第八話
美空はその日、一鬼の様子がおかしいことにすぐ気付いた。
朝から何処か心ここにあらずという状態で、彼らしくなかった為、彼女はすぐに気付いたのだ。
確かに彼はいつも心ここにあらずと言って良い状態だが、今回は茫然自失に近い。
いつもの彼は何かを考えているが、今日の彼は寧ろ真っ白だった。
その違いが分かるのは、彼女くらいであろう。
そのことに若干の優越感を感じながらも、しかし美空は何もできずに居た。
一鬼に問いかけても、返ってくる答えは曖昧なものばかりで、彼を苦しめている原因であろう何かが分からないのだ。
原因が分からなければ、彼女もどうしようもないのだが、彼は頑なにそれを話そうとしない。
その事実は、彼女が彼にとって頼れる存在ではないことを意味するのだろう。
それが分かってしまうだけに、彼女もまた少しばかり憂鬱な気分になるのだった。
「はぁ……」
「どうしたの、美空。溜息なんかついちゃって?」
「……私って頼りなかったりするのかな?」
「え? 何を今更。美空が豆腐メンタルなのはいつものことでしょう」
「ちょっ……豆腐メンタルは流石にないでしょう?」
昼休み、友人達と食事をとっている時に思わず美空は溜息をついていた。
それに反応した友人達に弄られるが、彼女も苦笑しながらその言葉を受け止める。
確かに彼女は余り精神が強いとは言えない……一年前の事故から立ち直れていないのも確かだ。
一鬼に大きく依存している為、彼が不安定になることで彼女もまた不安になってしまう。
神谷美空は、両親の持つ強い心を受け継ぎきれなかった出来損ないだ……少なくとも彼女自身はそう考えている。
両親とは似ても似つかない容姿で生まれながらも、その強い心を受け継いだ一鬼と比べてしまうと、彼女など月と鼈の、鼈の方であろう。
平時ならば彼女の方が上手くやる自信はあるが、異常事態においては、彼は無類の強さを発揮する。
一年前の事故でもそうだったように、守る意思を受け継いだ彼は、誰かを守るだろう。
その強さに憧れ、妬み、惹かれ、彼女は今まで生きてきた。
「どうせ、またお兄さんのことなんでしょう?」
「えっ……どうして分かったの?」
「いや、美空の話すことの半分くらいはお兄さんのことでしょう。自覚ないの?」
「……うん」
「「「へー」」」
己を可愛そうな眼で見る友人達に、美空は理不尽さを感じてしまう。
彼女としては、兄のことは確かにそれなりに話しているかもしれないが、他のことだって沢山話をしているつもりだ。
あまりファッションなどに興味がない彼女ではあるが、友人達との話についていく為に、そういうものも情報は集めている。
内心煩わしいと思いながらも、彼女は周りにある程度は足並みを揃えている筈なのだ。
こういった些細なことでミスをしていることに、彼女は思わず自嘲する。
「それで、お兄さんがどうしたの? 恋煩いか何か? 相手はあの柿坂さん?」
「そういうのじゃないよ。ただ、兄さんが落ち込んでいるみたいだから、話を聞いていたんだけど……答えてくれなくて」
「それって、単純にあんたに言えない問題なんじゃないの? あんたに言えば、あんたが傷つくか、怖がるような内容なのかもしれないよ」
「ああ、確かにそういう可能性もあるわね。美空のお兄さん、見た感じだと、そういうことは美空に言いそうにないし」
「う~ん……そうなのかな?」
友人達の言葉に、内心美空は納得する。
一鬼は両親から見事守る者の精神を受け継ぎ、今まで彼女や周りの者を守ってきてくれた。
それに関することで彼は苦しんでいるのかもしれない……相談したくてもできないことなのだろう。
以前彼女に彼はこういった……彼は既に十分彼女から与えられているから、これ以上は必要ない、と。
その精神こそが、彼女に悩みを打ち明けてくれない原因なのだろう。
守る者は守る者でしかなくて、守られてはいけない……彼はきっとそう考えているのだ。
「きっとそうだと思うよ。美空はただ待ってあげるだけで良いんじゃないかな? その内、準備ができたら向こうから話してくれると思うよ」
「そうだね。家族なんてそんなものでしょう」
「なら、良いんだけど……」
美空は内心、己を頼ってくれない一鬼のことを恨めしく思う。
確かに彼女は彼からすれば頼りないかもしれないが、それでも彼女は世界に二人しかいない兄妹だ。
もっと頼ってくれても良いのではないか……彼女はそう思わずにはいられない。
だが、そんな彼女がいかに自分勝手なことを考えているかは、彼女の現状を他者が見れば分かることだ。
神谷美空は一年前の事故から立ち直れておらず、兄である一鬼に依存している。
表だって依存している訳ではないが、彼を心の拠り所にしているのは確かで、彼無くしてはまともな精神を保つのは難しい。
母を失い、多くの死者が出た大事故の中で、兄こそがその中心に居た……何度も轢かれ、撥ねられ、それでも生きていた。
そんな兄に彼女は依存することで、平静を保っている。
神谷美空は守る者の精神を持つ者達の血肉を受け継いだ筈なのに、その魂を継ぐことは叶わなかったのだ。
彼女は守るのではなく守られる側へと回ってしまい、今はただ普通の人間として生きている。
勿論、神谷家の人間もまたただの人間ではあるが、彼らは代々守る者の精神を受け継いできた一族だ。
どんな形であれ、何かを守って生きてきた……そんな、愚直な血筋だった。
美空は、まさにその血を汚す者なのだろう。
「皆、ありがとう。取りあえず今は見守ることにするね」
だからこそ、彼女は一鬼を羨み、妬み、しかし惹かれるのだ―――自分にないものを全て持つ彼に。
ボロボロに崩れ落ちた壁を軽く蹴りながら、羽月は溜息をついた。
原因は、彼の後ろで仁王立ちしながら、建物に開いた風穴越しに空を見上げている一鬼である。
既に彼から話を聞いた羽月は、色々と言いたいことがあったが、取りあえず彼の求める答えを言うことにした。
時間は既に午後五時時を過ぎており、美しい夕焼けが、妖の時間の襲来を知らせる。
闇夜の中で、再び藍色の妖による死者が出るのは明白だが、今の彼らにそれを止めるのは難しい。
だからこそ、手が届く場合には、確実に潰しておかねばならない。
そんな状況下で羽月は一鬼から呼び出されたのだが、その内容に彼は内心呆れていた。
「一鬼、そんなことを気にするなんて、お前らしくないぞ。碧が言ったことが事実だったとしても、お前個人には関係ないことだ。親の罪を子まで受けることがないように、罪とは個人に与えられるものだろう。殺人犯の子は親が犯した殺人の罪を被らない。それを勘違いした輩が、蛙の子は蛙だと考えて新しい憎しみを生むんだよ。お前が同じ一族であろうが、何も関係していないのならば、そこに罪は無い」
「……ああ、分かっている。分かっているが……やはり、そう簡単に割り切って良いものではないだろう。それに、あれから碧も引っ込んでしまって、俺の問いに応えてくれない」
「はっ、そんな妖見限れ。はっきり言わせて貰うが、あいつは信用できない。お前を陥れようとしているのは明らかだ。お前が出生に関する話に弱いのを見越して、そんなことを言ったんだよ。なぁ、一鬼……俺を失望させてくれるな。お前は、そんな弱い奴じゃないだろう?」
