第二十六話
超越者とは、この世界における怨念を背負う存在だ。
七つの色をそれぞれ与えられた七人の超越者は、皆その心臓に闇を……膨大な怨念を抱える定めにある。
彼らは存在するだけで周りの怨念を吸収し、己が糧としていき、そこに限界はない。
光さえ……空の超越者さえ存在すれば、彼らは無限の怨念すら抱えることが可能だ。
彼らの存在意義は光を守ることであり、光の使命を手助けすることである。
だからこそ、彼らは二百年前その光を守れなかったことを悔いた。次は絶対に守ると決めた。
そう、彼らは光を……一鬼を守ると新たに決意した筈だった。守りきろうとした筈だった。
だが、蓋を開けてみれば、彼らに何ができたと言えるのだろうか?
今日、光を守護すべき七人の超越者最強にして原初の超越者である紫鬼が、一鬼を殺した。
一鬼の兄であり、誰よりも彼を愛した紫の超越者が、守るべき者をその手で殺したのだ。
その皮肉の原因となったのは両者の信念の衝突であり、それが超越者に再び辛酸を嘗めさせたと言っても良い。
そして、その信念がぶつかった大本の原因は、碧という一人の妖狐だ。
紫鬼は、超越者として一鬼を守る為に、かつて弟を殺した彼女を殺そうとした。守れなかった罪を、災いを呼び寄せた罪を償おうとした。
一鬼は、超越者として、兄の心臓で生き長らえている者として、彼女を守ろうとした。受け入れてしまった罪を、災いを開花させた罪を償おうとした。
信念の違い故に両者はぶつかり、最後に碧の盾となって一鬼は致命傷を負ってしまったのだ。
結局は、再び光を死に追いやっただけ……それが最強の超越者の為したことだった。
「ぐっ……がっ……!」
「弱い……弱いぞ。その程度なのか?」
無様に地面を転がっていく碧を見下ろしながら、紫鬼は怒りに体を震わせる。
確かに以前よりも圧倒的に速くなった。重くなった。強くなった。だが、それだけだ。
この程度の力では、一億分の一程度の力すらも発揮できない今の彼でも、勝てる。勝ててしまう。
今彼の前で起き上がっている妖狐は、一鬼という絶対的な光を食らい超越した。
紫鬼すら超える最高の超越者を食らって超越した者が、こんなに弱くて良い筈がない。
一鬼が完全に目覚めたならば、その重さはこのようなものではない。本当の力は、速さは、紫鬼すら上回る。
例え不完全であったとしても、その一鬼を食らった碧が彼の一億分の一の力にすら劣るのは、一鬼に対する冒涜だ。
弟が自ら命を投げ出したからこそ、今碧が生きていることは紫鬼にも分かる。
彼女が自主的に一鬼を食うことなどできる筈もないのだ。そのような覚悟がある筈がないのだ。
つまり、彼の前に居る妖狐は弟の覚悟の産物であり、それに見合うだけのものでなければならない。
だというのに、弱い……弱過ぎる。
「失望した……その程度でお前は私を殺すというのか? その程度の力を得る為だけに、一鬼を食ったのか!? 空の超越者を食らっても、その程度の力しか得られぬような者の為に、一鬼は死んだのか!? ふざけるな!!」
「どうとでも言いなさい……私は……勝つ!!」
「威勢だけの弱者がほざくな!!」
確かに、元来超越者になる資格がなかった者を超越させた為にその力が劣化するのは仕方ないことだ。
だが、それでも今紫鬼に立ち向かっている碧の力は弱い。空の超越者を食らった者とは思えない程に、温い。
このような者を生み出す為に一鬼が食われたという事実が、彼には信じられなかった。
せめて紫鬼の一割程度の力さえあれば、他の超越者を圧倒するだけの力さえ示してくれたならば、彼も救われただろう。
しかし、現実は彼の一億分の一の力にも満たない出来損ないの超越者だ。
他の超越者とは、ただの殺し合いならばそれなりに戦えるかもしれない。かすり傷を負わせる程度のことは叶うかもしれない。
だが、他の超越者は自力で超越し、その果てに一鬼に鬼火を与えられた存在だ。
彼らはたゆまぬ鍛錬と苦痛を乗り越えた果てに、その席を手に入れたのであって、碧とは練度が違う。
空の超越者の情けで元来妹が座る筈だった席に座らせて貰っているだけだ。
このような者の為に一鬼が死んだという事実は、紫鬼には耐えがたかった。
誰よりも大切にすると誓った弟を……血の繋がった唯一の家族を、彼は守れなかった処か、己が手で殺したのだ。
彼が生前の状態だったならば一鬼の心臓を貫いた拳も簡単に己で止められた。弟に反応すらさせず、碧を殺せた。
その全てが仮定の話であり、それをそうさせたのは碧だ。紫鬼と一鬼の死を齎したのは、今彼の眼の前に居る殺戮者だ。
そして、それを一鬼と会わせてしまったのは紛れもなく紫鬼自身だった。
だから、彼はここでその罪を償わねばならない。碧を断罪せねばならない。
「貴様には徒手空拳しかないのか? 先程森を燃やした炎は使えないのか? 一鬼から与えられた、緑色の鬼火を使って見せろ!!」
「素直に応える義理はないわ!!」
「だろうな……答える時間をやるつもりはない」
「ぐっ!?」
会話をしている間にも両者は互いの攻撃を捌くが、碧はその全てを捌ききれずに諸に受け、後退した。
その様を眺めながらも、紫鬼は己が酷く落胆していることに気付く。冷めてしまったことに、気付いてしまう。
一鬼の命を糧にしてまで手に入れた力がこの程度であるということに、彼は怒りと同時に落胆を覚えたのだ。
結局彼女は覚悟してもこの程度でしかないのだと、彼は分かってしまったのだ。
今の碧では、超越者の誰一人として、まとにもぶつかって殺せる可能性がない。
暴力だけならばブルー・シャーマンには勝てるだろうが、しかし蒼炎の超越者の本領はそこにはなく、結局碧では勝てなかった。
一鬼という紫鬼すら上回る者を食らってもその程度の力しか得られない彼女に、彼は今失望している。
弟を食らった彼女は、少なくとも超越者の下から四人を殺せる程の力を持たねばならない。
いくら光の数億分の一以下の力しか得られなかったとしても、その程度は為せる筈なのだ。
だが、今の碧の力では、それすら為せない。
紫鬼ならば、完全な状態でさえあればブルー・シャーマンを除く他の超越者をすぐさま皆殺しにできる。
それ程に隔絶した差が超越者達の間にも存在し、その中でも碧は下位の方になってしまう。
彼女は純粋な戦闘力ならば五位……総合力ならば最下位に属する程に弱い。
だからこそ、紫鬼は失望しているのだ、怒っているのだ。
弟の命をかけた行いがこの程度の結果しか生まなかったことが悔しくて、この程度にしか達せない碧が憎いのだ。
「……遅い。私が見たいのは、ミサイル程度の速度しか出せない者ではない。雷の速度に―――いや、光の領域に達してみせろ。それができないのならば、お前に私は殺せない。金虎も、藍龍も殺せない」
「外の超越者なんかどうでも良いわ……私の敵は貴方だけ!! 一鬼を殺した貴方だけ!!」
「お前もまた一鬼を殺した者であるというのに、それをいうか。それと、一つ教えておいてやろう……お前がどうでも良くても、他の超越者達はそう思っていない」
