第二十三話
碧にとって、一鬼は光だ。
守るべき一族を失い、残された唯一の生き残りである妹……白雪すらも殺そうとしている彼女にとって、彼は唯一の生きる希望であった。
一度命を失い、二度目の生を『虹色の肋骨』として受けた時、彼女は内心歓喜していたのをよく覚えている。
ただの二度目の生ならばそのような感情は抱くことはなかっただろうが、彼女は彼の肋骨に宿ったのだ。
そう、彼女は一鬼の傍でやり直す機会を与えられた……それも、超越者の邪魔が入らない状態で。
紫鬼もカナリーも白雪も居ない……そこには彼女を止める者が居なかった。
実体化できなかった彼女は、ただ彼の日常を眺めることしかできなかったが、それでも十分に幸せだった。
だが、そんな安らぎの時間もすぐに終わりを迎えてしまう。
碧が実体化できるようになる少し前に、他の妖達が目覚め、遂には紫鬼が目覚めた。
実の処、彼女は紫鬼が目覚めたのを知った時酷く恐怖したのだが、それを一鬼に見せたことはない。
いつ彼との大切な時間が失われるか不安で仕方なかったものの、それを隠し続けた。
ゆっくりと一鬼との関係を再構築したかった彼女は、ただ耐えるしかなかったのだ。
「一鬼……」
一鬼の名を呼び、その胸の縋り、ただただ愛に包まれながら碧は微笑む。
今まで我慢してきた欲望を解き放ち、隠していた弱さを打ち明け、ただただ依存する。
一鬼は彼女の弱さを受け入れた。罪も、何もかもを受け入れて、その上で一緒に居ようと言ってくれた。
だから彼女はただ甘え、求め、依存する……求め続けた光を、迷うことなく貪るのだ。
今まで重ねに重ねた我慢がより一層依存を強め、感動を生むのを彼女は自覚できる。
戦士からただの依存する女に成り下がることに躊躇はなかった。
碧は、ただ光に縋り続けることを許されたのならば、他のものなどどうでも良い。
それが隠しようのない彼女の本音であり、一鬼が彼女を戦士として尊敬できなくなった一因でもある。
彼女は九尾を目指すことすら放り投げ、ただただ甘えることを望む。
仮初の願いでしかなかった、九尾への到達を放り投げ、ただただ愛を強請る。
そして、同時にその奥底で燃え盛る嫉妬の炎が碧に力を与えていた。
紫鬼達超越者はこんなにも強く、美しく、優しい光と彼女を触れ合わせておいて、資格がないと一蹴したのだ。
白雪は、こんなにも愛しい存在に触れる資格を持っていたのだ。母の愛も、遊ぶという喜びも知っていたのだ。
彼女は母の愛も、遊びも知らなかった。光と触れ合うことで初めて愛を知り、己の本当の願いを知った。
その光が今己を受け入れてくれた……それだけで、彼女は幸せだった。
「……っ!」
「―――! 愛梨!! ブルー・シャーマン!!」
しかし、それもすぐに終わりを迎えてしまう。
ブルー・シャーマンと愛梨の気配が消えたのを碧と一鬼は感じ、それと同時に一鬼は駆け出した。
彼女はそれを妨げないように渋々彼から離れると、その後に続く。
本当は、彼女にとってブルー・シャーマン達などどうでも良かった。ただ、目の前の男に依存することさえできれば、それで良かった。
しかし、無視できない要素がそこにはある……無視すれば、全てを失いかねない気配が、そこに居る。
ブルー・シャーマンと愛梨の気配が消えたのと同じくして現れた気配の正体を彼女は知っている。
一鬼もその正体を知っている筈だ……何せ、その気配にはかつて彼が抱えていた膨大な怨念が混ざっているのだから。
今の彼では恐らく勝てないだろう……明日になればその力関係は逆転するが、果たしてそれを相手が許すだろうか?
否、絶対に許さないだろう……明日になれば、彼に手を出せる者は居なくなってしまう。
明日、一鬼が完全に空の超越者として再生してしまえば、あの紫鬼でさえももう手が出せない。
況してや紛い物の超越者などでは、もはや手を出す以前の問題なのだ。
だからこそ、今日が光を手に入れる最後のチャンスであり、虹色肋骨を仕込んだ者は必ず今日動く。
そう……白雪は、今日動くしかない。
愛梨とブルー・シャーマンの気配が消えたという事実に、一鬼は混乱していた。
しかし、当然と言えば当然なのだ……愛梨の体力はもう限界で、消耗が激し過ぎるブルー・シャーマンを実体化させることは、今日はもうできない。
その状態は明らかに無防備そのもので、ブルー・シャーマンを葬るのには都合が良過ぎるくらいだ。
ブルー・シャーマンとまともに戦って勝てるのは、恐らく紫鬼くらいしか居ないだろう。
だが、まともに戦う必要など最初からないのだ。
ブルー・シャーマンが怖ければ、絶対に出てこられない状況で宿主を殺せば良い。
そして、今この瞬間誰かがそれを実行した……彼が愛梨達と分かれて十分も経っていない今。
少なくとも、それを為したのが紫鬼ではないことは明らかだ……あの圧倒的な気配は今は無い。
だとすれば、答えは一つしかない……白雪が殺したのだ。
彼らに虹色肋骨を移植した犯人が、愛梨を殺したのだ。
そう考えるだけで、彼の中で燃え盛っていた白雪への怒りは更に燃え上がり、彼の体から虹色の炎が漏れ始める。
「……っ」
すぐに愛梨達の気配が消えた場所に辿り着いた一鬼は、そこで地面に横たわる血塗れの愛梨を見つけた。
その白い肌に赤い線を生み出している裂傷と、胸に開いた拳大の風穴が、凄惨さを引き立てている。
一鬼はゆっくりと愛梨の頬に触れ、その冷たさに改めて彼女の死を実感させられた。
認めるしかない。受け入れるしかない……柿坂愛梨は死んだのだ。
愛梨の黄金の眼は瞳孔が完全に開いており、しかし一点をただ睨み続けていた。
その亡骸に残った僅かな怨念がある一点を指しており、そこに一鬼は一つの思いを垣間見る。
愛梨は彼がここに来ることを知っていて、彼女を殺した者への道標を残したのだ。
妖が抱えている怨念は心臓を潰した他の妖が背負うという性質を利用し、彼女は彼に復讐すべき相手の居場所を教えてくれている。
そんな彼女の思いに一鬼は頬を涙が伝うのを感じた。
一矢の死の時は耐えることができた……落ち着くことができるだけの時間があった。
だが、今は無理だ。羽月をその手で殺したばかりの今の彼には、耐えられない。己を律することができない。
溢れだす涙を拭うこともなく、ただ彼は愛梨の亡骸を抱きしめた。
じわりと服を濡らしていく鮮血を気にすることもなく、彼は動かなくなった愛梨に、静かに復讐を誓う。
彼女が遺した怨念は、復讐を願っている……それを理解した彼は、白雪への復讐をより強く決意する。
「……愛梨。済まなかった……俺が甘かった―――俺はあの時、白雪を殺すべきだったんだ。次は、間違えない……お前の望む復讐を、遂げて見せる。そして、お前の怨念をこの心臓に宿そう。それが、俺のお前への愛だ」
「一鬼……」
「何も言うな、碧。この涙は……復讐の決意だ。俺は、割り切る……だが、思いを捨てはしない。誤魔化しはしない。この復讐の炎をぶつけることに戸惑いは無い。俺の罪の半分はお前が、もう半分はあいつが象徴している。既にお前との決着はつけた。後は、最後の罪の象徴との決着だけだ」
一鬼はその肉体を彩る虹色の炎を抑えながら、ゆっくりと立ち上がった。
見開かれた愛梨の眼をそっと閉じ、その場に横たえて膨大な熱の放出で以てその肉体を濡らす血を乾かす。
彼が行った急激な熱の放出に風が生まれ、夕焼けの中を一陣の風が駆け抜けていく。
藍色の髪を揺らしながら、一鬼はその中を歩いていく……愛梨の怨念が向けられた場所へと向かって。
その赤い眼に復讐の決意を込めて、歩みだす。
しかし、碧はそれを遮るように一鬼の前に立ち塞がった。
いかに超越者のなり損ないだったとしても、紫鬼や碧、一鬼の怨念を背負っている白雪は強い。
準超越者と言っても良い程に、その力は強化されている筈だ、
覚醒していない今の一鬼では白雪には勝てないことを、彼女は知っている。
明日になればその力関係も逆転するのだから、明日まで待てば良い。
今夜始まる怨念との戦いの末に、一鬼は完全に空の超越者として再生する。
碧や紫鬼を上回っていた最上の超越者が、明日蘇るのだ。
それまで待てば、確実に彼の復讐は果たせる。逆に言えば、待たなければ彼は恐らく負ける。
そして、その果てにあるのは白雪の望みである筈の光の独占だろう。
それが、碧に一鬼を止めさせる理由だ。
「貴方の気持ちは分かったわ。でも、今はダメ。それは明日まで……貴方が覚醒するまで待って」
「駄目だ。今行くしかない……奴は待ってくれない。山吹の気配も同じ場所にある」
「――! まさか……」
「ああ、恐らく奴は美空を人質に取っている。それに……これも、そういう意味なのだろう」
一鬼は近くに落ちていた携帯電話を拾うと、静かにそれを開いた。
彼の持つ携帯電話と同じ旧式である見慣れたそれは、間違いなく美空のものだ。
同時期に買い替えた為か、同機種を色違いで購入したのだが、飾り気のないストラップから見ても間違いない。
彼は最後の確認としてプロフィールを確認したが、表示された『神谷美空』という名前から、やはり美空のものだと断定する。
何故このようなものがここに落ちているのかは、推して知るべしと言った処であろう。
半径百メートルから、一気に数十キロにまで広がった一鬼の感知範囲の中で、白雪と山吹の気配が同じ場所にあるのは、偶然か?