「そうだな……そうでなくては、俺に存在価値などないか」
羽月が述べた言葉に、一鬼は苦笑しながら頷く。
それが彼には非常にもどかしく、しかし同時に己が一鬼の役に立っているのだということを実感させる。
己が超えるべき男が軟弱なことを言っているからこそ、彼は叱咤するのであって、それ以上の意味はそこにはない。
確かに彼らは親友だ……しかし、少なくとも羽月にとっては、一鬼は父親の代わりという側面が強い。
そもそも、もう羽月には時間が残されていない……残されている時間は、たったの半年だ。
その期間内に一鬼を越えなければ、死んでも死にきれないだろう。
もはや半分生ける屍となっている彼にとっては、一鬼を超えることのみが生きがいだ。
詰まる所、このようなことで悩んでいる一鬼を見たくないというのが彼の本音だった。
神谷一鬼という男は誰よりも強くあらねばならない。
佐藤羽月が憧れ、その背を追いたいと思った男はこのような弱い男ではない。
「一鬼、例えばお前の家族が誰かに殺されたとしよう。その時、お前は復讐をするだろう……どうやって、復讐する?」
「どうやって、か……そうだな、俺なら、殺した犯人だけを殺し、家族には、手は出さないだろうな。寧ろ、向こうが復讐をしかけてきたのを逆襲するのを狙うだろう。そこには、正当防衛という殺しを見逃す理由がある。殺し放題だ」
「……まぁ、お前の場合はそうだろうな。とにかく、復讐とはそういうものだ。だから、碧も同じだろう。お前に恨んでいないと言いながらも、内心では怒り狂っている筈だ。お前を八つ裂きにしたくて堪らないはずだ。いずれあいつは、お前を殺す。だから、あいつのことは捨てろ。あいつはお前の妖には相応しくない」
「確かにそうかもしれない。だが、俺の出生のことを本当に知っているのだとすれば、そう簡単に捨てることはできない。誰も教えてくれなかった俺の情報が、そこにあるかもしれないんだ。知らない方が良いこともあるだろうが、こればかりは知らねばならない」
一鬼の言葉に羽月は強い覚悟を感じるが、それに素直に頷くことはできない。
彼が人間ではなく妖であり、しかも妖狐を滅ぼした一族の者であるということが本当ならば、その身に降り注いだ怨念は軽視できない程の量だ。
殺戮を楽しんだ妖狐を滅ぼしたのだから、それは当然のことなのだが、そこにどのような残虐な物語が眠っているかは分かったものではない。
一鬼はそれを直視しようとしているのだ……羽月はこれに反対こそすれ、賛成などできなかった。
勿論、人間である羽月と違って、彼の心はとてつもなく強いだろう。
妖は殺した者の怨念を力として成長するのと同時に、それを制御する精神力を必要ともする。
並大抵な精神力では精神が壊れてしまう……だからこそ、半妖であった柿坂愛梨は精神不安定だったのだ。
思念というものは、空間に残ることがある……俗に言う残留私怨というものである。
これを彼女は感じ取ってしまう……人間達が感じ取る感情を、様々な怨念を受信してしまう。
感情エネルギーというものは、途方もなく大きな力であり、時に命を奪う程だ
それを、半分しか妖でない柿坂愛梨が受け止めきれる筈もなく、徐々に彼女は壊れていった。
半分が人間である彼女は、たった半分の妖の力にすら最初は耐えられなかったのだ。
ブルー・シャーマンが制御法を教えなければ、一鬼がその能力を無効にできなければ、とっくに彼女は壊れていただろう。
それ程に恐ろしい怨念を膨大に抱えるであろう過去を、態々知る必要は無い。
「一鬼……お前、死ぬつもりか? 怨念を一身に背負うことになるぞ?」
「……どういうことだ? 怨念を背負うというのは、殺された一族の無念を思い知るということか?」
「違う。まさか聞いていないのか? 妖は、怨念……つまり残留思念を力としていて、人間を食ったり、他の妖を殺すことで得るんだ。殺しまくった妖狐達を滅ぼした妖の一員で、尚且つ唯一の生き残りなら、その怨念を一人で抱え込むことになるかもしれないんだぞ? 死者の怨念は、殺した者に向かうんだからな」
「……それでも、知らねばならない。そこに、俺の生きる意味がある気がするんだ。美空や父さんに依存している、守るという理由ではなく、俺が心の底から求める真なる理由が」
「お前……」
羽月は、一鬼が怨念のことを碧から知らされていないことに驚いた。
その情報は非常に重要なもので、ただ強くなろうとすれば良いだけではないということが分かる。
強くなるには、それに伴う精神力が必要とされ、それがなければ消滅するのだ。
この最低限の情報を知らずして、ただ上を目指すのは危険過ぎる。
しかし、それを知っても彼は止めないと言うではないか。
一鬼の言っていることを理解した羽月は、呆れと憧れを同時に抱いた。
本当は目標としている彼が壊れてしまうのではないかという不安があるが、それを跳ね除けそうな程に、一鬼の意思は固い。
己のルーツを辿る時に生ずる危険性を知っていながらも、彼は挑もうとしているのだ。
そこに何があるのかは羽月には分からないが、少なくとも一鬼はそこにあるものを何かしら感じ取っている。
どんな困難でも立ち向かうことができる強靭さを彼が手に入れてしまえば、益々羽月が彼を超えるのは遅くなる。
もしかしたら間に合わないかもしれない。
「……分かったよ。お前の好きなようにやれ。だが、答えを見つけた後は―――お前の肋骨に宿る妖の処分の仕方を考えろ」
「ああ、分かっている」
しかし、それでも羽月は一鬼の背中を押した。
彼がこれから先どのような困難に立ち向かうかを凡そ予想しながらも、制止を諦めたのだ。
羽月にとって一鬼は超えるべき壁であり、その情けない姿を見たいとは思わない。
彼は常に壁であり、羽月にとって最高の存在でなければならない……だから、彼は止めなかった。
止めてしまえば、羽月が憧れる一鬼ではなくなってしまうかもしれない。目標が消えてしまうかもしれない。
そして、そうなれば―――羽月は本当に生ける屍になってしまうのだ。
「一鬼、再三言うが、碧という妖は信用できない。少なくとも、今のあいつはお前にとって害にしかならない。それを忘れるな」
「ああ、覚えておく。羽月も、藍色の妖には気を付けてくれ。碧と同等程度には思っていた方が良いだろう」
「分かっているさ。それよりも、お前柿坂と付き合い始めたって本当か?」
「……本当だが、誰から聞いた?」
「柿坂から連絡があった。律儀に、嫌味と一緒にな。あいつ、俺らに対しては本当に性格悪いぞ。もう少し手綱を握っておけ」
互いに注意をした後に、羽月は一鬼に愛梨のことを尋ねたが、彼の返答から事実だと悟る。
羽月に対しては非常に厳しい愛梨だが、それはある意味一鬼に対しても同じだろう。
彼女は彼に対してのみ、本当に何の束縛もなく接することができるのだから。
今までは彼が持つ唄とやらに彼女も惹かれ、依存していたのだろうが、既にその段階は終えている。
羽月は一鬼からの報告で、愛梨が能力を制御できるようになったことを知っていた。
