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虹色の肋骨  作者: 修羅場ーバリアン
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第二十二話




 濃い血の匂いと、肉が焦げた匂いが混ざり合った嫌悪感しか齎さない空気に顔を歪めながら、彼はそこに居た。


燃え盛る紫炎が同胞達を灰に変えていくのを眺めながら、彼は静かにその冥福を祈る。

今日という日が来るのを彼は恐れていたが、同時にそれが一つの転機になるとも考えていた。

超越者は他の妖と分かり合えない……どうしても、妖では超越者を理解しきれない。

空の超越者の影響で変化していた母ですらも、紫鬼達の全てを理解することなどできなかったのだ。


 それ以外の者達では彼らを理解しきることなど、できはしない。

超越者のことは超越者にしか理解できない……それは変えることのできない事実だ。

誰もが超越者を狂っていると言う。異常だと言う。しかし、それは当たり前のことでしかない。

彼らは世界と繋がっている……光という媒介によって、この世界そのものと繋がっている。

他の者はそれを許されず、彼らを強者であり狂者だと言うしかない。


 彼らは超越者を理解できないが故に、恐れて異常だと決めつけることしか許されないのだ。

鬼の一族は力に無頓着な為、そういった恐怖を抱く可能性が極端に低く、彼としては安心できる居場所だった。

それも今日失ってしまった……もう、誰一人として生き残りは居ない。

彼と光のみが……弟のみが、今生きている。


 同胞達の死を悲しみながらも、彼……紫鬼はその紫電の眼を細めた。




「よいこよいこ。あっ、笑った!」


「……白雪。余りその子を困らせるな」


「はぁい」


「気の抜けた返事だな……己の一族が滅んだというのに」



 紫鬼は、生まれて間もない弟を抱えて楽しそうにしている白雪に、注意を促す。

それに対しての白雪の返答は子どもがする気の入っていないそれで、そこに彼は歪さを見出す。

彼がつい先程一族を滅ぼしたことを、目の前の少女は知らずとも感じている筈だ。

だが、それを為した男に連れられても何一つ疑問に思わないのは、妖狐の教育としては余りにも粗末であろう。


 超越者である紫鬼は、白雪の異常な冷静さが妖狐の教育によるものではないと見抜いている。

そもそもが、妖狐が妖狐以外の一族についていくことを許すような教育をする筈がない。

寧ろ、彼女にそうさせたものは、彼女の性質そのものにまで遡らなければ見えてこないものだろう。

そして、それが一族に対する無関心であると、彼は既に見極めていた。


言うなれば、まだ齢二程度のこの幼子は既にその残虐性と割り切りを得ているのだ。




「だって、この子が言うの……いっしょに居ようって。わたし、おかーさんよりもこの子の方がすき」


「……やれやれ。お前の教育には手間取りそうだ」


「しきは、この子のおにーさんなんでしょう? この子のお名前は?」


「その子の名前は……!……お前の姉のお出ましのようだ」


「おねーちゃんが?」



 碧の気配が近づいてきていることを察知した紫鬼は、静かにその方向を向いた。

紫鬼は一先ず白雪のことを後回しにして、向かってきている碧を殺すことに意識を集中する。

能力差的に彼が負けることはあり得ないが、万が一というものを無視するのは危険だ。

その万が一によって彼が死ぬこと自体は問題ない……既に彼の代わりに弟を守る超越者は皆見つけたのだから。


 彼にとって問題となるのは、彼自身の油断が弟を殺すことだ。

それを抑える為に、彼は碧という完全な格下を相手にする際も油断しないことを誓う。

だからこそ、彼は一瞬で確実に殺す……一切の手加減も油断も遊びもなく、ただ殺す。

妖狐のように、弄んでから殺すような真似はしない。そのような非効率的なものは、邪魔だ。

ただ一瞬で殺すことのみに集中せねば、足元を掬われてしまうかもしれない。


 だからこそ、紫鬼は油断することなく碧を迎え撃とうと静かに立ち上がった。




「……下がっていろ、白雪。すぐに終わる。その子を頼んだぞ」


「うん……」



 燃え盛る紫炎を振り払うと、紫鬼は降り立った碧と相対する。


ゆっくりと近づいてくる彼女に彼もまた歩み寄り、その新緑の眼をしかと見据えた。

嫉妬と怒りと憎しみが混ざり合って生まれた緑色の炎を内包するその眼は、酷く歪だ。

実の妹相手にすら嫉妬し、これから殺そうとしている彼女を前にして、紫鬼はただ虚しさを覚える。

ここまで虚無な輩が原因で全てが狂いだしたのだ……彼が彼女を光に会わせてしまったせいで、全てが狂ってしまったのだ。


 碧という妖狐をもっと早く殺しておくべきだったと紫鬼は後悔していた。

殺戮者を殺すことは、誓いを破らずともできる……彼が約束したのは不可侵のみであって、不殺ではない。

それをもっと早くしておくべきだったと後悔しながら、彼は今ここでそれを為そうと決意した。

死を振りまく存在をここで止めなければ、彼の弟にその死は向かうだろう。


 だからこそ、紫鬼はその紫電の眼を歪め、碧を睨んだ……殺戮者でしかない彼女を。












 紫炎が全てを焼き尽くして灰に変えていくのを眺めながら、碧はゆっくりと鬼の里だった場所に降り立った。


 瞬間、地面を覆っていた灰が舞い上がり、灰の雪が降り始めるのを彼女は目撃する。

全てを灰に変えていく紫炎は既にあらゆるものを焼き尽くしており、里は外壁を残して完全に更地になっていた。

降り立った地面が灰を巻き起こしたことに不快感を抱きながらも、灰の雪の中を彼女は進んでいく。

いつものように仏頂面で悠然と立っていう紫鬼と、その背後に居る、赤子を抱えた白雪の元へと、彼女はゆっくりと近づいていった。


 それに応じて紫鬼もまた碧の方へと歩みを進め、その全身から圧倒的な怨念を放出し始める。

カナリーとの相対時に彼女が感じた力の差が桁違いであるならば、今回はまさしく次元が違う。

碧も、カナリー相手ならば自分の百倍近い力を持っているのだろうと想像ができた。

だが、紫鬼相手ではそれは全くの無駄で、もはや彼女が千人、いや万人居ようが力の天秤が釣り合わない。


 例え何万居ようが、一瞬で殺される未来しか見えずに、彼女は背筋が凍るのを感じた。




「紫鬼……緑の超越者は、白雪だと言ったそうね。だから、生かすの?」


「全部、族長から聞いたようだな。言葉は必要あるまい。この因縁はここで終わらせる。お前と私のどちらかが死ぬまで、この因縁は終わらない。次の世代に残してはならない……さぁ、足掻いてみせろ」


「因縁?……次の世代?……貴方は、何を言っているのかしら? 私に次世代は必要ない。貴方の次世代はあり得ない。ここにあるのが全て。ここで全て終わらせましょう……私は、貴方を、白雪を殺して光を手に入れる」