ただの偶然であるならば、それで良い。それが最も安全で、救いのある選択肢だ。
しかし、不意に美空の携帯電話に届いたメールは、そんな僅かな可能性も吹き飛ばす。
「題名白雪……六時までに会いに来い、か。添付画像は……やはり美空だな」
「……やけに落ち着いているわね? 貴方が何よりも守ろうとしている子なのでしょう?」
「確かにそうだ……だから、奴のお望み通り不完全なままで赴いてやるとも。今の俺達では叶わないことを知ってのことだろう。だから、容赦はしない」
「容赦しないとは言っても、どうするつもり?」
「すぐに分かる……」
一鬼は自分の携帯電話を開くと、とある人物にメールを送った。
彼だけでは勝てないかもしれないが、彼は一人ではない……態々一人で行く必要はないのだ。
彼の思惑を掴みかねている碧の肩にそっと手を置いて退かせると、彼は一気に空を駆けあがる。
愛梨の亡骸がある場所を振り返りはしない……その事実を受け入れ、ただ過去にしていく。
彼女の死に流した涙は偽りではない。決意した復讐はまやかしではない。彼女への愛も嘘ではない。
一鬼はこれからそれを証明してみせる……復讐という形で。
愛梨が望んだのは、本当は復讐などではないかもしれない……だが、それでも構わなかった。
彼はただ己の復讐を遂げる為にこれから白雪と会う。美空を守る為ではなく、己の復讐心から白雪を殺す。
守護者として育てられた彼であったが、人間としての最後の決着は破壊者としてつける。
復讐と贖罪と守護をごちゃ混ぜにするのではなく、ただ復讐の為に動く。
それで以て、彼は人間としての己に決着をつけるのだ。
美空が目を覚ました時、最初に視界に広がったのは真っ白な天井だった。
最初いったい何が起きたのか理解できないでいた彼女だったが、瞬間、鼻腔を刺激する消毒液の匂いから、すぐに自分が病院で倒れたことを思い出す。
彼女は己が清潔なベッドで寝かされていたことに気付くと、ゆっくりと起き上がった。
辺りを見渡せば、一面真っ白で、床までも真っ白な、異常に白い部屋であることが分かる。
窓越しに見える空は既に茜色を通り越して藍色に染まり始めており、もうすぐ夜が来ることを示していた。
「……あれ?」
そこに至って、美空は漸く己の腕に嵌められた銀色の枷に気付く。
見た目から漂う重量感に相応しいだけの重さがずしりと彼女の腕を圧迫し、混乱を齎す。
彼女は病院で気絶したのだから、ここは恐らく病院であることは間違いない。
何故このようなものに腕を繋がれているのか、彼女には皆目見当もつかなかった。
ただ、その枷に繋がれた鎖はそのまま壁に埋まっており、彼女の力では抜け出すことは叶いそうもない。
どういう状況なのかは定かではないが、とにかく一鬼や父に連絡を取らねばと、美空は判断した。
しかし、丁度ポケットに入れておいた携帯電話を取り出そうとして、ふとそれがないことに彼女は気付いてしまう。
辺りを見渡しても、彼女の持ち物が纏められている様子はなく、ただ無機質な城が広がっているだけだ。
携帯電話を何処かで落とすなどそうそう考えられないし、まず病院に入った後も所持していたことは確認してある。
ならば、彼女の携帯電話は何処に消えてしまったのだろうか?
「……とにかく、どうにかしないと」
「どうにかできるものなら、してみると良いわ」
「ひぁっ!?」
突然かけられた声に、美空は驚愕した。
驚愕の余り、奇声を上げて声のした方とは反対側に転がってベッドから落ちたのも、慌てたが故だ。
その際に尻餅をついてしまい、痛みを訴えかけてくるそこを撫でながら、彼女は恐る恐る立ち上がった。
先程までは誰も居なかった筈なのに、突然声が聞こえてきたことで彼女は混乱していたのだ。
そして、美空は目撃した……すぐ傍にあった椅子に腰かけている白石銀子の姿を。
絹のように滑らか銀色の長髪が風に揺れ、茜色の光がその白磁のような柔肌にほんのりと赤みを齎す。
組まれた足を覆う黒のストッキングが何とも言えぬ色気を醸し出し、白衣が齎す清潔感と相反している。
ただ、先程までの碧眼とは違い、彼女の眼の色は銀色になっていた。
酷く無機質で、空虚なその銀色の眼は恐ろしいまでに深い闇を内包しており、美空はそこに恐怖を見出してしまう。
しかし、紫鬼と出会った時とは違い、絶対的な死を感じさせる程ではない。
昨夜紫鬼と遭遇した時、美空が感じた絶望感は半端ではなかった……それこそ、希望が一切見えない状態に一気に突き落とされた状態と言えるであろう程に。
それでも、彼女は恐怖する……深紅に染まった右腕を隠しもしない銀子に。
「白石先生?……その腕……」
「ああ、これ? これはね……貴方のお友達の血よ」
「……え?」
「柿坂愛梨……蒼炎の超越者ブルー・シャーマンを宿した半妖。その子を、先程殺してきた処なの」
「先……生……何を言って……?」
鈴がなるような声でそう言い、ころころ笑う銀子の姿に、美空は悪寒を覚えた。
しかし、同時にそんな姿に何処か共感を覚えてしまう己が居ることに彼女は気付く。
柿坂愛梨が死んだ……それは悲しむべきことなのだろうが、しかし彼女はそれに確かに安堵を感じていた。愉悦を感じていた。
まるで、己の所有物にちょっかいをかけた邪魔者を排除したかのような、妙な爽快感が彼女を襲うのだ。
その正体不明の共感を振り払おうとして、美空はいまだに笑う銀子を見据えた。
憎らしい程に美しいその姿は、彼女が意識を失った前よりもより一層美しく見える。
彼女の勘違いなのかもしれないが、体のバランスや一つ一つのパーツの完成度が異常に上がったように見えるのだ。
今まで見ていた姿はぼかしが入っていたものなのではないかと感じさせる程に、その姿は美しい。
だから、彼女は嫉妬する……燃え上がる緑色の炎に己自身も焼かれていく。
「信じられない? ふふ、貴方からも言ってあげて。私が言っていることは全部本当だって」
「……やま、ぶき?」
それを隠しながらも、不意に現れた山吹が銀子の側に居ることに美空は驚く。
彼女の肋骨に宿っている『虹色肋骨』である山吹が、銀子の隣に居て、それが銀子には見えている。
これはいったいどういう状況なのかと、彼女は米神を押さえてその場にへたり込んだ。
この状況が意味していることを理解できない程、彼女は愚かではない。
だが、それを易々と受け入れることができる程彼女の頭は柔軟でもなかった。
「ええ、美空……その子の……白雪の言っていることは本当よ」
「しら……ゆき? 先生の名前は白石銀子なんじゃぁ?」
「それはただの一人の人間の名前……妖としての私の名前は、白雪よ」
「――!?……妖……狐……?」
柔らかな笑みを浮かべていた銀子……否、白雪の頭に不意に変化が現れる。
頭頂部分に二つの盛り上がりが生まれ、やがて二つの大きな狐の耳がそこに現れたのだ。
同時に、その腰から現れた複数の狐の尾に、内心どんな服の構造をしているのか気になりながら、彼女はその尾の数を無意識に数えた。
一、二、三、四、五、六、七、八……合計九本の尾が、その腰から現れたのを彼女は認識する。
そして、そこで彼女はふと気づいた……碧ですらも尾の数は八本だと言っていたことに。一本の差が十倍の力の差を生むといっていたことに。
今目の前に居る女性……白雪がいったいどれだけの力を持つのかを、その九つの尾は如実に表していた。
「驚くのも無理はないわね。かつて最強と謳われた姉ですら、八尾が限界だった……だというのに、私はそれを超えた妖狐の悲願、九尾に達している。貴方なら、私の力の巨大さは分かるでしょう?」
「そん……な……それじゃあ、貴方が……碧さんの言っていた……」
「ええ、私が殺戮者碧の妹、白雪よ。一鬼の妹さん」
「っ!? 兄さんのことを知って……?」
白雪は柔らかな笑顔のまま、ただ美空の言葉を肯定した。
同時に、一鬼との関係を匂わせる言葉がその口から語られた瞬間、彼女は再び熱に襲われる。
膨大な熱が嫉妬の炎に新たな燃料を投下し、更に激しく燃えあがらせていくのを感じながら、彼女は白雪を見据える。
白石銀子であった時は分からなかったが、今の白雪は確かに碧に良く似ている。
彼女よりも圧倒的に美しく、強いという点においても碧と同じだ。
「ふふ……バックアップは順調のようね。その炎こそが、同類の証よ」
「っ……私を監禁して、どうするつもりなんですか!?」
「貴方には何もしないわ。私はただ……一鬼に会いたいだけ。今日、今すぐにね」
「なら、自分で会いに行けば良いじゃないですか? その方が速いですよ?」
そう、実際問題その方が速いのだ。
同じ妖である白雪は一鬼の気配を感じ取れる上に、彼女が務めていた病院には彼のデータがある。
それは美空も同じで、そこから住所を割り出すことも簡単にできる筈だ。
ならば、このようなことをせずとも、直接会いに行く方が圧倒的に簡単であろう。
勿論、自分から訪ねることができない何かしらの理由があるのならば話は別だ。
「それができれば苦労はしないわ。超越者が闊歩するあの場所に自ら踏み込むなんて、できる筈がないじゃない」
「?……どうしてですか? 貴方は、過去にいったい何を……?」
「それは、貴方には関係のないことよ。機会があれば、知って貰うことになるかもしれないけれど」
