第1話
教室の窓際で、きれいな姿勢を保ちながら静かに読書をする少女がいた。黒くつやのある髪が背中までたれ下がり、対照的に肌は透き通るように白い。しなやかに伸びた手足は細く、触れれば壊れてしまいそうである。
そんな少女を密かに見つめる、一人の少年がいた。彼は少女とは少し離れた席から、周りに気付かれぬよう、こっそりと盗み見をしている。
ーーああ、なんてきれいなんだろう。
少年は、心の中でそう呟いた。
窓から差し込む日の光が少女の体をやさしく照らし出し、それはまるで天使のようであった。
「おい、広瀬、お前話聞いてるのか?」
少年ーー広瀬斗真は、その声にふと我に返ったようだった。
「き、聞いてるよ。テストの話だろ?」
「それはもう終わった。今は隣のクラスの話をしてたんだぞ。お前ぼうっとして、何見てたんだ?」
斗真の友人ーー浅井が視線の先を辿ろうとしたため、慌ててそれを遮る。
「別に、何も見てないから!」
「そうか? まあ、それよりーー」
斗真は話題が逸れたことに、ほっと胸を撫で下ろした。
浅井の話を聞きつつも、視線はやはりあの少女の方へ向かってしまう。
少女は時折友人らと会話をするが、それ以外の時間はいつも読書をしていた。可愛らしいピンク色のブックカバーをつけた文庫本が、少女の雰囲気に実によく似合っている。
ーーいったい、どんな本を読んでいるのだろう。
斗真は最近、それを知りたがっていた。もし、彼女と同じ本を読んで、その内容について話し合うことができれば。そんな、少年らしい考えをもっていた。
だが、少女はいつも本にブックカバーをつけており、それが何の本なのか確認することは不可能だった。
直接本人に聞くこともできたが、奥手な斗真はなかなかそれを実行に移すことができなかったのだ。だから、こうして少女の姿を遠目で見ることしかできないのである。
「そういえば……」
前の席に座る浅井が、ふと思い出したかのように口を開いた。
「広瀬は結構モテるのに、何で彼女作らないんだ?」
その質問に、斗真はどきっとした。
「いや、別に……」
「この間だって、A組の……なんとかって子に告白されてただろ」
「されてた、けど」
「結構可愛かったじゃないか。お前、もったいないことするよな」
うるさい、と小さく呟いた。
斗真は背も高く顔も悪くないため、よく周りの女の子からアプローチをされていた。しかし、それを受けることはなく、いつも断っているのだった。
「もしかして、他に好きな子がいるとか?」
浅井に図星をつかれ、斗真はそれを隠しきることができなかったようだ。顔を赤くして否定する姿は、誰がどう見ても肯定しているようにしか見えない。
「なるほどな。で、好きな子って誰なんだ?」
「そ、それは……その」
「このクラスにいるのか?」
「え! そ、そんなことは、ない……と、思う……」
「このクラスの女子だな」
浅井の鋭い指摘(と言うよりは、斗真の反応がわかりやすすぎるのかも知れないが)に、さらにうろたえてしまう。
「あとは、それが誰なのか、だが」
「探さなくていいから!」
「広瀬の好みっていうと……佐倉さん辺りか」
ーーな、なぜばれたんだ。
斗真は内心泣きたい気持ちだった。
「当たったみたいだな」
浅井はなぜか人の惚れた腫れた事情にだけは鋭く、誰が誰を好きとか、誰が誰に告白してふられたとか、そういった事情をすぐに察知してしまう能力が備わっているようなのだった。
「佐倉さんに告白するなら、早めにしといたほうがいいぞ。この間、三年生の先輩から告白されていたみたいだし」
「え! それ本当か?」
「あと、D組の鈴木も狙ってるとか」
「そ、そうだったのか……」
斗真はがっくりと肩を落とした。
「付き合ってる男は今のところいないらしいがーーまあ、いつ男できてもおかしくない状況だな」
浅井の言葉で、斗真の心の中には焦りが生まれた。これまでは遠くから眺めるだけで満足していたのだが、もし彼女に恋人ができてしまえば、それもかなわなくなる。
