?」
「なにが、じゃない。朝からニヤニヤニヤニヤ、気持ち悪いぞ」
「き、気持ち悪いって……」
いささかショックを受けたようだ。
「まあ、憧れの佐倉さんと一緒に下校できたので舞い上がってるのはわかるが」
「え! 情報はや!」
浅井はニヤリと笑うと、
「僕に隠し事はやめたほうがいいぞ」
「浅井の情報網って一体……」
斗真は、我が友人ながら少々恐ろしさを感じた。
あの日以来、斗真は此葉とたびたび言葉を交わすようになっていた。と言っても、そのほとんどは挨拶程度のものなのだが。それでも斗真にとっては大きな進歩であり、彼女と言葉を交わせた日は一日中顔がにやけっぱなしであることも多い。
高校に入学して以来、ほとんど入ったことのなかった図書室にも足繁く通うようになった。
此葉から紹介された本を探したり、また、自分で見つけた本を読んで、面白いものは逆に教えてあげようと考えていたからである。
しかしーー。
『真実の愛〜あなたと交わした口づけ〜』
此葉に紹介された本の題名が、多感な男子高校生が借りるには少々恥ずかしいものだったのは、言うまでもない。
内容こそ普通の恋愛話だが、題名のインパクトが強すぎて、図書室で借りるときに図書委員から訝しげな視線を向けられてしまった。
ーー佐倉さんがいつも本にブックカバーをつけているのも、クラスメイトに題名を見られるのが恥ずかしいからなのかも知れない。
斗真はその時、ようやく彼女の心情を察することができた。
斗真も、できることならブックカバーをつけたい、そう思っていた。家で読むだけなら構わないが、学校で読むとなると必須である。しかし、これまであまり本を読んだことのなかった斗真は、あいにくブックカバーというものを持ち合わせていなかった。
「買いに行くか……」
机の中にこっそり隠してある恋愛小説をそっと見ながら呟く。
そうだ、と斗真はあることに気がついた。
早速席を立つと、此葉のもとへ向かう。
「佐倉さん」
此葉は友人ら数人と話していた途中で、話を止めるとその大きな瞳で斗真を見上げた。
同時に此葉の友人らも彼に注視したため、斗真は話すのをためらってしまった。
「広瀬くん、ちょっと」
そんな彼の様子に気づいた此葉は、斗真の腕をとると教室から出て、少し歩いた先の廊下で立ち止まった。
「ごめんね、話しづらかったでしょう」
「い、いや、大丈夫!」
「何か用事があったの?」
此葉は廊下の窓から入る春風に、その長い髪を委ねていた。シャンプーのような甘い香りが斗真の鼻をくすぐり、思わず顔を赤らめてしまう。
「あの……さ、ブックカバー、買いたいんだけど、どんなのを買ったらいいのか、よくわからなくて。もし、よかったら、佐倉さん、一緒に来てくれないかな……」
斗真は恥ずかしさからか、目線を合わせることができなかった。
此葉は少しの間黙っていたが、小さく笑うと、
「いいよ。駅前の雑貨屋さんに、たくさん置いてあるから。今日の放課後でいい?」
「もちろん! ありがとう」
その後は言うまでもなく、斗真は誰が見てもわかるほどにウキウキな様子だった。それを見た浅井はさらにうんざりしたようで、斗真から少し距離を置いているようだった。
ーーそして、放課後。
斗真は約束通り、此葉と一緒に駅前の雑貨屋に向かっていた。学校からその駅までは徒歩十分ほどの道のりだったのだが、二人は恋愛小説の話で盛り上がっていたので、あっという間に目的地に到着してしまったようだった。
「ここなんだけど」
此葉が指差した場所には、いかにも女性が好きそうな、パステルカラーで可愛らしく彩られた雑貨屋があった。斗真はこのような店に入るのは初めてだったため、いささかためらってしまう。
しかし、せっかく彼女が時間を割いて連れてきてくれたのだ。入らないという選択肢はない。斗真は覚悟を決めると、恐る恐るその店に足を踏み入れた。
中はさらにキラキラと輝いており、まるで別世界に来たようであった。客層も若い女性が大部分を占めており、斗真のような男子高校生は一人も見当たらない。だが、中には大学生のカップルらしき人たちもおり、斗真は少し安心してほっと胸を撫で下ろした。
「ブックカバー、あったよ」
女性向けの雑貨屋だから、ブックカバーも女性らしい可愛いデザインのものしかないと予想していたのだが、意外なことにシンプルなものも置いてあるようだった。
「いろいろあって、迷うな……」
斗真のつぶやきに此葉は笑うと、
