第二十五話
深い山奥にぽつんと鎮座している廃病院の屋上に立ちながら、佐村優希は辺りを見渡していた。
辺りを見渡せども、あるのは深い森のみで、本当に何も無い。
ここは本当に日本なのかと疑う程に、まるで人の手が入った痕跡が無いのだ。
恐らくはふもとまで行けば何処かに道路くらいあるのだろうが、それでもこのここまで人の痕跡が無いのは異常だった。
山から溢れ出す禍々しい空気を感じられない彼女には、ここが人間を狂わせた末に殺す場所なのだと分からない。
かつてここで二人の超越者が死に、一人が生き返った。数百の鬼が死に、一人の妖狐が死に、一人の妖狐が狂った。
そんな怨念の渦巻くこの場所に、人が容易に近付くことなどできないのだ。
それでも彼女……佐村優希はここに居る。己の存在をより高みに導く為に、怪物を倒す。
いつだって彼女よりも苦しんで常に低空飛行をしていた筈が、彼女よりも遥か上に行ってしまった怪物を超えることが、彼女の目的だ。
「……一鬼君の場所は分かる?」
「ああ、大気中の怨念があの子に集まっている已上、見逃す筈もない」
「なら、あの炎を使えない?」
「無理だ。失敗すれば一鬼を殺すことになる。私の標的は殺戮者のみだ」
「そう……残念。あれなら、簡単に終わらせられたのに」
優希は月明かりに照らされながら、貼り付けたような笑みのまま待つ。
彼女には分かっているのだ……一鬼が彼女を放置できないことも、紫鬼が碧を放置できないことも。
弟の死を招く可能性がある碧を紫鬼は見逃せず、明日の一鬼の覚醒を狙って殺すつもりでいる。
それが分かっているからこそ、一鬼はここで優希を殺すか再起不能にしなければならない。
一鬼が一度背負ったものを最後まで背負い続けようとすることは、優希が一番良く知っていた。
幼い頃に彼に助けられた優希だからこそ分かる。美空と一鬼の関係を見て来た彼女だからこそ分かる……彼には、碧を見捨てることはできない。
一度抱えてしまえば、その相手が拒絶するまでは絶対に離さない……それが彼だ。
彼の内側でどのような悩みがあり、決意があったのかは彼女には理解できないが、それだけは事実である
故に、彼女は待つ……無用な消耗を避け、痺れを切らせた一鬼がやってくるのを。
「そもそも、あれは消耗が激し過ぎる。あんなものを連発すれば、お前がすぐに死ぬ」
「確かに……昨日のあの一撃だけで死にそうになったね」
「分かっているのならば、ただ待っていろ。お前にできるのは、私に力を提供することだけだ」
「うん、そうだね。大見得を切ってはみたけれど、私なんかじゃ一瞬で一鬼君に殺されちゃうもん」
「……! 来るぞ」
不意に、紫鬼があらぬ方向を向いてそう呟いた。
それにつられて同じ方向を優希が見た瞬間、強烈な風圧が彼女を襲う。
眼を守る為に思わず目を瞑ってしまい、しかしすぐに眼を開いた彼女の眼には何も映らない。
何が起きているのか理解できない彼女を驚かせるように、後方で嫌な音がした。
恐る恐る背後を見やれば、そこには薙ぎ倒された木々があるのが分かる。
何かが彼女の傍を通って木々を薙ぎ倒したのは一目瞭然だった。
「いったい……何を飛ばしてきたの?」
「木だ」
「木?……木が、こんな滅茶苦茶な威力を出すものなの?」
「数百キロの速度を出すことができれば、不可能ではない。ただ、木そのものも壊れてしまうのは必至だが。それよりも、そこから動くな……下手に病院内に隠れようとするのは危険だ。一鬼が投げているのならば、コンクリートも貫きかねんからな。私としても、目で見える分このままの方がやり易い」
「そうだね……」
一鬼が投げたという木が齎した破壊を改めて見ると、優希は紫鬼に同意した。
紫鬼の言う通り、木々を薙ぎ倒したその破壊力を考慮すれば、十九年もの間放置されてボロボロの廃病院の壁など貫通しかねない。
これが新築の病院ならば、中に隠れることが正解になるのだが、今回に限ってはそれも選択できないのだ。
優希にはそれを理解するだけの頭はある為、紫鬼の言葉に従う。
そもそもが、戦闘に関して優希は素人同然だ。
人間相手ならばそれなりに動けるが、妖……それも超越者である紫鬼に判断力で勝てる筈もない。
生粋の戦士である彼の判断を信じるべきであることは、明白だった。
彼女よりも遥かに殺すこと、殺されないこと、更には殺さないことに精通している戦士の判断を疑えば、彼女はすぐに死んでしまう。
優希には分かっていた……一鬼と己の間にある絶対的な差が。覆せない能力差が。
彼女には空気を読むことはできない。他人の思いを顧みることも、慮ることもできない。
だが、己や他人の能力を見極めることはできた。何処まで可能かを見極めることは得意だった。
だからこそ、彼女には分かるのだ……戦闘という分野においては、全ての能力値に置いて一鬼に敵わないことが。
「恐らく今のは様子見だ……今度は大量に来るぞ」
「それは困っちゃうけれど……紫鬼なら、その程度訳ないんでしょう?」
「……ああ」
「なら、任せるね。私にできるのは、できる限り消耗を抑えることくらいだし」
優希は分かっている……彼女では一鬼に届かないことが。
だから、他者の手を借りるのだ。最強の超越者である紫鬼の力を借りるのだ。
幸い、紫鬼が殺すことを決めた碧が一鬼には宿っている。それを取り除く為に紫鬼が一鬼と敵対するという状況も生まれた。
今状況は彼女に有利な方へと進んでいる……それを止める者も居ない。
弱者が強者に勝てるかもしれない光明が、今見え始めているのだ。
彼女は勉強でならば一鬼に勝てる。勉強が好きではない彼に勝つことは不可能ではなかった。
だが、覚悟の面では勝てない。誰かを受け入れることに関しては敵わない。己の全てをかけてぶつかる真摯さには、向き合えない。
表面だけの分野ならば彼女は彼に勝てるかもしれない。だが、人間として彼女は彼に劣る。
その優劣が他者を不幸にすることはない。優希を不幸にすることはあり得ない。
だが、彼女は彼を超えたかった。その為に拒絶した。決別した。
彼女にとって彼は大き過ぎる。彼を越えなければ、切り捨てなければ、振り切らなければ、彼女は前に進めない。
だから彼を今日ここで振り切る。まだ完全ではない今、最後の決別をする。
そうすることで、初めて彼女は完全に神谷一鬼の影を振り切れるのだ。
「……佐村優希。自分で向き合わずに他人をぶつけるなど、効率的だが格好悪い―――お前は先程一鬼にこう言ったな?」
「うん、そうだよ」
「今お前がしていることはまさにそれだ。私の力に頼り切って、お前は何一つ覚悟していない。受け入れていない。お前は今、最高に格好悪いぞ。最高に醜いぞ」
「それがどうかしたの? 私が一鬼君に敵う訳がないじゃない。だから、紫鬼の力を借りているの。私は一鬼君を超える為なら、どんなに格好悪くても良い。それくらい分かっているでしょう?」
「……虎の威を借る狐では、鬼を超えることはできない。自らぶつかることができないお前では、無理だ。このようなやり方しかできない時点で、お前は詰んでいる」
紫鬼の言葉に対してすら、優希は貼り付けた笑みを崩さない。
紫鬼には分かっている……彼女は覚悟を決めた上で一鬼とぶつかっている訳ではないと。
覚悟が必要なくとも生きることができるからこそ、今まで彼女はやってこられた。
だが、彼女は密かに全てを受け止めようとし、それでも壊れずにいる一鬼に憧れている。
彼女の在り方を神谷一鬼という存在が揺るがせるからこそ、彼女はそれを振り払おうとしているのだ。
佐村優希はいつだって覚悟をせずに、他者を受け入れずに、偽も本当もない空虚な生き方をしてきた。
