第四話
死を覚悟する時というのは、人生の中で何度かある。
それは、車に轢かれそうになったり、高い所から落ちたり、思い切り頭を打ったりした時など、様々な場合があるだろう。
そういった一瞬死を覚悟する瞬間というものは、どんな人間も必ず経験しているものだ。
寧ろ、経験していない者は、いざ死ぬ時にその覚悟をすることができないかもしれない。
そんな、少しばかり危ういものの、当たり前に経験する事項は――しかし、死を間近に感じる瞬間ではない。
死を間近に感じる瞬間とは、今現在の羽月のような状況を意味するのだ。
「ぐ……」
「まさに……絶体絶命だな」
羽月も緋蓮もボロボロで、対する骸骨は無傷……差は歴然だ。
ブルー・シャーマンと愛梨が呼んだその骸骨の強さは圧倒的で、やはりというべきか、碧に近い領域に属しているのは明らかだった。
色による序列は、本当にそのまま序列になっているのだろうと予想できる程に、手が出せない。
それ程までに圧倒的な差が、ブルー・シャーマンと緋蓮の間にはある。
全ての攻撃をいなされ、避けられ、二人がかりですらもまったく彼は動いていないのだ。
そもそも、彼は羽月達に一度も攻撃をしかけず、ただ攻撃をいなしているだけである。
だというのに、羽月達は自分たちの攻撃をいなされ続けてボロボロだ。
もしも彼が攻撃に回ったらどうなるのかなど、想像するだけでも恐ろしい。
「死を恐れることは恥ずべきことではない。死を恐れないのも、ある意味誇らしい。だがな、青年よ……お前達のそれは、勇敢ではなく無謀と言うのだ」
「は?……」
「ここは退け。私は無益な殺生をするつもりはない」
「―――!? ブルー・シャーマン!? 何を言っているの!?」
優雅に佇みながらブルー・シャーマンが告げた言葉に、緋蓮は愚か、羽月も、更には愛梨までもが固まる。
全く攻撃を仕掛けてこなかったことも不思議だが、突然見逃すと彼が己で判断したのだ。
羽月はそこに愛梨とブルー・シャーマンの関係の歪さを見出し、力関係を凡そ把握した。
迷いのないその声音は、愛梨とブルー・シャーマンの力関係は後者に大きく偏っている可能性が高いと教えているようなものだ。
そもそも、愛梨に力の制御の仕方を教えたのは彼である可能性が高い為、その力関係に羽月はすぐに納得した。
この妖は他の妖とは何かが違う……それも、決定的に。
「愛梨、この者達は敵ではない。お前には分からないだろうが、倒すべき敵は他に居る。青年よ、この町に巣食う妖で最も危険なのは、藍色の妖だ」
「藍色?……あんたの一つ上の色か。何故紫ではなく、藍色なんだ? 最強は紫なんだろう?」
「最強は紫――それは、間違いない。だが、彼は守護者だ。殺戮を好まない。しかし、藍色は違う。奴は、己の力の為に何十人……いや、何百人、何千人と殺すだろう。そういう輩だ」
「あんた、随分と詳しいな。まさか、知っているのか?……残りの奴らがどんな奴か」
「いや、私は性質を見ただけだ。だが……紫の妖は私の知り合いだ。藍色については私が会ったことがない妖なのは間違いない。ここまで貪欲な者は、一度会えば忘れないものだ」
ブルー・シャーマンの言葉に緋蓮達はついていけず、辛うじて羽月だけがついていく。
彼の能力は他者の性質を見極めることなのだろうと羽月は予想を立て、話についていくように心がける。
何せ、最強であろう紫の妖と知り合いかもしれないのだから、ブルー・シャーマンが大切な情報源になるのは明白だ。
ここで少しでも多くの情報を引き出しておけば、後々に役立つ。
残る三体の妖の正体を早めに知っておかなければ、後々厄介なことになるのは明白だ。
橙色の妖は恐らくは大した力を持たない種族なのだろうが、しかしイエロー・レディーという前例もある。
イエロー・レディーは透明化能力を持つ暗器の使い手だったと一鬼は言っていた。
彼の話を聞く限り、イエロー・レディー相手では、羽月と緋蓮ではかなり危うい。
となれば、橙色の妖も警戒するに越したことはない。
「橙色の妖はどうなんだ?」
「あれは……恐らく最も弱い妖だ。身体能力は人間とそう変わらんだろう。だが、特殊な能力の持ち主のようだな。殺人衝動などは無い……実害は然程あるまい」
「そうか。なら、安心だな。しかし、良いのか?……あんたの宿主がお怒りのようだが」
「ブルー・シャーマン! なんでこんなひとに貴重な情報を話すの!?」
「愛梨よ、言った筈だ。この者達は敵ではない。倒すべきは藍色の妖だ。あれは、人間の世界に大きな打撃を与え得る。お前達も狙われているだろう。あれは、ただの害悪だ」
「でも……ううん、分かった。先輩の為だもの」
羽月は橙色の妖が最弱であるという言葉に安堵し、しかし同時にこの情報を本当に信じて良いのか悩んだ。
ブルー・シャーマンから放たれる気配は、妖というよりは寧ろ別の境地にあるものだと感じる。
妖のような超自然の存在ではあるのだろうが、方向性がまるで違うのだ。
だから、彼自身の持つ情報は恐らく信じて良いものであると考えることにした。
それに、嘘を言っているのならば、それを理由に再び挑めば良い。
そうして己を納得させながら、しかし羽月は愛梨の言葉に内心驚いた。
彼女は己の欲望を満たす為に、邪魔になり得る羽月を排除するつもりなのだと思っていたが、そうではなかった。
一鬼の為ならば、己の欲望を抑え込むという新しい方向性を身に着けつつあるのだ。
これは驚くべき成長であり、羽月がこのペアに対して戦いを挑む理由を半減させる要素でもある。
一鬼を守るという点では同志だ……戦う必要は無い。
「はぁ……どうやら向こうもある程度は納得してくれたようなので、そろそろ大切な情報を伝えましょう」
「そうだな。青年よ、我々のように一度死にながらも生き返った妖はお前達宿主に移植されたであろう、肋骨の一本に宿っている。しかも虹色の、な。故に我々は『虹色の肋骨』と名乗る」
「虹色の肋骨?……そんなもの、どうやって俺達が手に入れたと言うんだ? まさか、誰かが意図的に移植したとかはないよな?」
「その可能性が高い。私達が宿主に宿ったのは一年前……それは皆一致している。何者かが意図的に我々を甦らせている。それが誰かなのかを知るのは困難だ。しかし、感じる……この町に潜む、妖とは異なる別の気配を。気を付けるように、あの子に伝えろ。あの子は、妖を引き寄せる」
「あの子?……いったい誰のことだ?」
「青年よ、お前もいずれ知るだろう……我々にある共通点を」
驚愕の事実を告げると、そのまま消えていくブルー・シャーマンに、羽月は思わずイラつく。
最重要と言えるかもしれない情報をぼかして、そのまま引っ込んだのだから、彼の怒りも当然である。
ブルー・シャーマンは意味深な言葉だけを残して、肝心の情報を伝えていないのだ。
寧ろ、その怒りをどうにか抑えることができる羽月の精神力を褒めるべきであろう。