「そうでしょ。私もいつも迷ってしまうの」
「佐倉さんは……どれがいいと思う?」
此葉はしばらくブックカバーを眺めて迷っているようだったが、数点を見繕って斗真に差し出した。
「広瀬くんのイメージだと、この辺りになるかなあ」
青一色に、シンプルなロゴが入ったもの。男性でも持てそうな、緑色のチェック柄のもの。水色の背景に、雲のイラストが描かれたもの。この三点だった。
斗真は、此葉が選んでくれたものだからどれも素晴らしく見え、なかなか一つに決められずにいた。だが、その時あることを思い出した。
此葉がいつもつけているブックカバー。あれは確か、ピンク色で何も柄のないものだった。端の方に、小さくロゴが入っていたような気もする。
もしかして、と、青一色にシンプルなロゴの入ったブックカバーを見た。これは、此葉が持っているものと同じタイプのものではないのだろうか。ならばーー。
「これにしようかな」
斗真は迷わずその青一色のブックカバーを選んだ。
それを見た此葉は少し驚いているようだったが、すぐに笑顔になると、
「いいと思うよ。私もそれ、好きだから」
「じゃあ……買ってくるね」
レジの方へ向かった斗真の背中を、此葉はしばらく見つめていた。そして、自分の鞄からブックカバーのついた本をそっと取り出して、それを愛おしそうに眺めたーー。
会計が終わると、二人で店を出た。まだ日は沈んでおらず、辺りは学校帰りの生徒たちで溢れかえっている。
斗真は、まだ帰りたくないな、と思っていた。せっかく二人で買い物に来たのだし、用事が終わったからすぐに帰るなんて、少しもったいないと思ったのだ。
「佐倉さんは、今日この後、何か予定あるの?」
「ううん。特にないよ。広瀬くんは?」
「俺も、特には」
二人で無言のまま見つめあった。そして、斗真は意を決して口を開いた。
「もし、よかったら……佐倉さんの好きなもの、食べに行かない?」
「え? 私の、好きなもの?」
「そう! 今日、ブックカバー買うの付き合ってもらったから、何か奢らせて」
「それは……なんだか申し訳ないよ」
と言いつつも、此葉は頭の中で何を食べようか悩んでいるようであった。
「あ、そうだ。この近くに、新しいクレープ屋さんができたみたいなんだけど……男の子は、クレープとか、あんまり好きじゃない、よね……」
「よし、行こう」
「え? 広瀬くん、意外と行動派なのね……」
放課後の時間だからか、クレープ屋は中高生の列で溢れかえっていた。此葉は困ったように肩をすくめると、
「どうしよう。並ぶの、大変だよね……」
「並ぼう」
「即答……」
列の最後尾に並ぶと、どこからか噂話のような話し声が二人の耳に届いた。
「あの二人、お似合いだよね」
「確かに! 彼氏もイケメンだし、彼女も可愛いし。羨ましいなあ」
それは、斗真たちのことを言っているのだと二人も気づいてしまったようだ。二人して顔を赤らめながら、黙り込んでしまった。
「そ、そういえば」
そんな沈黙に耐えられず、斗真が少し上ずった声で話しかけた。
「佐倉さんは、どうして恋愛小説に興味をもったの?」
「それは……」
此葉はしばらく黙っていた。と言うよりは、自分の記憶の中に入っていって、その頃のことを思い出しているようであった。
あの頃の、苦い記憶ーー。
「現実では、恋愛なんてうまくいかないことの方が多いでしょう。傷つけあって、嫉妬しあって。人を色眼鏡で見ることしかできない。だから、それは本当の恋愛なんかじゃないの。ーーでも小説の中では、葛藤しながらもお互いを尊重しあって、お互いの心の中までも理解することができる。自分のことより、相手のことを大切に思って、相手が幸せになることだけを考えてる。それが、本物の愛なんじゃないかなって、思うの」
斗真は考えていた。
ーー確かに小説の中では、お互いを理解しあって、お互いを大切に思いあっている。それはそれでいい。
でも、じゃあ現実の恋愛が全て汚いもので、傷つけあうだけなのだろうか。ーーいや、そうではない。現実でだって、素晴らしい恋愛を経験することはできる。
今、自分が彼女に恋をしているように。
もしも叶わなくとも、どんな惨めな姿になろうとも、それが無駄だったなんて誰にだって言うことはできないだろう。
それが、恋愛というものなのではないか。
彼女は、まだそれを知らないのだろう。ならばーー。
「佐倉さん」
「なに?」
斗真は、真剣な眼差しで此葉を見つめた。
「俺があなたにーー本物の愛を教えます」