ただ目の前にあるものを為し、ただ毎日を生き、空虚なままで生きようとしている。
それもこれも、元々は一鬼と出会ったことが始まりで、彼女のその生き方はそこから始まった。
強過ぎる彼のように振舞おうとした結果、彼女は間違った道を進んで、痛みを受け入れて進むのではなく、痛みを消して進んでしまったのだ。
最初は、ただの憧れだった。ただの尊敬だった。
佐村優希は神谷一鬼の圧倒的な強さに惹かれ、憧れ、その境地に達しようとしたのだ。
だが、所詮は人間でしかない彼女にとってその境地に達することができる筈もなかった。
故に、彼女は妥協した。痛みを受け止めて進むのではなく、痛みを失って進むという安易な道に進んだ。
その結果が今の彼女であり、彼女はそれが正しい道だと思い込んでいた。
だが、今まで以上の強さで以て一鬼はそれを容易く否定する。彼女の生き方を嘲笑う。
だから、彼女は彼を倒す。再び決別する。再び切り捨てる。
「道化だな……精々足掻いていろ」
呆れるようにそう言うと、紫鬼は再び高速で飛来してきた木を片手で受け流した。
受け流された木が、そのまま恐ろしい速さで森を破壊していくのを眺めながら、優希はただ貼り付けたような笑みを浮かべる。
そんな彼女から眼を離すと、紫鬼は大量に飛来してくる木々をそのまま捌いていく。
圧倒的な速度で以て行動可能な彼にとって、たかが数百キロの速度など限りなく遅いスローモーションにしか過ぎない。
紫鬼は最も一鬼に近い超越者であり、その能力も弟に追随する程のものだ。
その力はまさしく理を捻じ曲げる程のもので、生前の彼ならば、その気になれば光すら超える速度で行動することもできた。
しかし、今佐村優希という枷がある已上、彼は元来の力の一割は愚か数億分の一すら使用できない。
碧や白雪を殺すには十分過ぎる程の力だが、その程度でしかないのだ。
そんな限られた力で紫鬼はこれから弟の足を止め、碧に止めをささなければならない。
馬鹿正直に向かってきてくれたならば、それが彼にとって最善ではあるが、一鬼はそこまでバカではない為不可能だ。
そもそもが、一鬼が碧を拒絶してくれていたならば、このような事態にはならなかっただろう。
だが、それを悔やんだ処で何も変わりはしない。
紫鬼にできるのは、何とかして一鬼をここにおびき寄せて、碧を殺すことだけだ。
「無駄話が過ぎたな……仕掛けるぞ」
「でも……っ……どうやって?」
「何、簡単なことだ……これから私の言う通りにしろ」
紫鬼は表情一つ変えずに、優希に新たな行動を提示する。
一鬼をここに誘き出さねば、優希が足となっている彼は追いつくことができない。
いや、正確には彼が足となることもできはするのだが、その場合は大量の生命力が消費される。
優希の容量では数秒しか持たない程に、その場合の消耗は激しい。
人間でしかない彼女では、九尾を優に超える彼の数億分の一の力ですらまともに具現化させられないのだ。
一鬼の肋骨に宿ったのが碧ではなく紫鬼だったならば、どんなに良かっただろうか。
そうであれば、紫鬼は力の枯渇に悩まされることはなかったし、このような事態に陥ることもなかった。
機動力も一鬼が十二分に確保でき、紫鬼はただ守り、向かってくる敵を滅ぼすだけで良い。
碧など簡単に殺せる上に、一鬼に触れさせることも避けることができた。
だが、現実はそうではない……彼は佐村優希の『虹色の肋骨』に宿ったのであり、弟のそれには碧が宿ったのだ。
「殺戮者……覚悟するが良い」
紫鬼はその紫電の眼を歪ませて、静かに呟く。
これから反撃が―――始まる。
廃病院に佇む紫鬼と優希の様子を森の中から伺いながら、一鬼はただ木を投げ続けていた。
遠距離攻撃の手段を持たない彼にできるのは、飛び道具を調達することくらいだ。
そして、ここは深い森であり人間一人殺すには十分過ぎる凶器……木がいくらでもある。
軽過ぎる木ならば人一人すら殺せないかもしれないが、それでも当たり所次第では命を奪うことも可能だ。
だからこそ、巨大な幹を槍のように放りなげる彼の方法は悪くない手段だった。
碧が木々を薙ぎ倒し、枝を全て折って幹だけにし、それを一鬼が投げる……この繰り返しで確実に優希は消耗する。
いかに紫鬼が絶対的な能力の持ち主であっても、優希の死の恐怖までは拭い去れない。
その恐怖すら抱かない可能性もないではないが、一撃一撃が必殺の威力を持つ已上はそうもいかないのだ。
どんなに強靭であろうとも、どんなに鈍感であろうとも、死の恐怖は生物に共通して存在するものだ。
覚悟が無ければ、それは乗り越えられない。
そう……それができない優希には、死の恐怖は絶対に乗り越えらえないのだ。
「碧、次だ」
「ええ」
「―――ふんっ!」
一鬼の言葉に、碧は数百キロの重量を持つ木を軽々と投げ渡す。
彼もそれを軽々と持ち上げ、次々と優希目掛けて寸分の狂いもなく投擲していく。
傍から見れば異常な光景だが、彼ら八尾相当の力を持つ者にとって、この程度訳ないのだ。
三尾相当の時点で数百キロのものを持ち上げるのは容易になり、五尾で一トンを超えるものも軽々と持てるようになる。
況してや、八尾ともなればその許容範囲は何十トンのレベルに達する為、たかが数百キロなど羽毛のようなものだ。
事実、インディゴとの戦いの際に碧は三十トン近い重さの列車を真正面から弾き飛ばしている。
それ以上の力を持つ一鬼は、明日になれば更にその力を増大させ、遂には紫鬼と同じかそれ以上の領域に達することが約束されていた。
だが、紫鬼も白雪もそれを待ってはくれない。彼が完全に目覚めれば手出しできなくなることを知っているが故に、待たない。
だから彼は限られた能力でどうにかするしかなかった。
「よし、一旦移動するぞ。これからは、移動しながら投擲していく。加工は任せたぞ」
「ええ、分かったわ。でも、こんなことであの娘を消耗させられるの?」
「ああ、間違いなくできる。取りあえず、機動力を奪う為に足一本程度を奪えれば御の字だが、そうもいかないだろう。だが、そのまま紫鬼を実体化させられないまでは疲弊されられる」
「……紫鬼はそれを読んでいる筈よ」
「だろうな。だから、敢えてやられた振りをしてくる筈だ。その時は、木で生死を確かめる。態々こちらから近づいてやる必要はない」
そう、機動力で圧倒的に劣る優希では、一鬼に追いつくことはできない。
だからこそ、やられた振りをして彼を接近させる程度の手段しか持ち合わせてはいないのだ。
ならば、一鬼はそれに素直に付き合わずに一方的に遠距離からの投擲を続けるだけで良い。
紫鬼が引っ込んでしまえば優希の居場所を正確に把握することは難しいが、ある程度分かれば十分だ。
ここで優希を再起不能にできるのが最高の結果だが、最悪足止めだけでもできれば御の字であろう。
恐らく、優希は廃病院の中に入り、紫鬼を引っ込めて一鬼に正確な位置を把握させまいとするだろう。
そうなれば、当然位置を常に把握され続けている一鬼の方が不利になることは否めない。
紫鬼は一鬼が再生の為に一度眠りに入る必要があることを知っている為、それが始まるまで待てば良いのだから。
一方の一鬼はそれが始まる前に決着をつけねばならない為、かなりキツイ状況だ。
だが、それを容易く覆すだけの手札が一鬼にはある。
「……次だ」
「はい」
故に、一鬼はひたすらに移動しながら木を投げ続ける。
優希が廃病院の中に逃げることは分かっているので、扉に向かって木を投擲することも忘れない。
優希目掛けてのものだけでなく、扉に向けた木々も全て捌く紫鬼の姿から、やはりそれが狙いであることを彼は再確認する。
