第九話
気付けば、彼は世界の殆どのものを再現できるようになっていた。
人間も、動物も、魚も、虫も、建物も、何もかもを、彼は再現できる。
圧倒的なポテンシャル故に開花したその才能は、まさしく超越者に近いことを意味しているのだろう。
彼は実際上級の妖が相手でなければそうそう負けはしないし、上手くやれば上級相手でも勝ち目はあった。
しかし、彼如きでは本当の強者達を相手にしては、同じ空間に存在することすら難しい。
本当の強者達は、例え超越者でなかったとしても、圧倒的な戦闘力を持っており、彼など赤子を捻るかのように倒せる。
特に彼は妖狐を恐れていた……殺しに躊躇いがない処か楽しんでいるような種族であり、戦闘経験も豊富だからだ。
しかし、そんな妖狐も滅んだ……超越者の逆鱗に触れて、滅ぼされた。
傲慢な一族は、その傲慢さから決定的なミスを犯し、絶対に刺激してはいけない者を刺激したのだ。
それこそが、妖狐滅亡の真実であり、彼はその一部始終を見ていた。
否、正確には見ていたのは妖狐などではない。
彼が見ていたのは―――至高の存在だけだ。
「ぐげ……げっ……」
その最初で最強の超越者のみを見、目指したからこそ、彼は食らい続ける。
星々にすら届き得る圧倒的な能力を誇るその超越者のように、彼は星に触れたかった。
確かに彼の能力ならば、時間さえあれば星を再現することはできるかもしれないが、それはただの偽物だ。
今はただ急がねばならない……残された時間がどれ程あるかを考えねばならない状況に、彼は居るのだから。
生前ならば、時間は掃いて捨てる程にあったが、一度死んだ今の彼は宿主という人間に依存している。
宿主が死ねば己も死ぬという、非常に面倒なしがらみを彼は考慮せねばならないのだ。
人間の寿命は高々八十年程度で、事故や病気などがあれな、それはよりも早く死んでしまう。
だからこそ、彼は急がねばならない……星に手が届く程の圧倒的な能力を得て、彼だけが気付いている抜け道を利用するのだ。
彼は他の妖を下手に刺激するつもりはないし、刺激することで己の夢を達成するのを邪魔されたくはなかった。
だからこそ、他の妖には接触しない……そう務める。
「食らうのだ……食って、食って、食い尽せ」
まだ足りない……もっともっと食い尽さなければ、彼は超越できない。
彼の中にある何かがずっと囁く……もう少しで超越できると、彼に告げる。
後何十の、何百の、何千の人間を食らう必要があるのかは、彼には分からない。
だが、次の休日にそれは大きく変動することになるだろう……彼は、新しい餌場を得ることができた。
たった一度しか使えないであろう餌場だが、彼は数日で何百もの命を食らい、超越者に一歩近づくことになる筈だ。
その時を楽しみにしながらも、彼は苦痛にもがく。
心臓に蓄積された怨念が彼の精神を蝕み、より強い精神を手に入れろと告げている。
嫌な音を立てながら変質していく肉体は、彼に痛みを齎し、精神と肉体の双方が彼を虐げていく。
これこそが、強者達が強くあり、弱者がそうではない絶対的な理由である。
強者はこの痛みに耐え、精神を壊さずに生き残った者達だ。
その精神力なくして、妖は強者になれない。
そして、それこそが彼が至高の存在を尊敬し、目指す最大の理由だった。
「もうすぐ―――あの星々に手が届く」
苦痛に耐えながらも、彼は夜空に浮かぶ星々に手を伸ばした。
彼が欲する本物の星々に。
深夜、殆どの人間が寝静まっている時間に、彼は活動していた。
建物の屋上を、屋根を足場として走り、跳躍して月明かりの中を駆け抜けていく。
風を切って進んでいくのは、彼にとって非常に心地が良く、新鮮であった。
ただ決められた道を進む……そんな、秩序を保つために必要は決まりも、今この瞬間は必要ない。
何故ならば、ここには地上のように多くの者が行き来することなどできないからだ。
屋根から屋根へ飛んでいき、時に空を駆けていく彼のような存在ならば、或は可能であろう。
しかし、跳躍することはできても、飛行することはできない人間には、そのようなことは叶わない。
空を足場として走ることができる者だけが、縦横無尽に駆け巡ることを許されるのだ。
そして、彼はその数少ない選ばれた存在だった。
「……もう失敗することはなさそうだな」
習うより慣れよ、という言葉は本当にその通りだと彼――神谷一鬼は思う。
水や空気すらも足場にできるという上級の妖特有の力を、彼はこの数日で使いこなしつつあった。
流石に上空でその能力を駆使するにはまだ覚悟が足りないが、近い内に彼はそれをできるようなるつもりだ。
それさえできるようになれば、彼は上空からの奇襲も可能になるし、逆に逃走する際にも役立つ。
既に彼は数十メートル程度の高さならば制御を完璧にできるようになっている。
次の段階は、高層ビルを利用した百メートル単位での能力の行使であり、登りと下りをよりスムーズに行えるようになることも彼は念頭に置いている。
今現在の彼の目標は、地上から階段を上る要領で数百メートルの高さまで登れるようになることだ。
今現在の処は、それ以上のものが必要になる筈がない……彼が想定しているのは、妖との戦闘であって、その妖と数百メートル以上の高さで戦うことになる可能性は低いからだ。
「碧……答えてはくれないか」
試しに己に宿る妖の名前を呼んでみるものの、返答は返ってこない。
既に碧が出てこなくなって数日が経過しているが、その間も藍色の妖は人間を食い続けた。
漸くその活動範囲が明らかになったのだから、後は次の休みに羽月達と共に追い詰めるだけである。
それまでは、それぞれ準備を進め、来る決戦に備えておく。
誰かがフライングでもしようものならば、逆襲されて餌になってしまうかもしれない。
今現在どの程度の力を藍色の妖が持っているかは定かではないが、最低でも碧と同等はあると見て良いだろう。
そんな相手が居るかもしれない地域に、緋蓮や山吹が単独で向かえば、結果は火を見るよりも明らかだ。
彼女達は殺され、その心臓に蓄積された怨念を藍色の妖に与えるだけで、寧ろ足を引っ張ることになる。
故に、当日までは絶対に指定した区域には誰も入らないように注意してあった。
「しかし……体が軽い。何がどうなっているんだ?」
急速に変化していく肉体に、一鬼は軽い戸惑いを覚える。
碧を呼び出し続けないが故に体力に余裕ができたのか、それとも体力の総量が増加したのかだろうが、この劇的な変化に彼は疑念を感じていた。
突然他の妖の存在を感じられるようになり、その上身体能力関連が急上昇するなど、普通はあり得ない。
その場合の原因は、数日前の碧の言葉くらいしか彼には考えられなかった。
しかし、本当にそうならば、一鬼は羽月の言う通り怨念とやらを背負ったのかもしれない。
かつて暴虐の限りを尽くした妖狐という妖の一族……そして、それを滅ぼしたという鬼の一族。
彼に訪れている変化は、きっとそこに宿る怨念によるものだ。
妖狐が殺しに殺して、その心臓に蓄積した怨念は、余程膨大なものなのだろう。
それを一身に受けたからこそ、碧にそのことを告げられて少しの間だけ、彼は弱気になっていたのかもしれない。
しかし、それはただの言い訳だ――――単純に彼の心が弱かっただけという可能性だってある。
「ブルー・シャーマン達に縋るしかないというのも、情けない話だな」
ブルー・シャーマンとの約束の日まで後数日……その日、上手くいけば彼は己の出生の秘密を知ることができる。
彼の見聞きしたもののみを知るのか、それとも第三者の視点から垣間見ることができるのかは、分からない。
だが、少なくとも彼は己の過去を知り、己が何者であるかを実感するだろう。
そこから、彼がこれから何を為すべきなのか、何を為したいのかが決まる。
神谷一鬼ではなく、妖としての彼の名前を知ることだってできるかもしれない。
彼の本当の肉親が付けた名前については、まさしく肉親がどういう思いで名前をつけてくれたのかが分かるから、彼としては知っておきたかった。
今の一鬼という名前とその名前のどちらを選ぶかという点に関しては、まだ決めかねている。