羽月は怒りをどうにか抑えながらも、己が得た情報をすぐに一鬼に伝えることにした。
ブルー・シャーマンの少しばかり一方的な情報開示と、話を聞かない愛梨には共通点がある。
もしかしたら、妖と宿主は似ている部分があるのかもしれない。
「まったく……こんな奴と自分が似ているとは思いたくねぇよ」
羽月は、携帯を取り出して一鬼に電話を掛けながらも、隣に佇む緋蓮を見て、思わずそう呟くのだった。
一鬼が帰宅したのは、既に時計が18時を示した頃であった。
彼は結局あれから暫く愛梨の相手をして、分かれてすぐに羽月に愛梨のことを伝えた。
愛梨には羽月のことを話さなかったが、これは単に二人の仲が良くないからだ。
羽月は基本的に誰とでも仲良くやれる筈なのだが、何故か愛梨と優希に対して厳しい。
そんな彼に対して、二人もあまり良い感情は抱いていないようで、あまりこの三人は合わせたくない面子だ。
そんなことよりも、今一鬼が優先すべきは美空のことであろう。
彼女が碧を視認できたことは、彼女もまた宿主であることを示しているが、あの様子ではまだ妖とは接触していない。
彼の予想でしかないと言えばそうなのだが、既に接触していたのならば、もっと別の反応をする筈だ。
あの時の彼女が抱いていたのは戸惑いと恐怖であって、何か重大なことに気付いた眼はしていなかった。
「ただいま」
「ああ、おかえり」
一鬼が玄関で靴を揃えながら帰宅の旨を告げると、台所の方から父の返事が返ってくる。
美空の返答がないことから、彼女は自室にでも居るのだろうと、彼は予想した。
取りあえず、父と軽く会話をして荷物を自室に運ぶことにした彼は、台所に向かう。
それに伴って良い匂いがするのを感じながらも、それを味わえぬ己の味覚に苦笑するのは、いつものことだ
彼の味覚は相も変わらず変化がない……妖へと変化している筈だが、この感覚だけは未だに何も変わらない。
それは決して良いことではないが、しかし彼は己が妖になっても何一つ揺るがないことを暗示しているようで、少しばかり安心する。
どんな思い込みであっても良い……希望は必要だ。
「今日の晩御飯は?」
「今日は肉じゃがだ。お前も好きだろう? それで、今日はあの子に会ってきたんだな?」
「ああ。大分精神も安定していたから、安心した」
「そうか。そういえば、今日は珍しく美空が手伝いに来ないんだが、何かあったのか?」
「……心当たりはある。話しておこう」
「頼んだ。ああ、話は十五分くらいで終わるようにしてくれ。ご飯が冷えるからな」
「了解」
父の夕食が冷めることへの配慮に思わず苦笑しながら、一鬼は二階へと上がった。
その隣に早速碧が現れるのを感じながらも、彼はアイコンタクトで一旦引っ込むように頼む。
それに静かに頷くと、彼女はそのまま彼の肋骨へと消えていく。
もしもの場合か、彼が呼んだ時のみ彼女には出て来て貰う……そうしなければ、話がややこしくなるのだ。
「!……はい、もしもし」
少しばかり緊張していた彼だったが、不意に鳴り響いた呼び出し音に携帯を取り出した。
送信者を確認して、それが羽月であることを認識すると、すぐさま彼は通話に出る。
羽月が電話してくるというのは、十中八九妖に関する情報であろうと容易に想像できるからだ。
こういった情報はほんの数分手に入れるのが遅かっただけで、生死を分ける可能性がある。
だから、彼は反射的に通話ボタンを押したのだ。
「そうか……分かった。情報ありがとう。それと――柿坂には、近い内に家を訪ねると言っておいてくれ。ああ、頼む。それじゃあ」
一分程度の用件のみを手短に伝える通話に頷くと、一鬼はすぐに通話を終えた。
彼が通話から得た情報は、蒼炎を抱く骸骨が愛梨の妖であったことと、それ以外の残りの妖の大まかな説明、等々だ。
まだ一週間そこらの状態で、ここまで情報が集まったのは僥倖と言わざるを得ない。
ブルー・シャーマンとやらが居なかったならば、この半分も集まりはしなかっただろう。
色が順列を表しているという情報が事実ならば一鬼は運が良かったと言える。
力の大き過ぎる紫や、相当ヤバいらしい藍色でもなく、純粋な戦闘力が彼に劣るかもしれない黄色以下でもない、高い能力を持ちながらも、扱えなくもない碧がパートナーなのだから。
もしかしたら、紫の方が力以外の面でも彼女よりも優れているかもしれないが、そんな可能性を考慮する必要は無い。
もし紫の妖が碧と同じくらい話の分かる妖ならば、害悪であるという藍色の妖を倒すことで、全ては収束するかもしれないだろう。
だが、そうだったとしても、因縁というものは思わぬ処で牙をむいてくるものだ。
その紫の妖と碧の間に確執でもあったものならば、彼らは狙われる……そういう可能性の方を考慮すべきである。
彼の妖は碧だ……その事実は変わらない。
「さて……美空、居るか?」
「……何の用?」
「少し話がしたい。中に入っても良いか?」
「……うん」
「よし、入るぞ」
美空が了承したのを確認すると、一鬼は静かに扉を開けた。
途端に彼の視界を埋め尽くす本の山に、彼は思わず溜息をつきたくなるのを堪える。
彼の前に広がる本の山は、間違いなく彼の妹である美空によって形成されたものだ。
彼女が本の虫とも言える程に昔から本を読んでいたのを彼は知っているし、今更驚きはしない。
本棚を埋め尽くすだけでは飽き足りず、床にまで積み重ねることで散在する大量の本は、圧巻だ。
一鬼は何度か見ているので既に耐性が出来ているが、初めてこの部屋に来た者は、ここが本当に女性の部屋なのか疑うかもしれない。
しかしながら、ベッドなどの意匠は少女趣味と言うべきか、可愛らしいものが多く、そのギャップがまた、この部屋の混沌さを際立たせる。
まさにそのベッドの上で、膝を抱えながら上目遣いで見てくる美空に、一鬼は最初何というべきか迷った。
「あー……一応片づけはしているみたいだな。いつぞやの時のように、床一面本だらけでなくて、安心した」
「友達が来るから、ちゃんと片づけるようにしてるよ。それで、何の用?」
「いやな、今日のモールでのことなんだが……あんなものを見せて済まなかったな。我ながら、恐ろしい形相をしていたと思う。怖い思いをさせてしまった」
「……別に良いよ。それよりも、なんで兄さんが柿坂さんと親しくしていたの?」
「柿坂か? 俺とあいつは先輩後輩の関係だからな。三年前に偶に面倒を見るようになって、なんだかんだで今まで続いている」
積み上げられた本の山を崩さぬように部屋の中に入ると、一鬼は近くにある椅子に腰かけた。
美空が思いの外怯えていないことに違和感を覚えながらも、彼はそれに安堵する。
信頼どころか信用すら失ってしまえば、彼女を守ることは非常に難しくなるからだ。
彼女が宿主であることが事実ならば、この先その肋骨に宿る妖と相対すべき時が来る。
その時彼女の信用を失っていたならば、決別の可能性もあり得る。