「……っ!!」
遂に、紫鬼の拳は碧の防御を掻い潜り、心臓目掛けて放たれた。
それにすぐさま反応した彼女は咄嗟に片腕を犠牲にして衝撃を吸収しようとする。
以前の彼女ならば間違いなく反応すらできずに死亡したであろうその拳に、彼女は反応したのだ。
その事実に少しだけ背中を押されて、碧は痛みに備えて覚悟を決める。
しかし、紫鬼の拳は容易く彼女の予想を覆し、碧の左腕を破壊した。
激痛に顔を歪めながらも、碧は宙を舞う前腕を意識の外に回す。
そのようなものに意識をやる暇はない。そのようなものの為に死ねる程彼女が背負っているものは軽くない。
だから、彼女は咄嗟に足場を形成し、必死に後ろに跳んだ。
回避は間に合わないが、即死だけは避ける……彼女はここでは死ねないのだから。
一鬼の怨念を……愛と罰を受け止める為に、彼女は生きねばならない。
確かに碧は弱い……超越者となっても、完全な力を少しも出せない紫鬼に手も足も出ない。
これが現実であり、彼女は絶対に最強になれないのだ。これが彼女の限界なのだ。
もはや九尾すら超えて十尾となり、以前の百倍かそれ以上の力を彼女は手に入れた。
それでも紫鬼には勝てない。元来の半分処か一割の力すら出せない今の彼相手でも、彼女では勝てないのだ。
そんなことは彼女も分かっている……それでも抗う。抗うしか、彼女には術がない。
そして遂に紫鬼の拳が彼女の胸を貫き、その心臓を掴んでも、彼女は諦めなかった。
「……ゴ……フッ……」
「……バカ……な……」
「……?……あっ……!」
そして、それに応えるかのように不意に強大な気配が現れ―――紫鬼の右腕は肘から切断された。
それに驚きながらも、碧はすぐさま後方に大きく跳んで距離を取る。
胸に刺さっている紫鬼の腕が虹色の炎によって燃えていくのを見ながら、碧は間一髪助かったことに安堵した。
後一瞬遅ければ、そのまま紫鬼の腕は彼女の心臓を握り潰していただろう。
まさしく危機一髪と言えるギリギリのタイミングで、何かが彼女達の前に現れた。
燃え盛る虹色の炎が生み出す機械的な装甲、湾曲した二本の角、そして―――闇夜の中で怪しく輝くガラスのような赤い眼。
その全てが美しかった。月明かりの中でさえ影を生み出さないその圧倒的な光は、余りにも強大だった。
まるで世界そのものと向き合っているかのような錯覚すら覚えながら、碧はその姿をしかと見据える。
彼女はそれが誰かを知っている。その中に誰が居るかを知っている。
だから、彼女は名前を呼ぶのだ……誰よりも愛しいその名を。
「一鬼……!!」
「……そうか……そういうことか。一鬼、お前は……ガハッ!!」
「――っ!?」
そう、その生物的さを一切排除したその虹色の炎の鬼は、一鬼である筈だ。
それ以外の答えはない。今碧が感じているのは、まさしく彼の気配なのだから。
誰よりも愛した男の気配を彼女が間違える筈はない。紫鬼の言葉もまた、それを証明している。
だからこそ、彼女には今目の前で起きていることが理解できなかった。己が幻でも見ているのではないかと、目を疑った。
一鬼が紫鬼にとって掛け替えのない存在であることは、彼女も良く知っている。
そして、恐らくは一鬼もまた紫鬼を超越者として、兄として尊敬している筈だ。
一鬼は過去を知って以降何度もその心臓にかけた誓いについて言及した。その心臓に絶対に嘘につかせないと誓った。
それ程までに彼は恩義と尊敬の念を紫鬼に対して感じている。誰よりもその生き様を尊重しようとしている。
だからこそ、碧はただ今目の前で起きたことに驚く。
紫鬼の心臓を貫いた虹色の鬼と、それに対して穏やかな笑みを浮かべている紫鬼の姿に。
片腕を失い、一割処か一分の力すらも出せず、尚且つ宿主を庇いながらの状態でも彼女を圧倒した男が、たった一瞬で心臓を貫かれたのだ。
死んだ筈の一鬼によって、その心臓を貫かれながらも、微笑んでいる。
今際の際に一鬼が見せた笑顔に、それは似ていた。死を受け入れ、そこに意味を見出した者のそれだ。
そして、虹色の鬼は紫鬼の胸から腕を引き抜くと、その手で握っていた心臓を――握り潰した。
「それが……お前の答えなのだな。それが、お前の望みなのだな。分かった……私の全てを持っていけ。この命も……佐村優希の命も」
「なっ……紫……ぐ……っ……」
優希は驚愕に目を見開いたかと思った次の瞬間、そのままそこに倒れた。
それと同時に膨れ上がった紫鬼の力から、碧は瞬時に紫鬼が優希の生命力を全て消費したのだと理解する。
一瞬でそれ程の生命力を奪ってしまう程に、紫鬼の消費するエネルギー量は膨大だ。
それを抑える為に態々何億分の一程度の力で今まで動いていたというのに、それを彼は放棄した。
圧倒的な消耗を強いる妖が力の調整を放棄したということは、即ち宿主諸とも死ぬ覚悟をしたことを意味する。
そうでなければ、態々宿主を殺し得る程の力を開放するようなことはしないだろう。
紫鬼が今行っているのはまさしくそれであり、彼は己だけでなく優希の命もここで終わらせようとしている。
確かに佐村優希は歪んでいる。一鬼に敵対し、その存在に揺さぶりをかけようとしている。
だが、殺す程の脅威であったかと言われたならば、それはあり得ない。
紫鬼が死んだ瞬間、優希はただの優秀な人間に成り下がり、妖相手に脅威にはなり得ないのだ。
態々それを始末するということは、それ以外の危険性を紫鬼が考慮していたということなのだろうが……碧にはそれが何かは分からない。
ただ、そこに何かしらの意図があることだけは彼女も分かった。理解していた。
地に這いつくばって死に向かっていく佐村優希から眼を離すと、碧は虹色の鬼を見据える。
「一鬼よ……お前は唯一の鬼だ。最後の鬼だ。だが、一人ではない……孤独ではない。お前の仲間が……超越者が、いずれ目覚める。その時こそ、全てを照らせ。お前の子守唄で、光で……世界の怨念に均衡を齎せ」
「一鬼……君……助……けて……」
「……佐村優希。お前は、そのまま己が感情も理解できずに消えろ。一鬼に助けを求めるとは、まさしく厚顔無恥というべきか」
「助……け……て」
「元々お前は、全てが終わった後殺す予定だった。一鬼の障害にしかなり得ないお前は、邪魔だ。少し予定は変わったが、お前の未来は同じだ―――ここで死ね」
紫鬼は無情にも、優希にここで死ねと言う。
確かに彼の言う通り、彼女は一鬼にとっての障害になり得るかもしれない。
実際今日彼女は一鬼を排除しようとしたのだから、一鬼の守護者としてその判断は正しいものだと言えるだろう。
紫鬼のその躊躇の無さは凄まじく、一鬼を守る為ならば己が命を投げ出すことすら惜しまない。
碧は実際に二百年前それを実感した。
彼女が殺してしまった一鬼を生き返らせる為に、紫鬼が己の心臓を躊躇なく自ら摘出し移植したのを彼女は覚えている。
