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虹色の肋骨  作者: 修羅場ーバリアン
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第七話





 彼は食って、食って、食いまくった。


 女子供も男も、老人も、何もかも、手当たり次第に食って、その力を蓄えた。

既に彼は五十に近い人間を食らい、その力も最初と比べて大分強力なものになっている。

しかし、まだ足りない……もっともっと食べて、もっと強大にならなければ、星々に手は届かない。

だからこそ、彼はもっと食らう。


そもそも、どんなに強くなろうとも、至高の存在の力を再現するのは非常に難しいと言わざるを得ない。

何せ、それは妖の長い歴史の中でも他の追随を許さなかった程の力であり、まさしく頂点なるものだ。

簡単に模倣することも再現することもできない、まさしく王の力と言える圧倒的な力を、彼は再現しようとしている。


 そのような無茶をやってのけようというのだから、力はいくらあっても足りない。

彼が手っ取り早く力を得る方法は他の妖を殺し、その心臓を破壊することだが、それはそれで非常に難しい。

下級の妖など食った処で大した栄養にはならないし、中級だったとしても、能力次第では勝てない可能性がある。

それに、もしも他の妖達が協力体制を取っていたら、その機会は益々減る。




「……あの星に手が届くまでは、死なない」



 彼はもはやそれ以外に生きる目的などありはしないし、新たな意味を見出そうとするつもりもない。

いや、そもそも一度死んだ身なのだ……心機一転するのもありだろうが、彼の場合は状況が特殊だ。

彼は生前も同じ夢を目指していた……そして、二百年近い歳月を経て、漸く今の段階に辿り着いた。


それを諦めることなど、彼にはできない。

それができるのならば、彼はとっくに人間を食うことなど止めていたし、他の妖の行く末を見守りでもしていただろう。

しかし、現実はそうではない……彼は己の夢の為に、全てを犠牲にするだけの覚悟がある。

他者の人生を奪い、可能性を殺し、命をも奪って、彼の夢の為にまさしく全てを犠牲にすることができる。




「……何故、こうも脆い。私も、人間も」



 目の前に横たわる物言わぬ躯に触れながら、彼は思わず呟いた。


 今彼が居る場所には、適当に攫ってきた二十人余りの人間の死体がある。

皆頭は潰してあり、その際には痛みは感じていなかった筈だ……少なくとも彼はそう心がけた。

彼の目的は破壊や殺しを楽しむことではない……人間の泣き叫び、苦しみ、絶望する様子を観察するつもりはない。

死すらも感じ取れない程に、正確に、素早く、彼は人間を絞めた。


 首を切断する方が確実で簡単ではあるものの、そんなことをすればこの町の閉鎖が早まってしまう。

まだ彼は十分な力を得ていないし、何よりも彼の宿主のことを考えると、表って殺しまくるのはナンセンスだ。

同じ理由から、彼は警察も狙わないようにしている……あまり警察に手を出すと、封鎖される時期が早まる。




「……いただきます」



 彼はこれから食べられる人間達に感謝し、その冥福を祈った。

自分で殺しておいて冥福を祈るなど、勝手極まりないが、それでもこれは彼にとって必要な行為だ。

全てを受け入れる―――それこそ、愛、憎しみ、喜び、痛み、悲しみと様々な感情を受け入れ、己がものとする。

そうやって妖は強くなっていく……背負った怨念の数だけ、強くなっていく。


 怨念をその身に背負うことで、妖は強くなる……故に、妖狐はかつて虐殺を繰り返したのだ。

そうすることで、妖は順調に強くなれる……しかし、それでも怨念にできる範囲には限りがある。

最初に決められた限界を突破することはできないし、飛躍的に力が高まるものの、その代償として、高い精神力が必要となる。

それだけ怨念というものは精神を食うのだ。


 今も、彼が血肉を食らい、骨を砕く度に、死者の怨念が彼の心臓に宿っていく。

怨念を効率よく集める為には、強い妖を食えば良い……その妖が心臓に宿していた怨念を手に入れることで、強くなれるだろう。

しかし、それ相応の怨念を宿した妖は、強い……特に上級の妖ともなれば、彼は勝てない。

ましてや、至高の存在ともなれば、彼など一秒も同じ空気を吸うことも叶わないだろう。


 だから、こうして地道に人間を食い続けていくしかないのだ。




「!……写真、か」



 食っていた死体の服から出てきた写真から、その死体には家族が居たことを彼は知る。


しかし、それを知った処で、より一層強い怨念を得られるということが分かったのみで、特に感慨は無い。

そんなものはとうの昔に捨て去ったのだ……彼はもう、己の目的の為に手段を選びはしないのだから。

彼は生まれながらの超越者ではない已上、こつこつと力を溜めてその領域に辿り着くしかない。

その為には、何百何千の生命を食らう覚悟がある。


 超越者は怨念を得ずとも、圧倒的な強さを誇り、何かしら理を捻じ曲げる程の能力を持つ。

理を歪め、阿鼻叫喚の地獄をこの世界に呼び出すことも不可能ではない程に、その力は強大だ。

彼が知る超越者は二人……至高の存在である鬼と、眼の上のタンコブのアンデッドである。

両者共に、生前の彼ではどうやっても勝てなかったし、今の彼でも条件が同じならば勝つのは不可能だ。

仮に条件が彼に有利だったとしても、互角の状況に持っていくには相当なアドバンテージを得る必要がある。



 だからこそ、彼はその差を埋める為に食い続けるのだ。

食って、食って、食って、食い続けて、その力を少しでも憧れた至高の存在へと近づける。

それさえ叶えば、彼は夜空に浮かぶ星に手が届く……本当の星に、触れることができる。

それだけが彼の願いであり、彼が殺す理由であり、彼が生きる理由だ。

たったそれだけの為に、彼は惨劇を引き起こし、多くの悲しみを、憎しみを背負う。




 そして―――空に浮かぶ星々に手を伸ばす。














 背中を伝う汗の感触を不快に思いながら、一鬼は近くにある木にもたれかかった。


 時は早朝、まだ日が昇らない時間に彼は少しばかり家から離れた山に来ている。

何も登山をしに来たのではない……彼の現在の身体能力を確かめることと、修行がこの登山の目的だ。

山の中腹にある駐車場には車が一台も止まっておらず、一通りも皆無と言って良い。

こんな場所に来るのに十数分ばかり時間がかかったが、彼の気分は悪いものではなかった。


 汗をかくこと事態は嫌いではないし、汗が服に張り付く感覚さえなければ、彼は運動するのは好きだ。

だが、現在彼の肉体は程良い疲労を受け入れているものの、気持ちは余り穏やかなものではない。

登山がきつかった訳ではない……彼はこの程度でダウンする程軟ではないのだ。


 彼が穏やかな気持ちになれない原因は、彼の隣に居た。




「……なぁ、碧。そろそろ機嫌を直してくれないか?」


「ふん。私の何処をどう見たら、機嫌が悪いように見えるのかしら?」


「先ず表情だ。口元は不機嫌そうに歪んでいるし、眉間に皺が寄っている。耳も尻尾もピンと立っているしな。明らかに怒っているだろう、それは」


「……分かっているのなら、何か言うことは無いのかしら?」


「昨日の件は、確かに俺が強く言い過ぎた。すまなかった」



 昨日、愛梨達との間で流血沙汰処か殺人未遂を起こした碧に関しては、一鬼も余り快く思っていない。

何が彼女をそこまで不安定にさせるのかは彼には分からないが、とにかく彼は彼女の評価を改めざるを得なかった。

最初は自立的で芯のある女性だと思っていたのだが、今の彼女の評価は精神不安定でありながら過ぎた力を得た女だ。


 ブルー・シャーマンのような、圧倒的な理性のみで構成されている妖とは違い、碧は妙に不安定だった。

それはイエロー・レディーや緋蓮にも言えることだが、やはり彼女の不安定さはずば抜けている。

戦闘においては妙に安定している癖に、特定の状況になると非常に不安定になるのだ。

特に、彼が関わる事柄に関しては、理性を衝動が上回ることが多々ある。


 しかし、彼には何故彼女がそこまで衝動的になるのかが分からない。

その理由を彼女が話してくれない限り、彼に非があったとしても改善のしようはないだろう。

どうやっても、このままでは平行線を辿るしかないからこそ、彼はそれを知りたい。

だというのに、彼女は頑なにそれを教えようとはしない。


そこに、彼は理不尽さを覚えるのだ。




「違うわ。そういうことじゃなくて……あの、小娘との関係のことよ。どうして、あんなことを言ったの?」


「愛梨と恋仲になることに関してか? 実を言えば、あれには打算がある。俺にとっては、あいつだけが生存している同類だからな。一番現実的な相手だ。そもそも、俺は女性に縁がないから、愛梨くらいしか相手が居ない」