いかに彼女が宿主であったとしても、その妖がどういう性格かは実際に会って話さなければならない。
もしかしたら非協力的かもしれないし、寧ろ美空を害するような者かもしれないのだ。
一鬼はそんな不確かなものに頼るつもりは無い……既に、彼には碧という心強い味方が居る。
彼と彼女ならば、美空を守るには十分な力がある筈だ。
「ふぅん……そうなんだ。付き合ってる……とかじゃないの?」
「ああ、残念ながら俺は年齢がそのまま彼女居ない歴だからな。まぁ、無理もない……髪の毛も眼も、色が普通ではない。それに加えて、俺の顔は怖いときた。パッと見、そういう道の人間と思われるかもしれない」
「……自覚はあるんだ。だったら、もっと愛想良く振舞えば良いのに」
「簡単に言ってくれるな。俺がそういうことを得意ではないと知っているだろう。最低限の会話くらいが丁度良い。話を深めるのは時々でお腹いっぱいだ」
「へぇ……その話を深める相手が、あの金髪の女の人ってこと?」
随分と噛みついてくる美空を、一鬼は少しばかり不思議に思いながらも、どう話すべきか考える。
そんな彼を覗きこむように見つめる美空は、ごろりとベッドの上にうつ伏せになりながら、顔だけ彼の方を向いていた。
そのまま、リズムを刻むように両足を交互に振りながら、ホットパンツから覗く白い生足を晒す。
一鬼は無意識の内に、美空の生足を碧のそれと比較し、しかし慌ててそれを振り切る。
そのようなことを考える暇があるのならば、彼はまずどうやって妖のことを彼女に説明するかを考えるべきだ。
そもそも人間と妖では、外見に大きく差が出るのは当然のことであり、比較しても詮無い。
妖は人間を惑わす存在なのだから、より美しく、より妖艶なのは当然であろう。
「……その女性について、少しばかり話がある。本当に彼女が見えたんだな?」
「?……うん。でも、柿坂さんも見えていたでしょう? 私の友達は見えていなかったかもしれないけど。それが何か関係あるの?」
「ああ、これから見せるものには驚かないで欲しい。碧、出て来てくれ」
「え?……ええ!? あ、あの時の女の人!? 何処から出てきたの!?」
「……一鬼、これを驚くなというのは酷だと思うわよ?」
一鬼の言葉に応じて彼の隣に現れた碧に、美空は大きく眼を見開いた。
この家は比較的防音処理が強めに施されているが、それでもあまり大声を出すと他の部屋にも聞こえる。
思いの外美空の声が大きくなくて、一鬼は内心安堵した。
父である明までここに来ては、事態がややこしくなるだけで、良いことは無い。
苦笑する碧に、肩を竦めて応じながらも、彼は話を進めていく。
「いきなりで俺の頭がおかしくなったと思うかもしれないが、よく聞いてくれ。彼女の名前は碧……妖狐だ。九尾の妖狐というものは知っているだろう? あれの親戚だよ。それで、だ。彼女は俺の体を媒介として存在している。幽霊のようなものだと思ってくれて構わない」
「……兄さん、頭でも打った?」
「そう言うと思った。碧、見せてやってくれ」
「はいはい。良いかしら、妹さん? よく見ておきなさい」
予想通りの美空の反応に、一鬼は苦笑した。
同じく苦笑していた碧に証拠を示すように促すと、微笑と共に彼女は片手を壁に持っていく。
しかし、その手は壁に触れることなくすり抜けていった……そう、これこそが彼女達の特徴だ。
碧達『虹色の肋骨』は基本的に何もかもすり抜けることができ、宿主か同じ妖以外では触れることすらできない。
しかも、彼女達の方からは触れようと思えば触れることができるので、宿主か妖以外に対しては無敵と言える。
己の頬に触れた碧の掌の熱を感じながらも、一鬼は美空の反応を見守る。
驚きに思わず固まっている彼女に罪はない……いきなりこのようなものを見せられたら、誰でもそうなるだろう。
一鬼でさえも、最初にこの現象を確認した時は、その一方的な優位性に驚いたものだ。
宿主も妖に触れることはできるが、実質『虹色の肋骨』は重力も障害物も無視して移動できることになる。
碧達は、あらゆる防御を貫通する、ある種の最強の矛と言える訳だ。
「このように、彼女達は物質をすり抜けるが、触ろうと思えば触ることができる。ただし、俺のように妖を宿す者は例外で、彼女達もすり抜けることは叶わない。この程度で信じて貰えるとは思わないが、取りあえず考えておいて欲しい」
「……で、でも、どうして私にもそのひとが見えるの?」
「それは……お前も俺と同じ宿主だからだろう。恐らく、お前の肋骨にも何かしらの妖が宿っている。それがどういう妖かはまだ分からないが、接触したらすぐに教えてくれ。俺達が見極める」
「見極める?……いったい何を?」
「良いか? この町には今六体の妖が居る。皆、虹の七色に因んだ名前と容姿をしているらしい。赤を最下位、紫を最高位とした序列になっているとのことだ。碧は緑色……七色の中では、真ん中だ」
「!? ちょっと待ちなさい、一鬼。その情報は先程の電話のものね? 虹の七色に因んだ序列ですって? 私よりも強い者が後三体も居る、と?」
一鬼の言葉に、碧が眼を見開いて彼を見た。
彼としては、先ず碧にその情報を伝えておきたかったのだが、美空には最低限の情報は教えておかなければならない。
彼の中では、飽くまで美空と明が最優先すべきであり、その次に愛梨と羽月が来る。
況してや碧はまだ付き合いが一週間程度しかないのだ……彼女を美空よりも優先させることは、彼にはできない。
だからこそ、碧に説明しながら、同時並行で美空にも必要な知識を与えるという面倒な行為を彼は強いられるのだった。
「ブルー・シャーマンという青の妖からの情報だ。彼は柿坂の妖らしい。彼曰く、藍色の妖に最も注意すべき、だそうだ」
「……あの小娘の妖、ね。信用して良いの?」
「ああ、どうやら羽月も信じて良いと思わせる何かがあるらしい。恐らく、青は当たりだろうな」
「そう……なら良いのよ。まともに話せる相手が居るように助かるわ」
碧が微笑を浮かべながらそう言うのに、一鬼も静かに頷いた。
ブルー・シャーマンは少なくとも彼女の求める妹の情報を、正直に教えてくれるだろう。
勿論彼がその情報を知っていない可能性もあるが、羽月からの情報ではブルー・シャーマンは何かしらの特別な感知能力を持っているとのことだった。
その能力で、碧の妹の生死の確認くらいはできるかもしれない。
碧の目的が達成されるであろう日は、間違いなく近づいている。
「さて、美空……俺達に宿る妖は皆色を名前に含んでいる。自分の妖の名前には気をつけて欲しい。万が一藍色だったならば、すぐに言ってくれ。それと……黄色、緑、赤、青のどれかを名乗ったら信用できないと思え。そいつは嘘をついている。何せ、今も聞いている筈だからな……お前の肋骨の中で」
「えっ?……今も? それじゃあ、その碧さんもいつもは引っ込んでいても、外の様子が分かるの?」
「ええ、そうよ。とは言っても、寝ている時は別だけど」