紫鬼の動きは今の処眼で追える程度の速度で、恐らく無駄な消費を避けているのだろう。
一鬼はそんな余裕をこれから打ち砕く。
紫鬼と優希はそこまで連携が取れていない為、一鬼と碧の方が遥かに有利に動ける筈だ。
圧倒的な紫鬼だからこそ今戦況は膠着状態にあるが、それも長くは続かない。
一鬼が怨念と向き合う時間が訪れるのが先か、優希が再起不能になるのが先か……勝負はそこで決まる。
負ければ碧が殺されてしまうのは必死である為、彼は負ける訳にはいかない。
守り切らねば、受け入れきらねば、彼は己が信念を貫いたことにならないのだ。
「――! 碧、一旦引っ込め!」
「えっ?……わ、分かったわ」
不意に、優希が廃病院の中に入ろうと走り始めたのを見て、一鬼はすぐさま標的を変えた。
木の幹を投擲する標的を彼女から、その進行方向にある廃病院の壁にする。
今までよりも更に上の速度で投げられた木は、そのまま老朽化していたコンクリートを容易く貫いた。
彼はその様子を確認すると、ひたすら優希の進行を阻止するように木を投げ続けて廃病院内に木の幹による障害物を生み出していく。
更に、一鬼はそのまま彼女の居る場所とは正反対の廃病院の端に向かって一気に跳躍した。
距離は一気に近くなるが、それでも二百メートル以上の距離がそこにはある。
紫鬼の行動可能半径が恐らく二十メートル程度が限界であることは、彼も今までの動きから既に推測していた。
ここならばすぐさま紫鬼がやってくることもない。
すぐさま一鬼は己の体から虹色の炎を発生させると、廃病院の壁に触れた。
すると、あっという間にそれは廃病院を包み込んでいき、外壁を灰へと変えていく。
紫鬼の持つ紫炎にすら匹敵すると彼も自覚しているその炎は、まさしく超越者の証である鬼火なのだろう。
触れる物全てを焼き尽くすが、使い手の裁量でその範囲も対象も限定できるこの炎は酷く使い勝手が良い。
今はまだ飛び道具としての使用はできないが、時間さえあればそれもできるようになるだろう。
これこそが、一鬼の奥の手だ。
「よし、これで……」
「これで、どうするつもりだ?」
「――!?」
不意に背後に現れた紫鬼の気配に驚いた一鬼が振り向いた瞬間、彼の足はあらぬ方向に曲がった。
それに伴う激痛に耐えながら、一鬼はすぐさま両手で以て移動しようとするが、それよりも先に彼の両腕もまた捻じ曲げられる。
歯を食いしばって激痛に耐えながらも、彼は地面に無様に横たわった。
痛みに耐えながらも、彼は己の四肢を捻じ曲げた相手を見遣り、そこに紫鬼の姿を見出す。
何故紫鬼が既にここに居るのか理解できなかった彼だったが、すぐさま一つの結論に達する。
紫鬼の行動可能範囲が数百メートルあった訳ではないことは、その背後で倒れ伏している優希の姿から容易に理解できた。
その姿が、紫鬼が彼女に齎した尋常ではない消耗を物語っていることも、彼は理解している。
だからこそ、ここまで恐ろしい速度で紫鬼が移動できた可能性は一つだった。
僅かに紫鬼の足の部分が透け始めていることに気付きながらも、彼は必死に距離を取ろうとする。
しかし、四肢を折られた今の状態では満足に動くことも難しい。
「……まさか」
「そのまさかだ。お前の予想通り、ほんの一瞬だけ私が足となった。その一瞬でここまで来られるからこそできたことだが。残念だが、お前の考えはお見通しだ。その鬼火を扱いきれていれば、こうはならなかったものを」
「無茶を言う……発現したのは今朝だぞ……」
「だからこそ、私にも勝機があった。お前が万全な状態であったならば、私ですら勝てないからな」
苦痛に耐えながらも紫鬼の言葉に応じる一鬼であったが、内心は焦りで一杯だ。
彼は妖であり、脳か心臓を破壊されない限りは死なない。妖はそういう風にできている。
そう……ここで紫鬼が、彼から碧の宿る『虹色の肋骨』を摘出することに何ら支障はないのだ。
確かに痛みは伴うが、心臓と脳に深い傷を負わない限り、彼は死なない。
彼がこうなってしまった已上、碧の死は免れないものとなったと言えるだろう。
一鬼が人間だったならば、ここで『虹色の肋骨』を摘出するのは非常に危険なことだ。
しかし、彼は妖であって、人間ではない。人間では耐えられない痛みにも耐え、病の心配もない。
ここで紫鬼が『虹色の肋骨』を摘出するのを躊躇わせる要素は存在しないのだ。
このままでは、ここで碧は死ぬ……彼の読みの甘さと紫鬼の能力への過小評価が原因で、殺されてしまう。
一鬼はこの状況を打破する術を必死に考えるが、この至近距離では彼に成す術はない。
彼の何百倍もの速度で移動できる紫鬼を相手に、逃げ出すことなど不可能だ。
優希を狙うにしても、紫鬼の防御を掻い潜る程の機動力は彼にはない。
まさしく今の彼は詰んだ状態であり、ここから起死回生を望むのは非常に難しいことだった。
だが、それでも彼は道を探さねばならない。
彼は最後まで碧を背負うと決めたのだ。守ると約束したのだ。
「紫鬼……どうしても、碧を殺すというのか?」
「ああ。どうしてもだ。お前を殺したその妖を、私は許さない。これからお前を殺し得るその存在を、私は許さない。一鬼、お前には超越者が居る。そんな有象無象は必要ない筈だ」
「それは貴方にとっての価値観でしかない。俺にとって、碧は必要な存在だ。俺の罪の証だ。俺が背負うべき罪だ。俺が償うべき相手だ。俺が超越者である為に、背負わなければならない存在だ」
「それはお前にとっての価値観でしかない。私にとって、殺戮者はお前を殺した存在だ。これから先殺し得る存在だ。私が超越者として、排除せねばならない存在だ」
例え兄弟であったとしても、一鬼と紫鬼の価値観はまるで異なる。
当然だ……全く同じ価値観を持つ者などそうそう存在しないし、ある意味存在してはいけない。
同じ環境、同じ遺伝子……それですら全く同じコピーを作り出すことはできないのだ。
だから、環境も遺伝子も異なる二人の価値観は絶対的に異なる。
何よりも、立場が異なるが故に二人はその価値観における衝突を避けられない。
一鬼は碧を受け入れる……かつて己が彼女を受け入れた結果、狂ってしまった彼女への贖罪故に。
彼が彼女を受け入れたことから全ては変わってしまった。鬼が滅び、妖狐も滅んだ。
確かに紫鬼が、碧が超越者か否かを見極めることができたならば、こうはならなかったかもしれない。
碧が身の丈に合わぬことを……超越を望んだことこそが、原因なのかもしれない。
しかし、彼にとって全ての元凶たるは碧でも紫鬼でもなく、彼自身だ。
だから、彼はその贖いをする。彼女を再び受け入れる。
紫鬼は碧を排除する……かつて己が弟に引き合わせてしまった結果、弟を死なせてしまったことへの贖罪故に。
彼が彼女を弟に引き合わせてしまったことから全ては変わってしまった。鬼が滅び、弟が死んだ。
確かに一鬼が彼女を受け入れてしまわなければ、最初の出会いの時に拒絶していれば、こうはならなかったかもしれない。
だが、彼にとって全ての元凶たるは碧でも一鬼でもなく、彼自身だ。
だから、彼はその贖いをする。彼女を再び殺す。
同じ贖いでも、その方向性が違うが故に今二人はぶつかっているのだ。
「……何故、そこまで碧を拒絶する?」
「それが私の存在理由だからだ。どんなに憎んでくれても構わない。どんなに見下してくれても構わない。どんなに拒絶されようとも、私はお前を守る……それが私達超越者の在り方なのだ」
「紫鬼……貴方は―――」
「故に、私はお前から殺戮者を取り除く―――許せ」
一鬼にとって、紫鬼は尊敬できる兄だ。
今日初めてその過去を知ったというのに、いかに偉大な兄かを彼は思い知った