しかし、もしも妖の名前を選ぶ必要がでてくるというのならば、彼は躊躇いなく妖の名前を選ぶつもりだ。
勿論人間としての名前も名残惜しいし、そこに込められたもう一つの意味も一鬼はまだ知らない。
それを知らずして名前を捨てるというのは聊か滑稽かもしれないが、彼はその時は捨てる覚悟をする。
血が繋がらずとも、本当に家族だといえる者が名付けてくれた名前を捨てるなど、本来ならば彼にはできない。
しかし、そうすることで家族を守れるのならば、彼は喜んでそうする。
「しかし……っ……くそ……この気配はいったい何なんだ」
一鬼は、この町に巣食う『虹色の肋骨』達の存在を感じられるようになったが、同時にそれ以外の何かがこの町に居ることを感じていた。
だが、それは酷く微弱な気配で、彼にはそれが何なのかをはっきりと断言することは叶わない。
彼が完全に妖として覚醒すれば、或はその所在すらも感じ取れるのかもしれないが、まだその領域に彼は達せずにいる。
そもそも、その領域にまで成長するという保証は何処にもなく、彼はただ己に与えられた能力で戦うしかないのだ。
彼は他の宿主に比べれば恐ろしい程に恵まれているし、実際最強だろう。
しかし、彼の目指すのは『虹色の肋骨』達とまともにぶつかれるだけの力であって、宿主だけの戦いでの最強ではない。
碧に頼り切っているようでは、この先の戦いで後れを取る可能性は高いだろう。
だからこそ、一鬼はその差を埋める為に完全な妖として目覚めることを望んでいるのだ。
人間のままであろうとすれば、超越者と言われている者達には到底叶わないし、イエロー・レディー程度との戦いでも苦戦した。
最低でも、一人で碧の攻撃を数合は凌ぎきれるようにならなければ、この先生き残るのは難しいだろう。
「……血が騒ぐ」
一鬼は、静かに体に広がっていく熱を感じながらも、そのまま訓練を続行した。
目指すは碧と同等の領域……かつて殺戮者と呼ばれた女と同じ世界だ。
その日、羽月は鋭い痛みを頭に感じて目を覚ました。
苦痛から滲み出た汗が全身を濡らし、衣服を張り付かせて彼の気分を害する。
しかし、そんなことよりも彼にとって一番問題だったのは、突然襲い掛かってきた頭痛であった。
鋭い痛みによって彼の意識は無理やり眠りから覚醒させられ、苦痛に耐えながら声を出さぬように努める彼を苦しめる。
彼は暗闇の中から携帯電話を探し出し、時間を確認した。
現在の時間は午前二時……まだまだ朝までは時間があるが、しかし今の羽月に再び眠りにつくことは難しい。
激痛は消えたものの、既に意識は完全に覚醒してしまい、未だに鈍い痛みが頭の中に残っている。
元来生きていることそのものが奇跡なのだから、実際問題彼の頭の中は滅茶苦茶に違いない。
「ぐっ……がっ……くそ……忌々しい。いっそあの時殺してくれた方が楽だったものを」
「羽月、そうなればお前はあのただの犬死だな」
「緋蓮……もしかして、起こしちまったか?」
「いや、私は夜中ならいつも起きている。宿主が寝ている間は私達妖が守るしかないからな」
「確かにそうだな。助かる」
羽月は現れた緋蓮に礼を言いながら、そのまま着替え始めた。
元来女性の前で着替えるのは褒められた行為ではないが、羽月にとって緋蓮は女性という範疇に収まっていない。
緋蓮もまた、羽月をそういう眼で見たことはないし、これからもそうするつもりはなかった。
二人は飽くまで互いが倒すべき者達が偶然パートナーであったが故に協力しているに過ぎず、それさえなければこうして会話をすることすらなかったかもしれない。
そもそも、ほぼ全ての『虹色の肋骨』と宿主は運命共同体であるが故に協力しているに過ぎないのだ。
そうでなければ、利害が一致しない者達はイエロー・レディーと一矢のように、双方が死ぬ結果に終わる。
その危険性はどのパートナーにも当てはまり、羽月達も例外ではない。
唯一、碧と一鬼という歪な例外を除けば、『虹色の肋骨』と宿主は酷く危うい関係性の中に居る。
「もう今日は寝付けそうもない。外でもブラブラするか」
「動いて大丈夫なのか?」
「ああ、問題ない……どうせ長くない命だ。一日くらい無駄にしても良いだろう」
「珍しいな。いつものお前なら、無駄にするのが惜しくて特訓や情報収集ばかりしているというのに」
「……今日はそういう気分なんだよ」
着替え終えると、羽月は忍び足で玄関に向かい、靴を履いてそのまま外出した。
事故以前の彼ならば、夜中に義母である綾子に黙って外出することなどなかったが、今の彼は違う。
昔の彼はかなり自由人ではあったものの、よく言えば秩序があり、悪く言えば堅かった。
しかし、今の彼はある意味で達観しており、己の命を諦めて、ただただそれまでに成し遂げたいことをしているだけだ。
羽月は義務など少しも考えてはおらず、ただ死と言う最後の義務の前に可能な限りの権利を行使しようとしている。
その権利とは、ただ父親を超えようという我儘を押し通すことであり、彼はその目標のみを追う。
既に死んだ父親の代わりに一鬼を選び、彼はその最後の願いを叶えるつもりだ。
彼としては、本当はしっかりと本当の親になった一鬼を超えるという形にするつもりだったが、それは間に合わない。
義母である綾子は満更でもないようだが、一鬼の方が全く乗り気ではなかったからだ。
今更どうこうしようとしても、歪みが生じて皆不幸になるだけだと、彼は理解していた。
「綾子も、こんな息子を持ったのは災難だな……いや、元々は甥か」
「そうだな。綾子さんは俺の母の妹……つまり俺の叔母だから、そうなる。こんな親不孝な息子もそう居ないだろうが、綾子さんには苦しんで貰おう。報いはいくらでも受けるさ」
「……お前もそうだが、本当にあの根暗野郎の周りには歪な奴ばかり集まるな。まるで歪ホイホイだ」
「言っただろう……あいつは、そういうものだと。あいつは間違いなく貧乏くじを引いているが、そのお蔭で俺も助かっている。一鬼様様だな」
「やれやれ……まぁ、根暗野郎には頑張って貰うか」
羽月と緋蓮は妖と宿主の総合力では間違いなく下位に位置する。
まだ姿の見えない紫の妖と、近い内にぶつかる予定の藍色の妖ならば、例え宿主が赤子であったとしても、彼らに勝てるかもしれない。
それ程までに、碧達上級以上の領域とただの下級の緋蓮とでは差がある。
ましてや、宿主最強の一鬼相手では、緋蓮は手も足も出ないことが既に実証されていた。
彼らは無力である已上、頭脳を駆使して戦わなければ、この先生き残ることはできないだろう。
だからこそ、すぐさま羽月は一鬼達と協力することを選んだのだ。
最も有名な強者であった妖である碧すらも七つの位階の内四番目でしかないという現状において、彼らが単独で生き残れる術は無い。
どんなに頭を使って罠を仕掛けても、絶対強者達はそれを容易く破壊し、彼らの命を奪うだろう。
特に超越者であることが確定しているブルー・シャーマンと紫の妖に関しては、天地がひっくり返っても勝機は無い。
彼らが格上を倒す為には、妖ではなく宿主を狙うしかないが、宿主を狙う間に妖に殺されるのが現実だ。
それ程に圧倒的な差が彼らと絶対強者達の間にはあり、人間を狙うことすらもできないという、情けない事態に陥る。
仮に長距離からの狙撃でもできれば勝機はあるが、そんなものを用意できれば、そもそも誰かと協力すること自体必要なかった。
結局の処、彼らは最初から他の『虹色の肋骨』達の協力なくして、最後まで生き残ることはできないのだ。
「気に入らないが、確かに能力はある。あの調子だと、案外バケギツネを優に超える化け物になるかもな」
「そうなると、益々俺はあいつに勝てなくなっちまうな……そろそろ、別の形での勝利を本気で考えないと、本当に一度も勝てずに終わりそうだ」
「それなら、己の信念についてでも本音を語り合えば良いだろう。あいつは空っぽみたいだから、すぐにお前の勝利で終わるさ」
「……その案も考慮はしておこう」
一鬼に勝つには、単純にそういった信念のようなものを競えば良いのかもしれない。
だが、そんなあやふやなもので勝敗を決した処で、いったい何の意味があるのだろうか?