正確には、死に急速に向かっていたのを留めたに過ぎないが、それでも通常はできない。
自らの心臓を取り出すことも、それによって他の妖の命を繋ぐことも、普通はできないのだ。
その双方を可能にしたのは、紫鬼くらいであろう。
力の源を失って消えていく紫鬼を、ただ虹色の鬼は静かに見据えていた。
紫鬼もまたそんな虹色の鬼と向かい合い、笑顔と切断された右腕の前腕を紫炎で補う。
それによって更に消失は進行していくが、それでも紫鬼は躊躇いもなくその紫炎でできた偽りの腕で虹色の鬼に触れた。
機械的な掌がそっと虹色の鬼の頬の部分に触れ、そのまま虹色の炎に焼かれていく。
それでも、紫鬼は触れるのを止めない……ただ愛する家族に笑顔を向けたまま、動かない。
「一鬼……ブルー・シャーマンの導きに従え。金虎の忠告に耳を傾けろ。あれらが、お前に道を示してくれる。お前に、全てを教えてくれる。私が教えるべきだった全てを知れ」
「紫鬼、貴方は……」
「……殺戮者よ。お前はこれから先に待ち受けているものを見据えるが良い。そして、絶望しろ」
「どういう――」
「さらばだ、一鬼。我が最愛の存在よ。この藍色の空のように深い闇を持つ者を道標としろ。そこに―――お前の仲間達は居る」
笑顔のまま紫鬼は虹色の炎に包まれ、そのまま消えていった。
碧がその言葉に秘められた真意を確認することもできないでいる内に、死んでしまった。
ただそこには消えた紫鬼が居た場所を見据える虹色の鬼と、動かなくなった優希の亡骸と、彼女だけが残される。
燃え盛る虹色の炎が生み出すその鬼に反応して、己の中の緑色の炎もまた燃え上がるのを彼女は感じた。
痛い程に激しく燃え盛る炎を前に、彼女はただ唖然とすることしかできない。
そんな彼女を置き去りに、虹色の鬼はそのまま何処かへと歩きだした。
「っ!……待って!! 一鬼!!」
慌てて碧はそれを追おうとしたが、虹色の鬼は片手を上げて遮る。
途端にとてつもない重圧を感じ、何故か体が前に進まなくなった彼女はその場に立ち止まった。
プレッシャーによって動けなくなった彼女をゆっくりと振り返ると、虹色の鬼の口が開いていく。
手を広げるように開かれていくその口部はまさしく機械そのものだった。
この姿が一鬼の望んだ鬼であるというのならば、彼が望んだのは鋼の意思であり、鋼の体なのだろう。
一鬼は生前、常に己自身を追い込む癖があった。怨念を背負い、鬼であろうとする傾向にあった。
それが今のこの虹色の鬼を生み出したのかもしれない。機械的で、弱点の見えない完全な鬼を彼は目指したのかもしれない。
彼は一度も誰かに縋ることをしなかった。少なくとも碧の知る限りは、そのようなことはしなかった。
彼の在り方を具現化させたのが、今目の前にある虹色の鬼なのかもしれない。
だから、碧はただ虹色の鬼を見据え、聞いた……その声が彼女に向けられるのを。
『誓いを忘れるな……生きて、守り続けろ』
「ええ! ええ!」
『ならば良し。また会える日まで―――耐えろ』
硬く、鋭い声音のままそう言うと、虹色の鬼はその形を失い、虹色の炎となった。
驚く碧に何一つ残さず、慰めの言葉も労りの言葉もなく、何一つその場から消えてしまった。
涙を流してただ碧は、それを見た。本当は追いたい。彼の傍に居たいのが彼女の本心だ。
だが、彼は既に死んでいる。もう彼に会うことはできない。
また会える日とは、即ち彼女に死が訪れた時のみ……彼女はそう解釈していた。
「一鬼……」
碧はただ涙を流しながら、虹色の鬼が消えた場所を見る。
一鬼は確かに彼女に誓った。必ず守ると宣言してくれた。実行してくれた。
死んでさえも、彼女を守る為に鬼火だけになって戻ってきてくれたのだ。兄である紫鬼を殺してまで、彼女を守ろうとしてくれたのだ。
彼はその愛と決意の固さを行動で以て示し、彼女が本当に望んでいた者が何かを教えてくれた。彼女にはそれがとてつもなく嬉しく、だが悲しい。
それ程の覚悟を見せつけられたというのに、彼女は応えることができなかったのだ。
ただ碧は一鬼に依存し、その愛を求めた。
彼しか居ないと信じていた。彼にしか彼女は受け止められないだろうと確信していた。
だから怖かったのだ……彼に拒絶されることが。そうされることで本当に一人になることが。生きる意味を失うことが。
それは彼が受け入れてくれるとその心臓にかけて誓ってくれた後も変わらなかった。
どんなに力強く宣言されても、過去にしでかしたことの後ろめたさが相まって、信じ切れなかった。
そんな弱い碧を前にして、一鬼はこれ程の決意を形にしてくれた。
紫鬼の必殺の拳を彼女の代わりに受け、彼女を生かす為に、彼女に己を食らわせた。超越させた。
超越しても尚紫鬼に敵わなかった碧を守ろうと、今鬼火だけになって再び現れてくれた。
これ程までに強くその決意を示されて、信じられない訳がない。
今ならば、彼女は彼の言葉が真実だったと自信を持って頷ける。信じられる。
だが、遅過ぎる……今更それができた処で、一鬼はもう居ないのだ。
「……う……ああ……一鬼……一鬼ぃいいい!!」
だから、碧はただ泣き叫ぶ。
愛する男にもう会えないが故に、彼女は慟哭する。己の無力を呪う。愚かさを憎む。
もはや叶わないことだと知っていても、彼女は彼にもう一度会いたいと思った。
もしも叶うのならば、愚かしい過去の自分を今の己で塗り替えて、やり直したいと願った。
しかし、超越者であっても時間の逆光はできない。それは許されない行為なのだ。
だから、彼女はただ泣き叫ぶ。
感情の揺れによって暴れる鬼火が、制御しきれずに森を燃やしていく中、彼女は涙を流し続けた。
愚かな過去を悔やみ、死に塗れた現在を苦痛に思い、望まぬ未来を恐れる。
どんなに後悔しても現実は変わらない。どんなに泣いても、一鬼は帰ってこない。
それでも、生きねばならない。守らねばならない。意思を引き継がねばならない。
それが彼女に与えられた怨念であり、贖罪なのだ。
燃え盛る炎の中で彼女はただ泣いた―――最後の最後に漸く苦痛を受け入れて。
夜というものは一言に夜と言っても、常に違う姿を見せつけている。
ある時は青みがかった空であり、ある時は黒に限りなく近かったりと、そこには確かに差異があるのだ。
その差異は即ち闇の深さそのものを意味しており、月明かりが地上に届くか否かも強く関係している。
藍色の夜空に浮かぶ満月は昼間そこにある筈と太陽とは違い、強い光を持たない。
それを弱弱しいと称する者が居る。穏やかで美しいと言う者が居る。
月は自分では輝けない。太陽の光無しでは、輝くことすらできない唯の衛星だ。
それでも、人間はそれが太陽の助けを得て輝く様を美しいと称する。そこに趣を求める。
太陽は直視するには強過ぎるのだ。それを直接見ようとすれば、払う代償が大き過ぎるのだ。
太陽は命を育み、そして奪う。まるで種をまいて最後に収穫するかのように、恵みを齎した末に奪う。
月は強い生命を与えはしないものの、少なくとも奪うことはない。