二十四年間もの間、一鬼の誕生を待ち続け、鬼の一族を守りながら、ひたすらに切磋琢磨し続けた兄に憧れた。
その圧倒的な決意に、生き様に彼は感動し、兄を誰よりも誇りとしたのだ。
故に、彼はその兄の心臓にかけて誓ったことを、捻じ曲げはしない。その為に、碧を守る。
紫鬼にとって、一鬼は守るべき存在であり、愛すべき弟だ。
生まれた瞬間、彼は将来生まれてくる弟の存在を感じ、己の生がその弟の為にあるのだと悟った。
二十四年間待ち続け、遂には義母に宿った新たな命に彼は感動し、改めて守りきることを誓った。
だが、守れなかった……碧をすぐさま排除しなかったが為に、彼は誰よりも愛しい血の繋がった弟を失ったのだ。
故に、彼はその心臓にかけた誓いを今度こそ果たす。その為に。碧を殺す。
今この瞬間、それにも決着がつくのだ。
紫鬼は腕を振り上げ、碧が宿っている『虹色の肋骨』……彼の肋骨を目掛けて振り下ろす準備をする。
急がなければ、一鬼の四肢は治癒して逃亡を許してしまう。
既に優希はかなりの生命力を消耗しており、逃げられてしまえば彼でも追いきれない。
だから、彼は振り下ろす決意をする。
そして、振り下ろそうとした瞬間―――不意に碧が一鬼の前に現れた。
「待って! 貴方が私を憎んでいることは知っている! 大人しく殺されるわ! だから、一鬼にこれ以上酷いことをしないで!!」
「碧!?」
密かに脚部の治癒が終わりかけていることを確かめていた一鬼は、碧の行動に驚いた。
彼女にそのような覚悟ができる筈がないと知っているからこそ、彼はただ唖然とする。
紫鬼もまた、それを知っているが故に。彼女の必死な様子に驚きを隠せずに居た。
そのような覚悟ができている筈がないとどちらも分かっている。だが、それでも彼女がこうして出てきたのは、覚悟あってこそだ。
そうでなければ、こうして自ら死を選ぶようなことはできない。
できない筈なのだ……優希とは違い、碧には怨念を感じるアンテナがある。痛みがある。戸惑いがある。
だからこそ、今彼女がとっている行動はまさしく異常だった。
散々己の為だけに生きて、死んだ身勝手な妖が、今誰かの為に再び死のうとしている。
これを異常と言わずして、何と言えば良いのだろうか?
「一鬼……今までありがとう。短い間だったけれど、とても楽しかった。暖かかった。嬉しかった。本当に……ありがとう」
「駄目だ……止めろ。本心を隠すな!!」
一鬼には分かっている。
碧が微かに震えていることも、その眼に死への恐怖が宿っていることも、分かっている。
彼女は死ぬ覚悟などできていない。彼を守る為に殺される覚悟など、彼女には最初からない。
だからこそ、彼女の新緑の眼は、親に助けを求める子のそれそのものなのだ。救いを求める者のそれそのものなのだ。
本当は覚悟などできていない。彼にこの状況を打破して欲しい。それが、彼女の本心だ。
それを理解したが故に、一鬼は改めて覚悟した。
まさしく彼は今ここで鬼とならねばならない。己の定めた道を突き進む為に、完璧な鬼にならねばならない。
彼には、紫鬼の望んだ生き方はできなかった。最後にして唯一の鬼である彼は、命の恩人である兄の願いを叶えられなかった。
それが彼には何処までも悲しく、悔しい。
だが、一鬼は決めたのだ……神谷明と神谷夜空の望んだ鬼として生きようと。
いざという時に一体の鬼となって欲しい―――それこそが彼らの願いであり、それは彼に揺るがぬ意思を持って欲しいという意味を持つ願いでもあった
だからこそ、彼は今こそ完全にその鬼となる。尊敬する兄の願いを振り切り、ただ己の願いを叶えることを決意する。
誰でもない、己自身の決意と信念の為に、血反吐を吐いても生きる決心をする。死ぬ覚悟をする。
「さぁ、紫鬼……終わらせなさい。貴方の復讐を。貴方の贖いを」
「殺戮者……漸く観念したか。良いだろう……最後に一鬼の為に死ねることを、せめてものの慰めにするが良い」
「一鬼……」
「―――死ね」
「―――!!」
だから、紫鬼が腕を振り下ろそうとした瞬間、一鬼は動いた。
未だ完治していない両足を酷使して、紫鬼の前に立ち塞がる。碧を守る為に、盾となる。
絶対に碧を死なせないという固い決意を虹色の炎に変え、彼は迷わず左腕を前に出した。
それに気付いた紫鬼は腕の進行を止めようとするが、もはや止められない。優希には、それを許すだけの余力も残っていないのだ。
結果として、紫鬼の腕は容易く一鬼の左腕を破壊しながらも、止まらない。
今までとは違い、確実に一鬼の眼で見える速度で進んでいくその拳は、紫鬼の願いを無視して突き進んでいく。
既に優希の生命力は枯渇し始めており、下半身が半透明になって消えかけている紫鬼には、力を制御しきるだけの余力がない。
ただ紫鬼はその様を驚きと絶望と共に見据えた。一鬼は笑みを浮かべながら、受け入れた。
紫鬼は今も鮮明に覚えている……彼が碧の左腕を奪ったことも、一鬼に左腕を捧げたことも。
そして、今一鬼の左腕を彼は奪っていた……吹き出す蒸気が、その右拳を焼く熱がそれを物語っている。幻ではないと、紫鬼に教えている。
圧倒的な熱が放出されていく中を、紫鬼の右拳はそれでも突き進んでいく。
紫鬼の能力は圧倒的で、それ故に優希は紫鬼を呼び出すだけで寿命を削っていた。
だからこそ、彼女は常にギリギリだった。紫鬼が一瞬だけ足となっただけで昏倒する程に、その消耗は激しいのだ。
そうでなければ、紫鬼には今尚一鬼の左腕を破壊し、そのまま突き進んでいく拳を止めるだけの余力があった。
しかし、現実は彼にそれを許さず、最愛の弟の胴体までもその右拳は削っていく。
そして、遂にはその心臓を貫くか否かの瞬間―――紫鬼は力を振り絞り、己の左腕で右腕を破壊した。
「っ!!」
「―――!」
「……えっ?」
だが―――遅かった。
破壊された筈の右腕はそのまま一鬼の左胸を大きく削り、中央近くにある心臓の大部分を抉っていったのだ。
その様を信じられないという眼で見る碧を無視して、紫鬼はただ微笑む一鬼を見る。
綺麗な笑みを浮かべながら、傷口から大量の血と蒸気を吹き出す弟の姿に、紫鬼は己の根底が揺らぐのを感じた。
弟を守るべき己が弟の心臓を破壊したことに驚愕し、その事実に絶望した。
そんな紫鬼の全てを見透かしたような笑みを浮かべ、一鬼は碧を残った右手で掴み、後方に大きく跳んだ。
今しがた心臓を削り取られたにも関わらず、その跳躍は軽く数百メートルに及ぶ距離を進み、彼の姿を森の中へと隠す。
だが、そんなことをした処で一鬼の死は揺るがない。心臓を破壊された彼には、確実な死しか未来は残されていない。
今更逃げても無駄なのだ。もう遅いのだ……神谷一鬼は今日ここで死ぬ。
それが分かっていても、紫鬼はそれを追おうとする……しかし、優希の消耗はそれを許さなかった。
生前ならば追えたものの、今の紫鬼にはそれを追うことができない。意思があっても、力が足りない。
後方で激しい消耗故に倒れている優希の体力の回復には、もう暫く時間が掛かる。
それまで彼は待つしかない。たたでさえ生命力を削って彼を実体化させている優希の消耗は半端なものではないのだ。
一鬼がいったいどうなってしまったかを確認するまで、彼はただ待つしか選択肢が無いの。
故に、彼はただ絶望しながら待つしかない。それしか選べなかった。
「私は……なんという……ことを……」
優希の消耗を抑える為に、彼はそのまま消えながら残った左腕で顔を覆う。
後悔と絶望と、己への憎しみと、一鬼の安否の心配と、混沌としたものが今現在彼の胸中を支配していた。