「……嘘ね。本当は、大切に思っている癖に。貴方がそうやって大切にするから、あの小娘もそれに応えようとするのよ。その気持ちを、是非とも私にも向けて欲しいものね」


「成程……確かに、碧と愛梨の間に扱いの差があるのは事実だ。だがな……高が一週間余りの付き合いと、三年以上の付き合いでは、差が出るのは当然だろう? お前の気持ちも分かるが、まずは俺にそうさせるだけの判断材料をくれ。お前はまだ俺に多くの隠し事をしているだろう? それを見せずして、ただ求めるのは聊か都合が良過ぎる」



 一鬼としては、碧の言い分も分からなくはないが、完全に受け入れることはできない。

彼女が彼に明かしていない情報はまだいくらでもあるし、彼女はもっと態度を改めるべきだ。

それをせずして、彼に待遇の改善を求めるのは筋違いというものであろう。

彼はそこまで怒らないが、人によってはこんなことを言われたならば、怒るのが当然だ。

そこを彼女は分かっているのか、彼は不安に思ってしまう。


 一鬼も既に理解している……碧は傲慢だ。

己が改めることは嫌がっても、他者にはそれを強要しようとする嫌いがある。

それは強者の特権ともいえるもので、確かに彼女はその強者に当てはまるかもしれない。

しかし、同時に強者はその特権に見合うだけの重荷を背負わなければならない。

それをせずして、権利だけ主張するのはおかしいことだ。




「ぐっ……確かにそうね」


「それに、お前は戦闘以外ではほぼ役立たずじゃないか。愛梨はああ見えて、炊事も家事もできるし、他の面で俺に貢献できる。お前が勝っているのは、失礼な話だが容姿くらいじゃないのか?」


「っ……私だって、料理や家事くらいできるわ! 嘗めないでちょうだい!」


「……本当か?」


「ちょっ、何よその疑いの眼差しは!?」



 一鬼は、自分でもかなり失礼なことを言っている自覚があったが、取りあえず思っていることを述べていく。

それに対する碧の一撃を貰うくらいの覚悟はしていたが、思いの外ショックを受けたような反応に、彼は驚いた。

その羞恥と憤慨で赤くなりながら震える姿は、見た目が成熟した女性であるだけに、妙なギャップを生む。

それに対してドキリとしながらも、彼は取りあえず返事だけする。


 碧が家事や炊事をできるというのが意外過ぎた為、彼は思わず平坦な声を出してしまった。

しかし、明らかに戦闘に特化している雰囲気を醸し出しながら、料理ができるというのは、驚くべき事実だ。

その料理がどの程度かは、かなり怪しい処だが、取りあえず彼はそれを信じることにする。

近い内に実践させてみれば、全て分かることなのだから、焦ることはない。




「それで、その家事も炊事も戦闘も全部できる碧様は俺に何をしてくれるんだ? ああ、料理はしてくれなくても良いぞ。どうせ俺には味覚がないからな」


「……そういう不意打ちは止めなさい。肝が冷えるわ。そんな簡単に、重い話をするのは良くないわね。私は良いけれど、他の者なら引いているわよ?」


「ああ、悪い」


「良いのよ。それで、私ができることだけど……貴方の護衛は勿論、マッサージだってできるし、料理も掃除も全部任せてくれて良いわ。料理も、香りを楽しめば食べられるでしょう?」