「……山吹」
「ごめんなさいね、美空。でも、白雪には貴方のお兄さんが必要なの。貴方のお兄さんにも、白雪が必要なの」
申し訳なさそうにしながらも、山吹は意味深な言葉を紡ぐ。
白雪が一鬼を必要としているのは、白雪自身の言葉から用意に理解できる。
だが、その逆がどうして成り立つのかが美空には分からなかった……いったい白雪の何が一鬼に必要なのかが、まるで見えてこないのだ。
一鬼は確かに妖なのだろう。彼女とは血が繋がっていない別の存在なのだろう。
しかし、白雪が彼に必要とされる理由はそこに存在しない。
美空にとって一鬼は必要な存在だ。
彼は彼女の精神的な支えであり、今まで何度も彼女は彼に助けられてきた。
どんな苦しい時でも、彼女がその場に座り込んでしまっても、最後は彼が手を差し伸べてくれて、全てを解決してくれる。
美空は彼に依存している……それは否定しようがない事実であり、幼い頃から甘やかされた彼女は、その優しいループから抜ける強さを持たない。
彼女には、彼を必要とする明確な理由がある。
だが、一鬼が白雪を必要する要素など何処にもない……その筈なのだ。
「取りあえず、私の要件はそれだけよ。安心して……貴方に危害を加える気はないから」
「……監禁しておいて、そんなことを言われても信じられません」
「そうでしょうね。今日全てが成功すれば、貴方は晴れて自由よ……それ以降、私は貴方に以後二度と関わらないことを、この心臓にかけて誓うわ」
「心臓にかけて……?」
「そう。妖の世界における、絶対の誓い……それがこの心臓の誓い。破れば、文字通り心臓で以て償う、遵守すべき誓いよ。妖の長い歴史の中でこの誓いに背いた者は、過去に片手で数えられる程しか居ないわ」
白雪の言葉から嘘は感じられない……しかし、美空にはそれを真実だと断定できる程の経験も自信もなかった。
一鬼ならば、その赤い眼で以て簡単にそれが事実か否かを見極めただろうが、彼女は彼のようにはなれない。
何処まで行っても、常に彼は彼女の遥か先を行き、絶対に彼女は追いつけないのだ。
特に、虚実を見抜くという点に関して彼は他の追随を許さない程に優秀だった。
その点において美空が勝つことはあり得ない。
「……どうやって信じろと?」
「信じて貰う必要はないわ。私はただ言うべきことを言った……それだけのことだもの。山吹、後はお願い。一鬼がこちらに来ているわ……出迎えてあげないと」
「ええ、任せて」
「それじゃあ、一鬼の妹さん……また会うことがないのを祈っているわ」
「……?」
美空は白雪の言葉の真意を理解できずに、ただ沈黙で以てそれを受け流す。
そんな彼女に呆れとも寂しさともとれる表情を向けると、そのまま白雪はそこから消えた。
文字通り、その場所から跡形もなく消えたのだ……瞬きすらしていなかったと美空に気付かれずに、一瞬で。
目の前で起きたことにただ唖然としていた美空だったが、すぐに気を取り直して山吹の方を見た。
山吹は困り顔でそれに応えるが、何処か躊躇いの見えるその表情に、美空は違和感を見出す。
山吹が白雪に協力しているのは間違いない筈なのだが、今の様子はどうにも躊躇いが垣間見えるのだ。
今まで美空に白雪のことを黙っていたことなどを考慮すれば、それが演技である可能性も否定はできない。
だが、そのような演技をする必要は何故あるのかが彼女には理解できなかった。
何もかもが分からないことだらけで、美空は思わず苦笑しながら、山吹に語り掛けた。
「山吹、貴方は……最初からあのひとの仲間だったの?」
「……ええ。私と白雪は死ぬ前は同僚だったの。貴方は知らなかったかもしれないけれど、私も今日貴方が行った病院に勤めていたのよ」
「!……だから……」
「そう。だから、私はああして病院を懐かしそうに見ていた訳。実際一年も経てば懐かしく感じるわ」
美空が病院に行った時、確かに山吹は懐かしそうにしていた。
だが、それだけでこのような事態を予測するのは彼女にはできないし、一鬼でも難しいだろう。
勿論、彼ならば山吹があの病院に勤めていた可能性くらいにはすぐに気付いただろうが、流石に白雪との繋がりには気付けない筈だ。
もしも気付けてしまうようならば、本当に彼は超越者と言える存在なのだろう。
しかし、その超越者を名乗るブルー・シャーマンや紫鬼を出し抜いて白雪はどうやって一鬼を手に入れるつもりなのだろうか?
超越者と名乗るだけあって、彼らの洞察力や戦闘能力はまさしく理を捻じ曲げている。
美空はブルー・シャーマンの能力を詳しくは知らないが、ミサイルを触れることなく燃やして灰にしてしまったのは目撃した。
紫鬼に至っては、一鬼や碧がまるで反応できず、美空も紫鬼が動いたことにすら気付けない程だったのだ。
そんな彼らを出し抜くには、それ相応の準備が必要になる。
いったい白雪はどのような準備をしているのか……それが彼女には気になった。
「でも……そんな色の髪の毛をして、働けるの?」
「流石に働いている間は色を変えていたわよ。白雪の場合は、あの色の方が良いわ。黒だと重いのよ……あの子は」
「重いって……いったいどうしてあのひとは兄さんを?」
「目的なんて貴方や碧と同じよ。貴方のお兄さんを独占する……それが全てね。超越者の手が届かない場所で、確実に独占したいのよ……あの子は」
「……碧さんや白雪さんが、私と同じ? それってどういうこと?」
美空は山吹の言葉に納得できず、山吹に問うた。
その問いに答える義務など無い筈なのに、山吹は戸惑いながらもそれに応えていく。
良く見れば、その表情には何処か終末を身近に感じている者独特の悟りに誓いものがある。
最後の身辺整理でも始めそうなその表情に違和感を覚えながらも、彼女はただ答えを待つことにした。
どうせ彼女には、腕に繋がれた鎖を取り外す術などないのだから、待つことくらいしかできない。
今美空を支えているのは、こんな訳の分からない状況でも一鬼が助けに来てくれるという期待があってこそだ。
いつだって彼はどんな苦痛も乗り越えて、彼女を助けてくれた。守ってくれた。
その繰り返しによって、彼に依存することに味を占めてしまった彼女は自分では羽ばたけない。
常に彼女を導き、助けてくれる一鬼が居るのだから、自分で飛ぶ必要がなかったのだ。
今の彼女もまさにその状態で、今か今かと一鬼の到着を待つことしかできない。
少し前までは、一鬼に依存することをそろそろ止めなければと考えたことも、彼女にはあった。
正直な話、彼女は今もそれについて悩んでおり、明確な答えは出せていないという体たらくだ。
しかし、一つだけはっきりしていることがある……彼女には、彼に依存することを止めることはできない。
今も内心彼の助けを期待し、己の力で解決することを放棄している。
確かに力は足りないかもしれないが、それでも挑もうとする気概は彼女にはない。
だから、彼女は愛梨のようにはなれないのだ……どんなに弱くても挑もうとした、一鬼の惹かれた女性のようには。
「美空……貴方とあの二人は酷く似ているわ。皆、同じ男に依存している。同じ男に愛されたいと思っている。独占したいと思っている」
「そんな……ことは……」
「あるのよ、これが。私が名前を呼べないあのひとは、貴方達の心を掴んで離さない……強欲な妖狐は、それに抗えない。ずぶずぶと深みに嵌っていくことしか、あの二人にはできないの。貴方と同じ、依存者よ……あの二人は」
山吹の言葉に、美空は思わずぎょっとした。
彼女の本性が山吹に露見したことにも驚いてはいるが、問題はそこではない。
彼女よりも遥かに強い碧や白雪の本性が、彼女と同じ依存者であると告げられて驚いているのだ。
それを見抜けなかった己に対して悔いるようなことはないが、それでも彼女はその片鱗を少しも見せなかった碧達に一種の尊敬すら感じる。
実の処、一鬼にはその大部分が露見していたのだが、兄の傍に常に居る訳ではない彼女はそれを知らない。
碧の捨てられることへの怯えや彼への期待、媚びが何度も一鬼をイラつかせ、その拳を握らせたことを彼女は知らないのだ。
ただの人間として育てられた美空とは違い、一鬼は明と夜空から守護者としての精神を教育され、敬吾と共に様々な殺人事件捜査に関わって来た。
それらの経験から構築された圧倒的な精神力は、揺らぐことはあっても壊れることはない。
麻痺することで痛みから逃げるようなことなく、ただそのまま受け止める強さを一鬼は持っている。
その名前に込められた願いを美空は知らないが、彼はまさしく願い通りに鬼になったのだ。
昔から一度も泣かずに、彼はその強さを発揮し続けた……そして、それが優希や愛梨を変えた。
きっと、彼が泣く時があったとすれば、それは己の無力さを痛感した時だけだろうと彼女は容易に想像できる。
そんな彼だからこそ、彼女は依存することを止められない。
彼が壊れてしまう未来が見えないからこそ、安心して依存してしまう。
「私は……でも……何らかの形で応えたいと思って……」
「それで、貴方はそれに応えたの?」
「う……それ……は……」
「私は責めている訳ではないわ。元々部外者である私が口を出すことではないもの。だけど、これだけは言わせて……貴方も白雪も碧も、本質は変わらない。一つの光に全てを捧げ、全てを独占することでしか生きていけない、屑よ」