「そうはさせん。誓い一つ守れなかった弱者……殺戮者よ、お前はここで私が殺す」


「はっ!……やってみなさいよ! 一族一つ守れなかった強者さん!!」



 紫鬼と碧の立場は全くの正反対のようで、似ている。似ているが、まるで違う。

紫鬼は一族最強の戦士であり、碧もまた同じ一族最強の戦士だが、生まれ持った環境はまるで異なるものだ。

紫鬼は両親の愛を受け、世界に愛され、光として生まれてくる弟を守る為に戦っている。

碧は母親の愛すら得られず、規律で縛られ、光として生まれてきた子を奪う為に戦っている。


環境の違いから両者の間には大きな差が生じてしまった。

紫鬼は今や世界に存在する生物の頂点に君臨する力を持ち、碧はその前ではゴミ同然だ。

カナリーが告げたように、碧が紫鬼のことを同格と思い込んでいたのはまさしく傲慢だった。滑稽だった。

実際の力の差は絶望的で、碧が紫鬼に勝てる可能性は万に一つもない。


それ程までに絶望的な力の差なのだ。

悲しい程に両者の能力には隔たりがあり、その差は一生かけても埋まらない程のものであった。

碧はこのような日が来るとは思ったことはない。己が弱者の立場に回ると思ったことはない

だが、現実は彼女を弱者の立場に追いやり、圧倒的な強者である紫鬼と相対せざるを得ない状況に陥れた。


碧は虚勢を張って挑むしかない……逃げれば心が壊れると知っているからこそ、立ち向かうしか道が無い。




「……ぐっ!?」


「――!?」



 しかし、次の瞬間紫鬼を上回る力の奔流が辺りを包み込み、紫鬼は心臓を押さえてその場に膝をついた。


同時に風が辺りの灰を全て吹き飛ばし、再び灰の雪を降らせ始めていく。

碧は何が起きたのかまるで理解できないまま辺りを見渡し、白雪もまた心臓を押さえていることに気付く。

大気を震わせて、二度目の灰の雪を齎した源はその腕の中……碧が求めた赤子だ。

その場に膝をついたまま顔を青くしている紫鬼の姿に、彼女は一つの活路を見出す。


 碧には、光が二人に何をしたのかは理解できないが、少なくとも彼女には影響は及んでいない。

今ならば、両者を殺すこともできる上に、恐らくは光を掴み取ることも不可能ではないだろう。

運命的な何かを感じながら、彼女は未だに蒼白な顔のままその場に膝をつく紫鬼を無視して白雪に飛びかかった。


 この好機を彼女は逃すつもりはない。




「……!」



 紫鬼がそれを阻止しようと腕を動かしたが、その速度は碧ですら簡単に避けることができてしまう程に緩慢だ。

先程の威勢が嘘のように、まともに動くこともできずに彼はその場でただ彼女が白雪目掛けて飛んでいくのを見るしかできない。

光から放たれた波動は彼の心臓を圧迫し、金縛りにし、ただの傍観者へと変えていた。

同じく心臓を圧迫され、動くことのできない白雪は恐怖に目を見開きながら、ただ碧が近づいてくるのを見つめる。


 白雪は戦いの方法を知らない……翡翠がそれを教えなかった為、当然のことだ。

だからこそ、彼女の妹は碧の能力値も残虐性も理解できていなかった。その程度の距離で安心してしまっていた。

彼女ならば一瞬でその距離を縮めることができると知らずに、無防備な姿を晒していたのだ。

今ならば光を奪える。何よりも……妹を殺せる。


 だから、碧はその愉悦で歪めて、白雪に襲い掛かった。

母の愛を受けた妹が彼女は羨ましかった。同世代の子と遊んで、子どもで居られる妹に嫉妬していた。

彼女は母の愛を知らない。母が恐怖していたことしか知らない。規律しか知らない。

だというのに、白雪は彼女が初めて見出した愛すらも奪おうとしている。超越者の座すらも、彼女に譲らないでいる。


 だから憎むのだ……だから殺すのだ。




「……っ!?」



 碧は愉悦に歪んだ表情のまま拳を白雪の心臓めがけて振り下ろし……そこで違和感に気付いた。

彼女の拳は恐怖で見開かれた白雪の心臓めがけて振り下ろされた筈なのだ。確かに、彼女はそこを狙った筈なのだ。

だというのに、彼女の拳は何故かその腕の中に居る赤子に向かっている。

圧倒的な力の奔流を感じさせるその赤子の胸に……碧が焦がれている光の胸に、その拳が吸い込まれていく。


 碧は己の眼が恐怖で見開かれるのを自覚した。背後で大きな力が暴れ始めるのを感じた。

彼女は己の拳を止めようとするが、その判断を下そうにも、決断するのが遅過ぎる。

その拳が血濡れた絹を貫き、赤子の肌に触れた瞬間、彼女は想像を絶する熱と、愛を感じた。

光はただ純粋に彼女を受け入れてくれている。彼女にここに居ても良いと言ってくれる。

刹那、彼女は理解する……この赤子は彼女と触れ合おうとしたのだと。


 超越者である紫鬼と、その資格を持っている白雪がそれを邪魔するからと、光は二人を動けなくしたのだ。

光は碧を守ってくれていた……それも、光にとっては己を守ってくれる存在である筈の紫鬼から。

それがいかに危険な行為かに気付かずに、ただ彼女と触れ合おうと己が守護者を戦闘不能にしたのだ。

彼女はそんな光に途方もない愛を感じ、制御しきれない熱をその胸に感じる。


己が愛されているのだという幻想が彼女を支配し、安らぎを齎す。



そして、一瞬の安らぎと共に彼女の腕は―――その心臓を貫いた。




「い……いやあああああああ!!」


「……あ……ああ……あああああああああ!?」



 赤子の心臓が内包していた熱に腕を焼かれていくのを無視して、碧は絶叫した。


己が何をしたかを理解したくないと思いながらも、理解せねばらないとつきつけられた現実に、ただ叫ぶ。

白雪が絶望に染まった表情で叫ぶのを無視して、彼女はその腕から赤子を奪い取る。

泣き声すら上げずに静かに消えていく光に、彼女は何もできない。ただ見ていることしかできない。

絶望が心を破壊していくのを感じながらも、彼女はどうにかして己の過ちをなかったことにしようとする。


 だが、できない……不可逆の変化は覆せない。

絶望の余りそのまま意識を失った白雪には見向きもせずに、赤子の胸に開いた風穴を塞ごうと彼女はそこに触れた。

蒸気を吹き出すそこはあり得ない程の高熱を孕んでおり、既に焼けただれていた彼女の腕はそのまま炭化を始めていく……それでも、止められない。

彼女には、そのような痛みなどどうでも良かった。ただ、光を傷つけてしまったことを、心臓を破壊してしまったことをなかったことにしたかった。


 だが、彼女の手を焼くその熱が残酷な現実を告げている……光は死に向かっていると。




「死な……ないで……死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで死なないで!!!」


「退けえええええ!!!」


「ぐっ!?」



 ただ泣き叫ぶことしかできない碧は、突然突き飛ばされて地面を転がった。

同時に左腕の感覚が消失し、代わりにそこに激痛が現れ、濃厚な血の匂いが彼女の鼻腔を刺激する。

左腕を失ったことを自覚しながらも、光がどうなったのかを確認する為に、彼女はよろよろと立ち上がった。

そして、その瞬間に己の胸を自ら貫く紫鬼の姿を彼女は目撃する。




「……えっ?」



 何の躊躇いもなく己が胸部を貫いた紫鬼は、ゆっくりとその胸から拍動する己が心臓を取り出した。

虹色の炎を宿すその心臓と胸部に開いた穴から吹き出す蒸気が、紫炎によって乾いた空気に溶け込んでいく

そんなものには目もくれず、ただ鬼気迫る表情のまま彼はそのまま己が心臓を赤子の胸に開いた穴へと置いた。

それから瞬きするか否かの僅かな時間で彼の左腕は虹色の炎に包まれて、そのまま灰へと変わっていく。


 胸部から流れていく血と蒸気を気にする様子もなく、その様子をただ紫鬼は見つめている。

そこに不気味さを見出した碧だったが、やがて光の波動が微弱ながらも減少を止めたことに気付いた。

紫鬼の心臓が、赤子を生かしたのだ……元来上級妖でも心臓の移植が瀕死の者を生き長らえさせたことはない。

もしもそれが可能になったのだとすれば、もはや奇跡と呼べる程の所業であろう。


 それを今、目の前の超越者はやり遂げたのだ……己が命と引き換えに。

赤子の心臓は碧の拳が完全に破壊しており、それ以下の力しか持たない紫鬼の心臓では、十分な代替にはならなかったかもしれない。

事実、光の波動は今も減少を続けており、限りなく零に近づいている。

今までならば、触れなくても感じることのできた圧倒的な力の奔流がまるで感じられなくなり、脆弱になっていく。

だが、確かに光は弱まるだけで、消えはしない……生きている。




「一鬼……それがお前の名前だ。最後の鬼よ……最愛の鬼よ。お前こそが唯一生き残った鬼だ! お前こそが、我が最上の存在だ! 生きろ……唯一無二の光よ! 私はもう死ぬ……だが、他の超越者がお前を守る! だから、生きるのだ!」