少なくとも羽月には、そこから意味は見いだせない……そこには何一つ彼が勝利したという確信が持てない。
例えば彼が強い信念を持てば、一鬼と戦って勝つことができるのか?……否、できないだろう。
結局の処、信念は長い目で見れば有用なものではあるが、羽月のように残された時間が少ない者にとっては、もはや価値のあるものではない。
確かに他者の信念に感銘を受けることはあろう……しかし、残念ながらそれで以て一鬼と勝負できる程、彼は信念を素晴らしいものだとは考えていなかった。
信念はただチャンスを引き寄せるだけで、それを成し遂げる能力が無ければ、意味がない。
そんなもので勝敗を決しても、彼は少しも嬉しくなかった。
「何を躊躇う必要がある? 本当に勝ちたいのならば、どんな手でも使ってやると思え。それくらいの意思がなければ、永遠に根暗野郎には勝てないぞ」
「分かっているさ。だが、俺は手段を選びたい。俺はあの恐ろしい程に強靭な存在を前に、弱点を突くような真似はしたくないんだ。真正面からぶつかって、勝ちたい」
「……なら、どうして一人で戦わない? 私に協力を求めた時点でお前はある意味卑怯だ。奇襲して、二人がかりでも勝てないなら、卑怯になりきらなければどうやっても勝てない。そんな相手に、何を甘いことを言っている。そもそも、本当に尊敬しているのならば、弱点を狙わない甘さを見せるな―――バケギツネならそう言うだろうな」
「成程。確かにあの妖狐ならば言いそうだな。一鬼に関しては酷く臆病で媚びてやがるが、戦士としては間違いなく超一流だ」
碧のことを思い出しながら、羽月は苦笑する。
ブルー・シャーマン相手ですら一歩も引けを取らなかったそうなのに、確実に己よりも格下の一鬼を相手に怯え、媚びる彼女は、酷く歪だ。
一鬼も最初は当たりを引いたと思っていたようだが、ここ最近その考えは変わってきていると言っていた。
羽月もその意見には賛成だ……碧は歪過ぎて、何がどうなっているのか分からない。
碧が一鬼の出生のことを知っていることが本当ならば、彼女が二百年前の妖であることから、自動的に一鬼もその時代に生まれた妖になる。
そうでなければ、出生のことや彼が鬼の一族であることなど分かりはしないだろう。
もしも、その言葉がただの出まかせであり、一鬼を騙す為だけのものならば、それだけのことだ。
しかし、そうではないであろうことを、羽月は感じていた。
碧にその言葉を聞かされた直後から、一鬼の精神が揺らいでいたのは、恐らくそれなりの量の怨念を背負ったからだ。
常日頃の彼であれば、いかに己の出生の話に関して敏感とは言っても、そこまで揺らぐことはなかった筈だった。
しかし、その時の彼は羽月が驚く程に揺らいでいた……まるで、己の心臓に宿った怨念に苦しんでいるかのように。
となれば、やはり生前の碧と一鬼の出生には、何かしらの関連性があるのだろう。
「とにかく、勝ちたければ手段は択ばないことだ」
「へいへい、御忠告どうも」
「!……噂をすれば、なんとやらだな。近くに根暗野郎が居るぞ。しかし、この感じ……建物の上に居るのか?」
「本当か? いったい何処に……あっ」
緋蓮の言葉に反応して羽月も一鬼を探そうとして、気付いた。
少しばかり離れた場所にある建物の上を影が走り、そのまま跳躍、そして、空を走って、近くの建物に降り立ったのだ。
明らかに、跳躍ではなく、空中を走っていた……そのことに驚きながらも、羽月は影が一鬼であることを理解する。
『虹色の肋骨』ならば、そもそも宙に浮けるので、空を走る必要がないし、愛梨にはそのような芸道はできない。
そして、何よりも先日の会話で、一鬼が水や空中を足場にできることは明らかになっていた。
まだ数日前に目覚めたばかりの能力であろうに、それをほぼ使いこなしているという事実に、羽月は憧れと嫉妬を覚える。
本当に、一鬼は何処までも真っ直ぐに成長していき、恐ろしい速度で彼を引き離していく。
本当に超えることは愚か、追いつくことすらもできないのではないかと思わせる程の成長速度だ。
本当に勝てるのか分からなくなる程の、圧倒的な能力差だと言える。
「まったく……あの根暗野郎、もうあんなに使いこなしてやがる。益々不利だな、こりゃ」
「あれが上級の妖の特権か……しかし、足がなければあまり意味はなさそうだな」
「確かにそうだが、上級の妖相手に足一本奪うのは非常に難しいぞ。同じ上級の妖でもなければ、無理だな。それに、奴らは腕の一本くらいなら数分あれば再生しちまう。脳か心臓を潰さない限り、妖は死なないんだぞ」
「そうか……なら、やはり一鬼相手に勝つのは難しいな。益々詰んでいるじゃないか」
「だから、自分が勝てる分野で戦えと言ったんだ」
羽月は一鬼が今まで傷を負った処を見た処がないので、まず傷を負わせることから始めなければならないだろう。
しかし、残念ながら彼は一鬼に一撃も加えたことがない……まだ妖として目覚め始めていない頃ですら、身体能力は完敗していた。
況してや、今の一鬼は急速に成長しており、彼らの間にある実力差は絶望的だ。
そもそも人間が妖に挑もうというのが間違っているのかもしれない……所詮、彼らは妖の食糧の一つでしかないのだから。
妖に人間は勝てない……それが暗黙の了解というものだ。
確かに数で圧倒すれば、人間とそう変わらない下級の妖くらいならば倒せるだろうが、中級以上になればそれこそ軍隊が必要になる。
上級の妖に至っては、近代兵器を駆使しなければ、戦うことすら難しいと言わざるを得ない。
超越者は……それこそ、最終兵器である核兵器でも必要になるのではないだろうか。
羽月には、上級の妖や超越者の力の程はまだ分からないが、少なくとも、近代兵器とすらまともに遣り合えることは確かだった。
「なぁ、緋蓮……あの妖狐、近代兵器相手なら、どこまでやれる?」
「……今はあの根暗野郎から半径五メートル以内しか動けないから良い。しかし、もしもあのバケギツネが自由に動けるようなら……制空権は人間には無いんじゃないのか」
「なっ!?……それ程までの相手だというのか!? 音速を超える速度で飛んで、ミサイルまで備えている戦闘機相手にどうやって勝つんだ?」
「実際に相対したことはないが、有名な話だ。殺戮者は音よりも早く動き、鋼を砕き、衝撃波で全てを消し去ったという……戦闘機相手でもまともに戦えるだろうよ」
緋蓮は人間が所有する近代兵器の性能を把握しながらも、それでも碧が有利だと判断する。
羽月はその判断に驚くが、緋蓮が知る碧の伝説は近代兵器相手でも引けをとらないものだ。
音速を超える速さで動き、それがもたらす衝撃波で全てを滅ぼし、自身もその圧倒的な重量と速度で生まれる破壊力抜群の肉弾戦を得意とする。
碧の重量は最低でも一トンを超える……もしも常に浮かんでいられる『虹色の肋骨』でなければ、宿主の家は悲惨なことになっていただろう。
殺戮者として名高い碧の逸話の中に、『矛盾』の話がある。
まさしく、最強の矛と最強の盾のどちらが勝つかを決める戦いが、かつて起こったことがあったのだ。
当時妖の中でも硬化能力に長けていたとある一族が居た。
中でも、その一族最強の戦士は上級の妖で、最強の盾と呼ばれており、同等の上級の妖の攻撃すら防ぎ、逆に粉砕したという。
しかし、そんな最強の盾と呼ばれた妖は、最高の防御を碧の一撃で破壊され、死亡した。
通常、妖は位階が上がる程に内包するエネルギー量と重量が増していくものだが、特に碧は圧倒的な重量を誇っており、他の追随を許さなかったという。
百キロ程度しかない緋蓮と比べれば十倍以上の質量を持ち、当然その重量が音速で動けば、まさしく最強の矛と化す。
その結果、妖の世界において矛は盾よりも強いことが決定したのだ。
「まじかよ……それよりも格上であることが確定しているブルー・シャーマンと紫の妖は、いったいどんだけなんだ。想像もできないぞ」
「ブルー・シャーマンは碧よりも身体能力では劣るだろうが、問題はその能力だ。能力無しならあのバケギツネはほぼ最強だろうが、総合力なら話は別だ。いくらバケギツネが一撃必殺の攻撃を繰り返しても、それが当たらなければ意味がないからな」
「はぁ……改めて考えてみると、本当に上位陣は化け物だな。もしも奴らが生きていたら、それこそ核兵器か大量にミサイルを撃ち込むかしないとダメなんだろうな」
「ああ、きっとそうなるな。確かに近代兵器の性能は恐ろしく良いが、ヘリコプターのように小回りが利いて、音速で動け、しかも一撃で戦闘機を落とせる輩達を相手にするのは、核兵器で焼き払うくらいしないと無理だろう」
羽月としては、まだ納得はいかない点が多いものの、確かに上級以上の妖は脅威だ。
本当に、超越者にでもなれば、人類史上最強にして最悪の破壊兵器である核兵器に頼る必要があるかもしれない。
しかし、そうなったとして、それでもその超越者が生き延びるようなことがあれば、人類の敗北は必至だ。
地球を何度も滅ぼせるような圧倒的な火力でさえ殺せないのならば、それこそ地球から追放でもするしかない。
それ程の力を秘めながら、何故世界を我が物にしようとしなかったのかが不思議なくらいだ。