「う……あ……」
「その屑に率先して協力している私も屑であることに変わりはないけれど、ね」
白雪の仲間とは思えない程に、山吹は酷く白雪や美空のことを屑だと断ずる。
それに、改めて己の救いようのない愚かさを実感させられる美空だったが、しかしそれでも彼女は変わらない。
碧がそうだったように、彼女は悔い改めたつもりでいても、その実少しも変化できていないのだ。
彼女達は変わろうとしても変われない……死ぬまで、そのままだろう。
一鬼はそんな彼女達でも、その立場が故に受け入れた……受け入れてしまった。
碧を、超越者の資格を持っていた白雪の姉であったが故に、破滅しか道がなかった彼女の未来を変えようとした。
白雪を、超越者の資格を持っていたが故に、碧、紫鬼、そして己自身の怨念に押し潰されないように守った。
美空を、両親の血肉を受け継いだ子であったが故に、十七年間の間守り続けた。
その内の碧と美空は、ほんの少し立場が違えば一鬼に受け入れられることは無かった者達ばかりだ。
白雪は超越者の資格を持っていたが故に、碧が暴走しなければそのまま受け入れられていた。
だが、そうではない碧は、白雪の姉でなければ一鬼に選ばれることもなかっただろう。
美空は、両親が明と夜空であったからこそ守られたが、別の家に生まれていたならば……更に言えば、明と夜空が一鬼を愛していなかったならば、彼に守られることはなかった筈だ。
歪なのは碧と美空であり、元来は白雪だけが受け入れられる権利があった。
だというのに、現状は違う……碧と美空よりも、白雪は遥かに出遅れている。
「私も分かってはいるの。こんな……千人以上の死者を出すのはおかしいって。妖の全てを滅ぼすなんて間違っていたって。でもね……私はそれでも、あの子にまともになって欲しいの。眠ることのできないあの子に、もう一度それを教えたいの」
「眠ることが……できない?」
「ええ、あの子は二百年前、紫の超越者、碧、そして貴方のお兄さんの怨念を一身に受けたわ。私達下級妖ならば、一瞬で精神崩壊して死ぬような、世界そのものと言える程の怨念をね。それを救ったのが貴方のお兄さんだった……あの子は彼のお蔭で崩壊を免れた。でも……」
「……十九年前、それが終わったっていうこと?」
「そうよ。全てが終わった後、貴方のお父さんに尋ねてみなさい……あの子と彼を引き離した張本人、神谷明に」
忌々しげに明の名を呼ぶ山吹に、美空は一つの核心を得た。
やはりと言うべきか、彼女と一鬼は血の繋がった兄妹ではない上に、種そのものが違うのだ。
分かっていたことではあるが、改めて実感した今彼女の心は何とも言えない寂しさと嬉しさに襲われた。
前者は、血の繋がっていないことが確定したことへのもので、後者はそれが齎すしがらみの排除に対してだ。
血の繋がりがないのならば、背徳に苦しむことなく美空は一鬼に依存できる。
書類上は兄妹かもしれないが、そのようなものなど彼女にはどうでも良かった……彼女が彼を貪ることが禁忌ではないことが重要なのだ。
浅ましいことではあるが、彼女はそういうことを真っ先に考えてしまう女だった。
実の兄妹でなかったとしても、心は繋がっていると一鬼に言っておいて、本心では彼を貪ることへの障害が一つ消えたことに歓喜するような、そんな浅ましい女なのだ。
同じ素地を持ちながらも、ブルー・シャーマンや一鬼の支えを経て『強い弱者』になった愛梨とは比べるべくもない程に、彼女は惰弱だった。
「……ねぇ、どうして山吹はこんなことを話してくれるの? 答える義務なんてないんだから、黙殺すれば良いのに」
「私はね……貴方は全てを知るべきだと思っているわ。これからきっと、私達は失敗する。昨夜遭遇して実感したわ。あれは……紫の妖は、私達がどうこうできる相手じゃない。次元が違い過ぎる……私達ではまともに戦うことすらできないわ。例え白雪でも、絶対に勝てない」
「……うん。私も……そう思う」
紫鬼と遭遇した時の絶望感を思い出して、美空は神妙な表情と共に山吹に同意した。
あの妖は何もかもが圧倒的過ぎて、いくら碧達でも勝てるヴィジョンなど浮かびようもない。
ブルー・シャーマンに対してですら恐ろしい恐怖を感じた美空だったが、紫鬼に対して感じた恐怖はそれすらも凌駕している。
あの二人の超越者は間違いなく倒せない……白雪の強さは彼女には分からないが、少なくとも正攻法では無理だと理解できてしまう。
先程白雪は愛梨を殺したと言った……つまり、ブルー・シャーマンを直接は倒せていないのだ。
宿主という足枷を嵌めることで、初めて白雪はブルー・シャーマンの上を行けたのだろう
しかも、愛梨は直前まで一鬼の過去を探る為にブルー・シャーマンの力を与え続けていた。
ブルー・シャーマンを実体化させることすらできない程の、まさしく満身創痍の状態を奇襲するくらいでしか、あの蒼炎の超越者の上前を撥ねることはできない。
それ以上の紫の超越者相手では、それこそ絶望的だろう。
「だから、貴方は三人目の依存者としてではなく、別の生き方を模索しなさい。超越者達のような呆れる程の強さは望まないわ。だけど……依存することしかできない、あの二人のようにはならないで」
「山吹……」
「私が言いたいことはそれだけよ。全てが終わった時、貴方は解放されるわ……だから、安心して。私達に貴方を殺すつもりなんて、最初からないのよ」
「……えっ?」
「白雪は、ただ貴方のお兄さんの傍に居たいだけなの。本当は、私が別の方法を教えあげるべきだった。あのひとの強さを信じてと、言い聞かせるべきだった。でも、それはできなかったわ……私は、弱かった」
まるで懺悔をするように語り始める山吹に対して、美空は混乱する。
突然白雪と協力していたと言われ、突然自分達の弱さを指摘され、最後は懺悔まで始めた山吹に、彼女はついていけない。
自分だけ置いてけぼりを食らったような気分で、何が起きているのか分からなかった。
状況は変化していくばかりで、彼女がついてくることなど少しも考慮していない。
悲しい程に彼女は疎外されており、これから起こる重要な事柄に立ち会えない。
これから、『虹色の肋骨』を七人の人妖に移植した張本人と、空の超越者が相対するのだ。
千人以上の死者を出すことになった一連の事件の元凶である妖狐と、それを一度は受け入れた者が対峙するのだ。
片や依存する為の存在を手に入れる為に、片や仲間達の命を奪う切掛けを生み出した者への復讐の為に、ここで向かい合う。
これからの未来を考える者と、これまでの過去に決着をつける者が、ぶつかる。
そんなことも知らぬまま、ただ美空は一鬼の到着を待ち続けるのだ。
「私が教えるべきだった。向かい合わせるべきだった……拒絶されることを恐れて、こんな形でしか動けないあの子に、あのひとと向き合えと言うべきだった。それだけの度量があることは、すぐに分かったの。貴方のお兄さんなら、きっとあの子を受け入れてくれたわ……そうでしょう?」
「……うん。兄さんなら、自分の信念に反しなければ受け入れてくれると思う。私みたいな地雷でも愛してくれる」
「だから、私はそれをあの子に言い聞かせるべきだった。でも、できなかった……その報いを私はもうすぐ受け……る……わ……」
「……えっ?」
美空は、突然声がくぐもった山吹に対して違和感を見出し、次の瞬間驚愕の余り思わず目を見開いた。
それと同時に、体を震わせながら山吹もその異常の元をゆっくりと見据える。
二人の視線が釘付けになっている部分……山吹の胸部に大穴が開き、彼女の胴体を貫通していた。
何が起きたのか理解できない両者を置き去りに、その風穴から吹き出した血が二人を濡らしていく。
世界と触れ合うことのできない『虹色の肋骨』の血は部屋には何の影響も及ぼさないが、宿主である美空を真っ赤に染め上げる。
勿論、その鮮血に触れることも、視認することも、宿主か妖にしかできはしない。
そう……宿主か妖でなければ山吹に触れるどころか、視認さえできない筈なのだ。
だというのに、今美空の眼の前で山吹は血を吹き出して死に向かっている……それが彼女には理解し難かった。
しかし、それもすぐに分かった……次の瞬間襲い掛かって来た圧倒的な存在感と絶望感が、その正体を教えてくれる。
そう、部屋の角で仁王立ちしているそれは……静かに握っていた心臓を握りつぶすと、その紫電の眼を彼女に向けた。
瞬間、正気を失いそうな程の恐怖が美空を襲い、彼女は失禁を禁じ得ない程の絶望感に襲われる。
目の前の存在から逃げることはできず、立ち向かっても死しか未来はない。
まさしく絶望的なまでに次元が違う存在を前に、彼女は恐怖することしかできなかった。
「……紫……鬼……」
「超越者に挑む弱者よ……詰めが甘かったな。母と同じで何も学んでいない。この程度の結界で安心するなと、あの世で白雪に言っておけ」
「は……は……化け……物……ね……ゴフッ!!」
「反応処か気配に気付くことすらできないとは……随分と拍子抜けだな。後は……」
「ひっ!?」
大量の吐血と共にそのまま消えていく山吹から眼を離し、それ――紫鬼は美空を見た。
その体から放たれるあり得ない程に濃縮された怨念が空気を浸食し、美空の精神を飲み込んでいく。