「妖も寝るのか……まぁ、とにかく何かあったら言うんだ。安心しろ、俺と碧は強い……余程の相手でなければ負けはしないさ」
「やれやれ……妹の前で格好を付けるのは良いけれど、貴方は私よりもずっと弱いということを忘れないでね」
「碧、こういう時くらいは格好を付けさせてくれ」
美空を安心させようとして出た一鬼の言葉に、碧が肩を竦めて文句を言う。
しかし、それは文句とは言っても、実際はただのからかいであって、ただ彼を弄っているだけだ。
そういうことが分っているからこそ、一鬼もまた微笑でそれに応える。
彼らは互いを理解しきっている訳ではないが、行動が示す意味の大半は既に理解できるようになっている。
まだ一週間しか共に行動していない筈なのに、妙に近い距離感に、内心彼は安堵と不安を覚えていた。
碧は不思議な女性だ……頑固な一面があり、激しやすい筈なのに、しかし恐ろしい程動じない時もある。
彼女が恐れるものはきっと彼が恐れるものではないが、彼が恐れるものもまた、彼女が恐れるものではないのだろう。
言うなれば、彼女は一鬼と同じく歪で、しかし彼とは違う……だから、彼は彼女を気に入り、彼女もまた彼を気に入ったのだろう。
似てはいるものの、似過ぎていない……それが、この比較的良好な関係の構築に一役買ったのかもしれない。
「……二人共、仲が大変宜しいようで」
「? まぁ、確かに一週間程度の付き合いにしては良好な関係だと思うが……何が不満なんだ?」
「何でもない」
「?……そうか」
「はぁ……鈍い男は困るわね」
むくれながらそっぽを向いてしまった美空に、一鬼は何と言えば良いのか分からない。
彼はただ碧と軽い冗談を言い合っただけであって、そこには責められるような内容は少しもなかった。
まさか、美空が機嫌を損ねるとは思っていなかっただけに、その戸惑いは普段の彼からは想像できない程のものだ。
その様子に思わずクスリと笑った碧であったが、美空の背中を静かに見据えた瞬間に、その顔から表情が消える。
まるで何も感じていないかのような、その何一つ存在し得ない表情は、しかし一鬼達に見られることはない。
ほんの一瞬、二人の気が逸れた瞬間に現れたそれは、まるで目の前の少女をそこらへんに転がっている石ころと等しいものと考えているような表情だった。
「一鬼、貴方の妹さんは中々にあれね」
「あれ?……ああ、可愛いものだろう? まぁ、家族だからこそ見逃せる訳だが」
「……でしょうね。それで、私の恰好のことをどうこう言っていたけれど、言っている本人も結構な恰好をしているわよ?」
「ん?……ああ、確かに同年代の男子からすれば目の毒かもな。だがな……俺達は枯れている。そういう家系なんだよ」
「つまり、不能ということ?」
「……まぁ、間違いではないかもしれないな」
肩を竦めながら言う一鬼は嘘を言っている訳ではない。
神谷家の男は性に淡白で、先祖の男性もまた、皆そういうタイプの男性ばかりだったそうだ。
お蔭で、神谷家は段々と衰退している。殆ど親戚も居ない状態も、ある意味人間性を優先し過ぎた結果なのかもしれない。
神谷家の者は男女問わず、ヒトというものに興味を持ちがちだ。
そこに意識が集中し過ぎて、肝心のケモノの部分が疎かになっているのかもしれない。
一鬼は生憎その血を継いでいる訳ではないだろうが、同じくそういうものには淡白だ。
限りなく不能に近いというべきか、彼が性的興奮なるものを覚えることは滅多にない。
彼の場合は、寧ろそういうものよりも戦うことへの欲求の方が圧倒的に強いと言える。
その闘争本能なるものこそが、性欲をかき乱している原因ではないか、というのが彼の考えだ。
その原因が分かった処で、対処法がなければどうしようもないのだが。
「そう……可愛そうに」
「いや、そんな申し訳なさそうにされても困る。そのお蔭で、碧のその姿にもむやみやたらに興奮せずに済むのだから、良いことだ。常に盛っていては、格好の餌食だ」
「そうね。でも、それはそれで困るのよね……貴方もそう思うでしょ、聞き耳を立てている妹さん?」
「べ、べべ別に何も聞いてないから! 兄さんが不能だろうと関係ないもん!」
「それもそうだ」
「貴方も何真顔で頷いているのよ。まったく、そういう処まで似なくても……」
顔を真っ赤にしながら美空が告げた言葉に、一鬼はうんうんと頷いた。
しかし、そんな彼に碧は呆れを含んだ表情を浮かべ、軽く彼の頭を小突く。
それ相応に手加減されている一撃だが、通常の人間ならば相当の痛みを感じていただろう。
一鬼はそんな一撃に対して、軽く首を動かしただけで、特に痛みも何も感じては居なかった。
それに満足したのか、口角を歪めて碧はその肩に手を置く。
その行動の意味は一鬼達には分からなかったが、しかし美空はムッとした。
「碧さん、一週間そこらしか兄さんと一緒に居ないのに、ベタベタし過ぎじゃないの? それとも、その服装の通りそういうのが軽いひとなの?」
「生憎私は一年前から一鬼のことを知っているの。それに、この服は私の正装よ。貴方こそ、もう少し慎みのある服装にすべきなんじゃないの? それとも、そういう目的でその服装にしているのかしら?」
「なんですって!?」
「はぁ……碧、敵を増やすな。美空も抑えてくれ」
「……分かった」
早速険悪になる碧と美空の間に入りながら、一鬼は内心二度目の溜息をついた。
碧は強く、話の分かる妖である筈なのだが、何故か彼の回りの者を次々と敵にしていく。
まるで、意図的に彼を孤独にしようとしているかのようなその鮮やかな流れには、彼も頭が上がらない。
しかし、そういったことも乗り越えなければ、彼は彼女が己の妖であることを感謝することもないだろう。
結局の処、碧は戦いの中でのみ存在価値を示す存在なのだ。
そして、それは一鬼とて変わらない。
「取りあえず、詳しいことは飯の後にしよう。父さんが肉じゃがを作って待っている」
「それじゃあ、手伝わないとね」
「ああ、そうだな」
「肉じゃがね……興味があるわ。後で少しいただいても良いかしら?」
「ん? ああ、別に構わないぞ。後で自室に持っていくから、それまでは引っ込んでいてくれ」
「了解したわ」
取りあえず、詳しい話は後程に持っていくことにして、一鬼は夕食をとることにした。
碧の思わぬ願いに少し驚きながらも、彼はそれを了承して、本の山を崩さぬように部屋を出る。
それに続いて部屋を出る美空と目を合わせて、互いに苦笑すると、彼らはそのまま一階へと向かった。
まだ日常と非日常が交差しているこの日々に、二人は振り回されているが、少なくとも今はまだ、互いに無事だ。
だから、今は笑顔でいよう……そう思うことにした。
空に浮かぶ星々は、美しい輝きを放っている。
あの星々に手が届くのならば……何人がそう思ったであろうか。
あの美しい光を己が手で掴み取りたい……そう願う者が何人居たであろうか?