「そうだな。しかし……そこまでしてくれると、まるで狐に嫁入りされた気分だ」


「よ、嫁入り!?」



 一鬼の言葉に対して、碧が失敗したと言わんばかりの表情で答えてくるが、彼は気にしていない。

味覚がなくなったことで、彼の自己認識が少しばかり希薄になったのは確かに事実だ。

五感を失うことがいかに辛いことかを、身を以て理解した彼ではあったが、それを泣き言の理由にするつもりはない。

いつだって、彼が味覚のことを告げる時は、ただの事実でとして告げるのだ。


 そんな一鬼だからこそ、碧の言葉に心の中で深く感謝し、そしてからかう。

家事炊事をしてくれるなど、まるで嫁でも貰った気分であると彼が思ったのは事実であるし、その言葉に深い意味はない。

そこには、願望も懇願も何も存在せず、ただ彼女の言葉から連想させる状況を端的に評価したに過ぎないのだ。

だからこそ、彼は碧が顔を赤らめて慌てていることに、苦笑するだけで、その意味を理解しない。


 ただ、嫁入りという言葉に反応しているだけだと決めつけて、彼女の葛藤に気付けない。




「そ、その……そういうことを求められるのは嬉しいわ。でも、まだ私達には早いと思うの」


「……ん? おい、何を言っている? 俺はただ、そんな風に見えると言っただけだぞ?」


「えっ?……か~ず~きぃぃいい!!」


「正直すまんかった」



 何を勘違いしたのか、一鬼からの遠回しなプロポーズの類だと誤解した碧に、彼は現実を突きつける。

それに対して彼女は一瞬目を白黒させたが、すぐに理解して不機嫌になっていく。

彼も悪いとは思っていたので、一応謝ることにしたが、あまり効果はなさそうだ。

顔を真っ赤にしながら怒るその姿を、彼は素直に愛らしいと思うものの、それを口に出すのは憚られる。


 その一言でまた話がこんがらがることを彼は理解していた。




「そうだ。ここに来たのは、訓練の為だったわね。なら、早速訓練を始めましょう」


「なっ?……ぐっ!?」



 満面の笑みで碧がそう言ったかと思うと、突然訪れた浮遊感に一鬼は驚いた。

その直後にアスファルトに叩きつけられ、背中を強打するが、体に異常はないようだ。

妖へと向かう過程で体がより頑健なものへと変化しているのだろう……彼は痛みを感じこそすれ、意識を失う程ではなかった。

しかし、それでも彼が気付く前にアスファルトに叩き付けられたという事実は変わらない。


 未だに彼の片腕を掴んでいる碧の新緑の眼を見つめながら、一鬼は静かに溜息をつく。

まだ彼女との間にある戦闘力の差は絶望的なもので、やはりこのままでは足手まといにしかならない。

それが分かっているからこそ、こうして訓練をすることを彼は望んだ訳だが……このままでは一方的に蹂躙されてしまう。

最初はそのままでも仕方ないが、いずれはそれに見合うだけの反撃ができるようにならなければならない。




「まだまだね。その程度じゃどうしようもないわよ」


「分かっている……それよりも、今のは片手で投げたのか?」


「ええ、そうよ。貴方の体重はせいぜい百キロ余り程度……まだまだ軽いわね。その程度の重さ、紙切れみたいなものよ」


「そうか……なら、碧はどのくらいなん―――ぐっ!?」


「女性に体重の話をするのはいただけないわね」


「……次からは、気を付けよう」



 碧の体重について尋ねようとした瞬間、一鬼は再び投げられた。


先程よりも更に速く、鋭いその投げによってアスファルトが歪んだのを、彼は感じる。

それでもなお異常を来さない己の体に彼は驚き、しかしこの程度で満足できないと考えを改めた。

イエロー・レディーやブルー・シャーマンをいとも簡単に貫いた碧の拳は、きっと容易く彼を殺す。

この程度で満足できる程、彼の周りの妖は弱くないのだ。


 携帯電話を持ってこなくて良かったと思いながら、彼は起き上がった。

もしも携帯電話をポケットに入れていたならば、叩き付けられた際の衝撃で壊れていたのは間違いない。

人間がこんな訓練を毎日続けていては体が持たないかもしれないが、妖ならば話は別だ。

現に、彼の肉体はそこまでのダメージを負っていないし、まだまだ動ける。


 妖ならではの、無茶な訓練法だ。




「一鬼。貴方は攻守共に伸ばしたいみたいだけれど、私としては防御を主体的に伸ばして欲しいの。攻撃は私がやれば十分でしょう?」


「確かにそうかもしれないが……万が一ということもある」


「万が一、ね……そんなことはありえないわ。私が一緒なら、ね。私が信用できない?」


「……分かった。しかし、それだけ言うからには、失敗したら何か罰を与えさせて貰うぞ」


「ええ、構わないわ。そうなることはないもの」



 一鬼としては、攻守共に伸ばすことこそが最前だと思っている。


碧が『虹色の肋骨』を押さえている間に彼が宿主を無力化させることさえできれば、圧倒的に有利なのは間違いない。

これから先、碧だけに任せていては厳しくなることが予想されるのだから、彼も何かしらの強みを持つべきだ。

だからこそ、彼はその身体能力を自衛ではなく、宿主への積極的な攻撃に生かすべきではないかと考えている。


 彼の身体能力ならばただの人間相手に後れを取ることはないし、その方が確実だ。

相手の妖は碧よりも強い可能性があるが、相手の宿主が一鬼よりも強い可能性は非常に低い。

この町に居る妖の生き残りは二人だけで、既にその二人は判明している。

一鬼と愛梨のみが生き残った妖であり、それ以上は居ないと分っているのだから、彼は実質宿主の中で最強だ。


 しかし、それを気に食わない碧を前に、一鬼は彼女の言葉に従うことにする。

ただし、彼女が彼の懸念通り他の妖相手に後れを取った場合は罰を与えるという条件付きで、だ。

こういう形での約束に対して、プライドが高い碧は一層張り切ってくれると彼は予測していた。

そして、その予測はほぼ当たっていたと言えるだろう。


 碧は、傍から見ても容易に分かる程にやる気になっているのだから。




「さて……続けようか。せめて受け身が取れるくらいにはなりたい」


「ええ、いいわよ」


「―――っ」



 そして次の瞬間、一鬼は再び反応する間もなく浮遊感を味わいながら、アスファルトに叩き付けられるのだった。














 早朝、佐藤羽月は穏やかな朝日によって目を覚ました。


 時間は六時過ぎ……朝食まではまだ大分時間がある。

もう慣れた半分だけの視界の中から着替えを見つけ出すと、彼は早速着替え始めた。

衣服はいくらでもある……彼は、そういったものに金をかけるし、そもそも金はそれなりにあるのだ。

そうでなければ、彼も十九歳にして無職で遊んで暮らしてなどいない。


 一年前の事故で片目を失い、更には一時期意識不明に陥って以降、彼は生きる気力を失ったこともある。

いくつかの宝くじで一等賞を取り、合計十億程度の金が転がりこんだこともあって、彼は現在何処にも所属していない。

それ以前は彼も地道に勉学に励んでいたものだが、今は状況が大きく異なっている。

彼は後悔のない人生を歩みたかった……だから、急がねばならない。




「っ……くそ……」



 羽月は突然訪れた頭痛に顔を歪めながら、ベッドの上に倒れこんだ。

既に彼は緩やかながらも、死に向かって進んでいる……時間は余り残されていない。

それこそが、彼が働きも学校に行きもせずにいる最大の理由であり、こうしてもがいている理由だ。

せめて自分が生きている間に成し遂げたいことがある……だから、彼は戦う。


 暫くの間横になっていると、大分楽になったので彼は動き出すことにした。

今まで培ってきた技術も力も無意味なものに変えてしまう死まで、残された時間は少ない。

このまま横になっていた処で、彼は強くなれないし、目標である一鬼を超えることなど、夢のまた夢だ。

父を超える……それこそが彼の願いであり、果たせなかったその願いを叶える為に、彼は一鬼を利用している。


 結局、羽月は父親の代わりを彼に求めているに過ぎないのだ。




「……緋蓮、起きているか?」


「ああ、起きているぞ。羽月、今日は少しばかり長かったな。後、どのくらい持つ?」


「さぁな……医者の話だと、半年は持つらしい。一応ぎりぎりまでは普通に動けるそうだ」


「半年、か。原因は一年前の事故か?」


「ああ、そうだ。この目を突き刺した破片が脳にまで達していたそうだ。こうして普通に生活しているのは奇跡だと言われた」

 

 光を見ることの叶わない右目を押さえながら、羽月は苦笑した。

その笑みの余りの儚さに、諦めに、現れた緋蓮は思わず唇を噛みしめてしまう。

これ程彼が苦しんでいるというのに、たかが味覚のみを失った一鬼がのうのうと生きていることが、彼女には理解し難い。

これこそが、まさしく世の中の不公平というものであろう……そう緋蓮も羽月も、感じている。


 神谷一鬼は碧という、戦闘能力に関してはほぼトップの妖を持ち、彼自身も妖に目覚めつつある。

一方、羽月が引いたのは緋蓮というほぼ最弱と言える妖で、彼自身もこの戦いで生き残っても、その後の人生は長くない。

この戦いで生き残っても死ぬし、そうでなくとも死ぬ。


どちらにしろ、彼は既に詰んでいるのだ。




「不条理だな。妖である私が言うのもなんだが、不公平だ」


「言うな。言われずとも分かっている。だが、与えられたカードしかきれないんだ。俺達は、限られた可能性を選んで進むしかないんだ。だから、言うな」


「……分かった。予定通り、日中に動くんだな?」


「ああ、夜だと向こうの方が圧倒的に有利だからな。夜はただでさえ悪い視界が、更に悪くなるが、向こうはきっと、どちらも見えているだろう。身体能力だけでなく、気配察知能力すら圧倒されては、敗北は必至だ」


「分かった」



 羽月は、軽い足取りで扉を開け、玄関へと向かった。

その姿から先程の苦痛に顔を歪めていた彼は想像できず、そのギャップは演技だったのではないかと疑われてしまうかもしれない程だ。

しかし、残念ながら演技などではない。彼の頭痛は脳そのものが悲鳴を上げているが故のもので、突発的なものである。


 実の処、羽月はこの痛みが科学的なものではない可能性を感じていた。

本当に医者に言われている通り、傷が脳深くにまで達しているのならば、彼は本来動くことなどできない。

それがこうして動けているのは、科学的ではない何かしらの力が影響している可能性がある。

以前の彼ならば、そのようなことを考えることはなかったが、今は別だ。


 緋蓮達『虹色の肋骨』と出会い、オカルトの中に実在するものを見出してしまった。

だからこそ、『呪い』というただのオカルトで片づけられる筈のものの可能性を考慮しなければならない。

彼はその『呪い』によって生かされており、それが緩んできているから、こうして死が近づいているのではないか?