「……そう……なんだ」
「ああ、それが一鬼に関して私が知っている全てだ。信じろとは言わない……だが、事実だ」
そんな空のことを歯牙にかけることもなく、美空はただ絶句していた。
向かい合う形で座している父の語った内容は驚くべきものではあるが、彼女も予想してはいたものだ。
一鬼と美空が血の繋がった兄妹ではないことは彼女も既に自覚してはいた。
しかし、まさか一鬼が、十九年前に両親が発掘した遺跡に眠っていた子であったなど、通常ならば信じられない。
『虹色の肋骨』という異常と触れ合う機会がなければ、彼女はそれを信じることができなかったであろう。
それ程に、父が語った内容はオカルト染みており、そのオカルト染みたものを実際に経験した美空でなければ、素直に受け止められないものだった。
遺跡の発掘、奥で眠っていた赤子、そしてそこから始まった仲間達の変死、その山の封鎖……実にオカルト染みた内容だ。
しかも、その山は実際に十九年前に封鎖された場所であることを美空は知っている。
オカルト関係の本を読めば必ず名前が出て来る程度には、その場所は有名だった。
曰く、その山に近づくと発狂死する。曰く、そこにはとてつもない量の怨霊が居る。
そんなオカルト染みた考察がインターネットや本で散見され、実際に死者が出たデータもある程だ。
有名な心霊スポットを生み出したのが己の両親と、その仲間であることに美空はショックを覚えた。
一年前の事故による母の死で父が弱り切ってしまった原因は、それなのだろう。
今まで仲間達が次々と変死を遂げ、遂には妻まで死んでしまった……だから、怖いのだ。
次に失うのが子達であるかもしれないと思っているのだ。
「大丈夫。私は信じるよ。だって……オカルト染みてはいるけれど、事実だって分かるの」
「……何故だ?」
「だって、私も知っているから。兄さんが、父さんの言う恐ろしい何かと戦っていたことを」
「なんだと!? どういうことだ!?」
美空の言葉に今までの沈んだ様子から打って変わって、明は興奮した様子で問い詰めた。
そこには怯えがある。確かな恐怖がある。自慢の息子を失ってしまうのではないかという恐怖が。
きっと彼女が同じ状況に陥っても、父はこの表情を見せてはくれない……そんな妙な予感が彼女にはある。
鬼気迫る表情を父が見せるのはいつだって一鬼のことに関してだ。試練を課すのは、いつだって一鬼に対してだ。期待しているのは一鬼だけだ。
そんな負の感情を抱きながらも、彼女は目を細めて続きを話すことにした。
今の彼女は気分が良い。
一鬼が血の繋がった兄ではなかったことはやはりショックだが、それ以上に血の繋がりが齎す柵が消え去ったことに彼女は感動していた。
彼女の中に潜んでいる依存心は、それを利用してもっと強く彼に依存する方法を彼女に教えている。
もっとずぶりずぶりと彼を沼に沈めていく術が確かにあることに、彼女は漸く気付いたのだ。
山吹の語った言葉の意味を彼女は漸く理解した。
確かに、一鬼を絶対に離さないでいる方法は存在する。一鬼を絶対に逃がさない方法は存在する。
それが分かったからこそ、彼女はいつもより遥かに饒舌だった。雄弁だった。
父に今まで彼女が経験してきたことを語ろうと思えた。
「私もこの話を信じて貰えるとは思っていないけれど、事実だよ。それは忘れないで」
「ああ、分かった。だから、早く教えてくれ。いったい一鬼は何と戦っているんだ?」
「兄さんと同じ、人間じゃない者が確かにこの世界には存在するの。それと兄さんは戦っていた……いや、きっと今も戦っているよ」
「……最近あいつの挙動がおかしかったのは、そのせいか。お前は実際に、あいつの同類と会ったのか?」
「うん。全員ではないけれど。この町には七人の化け物が居たの」
そう、最初はこの町に七人の『虹色の肋骨』が居た。
最初の脱落者については美空も良くは知らないが、一鬼達が消滅を確認したという話は聞いている。
そこから美空は碧と出会い、一鬼の肋骨に宿った彼女に度々嫉妬したものだ。
懐かしいと言うには余りにも明確な嫉妬心は、今も彼女の奥底で燃え上がっている。
緑色の炎は彼女の中で燃え続けているのだ。
今まで美空はそれに翻弄され続けただけだが、これからは違う。
それを有効活用するとまではいかないものの、少なくとも素直になろうと思っている。
彼女は確かに弱く、怠惰だ。単純な能力に恵まれながらも、強く生きる上で必要な要素を欠いている。
それでも、生きたい。一鬼の傍に居たい。その光を貪り続けたい。
まだ覚悟はできていないが、少なくとも望んでいる未来は明らかになった。
だから美空はこれから少しずつではあるものの、彼女の望みに向けて進んでいこうと思う。
一鬼を手に入れる為に、彼女なりに頭を使い、体を使い、その果てに太陽を掴んで見せようと思った。
太陽は近づきすぎれば命を失う程に圧倒的な力を無差別に揮うが、彼は違う。
彼ならば、異常を受け入れられる。近づく者達を受け入れられる。
全てを燃やし尽くす太陽とは違い、彼には愛というものがあるのだから。
「七人の化け物……だと? まさか、そいつ達が一連の連続殺事件の犯人か?」
「正確にはその内の一人だよ。昨日兄さんが戦った化け物が、その犯人だったの。その化け物が、体から沢山のミサイルを撃ってこの町を滅茶苦茶に……」
「……そうか。だが、その化け物は倒したのだな?」
「うん、確かにその化け物は死んだよ。七人の化け物も今は……多分三人しか残っていないと思う」
白雪はブルー・シャーマンが死亡したと言っていた。
その後山吹も紫鬼に殺された為、現在残っているのは碧、紫鬼、緋蓮の三名だけの筈だと彼女は考えている。
実際は今朝一鬼が緋蓮を殺している為、その計算は間違いなのだが、彼女にとってはそれが真実だ。
羽月が生きていて、緋蓮も生きていて、そして……一鬼も生きているというのが、彼女にとっての真実なのだ。
「その三人は……危険ではないのか?」
「うん、大丈夫だと思う。私もそこまで詳しくはないけれど、悪いことはできない人ばかりだから」
美空の分かっている範囲では、碧も紫鬼も緋蓮も命を軽く見ているが、殺戮を楽しんではいない。
彼らは飽くまで命を奪うことに抵抗が無いだけで、殺戮に快楽を見出すような者達ではない筈だ。
そうでなければ、一鬼はとうの昔に彼らと決別していただろう。
彼は意味もなく命を奪う者を許さない。他者の可能性を食いつ潰すことに快楽を覚える者が、彼は嫌いなのだ。
一鬼もまた戦いの中に愉悦を見出す男ではあるが、彼には彼なりの拘りがある。
一つ、弱者を虐げないこと。二つ、己が愉悦の為だけに戦わないこと。三つ、戦いの末にある結果はどんなものであろうとも、受け入れること。
この三つが彼なりの信念であり、美空も良く知る彼の性格を如実に表している。
彼が求めるのは強者との果てない戦いの上の決着であり、弱者を虐げることによって得る快楽などではない。