ブルー・シャーマンによる訓練で制御方法を得た彼女は、今や精神的に余裕があるように見受けられる。
羽月としては、今までの彼女では不安だったが、今の彼女ならばもしかしたら、という思いもある。
それ程に安定しているのだ……不安定さがなくなれば、彼女は確かに心強い味方だ。
思考を読み取る力を使えば、宿主だって見つけることができるのだから。
「ああ、そうしよう。愛梨も、以前とは違って俺意外に対しても安定しているようだからな」
「あの女はかなり化けるが、能力に関しては藍色の妖の宿主を見つけるのに使えそうか?」
「あまり無理はさせたくないが、一日一時間くらいならなんとかなる筈だ。だが、聞き取る量を増やせば、精神汚染の危険性が高くなる。まずは、確実に捜索範囲を狭めたい」
「ああ、分かっている。捜索の予定は繰り上げるか? その方が被害は少なくて済むぞ」
「……いや、俺達が下手に動いて感づかれると、活動を止める可能性がある。もう少し待とう」
一鬼の判断に、羽月は苦笑しながら頷く。
彼は今週襲われる人間達のことなど、少しも考慮していないか、考えた上で切り捨てている。
既に数十人が食われているというのに、これ以上待つという判断をするということは、そういうことだ。
どちらにしろ、彼はこれ以上犠牲者が増えることを理解しながら、選択した。
それは人間達にとっては酷く残酷な選択だが、羽月は文句を言うつもりは無い。
羽月も、結局は義母である綾子や親友である一鬼達が無事ならば、他は切り捨てられる人間なのだ。
藍色の妖の行動範囲が綾子の活動範囲と全く被っていないことから、彼も今回はそこまで急ぐつもりは無い。
寧ろ、焦って急いだことで、彼らの妖の内一体でも藍色の妖に殺されてしまえば、より力の差は開く。
妖の持つ怨念は人間とは比べ物にならない純度で、そちらを狙う方が効率は良い。
それを考慮すれば、他の者達の為とはいえ、彼らは迂闊に行動をできないのだ。
「分かった。確実に詰めたら、後は奇襲だろう? 宿主を殺す方が確実だが、どう思う?」
「ああ、今回の奴に関してはその方が良いと思う。ここまで大規模に殺しているとなると、宿主が協力しているか、活動可能な範囲が異常に広いかだからな。前者なら、迷わず殺そう。後者なら……難しい所だ。まず、宿主を見つけるのが困難だし、そもそも宿主が妖のことを知らない可能性が高い」
「そうだな。その場合は妖を倒すしかないが、どれくらい強いか分からない」
「ああ、その場合は容赦なく数で押す。碧とブルー・シャーマンで一気に倒すか、封印とやらを使うさ。緋蓮と山吹にはサポートに徹して貰うことになると思う」
「無難な手だ。橙色の妖の能力があれば、緋蓮の能力も十分に生かせる」
藍色の妖の討伐に関しては、一鬼と羽月の意見はほぼ一致している。
できるだけ確実に、味方の妖を一人も失わずに勝利することは決定事項であり、追い詰めて数で押すのもほぼ確定だ。
戦闘力では劣る緋蓮と山吹をサポートに回して、ブルー・シャーマンと碧が主に戦うことになるのは必至なので、それも確定。
強いて言えば、機動力のある一鬼が碧と共に前衛を務め、ブルー・シャーマンが後衛に居るという形になるだろう。
羽月はブルー・シャーマンの能力を把握していないが、後衛を任せることで、接近戦が苦手であると思わせるのは有効な手段だ。
実際は、ブルー・シャーマンも恐ろしい程に接近戦をこなせるし、不死であることを利用して、相手を足止めすることも可能だろう。
しかも、ブルー・シャーマンはそういう作戦も自発的に考えられるので、益々当たりな妖である。
戦闘もでき、頭も回り、おまけに裏切りの可能性は限りなく零という、最優良物件だ。
今の処、間違いなく最優の『虹色の肋骨』であろう。
「問題は、藍色の妖の能力だが……こればかりはこの目で確かめるしかない。見極めるぞ……超越者とやらの力を」
「……やはり、藍色の妖も超越者なのか?」
「まだ分からないが、その可能性は高いと思う。ブルー・シャーマンと同等以上と考えておかないと、不意を突かれるぞ。油断はしないに越したことはない」
「確かにそうだが、あまり過剰に見積もるのも危険だ。他を疎かにしがちだからな」
「他?……紫の妖が介入してくるとでもいうのか?」
紫の妖は、ブルー・シャーマンが最強だと明言している相手だ。
少なくも彼は紫の妖に勝てないと思っているようだし、碧も勝てないと考えて良い。
羽月の見立てでは、ブルー・シャーマンは碧よりも総合力ならば優っている。
彼は一鬼の報告で、ブルー・シャーマンが純粋な身体能力では碧に圧倒されていることを知ってはいるものの、その評価は揺るがない。
そうさせる程の何かが、ブルー・シャーマンにはあるのだ。
流石に、ブルー・シャーマンもまだその何かを彼らに教えてはくれていない。
だが、藍色の妖の戦いでは、その何かを存分に発揮してくれるだろうと、羽月は考えている。
碧は確かに羽月から見ても怖いが、彼女の場合はその身に背負った怨念が故だ。
しかし、ブルー・シャーマンは違う……もっと別の、全く別次元の力をその身に宿している。
その別次元の何かこそが、超越者とただの妖を分ける境界線であろう。
「いや、ただ……碧に話を聞いて以降、少しばかり感覚に引っかかる気配があってな」
「気配?……今までとは違うものか?」
「ああ。実を言うと、その時からこの町に居る妖の気配を感じられるようになった。良く分からないが、少しは妖としての覚醒が進んだようだ。それで、その気になる気配なんだが……俺を呼んでいるような気がする」
「呼んでいる?……お前を、か?」
「ああ、俺に何かを伝えようとしている。今回行う藍色の妖討伐は大掛かりだ。間違いなく紫の妖の関心を引くだろう。もしかしたら、接触してくるかもしれない」
一鬼の言葉に、羽月は内心恐ろしいものを感じた。
紫の妖が一鬼を呼んでいることが意味するものはいくつか考えられるが、どれも余り良いものではない。
一鬼を食おうとしているか、仲間として引き込もうとしている……それが妥当だ。
ブルー・シャーマンが尊敬している已上は、それなりに洗練された精神の持ち主なのだろうが、油断はできない。
超越者が皆ブルー・シャーマンのようであるとは限らないのだ。
何よりも、一鬼が完全に人間を止めてしまうことは、羽月としては余り嬉しいことではない。
それなりの決意を明らかにし、納得のいく過程を踏んでくれるのならば、彼も止めようとは思わないが、そうでなければ、最悪彼は目標を失う。
元目標となった一鬼を殺すようなことになるのは彼も避けたい。
そういう意味でも、紫の妖の存在は彼にとって不気味だった。
「一鬼、そのことは柿坂に……いや、ブルー・シャーマンに必ず伝えておけ。あいつは紫の妖と知り合いだそうだから、何かアドバイスをくれるかもしれん」
「ああ、そうする。しかし……やはり羽月もブルー・シャーマンは信頼できると分かるか」
「ああ、話せばすぐに分かる……あいつは敵対の意思がない。戦いも好んでいない。明らかに戦士ではなく、探究者だ。力ではなく理を求めていた者だと感じた……碧とは正反対だな」