昨夜は一鬼が傍に居たからこそ、彼女も恐怖に耐えることができた。
だが、今彼はここに居ない……彼女の傍に居ない。守ってくれない。
こんな絶望に己で立ち向かう術を美空は知らない。
いつも一鬼が守ってくれた為に、彼女は自分で何かを為すことができなくなっていた。
勉強などはできるが、そういった表面だけのものではなく、精神的に何かを為せないのだ。
普通の世界で生きていくには問題ない程度の能力はあるが、彼女が今居るここは残念ながら普通の世界ではない。
困難にぶつかる度に一鬼に縋っていた彼女では、この絶望に立ち向かえない。
呼吸が苦しくなり、意識が遠のいていくのを自覚しながら、美空は紫鬼を見る。
微動だにせずに彼女を見下ろすその長身は一鬼の身長百八十四センチを上回り、百九十を超える程だ。
そして、その全身を覆う皮の鎧を内側から押し上げる筋肉は、一鬼と同等かそれ以上に発達している。
それも無駄に大きいのではなく、戦闘の結果自然についた戦う為の筋肉だ。
その威圧感に違わぬ容姿と共に、紫鬼は口を開き……告げる。
「……そのまま寝ていろ。すぐに終わる」
そして、次の瞬間彼女の意識は途絶えた。
一鬼が生まれ育った町には二つの山がある……放り出された廃病院がある山と、昨夜数十のミサイルが撃ちあげられた山だ。
前者は町の南に、後者は北に位置しており、その内の片方に先日のインディゴとの戦闘で戦闘機が衝突した。
インディゴが紫鬼に殺されたであろう場所もそこであり、現在は警察がそこを封鎖している筈だ。
何せ、空に高く打ち上げられた数十のミサイルが放たれた場所なのだから、無理もない。
まだインディゴによってこの町が滅茶苦茶にされてから、一日も経っていないのだ。
勿論町全てが滅茶苦茶にされた訳ではないが、一鬼達とインディゴがぶつかった場所の被害は甚大だ。
死者は少ないが、破壊された建物の数は恐らく数十は下らないだろう。
そんな被害を齎した藍色の妖の死に場所は、現在一鬼が居る場所ではない、もう一つの山だ。
「……ここに……奴が……」
一鬼は廃病院を前に、静かに拳を握りしめる。
かつて病院だったこの廃墟は、十九年前までは使用されていたらしいが、ある日を境に使われなくなった。
何でも、十九年前に突然多数のスタッフが原因不明の突然死によって死亡したそうだ。
当時、この病院に勤めていた者達は皆口を揃えて亡霊だの何だのと言っているらしいが、真意は定かではない。
だが、一鬼には分かる……今彼の前にある病院だったそこで何が起きたのかが。
その赤い眼がこの場所に渦巻く怨念を捉え、行き場の無いそれらを心臓に導いていく。
既に膨大な怨念を抱えている状態でこれ以上抱えようとするのは危険な行為ではあるが、しかし避けては通れない。
彼の持つ光は……子守唄は怨念を己がものとし、浄化する為にあるのだ。
今はまだ確信は持てないが、一鬼は己が生まれた理由を悟りつつあった。
怨念とは、死者のみが遺すものではないが、しかし死者がより強いそれを残すのは事実だ。
俗に言う地縛霊や悪例などは、まさしくその怨念が精神を圧迫している状態に相当する。
人間は怨念に対して脆弱で、すぐに壊れてしまう……ここに渦巻く怨念が、彼らを殺したのだ。
そして、その元凶となったのは間違いなく妖だろう。
「……一鬼。この場所は……人間達の怨念が渦巻いているわ。行き場の無い怨念が……光を求めているのよ」
「ああ、分かっている。だから、俺は……それを受け止めよう。恐らくは、それが俺の存在理由だ。この身は、全ての怨念を背負い、それらを救う為にあるんだ」
「?……一……鬼?」
「理解する必要はない。お前は知らなくて良い……これは、超越者だけに理解できることなのだろう」
一鬼は寂しげな笑みを浮かべると、そのまま奥へと進む。
その最中も辺りに漂う怨念は救いを求めて彼の心臓へと向かい、受け入れられていく。
悲しい程に膨大な彼の器は、それらを容易く受け入れて己が一部としてしまう。
二百年前の事件で一度は掻き消えてしまった子守唄は、遂に今日蘇って怨念を呼び集め始めているのだ。
そんな一鬼を不安げに見守る碧だが、同時にその頼もしさに歓喜してもいた。
彼の生態が他者の救いになることには嫉妬を禁じ得ない彼女だが、こんなにも逞しくなった彼の姿にドキリとしてしまう。
再びふつふつと湧き出す欲望を抑えながらも、彼女はこれから対峙する妹のことを考えた。
きっと、今の彼の姿を見れば彼女の妹も歓喜するだろう……それ程に、今の彼は強い。
まだ白雪に強さでは叶わないが、その精神力はとうの昔に彼女達を超えていた。
「この病院は恐らく妖が潰したのだろうが……白雪か?」
「……その可能性は十二分にあるわ」
「だが、ここが潰れたのは十九年前……つまり俺も既にこの町に居た頃の話だ。その時俺に気付けなかったのか?」
「……確かに妙ね」
「それは、貴方が人間に完全に擬態していたからよ、一鬼」
「「――!」」
不意に聞こえて来た第三者の声に、一鬼と碧は素早く身構えた。
聞こえて来たのは初めて聞く女性の声であり、この場所でそれが誰かなどと聞くのは野暮だ。
案の定、彼らの前に現れたのは白い長髪をなびかせている女性で、しかもその耳には狐の耳が、腰には九つの尻尾がある。
その身から溢れ出す膨大な怨念も相まって、今彼らの目の前に居るのが白雪ではない可能性は消えた。
何よりも、一鬼が今感じているものは、彼が紫鬼やブルー・シャーマンに対して感じたものに酷似している。
そう、酷似ているのだが……それではないのだ。贋作がどんなに本物を模倣しても、それそのものにはなれないのと同じで、彼女は決定的に何かが欠けていた。
言うなれば、超越者である筈なのにそうではない、準超越者とでも言えば良いのだろうか。
今の彼女は超越者に近いがそうではない……それが一鬼にははっきりと分かってしまう。
彼女の体から漏れだす怨念が、ゆっくりと彼の子守唄に引き寄せられて吸い上げられていくことからも、それが分かる。
彼が紫鬼やブルー・シャーマンと出会った時、彼らの怨念は微動だにしなかった。
彼ら超越者は完全に怨念を己に固定できていた……背負いきれていた。
しかし、今彼の目の前に居る妖狐にはそれができていない。
「ようこそ、一鬼、姉さん……私の居城へ」
「白雪……」
「久しぶり……いや、初めましてと言うべきか。白雪……漸く会えたな」
「ええ、漸く会えたわ……一鬼。姉さんも、今まで一鬼を守ってくれてありがとう」
「……なんですって?」
白雪の言葉が意味することを理解できずに、碧は思わずそう尋ねた。
妹の言葉は文字通り受け止めるのならばただの感謝でしかないが、それだけではないと彼女は直感的に感じたのだ。
そして、その言葉に込められたもう一つの意味に、既に一鬼は気付いていた。
だからこそ、彼はその表情を険しくして白雪を睨んだ。
今この瞬間も、白雪が抱えている怨念は他の怨念と共に少しずつ一鬼へと吸収されている。
元来彼が抱えていた怨念が、抱えてくれない偽りの宿主ではなく、本来の持ち主に戻っているのだ。
着実に二百年前に戻りつつある彼の怨念の量はもはや、二週間前の何億倍とも言える程のものである。
たった二週間で彼はここまで来た……それが可能な能力を持っていた。
「碧……こいつは、お前はもう用済みだと言いたいようだ。どう思う?」
「……言ってくれる。この十九年間で随分と歪んだわね、白雪」
「そうさせたのは貴方の暴走でしょう……姉さん?」
「……それは否定しないわ」
「当たり前よ。貴方が全ての元凶なのだから、否定して良い筈がないわ。否定できる筈がない」
綺麗な笑顔と声音のまま碧を責めながら、白雪はゆっくりと一鬼達に歩み寄っていく。
その間も絶え間なく彼女の体から怨念は漏れだし、一鬼の心臓が全てを受け止め続けている。
だというのに、彼女の纏う怨念は減少する兆しを見せない。
あり得ない程の量の怨念を背負っている為に、吸収に時間が掛かっているのだ。
まだ一鬼は完全に空の超越者として目覚めた訳ではなく、今は精々八尾よりも数倍強い程度である。
彼は既にその能力を取り戻しつつあるが、酷く弱体化した状態であることは変わらない。
対して、白雪が抱えているのは生前彼が抱えていた怨念に加え、紫鬼と碧のそれも合わさった無限に近い量だ。
それを吸収しきるには、今の彼では時間がかかる。
「先程、十九年前俺のことを認識できなかった理由を、俺が人間に擬態していたからだと言ったな……それは、どういう意味だ?」
「そのままの意味よ。瀕死の状態で私を二百年間守り続けてくれた貴方は、もう限界だった。だから、貴方は十九年前出会った神谷明達と同じ人間に擬態し、それになりきったの。貴方は妖であることを止めて、人間になり切るしかなかった……その結果、貴方は唄を失ったわ。全ての怨念を受け止める唄を……私をあやしてくれる子守唄を」
「俺達七人に『虹色の肋骨』を移植したのも、一年前の事故を引き起こしたのも、全て……この唄の為なのだろう?」
「ええ、そうよ。私は……その唄を待っていた。漸く目覚めてくれたわね……一鬼。空の超越者」
鈴のなるような声で、愛おしげに一鬼に両手を伸ばす白雪に、しかし彼は怒りを抱かざるを得ない。
彼女はそのような目的の為だけに、千人を超える死者を出したのだ。