そんな一鬼だからこそ、紫鬼達と決別することはあれども、能動的に排除するような事態には至らない筈だ。
少なくとも碧は無駄な殺戮を好んではいないし、緋蓮も同様で、紫鬼に至ってはそもそも人間が虫けらのような存在でしかない。
放っておいてもいずれ死ぬような存在などに関して殺す殺さないを考えることがまずないだろう。
人間が虫を能動的に殺すのは妨げになった時だけで、普通は気にもしないのと同じだ。
「そうか……それで、一鬼は今何処に?」
「多分、すぐに帰ってくると思うよ。 あっ……多分兄さんじゃないかな?」
「ほぅ……では、あいつから詳しい話を聞かなければな」
「私が見て来るね」
一鬼はすぐに帰ってくる……そうだ、彼が美空を一人にするはずがない。
いつだって彼は彼女を支えてくれた。助けてくれた。彼女がその場に座り込んで泣いている時、いつも手を差し伸べてくれた。
そんな彼が帰ってこない筈がない。彼女の傍に居てくれない筈がない。
例えこの家に帰ってこなかったとしても、彼女を見守っていてくれる筈なのだ。
だから、彼女はインターホンが鳴り響いた時、それが一鬼によるものだと思った。
彼女の中では一鬼という存在は絶対的なもので、消え去ることはあり得ない。
いつだって彼は彼女の傍に居てくれた。彼女を助けてくれた。彼女を背負い続けてくれた。
一年前に起きた、数十人の死者を出した大事故の際でさえ、彼は彼女を助けて、生き残っている。
トラックに撥ねられ、轢かれ、通常の人間ならば何度死んだか分からない状態になっても、生き延びたのだ。
その代償として味覚を失いはしたものの、逆に言えば失ったのはそれだけだ。
通常の人間ならば間違いなく死亡しており、運が良くとも意識不明の植物人間であっただろう。
それ程に凄惨な事故の中、一鬼が失ったものは味覚だけだった。
片目を失った羽月と比べれば、実際に死んでしまった母達と比べれば、彼が失ったものは少ない。
一年前の事故は美空にとってトラウマではあるが、一鬼の覚悟を実感できた良い機会でもあった。
一鬼は彼女を絶対に守ってくれる……それがあの日はっきりしたのだ。
そのことに思わず口角を歪めながら、彼女は玄関の扉を開けた。
「もう、遅いよ。いったい何を―――」
「妹さん……お邪魔しても良いかしら?」
「してい……碧、さん?」
しかし、期待を込めて扉を開けた先で美空を待っていたのは、碧だけだった。
そう、碧だけなのだ。そこに居る筈の一鬼の姿が何処にも見えないのだ。
碧は一鬼の肋骨に宿っている『虹色の肋骨』であり、彼なしでは生きられない存在だった。
だから、今彼女だけが美空の前に居るのは、あり得ない光景だ。あってはいけないのだ。
ただの亡霊である筈の碧がしっかりと二つの足で地面を踏みしめて立っている姿は、見られない筈なのだ。
ただ茫然として碧の姿を見ている美空であったが、すぐにその衣服が真っ赤に染まっていることに気付く。
同時にむせ返るような鉄の匂いが彼女の鼻をつんと刺激し、その赤が血によるものだと知らせる。
姿を見せない一鬼、碧から臭う血の匂い、その衣服を濡らす赤……ここまで来れば美空も何が起きたのかは想像できた。
しかし、彼女はそれを認めることができない。認められる筈がなかった。
それを認めてしまえば、彼女の支えは消え去る。生きる希望が一つ消える。
しかし、聞かねばならない。聞かねば、何も変わらない。
「兄……さん……は?」
「……死んだわ」
「……えっ?」
「一鬼は……死んだ……わ」
そして、碧の口から語られた言葉に、美空の時間は止まった。
嘘だと言って欲しかった。実は近くに一鬼が隠れているだけだと、笑って否定して欲しかった。
しかし、碧の表情は苦痛に歪んでおり、その眼が泣き腫らしたものであることが、その望みを打ち砕く。
美空は今まで碧が泣いたことなど見たことがない。だから、分かってしまう。
酷く気高く、気丈な女性である碧が泣き腫らす程に泣いたという事実が、彼女に残酷な事実を突きつける。
「何を……言っているの?」
「一鬼は……死んだわ。死んだ……のよ」
「兄さんが……死んだ? そん……な……」
美空は、一鬼は本当に死んだのだと認めたくはなかった。
しかし、逃げることはできない。幻の彼を生み出して己を慰めることもできない。
代わりなど居ないのだ。どんなに至高な幻であっても、それは、幻でしかないのだ。
彼女は一鬼の唇の感触を知っている。その肉体の肌触りを知っている。そこにはテクスチャーがある。
しかし、幻想にはそれがない。どんなに幻覚を呼び起しても、それは幻でしかない。
幻想は現実がなければ生きられないのだ。
どんなに幻で己の記憶を書き換えようとしても、それは逃避でしかないのだ。
そこに現実は無い。現実を捨て去った先には確かに光があるだろう。安らぎがあるだろう。
だが、それはただの幻だ。まやかしだ。そこにはテクスチャーがない。光に触れている実感がない。
幻には熱が無いのだ。どんなに幻覚で誤魔化しても、光に触れたことで感じる熱は再現できないのだ。
贋作では何一つ補えない……だから、彼女は事実と向き合うしかなかった。
「嘘だと思いたい気持ちは……分かるわ。でも……事実なの」
「あり得ない……よ。だって……兄さんなんだよ?」
「でも……死んだの。私を生かす為に……死んだの」
「なんで?……どうして……?」
「憎んでくれて構わないわ。貴方には、その権利がある。私には、その咎がある」
美空は一鬼の死を告げられても、それを実感できずに居た。
しかし、向き合わねばならない。それを受け入れねばならない。
受け入れなければ、その先にあるのは逃避のみだ。逃避すれば、そこにあるのは破滅のみだ。
受け入れても、結局は破滅に向かうだけだろう。先送りにしかならないのだろう。
それでも、その先送りによって得らえる時間は何かをかえるかもしれない。
結局は、受け入れて壊れるか、拒絶して壊れるかしかの二択しかないのだ。
後者の方が圧倒的に楽なことは否めないが、美空は前者を選ぶ。否、前者しか選択肢が無い。
前者は現実と向き合い、失った痛みを受け入れねばならない。
後者は幻に縋って、それでも本物の代わりにはならないことに絶望するしかない。
後者は結局の処余計に痛みを増幅させるものでしかないと、彼女も分かっていた。
だから、彼女は認めねばならない……一鬼の死を。愛する者の死を。彼女の宿主の死を。
「……入って。父さんが待ってる、から」
「……ええ」
目頭が熱くなるのを自覚しながらも、美空は碧を家に招き入れた。
父が待っている……美空ではなく、一鬼を。だから、その一鬼の安否を伝えねばならない。
もう兄は死んでしまったのだと伝えるしかない。会うことは叶わないのだと教えるしかない。
きっとその役割は碧が担ってくれる。いや、担わなければならない……それを伝える為に、彼女は今ここに居る筈なのだ。
それをせずして、何故ここに戻って来たというのだろうか?