しかし、それはある意味当然なのかもしれない……妖における力とは、そのまま精神力に繋がる。
詰まる所、完成された精神の持ち主だけが絶対強者になり得、それ以外は排除されていくということだ。
そして、完成された精神の持ち主は、きっとそのような大それたことに興味は無い。
彼らが目指すのは至高の存在であって、征服者ではないのだろう。
「それで、どうする? あの根暗野郎を追うか?」
「……いや、それは止めておこう。そんなことをしたら、前に柿坂が言った通り本当にストーカーだ。流石に男が男の尻を追っかけるのはねぇよ……」
「そりゃそうだ。だが、子が親の背を追いかけるのには何の問題もない。行かないのか?」
「お前、時々というか極稀に賢いよな」
「……おい」
羽月は緋蓮が言い放った言葉に内心驚きながらも、おどけて見せる。
確かに彼女の言う通り、子が親の背を追いかけるのは、何かしらの問題が生じない限り、悪いことではない。
いや、寧ろ子の成長を促すという点においては、推奨すべきであろう。
コンプレックスなどを抱えることもあるだろうが、それでも彼からすれば、決して悪いことではない。
羽月は、その言葉を緋蓮から聞いたことに驚いたが、しかし同時に納得する。
緋蓮はそういう本質に関する話だけはかなりできる……それ以外はてんでダメだが。
口は長年食い続けた人間の血肉の匂いがこびりついており、歯磨きをしてもすぐに匂いが戻ってしまう。
おまけに、料理は壊滅的で、口は悪くて、片付けはできないし、本当に殆どの分野が壊滅的だ。
妖は基本的にほぼ全ての能力が高い筈なのに、まったくそんなことはない緋蓮は、本当に意思疎通が叶わなければハズレの妖だっただろう。
取りあえず、その本質を察知する能力に関してのみは、賞賛に値すると羽月も認めている。
「まぁ、そのことは置いておこう。それよりも、一鬼の奴こんな時間に訓練していやがったんだな……ここ数日バケギツネが姿を現さないことで、体力に余裕でもできたのか?」
「……どうだろうな? 寧ろ、あのバケギツネが自己主張しない方が気になるぞ。いったい何を企んでいるんだか……どうせ碌でもないことだろうが」
「一鬼にまた何かよからぬことをするつもりかもしれないな。あの妖狐はおかしい。過去に何があったのかは知らんが、一鬼を食いつぶすつもりならブルー・シャーマン達の手を借りて止めるさ」
「そこで真っ先に他の奴らに頼らないといけないのは、情けない話だな」
「……まったくだ」
羽月と緋蓮は弱い……片や人間の中では高い能力を持ちながらも、半年しか時間が残されていない宿主で、片や人間の限界を超えた身体能力を持ちながらも、『虹色の肋骨』上位陣相手では赤子のような存在でしかない下級の妖だ。
この組み合わせは最弱とは言わないものの、今現在生き残っている者達の中では真っ先に脱落し得る組み合わせだ。
同じく最弱候補である美空・山吹の組は、家では一鬼と碧に、学校では愛梨とブルー・シャーマンに守られている為、脱落する可能性は実は低い。
逆に、単独行動をとりがちで、おまけに大した戦闘力も持たない羽月達が真っ先に脱落候補に挙がるのはある意味当然であろう。
勿論、これから先誰一人として脱落しないのが最善ではあるが、藍色の妖が暴走していることから、その道は既に途絶えた。
これから先は、まさしく殺し合いが本格化する最も辛い時間の始まりとなる。
羽月はそんな中で、僅か半年しかなかった余命が意味をなさなくなる可能性を密かに感じていた。
これから先、誰かが必ず死ぬのは確定しており、それが彼自身なのか、それとも他人なのかは分からない。
しかし、どちらにしろ、彼はもうすぐ死ぬのだ……その点について悩む必要はなかった。
分かれを大切な者達に告げられるか、告げられないかの違いしか、そこにはない。
碧が姿を現さなくなって四日が経過した。
既にゴールデンウィークの始まりは明日に迫っており、行動を開始する時は近い。
通算して、一鬼と碧の付き合いは二週間を超え、もうすぐ三週間に突入することになるが、どうにも一鬼はその実感が湧かずにいた。
それもその筈、この四日間程彼は碧と全く会話をしていない。
いかに信用できないとはいえ、全く意思疎通する機会がないようでは、今後に大きく影響する。
だからこそ、一鬼はそろそろ碧との関係を改めて、互いに譲歩するしかないと考えていた。
今回に限っては、彼が大きく譲歩するしかないが、今後はしっかりと互いに歩み寄る形に持っていくのが望ましい。
完全に関係性を明らかにして、このような事態になるのを避ける為にも、まずは『仲直り』をするのが先決だ。
どんな形でするのかはまだ決まっていないが、今回は彼が我慢し、次の機会には彼女に我慢して貰う形になるだろう。
「それで、兄さんはいったい何を悩んでいたのか、そろそろ聞いても良い?」
「……美空、その話は後でできないのか?」
「今して。私、兄さんのことが心配だったけれど、下手に刺激しないように我慢していたんだよ? そろそろ教えてくれても良いんじゃない?」
しかし、まず一鬼は目の前でしかめ面をしながら待ち受けている美空をどうにかしなければならない。
空を駆ける能力の訓練を終えてから家に戻った一鬼は、待ち構えていた美空に捕まってしまったのだ。
碧との関係をどう改善するかを考えていた彼にとっては不意打ちだったが、取りあえず肝心の事実は伏せれば良い。
妹に己が妖であることを話しても、混乱させるだけだ。彼女がそれを知るのはまだ速過ぎる。
一鬼にとって、美空は大切な存在であり、その心身共に、彼は守りたいと考えている。
その為には、嘘をつくことも、誰かを傷つけることも彼はやってみせるつもりだ……苦しいとは感じるものの、大切なものには変えられない。
大切な者が居るからこそ、居場所があるからこそ、人間は、彼は生きていける。
その上で、他の者も色鮮やかに輝き、魅了してくれるのだ。
土台である者を、居場所を失うようならば、それ以外は無価値になる。
だからこそ、その居場所を守る為にそれ以外を傷つけるのを、彼は躊躇うつもりは無い。
「……分かった。俺の部屋で話しても良いか?」
「そうだね。それなら、兄さんも逃げないだろうし」
「逃げるとは……随分信用されていないんだな」
「だって、兄さん悩みを私に話してくれることなんて、滅多にないでしょう?」
「男というのは、女に弱みを見せたがらない面倒な生き物だ。今後、男と付き合う時はそのことを覚えておけ」
一鬼にとっての美空と、彼女にとっての彼は同じ家族というカテゴリに振り分けられているのだろうが、同時に大きく認識が異なるのだろう。
彼女はもしかしたら、彼を本当の家族だと、本当の兄妹だと思ってくれているのかもしれない。
だが、本当の彼の出自がどんなに血濡れていて、その心臓に怨念を宿しているかを知れば、それは意味をなさなくなる
所詮一鬼は妖であって、人間でしかない美空達とは相容れることなどない。
彼は妖とは言っても、緋蓮達のように人間に紛れて人間に近い思考をしている妖ではなく、碧達と同じようなそれ以外の世界で生きていく妖だ。
そもそも、緋蓮達すらも人間はただの食糧としか思っておらず、そこに特別な思いは無い。
彼もそれを最近になって如実に実感している……人間など、有象無象でしかないと、彼も思うのだから。
そして、事実妖達が人間を特別な存在だと捉えたことは、過去に一度たりともなかった。
人間が猿と人間を大きく区別し、そこに動物と人間という線引きを明確にするように、妖も己達と人間の間に明確な線引きをする。
妖にとって人間は特別にはならない……それは絶対確定していることであり、覆らない。
彼らが興味を持つのは個であり、人間という標識を施されたカテゴリーではないのだ。
だから一鬼は家族や羽月達を大切にしながらも、それ以外の人間に興味を示さない。
「男の人って、そういう処で意地っ張りだよね」
「そうだな。実際問題、非常に愚かなことだと思う。最終的に重さに耐えられずに壊れてしまうなんてこともあるだろうに」
「……兄さんって、そういう面に関してはドライだよね。なんていうか、感情よりも理論が先行しちゃう人みたいな?」
「実は意外とそうでもない。俺はかなり感情的だぞ」
自室へ向かいながら、一鬼は美空と他愛無い話を続ける。
今こうして互いに表情をころころと変えながら話ができるのも、彼女が彼の守るべき存在だからであって、ただの人間ならばこうなはならなかっただろう。
美空は確かに魅力的な人間かもしれないが、彼からすれば、その大部分の価値を決めているのは、彼の居場所の一部であるという事実だ。
それさえなければ、彼は彼女を切り捨てることができただろう。
この一鬼の思考は純然たる妖のもので、彼らは認めた者に対しては種族を分け隔てずに振舞うが、それ以外には冷たいという特徴を持つ。
碧が妖狐以外の一族に対してそうであったように、一鬼の思考パターンもまた、人間達を有象無象だと認識している。
急速に進む精神と肉体の変化は、彼の心を不安定にし、しかし同時に安らぎを齎す。
彼は確かに本来の姿に戻り始めている―――そう感じているのだ。