 目の前で起きた奇跡にただ驚くことしかできない碧を前にして、紫鬼は高らかな声で宣言した。

その左腕は心臓と共に赤子に捧げられ、今彼に残されたのは既に力の源を失った殻だけだ。

だというのに、今にも死にそうな彼は、愛おしげに赤子に名前を授ける。

胸部の穴から血が蒸気と共に噴き出して、口からも血を流しながら、それでも彼は己が弟に名前を授けたのだ。


 それがいかに狂っていることなのかが碧には分かる。

己が命よりも大切なものなど無い筈なのに、そのようなものなどかなぐり捨てて、ただ弟の生を願う紫鬼の姿は異常だ。

しかし、同時にその姿は恐ろしいまでに美しく、彼女に憧れを抱かせる。

紫鬼のようになりたいとずっと彼女は思っていた。何度も、何故彼女ではなく紫鬼なのかと悩んだ。

彼女は彼のように光を守れたらと願った。彼のように光を愛せたらと思った。


 しかし、同時に空虚な妖狐である碧は光に愛されることを強く願ってもいたのだ。

紫鬼は最初からそのようなものなど求めずに、ただ、弟が生きていることのみを願っていた。

彼女は内心では、ただ光から多くを強請ることしか考えていなかったし、彼と同じ行動をできた筈もない。

結局、彼女は光から愛を与えられることを期待していたのだから、ただ守ることだけを望んだ紫鬼のようになれる筈もなかったのだ。


 それを彼女はたった今思い知らされた……絶望的なまでに己に足りないものがあると気付かされた。




「ガハッ……殺戮者……お前も……連れていく。この子を……貪らせはせん」


「……え?」



 次の瞬間、目の前に紫鬼が居ることに気付いた碧であったが、そこから動くことは叶わない。


 何故動けないのか分からずに居た彼女であったが、すぐに己の胸部を貫いている彼の腕の存在に気付いた。

彼女がそれに気付くか気付かないかの瞬間に、その背後で心臓が握りつぶされる。

それが誰の心臓なのかは、彼女の全身から力が抜けていくことがはっきりと語っていた。

血を吐き、顔面蒼白の紫鬼は今にも死にそうな程に弱っている筈だ。

瀕死であることは明らかであるというのに、彼は彼女を一瞬で殺した。


 片腕を失った以外は完調である碧が……最強の妖狐が、一瞬で心臓を破壊されたのだ。

紫鬼は既に九割がた死んでおり、もう後数秒で死ぬかもしれない程に弱っている。

そんな彼の攻撃に対して、彼女は反応するどころか、知覚することすらも叶わなかった。

確かにただ目の前で起きていることに彼女は驚愕していたかもしれない……だが、油断はしていなかったつもりだ。

寧ろ、全てを見極めんと彼女の感覚は今までになく研ぎ澄まされていた。


 それを容易く突破して、紫鬼は彼女の胸に風穴を開けてしまう。心臓を破壊してしまう。





「……か……ず……き」


「……フッ」



 いかに彼との間に圧倒的な差があったのかを改めて自覚しながら、碧はそのまま後ろに倒れていく。

紫鬼もまた、力を使い果たしてそのまま後方へと倒れていくが、その表情は安らかで、同時に碧を笑っていた。

最後に彼は赤子……一鬼の方へと残る右腕を伸ばして力強く握ると、そのまま地面に倒れ込んだ。

その様を見ながら、碧もまた地面に倒れ、そのまま弛緩した肉体を必死に制御しようとする。


 碧もまた赤子の方へと手を伸ばしながら、紫鬼と同じように掴む仕草をしようとするも、それは叶わない。

紫鬼は握ることができたというのに、彼女には握れない……それだけの力も意思も残っていないのだ。

もう後は死んでいくだけ……そんな不可逆の状態に陥った彼女は、ただ手を伸ばす。

一鬼と名付けられた赤子に助けを求め、愛を強請る。


 死の間際でありながらも……いや、死の間際であるからこそ、彼女はそれを望んだ。




「愛……して……お……ね……が……い」



 何処まで行っても、碧は求めることしかできない。


与えるのではなく、求めることこそが彼女の在り方であり、本質なのだ。

彼女は紫鬼のようにあることを望んだが、それも所詮は望んだだけに過ぎない。求めただけに過ぎない。

殺戮者という呼び名が表しているように、彼女は他者を殺すことしかできないのだ。

奪うこと知らないのだ。与えることなど、考えられないのだ。


 だからこそ、紫鬼は碧を戦士としては尊敬こそすれども、一人の妖としては軽蔑した。

カナリーは彼女の在り方と超越者の在り方の間になる大きな隔たりを指摘し、嘲笑を浮かべた。

超越者はただ求めることを止めて与え続ける者でなければならない。どんな痛みにも耐えなければならない。

彼女はそうなれなかった……そうなれる器ではなかったのだ。


だから、今彼女はこうして、強請り続けながら死んでいく。




「わ……たし……の……ひ……か……り…………」



 ただ強請ることしか、求めることしかできなかった碧は、最後まで求め続けて――――その一生を終えた。



 碧は光を一度殺し、紫鬼は碧を殺し……怨念は元来紫鬼が全て背負うことになる。

しかし、その紫鬼も今死に、怨念は行き場を亡くしていた……光も実際は一度死亡し、変化してしまっているのだ。

結果として、行き場を失った怨念は残された白雪の元へと流れ込んでいく。

彼女は最強の超越者、殺戮者、そして光の三人が背負っていた無限に等しい量の怨念を背負うことになってしまう。




「あ……ああ……あああああああああああああ!?」



 いくら超越者になる資格があると言っても、白雪はまだ超越者ではない。


況してや、碧とは違い、普通の妖狐として育てられた彼女には、怨念を背負った経験すらないのだ。

始めての背負う怨念の量としては過剰処か間違いなく心が壊れて死亡するのは間違いない量の怨念が彼女の心臓に襲い掛かる。

それが齎す苦しみは、まさしく一瞬で何百何千の激痛の末の死を体験するに等しいもので、しかもそれが一日続く。


 上級妖ですらも最初の数秒で精神が崩壊してしまう程のそれを、白雪は背負うことしかできなかった。

光や紫鬼ならば、その重みにすらも耐えて見せただろう。生まれながらの超越者である彼らには、その強さがある。

しかし、飽くまでも資格を持っているだけで、まだただの妖でしかない白雪にその強さは無い。

資格があるが故に崩壊して消滅することはないが、その中途半端な強さが彼女の精神を歪めていった。




「……あ……あ……か……ず……き……おねがい……たすけて……いたいよ……」



 近くに居る赤子……一鬼の元まで這っていくと、そっとその体を抱きしめた。


超越者としての資格を持ちながらも、まだ超越者になれていない彼女にその苦痛は耐えがたく、光に縋ることしか今はできない。

その光もまた今一度死んだ為に、力を十全に発揮することは叶わず、弱弱しい光を放つことしかできなかった。

弱弱しい光によって何とか心が崩壊するのを防ぎながら、彼女は赤子を強く抱きしめる。


 ただ殻に籠って、守られることだけを想像し、願う……それが彼女にできる限界であった。




「おねがい……かずき……たすけて」



 そんな白雪の言葉に応えるように、赤子の小さな体は虹色の炎を発した。

同時に辺り一帯を包むように土がせり上がって、ドームを形成して彼女達を覆っていく。

更にそれは山を形成し、その表面に森を生み出し、挙句の果てには一つの自然となってしまう。

山の内部で恐ろしい量の怨念が渦巻く空間は少しずつ形を変えていき、やがて神殿のような構造になった。


 まさしく奇跡と言える圧倒的な所業は、白雪を守るように一つの揺籠を生み出したのだ。