玄関で革靴を脱いで並べた碧の姿に、彼女が本当に亡霊ではなくなったのだと自覚しながら、美空はただ考えた。
スリッパを示してそれを履くように促しながらも、彼女は考える。必死に一鬼の死をどうにか受け入れようとする。
以前にも増して美しさを増したように見える碧に対する嫉妬など忘れて、ただ彼女はそのことに集中していた。
そのまま居間まで行くと、碧の姿に明が眉を顰めたのを美空は確認する。
「美空、この女性は?」
「……さっき言った七人の化け物の一人。兄さんと一緒に他の化け物達と戦ってくれた人だよ」
「初めまして。私の名前は碧と言います。貴方のお子さんとは共に戦うパートナーのような関係でした」
「……それで、そのパートナーさんがここに居て、一鬼が居ない理由は? あいつに、何があった?」
明は一瞬だけ驚いた表情をしたものの、すぐに鋭い表情と共に碧に問いかけた。
一鬼のパートナーを名乗る女性がここに居て、しかし一鬼はここに居ない……それが意味することに彼は気付いたのだ。
彼にとって、家族を害し得る者はいかな者であろうが敵であり、彼は碧がそれに該当する可能性を感じ取っていた。
美空も明がそう考えていることは容易に分かった為、碧に助け舟を出すべきか迷う。
もしも碧の言ったことが本当ならば、一鬼がここに居ないことは決して良いことではないということは一目瞭然だ。
美空は一鬼が死んだという情報を既に聞いているが、明はまだそれを聞いていない。
だからこそ、碧だけがここに居ることに彼は違和感を抱く。一鬼の姿が無いことが意味するものを知らない。
だから彼は碧に尋ねたのだ。そこにある答えが彼の望むものではないと知りながらも、聞くしかなかった。
息子の安否を知ることが最優先であり、それ以外を彼は今切り捨てる。
「一鬼は……死にました」
「……は?」
「死んだんです。一鬼は……私を庇って、死んだんです」
「何を……言っている?」
明の表情が困惑に染まり、その声が震えていることにすぐに美空は気付いた。
そうだ。受け入れられる筈がない。いきなりそのようなことを告げられて、受け入れられる筈がないのだ。
だから明の反応は正しい。少しも間違ってはいない。それが本来あるべき反応の仕方だ。
受け入れられないことの方が当たり前で、受け入れられてしまう者がおかしい。
一鬼がそうであったように、いかな苦痛も苦悩も受け入れてしまう者の方が、異常なのだ。
そこで、ふと明は何かに気付いたようにハッとして、眼を見開いた。
彼の眼は碧の真っ赤な衣服を見ており、同時に鼻を押さえて彼は顔を歪める。
碧が咽かえる程の血の匂いを漂わせていることに、その服の赤が血によって染められたものであることに、今彼も気付いたのだ。
その血が誰のものなのかは分からない。しかし、それが彼女のものではないことは確かだった。
傷を負っているとは思えない程に、その姿は力に満ち溢れている。
では、その血は誰のものなのか?……考え方は二通りある。
一つは、一鬼と共に碧が戦った他の化け物の返り血である可能性であり、これならば問題は無い。
もう一つは……言わずもがな、一鬼のものであるという可能性であり、明達が最も恐れている可能性でもある。
明達からすれば他の化け物などどうでも良い存在で、家族である一鬼のみが彼らの関心だった。
「神谷一鬼は、私を守る為に実の兄と戦い、殺されました。私を守る為に、盾になって……死にました」
「……訳が分からんぞ。話にならんな。一鬼を出せ」
「……もう、居ないんです。一鬼は」
「出せと言っている。一鬼は何処だ? 私の息子は―――何処に居る?」
「死んだんです。一鬼はもう居ないんです。 私のせいで……死んだんです」
険しい表情のまま碧を問い詰めながらも、明の顔色は悪かった。
美空もそれに気付いていた。彼が今にも倒れそうな程に衝撃を受けていることに、気付いていた。
きっと、もし死んだのが美空であったならば彼はここまで取り乱さなかったであろうという確信が、彼女にはある。
これ程に嘆き、死を悲しんでくれるのは、それが一鬼であるからだ。
美空が死んだところで、明はその死を一鬼のそれ程悲しんではくれない。
無理もない。何せ、片や彼と妻である夜空の教育によってその守護者の精神を受け継いだ正当な後継者であり、片や血肉を受け継いだだけの凡骨なのだから。
確かに美空はただ生きていく分には十分過ぎる程の能力を持っていて、明もそれは理解している。
しかし、彼が望んでいるのはそのようなものではない。彼が期待しているのは、もっと別のものだ。
一鬼はそれを如実に受け継ぎ、強く示し続けた。
だからこそ、明は血の繋がった美空ではなく、魂が繋がっている一鬼に試練を与え続けたのだ。
強靭な精神力と身内以外を切り捨てられる非情さ。それこそが明の持つ特色であり、歪さでもあった。
彼の妻である夜空もまたそれに似たものを持っており、この二人にとっては一鬼こそが正当な継承者であった訳だ。
その継承者が死んだ……それを明は受け止めきれていない。
「ふざけるな……ふざけるな!! 冗談で言っていないことは分かっている! 虚言ではないことは分かっている! だが、それでも信じられない! 一鬼が死ぬ筈がない! 私達を置いていく筈が……ないんだ」
「父さん……」
「仲間は皆死んだ。夜空も死んだ。一矢も死んだ。だというのに、一鬼まで連れていくのか? お前達は……どれだけのものを私から奪えば……気が済むんだ」
「貴方の怒りはご尤もです。ですから、貴方が望むのならばこの身も、命も差し出しましょう」
「そんなものは要らない。私が欲しいのは、私の期待に応えられる継承者だけだ。お前を殺せば、一鬼は帰ってくるのか? お前などではあいつの代わりにはならない。なれない。私の継承者は、あいつだけだ」
怒りを内包した声と表情のまま、明は碧の言葉を振り払う。
彼にはそのようなものは必要ない。そのような逃げは受け入れたくない。そのようなもので息子の死を誤魔化したくない。
例え壊れることになっても、彼は息子の死を受け入れねばならない。傷と向き合わねばならない。
それが、鬼であれという呪いをかけた息子に対する彼なりの覚悟であった。
明が望んだように一鬼は育ち、結果として彼の親友である柿坂亮の娘、柿坂愛梨を救っている。