「何処がなの? 感情が無いとは言わないけれど、明らかに理論の方が強いタイプでしょう?」
「……まぁ、そんなことはどうでも良い。俺が最近悩んでいたことなんだが……俺とお前達のことについてだ」
「へ?……私達のこと?」
「ああ、美空ももうずっと昔に気付いていただろう? 俺とお前達には―――血の繋がりがない」
本当に一鬼が悩んでいたのは別の問題だが、今彼が話していることも、それに関係している。
つまり、彼は嘘は言っていないのだ……言い方を変えて、相手の理解する内容を意図的に変えているものの、真実を告げていることに違いはない。
そもそも、己の出生に関する情報が余りにも不明瞭であることが、彼を揺らがせたのだ。
今まで彼がこの問題に悩んでいたことは事実なので、そこに嘘の匂いは現れない。
人間も妖も、経験を積めば相手から滲み出るものが分かるようになる。
人間は曖昧にしかそれを感じられないようだが、妖ははっきりとその本質を見抜く。
だからこそ、一鬼と碧は互いの言葉から容易く虚実を見抜き、互いの信用に揺らぎを与えてしまう。
見え過ぎるが故に、互いを盲信することは叶わなくなり、ただ強靭な精神力で以て、互いを曝け出すことを強いられる。
それが、絶対強者達の生き方であり、近い内に一鬼が進む道だ。
「っ……でも、もしかしたら、突然変異でそうなったのかもしれないし」
「なら、何故俺の出生を隠す必要がある? その程度のことで、俺がショックを受けるとでも思っていたのか? いいや、違う……答えは、本当に隠す必要がある程重大な何かが、そこにあるからだ」
「で、でも……」
「その何かこそが、俺が求めているものだ。忘れるな……俺達に血の繋がりなどない。いずれ、父さんに聞いてみると良い」
「っ……」
一鬼の言葉に、美空は愛梨に言われたことを思い出してしまうが、それに彼が気付くことはない。
ただ、何か琴線に触れたということだけを彼は理解し、その原因が愛梨にあるとは気付かないのだ。
無理もない……彼とて、他人の考えを全て読める訳ではないし、寧ろそういった機微が読めないのが彼である。
彼は本質を痛い程に見抜くというのに、機微へと注意を向けることができないのだ。
しかし、それはある意味仕方ないことであると言える。
そもそも神谷家は、心の機微に疎い家系であり、感情よりも理論などの方が優先されてしまう。
同時に、信念を守る為ならばいかなる理論も無視するという矛盾を生抱えてはいるものの、彼らは基本的に理論を優先する。
そんな環境で育った一鬼に、心の機微を優先して感じるようにするのは難しいことだ。
勿論、神谷家の者達が心の機微を感じ取れないという訳ではない。
ただ、そういったものに疎いだけで、全くアンテナが働いていない訳ではないのだ。
寧ろそうでなければ、神谷家はとっくの昔に滅んでいただろうし、最低限の洞察力はある。
しかし、そうやってきた神谷家に育てられた一鬼に、高性能なアンテナを求めるのは間違っているといえる。
「俺はもう十九歳……そろそろ、父さんも話をしてくれて良い筈の年齢だ。だというのに、あのひとは話さない。そこに疑念を抱かない程、俺は良い子じゃないんだよ」
「で、でも……私達は家族だよね? 例え血の繋がりがなくても、心は繋がっているよね?そうでしょう?」
「っ……そう、だな。俺達は家族だ。例え、血の繋がりがなくとも、な」
「そう、だよね。うん! 私達は家族だもん!」
二人は兄妹……一鬼と美空は確かに同じ親に育てられたかもしれない。
しかし、そこに存在するのは心の繋がりなどではない……本当にそこにあるのは、飽くまで彼らが同じ親に育てられたという事実のみ。
そうでなければ、恐らく彼が彼女を大事に思うことはなかった……それ程に、人間と妖の間には壁がある。
もしかしたら少し前までの一鬼ならば、心の繋がりを感じていたかもしれない……しかし、今の彼には、それを感じることはできなかった。
妖として覚醒していくのと同時に、人間への思いやりを忘れていき、一鬼は化け物へと向かいつつある。
そんな中で、彼は朧げではあるものの、ブルー・シャーマン達が何故人間達の被害を嫌うのかを理解しつつあった。
彼らが人間への被害が出るのを嫌うのは、人間が好きだからではない……無駄な殺戮を許さないとう信念を持っているからだ。
彼らはその信念に則って行動しているに過ぎず、真の意味では人間を好んではいない。
究極的には、絶対強者は己の信念のみを貫き、それ以外を軽視する傾向にあると考えて良いだろう。
それ程まで、彼らにとって人間はちっぽけな存在で、信念なくして共存することはできない。
その領域に、一鬼も向かいつつあるのかもしれない……そう感じる程に、彼の心は変化していた。
「満足したか?」
「取りあえずは、ね」
「そうか……良かった。明日の夜に動く。準備をしておけ。頼りにしているぞ」
「ん、分かった」
しかしながら、どんな理由であろうとも、一鬼にとって美空が守るべき存在であることは変わらない。
どんなに愚かな理由がそうさせせるのだとしても、彼は彼女を守る……それが彼の信念なのだから。
信念なき妖は、その心臓に宿る怨念に食い殺され、消滅するだけ……彼にはそれが良く分かった。
不安で、自分が無価値に思えてしまうその感覚を、彼は既に味わっている。
まだまだ一鬼はその重さに耐えられるが、耐えるのは口で言う程簡単なことではない。
罪悪感、無力感、脱力感、疲労……多くの負担が心にかかり、それが肉体にさえも影響を及ぼしていく。
それにどれ程耐えられるかは個々によって生まれながらの差がある為、その上限を超えてしまえば、死に向かうのみだ。
一応限界は本能的に感じることが可能なそうだが、それでも怨念を吸収し続けるのには不安が残る。
だが、怨念を心臓に宿してより完全なる妖として覚醒せねば、一鬼は碧達の戦いについていけない。
何処までが限界なのはか彼にも分からないが、進める限り進むしかないのだ。
己の死を恐れて停止してしまえば、その間に大事なものを失うことになるかもしれない。
不安に押し潰されて、ただただ彷徨っていても何も変わりはしない処か、悪化する可能性の方が高い已上、進むことこそが最善だ。
己を顧みることは後回しで良い……今の一鬼に必要なのは、力であって、安らぎではない。
「明日に備えて早く寝るように。おやすみ」
「兄さんもね。おやすみなさい」
部屋に帰っていく美空を見送りながら、内心一鬼は己の現状に歯痒さを抱く。
碧と思い切った話をするには、ここは少しばかり相応しくない。
美空と山吹が居る為、『仲直り』の最中の碧の言葉を彼女達に聞かれる可能性があるからだ。
彼女が激昂する可能性は十二分に考えられるので、できれば静かな場所で、二人きりで和解するのが望ましい。
そして、その場所を一鬼は知っていた。
まだ数週間前には生きていた、高橋一矢という、彼にとって兄貴分であった男が残した家がある。
そこならば、邪魔は入らない……そもそも、そこに自発的に行こうとするのは一鬼くらいなのだから。
一矢の死が連想されてしまうからこそ、彼らはその場所に向かうのを避ける。
だが、彼は敢えてそこに向かうつもりだ……これから先の戦いに備える為に。
高橋一矢の死を間接的とはいえ引き起こした彼ではあるが、負い目を感じてもそれを止めることはできない。
彼は死者の為ではなく、生者の為に生きているのだから。
「鍵は……あるな」
一鬼は一矢の家の鍵を持っていることを確認すると、部屋の電気を消して玄関に向かった。
その際に、微かに床が悲鳴をあげるのを感じて、彼は己の体重がまた増えたことに気付く。
恐らく、既に彼の体重は二百キロを超えている……この数日で彼の心身は、既に以前のものではなくなっている。
それこそ、まるで別人のようになったと言っても過言ではない程に、根本から変わった。
たった一つの出生に関する事実を知っただけで、一鬼は己の心臓に怨念が宿るのを感じたのだ。
否、もしかしたら彼は最初から怨念を背負っていて、それに初めて気づいただけなのかもしれない。
これからもきっと己の出生の秘密を知る度に、誰かの命を奪う度に、その重さに苦しむのだろう。
そして、彼は―――絶対強者達が待っている領域に足を踏み込んでいく。
「……しかし、どうしたものか」
先日、愛梨から電話で告げられた言葉を思い出しながら、一鬼は玄関を開けて、家を出た。
彼が考えているのは、紫の妖についてである……その宿主が佐村優希である可能性を、先日彼は愛梨に告げられている。
優希がブルー・シャーマンを知覚して、あまつさえ彼に対して評価を下したというのだから、まず間違いないだろう。
愛梨は嘘をつくことはあるが、緊急のことに関しては絶対に嘘はつかない。
一鬼としては、紫の妖の宿主が優希であることは、非常に複雑だ。
藍色の妖の宿主である可能性もあるが、その活動範囲を考慮すると、彼女のそれとは余りにもかけ離れてしまう。
そもそも、一鬼が知る限りでは優希は夜に出歩くことはなかったし、現在もそうである筈だ。
となれば、やはり彼女は紫の妖の宿主であって、藍色の妖の宿主ではないということになる。