その反動で益々光は力を失ってしまうものの、彼女の心を守れる程度の力は残っている。

ただ、赤子の放つ光は……子守唄は静かに妖狐の幼子を包み込み、その心を守り続けていく。

幼子はただ光の導くままに行動しただけだった。己が無かった。

だからこそ、余りにも凄惨な状況に陥り、あまつさえ己の精神の平常を失うに至ったのだ。


 白雪を守る為に光はその力で以て一つの揺籠を生み出し、子守唄でその心を包み込む。

元来ならば彼女が光を守らねばならない立場にあるというのに立場は逆転して、彼女が光に守られている。

光はただその子守唄で以て幼子に安らかな眠りを齎し、壊れていく心を柔らかく癒していく。

選ばれた者達を無条件に癒し続けるその光は、ただ彼女を癒し続ける。


そんな愛に抱かれながら、白雪は目を閉じ……そのまま全てが終わった。





 この日―――鬼と妖狐はそれぞれ最後の一人を残して滅んだ。
















 時間が緩慢に流れていく中で、一鬼はただ驚きを隠せずに居た。


 彼が求めていた過去は、余りにも凄惨で……酷く滑稽なものだったのだ。

光である彼が資格を持たない碧を受け入れてしまったが為に、全ては狂いだしたのだろう。

碧や紫鬼には責任はない……彼が、何も知らなかった彼が全てを引き起こしてしまったのだ。

確かに紫鬼は碧を彼の元に導いてしまった。翡翠は、碧を紫鬼と合わせてしまった。

しかし、最終的に碧を受け入れたのは一鬼であって、他の誰でもない。


 この結末を選んだのは、ある意味彼自身なのだ。




「ブルー・シャーマン……こんなものが、俺の過去だと言うのか?」


「そうだ。そして、これこそ我ら超越者が無様を晒した出来事でもある。お前が殺戮者を庇ったあの光は、生まれながらの超越者である紫鬼すら一時行動不能にし、我らもまたあの時動けなかった。お前を守れなかった……あの時我々は傍に居るべきだったというのに、それもできなかった。笑うが良い……我々の醜態を。無様さを」


「笑うものか……あの紫鬼の壮絶な最期を見て、笑えるものか! 元はと言えば、俺が碧を受け入れてしまったのが原因だ! お前達は確かにあの時あの場所に居なかったかもしれない……だが、全ての原因は俺があいつを受け入れてしまったことだ」


「それは違う。あの日、紫鬼は私と共にアメリカ大陸に居た。他の者達は、それぞれが動けない状態だった。だというのに、お前の母は……紫鬼が用意した結界を使わなかったのだ。お前の死は、紫鬼の死は、一族の死は、お前だけの責任ではない。我々全員が、その責任を負っているのだ」



 一鬼はブルー・シャーマンの言葉に静かに項垂れながら、奥歯を噛みしめた。

彼の愚かさと、不運の連鎖が妖狐を殺し、鬼を殺し、碧を殺し、紫鬼までも殺してしまったのだ。

いかにブルー・シャーマンの言葉が事実だとしても、彼には己を責めることを止めることはできない。

ブルー・シャーマンの言葉は彼の責任を否定するものではないし、否定してはいけないのだ。


 過去は過去だ……受け入れて、過去にしなければならない。

過去の出来事を現在も引きずっている限り、その心は未来に向かうことはできずに苦しみ続ける。

一鬼は昔からそうやって、全て受け入れてきた。過去を過去と割り切り、その痛みを全て心臓で背負い続けてきた。

だからこそ、今こうして彼は過去と向き合うだけの覚悟をすることができるのだ。


 実の兄である紫鬼と同じ志であり、育ての父である明と同じ志である、受け入れ、守る者……それが今の彼だ。




「分かっている。その程度、割り切れるとも。お前達に対しても、失望はしていない。あれは、不可抗力としか言いようがないからな」


「……甘いぞ。お前という光を守ることこそが、我々超越者の存在意義そのものなのだ。お前を守れなかった我々には、存在価値などないのだ。お前が望むのならば、甘んじてこの青の鬼火を……お前が与えてくれた光を返上しよう」


「良い。そのお前達が守るのを、俺はあの時自ら阻害したんだ。赤子であったとしても、その責任から逃れることはできないし、したくない。全て受け止める強さを持つと、俺は両親と約束した。こんな俺を育ててくれた、暖かい二人の人間と。その決意を慮ってくれ。黙って、ただ受け入れてくれ……俺はお前達を許す」


「……選ばれし子よ。お前はその心臓に既に私を超える怨念を背負い始めながらも、私達の罪すら背負おうというのか。お前を守れなかった、滑稽な道化である我々を……許すと言うのか」



 声を荒げることはないものの、ブルー・シャーマンはその体を震わせながら、静かに問うた。

一鬼はそれに頷くと、ゆっくりと片手を前に出して、ブルー・シャーマンに無言で握手を請う。

ブルー・シャーマンにとって彼は守るべき存在なのだろうが、彼にとってのブルー・シャーマンは尊敬すべき存在だ。

だから、その認識の食い違いを打ち消す為に彼は同等の場所に立つことを決めた。


 握手……すなわち、友好の意を示す行為を一鬼はブルー・シャーマンに求める。

利き手である右手を握らずに前に出した彼の意思は、即ち害意を持たないことを意味しており、同時にブルー・シャーマンと同等の立場になることを願うものだ。

確かにかつての彼は彼ら超越者にとって最上の存在だったのかもしれないが、今の彼はそうではない。

だからこそ、まだ完全にブルー・シャーマンの上に立つことなどできないと自負している彼は、同じ立場にあろうと提案する。




「ああ、そうだ。ブルー・シャーマン……蒼炎の超越者よ。俺はお前達にとって、最上なる存在なのだろう? ならば、受け入れろ……俺を守れなかったお前達を俺は許す。この心臓にかけて、誓おう」


「選ばれし子……空の超越者。お前は……いや、良い。分かっていた……お前にこの蒼炎を与えられたあの日、私は大陸を超えてその本質を垣間見たのだ。分かった……お前のその意思を受け入れよう」


「ありがとう、ブルー・シャーマン……」



 ブルー・シャーマンは一鬼よりも下の立場に甘んじていたい。

しかし、ブルー・シャーマンの能力や精神性を良く知る彼もまた、蒼炎の超越者の下に甘んじていたかった。

そんな両者の願いは平行線でしかなく、だからこそ彼は妥協点を自ら提示する。

自分はここで妥協するのだから、そちらも妥協してくれという願いを込めて、手を差し出す。


 そして、ブルー・シャーマンは……僅かに震える手で静かにそれに答えた。

それが恐怖や緊張ではなく、ただ感動から来ているものだと一鬼には何故か分かってしまう。

だから、彼は微笑んだ……己に過去を知る機会を与えてくれた、青の席を担う超越者に。

瞬間、蒼炎が大きく揺れて轟々とその火力を上げていく。

ブルー・シャーマンの心が感動に打ち震えるのに合わせて、蒼炎が世界を塗りつぶしていく。


 ブルー・シャーマンはただ感動に打ち震え、同時にこの回想を終わらせ始めている。

その器用さに苦笑しながらもゆっくりと手を放すと、一鬼は己の胸に手を置いた。

現在そこで拍動している心臓は彼のものでない……超越者であった兄が、死にゆく彼を生かす為に残したものだ。

彼は死人だった……それが今こうして生きている。己を知る機会を与えられている。

それがどれだけ凄まじいことなのか実感しながら、彼は微笑む。


 ただ、一つの決着をつける決意を心の中でしながら。




「しかし……俺は今まで自分を殺した妖と四六時中一緒だったのか。本当に、驚かざるを得ない。碧がよく見せていたあの媚びるような眼も、怯えも、恐れも、後ろめたさも……そういうことだったのか」