そう考えれば、明らかな致命傷だったにも関わらず、こうして彼が生きていることも納得できる。




「緋蓮、すぐに動けるか?」


「ああ、私はいつでも動けるぞ。今から仕掛けるのか?」


「ああ、そのつもりだ。あいつならもう起きている筈だからな」


「了解した」



 羽月は今からとある場所で会いたいという旨のメールを一鬼に送信すると、靴を履いて静かに家を後にした。

まだ寝ているであろう義母、佐藤綾子を起こさない為の彼なりの配慮だ。

彼が就職しようともしないことに対する義母の心配は、彼も十分承知しているが、そのようなものに今更興味は無かった。

彼は残された時間でやりたいことをやって、自分勝手に生きて死ぬ。


 それこそが、彼が悩んだ末に出した答えであり、これから為すことだ。

彼は誰かの為に生きるつもりなどないし、ただ己が満足して死ぬ為に、もがく。

一鬼のことも、出会いがない義母の為ではなく、彼が父親を欲するが故の考えであって、彼女のことを思いやってのことではない。

その思いがない訳ではないが、所詮は二の次で、彼の本当の目的は父親を得ることだ。


 母親は綾子が担ってくれているが、父親まで担うことは彼女にはできない。

羽月の望む父親像に合う男は今の処一鬼だけだし、その一鬼と同じような人間が居ても、見劣りするのは否めなかった。

そもそも、彼が望んでいるのは父親越えであり、一鬼すらもそれを果たす為の代わりでしかない。




「ままならないものだな。やはり、目標は一つに絞った方が良さそうだ」


「そもそも、三十五歳と十九歳は無理だろ。最初から無理ゲーだ」


「そうだな……ぶっちゃけ無理だよなぁ。まぁ、綾子さんには悪いが、諦めよう」



 三十五歳と十九歳での結婚が無理な訳ではないが、今回は脈なしだ。

羽月も互いの意思を尊重するし、無理に形式だけの父親を得るのははっきり言って意味がない。

逆の立場だったならば、彼は断固反対するし、その反対を押し切っても、本当の父親は得られない。

彼が欲しいものは、そんな仮初のものではないのだ。




「いや、そもそも互いに脈なしだからそうなったんじゃないのか?」


「いや、綾子さんの方はそうでもなかったんだよ。多分一鬼が親父に似ているからなんだろうな。綾子さんもお袋も、親父のことが好きだったみたいだし」


「……羽月、お前の家ってやっぱりドロドロしているな」


「そうか?」


「いや、本人がそう思っていないなら、別に良いんだ」



 羽月は目的地へと足を運びながら、ゆっくりと体を解していく。


そんな彼に一種の呆れを抱きながらも、緋蓮はその図太さに驚き、それでも敵わないという一鬼への不安と恐怖を感じる。

神谷一鬼はいったいどういう妖で、どれ程の怨念を抱えているのかが、まるで彼女には読めなかった。

力は彼女よりも既に上でありながらも、まだ完全に妖として覚醒していないのは、恐ろしいと言わざるを得ない。


 神谷一鬼は既に宿主の中では最強である筈なのに、まだ成長を続けている。

緋蓮はそのことに関して不安を感じながらも、同時に羽月が執着するのも無理はないとも思った。

あの男は彼女にとっても彼にとっても、既に格上の存在となっている。

それを超えてみせて、初めて彼は救われるのだろう。


 しかし、このままでは彼らは勝てない―――何も為せずして、負ける。




「さて、緋蓮……昨日話した通り、動く。お前の能力には期待させて貰うぞ」


「ああ、任せろ」



 シェイプシフターが持つ能力は特有の擬態能力だが、緋蓮の場合は少しばかり異なる。

勿論擬態ができない訳ではないし、擬態さえすれば中級以下の妖の感覚は誤魔化せるのだ。

元々シェイプシフターの擬態は人間と妖の双方を欺く為のものであって、それを利用すれば基本的に潰されることはなかった。

しかし、それも上一定以上の力のある妖には無意味なようで、実際妖狐は隠れていた筈の彼女達を皆殺しにできている。


 強者から身を隠す為の擬態でありながら、少しも役に立っていないというのは実に皮肉だ。

人間は逆にすぐに騙されてくれるので、シェイプシフターは妖よりも人間との交流を選びがちである。

だからこそ、彼女は賢いとはいえないものの、羽月と大した衝突もなく、今まで上手くやってきた。

その点に関しては、一鬼と碧のペアよりも確実に上であると、彼女達は自負している。


 たった一度の会合で容易く判明する程に、一鬼と碧の関係性は歪だ。

いつもは一鬼を論旨し、年上ぶっている碧であるが、彼に拒絶されることを極端に恐れている。

殺して、殺して、殺し続け、遂には殺戮者とまで言われた、二百年前最強と謳われていたあの妖狐が、己よりも弱い妖に媚びていた。

それが、何よりも緋蓮にとっては傑作であり、苛正しく、同時に恐ろしくもあった。


 一鬼という男は歪過ぎて、何故それ程に多くの者達を呼び寄せるのか、彼女には理解できないのだ。




「なぁ、羽月……今更な話なんだが、あの男にそこまで魅力があるのか?」


「ん? ああ、それは確かに疑問に思うかもしれないが……あいつは、歪なものを引き付けるんだよ。言うなれば、狂った奴を引き付けやすい性質なんだ」


「……ああ、成程な。確かに、狂った奴しかあいつの周りには居ないかもしれない」


「そういう性なんだよ……あいつは、壊れたものを引き付けて、癒しちまう。だから、歪みは離れようとしないのさ」



 羽月の言葉に、緋蓮は漸く一鬼がどういう存在なのかを理解した。


あれは言うなれば、落し物が集まる場所だ……世界から弾き出されたものが集まる、別の世界そのものだ。

異常であるが故にこの世界から逸れてしまった者達が集まる場所そのものだからこそ、あの男の周りにはそういう輩しか集まらない。

しかし、悲しいかな、そういう狂った輩に限って、高い能力と精神力を備えていることが多いのが、妖だ。


 人間とは異なり、妖は狂っている程強靭な力を得る。

これは、妖が力を得る方法が怨念を心臓に取り込むというものであることが大きく起因しており、怨念を取り込む程に高い精神力が必要とされるものだ。

耐えられない者はそのまま消滅するだけで、無理に力を蓄えようとするのは余り意味がない。

しかし、狂った者はそのような限界が存在せず、特定の弱みを攻撃されない限り、ほぼ無限に強くなる。


 勿論、生まれながらに存在する限界を超えることは叶わないが、超越者というものは、得てして狂っていて、しかも圧倒的なポテンシャルを持つものだ。

この町に少なくとも二人の超越者が居ることと、一鬼の存在に関係がないとは言い切れない。

碧が超越者ではないとすれば、それ以上の色を司る妖だけが、それに該当する可能性があるのであって、緋蓮達には関係ない話ではある。


 彼女は少しもあの男に惹かれないのだ―――その可能性すらない。




「何とも損な性だな。だから、あんなものが聞こえるのか」


「あんなもの?……何が聞こえているんだ?」


「唄だ。子守唄のような唄が、あいつからは聞こえてくるんだよ。私は何も感じなかったが、多分あれが原因なんじゃないのか?」


「俺は聞こえなかったぞ。妖にしか聞こえない、ということか?」


「多分な。しかし、それにしたって異常だ。そんな唄で引き寄せられるなんて、全然本人の魅力じゃないだろうに」



 羽月は、そんな緋蓮の言葉に静かに頷くと、苦笑する。

彼は一鬼のことをそれなりに理解していたつもりだったが、妖にしか聞こえない唄の存在に、少しばかり驚いた。

そんなものがなくとも、彼は一鬼にそれなりに魅力があると思っているのだが、緋蓮はそうは思ってない。

寧ろ、それがなければ何もないと思っているくらいだ。


 この二人の認識の違いは、単純に今まで積み重ねてきたものの違いであろう。

羽月はもう五年程一鬼とつるんでいるし、それなりに色々と苦楽を共にしてきた。

対して、緋蓮は一鬼のことを一年間程しか見ておらず、しかも実際に相対した時も、腹部に重い一撃を貰っている。

何のことは無い……ただ、二人は受けた扱いの差によって評価を変えているだけなのだ。

そして、二人共考えていることは間違ってはいないし、ただ単純に違う一面を垣間見ているに過ぎない。


 どちらの一鬼も彼自身であり、偽物ではないのだ。




「まぁ、魅力なんてものはそんなもんだ。ある者には極上に見えても、別の者からすれば有象無象であることなんて、ザラだろう」


「確かにそうなんだが……納得がいかないな。結局力に惹かれているだけじゃないか」


「残念ながら、精神力も立派な力だぞ。努々忘れないことだ」


「……納得いかん」



 羽月の言葉は分からなくはないのだが、やはり緋蓮からすれば理解しかねる内容だ。

精神力も確かに力ではあるが、一鬼の唄の力は全く異なるものではないか、というのが彼女の考えである。

つまり、そのようなものでしか、一鬼という男は他者を魅了できないのではないか、と彼女は言いたい訳だ。

だというのに、その言い分を理解しても、羽月は笑みを崩さない。


 羽月は一鬼の強さを知っている……精神力が尋常ではないからこそ、一鬼は今生きているのだ。

そもそも、大型トラックに直撃していながら、味覚を失うだけで済んだことは大きな問題ではない。

少なくとも、事故の時に一鬼が三度撥ねられ、二度轢かれたのを羽月は見ていた。

真に恐れるべきことは、その後も彼が車を怖がっていないことであろう。


 羽月ならば、恐怖の余り外に出ることすらまともにできなくなっている。




「納得する必要はないさ。ただ単純に、ぶっ壊れた連中を引き受けてくれる奴だと思えば良い。だからこそ、あいつの傍に居ると退屈しないんだよ」


「……羽月、こう言うのはなんだが、お前もそのぶっ壊れた連中に含まれるんじゃないのか?」