彼は弟を守る為にここに居る筈だった。その為に碧を排除する筈だった。
それが、蓋を開けてみればどうだ……弟の心臓をその手で抉り、大部分を破壊してしまっただけではないか。
紫鬼はただ己を責め、苦悩し、待つしかできない。
優希が回復するその時まで、彼はそうやって苦悩し続けるのだ
大きく抉り取られた左胸から大量の血を吹き出しながら、一鬼は地に降り立った。
同時に、まともに歩く力すら残されていない彼は無様に地面を転がり、そのまま木の幹にぶつかる。
残った少ない力で起き上がり、木の幹に背中を預けると、彼は静かに一つ溜息をついた。
瞬間、その口から吐血するも、彼の表情は揺るがない。驚きも、絶望も、死への恐怖もそこにはない。
ただ、微笑を浮かべたまま、彼は苦痛を、死を受け入れる。
そんな一鬼をただ見ていることしかできなかった碧だが、彼の吐血で己を取り戻し、すぐさまその体を支えた。
彼の体に触れたことで、その左半身から溢れ出す血が彼女の体を汚すが、そんなことはどうでも良いのだ。
その胸から未だに噴き出ている蒸気も、既に弱まり始めており、彼女を焼き切る程の力もない。
彼女はその眼に涙を浮かべながら、一鬼の顔を見据えた。
二百年前と同じように消えていく光をただ見つめ、泣いた。
「どうして……どうしてこんなこと!!」
「お前が……望んだ……からだ。俺が……選んだ……ゴホッ!……からだ」
「私が生きていても、貴方が死んだら同じじゃない! 結局は私も死ぬ! 誰も残らないわ! どうして……私なんかを……」
「お前を……受け入れると誓ったからだ。俺は……お前を……愛すると……守ると……約束した。宣言した……だから……これで、良い」
「良くないわ! お願いよ! お願いだから死なないで!」
碧は必死に叫ぶが、しかし一鬼の表情は変わらない
悲しいまでに達観したその表情は、死を覚悟した戦士のものだ。死の恐怖を超越してしまった者のそれだ。
溢れだす血は今尚碧の衣服を、体を赤く染めていく。その出血量が、一鬼が死ぬことを物語っている。
彼はこのまま死ぬ……それは紛れもない事実であり、彼女には捻じ曲げられない。
これでは二百年前と何も変わらないではない。
ただ、彼の心臓を貫いたのが碧から紫鬼に変わり、今回は彼を生かす別の心臓が無いという点以外、何も変わらない。
碧を受け入れた結果がこれだというのならば、ブルー・シャーマンの言った言葉その通りだ。
彼女のせいで彼はこれから死ぬ。彼女を守ったせいで、彼は死んでしまう。
彼女にとっての唯一の光が消えてしまう。途絶えてしまう。
彼女もまた共に死ねることだけがせめてもの救いであり、そうでなければ彼女は発狂していたに違いない。
『お前はいずれあの子を殺す。それも、完璧にな』
「っ……なんで……なんであんな奴の言う通りになるのよ!!」
「碧……聞け……ッ!……お前は……俺を……二度守れなかった……インディゴの時も……紫鬼の時も……」
「一鬼、もう喋らないで……お願い」
「駄目だ。聞け……約束を……覚えて……いるか? 俺を守れなかった時……罰を与えると……いう約束……を」
「っ……ええ」
涙で視界がぶれるのを自覚しながらも、碧は一鬼の言葉に頷いた。
確かに彼と彼女は約束した……碧が一鬼を守れなかった時、一鬼はそれ相応の罰を彼女に下すと。
当初、そのようなことは起こり得ないと思っていたが故に、彼女はそれに快諾した。
しかし、一鬼の言う通り彼女はインディゴ戦の後半に足手纏いになり、彼に怪我をさせてしまった。
白雪との戦いでも、紫鬼への抵抗でも、彼女は守られてばかりで、彼を守れなかったのだ。
そう、二度ではない……実際は三度守り損ねていた。
だというのに、一鬼は敢えて二度だと言う。残る一つを残して、何故か最初の二つを今語り始めている。
彼は無駄なことを嫌う。だからこそ、そこには確かな意味がある筈だ。
それを分かっているが故に、碧は静かに彼がその何かを告げるのを待つ。
絶望と悲しみに支配されそうになりながらも、必死に耐える。
そんな彼女に微笑みながら、一鬼は再び口を開いた。
「今……その罰を……与える。碧……美空を守れ。何としても……守り抜け。俺の代わりに、守り抜け」
「分かったわ……分かったから、死なないで……」
「無理だ……二つ目の罰を……与える。碧……俺を―――食え」
「……えっ?」
一鬼が二つ目の罰を言葉にした瞬間―――碧の時間は止まった。
一鬼が何を言っているのか理解できず、彼女はただ唖然とすることしかできない。
下手をすれば紫鬼がすぐさまやってくるかもしれない状況下で、そのような無防備を晒すのは自殺行為だろう。
だが、頭が真っ白になってしまった彼女には、そのようなことを考慮する余裕はない。
それ程に一鬼の言葉は強烈なもので、彼女には理解し難いものだった。
碧にとって、一鬼は光だ。変えようのない、絶対的な心の支えだ。
彼に微笑みを向けられるだけで彼女の体は熱を帯び、その体に触れる度に心臓は興奮の余り鼓動を速める。
彼の傍に居られるだけで心が安らぎ、彼にありがとうと言われるだけで、生きている意味を見いだせる。
それ程に一鬼という光は彼女にとって絶対的なものなのだ。
そんな一鬼が、己を食えと言っている……それが罰だと言っている。
碧には、何故彼がそのようなことを言うのか理解できなかった。理解したくなかった。
彼がそのようなことを言う筈がないと信じていた。このまま共に滅びようという思いがあった。
彼女は彼が居ない世界などで生きるつもりはない。生きていける筈もない。
だから、彼女はここで彼と共に死のうという覚悟をしていた。そんな甘えがあった。
だというのに、一鬼はそれを一蹴したのだ。たった一言で。たった一度の言葉で。
「ゴホッ……碧、お前が望んでいた……超越者にしてやる。お前が……憧れた……席に……座らせてやる。俺の……命と引き換えに……緑の席を手に入れろ。残された……最後の席を」
「無理よ……そんなの無理よ! インディゴのように、宿主を食えと!? 貴方を……私の全てを食えと!? そんなの嫌よ! 貴方が居ない世界なんかで、生きていきたくない!!」
「碧!! ゴフッ……言った筈だ。これは……罰だと……生きろ……俺の居ない世界で……生きろ……」
「無理よ……無理……貴方が居ないと……無理よ……」
「死ぬことは……許さない……俺が守る……この……紫鬼の心臓に……かけて……そう誓った。だから―――食え」
一鬼の意思は揺らがない。碧がどんなに泣き言を言っても、その決意は変わらない。
彼はそういう風にできている。彼はそういう風に育てられた。そうなるように望まれた。望んだ。
だからこそ、今彼は泣きじゃくる碧にただ優しい笑みを浮かべながら、罰を与える。
彼が為すべき筈だったことを彼女に託し、救いと痛みを与え、それでも微笑む。
既に出血は止まり始め、放出されていた熱も少しずつ弱まっている。
もうすぐ一鬼は死ぬ……他の誰でもない彼自身がそれを一番理解しており、故に彼女に捕食されることを望む。
完全に未来のない己ではなく、宿主を食らうことで生きながらえることができる彼女を生かす。
それこそが、今彼にできる唯一の彼女を守る方法であり、彼が信念を貫く方法なのだ。
このまま無意味に死ぬのではなく、彼女に本当の新たな生を齎した上で死にたい……それが彼の願いだった。
「なんで?……どうして……そんなこと言うの? 一緒に死なせて……一緒に居させて……お願い……」
「駄目だ……お前は……生きろ。太陽は……何度でも……昇る。だから……お前は……その時まで……生きるんだ……それまでは……俺の意思が……お前を守る」