「軽蔑したか?」


「……実を言えば、もう俺はあいつに戦士としての尊敬の念は抱いていない。既に俺があいつを超えていることも関係しているが、あの脆弱さはどうにかしなければならないだろう」


「……決別するつもりはないということか?」


「ああ。しかし、一つの決着はつける。あいつは俺が狂わせた妖だ。その責任は取るし、あいつが為したことに関しても責任は取らせる。納得できないかもしれないが、どうか受け入れて欲しい……俺は、あいつと約束したんだ。この心臓に……紫鬼の心臓にかけて。だから、その約束を守ることを許して欲しい」



 一鬼は、碧との決着を今日つけると心臓にかけて約束した。

その心臓は、本来彼のものではなく紫鬼のものであり、彼は今まで知らずに紫鬼の心臓をかけていたのだ。

彼を己が命を捨ててまで救った兄の思いを、愛を誰よりも理解した彼は、その心臓にかけた誓いを遵守しようと思う。

今までにない程に忠実に、何よりも優先して、誰よりも誠実に、誓いを果たしたいと願う。


それこそが、紫鬼の愛に応える一つの術だと信じているが故に、一鬼はそうする。

今も途切れることなく鼓動を続ける兄の心臓こそが、彼を今まで生かしてくれた。

彼に、明や夜空という両親と出会う機会をくれ、今再び妖に戻る機会を与えてくれた。

だからこそ、彼は次に紫鬼と出会った時にその感謝を言葉にしたい。その心臓にかけた誓いを一度も破らなかったと誇りたい。


 だから、彼は碧との約束を守る……最後まで、紫鬼の心臓に裏切りを書き足さない為に。




「承知した……殺戮者がお前を害しない限りは、私も許容しよう。怨恨が無い訳ではないが、お前の意思を慮ろう……それが、我々にできるお前への贖罪だ」


「贖罪など必要ないんだがな……」


「ただし、奴がお前に危害を加えうる状態になった時は問答無用で殺す……と言いたいが、お前は全て己で終わらせたいのだろう?」


「ああ、済まないがあいつとの決着は全て俺がつける。手出しは無用だ……例えお前や紫鬼が相手でも、これだけは譲れない。俺の背負った罪だ。俺が償うべきことだ。俺が、この手で決着をつけねばならないことだ」


「……素晴らしい。今のお前は立派な超越者だ。その胸に全てを受け入れ、己が手で全てを処理することができる、立派な守護者だ。私はお前を誇りに思う……力を失い、我々の庇護もない状態でそこまで上り詰めたお前は、まさしく空の超越者に違いない」



 世界が完全に蒼炎に包まれて消えていくのを背に、ブルー・シャーマンは高々と一鬼を褒め称えた。

その声は感極まったが故に若干の震えを伴っており、その感動が蒼炎を揺らす。

守れなかった存在が、自分たちの庇護も妖としての力も、何もかもを失った状態で今の状態まで上り詰めたのだ。

ブルー・シャーマンにとって、再会した一鬼は紫鬼の劣化でしかなかった。

だが、それは今その精神においては紫鬼と並ぶに至っている。


 故に、蒼炎の超越者は感動に打ち震えるのだ。




「ブルー・シャーマン……蒼炎の超越者。まだまだ至らない部分はあるが、俺はこれから空の超越者として前に進んでいきたいと思う。だから、その力を貸してくれ」


「無論だ。私はその為にここに居る。お前の助けになることこそが、我々超越者の使命だ。夢だ。どうしてそれを拒絶できようか」


「感謝する。しかし……力の方は大丈夫なのか? 世界が揺れているぞ?」


「ふむ……そろそろ限界か。現実の世界に戻るぞ。愛梨も既に戻してある。あの子も大分疲労している……しっかりと褒めてやってくれ。半妖でありながら最後まで見据えた強い子だ」