「そうだな。あれは攻撃されない限り、誰かと敵対することを嫌うタイプだろう」
ブルー・シャーマンに対する一鬼と羽月の見解は、ほぼ一致している。
妖というのが本当かどうか怪しい程に異質な妖であり、それはある意味妖とは正反対の性質を持つ。
妖が人間を惑わし、食い殺し、恐怖させる存在ならば、彼は人間を助け、癒し、畏怖させる存在だ。
似ている一面はあるものの、やはり根本的な部分が違う。
碧達が破壊し、奪う者ならば、ブルー・シャーマンは守り、与える者だ。
片や暴虐の限りを尽くしてきたという妖狐最強にして、最も多くの命を奪った殺戮者であり、片や不死の境地に辿り着いた探究者である。
対照的というよりも、寧ろ全く違うベクトルに特化した存在であると考えるべきなのかもしれない。
だが、ただ一つはっきりとしていることがある。
ブルー・シャーマンは信頼できるが、碧は信用もできない―――その羽月の意見は変わることはない。
「……そうだ。最近佐村と会っていないようだが、何かあったのか?」
「佐村優希なら、会いたくないから距離を置いている。あいつとは関わりたくはないからな」
「おやおや、一鬼様にしては珍しく毛嫌いなさっているようで。仮にも幼馴染だろうに」
「茶化すな。単純に距離感を感じるだけだ。寧ろ毛嫌いしているのは羽月の方だろう?」
一鬼の言う通り、羽月は優希を毛嫌いしている。
いや、正確には佐藤羽月と佐村優希が互いを毛嫌いしているという方が正しいだろう。
優希は大学を辞め、就職もしないで遊んでいるように見える羽月が一鬼と関わるのを快く思っていないし、羽月は歪な彼女の本性を知っている為、一鬼と接触させるのを嫌っている。
一鬼が優希を苦手だと思っているのは正解であると、羽月は思う。
佐村優希という女は、一鬼に惹かれた歪の一人であると彼は考えていた。
一鬼を真似て異常になりきろうとしていたが、なりきれずに諦めたただの人間……それが彼女だ。
彼女は一鬼の真似をしようとして失敗し、痛みに耐えるのではなく痛みを忘れる道を進んでしまった。
それは一鬼の持つ強さとはかけ離れたものだというのに、そうなってしまった。
己の気持ちすら理解できていない癖に、佐村優希は一鬼にぶつかろうとする。敵対しようとする。
何故ぶつかろうとするのかを理解しないままに、一鬼を排除しようとするその姿は非常に滑稽だ。
羽月からすれば、己が思いすらも理解できず振り回されている子どもにしか見えない。
実際、そうなのだろう。一鬼に依存していたという頃から、佐村優希は変わっていないのだろう。
神谷一鬼を食い潰す、害虫なのだろう。
だからこそ、彼は密かに優希が藍色の妖の犠牲となるのを願っていた。
「おうよ。あんな奴が生きていると考えるだけで、嫌な気分になるね!」
「笑顔でいうな。しかし、佐村さんには悪いが、俺もあいつに関しては守るつもりはない。俺には必要ない人間だ」
「……お前、時々あり得ないくらい残酷だな。拾える命は拾うんじゃなかったのか?」
「手が届く範囲では、だ。俺の手はあいつには届かないし、それで良い」
羽月は一鬼の残酷な言葉に驚くことなく、ただ笑う。
これこそが神谷一鬼の強さであり弱さとも言えるものだ……大切な者を救う為に他者を犠牲にし、しかしそれでも守れる者は守る。
そのある意味矛盾に近い考えを、しかし羽月は否定するつもりはない。
いつだって相反したものが人間の中には存在しているものだし、そういったものこそが心を強くする。
度が過ぎれば心を壊す危険性はあるものの、その心配は一鬼には必要ない。
そして、何よりも一鬼が優希を切り捨てたのが、羽月にはこの上なく爽快だった。
甘い果実を宿す樹木に他者を寄せ付けぬようにその周りに蜷局をまく大蛇の如き女を、はっきりとその樹木が切り捨てたのだ。
羽月にとって、これ程気持ちが良いことはそうないと言える程に、愉快なことである。
本人がこの言葉を聞いていたならば、壊れてくれるかもしれないと考えると、彼にとっては更に愉快だ。
一鬼の世界に、佐村優希の居場所など最初からない。
「くっくっ……最高に笑える話だ」
羽月は思い切り笑いながら、その事実を楽しんだ―――先に待ち受ける結末を知らぬまま。
昼休み、既に食事を終えていた美空は、ベンチに座り一人考古学に関する本を読んでいた。
友人達は今日提出すべき課題を終えていなかった為に、既に教室に戻って、それに取り組んでいる。
ここには彼女しか居ないので教室に戻っても良いのだが、しかし彼女はそれを選ばなかった。
天気の良い日なので、外で昼休みを過ごすのもありだと判断したからだ。
流石に日向に居続けると頭痛を引き起こすので、彼女は日蔭の中にあるベンチに腰掛けている。
手に持っている本は既に一度読んだ本だが、面白かったので彼女は二週目に入っていた。
考古学はごく一部の者以外儲からない学問ではあるが、趣味でやる分には何の問題もない。
父である明はああ見えてかなり有名な考古学者で、本もいくつか出している。
彼女が考古学に興味を持つのは、ある意味必至だった。
「……ふぅ」
ふと兄のことを思い出してしまった美空は、本を閉じると蒼空を見上げた。
昨日の朝は不安定だった筈の兄が、その夜には既に元に戻っていたことで、彼女は拍子抜けしている。
もっと時間が掛かるものかと考えていただけに、その結果に彼女は驚かざるを得なかった。
しかも、肝心の内容を兄は話してくれないので、益々彼女は驚き、しかし堪えることにしたのだ。
兄が彼女に伝えようとしないということは、彼女には全く関係ないことなのだろう。
触れて欲しくないのか、触れる必要がないのかは定かではないが、少なくとも兄がそのことを彼女に話すつもりがないのは確かだ。
そもそも、普通の兄妹など互いのことを多くは語らないものなのだから、彼女がそれを気にする必要は無い。
しかし、普通の兄妹ではないが故に、彼女は気になるのだ。
「ちょっと良い?」
「はい? 誰で―――柿坂さん!?」
「隣、座っても良いかしら?」
「……良いけど」
「それじゃあ、失礼するわ」
柿坂愛梨に声をかけられるとは思っていなかった美空は驚きながらも、彼女が隣に座るのを了承する。
彼女が兄と仲が良いことを知っているだけに、美空としては少々居心地が悪いが、断る理由は彼女にはない。
元々愚直な家系に生まれた美空は、例に漏れることなくそういう人種に育った。
明確な理由がなければ、何かを押し通すようなことはしないし、できない。
そんな美空の様子を見定めながら、愛梨は口を開いた。
「一鬼先輩から話は聞いたわ。貴方が橙色の妖の宿主なんでしょう?」
「……そうだけど」
「なら、後衛になるのね。貴方と佐藤先輩は私とブルー・シャーマンが守ることになるから、宜しく」
「はぁ……用件はそれだけ?」
「いいえ、もう一つあるわ。一鬼先輩について」
「……兄さんについて?」
思いがけない愛梨の言葉に、美空は動きを止めた。
神谷一鬼について柿坂愛梨が、その妹である神谷美空に何を語ろうと言うのか?
愛梨しか知らない、彼女の兄の別の一面の話?それとも彼女が知っている、愛梨が知らない一面?