「……だろうな。あいつと一緒に居ると、楽しいのは間違いない。あいつは、大事な親友であり、超えるべき壁だ」


「親友、か。私も昔は居たが、今はどうにも作る気がしないな……そもそも、選択肢が少ない」


「宿主か妖しか候補が居ないのは痛いな。宿主はともかく、妖の方はまともそうなのがほぼ居ない」



 羽月と緋蓮は苦笑しながら、今の処判明している宿主と妖の情報を思い出す。

ブルー・シャーマンは信用できるし、何かを学ぶ為ならば付き合うのも悪くないが、他の妖は正直二人共遠慮したかった。

碧は論外であるし、橙色の妖はそもそも信用できず、イエロー・レディーも一鬼の話を聞く限り無理だろう。

藍色の妖は現在大量殺人を行っているので除外されるし、ここまで来ると紫色の妖も望み薄である。


 妖の方はブルー・シャーマン以外ほぼ全滅であるのに対して、宿主はそれなりに候補が居る。

一鬼と一矢は理知的で、羽月としても非常に取っ付きやすいし、緋蓮ともそれなりにやっていけるだろう。

美空も羽月に対して壁があるもののなんとかなるであろうし、駄目そうなのは今の処愛梨くらいなものだ。

意外なことに宿主はまともとは言えないものの、話の分かる者の方が多いのである。




「さて……そろそろ見えてきたぞ。準備をしておけよ」


「ああ、分かっている……精々足掻くとしよう」



 羽月と緋蓮は、引き締まった肉体と藍色の髪を持つ男の後ろ姿を見ながら、ニヤリと笑った。











 一鬼は痛む体をゆっくりと解しながら、羽月からのメールで指定された場所で彼を待っていた。


 碧との訓練では結局一度も彼女を捉えることはできなかったものの、受け身くらいは取れるようになったので、一鬼はそれで概ね妥協した。

彼とは反対に、それなりに機嫌を直してくれた碧は、現在彼の肋骨に潜んでいる。

羽月からの呼び出しのメールには詳しい内容が書かれていなかったので、連絡ではないということは判明していた。

故に、彼女は現在休憩させている……何が起こるのかを概ね理解しながらも、彼はそれを選んだ。




「そろそろ来るか」



 実の処、一鬼は今回羽月が攻撃を仕掛けてくるであろうことを、既に予測している。


羽月は理由を言わずに誰かを呼ぶことは滅多にない……明確ではなくとも、何かしらの理由を伝えるものだ。

それが、今回のメールに限っては無かった……つまり、いつもとは違うと態々一鬼に教えてくれている。

それでも、一鬼は気付いていないふりをして、ここで待っている……目の前に広がる池を眺めながら、ベンチに座って。


 噴水のある池を囲むように作られた公園は、夏には涼みに良く人がやってくる。

この季節でも既にその傾向はあるのだが、流石に朝の六時には人影はまるでない。

そもそも、この公園そのものが少しばかり離れた場所にあるので、そう人は通らないのだ。

だからこそ、羽月がこの場所を会合に選んだのであって、彼は普通の場所で戦闘などできない。




「……来たか」



 不意に後方に現れた妖の気配が緋蓮のものであることを感じながら、一鬼は立ち上がった。

碧は呼ばない……呼ぶ必要があるかを、彼がこれから見極めなければならないからだ。

彼は確かに羽月を高く評価しているが、実際に戦えば彼が勝つのは明白なことであり、そこに緋蓮が加わっても結果が変わるのかが分からない。

それをこれから試すことで、一鬼は己の現在の力量を理解し、何処から碧の助けが必要か判断する。


 だからこそ、羽月の良く分からない挑戦に態々一鬼はのってやるのだ。




「羽月、こんな時間に呼び出して何の用だ?」


「悪いな。少しばかり、確認したいことが―――できたんでな」


「―――!」



 一鬼は早速見舞われた不意打ちのストレートを受け流しながら、その腕をそのまま掴んだ。

彼の現在の握力ならば、羽月の腕を片方貰うのは簡単だが、それはしない。

そんなことをしても、藍色の妖に対する戦力を大きく削ぐことになるだけだし、何も良いことは無いのだ。

デメリットしか伴わない行動など、余程の理由がない限り彼はするつもりはない。


 だからこそ、彼は同時に背後に回って襲い掛かってくる緋蓮の腕をもう片方の手で掴んで、放り投げた。

この状況で相手を極力傷つけないように制圧するのに最も有効なのは投げ技や関節技であり、下手に殴れないのが現状だ。

もしも、これが敵対している者だったならば、彼は最初の一撃にクロスカウンターの一撃で以て応え、心臓を貫いていただろう。




「くっ……」


「なんで見切られた!?」


「バレバレなんだよ。次からは、メールの文面にも気を付けるんだな」



 一鬼は羽月の体もそのまま放り投げると、すぐさま距離を取った。

案の定、すぐに態勢を整えた羽月と緋蓮が向かってくるが、彼は姿勢を低くすると、そこに突っ込んだ。

急な加速の為に思い切り蹴ったアスファルトが悲鳴を上げるのを感じながらも、彼はそのまま最高速度で羽月に突っ込んでいく。

それを止めようと横側から迫る緋蓮に、一鬼はニヤリとしながら、急に方向を変えた。


 一瞬の間の後に、それに気付いた緋蓮が一鬼を避けようと動くが、そこを逃がさずに足を掴んで、容赦なくその腹部に拳を見舞う。

流石に前回のこともあってか、緋蓮はそれを危なくも横に逸らして、逆に関節技を決めようとしてくる。

しかし、一鬼はそれをさせまいと、彼女の足を掴んでいた手で、すぐさま彼女の首を締め上げた。


 一鬼も、妖も人間のように首を絞められると弱るのは承知しているのだ……利用しない手は無い。




「ぐっ……」


「まだまだ甘いな。その程度で……」


「貰った!」


「っ……!」



 抵抗を弱めた緋蓮を真っ直ぐ見据えながら、一鬼が忠告を言おうとした瞬間に、羽月が死角から襲い掛かってきた。

それを回避しようとする一鬼を、急に動き出した緋蓮が繰り出した攻撃が妨害する。

意外な程の窮地に一鬼は苦笑しながらも、すぐさま緋蓮を羽月に向かって放り投げた。

緋蓮の体重は凡そ百キロ前後……羽月には受け止めることはできない。


 宿主が『虹色の肋骨』に触れることができるというものは、一見ただの利点にしかならないように思えるが、明確な欠点でもある。

『虹色の肋骨』は他の人間に対しては自由に透過か接触かを自分の意思で選べるが、宿主には絶対に触れてしまう。

つまり、このように妖そのものを武器として使用されてしまうと、宿主はそれを避けることしかできないのだ。


 勿論、それが一鬼のような特別な宿主ならば話は別だが、羽月はどう足掻いても人間でしかない。




「くそっ……」


「その程度なら、十分対応可能だ」


「まだだ!」


「無駄だと言っている……あっ」


「えっ?……どわああああ!?」



 緋蓮を避けた後に、すぐさま向かってくる羽月をその勢いを利用して放り投げると、一鬼はその瞬間に投げた方に池があることに気付いた。

着地できるようにそれなりの距離に投げてしまったことで、羽月はそのまま湖に落ちてしまう。

彼はそのことを申し訳なく思いながらも、しかし背後から襲い掛かってくる緋蓮には気付いていた。


 突っ込んでくる緋蓮に対してカウンター気味の回し蹴りで、その横腹を攻撃すると、一鬼はそのまま彼女を羽月の方へと蹴り飛ばした。

嫌な音を立てながら歪む彼女の横腹から伝わる感触で、あばらを一本程度は貰ったことを、彼は理解する。

驚きに目を見開いたかと思うと、にやりと笑った緋蓮を見ながら、彼は足に残った妙な感覚に気付いたが、それが何かを確認する前に、何かに引きずられて池に落ちた。


 否、落ちたと思ったが―――彼の体は水面で沈むのを止めたのだ。




「なっ!?」


「なんだこれは?……沈まない?」


「まじかよ……」



 一鬼は、自分に起きたことを理解できずにいたが、水は彼の服を濡らすものの、彼を飲み込みはしない。

ゆっくりと立ち上がってみても、彼の靴は水面の上にあり、沈まずにいた。

その様子を、緋蓮も羽月も、一鬼自身さえもが驚いて見る。

一鬼と緋蓮はその意味を理解していないが故に、緋蓮はその意味を理解しているが故に、固まった。




「何がどうなっている?……碧、これはどういうことだ?」


「ふふ……随分と早い目覚めだったわね」


「何?」



 一鬼は、彼に応えるように現れた碧に問いかけるが、満足げに微笑む彼女は、それに答えない。

その笑みは非常に柔らかいもので、ほんのりと赤らんでいる頬が、彼女の美しさを際立たせる。

彼女の美しさに一瞬彼は見惚れるが、しかし、彼女が彼の話を聞いていないことを悟った。

こういうことがあるからこそ、余計に彼は彼女の評価を下げる必要があるのだ。


話を聞かない、もしくは聞いても無視する手合い程、面倒な者は居ない。

一鬼はそのことを良く知っている……話を聞かない者は非常に扱いづらく、面倒だ。

彼は何度か海外に行ったことがあるが、その度にそういう人種に会ったもので、その面倒さは理解している。

話を聞かない者は、いかなる理知的な提案も聞きはしないので、何を言っても無駄なのだ。

彼としては、碧がそれではないことを願いたい。




「上級の妖は、水面も空も駆け抜ける。奴らにとって、海なんて障害にならない……そうだろう、バケギツネ」


「ええ、そうよ。私達にはその力がある。一鬼、おめでとう……貴方も上級の妖であることが確定したわ。完全に目覚めていない状態でこれなら、間違いないでしょう」


「上級の妖?……碧やブルー・シャーマンのようなレベルか」


「正確には、上級の妖とは妖狐でいう六尾以上を示すわ。三尾以下が低級、四、五尾が中級ね。妖狐でも六尾以上になる者はそう居ない。況してや、八尾に至っては妖狐でもまだ私だけよ」