仮に優希が藍色の妖の宿主であったのならば、一鬼は迷いなくその心臓を貫いて、彼女の生を終わらせるつもりだ。
藍色の妖の能力が未知数である已上、リスクの少ない宿主の殺害を選ぶのは当然である。
余りにも互いの妖の間に実力差がある場合では、妖を倒した方が速いが、藍色の妖に限っては、その力関係すらも分かっていない。
それでも、碧よりも強いと予想した上で戦いに臨まねば、足元をすくわれるだろう。
「碧、聞こえているんだろう? 一矢さんの家で、少しばかり話をしたい。家の中に入ったら、出て来てくれ」
一鬼は、話を聞いているであろう碧に呼びかけてみるが、返事は無い。
しかし、それで良い……彼は返事など求めてはいないし、もしもこのまま出てこなければ、本当に彼女が宿る骨を切除するだけだ。
妖の再生能力は、心臓と脳以外を再生させる程のものだという説明は、彼も今まで出会った妖の全てから聞いている。
病気の概念もないようなので、自らの手で肋骨を切除するのも不可能ではないだろう。
ただ、問題がない訳ではない。
どの肋骨に碧が宿っているのかが分からない為、いざ切除しようとしても苦戦する可能性が高いのだ。
『虹色の肋骨』はその名の通り、虹色の肋骨の一本に宿っているということだが、それをどう見極めるか考えねばならない。
流石に実際に腹を開いて見るのは難しいし、かといって実際に切除する際には本当に穴を開ける必要がある。
確認は目視以外の方法で行い、その上で実際に切除するのが理想的な方法であろうか。
「……いつの世も、自分が動くのではなく、周りに動かされているだけ、か」
一鬼は生まれつきの妖でありながら、どういう訳か人間として育てられた。
その出生の秘密を知っている筈の碧と父は、頑なに口を閉ざして、彼に事実を教えてはくれない。
そして、ほんの少しだけ明らかになった情報は、彼の一族が妖狐を滅ぼしたというものだった。
ただ周りに流され、望みも拒否もできはしない領域に、彼のこの十九年間はあった。
一鬼は一度たりとも能動的にそれを変えようとしたことはない。
ただ流れに身を任せて、流されている間に出会った者達と触れあい、すれ違い、別れてきた。
そんな受動的な十九年間を送ってきた彼だが、ただ一つだけ変わらぬ望みがある。
それこそが、己の出生を知り、己の正体を知り、己が価値を見出すことだ。
結局の処、彼は己を愛せないままで、己を愛する為にもがいているのだった。
一鬼は、久しぶりに訪れた一矢の家を前にして、何とも言えない気持ちになっていた。
この場所に一矢は眠ってはいないことは、彼が一番知っている……一矢は彼の目の前で、自らの喉をナイフで貫いて死んだのだから。
実に滑稽で、自分勝手で、本当にどうしようもないバカだと思わせる死に方だった。
彼らには一矢を生存させるだけの力が備わっていたのに、その可能性は本人によって断たれたのだ。
一鬼は、それがどうしようもなく悔しいが、しかし引きずることはしない。
何度頭の中でその記憶を再生した処で過去は変わらず、余計に苦しさを増すだけだ。
だが、それもいずれは麻痺へと向かう……耐えることができるようになってしまう。
そして、一鬼はその境地にたったの一週間そこらで辿り着いてしまった。
これは、一矢がいかに大切な存在であったとしても、人間でしかないが故に起きた現象だ。
人間の死を悲しみ、悔やむことはできても、それを長年引きずることは、彼にはもうできない。
そうやって、孤独へと向かっていくのが、絶対強者というものなのだ。
「っ……麻痺するのは弱さだ。痛みが風化するのは、逃げだ」
痛みに耐え続けるのと、麻痺するのは違う……前者は苦しみに耐えているが、後者は耐えられないからその痛みを忘れようとしている。
彼が本当に到達すべきはあらゆる痛みに慣れ、麻痺することではなく、慣れずして耐え続けることができるようになる領域だ。
一鬼という名の通り、いざという時は一人の鬼になり、しかしその心を失わずに罪と向き合える強さこそ、彼が求める最高の領域だ。
ただの逃げ止めることを他者に強要することはできないが、己に課すことならばできる。
静かに玄関を開けて、しっかりと鍵を閉め、チェーンロックもかけると、一鬼は懐かしい家の中を進む。
昔ならば一矢とその両親が居て、少し前に一鬼はここで羽月と緋蓮とぶつかりもした。
ここは多くとは言えないものの、彼にとって大切な記憶が残っている、居場所の一つだ。
彼にとって、望郷の念を抱かせる場所は非常に少なく、それ故に貴重で、重い。
一矢の死の痛みを忘れてはいけない……風化させてはいけない。麻痺させてはいけない。
それこそが、至高へと向かう道だと、彼は信じている。
「碧、出て来てくれ―――話がある」
「……一鬼」
呼び出しに、恐る恐ると言うべき様子で現れた碧に、一鬼は静かに微笑んだ。
内心では、このような事態にまで持ち込んでくれた彼女へ文句の一つも言いたい処だが、彼はそれを表情に出さないように努めた。
碧は確かに傲慢で、他者との協調を全く考えないが、それでも反省しない訳ではない。
今の彼女は、確かに反省をしているようで、それが少しばかり彼を安心させる。
もしも、この段階から反省の色すら見えないようならば、本当に肋骨を切除するしかないからだ。
密かに握りしめていた拳から力を抜いて、一鬼は近くのソファーに腰を下ろした。
その際に嫌な音を立てはしたものの、二百キロ程度では壊れないようで、ソファーは彼の体重を見事に支える。
しかし、このまま進んでいけば将来的に彼の体重は一トンにすら達する可能性も考えられた。
そうなれば、流石に普通の家具を利用することなどできないし、日常生活に支障が出てしまう。
しかし、その解決方法を既に一鬼は見出していた。
空中に足場を生み出して走ることができるのならば、それを利用すれば良いのだ。
まだ完全に制御するのは難しいが、好きな場所に己だけが触れる足場を作るのは不可能ではない。
彼はそれを利用して、家具と己の間に足場をつくって、そこに腰かけるという芸道を思いついたのだ。
完全に制御できるようになれば、地面を歩く時も薄い膜のような足場を地面と足の間に生成することもできるようになるだろう。
「この数日間出てこなかったことについては、言及はしない。俺が話したいのは、俺達の今後についてだ」
「今後……?」
「ああ、このままの関係では、俺達は今後上手くやっていけない。だから、互いのわだかまりをここで清算したい」
「清算って……具体的にはどうするつもりなの?」
恐る恐る空話を聞く碧に、一鬼は静かに目を細めた。
久しぶりに見た彼女の姿はやはり美しく、その雰囲気は何処か無骨さを感じさせるものの、美しさを損ないはしない。
寧ろ、その無骨さこそが彼女の美しさを引き立てているのかもしれないと思える程に、今の彼女は彼にとって魅力的だった。
これによって彼は、妖に近づくことで己の感性がまた変化してしまったことを実感する。
少しずつ碧達妖へと惹かれてき、美空達人間を疎かにしていく自覚が彼にはあった。
しかし、それでも彼は愛梨と美空を天秤にかければ、美空を選べる……家族こそが、彼にとっての最上位なのだ。
種族など問わない……彼が愛した者こそが、彼の居場所となってくれる者こそが、彼の守るべき者である。
そして、そこに属さない碧を排除することに、彼は迷いを持たない。
排除するか否かは今日決まる……全ては、彼と碧次第だ。
「碧、まずはお前に酷いことを言ってしまったことを謝る。すまなかった。誰にだって、触れて欲しくない部分はある。俺は、そういうのを察するのが下手だからな……今後もそういった部分に触れてしまうことはあると思うが、お前はそれを拒否してくれて構わない。俺に気兼ねせず、拒否してくれ。俺は、過去について追及しはしない」
「……それだと、貴方だけが譲歩していることになるわ。私はどうすれば良いの?」
「まずは、碧には今回のようにつむじを曲げて引っ込んだままになるのを止めて欲しい。後は……俺を止めようとする場合は、その前でも後でも良いから、理由を説明してくれ。確かにそれで喧嘩することもあるだろう。しかし、たった一回の喧嘩を恐れて何も伝えなければ、最終的には別離という結果がやってくるだけだ」
「できるだけ、努力するわ。でも……」
「ああ、お前に言えないことは、言えないと説明してくれたならば、それで良い。それ以上は望まない。言った筈だ……誰にでも触れて欲しくない部分はある、と。いずれ話さなければならない時は来るかもしれない……だが、今ではない。もしも、その時が来たのならば、それは俺達の関係が次の段階に進む時だ」
一鬼にとって、碧はただの力であり、彼女に力がなかったのならば、見向きもしなかった相手だ。
確かに彼女は美しく、人間相手では殆ど反応しなかった彼の肉欲を強く刺激する。
だが、それだけだ……彼女から圧倒的な力を取り除けば、彼が惹かれる要素はそこにない。
確かに女として見る分には、彼女は極上の部類に入るのだろうが、彼が望んでいるのはそんなものではない。
神谷一鬼の本当の名はいったい何なのか、彼はどうやって生まれたのか、本当に望まれて生まれたのか……そんな己のルーツこそが、彼が求めているものだ。