例の遺跡の発掘に共に携わった佐藤の息子である羽月も、一鬼の中に父親を見いだせた。
同じく高橋の子である一矢も、両親を失ったものの、一鬼という弟分との交流によって孤独から救われている。
一鬼は明がばら撒いた死が引き起こした悲劇を……その次世代達に起きた悲しみを、拭い去ってくれていたのだ。
明は今尚十九年前の遺跡発掘が引き起こした多大な被害を悔やんでいる。
彼が引き起こした大量の死。そして、それがばら撒いた多くの悲しみは、今尚この町に悲劇を齎しているのだ。
しかし、同時にその時一鬼という存在と出会ったことを、彼は後悔していなかった。
彼の望んだ圧倒的な強さを完遂させるだけの逸材と、彼は確かに出会えたのだ。彼の起こした悲劇に終止符を打つ存在に、出会えたのだ。
それだけが、様々な死と向き合った彼に残された大きな希望だった。夢だった。
その希望の死を、他のもので誤魔化すことなど、彼にはできない。
それをしてしまった時点で、彼は神谷一鬼の父親ではなくなるのだ。
「継承者、ですか……」
「そうだ。一鬼は私にとっての継承者だ。私にとっての希望だ。何よりも大切な光だ。それを、お前などの命で引き換えしようなど、笑止! お前など、何万人……いや、何千万人居ようが一鬼の代わりにはならない! お前にとって一鬼はその程度の存在なのだな。その程度の重さだったのだな。パートナーが聞いて呆れる」
「っ……分かっています。一鬼は……私にとっての光ですから」
「その光が何故、お前を守って死んだ? 普通は光をお前が庇って死ぬものではないのか? それが、あるべき姿なのではないのか?」
「……確かに……そうです。ですが、私には……それができませんでした」
絞り出すようにか細い声で答えた碧を鼻で笑いながら、明は一鬼の死を静かに受け入れた。
彼にとって生きる希望であった家族は、もう美空しか残されてはいない。
それはとても悲しいことで、今にも彼の心は壊れてしまいそうだが、それはできないのだ。
夜空も、一鬼も、もう彼には手が届かない場所に行ってしまった。
それでも、ここには美空が居る。夜空との愛の結晶が居る。一鬼が守った存在が居る。
明にとって、確かに美空は期待できるような娘ではない。
勉強はできても芯のある人間ではない彼女を、彼がただ甘やかしてきたのもそれ故だ。
勿論彼が娘を愛していない訳ではないが、やはりかけた期待の重さは余りにも異なる。
彼に一鬼には期待していたからこそ、様々な試練を与え、美空を守らせた。より多くの重荷を背負わせた。
それに一鬼は見事に応え、それどころか彼の過去の罪が齎した悲劇に終止符を打っている。
一鬼は磨けば磨くほどに光る宝石のようで、彼はその成長を楽しみにしていた。
誰よりも愛した妻、夜空が死んだ後も彼が正気を保てたのは、一鬼が居たからだ。美空という夜空との愛の結晶が居るからだ。
その片方に大きく比重が偏ってはいたものの、まだ双方を失った訳ではない。
夜空が残し、一鬼が守った美空を残して壊れてしまうことなど、彼にはできなかった。
どんなに辛くとも、背負わねばならない。向き合わねばならない。
そうでなければ、彼は神谷明で居られなくなる。
「それで、お前はここにそれを伝える為だけに来たのか?」
「いいえ、違います」
「なら、何を―――」
「不肖ながら、私に貴方方を守らせてください。一鬼と約束したんです。私は神谷美空を守ると。神谷明を守ると。約束したんです。どうか……どうか!!」
「なっ!?」
その場に土下座をして頼み込む碧の姿に明は狼狽えた。
美空もそれに驚き、内心そこまで強く一鬼のことを思っている碧に嫉妬する。
その思いの強さは彼女の比ではなく、一鬼の死を前にしても尚その意思を慮ろうとする強さが碧にはあるのだ。
彼女ならば、間違いなくその場に座り込んでいただろう。
ただ一鬼の死を受け入れるだけで、壊れることもできず、その意思を受け継ぐこともできなかっただろう。
だから、美空は碧が羨ましかった。妬ましかった。
彼女よりもずっと一鬼の近くに居て、たった二週間で彼に受け入れられた彼女が、憎かった。
確かに美空は、一鬼にとって誰よりも優先して守るべき存在だったかもしれない。
だが、それは所詮彼女が神谷明と夜空の娘であるが故であって、それ以外の理由は無いのだ。
少しは愛着も湧いているだろう。情けもあるだろう。
だが、それも所詮は神谷明と夜空の娘であってこそのもの。
結局一鬼にとって真に大切だったのは、美空ではなく碧なのだ。
全ての柵を振り払ってまで、彼は碧を守ろうとしたに違いない。それしかあり得ない。
一鬼は優先順位をはっきりとつけることができる。だから、その瞬間確かに碧は美空よりも優先すべき順位に居たのだ。
美空を守るという信念を果たせなくなると知っていて、それでも兄は碧を守ったのだ。
だから、美空にはどうしようもなく碧が羨ましかった。憎かった。
誰よりも大切な兄を死なせたというその女が。誰よりも兄に愛されたその女が。
「……一鬼との約束だと言ったな?」
「はい。死の間際、確かに一鬼は私に二人を頼むと言いました。ですから、恥を忍んでここに来た所存です」
「そう、か……一鬼が……分かった。ならば、その約束を果たして見せろ。私達の為でなく、一鬼の為に死ぬまで足掻け。苦しめ。未来永劫、一鬼だけを思い、一鬼だけを愛し、一鬼の為だけに生き続けろ。そうして初めて、私も報われる」
「! ありがとうございます!!」
非情な言葉を投げかけた筈の明に、しかし碧は頷いた。
死者の為だけに生き続けるという、ある意味地獄に等しい拷問を彼女は甘受したのだ。
それが一鬼に対する碧の覚悟を表していることが分かってしまう為、美空は余計に嫉妬する。
一鬼をそこまで思える碧だからこそ、一鬼もまた愛したのだと彼女は理解できてしまう。
だから、悔しかった。羨ましかった。憎かった。
美空は結局一鬼に応えることもできず、碧は今それを為そうとしている。
山吹は二人と白雪を含む三者を、一鬼に寄生するしか能がない屑だと称した。
しかし、その屑達の間でさえ途方もない差が広がっているのだ。悲しい程に、異なるのだ。
碧は確かに一鬼に真に受け入れられた。美空は一鬼に守られ続けけた。白雪は拒絶された。