「となると、俺のポテンシャルは最低でも六尾に相当することが確定したのか?」


「ええ、そうなるわ」


 碧と緋蓮の説明に、一鬼は己の状況を理解した。

このまま順調に完全なる妖へ目覚めることさえできたならば、彼は空を飛ぶことすら可能になるということになる。

彼故人としては、いくら何でもそれはあり得ないと言いたい処だが、碧達超自然の存在を前にしては、それを言うのも難しい。

そもそも、『虹色の肋骨』も皆宙に浮いている……皆彼以上の重量を誇っている筈なのに、だ。


 緋蓮ですらも、先程の手合わせから、その体重を百キロ以上だと判断できる。

一鬼と同等以上の体重をしていながら浮くことが出来るのを見ていながら、妖は空を飛べないなどと言うのもナンセンスであろう。

ただただ、ぽかんとした表情で皆を見ている羽月に手を差し伸べながら、彼はそう考えることにした。

羽月を持ち上げても、彼の足は力強く水面を蹴り、バランスが崩れることはない。

明らかに異常ではあるものの、彼はそれを受け入れることにした。




「……また、置いて行かれちまったな。流石にそれは真似できそうもないぞ」


「ああ、それには賛成だ。というよりも人間なのにできたら、それはそれで怖いぞ」


「そうだな……しかし、また負けちまった。お前、本当に強くなったな。初めて会った頃の方が力の開きは無かったぞ」


「まぁ、俺が上級の妖だというのだから、仕方ないことだろう」


「仕方ない、で纏められたらこちらも立つ瀬がないぞ。やれやれ……出直しだ」



 びしょ濡れのまま苦笑する羽月に、同じく苦笑で返しながら一鬼は岸へと上がった。

それに続く碧と緋蓮は、非常に対照的な表情をしている……片や勝ち誇った笑みで、片や不気味なものを見たような、面食らって固まったままである。

前者である碧は、そのまま流れるように一鬼の隣に来ると、その肩に手を置く。

対する緋蓮は、腕を組んで不機嫌そうにしながらも、羽月の傍に控える。


 また碧が余計なことを言ったのか、それともこれから言うのか、一鬼は内心心配であった。

彼女は、誇るべきことを誇るが、逆に言えば周りの反応を気にしない無頓着さを持っているということになる。

それだけならば、ただの愛想が悪い娘で終わるのだが、彼女は自慢が大好きなのだ。

嫉妬し、自慢し、嘲笑う……まさにある意味地雷である。


 それをこれからどうやって制御していくか悩みながら、一鬼は内心頭を抱えるのだった。




「碧、自慢なら後でしてくれ。話をできなくなるのは不本意だ」


「……分かったわ」


「それで、奇襲までして負けた気分はどうだ?」


「完敗だ。それに、こいつがいかに弱いかを再確認した」


「否定はしない。寧ろ、肯定するしかないな……流石に、根暗一人だけを相手にして、ここまでしてやられるとは思わなかった」



 不安げに了承する碧から目を逸らすと、一鬼は羽月と緋蓮に率直な感想を尋ねた。

それに対して一瞬目を見開いた緋蓮であったが、すぐに羽月の言葉に顔を歪める。

彼女も、流石に羽月と二人がかりで戦っておきながら、一鬼一人にしてやられたことを悔しがっていた。

しかし、彼女達がかなり良い所までいったのも確かだ。


 あのまま一鬼を池に引きずり込むことさえできていたのならば、水の影響を受けない緋蓮はそれなりに有利に戦えていただろう。

羽月は見ているだけになるが、一鬼との身体能力の差を考慮すれば、寧ろその方が良い。

つまり、あのまま一鬼が池に沈んでさえすれば、まだどうなるかは分からなかったのだ。

確かに二人が彼に勝つ可能性はあった……実際は、その機会すら与えられなかった訳だが。




「今回の奇襲に関しては、俺も自分の力量を測れたので気にはしない。ただ、余り気分が良いものではないな。藍色の妖をどうにかしないと、本気で喧嘩もできやしない」


「お前に本気を出されたら、俺なんかワンパンKOだよ。マジで」


「私も、もうあの腹パンは勘弁だな。今回も……痛っ……一撃貰ったが、一応手加減はしてくれたんだろう? 本気だったら、この前の二の舞だったからな」


「勿論だ。流石に、藍色の妖を討伐するまでは、戦力を減らしたくないからな」



 緋蓮の様子から、肋骨に異常がないのを確認した一鬼は、内心安堵する。

思いの外彼女が頑丈だった為に、彼も余計な心配事をする必要がなくなった。

彼が蹴りを入れた際は、手加減したにも関わらず肋骨が折れたような感触があったものの、実際はそのようなことはなかったようだ。

ただの勘違いであるのならば、それが一番なのだから。




「はぁ……呆れたわ。貴方達、戦う為だけに一鬼を呼び出したんでしょう? せめて、藍色の妖との戦いが終わってからにしなさい」


「へいへい、次からは気を付けますよ」


「分かっているとも。今回は、ただの力試しだ。まぁ、結果は見ての通りボロボロだったが」



 耳を小指でほじくりながら棒読みで答える緋蓮に苦笑しながら、羽月はそう答えた。

一鬼もその答えは予想していたし、そうでなければこのようなことにはならなかっただろう。

いきなり奇襲をかけてきた挙句に、返り討ちにされるというのは、非常に情けない話だ。

しかしながら、何故そのようなことをしたのかを漠然と理解している一鬼は、文句を言うつもりはない。


 羽月は一鬼を超えようとしている……それだけは確かだ。

一鬼からすれば、羽月は既に彼よりも遥か先を行っているのだが、羽月自身はそう思っていなようで、未だに彼に挑んでくる。

そもそも、単純な闘争においては彼に勝つことなどできないのだから、諦めて他の分野で勝負すれば良いのだ。

それをせずして、ただひたすらに戦いを挑むのは愚かなことである。


 しかし、羽月にはそれを止める気はないようだった。




「やれやれ……羽月、すぐに帰って着替えておけ。そのままだと風邪を引く。碧、帰るぞ」


「ええ、分かったわ」


「おう、それじゃあな」


「またな、バケギツネ」




 一鬼は若干の呆れを覚えながら、羽月達に別れを告げた。

彼は羽月が挑んでくるのを拒絶するつもりはないが、バカ正直に付き合い続けるつもりもない。

特に助言もしないし、慰めの言葉もかけずに、ただ背中を向けて去っていく。

今まで彼はそうしてきたし、これからもそうするつもりだ。

慰めや助言のなど羽月には必要ない…自力で上り詰めてくると彼は知っている。




「碧、水の上を歩くのは、強制的にそうなるのか? それとも、意思次第では水の中に入れるのか?」


「制御はできるわ。そうでなければ、水浴びすらできないでしょう?」


「まぁ、そうだろうな。それで、どうすれば制御できる?」


「簡単なことよ。貴方は先程成功していたんだから、その時の感覚を思い出して。その感覚がある時は浮いて、それ以外の時は水に浸かるの」


「成程。あの感覚か……その内試してみよう」



 水面を走れるということは、非常に有用な能力だ。

川や海などを横断できるということは、追跡にも逃亡にも非常に有用だということを意味する。

そして、『虹色の肋骨』は宿主から一定以内の距離でしか活動できないので、余計にこの力が生きる。

この能力は、あらゆる状況で非常に重宝するものだ。


 それに、一鬼は緋蓮が空すらも飛べると言ったことを忘れてはいない。