碧はその為に必要な要素だが、しかしそれはブルー・シャーマン達さえ居れば、代用は容易だった。
だからこそ、一鬼は碧にその要素を求めることを止め、ただ家族を守る為に、白雪を見つけ出す為に、彼女と協力する。
これは、一鬼が碧との関係性を一時的なものと見做し、風化させることを選んだことを意味していた。
碧には力以外の要素は求めず、ただ七色の妖が滅びるか、仲間となるまでの間だけ行動を共にする仲間だと、定義したのだ。
その結果、一鬼は碧に多くを望むのを止め、ただ力として傍に置くことを選び、それ以外を求め過ぎないようにした。
「次の段階……ねぇ、一鬼。貴方は、本当にそれで良いの? やっぱり、このままだと貴方の方が大きく譲歩する形になってしまうわ。私にできることは、他にないの?」
「そうだな……なら、今まで通り、訓練を手伝ってくれないか? 俺は、もっと強くなりたい。お前達と同じ領域に辿り着きたいんだ」
「そんなことなら、言われずとも喜んでするわ。貴方は強くなる。その血も、そして―――その心臓も全て、強者のものなのだから」
「強者の、もの?」
「ええ、貴方に流れている血も、その心臓も……強者だけが持ち得るものよ。自分を信じなさい……貴方には力があるわ」
碧は柔らかな笑みを浮かべながら、静かにその手を一鬼の胸に持っていく。
そして、心臓のある場所にそっと触れながら、困惑する彼を導くように頷いた。
まるで、その心臓に何か大切なものが宿っているかのように、そこに因縁があるかのように、彼女はただその一点を見つめる。
彼の心臓はきっと彼女の過去にあった何かと関係しているのだろうが、それを追求することは彼にはできない。
一鬼はたった今、下手に彼女の過去を追求しないと告げたばかりだ。
いきなりそれを破るようなことをすれば信用に関わるのは一目瞭然であるし、彼はそこまで愚かではなかった。
だからこそ、彼は艶やかな動作で彼の心臓のある部分を撫でる碧に、追求はしない。
今後過去を知ることで互いの関係性は大きく変動するだろうが、少なくともこのスタンスだけは守らねば、関係は追終わる。
関係が終わる時―――それは、白雪の発見と、一鬼の完全なる覚醒が為された時であろう。
一鬼が完全に覚醒し、碧と並ぶ程の力を手に入れたとすれば、『虹色の肋骨』が消滅した後は碧と協力する必要性がなくなる。
碧は彼から半径五メートル以内の距離でしか活動できないのだから、『虹色の肋骨』が居なくなれば彼にとって必要ではなくなるのだ。
彼女が居れば楽ができることは確かだが、その場合は彼女との関係性が大きく変わることになる。
ただの力から、家族のように大切な存在へと転化できぬ限り、別れは必至だ。
「自分を信じる、か……それで結果が出るのは才能がある者だけなんだがな」
「でも、才能がある者でも、弛まぬ努力をしない限り、結果は出ないわ。いかなる潜在能力も、引き出せなければただのゴミよ。忘れないで……信じなければ、多くの時間を何かを極める為に費やすことなんて、簡単にはできないの」
「怨念で簡単に強くなれる妖がそれを言うか……滑稽と言わざるを得ない」
「勘違いしないで。妖が怨念を得られるのは己の手で殺した妖と、食った他の生物からだけよ。そもそも、怨念で強くなるにも上限があるの。それに、怨念に負けないだけの精神力が必要になるわ。結局才能と精神力、そして実力が必要なのは人間も妖も同じなの」
「……確かにそうだ。そういう情報は初期に教えてくれたら良かったんだがな」
信じるだけでは救われない……そこに能力が伴わなければ意味がない。
圧倒的な力だけではそれを振るうに相応しい理由を見いだせず、力なき信念だけでは理由があっても振るう力がない。
その双方があってこそ、人は強く生きていくことができる。
力だけでも、信念だけでも、生き残ることはできない……双方が伴って初めて、生き残れるのだ。
現代においては、先進国では殆どの者がその力を運や機会という形で与えられている。
義務教育を受ける権利があって、高等教育を受ける権利があって、雇用の機会があって……そんな『機会』という力を、与えられているのだ。
後は、その機会を生かせるだけの能力と信念さえあれば、それだけで力と信念は伴う。
どんなに社会が変化しても、力と信念を併せ持たぬ者は長く生きられない。
だからこそ、一鬼は信念を持たぬ己を悔い、それを得る為に出生の秘密を知ろうとしているのだ。
「そうね。それはまさしく私の責任だわ。ごめんなさい……まさか、こうも早く展開が進むとは思っていなかったの。怨念のことも、超越者のことも、ブルー・シャーマン達が居なければ貴方は知ることはなかったでしょうね。本当に失念していたわ」
「もう気にするな。過程は違ったものの、今は知っている。それよりも、今後のことを考えよう」
「今後のこと?……私と、貴方の?」
「それ以外に何があるというんだ。明日以降包囲網を張ることで藍色の妖の居場所を突き止めるが、奴を滅ぼした後は、紫の妖を倒す―――これに間違いはないな?」
「……ええ、間違いなどありはしないわ。私達の未来の為に、あれは倒す―――確実に」
いかに互いに憎み合おうとも、奪い合ったとしても、一鬼と碧が運命共同体であることに変わりはない。
片方が誰かと敵対すれば、必然的にもう片方も狙われる……特に宿主は、そういったことに陥りがちだ。
『虹色の肋骨』は強い……それを真正面から戦って倒すよりも、宿主を殺害する方が圧倒的に楽であることは、揺るがない事実だ。
故に、碧が紫の妖と敵対することを選べば、一鬼も狙われるのは必至であった。
だからこそ、一鬼達は互いの道を確認し合って進まねばならない。
そうしなければ、思わぬ伏兵によって生を終えてしまう可能性が出る已上、互いに注意を払う必要が出る。
信用だの信頼だのと言っても、結局互いに注意しなければならないことに変わりはない。
自分では間違いに気付けないことなど良くあることなのだから、疑っていると言われようとも、それを怠ってはいけないのだ。
「一つ確認させてくれ……紫の妖の倒し方は、宿主を狙うやり方でも構わないのか?」
「……できれば、私と奴の一対一で勝ちたいのが本音よ。でも、きっと貴方の協力が必要になるわ。その時は……私に力を貸してくれる?」
「ああ、お前がそう望むのなら、そうしよう。俺達は運命共同体だ……お前の敵は俺の敵になり得る。逆もまた然りだ。しかし、だからこそ確認しなければならない……俺にとって大切な者がお前にとっての敵になる時があるかもしれない。お前にとって大切な者が俺にとっての敵になる時があるかもしれない。それを忘れないでくれ」
「そうね……もしかしたら、白雪も貴方にとってはそういう存在かもしれないわ。だけど、私達は、時に非情になるしかないの」
「……そう、だな」
もしかしたら、美空や明が碧にとっての敵になり得るかもしれない。白雪が一鬼の敵になってしまうかもしれない。
そんなことはその時にならなければ分からないことだが、その可能性を互いに考慮していなければ、自滅の道を進むのは明白だ。
互いに守るべきものもなければ、そんなことは起きなかっただろうが、実際はそうはいかない。
そもそも、守るべきものも、目指すべきものも持たない者は、絶対強者にはなれないのだから、まずブルー・シャーマン達の相手にすらならないだろう。
妖は上に行けば行く程、その主義主張が明確になっていく。
碧は己が種族と己の誇りの為に、ブルー・シャーマンは守る為に、生きていた。
そして、そういった明確な主義は揺るぎなく、本質的には彼らを孤独に追いやっていく。
彼らが本当に孤独に陥らなかったのは、その主義を他者に押し付けず、ある程度は妥協できるからだ。
彼らは己の信念を脅かし、邪魔をする者以外に対しては酷く寛大だった。
だからこそ、ブルー・シャーマン達は静かに佇む……強者の風格を漂わせ、まるで子どもの成長を見守る親のように、見守る。
「私達上級以上の妖は、揺るがない信念を持っているけれど、それに反しない限りは、寛大……身も蓋もない言い方をすれば、無関心なのよ。けれど、超越者は違うわ……あれは、精神の弱さを嫌う。所謂クズに対して最も残酷になれるのは奴らね。精神の捻じ曲がった輩が本当に大嫌いなのよ……完全無欠の超越者様達は」
「成程。確かに、ブルー・シャーマンを見る限りでは、彼らは気高さを求めがちだろうな。その場を乗り切る為にへりくだったりすることは耐えられるが、不正などは嫌いそうだ」
「ええ、まさしくその通りよ。奴らは一部とはいえ、まさしく人間が言う神に匹敵する力と精神を持つわ。この世界には、良い処しか持たない者も居ないけれど、悪い処しか持たない者も居ないわ。だから、超越者は己の采配で間引いていくの……本当に傲慢だと思うけれど、悔しいことに、その結果はいつも良いことばかり。超越者は、ただの妖とは一線を画した存在なの」
「そこまでやるようなら、まるで神にでもなった気分なのかもしれないな。しかし、そんな驕りはブルー・シャーマンからは感じられなかった……不思議なものだ」
超越者は気高く、しかし傲慢ではない……そんなことがあり得るのだろうか?