そんな風に思考が駆け巡るのを感じ取りながらも、美空は愛梨の黄金の眼が細められるのを眺めた。
柿坂愛梨は間違いなく美空よりも美人で、ほぼ全ての能力において彼女を圧倒している。
座学も運動も何でもできる上に、いざという時は頭も働くという一鬼からのお墨付きだ。
美空は正直な処、性格以外の面では勝てる気がまるでしないし、その性格においてすらも自信はない。
大衆受けが良いのは美空かもしれないが、一鬼にとってはそうではないかもしれないからだ。
そんな考えを過る美空を、愛梨は何とも言えない表情で見守っている。
「美空さん、一鬼先輩のこと好きなんでしょう?」
「……えっ? な、何を言って―――」
「隠さなくても良いわ。私は心を読めるから隠しても無駄だから。知っているでしょう? さとりという心を読む妖のこと。私、そのさとりの半妖なの」
「……お父さんかお母さんが妖なの?」
「いいえ、私の両親は人間よ。ただ、ブルー・シャーマンが言うには、どうやら私が生まれる少し前に、両親が参加した遺跡の発掘が関係しているみたいなの」
「遺跡の発掘?……」
美空は、愛梨の言葉に思わず驚いた。
まさか愛梨の両親も、美空の両親と同じく考古学者だったとは思わなかったからである。
そもそも、考古学者というものは大半が金持ちのぼんぼんがなるものであって、基本的に金にはならない。
有名になってそれなりに稼ぐ考古学者など極一部であって、普通は他の仕事も並行して行うものだ。
そんな考古学者を両親が共にしていたなど、普通はあり得ない。
同じ状態であった美空の両親のことを考えると、彼女が言えた口ではないが、彼らの場合はそれなりに知名度がある。
一般ではあまり知られていないが、彼女の両親はここ二十年程のいくつかの有名な遺跡の発掘に携わっており、多くの文化的財産を発見した。
そうでもなければ、二人の子が十分な余裕を以て暮らせる程の資金は得られなかっただろう。
しかし、彼女の記憶に、柿坂という苗字を持つ考古学者は居ない。
そこまで有名な人物ではないということになるが、その場合収入に困る筈だ。
「ご心配なく。収入源は別にあるから。それに、美空さんのご両親と、私の両親は知り合いなの。何せ、いくつもの遺跡の発掘を共に行った仕事仲間だから」
「えっ? でも、柿坂さんなんて知り合いは父さんには居なかった筈……」
「まぁ、知らないのも無理はないわね。貴方のお父さんはそう多くを語らない人だと、両親から聞いているから、多分家族にも話していない筈よ」
「うう……でも、考古学なら私も把握してる筈なのに」
「私の両親はどちらかというと、オカルト方面の方が得意なの。そちら方面ならいくつか本を出しているから、探してみれば?」
「そうする……」
美空は、仮にも考古学者である筈の愛梨の両親のことを知らなかったことを悔しく思う。
彼女はかなりの量の考古学に関する本やネットの記事を読んでいるので、考古学関係の人間ならある程度は知っている。
しかし、それは純粋な歴史と人類学に基づいたものであり、流石にオカルト方面には手を出していなかった。
そういう意味では、彼女が愛梨の両親のことを知り得なかったのは必然なのかもしれない。
このままなのも悔しいので、美空はこれを機に、今後はオカルト方面の情報も集めてみようと決めた。
「ああ、それなら良い本があるから、明日持ってくるわ」
「ありがとう……って、心を読まないで!」
「はいはい、分かりました。―――止めたわ」
「本当に止めた?」
「ええ、本当に。オンオフをはっきりと示せないのは、こういう時に不便ね」
心を読める能力を持つということは、他者の思考を見透かせるということだ。
そんなことを知ってしまえば普通は恐怖から近寄りたくなくなるものだが、美空は違う。
彼女は心を読まれることは構わない……ただ、それを悪用されるようなことが嫌なのだ。
そうでなければ、寧ろ心を読まれるのは、口頭で伝える必要がなくて楽だという見方もできる。
彼女にとって、愛梨は何とも言えない関係の相手ではあるが、一鬼が信じている已上、疑うつもりはない。
一鬼が信じたものは大体信じられると、彼女は経験則から理解している。
「分かった。信じるよ。それで、柿坂さんは私に何を言いたいの?」
「さっきも言ったでけれど、貴方は一鬼先輩のことが好きなんでしょう? 血の繋がりのことは考えているの? 全然似ていないけれど、仮にも血が繋がった兄妹でしょう?」
「うっ……わ、私はそんなんじゃ……」
「……へぇ。それじゃあ、私と一鬼先輩が付き合っていると知っても、そう言える?」
「っ!?」
一鬼のことを好きだと公言するのは、余りにもリスクが高過ぎる。
仮にも血の繋がっているであろう兄のことを好きだというのは、本気であろうとそうでなかろうと、アブノーマルだ。
そんなことをここで言うのは、美空には躊躇われるし、言うつもりは無い。
彼女にとっては、ここで嘘をついた処で彼への気持ちが鈍る訳ではないのだから。
しかし、そう思っていた美空に、愛梨は笑顔と共に驚くべき言葉を紡いだ。
愛梨が一鬼と付き合っている―――その言葉に、思わず美空は眼を見開いて、愛梨を見据える。
黄金の眼を直視し、貫かんとする程に見据える……が、そこには偽りは見えそうもなかった。
体の奥に一瞬だけ生じた圧倒的な熱によって、じわりと汗が流れ出すのを感じながら、彼女は口を開いた。
己の手が若干震えていることにも気づかずに。
「それって……本当なの?」
「ええ、本当よ。一鬼先輩にも聞いてみると良いわ。返ってくる答えは肯定だから」
「……っ」
「それで、私が言いたいことは、一鬼先輩は貴方達を捨てるつもりはないということよ。貴方はどうせ一鬼先輩が誰かと恋仲になったら、自分が捨てられるとでも思っているんでしょうけれど、そんなことはないわ。悔しいけれど、断言してあげる―――あのひとは、誰よりも貴方達家族を優先するわ。私と貴方のどちらかしか救えないなら、迷いなく貴方を選択する……それは確かよ」
「?……何を、言いたいの?」
ショックの余り、思考停止に陥りそうな美空に、苦笑しながらも愛梨は更に言葉を重ねていく。
その表情は本当に悔しげで、しかし何処か諦めが見える……そこから、彼女は愛梨が冗談を言っていないことを悟った。
愛梨は己が美空に勝てないことを知り、妬み、それでも恋人よりも妹を救うことを選ぶ一鬼を、何処かで誇りに思っているのだ。
それに気付いた瞬間、美空は己がいかに恥ずべきことをしていたかを理解した。
兄との恋がどんなにアブノーマルであったとしても、口外できないものだったとしても、今この瞬間だけはそれを何かしらの形で伝えるべきだったのだ。
愛梨はその眼で以て、表情で以て、言葉で以て、彼女に一鬼への思いを吐露した。
それに対して、美空はその片鱗すらも見せるのを恐れ、ただただ愛梨の言葉を唖然として聞くだけ……こんなことでは、一鬼が愛梨を選ぶのも無理はない。
美空はこの瞬間、愛梨の方がずっと真っ直ぐに、健全に、一鬼を愛しているのだと分かってしまった。
「一鬼先輩を本当に好きなのなら、父親に尋ねなさい。貴方と兄が何故そこまで違うのか。何故、兄の出生に関してだけ口を閉ざすのかを。貴方は知るべきよ……知らなければ、後悔するわ」