今はまだ試すのは危険だが、もしもそれが本当ならば、彼は他の宿主に対して圧倒的なアドバンテージを得ることとなる。

彼と愛梨以外の宿主が人間であることは、今までの妖達の話からほぼ確定しているので、彼と同じことをできる宿主は居ない。

相手の妖が余程の強さならば話は別だが、それを考慮しても、この能力が示す利点は魅力的だ。




「碧、空を飛ぶのは、今の俺でもできるのか?」


「……多分無理ね。まずは水面を歩くことから始めなさい。空を飛ぶのは、それをマスターしてからよ。貴方は生まれながらに訓練されていた訳ではないのだから、慎重に行きましょう」


「分かった。その時は、世話になるぞ」


「ええ、勿論よ。だって、私は貴方の大切な存在だもの」


「ああ、確かに白雪に辿り着く為には、俺は大切な存在だな」



 空を飛ぶのはまだ無理かもしれないが、後に可能になるのならば、一鬼はそれで良かった。


そもそも、そのような能力などなくとも、彼が宿主の中で最強であることに変わりはない。

碧とのコンビネーションを駆使すれば、それなりにやれることは多いのだ。

態々空を飛んで目立つ必要はないし、仮に飛ぶとしても、それは夜にした方が良い。

昼間に飛んでしまえば、『虹色の肋骨』ではない彼は姿がバレバレだ。


 一鬼はこの時点で、最初の決意に反した思考をしていることに気付く。

最初は全ての妖を己の眼で見定めて、白雪の情報を引き出していく筈だったというのに、今は戦うことを優先している。

本来ならば、戦う必要がなければ戦わずに情報を引き出すのが最良であり、彼はそうするように努めるべきだ。

だが、彼はある意味既にそれを放棄し、戦って勝つことを第一にしている。


 そこにこそ、彼が妖として覚醒を始めている兆しがあった。




「……その白雪のことだけど、かなり可能性が低くなっているでしょう? 実を言うと、既に私の目的も、別のものへと移行しつつあるの」


「……待て。そんな簡単に白雪のことを諦めて良いのか? それに新しい目的だと……?」


「ええ……私は、白雪を探すことは止めないけれど、優先順位を変えることにしたわ。何があっても、紫の妖は殺す―――必ず、ね」


「……紫の妖との因縁か。超越者だとブルー・シャーマンは言っていたが、どういう奴なんだ?」


「それは……今はまだ言えないわ。だけど、これだけは言える……奴と、私達姉妹、そして貴方は無関係ではない、と」


「俺が……?」



 一鬼は、碧の目的を変えると言う言葉に驚き、しかし納得する。

彼女の妹である白雪の生存の可能性はほぼ零だと言っても良い……その生存を期待するのは、得策ではない。

寧ろ、死んだ前提で情報を探す方が、実際に相手が死んでいた場合のショックは和らぐ。

そういう意味では、彼女が賢い選択をしたと言える。


 しかし、彼女が続けて言った紫の妖を倒すという言葉に、彼は戸惑う。

ブルー・シャーマン曰く、『虹色の肋骨』の中でも断トツで最強である紫の妖をどうやって倒すというのか。

そして、その紫の妖と碧達だけでなく、一鬼自身すらもが関係しているということに、彼は戸惑う。

そのようなことを言われてしまえば気になってしかたないというのに、それでも碧は紫の妖のことを話さない。


 きっとそれには理由があるのだろうが、それ故に一鬼は再び碧への疑いを強めていく。




「一鬼、私としても本当は貴方に全てを話したいの。でも、それをするにはまだ早いわ。もっと強くなりなさい……私を殺せる程に」


「……意味が分からないな。それに、俺はそこまで強くなれる自信はない」


「いいえ、きっと貴方は私を超えるわ。だって貴方は……選ばれし子なのだから」


「その言い方はブルー・シャーマンもしていたが、まるで意味が分からないぞ。説明してはくれないのか?」


「……ごめんなさい」



 碧も、ブルー・シャーマンも確実に一鬼の何かを知っている。


その何かは決定的なもので、恐らくは彼の今後を大きく変えることになる程のものだろう。

それを二百年前に死んだ碧と、封印されていたブルー・シャーマンが知っていることが、彼には不気味だった。

彼が生まれたのは十九年前……これに関しては間違いなく、事実である筈だ。

今でも父である明が大事に保管しているアルバムには、ん坊の頃の彼の写真があるし、それだけは間違いなく事実でなければおかしい。


 神谷一鬼は確かに神谷明と神谷夜空の実子ではないだろうが、それでも彼らの意思を継いだ。

彼は人間として生きることは叶わないが、神谷家を守る為に生きることはできる。

明と美空を守ることこそが、今彼が生きる理由であり、その為に彼は進んできた。

それだけは確かなことであり、決して彼が見た幻などではない……幻想ではないのだ。


 例えどんなことがあったとしても、彼は神谷一鬼という名を与えられた、神谷明と神谷夜空の子である。

これから先、彼は益々人間を無価値に思い、妖に傾倒していくようになるだろう。

それは致し方ないことだ……彼は妖であって、人間ではないのだから。

だが、それでも彼は大切な者だけは守る……そこにこそ、彼の存在理由があるのだ。

彼は確かに虚無の塊だが、だからこそできることがある。


 捨て石となるとしても、それで大切な者を守れるのならば、彼は構わなかった。




「そんな苦しそうに謝るな。無理に聞き出すつもりはない。だが、その代わり俺意外の者への態度は改めてくれ。俺を孤立させたいのか?」


「そういう訳じゃないのよ。ただ、私は……妖の世界で貴方に生きて貰いたいだけなの」


「だが、シェイプシフターのように妖でありながら人間と密接に関わる種族も居る。俺は同じようなことをしてはいけないのか? それとも、強者には他者は不要だとでも? それは傲慢だぞ。そもそも、妖は実質滅んだも同然だろうに」


「分かっているわ。でも、白雪さえ居てくれたなら……再興は可能よ」


「……そういうことか」



 一鬼はおぼろげながら碧の真意を一つ理解した。

妹である白雪が生存していることを期待し、彼に妖の世界に生きることを望む理由は、ただ一つ。

そう、それこそ碧の正確を考えれば、すぐに考え付いてもおかしくない程に単純な理由だ。

彼女が願っているのは、妖の再興―――否、妖狐の再興だ。


 その為に、生き残っている妖の中でも上級に属する一鬼を、妹である白雪にあてがうつもりだったのだろう。

碧が一鬼の覚醒を望んでいるのも、最大の要因はそこにあるように見受けられる。

少なくとも彼には、彼女がそういう目的の為に彼と行動を共にしているように見えた。

人間など何とも思っていない彼女ならば、いかに人間側に犠牲が出ようとも、気にしないだろう。


 しかし、彼女は白雪の生存を絶望的だと諦めかけている為、このままならば一鬼にその役割を担わせることはあり得ないだろう。




「碧、一つ良いか?」


「何かしら?」


「もしも、俺を自分の人形だと思っているのならば、考えを改めておけ。好き勝手できるとは思わないことだ」


「っ……待って! 私は、貴方をそんな風に思ったことなんてないわ! 貴方の勘違いよ!」


「なら良いんだがな。お前には一年間一方的に俺を観察し、知る猶予があったが、俺はまだ二週間もお前と付き合っていない。それに、お前は隠し事ばかりだ。それで信用しろというのは、都合が良過ぎるだろう?」