他にもやりようなどいくらでもあった筈なのに、彼女はよりにもよって最悪の道を選んでしまった。
一鬼の兄貴分であった一矢も、親友であった羽月も、恋人であった愛梨も、皆彼女の為に死んだ。
そして今、彼女は彼の義妹である美空すら巻き込んでいる。
許せる筈が無かった。許す筈が無かった。
「何故だ……何故、このような道しか選べなかった? もしもお前が頼ってきたのならば、間違いなく俺はそれに応えていた。俺の罪と向き合っていた。これは可能性の話ではない……断定しよう。もしもその道を辿ったならば……お前が、全てを話してくれたならば……俺はお前を受け入れていた」
「……そうかもしれないわね。それができれば、どんなに楽だったか。でも、私にはそれができなかった。唄を失った貴方に縋って失ってしまえば、意味がないの。それは結局私を孤独にする」
「いや、孤独ではない筈だ。他の超越者が居た。他の妖達が居た。お前は……いったい何をした?」
「超越者?……あれは私と同じ闇の塊よ。光にはなってくれない。愛してはくれない。妖?……あれはただの有象無象よ。闇にすらならない。傍に居るだけで壊れてしまう。私には……貴方しか居なかった」
もしも、白雪がこのような回りくどい方法を取らずに会いに来たならば、一鬼はそれを受け入れていただろう。
彼には彼女を受け止めるだけの心構えは会った。理由さえ話してくれたならば、その怨念と向き合う覚悟があった。
彼女をそうさせたのも、元はと言えば彼が碧を受け入れたせいなのだ。
もしも、それを明かしてくれたならば、彼はその罪と向き合って、己が命を投げ打ってでも彼女を救う覚悟ができた。
だからこそ、白雪の選択した道がいかに愚かなものなのかを一鬼は理解できる。
七体の妖を七人の人妖に移植し、妖達の間の怨恨を利用して、殺し合いを強いた。
その修羅場をくぐり抜けていく中で、一鬼が飛躍的な再生を果たしたのは確かに覆せない事実であろう。
しかし、それと引き換えに千人を超える死者を出し、それ以上の数の人々に悲しみと恐怖を齎したのも事実。
インディゴの能力によってこの国の信用に揺らぎまで齎したことを考えれば、一鬼としては余計なことをしてくれたとしか言えない。
彼と向き合う覚悟が彼女にあったのならば、怨念を背負うのは彼だけで済んだ。
そう、彼だけが死んでも悲しんでくれる者は明と夜空しか残されていない……彼を愛してくれたのは、両親だけだ。
その二人を悲しませることになるのは彼も辛いが、一体の鬼となって罪と向き合えたならば、それで良かった。
彼は二人の願い通りに鬼になりきれたのだと、誇りを抱いたまま死ねるのだから。
「……だから、他の妖を皆殺しにしたのか? ブルー・シャーマンを奇襲したのか?」
「そうよ。あの蒼炎の超越者は……いいえ、他の超越者達も、私を容易に殺せる力を持っていた。だから、こちらから仕掛けたのよ……ただ一人残って、貴方の代わりにこの世界の怨念を背負い続けた末に疲弊したブルー・シャーマンをね」
「……俺の代わりに、ブルー・シャーマンが?」
「ええ、そうでなければ、あれは私如きでどうかなる者ではなかったわ。他の超越者が何処に行ったのかは、私は知らない。でも、良いの……邪魔さえしなければ、私はそれで。他の妖を殺したのは、力を蓄える為……結果的には、有象無象だけで大した力にはならなかったけれど、戦闘経験は詰めたわ」
「ブルー・シャーマンが……俺のせいで……」
一鬼は、ブルー・シャーマンが白雪に後れを取った理由が己にあるという言葉に、思わず頭を押さえた。
元来超越者は闇であり、同じ闇である怨念を背負うことはできても、浄化することはできない。
だから、彼が生まれたのだ……光として闇を照らし、そこに程度を齎す為に。
ブルー・シャーマンはその役割を、彼の代わりに二百年の間担い続けたということになる。
彼の罪は彼の身の回りだけでなく、ブルー・シャーマンにすら影響を及ぼしていたのだ。
一鬼は紫鬼を死なせ、ブルー・シャーマンも結果的に消滅に追いやってしまった。
彼を守る為に命を投げ出した兄と、その親友であり、彼の代わりに怨念を背負い続けた蒼炎の超越者……その二人に報いる為に、彼は白雪を殺さねばならない。
それがなくても彼は彼女を殺すことを決意していたが、より一層強い決意で以て、罪と向き合うことを決意する。
まさしく一体の鬼として、これから彼は白雪と向き合うのだ。
「お蔭で、あれを永久にこの星から追放できたわ……十五年も経てば、流石にそう簡単には帰ってこられないでしょう」
「……どういうことだ?」
「ブルー・シャーマンは死んでいないわ。いや、正確には殺せなかった……だから、肉体をこの地球から追放したのよ。元々鬼火も殆ど機能しなくなった状態だから、精神を引きはがすのは不可能ではなかったわ。音速で十五年以上進み続ければ、流石のあれもそう簡単に帰っては来られないでしょう」
「……だが、ブルー・シャーマンは消滅した筈だ」
「あれがあの程度で死んだとは思えないわ……時間はかかるでしょうけれど、いずれ蘇る。だから、私は時間を稼ぐことにした。ブルー・シャーマン事態の身体能力は七尾程度。少なくとも後十五年は帰ってこられないわ。太陽に溶かされていなければの話だけど」
白雪はブルー・シャーマンを死んでないと言っているが、しかし一鬼はブルー・シャーマンの存在を感じることができない。
滅んでいないのは肉体のみで、精神は消滅してしまったのではないかと疑ってしまう程に感応しないのだ。
しかし、白雪の言葉から嘘は感じられず、一鬼は混乱する。
蒼炎の超越者は確かにそう簡単に死なないと思わせるだけの凄みがあるが、それが事実になるかは話が別だ。
そして、同時に白雪が十五年前にブルー・シャーマンを倒していたことに一鬼は驚く。
十五年前ということは、当時白雪はまだ六歳だったことになる。
いくら準超越者とはいえ、六歳の白雪に封印され、精神と肉体を引きはがされたブルー・シャーマンがいかに弱っていたかが、彼には分かってしまう。
それを情けないと思う者も居るだろうが、その背景に赤子だった一鬼の無責任な行動があるのだから、彼にはそう思う資格などない。
いや、仮に資格があったとしても彼はそうしないだろう……それだけ、ブルー・シャーマンのことを尊敬しているのだ。
「そうか。ブルー・シャーマンが……生きているのか。ならば良い……お前の死で以て、蒼炎の超越者に俺の覚醒を示してやろう」
「ふふ……明日になれば、それも容易かったでしょうね。でも、今の貴方は八尾より少し強い程度……私の敵ではないわ」
「だろうな。しかし……お前はこの唄が必要なのだろう? ならば、俺は俺自身を人質にする。白雪……唄を失いたくなければ、大人しく俺に殺されろ」
「ふふ……はは……はははははは!! ああ、おかしい……大人しく殺されろですって?……嫌に決まっているじゃない。私は貴方を手に入れる……その肉体も、歌も、愛も、全部。誰の為でもなく、私自身の為に!!」
ころころと笑いながら、しかし白雪の眼はギラついた光を宿していた。
純粋な執着心……ただそれだけがその眼に映っており、欲望の炎がその奥で燃え盛る。
碧と同じ欲望を宿すその眼に、一鬼は悲しみと苦痛を覚えながらも、身構えた。
剥き出しの欲望が容赦なく彼を襲い、その背景にある飢えが、渇きが彼に伝わっていく。
砂漠の中で漸く見つけたオアシスを絶対に手に入れんとする意思が、そこにはある。
元々妖狐という種族は空虚で、他者から奪うことでしか己を誤魔化せない。
そう、満たすのではなく誤魔化すのだ……元々空っぽである彼女らは満たされることはないのだ。
だから、永遠に終わらぬ依存を内心では望む。壊れぬ宿主を望む。
まるで『虹色の肋骨』に宿る妖のように、彼女は宿主から己が生きるのに必要な力を得ようとする。
まさしく『虹色の肋骨』を埋め込んだ張本人である白雪は、その負の特性を大いに示していた。
「ねぇ、姉さん。一鬼の唇の感触はどうだった? その体に触れた時の高揚感は凄かった? 一鬼の体に己の歯型をつけた時、物凄い優越感と安堵感に襲われた? 私を嘲笑った? 一鬼に自分の匂いを滲みこませた時の、所有欲が満たされた時の感動はどうだった? この一年間、自分が認識されていないことを良いことに、一鬼の全てを覗き見た時の陶酔感はどうだった? 今そうして受け入れられているのは、最高に気分が良い?」
「……ええ、何もかもひっくるめて―――最高だったわ」
「ふふ……やっぱりダメだ。貴方なら生かしても良いかもと思ったけれど、無理。私は……貴方を殺す」
「やってみなさい……やれるものならね」
「―――っ!!」
碧と白雪の間で走る火花は、まさしく嫉妬のぶつかり合いと言った処か。
そのぶつかり合いを他所に、一鬼はいつ攻撃されても良いように構えを崩さない。
二人の言い合いが偽りであるとは彼も思ってはいないが、それを鵜呑みにすればつけこまれる。
ただでさえ今の処は白雪の方が格上なのだ……これ以上不利な状況に持っていかれては敵わない。
案の定、優越感に満ちた表情と声音で答えた碧に、白雪は青筋を立てて襲い掛かった。
現在の一鬼ですら反応するのは難しい程のその速度は既に音速を超えており、ただ受け止めるのは危険だ。