一鬼は全てを投げ打ってでも、碧を守ろうとした。美空達のことを振り切り、ただ彼女だけを守ろうとした。
その差は絶大で、どうしようもない。
だから美空は嫉妬する。碧を恐れる。憎む。新たな怨恨をそこに感じる。
今までにない程に燃え上がる嫉妬の炎は彼女の心を燃やしていき、乾かしていく。
一鬼はもう居ない。彼女の渇きを、飢えを癒してくれる者はもうここには居ない。
故に、その炎は際限なく火力を増していく。彼女自身すらも焼き尽くそうとする。
これから先、彼女は渇きと飢えに苦しみ続け、その果てに死ぬのだろう。
そんな予感を感じながら、美空はただ二人の様子を見守る。
「……一鬼の部屋を使え。他の部屋は使わせられない。お前のせいで死んだ男の名残に押し潰されながら生きろ」
「はい。そうさせて貰います」
「っ……私は書斎に戻る。後は好きにすれば良い」
声を震わせながらそう言うと、明は書斎に向かった。
その背中が震えていることも、悲しみを背負ったものであることも、美空は知っている。
彼はそう遠くない未来に壊れるだろう。心が崩壊し、命さえも失う日が来るだろう。
彼女もまた同じ道を辿る運命になる。一鬼が今まで抑えていた嫉妬の炎は、今彼女を確かに焼き始めている。
このままでは、彼女は死に向かうだけだ。苦しいだけだ。
だが、それしか道は無かった……少なくとも美空には、それしか選べなかった。
彼女が望んだのはこのようなものではない。このような結果ではない。だが、それでも選ばねばならない。
一鬼の死を無いものとすることは簡単だ。幻に逃げることは簡単だ。
その果てにあるのはただの虚しさだけだと分かっているからこそ、彼女はそれを選べない。
兄の代わりなど居ないのだ。神谷一鬼の代わりになる光など、存在しないのだ。
それが分かっているからこそ、彼女は緩やかに壊れていく道しか選べなかった。
「……碧さん。兄さんは……私のこと、何か言っていた?」
「……ええ。貴方のことを頼むと、言っていたわ。この命に代えても守れと、私に言ったわ。一鬼の貴方に対する決意は本物よ」
「そう……なんだ」
「貴方には、私を憎む権利があるわ。だから、憎みたければ憎んで。貴方の大切な兄を奪ったのは、紛れもなく私なの」
「そんなの……ずるいよ」
真っ直ぐに己の瞳を見据える碧に、思わず美空は目を逸らした。
碧が言ったことは一鬼が過去に言っていたことと同じだ。彼の在り方と同じだ。
憎しみを受け入れる姿勢を明らかにし、その覚悟で以て相手を驚かせる彼と同じだ。
その覚悟の強さに正面から向かい合うには、彼女は弱過ぎる。脆弱過ぎる。
いかに彼女の中で燃え盛る嫉妬の炎が強かろうとも、その覚悟の前ではゴミ同然だ。
一鬼はいつだってそうだった。
彼の覚悟はいつだって彼女の半端な憎しみを塗りつぶし、嫉妬と憧れを齎した。
彼女は彼の強さに嫉妬した。憧れた。両親に強く期待される兄を妬んだ。羨んだ。
今になって彼女は漸く理解した。彼女もまた一鬼のことが本当は怖かったのだと。
親友である荒木奈央が彼を恐れていた理由である人外さ故ではなく、純粋な上位種であるが故に、彼女は彼を恐れた。
その一鬼と同じ覚悟を碧は今している。
一鬼が死んだ今になって、その覚悟に至っているのだ。その領域に踏み込んだのだ
だから、美空には純粋に碧を憎むことはできない。怨恨は消えないが、それをぶつけることができない。
そこにちらつく一鬼の影が彼女にそれを許してくれないのだ。彼女の怒りを鈍らせるのだ。
もはや、彼女には怒りを発散する術がない。悲しみを吐き出す術がない。
ただ泣く……それだけが、彼女にできることだった。
「どうして……兄さん……どう……して……」
だから、美空は泣いた。
碧が見ているにも構わず、その場にへたり込んで泣いた。感情の赴くままに泣き続けた。
一鬼はもう居ない。彼女の傍に居ない。泣き叫ぶ彼女を今までのように慰めてはくれない。
ただ静かに抱きしめて、その温もりを与えてはくれない。甘えさせてくれない。
もっと甘やかして欲しかった。もっと愛して欲しかった……それが、彼女の本音だ。
その本音を今まで一鬼は満たしてくれていたが、今はそれもない。
窓から見える空には一点の曇りもなく、藍色のそこに浮かぶ星々が輝いている。
まるで全てを失ったかのような喪失感を感じて泣き喚く美空を、ただ夜空は見守っていた。
空はいつの時代もそこにあり続ける。この地球という星が滅びるまでは、いつだってその下にある全てを見守り続ける。
今朝は嵐の如く降り注いでいた雨はもう降っていない。今空は、雲一つない藍色の夜空だった。
恐ろしい程に透き通った藍色の空に見守られながら、美空は泣いた。
彼女の悲しみに呼応するように、その黒髪に混ざり始めた白髪が悲しげに揺れるのだった。
澄んだ藍色の果てに、その無はある。
ただ遠くに見える星々の光だけが点がその無の海を彩っていた。
宇宙……星の海は地球にある深海のように暗く、しかし星々が光を齎すことがある。
星の海は深海とは違い、再現がないかもしれない。無限であるかもしれない。
光があっても、それは無限に感じられる程に広大なものであり、ある意味光のない深海よりも恐ろしい場所だ
そして、その恐ろしい場所に燃え盛るその星はあった。
熱がただ全てを焼き尽くすその星は、太陽系の中心にある光そのものだ。
太陽と呼ばれているその星は、まさしく全てを焼き尽くす圧倒的な熱を持っている。
人間達にとって恵みでもあり、同時に全てを奪いうる元凶でもあるその星は、今尚力強く輝き、光を齎す。
その光は種をまく為の恵みでもあり、刈り取る為の熱でもあった。
そんな星の近くを浮遊する物体が一つ。
青色の鎧のようなそれはただ宇宙を漂い続け、太陽の光に照らされて神々しく光を反射していた。
しかし、その奥底に宿る光はなく、ただの殻でしかないそれは動かない。
種をまく為の太陽の光を受けてもそこに命は宿らず、従って刈り取る時はやってこない。
命という概念がそこにはなく、ただ無のみがそこにある。
そんな何かは不意に痙攣するように動き始め、その奥底で光が生まれた。
最初は弱弱しかったものの、光はそのまま点滅を始め、遂には蒼い光がそこに点る。
そして、その骸骨のような頭部にある目の部分に―――蒼炎は蘇った。