少なくとも、一鬼は気高さと傲慢は裏返しのものであると考えているし、それがどう映るかは見た者次第であるということも理解している。
ブルー・シャーマン達は気高いだけだが、それも見る者の状況ではそのままにも、傲慢にも見えるに違いない。
少なくとも、碧から見た場合、彼らは傲慢であるようだ。
一鬼からすれば、ブルー・シャーマン達の生き方は酷く羨ましい。
気高く、強靭な精神を持ち、それに見合うだけの能力も合わせ持つのだから、そのどちらも中途半端な彼には目標にしたい存在だ。
人間と比べれば、そのどちらも彼は既に人外の域にあるのかもしれないが、そもそも彼は人間ではなく妖だ。
妖の基準で見れば、一鬼などまだまだ中級妖から上級妖になるか程度の力しかない。
しかも、その精神はまだ不安定なのだから、碧達絶対強者とは比べるまでもない程度の存在だ。
碧はかなり精神に不安定さが残っているものの、その力は本物で、単純な戦闘能力ならば超越者である筈のブルー・シャーマンすら圧倒する。
そんなブルー・シャーマンも、戦闘能力以外の面において畏怖を感じさせる何かがあった。
彼は、そんな絶対強者達に憧れ、超越者を尊敬する。
どちらも、彼にとっては目標であり、いずれ肩を並べたい者達だった。
「超越者はそういうものよ。権力や序列に興味など示さず、ただ己の守るべきものだけを守り、求めるべきものだけを求める……物凄く真っ直ぐな存在なの」
「その一人である紫の妖を、お前は恨んでいるのか。そこまで素晴らしい精神の持ち主を。ああ、勿論追求はしない……俺も分かっているつもりだ。この世界には、いかなる地位も、気高さも止められないものがある―――復讐だ」
「ふふ……貴方も分かるようになってきたわね」
「俺も最初の戦いで少しだけ分かったんだ。一矢さんの死は、俺にそのことを教えてくれたよ」
相手がどんなに矮小でも、どんなに卑劣でも、どんなに素晴らしい存在であろうとも、この世界全てを支える存在だったとしても、復讐は平等に襲い掛かる。
どんな悪人も、聖人も、その地獄の業火の前では皆平等で、ただ過去の行いがそれを齎す。
悪意を以てやったことが、善意で以てやったことが、誰かを救う為に為したことが、誰かを殺す為に為したことが、復讐の刃を己に向けさせる。
酷く無差別で、ある意味平等なそれには、いかなる要素も跳ね除ける強さがあった。
一鬼は、一矢の死んだ最初の『虹色の肋骨』であるイエロー・レディーとの戦いで復讐を知った。
それまではただの想像でしかなかったものが、ざらついた触感を伴い、彼の世界に現れたのだ。
誰にもそのことを明かさずに彼は今まで歩んできたが、その心が復讐に囚われることはなかった。
ただただ、もしも己がそれを為す時どうなるのかを考え、密かにそれが為される時を彼は待っている。
しかし、復讐するべき相手が現れるまでは、その研ぎ澄ました刃は誰にも見せない……必ず復讐を達成する為に、彼はそうする。
『虹色の肋骨』などというものをこの世に生み出した者の正体を知った時、彼はその刃を凶刃に変えるつもりだ。
「一鬼……復讐は酷く苦しいものよ。どんなに忘れようとしても、それが終わらない限り前に進めないの。だって、復讐は己が前に進む為に必要なものなんだもの……他者の無念を晴らすとか、そんなものはただの言い訳よ。少なくとも私は、己が進む為にそれを為すわ。例え、その結果誰かに憎まれても構わない」
「そうだな……憎むよりも、憎まれる方が遥かに楽だ。仇を取るのは、己が恨みを晴らす為だ。決して死んでいった者達の為ではない。死んでいった者達が望むから復讐するのではない。己が望むから、復讐するんだ。そうしなければ、その時止まってしまった時間が進むことはない」
「まさしくその通りよ。一鬼、そうやって己を見据えなさい……そして、それでも揺るがない意思を持つの。そうすれば、他者の雑音などに惑わされはしないわ。復讐を半端に諦めれば、その心はもう前に進めないの……そうならない為に、貴方は鬼になるのよ―――復讐の鬼に」
「言われずとも、そうするさ」
一鬼にとって、復讐とは己の中で止まってしまった時計を再び動かす為に必要なものだ。
仇を取ることが目的なのではない……仇を取ることで、その時計が動くようにするのが目的なのだ。
大切なものを奪われても復讐を選ばないのは、それに対する己の気持ちが中途半端な場合と、大切な者の言葉を守る為の、二つがある。
しかし、どちらにしろ、そのまま進めば心が死ぬことに違いないのは明白だった。
復讐の果てには何もないというのは欺瞞だ……そこには確かな意味がある。
復讐を誓った者にしか感じることのできない、止まってしまった時計を再び動かすことができる。
復讐した果てに得るのは悲しみと、生きる意味の喪失だが、それは一時的なものでしかなく、回復する可能性はあるのだ。
だが、復讐すら為せなければ、待っているのは心の死だけ……時計は永遠に止まったまま。
だからこそ、復讐はなくならない……己を救う為に、それは存在するのだから。
「一鬼、改めてよろしく頼むわよ。私の名前は碧―――この心臓にかけて、貴方を守るわ」
「こちらこそ、改めてよろしく頼む。俺の名前は一鬼―――この心臓にかけて、お前の妹を見つけ出そう」
二人は力強く握手をしながら、互いの眼を直視した。
今互いに語ったことに嘘偽りなどはない……そこにあるのは、本当の決心だけだ。
互いに己の心臓のある場所に拳を置き、その心臓に誓う……それこそが、妖にとっての最大の信頼の示し方だ。
心臓は妖の力の源そのものであり、それをかけるということは、己の命をかけることを意味する。
まさしく、絶対遵守の約束をここに果たしたと言える程、厳格なやり取りを二人はした。
一鬼はそのことをまだ頭では理解してはいないが、しかし何処か根っこの部分では感じている。
今この瞬間、更に妖に近づいたのだという実感が彼にはあった。
そして、同時に鈍い痛みが上半身に――心臓の辺りを駆け巡るのを、彼は感じている。
痛みの正体は分からないものの、彼は一瞬だけ、それに関わる何かを思い出した。
己に迫る黒い何かと、その次の瞬間に訪れた激痛―――その向こうにあった、黄金と新緑。
それが何なのかを思い出せないまま、彼は静かに幻のようなその痛みに耐えるのだった。
闇の中で、チリチリと首筋を焼くような感覚に、彼は気付いた。
全ての『虹色の肋骨』が集っている筈の町から、一つだけ気配が離れて始めている。
他の妖達も既に気付いているに違いない……その気配は、今最も注目されている者の気配なのだから。
この町で出た犠牲者の数は既に百に近いが、その程度の数では超越は叶わない。
藍色の妖は間違いなく超越することを望んでいるが、それでもまだまだ足りないのだ。
きっと、これから藍色の妖は邪魔の入らない別の場所で多くの人間を食うのだろう。
それは酷く非効率的な方法だ……妖の心臓に宿った怨念の方が、ずっと強い力を与えてくれるのだから、妖を狙えば良いのだ。
安全策のつもりで妖を避け、人間を食っているのだろうが、それが却って他の『虹色の肋骨』達を刺激している。
近い内に藍色の妖は討伐されるだろう……仮に他の『虹色の肋骨』が失敗しても、彼がそれを為す。
彼はただ、大切な者を守ることさえできれば良い。
その先にあるのが、全人類の滅亡だろうが、他の妖の全滅であろうが、彼は構わない。
だが、それは飽くまで最悪の状況における覚悟であって、彼が目指すものは違う。
その命だけでなく、心も守る……その為に彼は生きてきた。復活した。
七体の妖に第二の生を与えた者を見極め、蘇った殺戮者を止めることこそが、彼に課せられた最後の試練だ。
闇の中で、その紫電の眼をゆっくりと開けながら、彼は静かに待つ―――守るべき者に必要とされる時を。
その手が、再び誰かの心臓を貫くことになるか否かが、もうすぐ決まる。