「どうしても……しないと……いけないの?」
「ああ、どうしても……だ……」
既に一鬼の意識は薄れ始め、死が見え始めている。
結局彼は超越者が皆開けた扉を開けることなく、今死を迎えようとしていた。
その扉を開けた先で待っている者達に出会えないことを残念に思いながらも、彼は揺るがぬ覚悟を言葉に、己が眼に、己が怨念に乗せる。
ここで彼は死ぬだろう……だが、それは敗北ではない。まだ敗北は決まっていないのだ。
彼にとっての敗北は碧を守れなかった時だけであり、まだ彼女は生きている。
だから、一鬼は碧に己を食えと言う。
己を食わせたことで、仮初であろうとも彼女を超越させようとする。
その果てに紫鬼を打ち倒す力があると信じて。彼女を救う力があると信じて。
ここで彼は死ぬ……だが、それで終わりではない。太陽は何度でも昇る。何度だって朝を齎す。
空はいつでも上を向けばそこにある。なくなることは、絶対にない。
だから、彼はこの死を恐れない……未来に繋ぐ為に、それすらも利用してみせる。
「頼む……俺は……このまま……何も守れずに……死にたくない。俺を食え……そして……いつまでも思っていてくれ……空は……いつだって……お前を……見守っている……」
「私……私―――」
「碧……愛している……だから―――お前が選べ。それが―――最後の罰だ。紫鬼から……俺を守れ……なかった……お前への、最後で……最大の―――罰だ」
「一……鬼……う……あ……ああああああああ!!!」
己の頬を優しく頬を撫でる一鬼に、碧は泣き叫び―――その傷口に噛り付いた。
失血によって青ざめていきながらも、一鬼は笑顔でそれを受け入れた。ただ残った腕で彼女の頭を撫でながら、痛みも喪失も全てを受け入れていく。
そんな彼の優しさと残酷さに、碧は更に泣く。それでも食うのは止めない。彼の命を食らうのを止めない。
彼の望み通り生き残る為に、紫鬼に打ち勝つ力を得る為に、彼を食らう。
愛する者を食らっているという事実に吐き気を催しながら、碧はただ食い続ける。
僅かばかりしか残されていない一鬼の心臓を食らい、そこから更に食って食って食い続けた。
止めどなく溢れる涙を拭うこともなく、彼女は肉も骨も何もかもを取り込んでいく。
咀嚼する度に彼女の肉体は変化し、少しずつ、だが確実に高みへと昇り始める。
心の底から望んだ光が少しずつ己と同化していくのを、彼女は確かに感じていた。
故に、彼女はより一層涙を流す。愛する男を自ら食い殺す辛さ故に。それを望んだ一鬼の残酷さ故に。
「ヴァッァァアア!!」
言葉ですらない叫び声を上げながら、碧はただ食い続けた―――愛する者が残した怨念に従って。
肉も、骨も、あらゆるものを食らった。咀嚼した。噛み砕いた。飲み込んだ。
その度にそこから放出される熱が彼女の体温を高めていき、心臓に莫大な怨念を集めていく。
一鬼の心臓目掛けて集まっていた怨念が行き場を失い、そのまま空中を漂っていても、彼女は無視して食らう。
足も、胴体も、腕も、頭も、何もかもを食らい尽し、吐き気を催しながらも彼女は遂に―――愛する者の全てを食らった。
遂に、完食したのだ……愛する者の全てを。守ると誓った者の全てを。受け入れてくれると誓ってくれた者の全てを。守ると誓ってくれた者の全てを。
「一鬼……うっ!?……ぐっ……あ……」
一鬼の名前を呼んだ瞬間、碧は心臓に走った鋭い痛みによって、その場に無様に倒れ伏した。
心臓で燃え盛る業火が、彼女の体を焼いていく。その心を燃やしていく。罪だらけの彼女を火あぶりにする。
余りの苦痛に涙は止まらず、彼女は己を抱いて必死にその激痛に耐えた。
腕を掻き毟り、必死に痛みを誤魔化す。愛する者を己が手で食らった痛みに耐え、その結果生まれた膨大な熱に耐える。
一鬼はもう居ない……碧が死なせてしまった。食ってしまった。
だから、今こうして苦しんでいる彼女を彼は抱きしめてはくれない。頭を撫でてはくれない。
もう一鬼は居ないのだ。彼女を光で包んではくれないのだ。彼女を守ってはくれないのだ。
それが悲しくて声も出せず、彼女はただ咽び泣く。
嗚咽が森の中の静寂を引き裂き、彼女が孤独であることを再確認させる。
一鬼は死んだ……それは、変えようのない事実だった。
「うう……かず……き……」
『何をしている、碧……そうやっていつまでも泣き喚いているつもりか?』
「……えっ?」
そんな時だった……碧の耳に聞こえる筈のない声が聞こえたのは。
恐る恐る声のする方を見た彼女の眼に入ったのは、先程彼女が食った筈の一鬼の姿だった。
彼女はそれが幻なのではないかと疑い、しかしそれでも構わないと判断する。
彼女は彼が居なければ駄目なのだ。彼が居なければ何もできない、弱虫なのだ。
だから、このまま幻を抱いて滅んでしまっても良い……そう思った。
彼の望み通りに美空を守り切るだけの覚悟など無い……生きることさえできないかもしれないのだ。
だから、碧はただ一鬼の幻の足にしがみついた。
そのまま咽び泣きながら、幻に頼らねば生きていけない己の弱さに絶望しながらも、ただ縋った。
今の彼女にはそれしか残されていないのだ。それしか生きる手段がないのだ。
どんなに惨めでも良かった。ただ彼の幻に縋れるのならば、彼女はそれで良かった。
このまままどろみの中に沈んでいく……それだけで彼女は十分だ。
しかし、そんな彼女を否定するように、一鬼の幻はその首を掴んで持ち上げた。
「ぐっ……?」
『ふざけるな……俺が望んでいるのはそのような無様さではない! 超越者になりたかったのだろう!? 俺に選ばれたかったのだろう!? 前を見ろ……そこにお前が望んだ世界の入口がある』
「入……口……?」
一鬼の幻に導かれるまま向きを変えた碧は、その時初めて、己の眼の前に佇む巨大な扉の存在に気付いた。
その隙間から溢れ出す虹色の炎が彼女の頬を撫で、一鬼と共に居た時感じていた暖かさを齎す。
彼女はそれにはっとしながら、一鬼の幻を見遣った。
それに微笑みながら頷くと、それはそっと彼女の首から手を放して、彼女の手を握る。
一鬼の幻に導かれるがままに碧はその扉に手で触れ、扉の反対側から伝わってくる熱に、思わず泣いた。
その向こう側には、確かに彼女が望んだ世界がある。超越者達の集う、高みがある。
彼らだけが光をその身に受けることを許された。一鬼という光に直接触れ、選ばれた。
その世界が、すぐそこにあるのだ。
これは幻かもしれない。いや、きっと、幻なのだろう。
それでも、碧は今感じている光が本物であると信じたい。彼女は漸く辿り着いたのだと、信じたかった。
両手にありったけの力を籠めて、彼女は扉を開けようとしたが……開かない。
そう、彼女には超越する資格がない。白雪の姉でしかない彼女では、この扉を開けられないのだ。
それでも、開けねばならない……そうしなければ、紫鬼に立ち向かえない。
「……私には……無理よ……」
『お前一人ならば、な。だが、今お前は一人ではない。俺がここに居る……ここに』
「でも……でも……」
『さぁ、行こう……超越者達が待っている』
隣に居る一鬼の幻は美しい笑みを浮かべたまま、碧の胸を軽く小突くと、そのまま彼女の両手に手を重ねた。
そこから伝わる体温は幻とは思えない程に暖かく、滲みこんでいく熱に彼女は体を震わせる。
今彼女が見ているこれら全ては幻でしかないかもしれない。
だが、この熱は間違いなく本物だ。偽物である筈がなかった。
偽物はこんなにも優しくない。こんなに美しくない。彼女を癒せない。
悲しみの中に見出した希望を抱いて、碧はそのまま幻を―――否、一鬼を見据える。