だから、一鬼は碧に向かって突き出された白雪の腕を掴む。
瞬間、その際の摩擦で彼の腕の皮が剥がれ、肉が削がれ、そこから大量の蒸気が噴き出すが、彼はそれを無視して、そのまま地面に叩き付けようとし……そこで己の腕から重さが消えたことに気付く。
「なっ?……っ!」
瞬時に背後に現れた白雪の気配に、一鬼は反射的に裏拳を放った。
その僅かな間も、脳内で彼は白雪の気配が一瞬消えたことの理由を探し、すぐに一つの可能性に至る。
だが、それが事実ならば彼らに勝ち目はない……碧など有象無象だと言われても納得できてしまう程に、強力な能力だ。
そして、再び白雪の気配が消え、同時に裏拳が空ぶるのを確認した瞬間、その可能性はほぼ確定した。
一瞬で近くに数メートル先に、椅子に座って現れた白雪の方を睨みながら、彼はどうやってこの修羅場を打破するか思考を始める。
「ふふ、残念……ハズレよ」
「くっ……!」
今のは白雪が遊んでいたから追撃されなかっただけで、次はそうはいかない。
一鬼の能力値では、彼女の動きを見切ることができるが、それに完全に反応しきるのは難しい処だ。
恐らく八割の行動に対して反応することができるが、残りの二割の部分で間違いなく攻撃を貰う。
そして、力の差を考慮すれば、その内の一撃でも貰えば彼にとっては致命傷になり得る。
白雪も今はまだ彼に殺意を向けてはいないが、これからどう動くかは予想できない。
本気で殺しにかかられては、今の彼では反応しきれないだろうし、碧に至っては反応できるかも怪しかった。
いくら碧が歴戦の勇士だったとしても、今の白雪は九尾……概算しても十倍近くの差がある。
妖狐の世界で、尾一本分の差がどれ程大きいかは彼も良く理解していた。
今の彼らでは……白雪には勝てない可能性が高い。
「このままでは埒が明かないな……――!……」
「!……山吹が……死んだようね」
「……これは……この気配はまさか……」
山吹の気配が消え、同時にほんの少しの間だけ圧倒的な存在感が廃病院を包み込んだ。
その気配の持ち主は言わずもがな、一鬼の兄……紫鬼であり、彼の兄が山吹を殺害したのは明白だった。
気配が現れた瞬間に山吹の命が消えたことからしても、紫鬼は遊びなどせずに一瞬で殺害したようだ。
彼はそのことに満足げに頷きながらも、これで美空が自由になったであろうことを確信する。
勿論、目の前に居る白雪をどうにかしない限り、美空にまた危険が及ぶのは明白だ。
だが、それは飽くまでここで彼女を逃がせばの話であり、紫鬼ならば逃がさずに殺すことも容易いろう。
結局兄に頼るしかない己の無力さを呪いながらも、一鬼はこの状況を打破する可能性を見出す。
罪を向き合うのは彼一人でなければならないが、それ以外の要素をどうこうすることまで一人でする必要は無い。
「……もう紫鬼が来たの? 早過ぎる……それに、どうして結界に反応していないの……」
「当たり前だ。俺がこの場所を教えたのだからな」
「!!……一鬼……貴方は……」
「俺が一人で来るとでも思っていたか? 残念だが、勝てない相手に一人で挑む程俺は勇敢ではない。最強の超越者の助けを借りられるのならば、借りない手はない」
「っ……」
紫鬼の気配がこの場所に現れたことに狼狽える白雪に不敵な笑みを浮かべながら、一鬼はこの状況を潜り抜ける術を模索する。
紫鬼がここに来たということは、彼の読み通り兄の宿主は見知った者だということだ。
そうでなければ、こんなにも早い段階でここまで来られる筈がない。
一鬼は全速力とはいかないものの、愛梨の死亡を確認した直後に、寄り道もせずにここに来た。
一鬼の予想では、もう五分程度は到着が遅れる筈だったのだが、思いの外兄の動きは早い。
紫鬼の到着を知った白雪の眼に怯えが映るのを見逃さず、彼はここから彼女が下手なことをしないことを祈る。
彼女の能力が彼の想像通りのものだとすれば、追い詰められた彼女が何を仕出かすか分かったものではないのだ。
彼女がインディゴと同じく広範囲に被害を齎し得る可能性がある已上、彼も回りを巻き込まないように動かねばならなかった。
「紫鬼が怖いか?」
「……ええ。怖くない筈がないわ。紫鬼の怨念を宿している私だからこそ分かる。あれは……私達の叶う相手じゃない。完全に目覚めた貴方以外が勝てる相手じゃない」
「買い被り過ぎだな。それよりも、まだ続けるか?」
「……ここまで来て……止められる訳がないでしょう!!」
「っ……」
銀の眼に恐怖を内包しながらも、白雪は一瞬で一鬼の背後に現れた。
その際も彼女の気配が一瞬消えてから背後に現れたことで、彼は彼女の能力があるものだと確信する。
そうでなければ、弾道ミサイルの軌道すら見切る彼の眼が彼女の動きを見切れない筈がないのだ。
実際、背後から碧に向けられた拳を彼は見切り、伸ばされた肘に蹴りを見舞った。
骨が歪む音と共に、白雪の表情もまた苦痛に歪む。
確かに白雪の動きは速いが、肝心の攻撃の際に拙さが露呈している。
実戦経験がたった数回しかない一鬼の眼から見てもそう思える程に、彼女の攻撃には無駄が多い。
圧倒的な格下を相手にする分には十分過ぎる速度と力を彼女は持っているが、それだけだ。
一つ一つの動作は速いが、それを上手く流れるように繋げられていない。
その結果、彼女は己の半分以下の力しか持たない一鬼を相手にしてカウンターを決められたのだ。
彼が彼女の立場だったならば、今の攻撃にカウンターを貰うことはなかっただろう。
「ぐっ……っ……あ……!」
「えっ?……」
「拙いな。その程度で俺を殺せるとは思わないことだ。それと、碧……反応しきれなかったお前はそれ以下だぞ。もう少し歴戦の勇士の威厳を見せろ」
「……え、ええ」
「くっ……バカに……して……」
一鬼は苦痛に顔を歪ませている白雪からすぐさま距離を取ると、その赤い眼を細めた。
白雪の移動は線ではなく点の移動である為、それに反応するのは不可能だ。
しかし、その後の動きは彼の眼ならば見切ることができ、反応することも不可能ではない。
地の速度も力も、彼の倍以上ある筈の彼女だが、実際にはそれに値するだけの速度差がなかった。
反応速度では一鬼が勝っており、移動速度ならば白雪で勝っている……その力関係が、今辛うじて一鬼を生かしている。
そのどちらの面においても劣っている碧では両者の戦いに割って入るのは難しく、案の定一鬼にそれを指摘されてしまう。
彼女が二十年余りかけて駆け上がった強者の道を、一鬼はこの二週間でいとも簡単に超えた。
それが成長ではなく、再生であるということを考慮しても、その速度は異常だ。
一方の白雪も、二百年前に一鬼、紫鬼、碧の三者の怨念を背負ったことで、途方もない力を得ている。
彼女の腰から生えている九つの尾が、白雪が九尾に至ったことを示しており、既に碧を凌駕しているのが容易に分かった。
ただ、超越者の持つ怨念はその程度に留まらない……抱えきれない怨念は確実に彼女の精神を蝕んでいる。
だから、彼女は一鬼を欲するのだ。
彼の持つ唄を甦らせて、己自信を救うのが彼女の目的であることは間違いない。
「……おかしいわね」
「……碧?」
「白雪、貴方はその怨念に己を押し潰されそうになったから一鬼を探し続けたのでしょう? でも、それにしては……随分と長持ちしたじゃない。今も平気そうにしているし、こうして話せているわ。貴方……本当は一鬼が居なくても、もう大丈夫なんじゃないの?」
「……確かに、そう言われてみれば妙だな。こうして話せていること自体がおかしい」
「……」
碧の言葉に同意しながら、一鬼は白雪の方を見た。
二百年前の彼女は怨念を背負いきれずに苦しんでいただけだが、今の彼女からはその苦痛が見えない。
そもそもが、こうしてまともに話せている時点で、精神が限界でない可能性は高い。
本当に限界が来ていたのだとすれば、既に話すら通じない狂気の世界に居る筈なのだから。
もし……もし本当に白雪が実は一鬼の救いを必要としていなかったのだとすれば……彼は怒り狂う。
彼女が移植した『虹色の肋骨』によって既に千人を超える死者が出ており、宿主も七人の内四人が死んだ。
その四人の内、三人は彼の兄貴分であり、親友であり、恋人であった者達である。
彼らの死を招いたのは紛れもなく白雪であり、その理由は彼の唄を甦らせることになった筈だ。
そう彼女にさせる怨念による精神の崩壊が、実は無かったのだとすれば……彼らの死はいったい何だったのだろうか。
意味がない死だとでも言えば良いのか?……否、そんなことを一鬼は認めない。認めて良い筈がない。
彼らはそれぞれ叶えたい夢があって、未来があった筈なのだ。
それを潰しておいて、実はその目的であった唄が必要なかったなど、彼は認めない。許さない。
「くく……はは……ははは……はははははは!! 私が一鬼の唄を必要としていない?……そんな筈ないじゃない!!」
「っ……」
くっくっと笑い出した白雪は、不意にヒステリックな叫び声と共に近くにあった壁を殴った。
音速を超えた速度で放たれたそれは音の壁を突き破り、衝撃波を屋内で発生させていく。
拳が直撃した壁は衝撃でボロボロに崩れ、衝撃が建物を揺らし、残された僅かな窓ガラスを破砕した。