「言われずともそうするさ」



 愛梨は半妖でしかなく、怨念への耐性は一鬼達と比べることなどできない程に低い。

そんな彼女が最後まで怨念渦巻く一鬼の過去を見届けた……それはとても凄いことだ。

弱くても最後まで耐えきろうとした彼女のその精神力は並のものではないし、かつて彼に依存するしかできなかったそれではない。

必死に彼の背中を負うその姿勢は真直ぐで、故に彼は愛梨を尊敬する。


 一鬼達超越者達とは違う、限界を超えたものに挑むその姿勢は、彼にとって酷く眩しいものだ。

少なくとも彼にはそのようなことはできない……彼は己の限界がまだ遥か上にあると分かっているからこそ、ひたすらに上を目指せる。

しかし、愛梨が今追っているのは超越者の領域に足を踏み入れた彼であり、追いつけないのは明白だった。


 それでも、彼女はもがいている……そこに、彼は尊敬を抱く。愛しく思う。




「今日、一つの決着がついた。これから、様々な決着をお前はつけることになるだろう。しかし、迷うな……例え紫鬼とぶつかることになっても、その意思を貫き通せ」


「ああ、そうさせて貰う」



 蒼炎が世界そのものになり、やがて闇へと変化していくのを眺めながら、一鬼は己が胸に手を当てて頷く。

それを見たブルー・シャーマンは満足そうに頷き返すと、次の瞬間一鬼の自我はそこから消えた。

二日前に経験した完全な虚無……それが再び彼に襲い掛かろうとしている。

その心臓に背負った怨念の量は前回の比ではなく、まさしく紫鬼が抱えていたものに並びうる程のものだ。


 しかし、今の一鬼にとってそれは然程重いものではない。

彼は、それよりもずっと重い怨念を白雪から受けた。碧から受けた。紫鬼から受けた。

渇望の怨念。救済を求める怨念。そして……愛という名の怨念。いかな形であろうともそれらは全て執着だ。

それら全てを受け入れた今の彼にとって、そのような虚無はただの虚無でしかなかった。

何もないということは、喜び云々以前に痛みも苦悩もないのだ。本当に、何もないのだ。


 重さが存在しないそこは……光が存在しないそこは、ただの闇でしかない。

だから、彼はその闇をいとも簡単に振り切って歩き出す。内包する光で以て焼き払って、切り捨てる。

彼からすれば、痛みが無い世界などに用は無い。背負うべきものがない世界に価値は無い。

だから、その虚無でしかない暗闇はただの虚無として割り切り、焼き切ったのだ。


 薄れゆく意識の中で彼はただ微笑みながら、その闇に別れを告げた。













 現実世界において一鬼が目を覚ました瞬間に最初に目にしたのは、碧の顔だった。


 眼を閉じて瞑想している彼女の顔が何故か己の上にあること、そして己が横たわっていることに気付くと、ゆっくりと彼は起き上がる。

それに反応した碧はびくりと体を震わせるが、彼は無視して彼女の上から退いた。

『境界』に居る間に彼女に膝枕されていたことに驚きながらも、彼はすぐに愛梨が居るであろうソファを見る。

愛梨の状態は余り芳しくないであろうと予想したが故の判断だ。


 案の定、冷や汗をかいて頭を押さえながら起き上った愛梨はふらついている。

一鬼は立ち上がって彼女の横に移動すると、そっとその肩に触れた。

その瞬間にじわりと彼の手に滲みこんでくる大量の汗は、彼女の疲労を物語っている。

彼女はやはり無理をして最後まで見届けたのだ……それに改めて敬意を払うと、彼は彼女の顔を見据えた。




「はぁ……はぁ……先輩……私……最後まで……見据えました」


「ああ、確かにそのようだな。ありがとう……俺の過去を最後まで見据えてくれて」


「いえ、私が……見たかった……だけです……から」


「それでもよく頑張った。お前は強い……その心の強さを誇れ」



 疲労を隠せないその顔に浮かぶやりきった者が見せる表情に、静かに一鬼は頷く。


ブルー・シャーマンの言葉通り、確かに愛梨は最後まで彼の過去を見据えてくれたようだ。

彼もブルー・シャーマンの言葉を疑っていた訳ではないが、確認はしておかねばならない。

ある者にとっては真実であっても、他の者にとってはそうではないことは良くあることなのだ。

今回は、本人が最後までやりきれたと思えていることが重要だった。


 愛梨がそれを感じている……それだけ分かれば一鬼には十分だ。

彼には分かっていた……今この瞬間、彼と彼女の間に存在する圧倒的な差に。

彼女もきっと気付いている……今この瞬間、彼女は永遠に彼に追いつけないことを見せつけられていると。

互いが肩を並べて歩んでいくことは不可能なのだと、二人共分かっている。

分かっているからこそ、彼は彼女に逃げを許す。

分かっているからこそ、彼女は必死に彼に追いつこうとする。


 一鬼は愛梨にとっての光だ。

碧や白雪、そして超越者達にとってそうだったように、彼は愛梨にとっての光になっている。

一度は死んだことで悲しいまでに貧弱になった子守唄ではあったが、彼女を救うことはできた。

だからこそ彼はかつて彼女に依存され、ブルー・シャーマンが制御を彼女に教え込んだことで、今こうして対等の立場で居られる。


 それも一時的なものでしかないが、確かにほんの僅かな間だけ二人は対等であれた。




「先輩……私……」


「良い。今は混乱している部分もあるだろう。ゆっくり休め……」


「……はい」



 ブルー・シャーマンが居なければ、きっと愛梨も碧と同じ道を辿っていただろう。


弱さを克服できずに一鬼を貪るだけで、いずれその身を亡ぼしていたに違いない。

もしもブルー・シャーマンに出会わなければ、彼女は一鬼に依存することしかできなかった。

何一つ返すことのできないままに、壊れてしまう道しか残されていなかったのだ。

そんな悲しい未来を、蒼炎の超越者は塗り替えた。


 超越者であるブルー・シャーマンにとって、かつての愛梨はある意味許し難い存在であったに違いない。

彼女などただ光を貪ることしかできない、妖狐と何一つ変わらない空虚な存在にしか見えなかった筈だ。

だというのに、蒼炎の超越者は愛梨を救い、一鬼が尊敬の念を感じる程の存在へと変えた。

故に、一鬼はブルー・シャーマンを尊敬する。


 ただ排除するのではなく、変化させることを選んだその精神に、彼は憧れた。


 超越者は殺戮者ではない。故に、破壊以外の方法も選べる……蒼炎の超越者はそう彼に教えてくれたのだ。




「ブルー・シャーマン、愛梨。今日は本当に助かった……ありがとう」


「ふむ……その言葉、改めて受け取っておこう」


「どういたし……まして」


「取りあえずここで休んでいてくれ。飲み物でも取って来よう」


「ありがとう……ございます」



 一鬼は、弱弱しいものの笑顔を浮かべる愛梨に対して微笑むと、そのまま台所に向かった。


もはや元来の持ち主に利用されることはないその台所は、かなりの道具が綺麗な状態で揃えられており、その性格が出ている。

味覚を失い食に興味を持てなくなった彼とは正反対で、食を楽しもうとしていたその姿勢を思い出し、彼は心の中で静かにその死を悲しむ。

救えたのに、救われるのを拒否した彼の兄貴分は、もうここには居ない。


 高橋一矢は、自刃によって死亡した。

イエロー・レディーという妖をその肋骨に宿し、知らず知らずの内に死をばら撒いていたことを知った一矢は、逃げたのだ。

その時点で一矢は既に己の意思で、悪名高い上司を一人殺していたのだから、その逃げは罪を認めたくないという側面もあったのだろう。

その頬に深い傷跡を刻み、他の同僚を傷つけていた男を、彼はイエロー・レディーに殺させた。




「……っ」



 贖罪の為に死に、同時に断罪を恐れて死んだ……それが高橋一矢の死の裏側にあった真実だ。

故に、一鬼は身勝手に死んだ兄貴分に若干の呆れを見出し、同時にその元凶となった黒幕を憎む。

虹色の肋骨があったばかりに、一矢は自刃し、羽月は……一鬼が介錯せねばならなかった。

きっと、脳の奥深くに刻み込まれた怨念がなければ羽月は一年前に死んでいただろう

愛梨だって、ブルー・シャーマンに会わねばそのまま彼に依存するだけだった。


 しかし、だからといって虹色の肋骨が招いた死を看過して良い筈がない。

イエロー・レディーは一矢を含めて結果的に九人を死に追いやり、この町に恐怖を振りまいた。

インディゴに至ってはそれ以上の恐怖をこの国に植えつけ、千を超える被害を出した上に、信頼まで下落させている。

ミサイルを町にばら撒かせ、被害を出させた原因の一端でもある一鬼は、それが良く分かっていた。


 だが、そもそも虹色の肋骨さえなければ、そのようなことは起きなかった筈だ。

一鬼がこうして己が過去を知ることも叶わなかっただろうが、彼はそれでも構わない。

死をばら撒いた虹色の肋骨……それを彼らに仕込んだ存在。彼は、それと対峙せねば気が済まなかった。

その心臓を貫き、破壊せねば怒りが収まりそうもない。

彼の次の敵は……もう決まっている。




「一鬼……」


「……碧。済まないが、話は後だ。まずは愛梨達を家に帰す。話はそれからだ」


「え、ええ……分かったわ」



 一鬼は冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注ぎながら、不安げに声をかけて来る碧にそう言った。