「後悔?……柿坂さんは、兄さんについて何か知っているの?」
「ええ、少しだけ。でも、まだ全ては知らないわ。それを、これから見据えるの。そう遠くない未来に、一鬼先輩は変わるわ。その時、貴方も変われなければ、きっと離れ離れになるわよ」
「離れ……離れ?」
「私が言いたいことはそれだけ。これ以上ヒントを与えてあげる気はないから、後は自分で考えて」
まるで未来を見透かすかのような物言いと共に、愛梨はその場を立ち去ってしまう。
その様子を呆気にとられて眺めながら、しかし美空は頭を使って状況を必死に整理していた。
自分に何が起きて、最良の道を進む為には何が必要とされているのかを吟味する。
だが、そうしようとしても、何が何だかまるで訳が分からないことには変わりなく、彼女はただ悩み続けた。
「痛っ……頭が……」
一鬼の出生について愛梨が意味深なことを言っていたことを思い出すと、不意に訪れた頭痛に、美空は頭を両手で抑えた。
突然訪れたその頭痛は、まるで彼女が彼の出生を知ろうとするのを拒んでいるようで、同時に彼女自身がそれを知ることを恐れていることの表れのようでもある。
次の瞬間、頭の中に溢れ出した一鬼の様々な表情が、声が、彼女の脳を圧迫していく。
それに伴って体の奥で鎌首をもたげる灼熱に、彼女は全身が熱くなるのを感じながら、ゆっくりと深呼吸をする。
「……私は……同じなんかじゃない」
静かに、しかしはっきりとそう告げると、美空は額に浮かんだ冷や汗を拭った。
体の奥底に宿った灼熱が、今にも彼女の体から溢れ出しそうな程に育っている―――彼女はそんな錯覚を覚えるのだった。
柿坂愛梨は、いつも登下校で使っている道を歩いていた。
彼女の家は学校からかなり離れてはいるが、彼女は徒歩で通っている。
彼女の家の距離ならば自転車での登下校が許されているものの、彼女はそれを選ばなかった。
理由は至極簡単なことで、力の制御ができない彼女では、自転車では事故を起こすと判断したからだ。
徒歩ならば時間はかかるものの、自転車に比べて危険性は少ない。
そもそも、愛梨にとって他者の思考というものは、まさしく雑音だ。
それだけで集中力は乱されるし、周囲に注意することも疎かになってしまうという問題が生じる。
だからこそ、彼女は危険性が最も少ない徒歩で通うことにしたのであって、その力さえなければ自転車で通っていただろう。
今でこそ、ブルー・シャーマンのお蔭で力を制御できているが、そうでなければここまで彼女の精神は安定しなかった。
「ブルー・シャーマン、一鬼先輩の妹さん、貴方から見てどうだった?」
「あれは脆いな。しかし、同時に不気味な何かを感じる……注意はした方が良い」
「……ブルー・シャーマンの眼って当てになるのかならないのか分からないわね」
「まぁ、私など能力も使わないようならばそんなものだ。それよりも、帰宅したらまた訓練をするぞ」
「ええ、分かっているわ」
愛梨の言葉に反応して現れたブルー・シャーマンに、彼女は美空の評価を聞いてみた。
彼女から見た処、美空はあまり見所がない少女ではあったものの、何処か恐ろしい気を宿していると感じられる。
特に、彼女が一鬼と付き合っていると告げた瞬間に、彼女に流れ込んできた地獄の業火のような感情の波には、彼女も驚いた。
それ故に、彼女はブルー・シャーマンに尋ねたのだが、やはり彼も同じ考えであるようだ。
ブルー・シャーマンがはっきりと性質を言い当てられないということは、美空に何かがあるということを意味する。
何せ、彼は未だ片手にも満たない数しか存在しない超越者の一人であり、記憶を司る妖だ。
彼は愛梨とは異なり、感情や思考だけではなく、過去の記憶そのものを呼び覚ますことができる。
まさしく彼はシャーマンで、怨念をその身に宿す妖にとっては、過去を全て見透かされる圧倒的に不利な相手なのだ。
しかし、その能力は現在大きく制限されており、今の彼にはそれ程の力は無い。
「私にもっと力があれば、ブルー・シャーマンを完全な状態で呼べるんだけど……」
「無いものねだりをしても、仕方ないことだ。そんなことができるのはあの子くらいだろうが、私の宿主は愛梨……お前なのだ」
「分かっているわ。だから、私は一鬼先輩の過去を知る為に、貴方と協力するのでしょう?」
「ああ、もうすぐ準備は整う。その時には、あの子を呼んで過去を呼び覚まし、新たな同志を迎える」
今のブルー・シャーマンですら、愛梨は圧倒的な力を感じずにはいられない。
これですら、一割処か一分も力を出せていないのだというから、笑うしかない……半妖である彼女の生命力ですらも、彼を全力で呼ぶのは非常に困難なのだ。
一鬼ならば、それすらも可能であると彼は言うが、確かにそれは事実なのだろうと、彼女は思う。
ブルー・シャーマン程ではないにしろ、圧倒的な力を放つ碧という妖狐を常に完全な状態で呼べるということが、いかに異常であるかを彼女は理解している。
ここ一週間程で、一鬼は大きく変わった。
その力は、たった一週間そこらで何百倍にも膨れ上がり、今や低級の妖を凌駕している。
それでも、まだ半分も目覚めていないのだというのだから、完全に覚醒した暁には、本当に碧やブルー・シャーマンのような、規格外の存在となるのだろう。
一鬼がその領域に辿り着くことに、愛梨は少しばかり恐怖を覚えるが、同時にそれを己が手伝えることが嬉しかった。
神谷一鬼が完全な妖に覚醒する為に必要な記憶を、彼女達が呼び覚ますのだ。
「本当に記憶を呼び覚ませば、一鬼先輩は完全な妖になるの?」
「少なくとも生まれた時の状態にまでは戻れる。しかし、それ以上の力を得るには、誰かが糧となるしかない。そして、その候補は我々『虹色の肋骨』か、愛梨しか居ないだろう」
「……もしかして、藍色の妖を討伐するように勧めたのは、その為?」
「確かにそれもある。だが、藍色の妖が脅威であることは事実だ。既に、百人近い人間が食われている。最終的な被害は千に及ぶことになるだろう。あれは討伐せねばならぬ」
愛梨は、ブルー・シャーマンの言葉から、何故彼が藍色の妖の危険性を何度も言及していたかを理解した。
確かに藍色の妖は他の妖とは異なり、人間に大きな被害を出すことに躊躇いがないかもしれない。
しかし、だからといって迅速に討伐すべきかと言われたならば、そんなことはないのだ。
特に愛梨とブルー・シャーマンの場合は、どんなに藍色の妖が強くなろうとも、勝つ手段は存在するのだから、恐れる必要は無い。
ならば、何故そこまで危険性を訴えたのか?……答えは、藍色の妖を贄とする為である。
神谷一鬼の出生の秘密を暴くということは、彼が生まれたばかりの状態……つまり、生まれたての妖の状態にまでは戻すということだ。
だが、そこからの十九年間分を彼は人間として過ごしてきた……その『本来ならば妖として歩む筈だった時間』を取り戻すには、それ相応の量の怨念が必要になる。
そして、その餌としてブルー・シャーマンは藍色の妖を選んだのだ。
「一鬼先輩、完全な妖になっても私のこと、受け入れてくれるかな? 実は、凄く不安なの」
「安心しろ。あの子は必ず受け入れてくれる。半妖であるお前よりもただの人間である妹を優先するような子だ。重要なのは、お前達の血肉ではない―――心の繋がりだ」