廃墟であるここは、彼女が本気を出せば簡単に崩壊してしまう程に脆い。
碧はそんな白雪の様子に一瞬びくりと震えたが、すぐに冷えた眼でその様子を伺う。
一鬼はその切り替えの早さに呆れながらも、息を荒げて余裕のない表情を見せる白雪に歪みを見出した。
腕に傷を負ったことも相まってか、一瞬で化けの皮が剥がれてしまった彼女は、歪だ。
今まで格上とまともにぶつかったことがないが故の経験不足もそこに関与しているのだろう。
彼女の仮面は思いの外呆気なく壊れた。
「姉さん、貴方に分かる? この世界の闇全てを背負ったに等しい紫鬼の怨念と、貴方の怨念と、一鬼の怨念を全て背負わされた私の気持ちが!? 一鬼にしか縋れなかった私の気持ちが!?」
「分かる筈が……ないじゃない……母の愛も、子どもの幸せも、超越者としての資格も持っていた貴方の気持ちなんて!! 寝言は寝て言いなさい!! 持たない者に持つ者の気持ちは分からないわ! 持つ者に持たない者の気持ちが分からないように!!」
「……埒が明かないな。碧、そこまでにしておけ」
「っ……ええ……」
一鬼はヒステリックに叫ぶ白雪に対して、同じくヒステリック叫んだ碧を睨むと、それを止めさせた。
途端に怯えの混じった眼をする碧に、彼は一瞬怒りがこみあげて来るのを実感する。
彼は彼女を愛すると、その罪を背負いきると宣言したというのに、彼女はそれを信じきれていない。
まだ心の何処かで自分が拒絶されるのではないかと恐れている。捨てられることを恐れている。
一鬼はそんな恐れをかき消せない碧に、しかし苦言を呈しはしない。
彼女が弱いことは彼も承知の上で、それでも受け止めようと決めた。彼の罪の証である彼女を、最後まで背負いきると決断した。
今更彼女の弱さに対して責めた処で、彼のその決意は変わらない。
紫鬼の心臓に誓って、彼は最後まで己の罪を背負いきると決めたのだ。
だが、ヒステリックに叫ぶ両者を黙って見ていられる程、彼は弱さというものが好きではない。
「そう、その表情……媚びたようなその表情が気に入らないのよ! 私の――」
「お前もいい加減――黙れ」
「っ……」
尚もヒステリックに叫ぶ白雪に、一鬼は顔を歪ませて低い声でそれを中断させた。
一瞬白雪の体が驚愕と恐怖でびくりと震え、しかしすぐに怒りの込められたものに変わる。
それに呼応するかのように彼女の体から放たれている怨念は更に濃度を増していき、そのまま彼の心臓に流れていく。
今まで碧にしか向けられていなかった怒りの矛先が、ついに彼に向いたのだ。
彼はその瞬時に状況が変わったことを理解し、身構え……ほぼ同時に白雪は彼の頭上に現れた。
「――!?」
咄嗟に後方に大きく跳んだ一鬼であったが、瞬時に彼の背後に白雪の背後が移動する。
彼の移動は飽くまでも軌道であるのに対して、彼女の移動はジャンプだ……速度では彼に勝ち目はない。
いくら彼がジャンプ後の攻撃に反応できるとはいえ、それも完璧なものではないのだ。
八割を捌けても、残りの二割は確実に貰うことになる為、彼が不利であることに変わりはない。
その二割を碧に捌いて貰えば良いのだが、残念ながら彼女の動体視力では白雪の攻撃は見切れなかった。
事実、既に再三に渡って繰り返された白雪の奇襲に碧は反応できていない。
全て一鬼が捌いているのが現状であり、白雪が本気で彼を殺しにかかれば、捌ききれない残り二割の攻撃で彼は死ぬ。
危ういバランスの元で彼は今生存できているのであって、本気で殺しにかかられてはどうしようもない。
そのどうしようもない状況に今彼は追い込まれつつあった。
何度振り払おうとしても『瞬間移動』という離散的な移動が可能な白雪を振り払うことはできない。
そもそもが、地の速度でも彼女は一鬼を完全に上回っているのだ。
判断力、力の使い方などの点で彼が彼女を大きく上回っていなければ、最初の一合で勝負はついていただろう。
総合力で彼は彼女と紙一重の差を保っているが、それも飽くまで一時的なものであった。
完全に戦闘についていけていない碧ではなく、今ここにブルー・シャーマンか紫鬼が居たならば勝負は決まっていただろう。
だが、彼の『虹色の肋骨』は碧だ……超越者ではなく、どうしようもなく弱い依存者だ。
「こっ……の……!!」
「っ!」
何度も角度を変えながら瞬間移動し、あらゆる方向から攻撃を仕掛けてくる白雪に、一鬼は防戦を強いられる。
いかに彼が判断力や力の使い方の面で彼女を上回っていても、基礎スペックの違いは変えられない。
彼が反撃したとしても、彼女はその間に確実にもう一撃見舞ってくる為、彼から手を出すことはできなかった。
先程のようにカウンターを決めるしかないが、常に瞬間移動を繰り返している白雪相手ではそれも難しい。
怒りに呼応して速度を増してきた白雪を相手に、一鬼はとうとう完全な防戦に入った。
その状態ですら全てを捌ききることは不可能で、遂に幾つかの攻撃が彼の肌を掠り始める。
途端に傷口から吹き出す蒸気は空気を歪め、屋内の気温を一気に数百度単位で上昇させていく。
その熱はかつて碧の腕を焼き、紫鬼の腕を奪った熱であり、彼の持つ圧倒的な力の奔流を示している。
だが、それも今は大分弱まっている状態で、まだ完全に取り戻された訳ではなかった。
何よりも、紫鬼や碧の腕を焼いた熱はその心臓部にこそ込められているのであって、末端ではない。
「ぐっ……」
「一鬼!?」
「奴から眼を離すな!」
「――遅い」
一鬼は忠告するが、案の定彼の負傷に碧の気が逸れたのを白雪は見逃さず、すぐさま背後に回り込んで来た。
その腕が、姉の心臓を抉り取らんと振りかぶられるのを察知するよりも先に、彼は動く。
裂傷から吹き出す蒸気を振り払うように腕を振りかぶると、彼は碧の手を掴んで一気に引き寄せた。
碧の柔らかな体を抱きながら、彼は一気に背後に跳躍する。
それを舌打ちしながら追おうとした白雪だったが……次の瞬間その表情が凍った。
見る見る内にそれは驚愕へと変わり、遂には恐怖へと塗り替えられていくのを見ながら、一鬼は微笑んだ。
彼女が何故そのような表情をしているのか?……その答えは彼の背後の圧倒的な存在が示している。
一鬼が振り返れば、世界の全てを飲み込みそうな深淵を思わせる圧倒的な闇……それがそこに居た。
「紫鬼……いや、兄よ。遅かったな」
「済まない。遅くなった……私の宿主はお前程健脚ではないのでな」
「ふふ……一鬼君と比べられたら、流石の私も敵わないかな」
「やれやれ……お前にだけは言われたくない言葉だ」
紫の超越者……紫鬼は悠然と立ち、その後ろで柔らかな笑みを浮かべる女性が軽口を叩く。
一鬼は苦笑しながら立ち上がると、腕の中で顔を赤らめている碧をそっと解放した。
その際に碧は名残惜し気な表情で彼を見たが、今彼にそれに応えてやる余裕はない。
白雪をどうにかした後ならば、好きなだけ依存させてやっても良い。だが―――今はダメだ。
今はもう一つの罪と向き合う時間であって、彼女を愛してやる時間ではない。
一鬼は守護者ではなく、破壊者として今ここに居るのだから。
「白雪……随分と好き勝手してくれたようだな」
「あ……あ……ああああああ!?」
「! 待ってくれ、紫――」
「……逃げられるとでも思っていたのか?」
彼よりも十センチ以上大きな身長と、彼以上に発達した筋肉、彼と同じ藍色の髪、彼とは違う紫電の眼……その全てが放つ闇は圧倒的だ。
怪しげな光を放つ紫電の眼が一鬼を捉え、そして白雪を捉える……その紫電の眼が、紫鬼の抱える怨念が、白雪を揺さぶる。
それに対する恐怖から呆気なく混乱した白雪は、その表情を恐怖で染め上げて叫ぶ。
怯えを隠せないままに、彼女は瞬時に瞬間移動を行おうとするが……紫鬼の方が遥かに速かった。
「う……あ……?」
瞬きする間もなく紫鬼の姿は白雪の背後に現れ、その掌の中に握られた心臓が脈打つ。
禍々しい怨念を放つその心臓は摘出されて尚拍動を続け、彼の手の中で動き続ける。
その後方で、唖然として白雪であったが、ゆっくりとその視線を下げて、己の胸に開いた風穴を認識した。
ヘドロのようにドロリとした、粘り気のある血がその傷口から溢れ出し、その赤黒い色を晒す。
生者にあるまじき赤黒い血はそのまま彼女の胸に開いた風穴から……そして、口から溢れ出した。
その様子をただ一鬼は見ていることしかできず、警戒を解きはしないものの、静かに白雪を見つめる。
隣で碧がひゅっと息を呑むことに気付きながらも、彼はただ白雪のみを見る……彼がその心臓を潰すべきだった罪の象徴を。
何かに縋ろうとしている者の眼をしている白雪は、すぐに一鬼と目を合わせ……弱弱しく手を伸ばした。
伸ばされた手は、救いを求めている。愛を求めている。宿主を求めている。
だが、一鬼にはそれに応えることはできなかった。
彼は言った……もしも白雪が『虹色の肋骨』などに頼らず、ただ彼に助けを求めたならば応じたと。
彼は宣言した……彼女を殺すと。彼女を受け入れずに、その手で葬ると。
だから、彼は黙殺する……伸ばされた手に応えずに、ただ冷たい眼でその死を見守る。
最後まで抱えると決意したからこそ、彼はこの結果を受け入れるのだ。
「返して貰うぞ―――私の闇を」
そして、次の瞬間―――紫鬼の手は白雪の心臓を握りつぶした。