彼女はそんな彼の反応に益々不安げな表情を浮かべるものの、彼はそれを安心させるような言葉はかけない。

彼女に対してそのような言葉は必要ないと見做して、彼はただ愛梨を無事に家に帰すことを優先する。

彼女と決着をつけるのはその後だと彼は決めたのだ。


 一鬼はグラスを持って愛梨のところまで行くと、そっとテーブルの上に置いて対面するようにソファーに座った。

その際には、既に碧に匹敵する程の体重を上級妖以上のみが許された空気への足場生成で誤魔化すことは忘れない。

今の彼は、既に問題なく人間として生活できる範疇を超えてしまっている。

もはや、気軽に人間と触れ合うのは危険な行為になりつつあるのだ。


それこそが、一鬼が妖として覚醒することを望んだ代償の一つであり、彼も納得している。

どんなに彼が力の加減をしても、質量が違い過ぎる為、実際に相手に加わる力は途方もないものだ。

彼が軽く小突いただけのつもりでも、単純計算で彼の予想の十倍近い威力が生じてしまう。

同じ速度で小突いたつもりでも、重さが十倍違えば当然威力も変わるのだ。




「お茶くらいしかないが、まぁ飲んでくれ」


「ありがとうございます……んっ」


「ブルー・シャーマン、後どのくらい実体化できる?」


「一分もない。今できる限り節約しているつもりだが、やはり先程の負担は大き過ぎたようだ」


「そうか……」



 一鬼はブルー・シャーマンの言葉にゆっくりと頷きながら、何となく愛梨を見つめる。

ゆっくりと麦茶を飲みほしていく愛梨の姿はとても美しいが、やはり所詮は半妖止まりのレベルだ。

上級妖以上の碧や翡翠、カナリーと比べればその程度はかなり落ちてしまうだろう。

しかし、弱者であるが故の強さを彼女は持っていて、そこに彼は惹かれた。

だからこそ彼は彼女を守ろうと思うのだ。美空と明の次点に置く程に大切に思うのだ。


 自分が持っていないものを持つ者に憧れることは悪いことではない。

ただ、それが嫉妬に代わり、やがて憎しみに変わるのが良くないことなのであって、それそのものは悪いことではないのだ。

だからこそ一鬼は自分が持っていないものを持つ者達にただ憧れ、同じ領域を目指す。

己の限界がどこにあるかを理解しながらも、そこに辿り着くまで目指すことを止めない。


 その限界を超えようとするかしないかが、まさしく一鬼と愛梨の違いだった。

一鬼は限界を超えようとはしない……己が見据えることのできる限界が、まさしく限界そのものであると知っているが故に。

愛梨は限界をぼんやりとした掴めない為、ただそれを超えようとする。錯覚だと言い聞かせて、乗り越えようとする。

後者の方が困難であることは間違いなく、だからこそ彼は愛梨を尊敬するのだ。

しかし、実際の能力も精神力も彼女は彼に並べない……そのギャップが、彼女を追い詰めていく。


 だから、やがて彼女は彼の傍に居られなくなる……必死に同等であり続けようとするが故に、最後まで傍に居ることができない。




「時間は……もう四時か。流石にご両親も心配しているだろう。そろそろ帰った方が良い」


「はい……」


「! 噂をすればなんとやらだな。ご両親がおいでなすったぞ」


「え?」



 一鬼は家の外に感じた気配に立ち上がると、ゆっくりと玄関に向かった。


彼の感覚は見知った気配が家の外にやってきたことを捉えており、それが誰かも判別している。

先日までとは違い、今の彼は他者の気配を明確に判別できるようになっていた……たとえそれが人間であっても、だ。

個々が持つ心臓に宿る独特の怨念を彼は明確に判別し、そこから個々を特定していた。


 確実に怨念に対する感度が上がっており、同時に己が心臓に圧し掛かる圧倒的な怨念の存在に、一鬼は苦笑する。

このタイミングで愛梨の両親が訪ねてきたのは本当に良いことだ。

明日になれば彼の心臓に宿った圧倒的な怨念は暴れ、彼に最後の変化を……超越を齎す。

その時、愛梨が傍に居ることは避けなければならない……剥き出しの怨念を前にして、彼女が正気を保てる保証はないのだ。


 いや、もしかしたら怨念は今すぐに爆発して一鬼を変化させるかもしれない。

今回彼が抱えた怨念の量はそれこそ前回の比ではなく、愛梨の心など簡単に壊すだろう。

それがいつ暴れ始めるか分からない已上、傍に彼女を置くのは危険なことだ。

彼は個人的には愛梨に無事でいて欲しいし、ブルー・シャーマンを宿す宿主としても無事であって欲しい。

決して純粋な思いからその無事を祈っている訳ではないが、彼には彼女が必要なのだ。

ブルー・シャーマンを宿し、彼を必死に追う彼女だからこそ、彼は守ろうと思った。


 そうでなければ、明と夜空の血を継いでいない彼女を彼が守ろうと思うことはなかっただろう。




「どうも、お二方」


「!……一鬼君」


「あらあら……これはまた、絶妙なタイミングね」


「愛梨を迎えに来たのですね? すぐにお連れします」


「ああ、少し待ってくれ。君と話をしたいんだ」


「……俺と?……取りあえず、立ち話も何なので上がってください」



 一鬼は愛梨の両親……柿坂亮と柿坂愛子がノックするよりも早く扉を開けると、二人を出迎えた。

それに驚く二人だったが、何かに気付いたようにハッとすると、すぐさま彼を制止する。

まさか話をしたいと言われるとは思っていなかった彼だったが、すぐに表情を引き締めると二人を中に招いた。

二人は黙って頷くと、若干緊張の垣間見える表情で彼に続く。


 一鬼はそんな二人の姿が妙に小さく見えてしまうことに内心驚いていた。

彼は超越者として再生しようとしている……そのせいか、人間が酷くちっぽけなものに思えてしまうのだ。

勿論、彼自身も空の超越者としての生を受けたこと以外は、そこまで大した存在ではない。

空虚さを抱えていたが為に、一年前までの彼ならば魅力という面では人間の上位陣には及ばなかっただろう。

今もそれは変わらないであろうし、彼はそれを受け入れていた。


 ちっぽけな存在でありながらも、必至に生きようとする者達を一鬼は尊敬する。

何処までももがいて、苦しんで、もう逃げ出したいと思っても、それでも進むその強さに、彼は憧れるのだ。

彼は人間の能力を評価してはいないが、その精神は高く評価している。

その精神こそが文明を現代のものにまで発展させた。妖にすら対抗できる兵器を生み出した。


 彼ら人間は怨念に対しては脆弱だが、ある意味妖よりも遥かに逞しい。




「一鬼君……また随分と雰囲気が変わったな。まるで、歴戦の戦士のようだ」


「実際、いくつか修羅場を抜けてきましたので……既に佐村さんから話は伺っているのでは?」


「……そこまで分かるか。流石に、君は格が違うな」



 柿坂亮の言葉に対して一鬼は苦笑しながら、この一ヶ月程で潜り抜けた戦いを思い出す。

イエロー・レディーとの戦い、そこからブルー・シャーマンや緋蓮、山吹と出会い、その果てにインディゴとの戦いがあった。

彼が死にかけた経験はその中でも一度もなかったが、それは全て彼の力によるものではない。

況してや、インディゴとの戦いに至っては彼は何一つできずにいたのだ。


 結局碧や紫鬼が居なければ彼はイエロー・レディーとの戦い、もしくはインディゴとの戦いで命を落としていたに違いない。

それ程に彼は弱かった……力を失い、人間として生きていくしか道が無かった彼は、弱かったのだ。

しかし、それももうすぐ終わりを迎える……彼はその心臓に宿った怨念を全て受け入れ、超越する。


 元来あるべき姿に戻り、少なくとも単純な能力ではそのような醜態を晒すことはなくなるだろう。




「愛梨はここに居るのかしら?」


「ええ、居間のソファーで休んでいます。大分疲れているようなので、そろそろ家に送ろうかと思っていた処です」


「ああ、確かに昨夜は凄まじかったようだからな」


「……取りあえずは、お二人にお任せできるようで安心しました」



 一鬼は愛梨の疲労がブルー・シャーマンによって引き起こされたことを知っている。


しかし、ブルー・シャーマンのことを知覚できない二人にそれを伝えることは憚られた。

彼らは一鬼についていくらか敬吾や明から話を聞いている筈だが、それでも虹色の肋骨に関しては完全に無知であろう。

見えないものを信じることは難しく、彼はただ狂っていると思われるだけだ。

こういう時には嘘が道を開くものなのだが、彼は超越者として、また紫鬼の心臓を持つ者として、嘘はつきたくない。


 故に、一鬼は二人の誤解をそのままして、居間に入った。

そんな彼らの方を向いた愛梨の金色の眼が若干揺れ、表情に羞恥が現れる。

両親に迎えに来られることの気恥ずかしさが彼女にそのような表情をさせるのだ。