それに静かに頷いて、彼は彼女の掌を押した。
瞬間、先程はびくともしなかった扉は鈍い音を立てながらも静かに開き始め、そこから溢れだした虹色の炎が彼女を包み込む。
その熱に、暖かさに、彼女は心が安らぐのを実感する。救われていくのを実感できる。
今碧が感じているのは、かつて彼女が初めて一鬼と触れ合った時に感じた力の奔流そのものだ。
ここから先は、超越者達が集う光の世界であり、闇そのものである彼らが生きるのに必要な救いが、そこにはあった。
一鬼の持つ子守唄はまさにその救いが具現化したものであり、彼の在り方を表しているものだ。
ここから先に、超越者達が居る。彼女が心の底から望んだものを既に手に入れた者達が居る。
だから、彼女は一つ深呼吸をして踏み込んだ……超越者の領域へと。
「っ……!」
『安心しろ。今の奴らに危害を加えるだけの力はない』
踏み込んだ瞬間、奥から発せられた膨大な殺気に碧は怯むが、一鬼はそっとその背を押す。
彼女は不安が色濃く出ている新緑の眼で彼を見遣るが、やはり彼の笑顔は崩れていない。
嘘ではないのだ……上級妖すら発狂死させかねない程の殺気が充満しているというのに、それを彼はその程度だと一蹴した。
が最高の超越者である彼にとっては、それ以外の者達は格下なのだ。
元来ならば、一鬼は明日そうなる筈だった。
彼女を庇ったばかりにそれも潰え、彼は完全な超越者としての再生を果たせなかったのだ。
全て彼女から始まった……彼女が彼に受け入れられ、彼を求めたことから全ては狂いだした。
紫鬼と一鬼はそのことでそれぞれ罪悪感を抱いているが、本当に罰せられるべきは彼女の方だ。
だから、彼女はこれから己が罪と向き合わなければならない。
彼女の贖罪が、ここから始まるのだ。
「……!」
不意に、碧は奥に七つの席があることに気付いた。
その内の六つは既に埋まっており、紫色の席には紫鬼が、青色の席にはブルー・シャーマンが座っている。
更に、黄色の席にはカナリーが足を組んで座っており、そのすらりとした足を惜しげもなく晒していた。
碧とカナリーの視線が交差し、互いの眼が細められる。
そこに言葉は無いものの、両者の間にあるのは全く異なる感情だ。
碧はカナリーから眼を離すと、そのまま他の超越者達の姿を確認することにした。
赤の席に座っているのは、『南』の一族の衣装を纏った、淡い赤の髪の毛と深紅の眼を持つ青年だ。
情熱的な赤に似合わない強い理性を感じさせるその眼を悲しげに歪めながら、彼は一鬼を見ている。
琥珀の席に座っているのは、『西』の一族に似た人型の黄金の虎だ。
その眼もまた黄金であり、虎は碧を誰よりも強く睨んでおり、そこから溢れ出す怨念は全てが彼女への殺意であった。
そして、藍色の席に座っているのは……一鬼と同じ藍色の髪を持つ女性。
カナリーは碧よりも遥かに美しいが、この女性は次元が違った……いや、方向性が違うと言うべきか。
カナリーを鋭い美しさだとすれば、その女性の美しさは柔らかさ、穏やかさ、温かさだ。
悲しげに歪められた藍色の眼は、深海のような深みを持っており、しかし暗さが無い。
その女性は一鬼の姿を確認して、悲しげに微笑むと……そっと目を閉じた。
閉じられた眼から静かに頬を伝っていく涙が、その美しさを際立てている。
『ここが……お前の席だ』
「……ここが……」
しかし、一鬼はその女性すらも無視して碧に緑色の席を示した。
かつて心から望んだ超越者の席が、漸く手に入る……それは彼女にとっての本懐であった筈だ。
九尾に到達することも、妖狐の戦士であり続けるのも他者から望まれたことであって、彼女の夢ではなかった。
だが、超越者になることは彼女自身の夢だった。光である一鬼に触れる権利を得る為に、必要な要素だった。
そして、今碧は限られたその席に座る権利を得ている。
しかも、彼女に与えられた席は皮肉なことに彼女が憎み、妬んだ妹……白雪に与えられる筈だった席だ。
元来ならば優越感に浸れる筈なのに、素直にそう思えない己が居ることに、彼女は驚く。
一鬼が彼女を受け入れてくれた時に言った言葉が無ければ、その感情の正体にすら彼女は気付けなかっただろう。
『お前は白雪が死んだ時、間違いなく激怒する。俺を憎む』
『私が?……まさか、そんな筈がないでしょう?』
『いいや、お前はまだ心のどこかで白雪を愛している。妹のことを守りたいと思っている。己で決着をつけたいと思っている。だから、紫鬼を先に倒そうとしたのだろう? 違うか?』
一鬼とのやり取りを思い出しながら、碧は暫し緑色の席を眺め続ける。
彼女が妹に抱いていたものは確かに家族愛だった……憎しみと妬みだけでなく、確かに愛もあったのだ。
今更、妹が座る筈だった席を見てそれを思い出すなど、遅過ぎる。
もう妹は……白雪は死んだのだ。紫鬼にその心臓を貫かれて、完全に死亡したのだ。
彼女の本心が明らかになった処で、もう遅い。遅過ぎる。
碧は白雪の苦しみを理解すべきだったのかもしれない。支えになってやるべきだったのかもしれない。
だが、妹は彼女を信用していなかった。彼女も、妹を憎んで殺そうとしていた。
今となっては、全てが遅過ぎて、何もかもが後悔だらけで、彼女の心は押し潰されそうになっていく。
それでも、生きねばならない……一鬼との約束を守る為に。罪を償う為に。
碧は胸に手を当てて深呼吸をすると、静かにその席に座った。
その瞬間、彼女の体の中を光が駆け巡り、心臓に抱えていた怨念が力へと変わっていく。
同時に彼女の心臓部に圧倒的な熱量が生まれ、全身に無限に等しい量のエネルギーを循環させる。
急激に力が強まっていき、心臓に確かな緑色の炎が生まれたのを実感しながら、彼女は一鬼を見た。
かつて必死に九尾になろうとした頃は、彼女の力は少しも変化しなかったというのに、今彼女の力は何十倍にも膨れ上がっていたのだ。
「っ……これが……超越……これが……鬼火」
『そうだ。お前は今緑色の鬼火を手に入れた。その力こそが超越者の証だ』
「あっ……一……鬼……」
ゆっくりと離れていく一鬼に碧は手を伸ばそうとするが、届かない。
彼女の手は空を切り、彼に触れることはなかった。どんなに手を伸ばしても届かないのだ。
その事実に再び涙が溢れだした碧にそっと微笑みながら、一鬼は奥にあるもう一つの席へと向かっていく。
虹色の炎に包まれたその席は、七色の席の後ろ側に、まるで玉座のような高みに存在した。
きっとそれは他の超越者とは一線を画していることを示しているのだろうが、碧にそのようなことを考慮する余裕はない。
ただ、離れていく光に彼女は悲しみを覚えるだけだった。
『俺はもう行く……後はお前次第だ。これから紫鬼に立ち向かうのも、逃げるのも自由だ』
「……逃げる訳にはいかないわ。奴は、私を逃がさない筈よ。ここで決着をつけるしかない」
『そうか……ならば、忘れるな。俺はいつでもお前を見守っている。お前は一人ではない。俺が、守る……そう約束したからな』
「一鬼……貴方はどうして……そこまでしてくれるの?」
『俺が―――空の超越者だからだ』
一鬼は綺麗な笑みを浮かべると、そのまま虹色の炎に包まれた玉座に座った。
碧はその仕草に、そして表情にどきりとしながらもただ見ていることしかできない。
ただ見守ることしか許されない彼女の前で、彼は虹色の炎に包まれてそのまま姿を変えていく。
虹色の炎はそのまま鎧へと変わり、二本の湾曲した角を持つ虹色の鬼が、そこに生まれる。
ただ静かに座るその鬼は、碧の方を見ると一度だけ頷き……彼女から眼を離した。
だが、その行動は彼女を見離したが故のものではない。