 一鬼にとって、碧は扱いづらい存在なのか扱い易い存在なのかが、分かりにくい。


最初は素直で、友好的な関係を築けると思っていた彼だったが、他の妖や宿主との接触の際に、その評価を改めねばならなかった。

碧は彼以外の者に対して非常に厳しく、挑発的だ……余りにも傲慢過ぎる。

妖狐が皆そうだったのだとすれば、滅んだ原因は、自滅か他の妖達による復讐であろう。

彼にも良く分かる……他者を見下し、少しも譲歩しない者達の末路は、破滅だ。


 妖狐が滅んだのは必然であり、その再興に手を貸すつもりなど、彼にはなかった。

だからこそ、目の前で混乱している碧に対して少しばかり申し訳なく思うものの、彼はそれを止めない。

彼らが譲歩し続ければ、彼女はそのまま変わらず傲慢で、他者を寄せ付けないだろう。

彼らが変わろうにも、そこには限界がある已上、彼女が変わるしかない。


 彼女から譲歩できないようならば、そこまでの者だということだ。




「確かに貴方の言う通りよ。だけど、私は……」


「碧、俺は何度も言ったぞ。いずれ話して貰う、と。それに頷きながらも、お前は今まで答えなかった。永遠に待つことになるのならば、俺はお前が宿る肋骨を切除する」


「っ……それは……」


「俺もお前と決別はしたくないが、事と場合によっては……分かっているな?」


「……分かったわ」



 碧の耳と尻尾が不安げに縮こまるのを見ながらも、一鬼は容赦なく言葉を紡いでいく。


十分待ったと言える程彼は待った訳ではないが、こうやって縛らなければ、彼女は勝手をする。

このまま放置しておけば、彼はほぼ間違いなく間接的ながらも孤立していく。

碧が孤立すればする程、彼女の宿主である彼の立場もなくなるのだ。

最悪の場合は、彼女の宿る肋骨を切除することになるだろう。


 そもそも、碧は無駄に敵を作り過ぎる。

そのせいで、一鬼は余計な手間をかけることになり、時に不要な戦いを強いられるかもしれない。

ブルー・シャーマンとの件も、ブルー・シャーマンが譲歩してくれなければ、彼らは戦いになっていた。

一鬼には愛梨を攻撃することなど、特殊な状況下以外ではできないし、したくはない。

彼女は、その事態に起こし得る起爆剤だったのだ。


 つくづくブルー・シャーマンの寛大さには感謝しなければならない……一鬼は心の底からそう思うのだった。




「碧、俺達はパートナーだ。どちらかが足を引っ張れば、双方が危険に晒される。戦いでは俺が足を引っ張ることになるが、それ以外では確実にお前が足を引っ張っている。俺もお前と並べるように努力するつもりだ。だから、お前もそうしてくれ」


「……一鬼」


「俺達はどんなに互いを憎みあおうとも、拒絶しようとも、運命共同体なんだ。だから、気に入らないのならば言ってくれ。ブルー・シャーマン達の力を借りれば、他の宿主に乗り換えることも可能かもしれない。どうだ?」


「っ……人間などに乗り換えろ、と? 私の全力を出すことすらままならないような種族に!? あり得ないわ。貴方以外を宿主にするつもりは絶対にない」


「なら、お前も譲歩しろ。俺は譲歩した……一方的に譲歩するのは御免こうむる」



 まだ完全に妖として目覚めていない一鬼にとって、碧は重要な戦力だ。

しかし、もしも完全に目覚めた時に彼女以上の力を得られるのならば、彼に彼女は必要ない。

彼が妹と父を守る為の力は既にそこにある已上、彼女の存在価値は大きく低下する。

そうなれば、彼女のことを考慮する必要は無いし、そのつもりは彼にはない。


 碧は所詮一鬼にとって重要な力であって、大切な存在ではない。

彼女がもしも力を持たなかったとしたら、彼は既に彼女が宿る肋骨を取り出していただろう。

実を言うと、彼にとって理想的なパートナーはブルー・シャーマンのようなタイプの妖だ。

何処となく同類であることを感じさせるが故に、彼にとっても実にやり易い相手だからである。

恐らく、その同類と感じさせるものこそが、彼にとって好印象である最大の要因だ。


 ブルー・シャーマンから感じる共通点――――それは、一鬼が両親から受けついた守る者の魂なのだろう




「……私は、貴方さえ守れたなら、それで良いの。貴方の家族に興味なんてないわ。貴方を守りきり、白雪を見つけ出し、紫の妖を殺す……それが私の目的よ」


「そうだろうな。俺はそれに協力しよう。だから、お前も俺に協力しろ……最初にその話を持ち掛けたのは、お前の方だった筈だ。努々忘れるな、殺戮者」


「っ……どうして、そんな風に私を呼ぶの!? 私には、碧という名前があるのよ?」


「お前と俺は確かに同類だが、少し違う。それは、守る意思を受け継いだか、壊す意思を受け継いだかだ」


「分からないわ……貴方の言っていることが分からない。私も貴方も理由さえあれば、殺しを楽しめる歪なのよ? 何処に違いがあるというの?」



 碧の言葉に、一鬼は静かに目を瞑り、ゆっくりと開いた。


話せば話す程に解明されていく己と彼女に、彼は内心今まで見えてこなかった己が見えてきたことを悟る。

もはや守るべき者以外は失われたと思っていた光が、彼の中に宿っていたことを再確認する。

彼は確かに妖で、人間ではないし、神谷明と夜空の実子でもないだろう。

だが、その意思を継いでいる……彼を今まで守ってくれた両親の意思を。


 それこそが守る意思であり、神谷一鬼を生かしている大きな支えだ。

彼が妖だろうが人間だろうが、彼が二人の子として生きてきたのは確かで、その意思を受け継いでいる。

血肉は継げなかったが、彼らと同じ魂を彼は受け継いでいる……彼の過去に繋がる、壮絶な意思を。

実子でありながらそれを継げなかった美空とは違い、彼は真なる継承者であった。


 どんなに血の繋がりがなくとも、彼は神谷明と夜空の息子だ―――魂を受け継いだ、継承者だ。




「確かにそうだろう。だが、俺は本当に守るべきものの為にそれ以外を全て滅ぼす程極端ではない」


「私だって……」


「そうだと言えるのか? 確かに他者は信頼できないかもしれないが、俺は信用まではする。だが、お前はそれすらしていないように見える。お前は、文字通り大切な者の為に世界を滅ぼせる奴だよ。俺にはできない……」


「……貴方は、目の前で自分の大切なものを全て奪われて、それでも世界を憎まずにいられるの? 無理でしょう……貴方は、怒り、全てを地獄の業火で焼き尽くすわ。だって、貴方は地獄から生まれた本当の鬼なんですもの」


「……なん、だと?」



 一鬼は、碧の言葉から思いがけない言葉を聞き、その新緑の眼を見据えた。


同様に、碧もまた彼の赤い眼を見つめる……その耳と尻尾が不安げに揺れるものの、その表情は真剣だ。

彼は彼女が何を言っているのか理解できなかったが、一つだけはっきりとしたことがある。

彼女は彼自身が全く知らない彼の出生について間違いなく何か知っているのだ。

だからこそ、口では鋭い言葉を放っていても、その眼は彼への不安を溜めこんでいる。


 一鬼のことを心配していることは間違いないが、彼はそのようなことに構っている暇はなかった。




「一鬼は一人の鬼になって欲しいから名付けられた名前じゃないわ。貴方は一人生き残った鬼だから、一鬼という名前なのよ」


「碧、何を言っている? その口調だとまるで俺が―――」


「貴方は―――私達を滅ぼした鬼の生き残りなのよ」


「なん……だと……?」



 碧の口から告げられた言葉に、一鬼は思考が停止するのを感じ、同時に理解した。


時々、彼女が彼に向けていた怒りの本当の矛先は、彼ではなく彼の種族だったのだと。

最強と呼ばれた妖狐を滅ぼした鬼の一族に、彼がその名を連ねていたのだと。

今まで彼女を責め続けていた彼自身が、大量の命を犠牲にして生まれた存在なのだと気付かされる。

彼の頭が真っ白になり、思考が消えていく……罪悪感が、彼を支配する。


 だからであろうか?……彼が僅かに綻んだ彼女の口元に気付けなかったのは。




「でも、大丈夫。私は貴方を恨んではいないわ。だって、私は―――貴方に救われたのだから」



 冷や汗が噴き出す彼に、微笑みかける碧の優しげな新緑の眼の奥に映った彼は、まさしく蜘蛛の巣にかかった獲物であった。





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