だが、星々に手は届かない。手を伸ばしても、掴めるのは虚空のみ。
どうすれば星々に手が届くのだろうか?彼は考えに考えたが、何一つ良い案はない。
彼がその気になれば、きっとこの世界にあるものを再現するのは不可能ではないだろう。
彼がその再現を行うだけで、きっと彼は手の届く場所に星を呼ぶことが出来るだろう。
だが、それは所詮再現されたものであって、本物に手が届くわけではない。
そんなまやかしのものに触れても、彼は満足できないだろう。
なら、どうすれば届くのか?……彼はそれを考える。
「まだだ……まだ、足りない」
彼の足もとに転がる肉片は、先程まで彼が食らっていたものだ。
肉を噛み千切り、骨を噛み砕き、筋をすり潰し、骨髄を啜って、彼はそれを味わっていた。
それは、彼らにとっては食糧のようなもので、しかし昔は貴重なものでもあった。
しかし、近年それは覆った……昔とは異なり、その数は数十億にまで膨れがあり、一匹二匹消えた処で、変化は然程ない。
今は、以前とは違い、その食糧を過剰に食らう者達へと鉄槌を下していた存在はもう居ない。
強い存在でありながら、何故か食糧でしかないそれを守ろうとする奇抜な者は、今は居ないのだ。
だから、彼は少しも恐れることなく食事にありつくことができる。
以前ならば、このようなことをすれば、黙っては居なかった存在は、もう居ないのだ。
だからこそ、彼は食らう。星に手を届かせる為に。
「そうだ……あれだ。あの力だ……」
星に手を届かせるには、まだまだ力が足りない。
だが、その問題を解決するのに必要な力を持つ者を、彼は知っている。
その者の力さえあれば、彼は星々へと手が届く場所までいけるかもしれない。
だが、その力を得る為に必要な強さが彼にはない……だから、もっと食らう。
今の彼では、まだその至高の能力を得ることは叶わない……縦しんば得たとしても、扱えない。
この世界には、相手の能力をコピーするという能力を持つ者が居る。
能力をコピーすると言っても、それは劣化コピーであったり、完全なるコピーであったりするのだが。
しかし、そういった者達はいつもその至高の存在を前にして、自滅していくのだ。
能力だけを複製すれば互角になれるという浅はかな考えに則って行動し、そして滅ぶ。
それを何度も彼は見てきた……だから、知っている。
このままでは、まだ足りない。
「グゲ……もっと、食わねば」
その至高の存在は、まさしく彼にとって最後の目標であり、憧れだった。
彼はそれが妬ましく、疎ましく、羨ましかった……何度も、同じ領域に達することを夢見て、脆く崩れ去ってきた。
彼を殺したのはその至高の存在ではなく別の存在ではあったが、彼にとってそんなことはどうでも良い。
いかなる者も、その至高なる存在の前では霞む。
この世界に存在する数百以上の種族の妖が滅んだ原因もその至高の存在ではなく、きっと彼を殺した者が原因だ。
しかし、問題は無い……彼にとって、己を殺した者など、至高の存在の足もとにも及ばないのだから。
彼が望むのはただ一つ―――至高なる存在の力を得ること。
だから、食う。だから、殺す。だから、戦う。
「食うのだ……数百でも、数千でも。あの星々に手を伸ばす為に」
彼は、作り物の手を星空に向けて伸ばし、一人静かに決意する。
その水色の眼は、恐ろしく透き通っており、まるで空のようだ。
しかし、そんな彼の作り物の足の下にあるのは、食い散らかされた骨肉のみではない。
彼の眼はまるで空のように透き通っている筈なのに、その足元には様々なものが転がっていた。
ブリーフケース、ブランドもののバッグ、まだ新品のランドセル……更にはスーツ、ジーンズ、スカートと、あまりにも多くのものが、赤黒いものに染まり、肉片を付着させ、散在している。
そこには髪の毛もある、耳たぶもある、爪もある、それらの持ち主は―――もう彼の腹の中だ。
「―――人間は、幾らでもいる」
そう、彼が先程まで食べていたのは―――人間の肉だったのだ。
それは、ふと出た疑問であった。
食事と入浴を終えた美空が一鬼達と妖などについて話している時に、彼女はとあることを思い出した。
彼女は十七年間一鬼と生きて来たが、その間に一度たりとも彼が出血したのを見たことがない。
通常ならば、男の子というものは外で遊んで毎日のように生傷をつくるものなのだが、しかし彼女の記憶に、そのような記憶は無かった。
だから、この際聞いてみようと思った彼女は訪ねたのだ。
「そういえば、兄さんって今までケガをしたことあったっけ? 私は覚えがないんだけど」
と。
「あの事故を除けば……一度、頬を切っただけだな」
果たして、その答えは肯定ではあったが、しかし歯切りの悪いものであった。
一鬼は暫くの間固まって、少ししてハッとしたように慌てて応え、碧に至っては真っ青だ。
一鬼の反応に関しては、純粋に傷を負った経験が少ないで済むのだが、碧の反応は非常に疑わしい。
何故彼女がここで反応する必要がある?その事故とは無関係である筈の彼女が何故?
まるで、何か大切なことを知っていると自白しているようなその反応に、美空は思わず眉を細めた。
「あの事故を除いたら一度だけ? インドア派だった私でも何十回とケガしてるのに?」
「多分、運が良かったんだろう。俺も、昔はかなり暴れん坊だったからな。本来はもっと怪我をしている筈だ」
「ふぅん……それで、碧さんはなんでそんなに顔面蒼白なの?」
「……なんでもないわ」
すぐにポーカーフェイスになった碧ではあったが、美空は彼女が無意識に一鬼の頬を撫でたのを見逃さない。
一鬼が己の傷の歴史を語る直前に、無意識に撫でた場所と殆ど同じ場所を彼女は撫でた。
この行動は恐らく、碧が彼の頬の傷のことを知っているということを表している。
つまり、彼が傷を負った経験はこの一年以内での出来事だということだ。
美空はそんなことを考えながらも、一鬼のことには頭が働く己に内心苦笑する。
彼女は文武両道を貫いており、双方ともに高めの能力を持ってはいるが、一鬼や羽月と比べれば、ただの凡人だ。
言うなれば、彼女もまた、あらゆる分野で高い能力を示すものの、決して華やかな表舞台には立てない程度の能力しか持たない人種なのだ。
しかしながら、彼女は一鬼のことになると頭が冴える。
まるで、不必要な思考を洗い流されるような感覚を彼女は良く覚えるが、一鬼にはそういう力があるのかもしれない。
事実、彼の話を聞く限り、愛梨は彼からそれに似たものを得ている。
彼には何かがある……その何かこそが、彼女の思考をここまでクリアにするのだろう。
「そう言えば、碧さんは生前どんなことをしていたの?」
「……私は妖の中でも最強だった妖狐一族における最高位の戦士だったわ。他の妖との抗争における最終兵器とでも言えば良いかしら? 私はひたすら勝って、殺した。負けたことは一度たりともないわ」
「へぇ……妖狐って、そんなに強いの? 他の妖と比べてどのくらい?」
「妖狐は基本的に他の妖には負けないの。そもそも、妖狐の力は尾の数で決まるわ。一尾から九尾まで存在する位階の中で、私は八尾に属していた。この位階は一つ違えば、実質十倍程度の力の差があるの。つまり、私の力は三尾の十万倍ということになるわね。因みに、九尾にまで達した妖狐は今まで一人たりとも居ないわ」
「十万倍……凄い。でも、九尾になった前例がないのなら、どうして九尾の位階が存在するの?」
「それは、妖における最高位が九だからよ。日本でも、古来の八は大量と完成を、九は無限を表していたというでしょう? 八百万の神々という言い方も、意味は多数の神々よ。だからこそ、妖狐の一族においては、九尾に達することこそが悲願だったの」
胸を張って誇らしげに己の一族のことを語る碧は、実に活き活きとしている。
それ程までに、己の一族に誇りを持っているのかもしれないし、はたまた己を誇りに思っているのかもしれない。
美空はその両方であろうと思いながら、彼女の話を聞いていく。
妖が他にも存在するか否かなどまだ彼女には実感がないが、少なくとも碧がとてつもなく強いということは分かる。
しかし、そこで一つ大きな疑問が美空の中に生まれる。
碧と一鬼の話が正しければ、妖には寿命が存在せず、病という概念も通用しない。
なればこそ、その死因は殺害しかありえない……つまり、自殺か他殺しか選択肢は無いのだ。
美空の私見だが、碧は自殺を選ぶようなタイプではなさそうだし、考えられるのは他殺になる。
だが、ここで大きな問題が一つ生じる。
殆どの妖を倒せる三尾の十万倍に匹敵する力を持っていながら、何故彼女は殺されたのだ?