「心の、繋がり?……どうして、一鬼先輩のことをそんなに分かっているかのように言えるの? ブルー・シャーマンは、一鬼先輩の何を知っているの?」
「……私は能力でそれを感じているに過ぎない。それ以上のものを知る為に、こうして準備しているのだ。お前も、その時に分かるだろう……何があの子に必要なのか。何がお前に必要なのか」
「……ブルー・シャーマンはいつも、回りくどい言い方ばかりで、まどろっこしい」
ブルー・シャーマンには、愛梨には分からない何かが分かっている。
それは仕方ないことであろう……ブルー・シャーマンは過去と本質を見透かす超越者であり、ある意味神に等しい力を持っているのだ。
ただの半妖でしかない愛梨などでは、比較することすらおこがましいような領域の存在である。
そんなブルー・シャーマンと同等の量の情報を得ようとすること自体が、そもそも間違っているのだ。
しかし、そうだと分かっていても求めてしまうのは、人の部分が為せる欲深さであろう。
愛梨は、ブルー・シャーマンに文句を言いながらも、内心そんな自分を恥じた。
不相応なものを望めば、下手をすれば命か、もしくはそれと同じくらい大事なものを失うことは、歴史が証明している。
いかに自分が愚かであるかを実感しながらも、彼女は己の妖と、己の間にある圧倒的な差に歯噛みするのだった。
「自覚はしている。それよりも……前から誰か来ているぞ」
「!……くすんだ赤毛、か。それにしても、妙に見覚えがある顔ね……」
ブルー・シャーマンの言葉に、愛梨は前から歩いてくる人物の存在に気付いた。
そこに居たのは、彼女に妙な既視感を覚えさせる、二十歳前後に見える女性であった。
茶髪に近い赤毛と、黄昏のような眼を持つ、少女と女性の境目に居るといえる、微妙な成熟具合をしている。
その特徴的な容姿ならば、そう簡単に忘れる筈はないのだが、何故か彼女には思い出すことができないのだ。
うんうんと唸りながら記憶の図書館から、該当する本――記憶を引き出そうとする愛梨だが、中々該当する情報が出てこない。
確かに彼女はこの女性と何処かで一度会っている筈だ……それは、強い既視感が証明している。
だが、彼女がそれを思い出せぬままで、二人はすれ違うことになった。
「柿坂さん、もうちゃんと学校に通えるようになったんだね」
「!……その声、まさか―――佐村先輩、ですか?」
「うん、久しぶりだね。私も、あの時のことは良く覚えているから、本当に安心したよ」
「……それは、どうも。お蔭さまで、ここまで回復しました」
佐村優希―――それが女性の名前だ。
一鬼の幼馴染であり、愛梨の先輩でもある彼女は、現在は一鬼とは違う大学に通っている筈である。
時間は既に五時を回っているので、大学も時間割によっては、学生は既に帰宅していてもおかしくない時間だ。
愛梨は一鬼から大学の時間割などについて聞いているので、優希が重そうな荷物を持っていることから、下校中であることを容易に理解できた。
優希は警視である佐村敬吾の娘であり、その実直さを受け継いでいると一鬼は評価していた。
しかし、愛梨にはとてもそうは思えなかった。
一鬼は、まともにこの女性を見据えたことがないのではないか?……そう思える程に、彼の評価とは実態が異なる。
能力を使わずとも、愛梨には分かる。分かってしまう……優希は、まともではない。
人の良い笑顔で隠しているものの、狂った者独特の雰囲気が、その仮面の奥から滲み出ているのだ。
「そう、良かった。これで一安心ということね」
「はい。今は特に問題もなく、過ごしています」
「ふふ……これで、一鬼君も用無しだね。ちゃんとお礼は言ったの?」
「勿論です。一鬼先輩は私の恩人ですので。それでは、そろそろ失礼します」
「ええ、またいつか」
愛梨ははっきり言って優希のことが嫌いなので、すぐに話を止めた。
一鬼の幼馴染であるからといって尊敬の念を込めて接することなど、彼女にはできない。
それ程に、佐村優希という人間は歪で、愛梨にとって許容しがたい人間だった。
何よりも、彼女はこの女性が一鬼にとって重要な存在ではないと、気付いている。
一鬼は他人の本質をかなり早く掴むことができ、場合によっては一度会うだけで見抜くこともある。
何処かブルー・シャーマンに通ずるものがある彼は、己の関心が向かう相手のことは、よく見ていた。
しかし、彼が語っていた優希と、愛梨が見た優希はまるで異なり、最早別人と言って良い。
これは、最初から一鬼が優希のことをまともに見据えたことすらないということを意味しているのではないかと、愛梨は感じていた。
最初から、この女性は一鬼の眼中になかったのかもしれない。
「……ああ、そうだ。柿坂さん―――良い妖を引いたね」
「――!?……居ない」
不意に告げられた言葉に、思わず振り返った愛梨だったが、既にそこに優希の姿は無かった。
今、間違いなく優希は妖と言った……その言葉が確かならば、ブルー・シャーマンが見えていたということだろう。
そして、ブルー・シャーマンが見えているということは優希もまた宿主であることになり、必然的に彼女の妖は、紫か藍色のどちらかになる。
どちらだったとしても、強大な力であることに変わりはない……それを、あんな狂った人間が持っているということがどんなに危険かは、彼女も理解していた。
既に壊れているかもしれない人間が、妖を……しかも、超越者かもしれない者を宿しているとなれば、恐ろしいことが起こるかもしれない。
その超越者がブルー・シャーマンのような、悪事を嫌う者ならば良いが、そうでなければ、破壊と死をばら撒くことになるだろう。
特に、藍色の妖と優希の組み合わせは、ある意味最悪だ。
そして、それが事実であるかもしれないことが、愛梨を焦らせた。
「ブルー・シャーマン……あの人、見えていた?」
「気付かなかったのか? 一瞬私を見たぞ。あれは、間違いなく宿主だな。あの子に報告しておいた方が良い」
「言われなくてもそうする」
あんな劇薬のような人間が妖を得てしまえば、それはまさしく猛毒になり得る。
佐村優希が宿しているのが藍色の妖であろうが紫の妖であろうが、危険であることに変わりはない。
いかに普通の人間を騙せても、半妖である愛梨はその仮面に騙されなかったし、他の宿主もすぐに気付ける筈だ。
そうでなければ困る……仮にも、妖という強大な力を得た者達が、あの程度で惑わされては、力を悪用されかねない。
愛梨は少なくとも惑わされないし、一鬼や羽月も問題はないだろう。
問題があるとすれば、現在生存している宿主の中で最も平凡である美空くらいだ。
しかし、それでも警戒しておかなければ、いざという時に足をすくわれてしまうかもしれない。
特に、命がかかっている状況ではそういったことを考えておかねば、寝首をかかれる。
「あんな女が妖を得ただなんて……」
愛梨は忌々しそうに顔を歪めると、すぐさま携帯電話を取りだし、一鬼に電話をするのだった。
気付けば、彼女は紫炎の中に居た。
何度見たか分からないその光景に、彼女は全身の血がざわつくのを感じる。
噎せ返る程に濃密な血の匂いと、肉が燃える独特な嫌な臭いが混ざり合い、彼女の嗅覚を痛めつけていく。
辺りを見渡せば、そこかしこに横たわる死体があり、妖狐特有の大きな耳と尾が良く見える。