ーーなんとかして、彼女と仲良くならなければ。
斗真のライバル心に火がついた。
その日の放課後。
帰りの準備を整える少女ーー佐倉此葉のもとに、一人の男が近づいていた。その男は彼女と自分の席との間を何度も往復したのちに、ようやく決心したかのように声をかけた。
「さ、佐倉さん!」
「……広瀬くん?」
此葉は突然のことに驚いたようで、その茶色い瞳を大きく見開いた。
「あ、あの、もし、よかったら……一緒に帰りませんか」
「え? 私と……?」
「はい! 嫌だったら、その、無理は言わないので……」
此葉はしばらく考えたあと、にっこりと笑って、
「私でよければ、いいですよ」
斗真は心の中でガッツポーズを決めた。
そして天にも昇る心地で、此葉と並んで教室を出たのだった。
ーーと、誘ってみたはいいものの。
もともとシャイで女慣れしていない斗真は、何を話したらよいのかわからず黙っていた。
ここは誘った自分が何か話題を振らなければいけないーーと、考えていたら、彼女に一番聞きたかったことを思い出した。
「あの、佐倉さんは、いつも何の本を読んでるの?」
斗真がそう聞くと、これまで順調に歩みを進めていた此葉の足が止まった。慌てて斗真も立ち止まるのだが、彼女は俯いたまま何も答えようとしない。
もしかして、何かまずいことを聞いてしまったのだろうかーー。
「無理に答えなくても大丈夫だから!」
そう言いながら彼女の顔を覗き込んだのだがーー此葉の顔は今までに見たことのないほど真っ赤に染まっており、今にも湯気が出そうなほどだった。
「さ、佐倉さん……?」
「えっ、あ、ごめんなさい……」
此葉は両手をうちわのようにパタパタと動かし顔を扇ぐと、「恋愛小説、かな」
と、煮え切らない答えを返した。
「恋愛、小説……」
ただ恋愛小説と答えるだけに、そんなに赤面する必要はあるのだろうか。
斗真はふとそんな疑問を抱いたが、佐倉さんはとても慎ましやかな人で、恋愛というワードを口にするだけでも恥ずかしいのかも知れない、そう思い込んだ。
それよりも、彼女がどんな本を読んでいるのかわかったのだ。同じものを読んで、話題を共有しなければならない。
「もしよかったら、佐倉さんが読んでいる本、今度貸してもらえないかな」
貸し借りをするのは、女の子と仲良くなるために有効だと聞いたことがある。斗真はそれを実践してみたのだった。
しかし、此葉は焦ったように、どうしようどうしようと考え込んでばかりで、一向に返事を出せずにいた。
「もしかして……あまり貸し借りはしないタイプ?」
「ううん! そんなことはないんだけど……その……私がいつも読んでるのは、全部、お兄ちゃんの本で……」
「そっか。じゃあ、お兄さんに聞かないとダメなんだね」
「そうなんです……」
斗真は、お兄ちゃんに確認してみるね、という言葉を期待していたのだが、此葉はその後も黙ったままで、何も口に出そうとはしなかった。
「あ! じゃあ、オススメの本とか、ある?」
斗真がくじけずそう聞くと、今度は安心したように、いろいろな本の名前を挙げ始めた。
「広瀬くんは、恋愛小説に興味があるの?」
ひとしきり本の話をしたところで、此葉がそう問いかけた。
「ま、まあ、ある、かな。まだ、これが好きとかはないんだけど……」
「そうなんだね! そっか、それは私もすごく嬉しいな。私の興味あるものを、他の誰かが知ろうとしてくれるなんて。すごく、嬉しい」
幸せそうな彼女の表情に、斗真は胸が高鳴るのを感じた。
遠目で見ていただけではわからない。彼女と顔を合わせて話してみて、もっと、彼女のことを好きになった。もっと、彼女のことを知りたいと思った。
それは、今までの感情とは少し違うものだった。胸の奥に小さな灯りがともるような。あたたかくて、少しせつない。なんでもない毎日が、特別なもののように感じる。不思議な感覚だった。