つまり、それが意味するのは―――彼女よりも強い、何かが存在するということである。
「その八尾の碧も、こうしてここに居る已上、殺されたことになる。まだ話してはくれないのか?」
「……ごめんなさい」
しかし、美空は、その可能性はとっくの昔に一鬼に指摘されていたことを、彼と碧の短い会話から悟った。
まだ知り合って一日も経過してない美空ですら思いつくのだから、彼が気付いていない道理はない。
美空はテストの成績では彼に勝ったことがあるが、肝心の頭脳そのものでは勝ったことはなかった。
そんな他愛もない感傷を抱きながらも、美空は碧の表情に注意を向ける。
碧が何故そこまで一鬼の顔色を伺うのかが、彼女には理解できない。彼が同等であろうとするのに、一歩引いてしまっていることが理解し難い。
何故彼女はそこまで彼を恐れ、案じなければならないのか、今の美空では分からないのだ。
純粋な戦闘力ならば碧の方が上であり、宿主としての優位性を一鬼が持つ……実質力関係はほぼ同等と言っても良いだろう。
なのに、目の前の妖狐は一鬼を恐れている。
それが、美空には酷く不気味に思えた。
「兄さんと碧さんの関係ってなんだか怪しいよね……まだ一週間程度の付き合いなのに」
「? そうか? それ程でもないと思うぞ。まぁ。ベタベタされるのはこちらが譲歩しているが」
「だから、それが怪しいの! だって、兄さんはベタベタされるの苦手でしょう? どうして、碧さんは平気なの?」
「どうして、か……恐らく、割り切っているからだろうな。俺と碧は協力関係にあるし、彼女は俺のことを一年前から知っている。しかし、俺は知らない……だから、これは俺なりの信用の表現だ」
「……なら、兄さんは碧さんが望むなら、そ、そういう関係になるのも躊躇わないの?」
「……それはまた別の話だ。まず、俺の場合は準備ができないかもしれないからな」
一鬼は誰かに触れられるのを嫌がる傾向にある。
スキンシップというものが苦手で、その癖相手の眼を見据えるのは躊躇ないのだから、性質が悪い。
彼は己に踏み込ませずして、相手に踏み込もうとする癖がある……だから、避けられるのだ。
その本質を見抜く力は確かに恐怖を煽るかもしれないが、それだけならば怖くないと考える人間も多いだろう。
しかし、一鬼は相手に踏み込まれることを嫌う。
彼は一度だけ美空に語ってくれたが、彼にとって己は空っぽな存在であるらしい。
それを見られるのが怖いのだと、いつものように淡々と彼は語っていたが、それは恐らく事実だ。
彼は空虚な一面がある……誰もが抱くであろう夢を彼は持たず、ただただ生きるのみ。
彼には夢は無く、生きる意味もなく、ただ生かされているに過ぎない。
彼は、そんな己を恥じているのだ。
しかし、美空にとってそのようなことは些細なことである。
夢がない者などいくらでも居るし、生きる意味がないのに生きている者だって沢山居る。
身も蓋もない話だが、生きる意味などなくとも、人間は生きていけるのだ。
ただ、そこに満足が伴うか伴わないかだけであって、大した違いは無い。
問題は、夢を持たなかったとしても志を抱いていられるか否かだ、だ。
「どうして、そういう前提で話が進んでいるのかしら? そもそも、私は、その……そういう経験はないわ」
「えっ」
「何よ、その驚愕の表情は? 私が尻軽だとでも思っていたのかしら? 妖の貞操観念は個体によってバラバラなのよ。それに、私は自分よりも弱い男に興味はないし」
「だって、兄さん。どう思う?」
「割とどうでも良い」
「やっぱり、そうなるよね……」
碧から放たれた、ある意味衝撃的な言葉に対して、しかし美空と一鬼の反応は薄かった。
美空は妖が人間を惑わせるものだと思っていたので、一応驚きはしたのだが、一鬼はそもそも興味がなさそうだ。
無理もない……何せ、一鬼が興味があるのはただ一つ、闘争のみ。
美空も薄々気づいてはいるが、今までで彼が最も活き活きとしているのは、喧嘩の時だった。
一鬼は本来ならば、もっと暴力的で、血腥い場所に身を置くべき人種である。
彼は純粋なる強さを求める者達が集う場所にいてこそ輝くに違いない……こんな場所では、力を持て余すだけだ。
彼の性格からして戦争はダメだろうが、しかし格闘技などの世界はかなり向いているのではないだろうか。
美空はそういったものに詳しい訳ではないが、彼ならばどれかの種目で才能を発揮できる筈だ。
だが、それでも彼は満足しないかもしれない―――そんな不安が、彼女にはある。
「一鬼、貴方ねぇ……流石にどうでも良いは酷いわよ? そんなことだから、恋人の一人もできないのよ。まぁ、私もできたことはないけれど」
「……そういえば、美空は彼氏は居ないのか? 居るなら、その内紹介してくれ」
「残念ながら、居 ま せ ん! でも、気になるひとは居る、かな。優しくて、頼りになるひとなんだけど、何処か危うくて、怖くて、でも惹かれちゃって……不思議なくらい、気になるの」
「ほぉ……そんな表情で言うからには、本気なんだな。応援しているぞ」
「うん、ありがとう……って、ダメでしょう!? だって私達はその……あう……兄妹だもの」
「は? お前は何を言っているんだ? 兄妹だから、応援するんだ」
一鬼の無邪気な笑みに美空は顔を赤くして、拙いながらも思いを吐露させる。
だが、それを何やら満ち足りたような笑顔で応援する彼に、思わず彼女はツッコんだ。
それにすらも、真面目な顔で反論する彼に、彼女は何とも言えない気持ちになってしまう。
確かに彼女もはっきりと言っている訳ではないが、彼程鋭い男ならばもう気付いていてもおかしくない。
だというのに、彼は気付かない。
もしも、気づかないふりをしていたのだとすれば、彼女は思い切り彼の顔面に一発入れるつもりだ。
しかし、実際にそのようなことをすれば、彼女の手の方が無事では済まないだろう。
一鬼の肉体は少しずつ変化している……もしかしたら、既に、人間の限界を超えているかもしれない。
そんな一鬼にとって、ある意味この妖達の出現は僥倖だったのだろう。
美空は、彼が妖達の説明をして、その危険性について説く際に、うっすらと笑みを浮かべていたことに気付いている。
彼も本当は楽しいのだ……自分と同等以上の者達がこの町に集いつつあるのが、嬉しくて堪らないのだ。
結局の処、彼は殺し合いを好む人種なのかもしれないし、この非常事態こそが、彼の生きる場所なのかもしれない。
彼はきっと、理由さえ与えられたならば、何の躊躇いもなく、殺すだろう。
だが、それでも―――その可能性を理解しながらも、美空は彼を想う。
「そう。だったら、覚悟しておいてね……」
「ああ、お前がいつ恋人を連れて来ても、対応できるように覚悟しておこう」
「……ふふ」
「こら、そこ! 何笑ってるの?」
「なんでもないわよ」
美空は一鬼に決意を告げるが、やはり彼はそれを誤解する。
しかし、彼女は諦めない……今はこうでしかないが、いずれ彼も察するだろう。
彼女は信じている……いかなるしがらみも、結局は心の在り様でどうとでもなる、と。
だから、意味深な笑みを浮かべた碧に挑戦的な笑みで応えることにも、彼女は躊躇わない。
その笑みの意味は正確には分からないが、彼女にも凡その見当はついている。
その眼は邪魔をしてやる、と言っていた。
「私も、負けないんだから」
「――!……ふふ」
だから彼女も返してやるのだ―――絶対に負けないという決意を込めた眼で。
碧は、そんな美空に一瞬驚くが、すぐにその表情は愉快そうなものへと変わる。
彼女には、何故碧がそこまで愉快そうにしているのかは分からないが、恐らくバカにしているのだろう。
確かに、彼女は碧と比べれば見た目では負けているが、生憎性格では勝っている。
碧はビシバシ言うタイプかと思えば、照れ隠しがあったり、挑発して敵を増やしたりと、非常に面倒くさい性格をしているのだ。
素直なようで、実際は肝心な部分では言葉を曇らせてしまう……それが碧だ。
対する美空も似たようなものだが、少なくとも彼女は碧のように敵を無闇に増やさない。
一鬼に対して碧がそれなりの距離を保てているのも、彼女が妖だからだ。
決して彼女が碧だからではない……美空はそう考える。
もしも、そうだったとしたならば、既に彼女が入り込む隙間などないのだから。
「そういえば、碧さんは良く兄さんの体に触れているけど、あれは何か意味があるの?」
「……ないわよ。あれは、ただ私がしたくてしているだけ。一種の親しみの表現、かしら」
「私には、マーキングのように見えるんだけど?」
「ああ、確かにそう考えられても仕方ないわね。妖狐はね、気に入った相手にはああして唾をつけておくのよ。私達の力は対象にこびりつき、手出し禁止の標識となるわ。家族の為にそういう相手を確保するのにも、これはよく使うわね」
「家族?……でも、碧さんは」
「……妹が一人、居るわ」
碧の言葉に、美空は違和感を覚えながらも、状況を整理する。
妹が居て、彼女が行っている一鬼へのスキンシップは己か家族の所有物である標識と同じ意味を持つ。
つまり、彼女は己かその妹の為に一鬼に唾付けをしていることになる訳だが……それでは、先程一鬼達から聞いた話と矛盾する。
碧の妹もまた、彼女達と同じく誰かの肋骨に宿っているのだろうか?