そこにあるのは全て妖狐の死体だ……皆、美しさすら感じさせる綺麗な穴を胸のど真ん中に開けて、死んでいた。
その穴を誰が明けたかを、皆を誰が殺したかを、彼女は知っている。
彼女と同等……いや、それ以上の力を持つ者によって、この大量殺戮は行われた。
傲慢なる妖狐への天罰とも言うべきこの光景を生み出したのは、たった一体の妖だ。
彼女はこの結末を知っているが故に、それが分かる……この殺戮の原因も、結末も、知っている。
「っ……」
燃え盛る紫炎こそが、全てを語っている……その炎を残した者が、全てを知っている。
だから、彼女は飛んだ……上級の妖のみに許される飛行――正確には、宙に足場を生み出して走っているに過ぎない――を行い、その者が居るであろう場所に向かう。
音速に達した彼女は、ほんの一分ばかりでに目的にまで達するが、その瞬間思わず息を呑みこむ。
何度見ても耐えることのできないその光景に、彼女は全身から汗が噴き出すのを感じた。
そこにあるのは、未だに勢いよく火を上げている民家と、ぐちゃぐちゃになった、生きていた何かだ。
殺し、壊し、弄んだ痕跡を色濃く残しているその場所には、妖狐が不可侵条約を結んだ一族が住んでいる筈だった。
だが、今そこにあるのは亡骸ということすらおこがましい何かと破壊の痕跡だけ……それ以外には、何もない。
『来たか……』
「あっ……」
そんな阿鼻叫喚ともいえる場所で、それは彼女を待っていた。
逞しい肉体を持ち、その見た目に違わぬ圧倒的な力を誇る、その一族最強の戦士。
その力は彼女に迫るとまで言われ、その圧倒的な力があってこそ、二つの種族が不可侵条約を結ぶことになったのだ。
しかし、同時にそれは悲劇を起こす引き金でもあった。
全身から溢れ出す冷や汗と、震える体が、彼女に己が恐怖に屈していることを知らせる。
次に彼が紡ぐ言葉など聞きたくないと、心の底から、彼女はそう願った。
しかし、それは叶わない……これは所詮記憶の再現でしかない為、別の分岐を辿ることはない。
彼女よりも頭一つ分大きいその男と、彼女が、ここでこれから何をするかは既に決まっている。
彼の後ろに居る、銀色の幼子と赤子が、全てを物語っている。
これからここで起こることは、ただの再現でしかないのだ。
「あ……あ……違う」
『全部、族長から聞いたようだな。言葉は必要あるまい。この因縁はここで終わらせる。お前と私のどちらかが死ぬまで、この因縁は終わらない。次の世代に残してはならない……さぁ、足掻いてみせろ』
「違う……」
『誓い一つ守れなかった弱者……殺戮者よ、お前はここで私が殺す』
「違う! 私は、私は! 私は殺してなんかいない!」
その紫電の眼を直視した瞬間、彼女は叫んだ
その男ではなく、その男が最後まで守ろうとした存在に。
「だから、お願い―――捨てないで」
彼女が仕えるべき、贖罪すべき相手へと、ただ懇願した。
「っ!!」
意識が覚醒した瞬間、彼女は形振り構うこともなく、迷わず実体化した。
全身を濡らす冷や汗が彼女の衣服を体に張り付かせ、不快感を彼女に与える。
それを解決する為に、彼女は全身から熱を発し、汗を一気に蒸発させた。
妖のみに許される圧倒的な熱量の内包は、こういう時に役に立つことを、彼女は経験から知っている。
彼女は溜息をつくと、今現在自分が居る場所を確認した。
現在彼女が居るのは、もうこの一年程で見慣れた部屋である。
この部屋には、彼女が生きていた時代には無かったものが沢山あるが、中でもパソコンというものの存在に、彼女も最初は驚愕したものだ。
圧倒的な量の情報をたった一つの道具で集め、纏めることができるのだから、二百年前とは比べ物にならない程に進歩している。
人間は彼女が居なかった間にここまで進歩したのだと実感し、同時のその飽くなき欲求を浅ましくも思った。
「……浅ましいのは、私達も同じね」
彼女は、未だに己を苦しめる悪夢と、その原因に思わず自嘲した。
人間も妖も、そう違いは無い……気高い精神を持つ者も居れば、妖狐のように残忍で、欲深い者も居る。
どちらの存在も、裏切りがあり、信頼があり、愛があり、死がある……そういう世界に生きているのだ。
妖は人間を見下し、人間は妖を恐れる傾向にあるが、その本質はそう変わらない。
ただ、妖の中には神に近い存在に辿り着ける者が極稀に居るくらいしか、違いは無い。
尤も、その違いが大きな差を二つの存在の間に生み出したのは確かで、彼女もそれは分かっていた。
人間からは超越者など生まれないし、人間が妖になっても、その上限は必ず三尾以下であると決まっている。
だからこそ、妖は人間を見下し、人間は妖を恐れ、しかし同時に憧れるのだ。
そして、その憧れを一身に受ける上級妖の唯一の生き残りが、今彼女の傍に居る。
無防備な寝顔を彼女に見せて、静かに寝息を立てる彼だけが、今現在確認できる純然たる妖の生き残りだ。
その頬を撫でながら、彼女は己がかつて為した悪鬼の如き所業を悔やみ、恨む。
彼女には、この純粋な存在の傍に居る資格などない……寧ろ、断罪されるべき立場に居る。
「一鬼……」
彼女……碧は、己の宿主である一鬼の名前を呼ぶ。
安らかな寝顔を見せている彼に、彼女は酷いことをしてしまったと、心の中で謝罪する。
心にも思っていないことを告げ、残留していた怨念を彼に背負わせてしまった。
それが彼を少しだけ覚醒へと進める要素となったのは、棚から牡丹餅であったが、それも結果論でしかない。
彼女は己が取った行動を恥じ、しかし、そうせざるを得ない現状に歯噛みする。
そもそも、何故碧があのようなことを一鬼に言わねばならなかったのか……その理由は、彼にある。
羽月達の助言もあってか、一鬼は既に彼女が居ない世界のことを考慮し始めている。
そう……彼女が宿る肋骨を取りだし、捨てて生きていくという可能性を模索し始めているのだ。
彼女はそれが怖かった……最後まで見守ることもできず、贖罪することもできず、終わるのが悔しかった。
全てを伝えれば済む話ではあるが、そうなれば、彼女は罰を受けることになるだろう。
まだその時が来るには早い……今の一鬼は、まだまだ彼女よりも遥か格下の力しか持ち合わせていない。
せめて彼が本当の力を目覚めさせるまでは、彼女は傍に居たいと思う。
そこで改めて全ての秘密を明かし、他の誰でもない彼の手で断罪されて、初めて彼女の贖罪はなされる。
「……奴を殺すまでは、我慢してね」
碧は実の処、白雪を探すことを諦めた訳ではない。
ブルー・シャーマンが告げたことが本当だとすれば、妹は生きているのだから、探すのは決定している。
ただ、その前にしておくべきことができた……除すべき存在が居るのだ。
一鬼にとってはまだしも、彼女自身にとっては最悪の存在となり得るからこそ、碧はそれを排除せねばならない。
その時までは、断罪の時は引き延ばすと、彼女は決めている。
迫る藍色の妖討伐において、一鬼は大量の怨念を得ることで、最低でも本来の状態にまで戻り、場合によっては更に成長するだろう。
そうなれば、彼女が断罪される準備はほぼ整ったも同然……そこから、彼女の復讐と贖罪の終わりが始まる。
憎み、恐れ、慈しんだ子との別れは近い。
「その時が来たら―――私の心臓をあげる」
碧は一鬼の胸に置いた手で、そこに宿る心臓の鼓動を感じながら、静かにそう呟いた。