まさしく完全な鬼となった彼は、彼女を見捨てたのではなく、受け入れてくれている。
だから彼女は今ここに居て、緑色の席を、鬼火を与えられたのだ。超越することを許されたのだ。
それがいかに狡いことかを自覚しながらも、彼女はただ完全なる鬼を見た。
誰よりも愛しく、美しいその鬼を。
『行け、碧……俺がついている』
「ええ、私は……」
碧は一鬼の言葉に頷くと、そっと目を閉じて……開いた。
彼女が居るのは、超越者の居る世界ではない。光が溢れる世界でもない。
ただの森の中だ。愛する者の血がこびりついた場所だ。彼女が一鬼を食った場所だ。
溢れだす涙は止まらないが、それでも進まねばならない。愛する者の意思を尊重せねばならない。
それこそが彼女に与えられた生きる意味であり、罰であり……怨念なのだ。
「絶対に―――生き残るわ」
だから、彼女は絶対に生き延びる……愛する男との誓いを守る為に
膨大な力の奔流によって大気が震え、一つの光が消えた時、優希は目覚めた。
紫鬼の実体化によって生命力を多大に消耗した彼女は、既に限界だ。
超越者の力は絶対的だが、同時に消費するエネルギー量もあり得ない程に膨大だった。
その膨大過ぎる消耗によって、既に彼女の寿命は数十年分消費されており、先は長くない。
それが、たった数回紫鬼を不完全な状態で呼び出しただけで奪われた生命力だというのだから、まさしく消費量の次元が違う。
人間の数十年の寿命などよりも遥かに膨大なエネルギーを紫鬼は一瞬一瞬で消費してしまうのだ。
逆に言えば、生前の紫鬼はその消費量をものともしない圧倒的なエネルギー量を誇っていたとも言えるだろう。
しかし、彼の食うエネルギー量の膨大さは、『虹色の肋骨』という宿主なしでは生きられない存在と化してしまった時、途端に足枷となる。
一度の実体化で彼女が消費した寿命は十年分程……そして、それに対して紫鬼が再現できた力は本来の一パーセントですらない。
まず優希の命全てをエネルギーに変えたとしても、完全な状態で彼を実体化させるのは無理なのだ。
ひとまずは命があったことに感謝しながら、優希は紫鬼の方を見た。
「ぐっ……紫鬼……一鬼君は?」
「……」
「紫……鬼?」
「……バカな……あり得ない……何故だ。何故―――」
「紫鬼?……っ!!」
紫鬼が右腕を失っていることに優希が気付いた時、それはやってきた。
突如地面が揺れ始め、圧倒的な重量感を感じさせる音が辺りに響き渡る。
その揺れの正体が何かは分からないが、少なくともそれが己にとって良いものではないことに、彼女は本能的に気付いた。
彼女は他者の気持ちや雰囲気を慮ることはないが、己の生死に関わることには敏感だ。
そうでなければ生き残れない。全てに鈍感になってしまえば、滅びの未来しかない。
だから、優希には分かるのだ……今彼女にこの音を聞かせている者は、彼女にとって脅威となる存在だと。
唖然としている紫鬼の姿もまた、その脅威と異常性を如実に語っている。
片腕を失っても、その痛みなど少しも気にせずにただその音の源を見遣る彼につられて、彼女もまたその先を見た。
そこにはきっと彼女にとって脅威となる存在が居るだろうが、それを振り切らねば、彼女は死ぬ。
今の優希には、その脅威から逃げ切るだけの余力などない。
一パーセントの力すら発揮できない状態で、紫鬼をほんの五分程度出しただけでこれだ。
今日彼女が紫鬼を出したのは、五分にも満たないというのに、既に彼女の生命力は十年分以上消費されている。
結局、今を生き残っても、彼女に残された時間は恐らく後二、三十年程度しかないだろう。
それでも、ここで生き残らなければ彼女の未来は零だ。
例え残り一日しか、一時間しか時間が残されない程に命を燃やし尽くそうとも、零にではない。
だから、彼女はその零ではない未来の為に、これから再び命を削る。
「……えっ?」
そして―――紫鬼の向こう側に、優希はあり得ないものを見た。
森が燃えているのだ……それも、ただの炎ではなく、緑色の炎によって。
そして、その中心を、月明かりと炎に照らされながら、一人の女性が歩いていた。
肩口で切りそろえられた黄金の髪が風に揺れ、シミ一つない白い肌が血に染められてコントラストを醸し出している。
その全体のバランスも、パーツ一つ一つの完成度も圧倒的で、まるで完成された芸術のように、その女性は美しい
更には、月明かりを反射して怪しく輝く新緑の眼が、他の要素と相まって非常に幻想的な光景を生み出していた。
真っ赤に染まったチャイナドレスから覗く四肢は引き締まっており、しかし女性としての美しさを損なわせない。
そして、その頭にある大きな狐の耳と、腰の後ろで蠢く十の尾が、彼女が人間ではないことを示していた。
全てが幻のように美しいその女性を優希は知っている。先程まで彼女が対峙していた男の『虹色の肋骨』に宿っていた筈のその女性を、彼女は知っている。
彼女は妖狐だ。彼女は殺戮者と呼ばれた破壊者だ。彼女は、紫鬼が命をかけて殺すことを誓った咎人だ。
だからこそ、優希は今目の前で起きていることの異常性が理解できる。
女性が居るのに、そこには一鬼が居ない。亡霊である筈の女性の髪が、風に揺れていた。
最後に優希が見た時、女性の衣服は緑色だった筈なのに、今それは深紅に変化していた。
優希の記憶にある女性の表情は覚悟できていない者のそれだったが、今それは変化していた。
彼女が振り切ろうとした一鬼の姿はそこになく、ただ彼が守ろうとした女性の姿だけがそこにある。
その双眸から溢れ出ている涙が、月明かりによって強調されているのを見つめながら、ただ優希は唖然とした。
「殺戮者……貴様……貴様は―――超越したというのか!! 一鬼を食らって!? 私の……私のたった一人の弟を!! 一鬼を!! 貴様は食ったのか!?」
「殺したのは貴方よ。私は貴方を許さない。ここで……貴方を……殺す!! 殺してやる!!」
「ふざけるな!! どの口がそれを言うか!! お前さえ居なければ、一鬼は……一鬼は!!」
優希は二人の会話を聞きながら、ただ絶句した。
一鬼が死んだという事実を、嘘だと思いたかった。碧が一鬼を食ったという事実を、まやかしだと否定したかった。
だが、否定できない。紫鬼がそれを認めている已上、それは真実なのだ。事実なのだ。
優希はこみ上げる吐き気に耐えられず、その場で吐いた。ただ吐き続けた。
己が殺そうとした男の死を告げられた時、己の中で生じた恐怖と孤独感の意味を彼女は理解できない。
その頬を流れる熱いものが涙であることは理解できても、それを流させる原因が何かを、彼女は理解できない。
今目の前で深い怨恨が根ざした二人の超越者がぶつかろうとしている。
一鬼の生死がそこに関係しているのだとは理解できても、彼女には何故二人がそこまで一鬼を大事にしていたのかを理解できない。
いつも優希は感情を麻痺させて生きてきた。それが正しいと信じて生きて来た。
だが、ならば今彼女を襲っている深い絶望感と孤独感はいったい何なのだろうか?
誰よりも強くその存在を示し、誰よりも彼女を傷つけた男の死が、何故こんなにも辛いのだろうか?
彼女には理解できない……ただ、苦しいことしか分からない。一鬼が関わると、彼女が選んだ道が間違っていると否定されることしか、理解できない。
だから、彼女はただ行き場のない感情を涙に変え、その場で二人の行く末を見ていることしかできなかった。
「しきぃぃぃぃいいいいいい!!!」
「もはや、容赦はしない!!」
そんな彼女を無視して、二人の超越者は互いの断罪の為、そして贖罪の為に今―――ぶつかる。