それとも、実はまだ生きていて、どこかで妖であることを隠して生きているのだろうか?
きっと、それを彼女に訪ねた処で答えは帰ってこない……そう美空は確信している。
一鬼が己に話さなかったのか、はたまた彼も知らされていないのかは定かではないが、碧は妹のことに関しては、実に慎重だ。
こうして、美空に妹の存在を教えてくれたのならば、少しは信用しているということなのだろう。
「だからかしら?……一鬼が貴方を守ることに協力しようなんて、私が思ったのは」
「えっ?」
「一鬼は同類よ。だから、本当は私が守るべきは貴方じゃない……何よりも優先すべきは、この子」
「? 兄さん、いったいどういう意―――って、寝てる!? さっきまで起きてたのに!?」
「私の実体化はさぞ力を使うでしょうから、仕方ないわね」
碧の言葉の真意を汲み取れなかった美空は一鬼に助けを求めたが、そこで漸く彼が既に寝ていることに気付いた。
壁に寄りかかって座ったまま、静かな寝息を立てている彼は器用というか、無駄に凄い。
だが、美空にとってこの現象は実に不思議なものだ……彼がここまで、疲かれることなどそうない筈だからだ。
彼の体力は非常に多い……それこそ、人間の限界を超えた世界に居るかもしれない程度には。
そんな疑問には、碧が答えてくれた。
「実体化?」
「私達は宿主の力で以てこの世界に存在しているわ。燃費は妖それぞれで違うでしょうけれど、先程も言った通り、私の力はそこらの妖の十万倍はあるわ。それをベストコンディションで常に具現化させ続けるのは、とてつもない疲労よ」
「でも、兄さんは少しもそんな素振りは……」
「ええ、この子自身まだそのことに気付いていないでしょうね。ただ、考えてもみて。一鬼は私をこの一週間の間毎日最低十時間は実体化させていた。貴方の妖への牽制として、ね。これって、実は恐ろしいことなのよ。普通の人間なら私を十分の一程度の力で三十分も出し続ければ、死んでいるかもしれないわね」
「!? じゃあ、他の妖の宿主は……」
「私よりも序列が下の者達は多分大丈夫よ。どうせ内包する力は私の十万分の一程度でしょう。上の者達も正直な処、そこまでの差はない筈よ」
一鬼ですら、ここまで疲労させるのならば、己を含む他の人間達はどうなるのか?……そう美空が考えたのも無理はない。
彼女に宿る妖がどの色の者かはまだ分かっていない已上、最悪の燃費の紫の可能性もあるからだ。
そして、それがもしも碧と同等以上の力を持っていたとすれば、恐らく美空は一日と持たずに死んでしまう。
そんなことになれば、彼女の胸の内に秘めた想いを、そのまま墓場まで持っていかねばならない。
彼女は、そんなことは嫌だった。
「つまり、不完全なコンディションなら、実体化の時間は伸ばせるの?」
「ええ。一鬼の場合は、常に全開で実体化させてくれているから、ここまで疲労しただけよ」
「そうか……良かった。なら、私もどうにかなるんだ」
「そうなるわね。心配せずとも、人間は無意識に力を抑えることに慣れているわ。勝手に制限してくれるでしょう」
「そうなんだ……」
不安になった美空だったが、碧の言葉に安堵する。
しかし、彼女は気付くべきであった……本当にそこまでの力を持っている妖をベストコンディションで具現化させ続けることが、人間などに可能なのかということを。
そもそも、人間の持つ力など高が知れている……妖の力の源を担うには余りにも不十分だ。
では、いったいどうやって妖は人間から力を得ている?……膨大なエネルギーを考えれば、その答えは限られてくるだろう。
だから、美空は一つの可能性を恐れ、確かめねばならない。
「ねぇ、碧さん。妖は宿主の何を力の源にしているの?」
「簡単に言えば、生命力ね。勿論、宿主が死なない程度に抑えているけれど、いざという時は殺すことも可能よ。だから、私のように強い妖と宿主の力関係は、非常に危ういものになるわ。まぁ、私はそんなことはしないけれど。いえ、そもそもそんなことをしても私も共倒れ……意味がないわ」
「……妖が、最後の足掻きで宿主を道連れにする可能性はあるんだ」
「そうね。大いにあり得るわ。だから、自分の妖が分かったらすぐに私達に言いなさい。場合によっては、即刻処刑するわ」
「処刑って……」
「躊躇えば、貴方が死ぬ。貴方が死ねば、一鬼は生きる意味を失うかもしれないわ。もう、誰一人としてあの子の家族を失う訳にはいかないのよ」
美空に向かって引き締まった表情で語る碧からは確かに必死さが伝わってくる。
だが、同時に美空はそこに違和感を抱く……詳細には分からないが、何かが、おかしいのだ。
碧が語っている多くの事実と真実の中に、巧みに嘘が盛り込まれているような、そんな気がするのだ。
だが、それを確かめる方法は今の彼女にはない。
だから、その違和感の正体を確かめる為に、彼女はかまをかけた。
「その口調だと、私が死ぬことそのものは問題ないと思ってるってこと?」
「ええ、そうなるわね。貴方達が一鬼にとってただの隠れ蓑でしかなかったならば、私は貴方を半殺しにして隠れている妖を脅しているわ。その方が早いもの。何も知らなければ、妖を殺して、その後貴方も―――」
「……碧さんって、兄さんと似ているのかと思いましたけど、全然違うね」
「……そうね。私は一を取る為に百を殺すし、例え他を救える可能性があっても、それが一の安全を揺るがすなら絶対にしない。でも、あの子は違う。手を伸ばせるなら伸ばすでしょうね。あの子はこう言ったわ―――『何もかも捨てていったら、何も残らない』と。確かに、その考えは良いけれど、今のあの子では、何も残らないのよ」
「どうして……どうして、そんなに兄さんを心配するの?」
「……」
美空は、真顔で残酷なことを当然のように述べる碧を前にして、鳥肌が立つのを感じた。
彼女にとって、美空などどうでも良い存在だとはっきり口に出されるとは思っていたが、返ってきた答えはそれ以上のものだ。
詰まる所、彼女は一鬼さえ守れたならば、それで良い……他に何も必要ないと言っているに等しい。
つまり、碧は一人に大きく依存するタイプだ。
そこに妙な共感を抱きながらも、美空は彼女に再び質問した。
何故そこまで一鬼を守ろうとするのか……その問いは至極間抜けなものではあるが、しかし強力だ。
ただの宿主と妖の関係だと決めつけるには、二人の関係は余りにも不審な点が多い。
対等であろうとする一鬼と、それに従わず、怯えと異常な執着心を見せる碧に、歪さがない筈がなかった。
彼女は絶対に何かを隠している……それも、大切な何かを、だ。
「私はあの子と貴方達を守る。その代わりにあの子が私の足となってくれる。そういう約束なのよ。そして、あの子は貴方達に何かあれば、恐らくリタイアするわ。そうなれば、私は妹を探せない」
「だから、兄さんを守る、と?」
「ええ……そうよ。私は私の目的の為に戦う」
「……分かった」
碧の言葉には、まだ違和感が残っていたが、一先ず美空は納得した振りをした。
今彼女が引き出せる情報はこの程度が限界で、恐らく一鬼でもそう結果は変わらないだろう。
ただ、それはこうして美空も居る場合のみであって、彼らだけの場合ならば話は別だ。
きっと、その内碧は一鬼に何かを打ち明ける……彼の示す信用に、信頼に応える為にそうしなければならない時が来る。
その時まで、彼女は待つしかないようだ。
「そろそろ私も寝ようかな」
「なら、一鬼を起こすか動かすかしないといけないわね。貴方くらいの年頃の女の子は、そういうのには敏感でしょう?」
「……それじゃあ、お願いしても良い?」
「ええ、任されたわ」
美空は、ここで碧の提案を断るのも変だと思い、受けることにした。
それを予測していたのか、返事を聞く前から彼女は一鬼を背負い、そのまま扉へと向かい始めている。
一回り大きい一鬼を軽々と持ち上げている碧に、やはり妖だな、などと思いながら美空はそれを見送った。
そして、気付く……扉を開けて廊下に出ようとする碧が、暖かな笑みを浮かべていることに。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
それはきっと美空ではなく、一鬼に向けられたもので、一鬼のみに向けられるものだ。
母のように、父のように、兄のように、姉のように、弟のように、妹のように、彼女は一鬼に笑みを浮かべている。
まるで家族を見るようなその暖かい眼に、美空は混乱し、しかし部分的に理解した。
一鬼と碧の関係性の歪さの正体は、その表情にあるのだと。
一鬼も美空も知らない何かを、彼女は知っていて、それが彼女をああするのだ。
真顔で扉に手をかけ、平坦な声でおやすみと言った碧に、美空は辛うじて笑みを浮かべることができた。
そんな彼女をあざ笑うかのように細められた新緑の瞳に、彼女は湧き上がる熱を感じる。
それも、身を焼き切ろうとするような灼熱だ……地獄の業火のようなそれが、彼女の体温を上げていくのが、はっきりと分かった。
それでも、彼女は笑みを崩さなかった……碧の姿が扉の向こうに消えるまでは。
「……っ」
碧の姿が見えなくなった瞬間に、美空は思わずベッドに倒れこんだ。
たった一瞬のことであったが、彼女ははっきりと思い出すことができる。
一鬼を慈しみ、愛おしげに感じているその眼を。彼女をあざ笑うように細められた眼を。
同じ目であっても、そこに宿るものはまるで違う……血が繋がっている筈の兄妹であっても、対応はまるで違った。
それは構わない……だが、そこに映ったものがいけないのだ。
美空はなんとなく察しがついた……ついてしまった。
碧は彼女を一鬼から引き離すつもりなのだ。彼女から兄を、一鬼という男を奪うつもりなのだ。
彼女自身の為なのか、彼女の妹やらに関係があるのかは美空には分からない。
だが、一つだけはっきりとしていることがある。
今彼女は、どす黒く、地獄の業火のように熱い嫉妬に、身を焼いている。
あの妖を殺したい―――そう、衝動的に思った。
「……違う。私は……違う」
彼女は必死に否定する。自己弁護する。
一瞬だけ浮かび上がった己の本性に身震いし、それを己ではないと否定する。
それを認めてしまえば、己がどういう存在であるかを再確認しなければならない。
それを否定しなければ、彼女は自分がここに居る意味すらも見失いそうになる。
彼女は弱く、脆い……それをまだ受け入れる程に、回復していない。
だから、彼女は必死に否定する。
彼女が碧と同類である筈がない―――そう、己に言い聞かせるのだ。
真夜中、町には静寂が訪れる。
現在、この町には暴走族なるものは何故か居ない上に、深夜に行動する者は少ない。
前者はいつの間にか消えてしまっていたが、後者は巷で騒がれている連続殺人事件のせいだ。
最初はただのバラバラ事件の筈で、警察がすぐに犯人を突き止めると誰もが思っていた。
しかし、実際は七人余りの死者が出たというのに、犯人は捕まらず、その後活動していない。
つまり、逃げたのか、まだこの町に潜んでいるに違いない―――そう皆考えているのだ。
この町にまだ潜んでいる可能性を住人が疑うのも無理はない。
そして、もう一つ彼らを恐怖させる要素がこの町にはあった……それは、食人殺人犯の存在だ。
この一週間で、既に何人どころか何十人もの人間が消え、肉片だけが見つかる……先程の暴走族もその一例である。
先のバラバラ殺人など比にならない犠牲者の数に、町は静かに恐怖に包まれつつあった。
しかし、いかなる時も多くの者は恐慌せずに無関心でいられる。
こんな時であっても、安眠することができる者は沢山居る。そして、彼もその一人だった。
ベッドの上で、静かに寝息を上げている彼は、その百八十四センチの身長と、引き締まった筋肉は、歴戦の勇士を思わせる。
だが、その寝顔は余りにも若く、邪気がなかった。
彼の寝ている部屋は、家具の殆どが無難なデザインのものばかりで、統一性がない。
そのくせPC回りの環境に関してはデザインなどに余念がないという、ある意味分かりやすい部屋だ。
そんな場所に、入り込む者の姿が、そこにはあった。
音も立てないどころか、扉や窓すら開けずに現れた侵入者は、少しばかり部屋の中に意識をやり、寝ている彼以外に誰も居ないことを確認すると、また動き出す。
その侵入者は迷うことなく彼の元へと向かい、その手を彼の首元へと伸ばした。
これだけで、侵入者の目的が窃盗以外のものであること、更には恐らく彼の命を狙っているであろうことが予測できる。
その手が彼の首筋に触れるか触れないかという時―――不意に、その腕が掴まれた。
そして、驚く暇すら与えられずに、侵入者は首を掴まれ、振り回される。
己の首が激痛を伴う程に絞められていることを感じながらも、侵入者は己を見据える新緑の眼を見た。
それだけて侵入者には分かってしまう……目の前に居る者と己の間にある絶望的な差が。
「やっと出てきたわね。散々焦らすから、どんな妖かと思えば……まさか人間程度の力しかないなんて、拍子抜けだわ」
「ぐっ……」
「貴方、弱過ぎるわね。今貴方が触れようとした子が起きていたら、私が居なくてもこうなっていたわよ?」
侵入者の首はメキメキと痛ましい音を立てているが、それを掴む者は少しも力を緩めない。
否、緩めないのではない……そのつもりが最初からないのだ。
この程度ならば、死にそうな程苦しいものの、死なないと知っているが故に緩めないのだ。
それは、侵入者の首を絞めている者が、こういったことに慣れているのを意味する。
そうでないとしても、叶う筈がない。
「何……故……」
「何故分かったかですって? 貴方には、己の宿主を常に見守るという考えはないのかしら? 特に、寝ている時にね。それで、貴方の名前は?―――答えなければ、分かっているわね?」
「……山吹、よ」
「山吹、ね。おめでとう、一鬼。貴方の妹さんはある意味当たりを引いたわよ―――橙色の妖なら、害はないものね」
侵入者を今も締め上げている相手は―――かつて最強の名を欲しいがままにしていた妖なのだから。