彼らは親友の息子である一鬼のことを良く知っており、酷く気に入っている。

両親が彼に愛梨のことを任せるつもりであることは彼女も自覚しており、それに関係する会話があったのではないかと疑っていた。


 愛梨の能力は両親の心を読めても、一鬼の心を読むことはできない。

両親の思いが理解できても、一鬼が彼女のことを本当はどう思っているかが、彼女には読めないのだ。

かつては忌まわしいとまで思った彼女の能力は、妖である一鬼には通用しない。

どうでも良い人間達の心を見ることはできるというのに、愛する男の本心が見えない……それが彼女には恐ろしかった。

いかに一鬼が本心を隠さないタイプの人間であったとしても、彼女はその恐怖を拭えない。


 それでも、彼女は彼を信じている……大切にしてくれているのだと信じる。


 弱いからこそ、彼女は信じることで耐える。




「お父さん、お母さん……」


「愛梨、随分疲れた顔をしているな……」


「余程怖かったのね……一鬼君、この子を守ってくれてありがとう」


「いえ、俺はただ……」


「分かっているわ。今は何も言わないで」



 一鬼には、愛子のお礼を素直に受け入れることはできない。


寧ろ、彼は責められるべきなのだ……二人の娘を戦いに巻き込んだのは紛れもなく彼なのだから。

愛梨がブルー・シャーマンを宿しているが故に彼は彼女を戦力として見做した。

だからこそ、彼は昨夜愛梨を連れて行ったのだ。あのミサイルの雨が降り注ぐ戦場に彼女を連れて行った彼は、責められるべきだった。


 責任を感じているが故に、一鬼は二人の笑顔に応えることはできない。

分かっていると言って、静かに肩を叩く亮の眼から、彼は確かな認識の変化を感じ取っているのだ。

彼らは一鬼が人間ではないことを確実に認識している……今までとは違う認識の仕方に、彼は一つの可能性を見出した。

恐らく、この数日で明は一鬼のことを二人に話していたのだ……だから、彼らの一鬼に対する態度は変わらないものの、観方が変わっている。


 ただ、それが化け物を見るようなそれではないことに、彼は違和感を見出さずにはいられない。




「……一鬼先輩、二人は先輩が思っているような誤解はしていません。全部……分かっているみたいです」


「ああ、私達は明から君の正体について聞いた。君が人間ではないことも、明かされている」


「ならば、何故?」


「何故、君を恐れないかかい? なに、簡単なことさ……君が優しいからだ。君が、力の重さを知っているからだ。君が、明と同じ守る者だからだ」


「ええ、亮さんの言う通りよ。一鬼君は本当に優しいし、何よりも力を抑える術を知っている。扱い方を知っている。そういう子だからこそ、私達は愛梨を任せられるの」


「……貴方達は……どうして、そんなに優しいんですか?」



 一鬼は胸にこみあげてくる感動を隠しながらも、甘いとすら言える二人に問いかけた。

彼は飽くまでも鬼であり、強くあらねばならない。例え人間から爪弾きものにされても、彼は耐える。

しかし、逆に優しくされることは予想しておらず、ただ彼は狼狽えることしかできない。

それを素直に受け入れることもできず、かといって拒絶するのも間違いだと思えて、動けなくなる。


 一鬼は憎まれることは恐れていないが、優しくされることが怖かった。

その優しさに応えることには全力で以てあたりたいが、それが過ぎれば大切な者が疎かになる。

彼は割り切りたい。割り切らねばならない。守るべき者だけに集中せねば、零れ落ちていく。

しかし、同時に彼は拾えるものは拾うとも決めているのだ。

その拾えるものの中に愛梨の両親は入る……しかし、まだ倒すべき存在が残っている今は抱えることはできない。


 だからこそ、彼は悩みながらもそれを受け入れないのだ。


 心の中ではその優しさに感謝しつつも、受け入れることができない。




「君が愛梨に優しくしてくれたからだ。私達は優しくなどない……ただの鏡でしかない。今、君が私達の中に垣間見ているのは君自身だ。君が愛梨に向けてくれたものだ」


「……鏡、ですか」


「そうよ。貴方が愛梨に向けてくれた優しさが、今貴方に帰ってきているの。私達人間はそういう風にできているわ……皆、鏡なの。それが何処まで汚れているかは、皆それぞれ違うけれど」


「ですが、悪意というものも確かにこの世界には存在します」



 一鬼は、碧という前例を知っている。


まだ母のお腹に宿っていた彼が救おうとしてしまったが故に、彼女は結果として大きな仇を返してくれた。

勿論彼女が悪意を持ってそれをした訳ではないことも分かっている。純粋に彼に触れたいと思ったが故の凶行であることも理解している。

だが、彼女が密かに彼を超越者から奪い、独占しようとしていたことも彼は知っているのだ。


 この世界は全てが全て鏡ではない。愛に愛で以て応える訳ではない。憎しみに憎しみで応える訳ではない。

実際、生まれた直後の一鬼は、紫鬼の愛に答えられなかった処かその妨害をしている。

紫鬼が何処まで真っ直ぐに、ただ守ろうとしてくれたというのに、それに仇を返す行為をしてしまった。

彼自身もまた、鏡ではない前例だ。




「ええ、そうでしょうね。でも、それは……鏡を完全に別の何かが覆ってしまった人達よ。人の善意を信じられない人よ。悪意しか信じられない、悲しい生き物よ。貴方は違う。私達も違う……それだけのことなのよ」


「……そう、ですか。分かりました……本当に、愛梨は良い両親の元に生まれてきたようですね」


「ふふ……それは君も同じだ。明と夜空という両親が居てこそ、今の君が居る。例え血の繋がりがなくとも、彼らは君の両親だ。君は、彼らの息子だ。血よりも濃い魂を、君は受け継いでいるのだから」


「はい。分かっています」


「なんだか、こそばゆい感じですね……でも、悪くないです」



 取りあえず、そういう見方もあるのだと受け入れることにした一鬼に、愛梨達は微笑んだ。

若干の気恥ずかしさと喜びを内包した愛梨の笑みと、真っ直ぐな信頼を見せる亮と愛子……それだけで、彼には十分だった。

彼は確かに存在を肯定されている……少なくとも、今彼の目の前に居る三人は、そう思ってくれている。

それだけで彼は胸が一杯になるのだ。


 一鬼は様々な愛をその心臓に抱えている。

信愛、兄弟愛、家族愛、異性愛、友愛、敬愛……様々な愛を彼は受け入れ、ただその心臓に怨念として蓄積していく。

本当の兄の紫鬼の怨念も、碧の怨念も、白雪の怨念も、ブルー・シャーマン達超越者の怨念も、彼は受け入れる。

もう笑い合うことも、語り合うこともできない兄貴分の怨念も、親友の怨念も抱えていく。


 それに応えるには彼はまだまだ未熟だが、いつか……いつか、それに応える日が来ることを彼は夢見ていた。




「……さぁ、そろそろ私達はお邪魔しようか。もうすぐ夕飯の時間だからな。本当なら一鬼君にも来て欲しいが、明が拗ねてしまう」


「はは……そんなことはないと思いますよ。ですが、俺も今日は早く寝てしまいたいので、実は有難いです」


「それじゃあ、そろそろお暇しましょう。ありがとうね、一鬼君。愛梨、私達は先に車の乗っておくわね」



 亮と愛子はそのまま玄関を開くと、外に出ていった。

一鬼と愛梨が話をできるようにする辺り、空気の読める両親であるが、同時に若干の怖さもそこに伴う。

彼はそんな二人に微笑ましさと若干の寒気を覚えながらも、愛梨と向き合った。

鋭い赤の眼が黄金の眼を捉え、互いの視線が絡み合い、ただそこに穏やかな静寂を齎す。


 そんな中、先に口を開いたのは愛梨の方だった。




「先輩、昨日と今日は本当にお世話になりました。埋め合わせは、また今度お願いしますね?」


「ああ、いつかしよう。明日は無理だが」


「ふふ……それじゃあ、さようなら!」


「ああ、さようなら」



 埋め合わせの約束を終えた愛梨は嬉しそうに笑うと、そのまま玄関を出ていく。

その様を柔らかな笑みを浮かべて見守る一鬼は、しかしそのまま玄関を出て最後まで見来ることはしない。

できる限り愛梨には早く彼の傍を離れて貰わねばならないからだ。

今の彼は、いつ爆発するか分からない爆弾に近い状態だ。


 怨念という名の爆弾は、真っ先に妖の部分を持つ愛梨を殺す。

彼女を巻き込まない為にも、彼はできる限り彼女が名残惜しさ故に留まろうとするのを避けたかった。

できる限り遠くに居てくれたならば、それだけで彼は安心して怨念を抱えることに専念できる。

過去に彼が抱えるべきだった怨念を、安心して取り戻すことができる。




「愛梨……ありがとう」



 だから、彼は微笑んで届かない声を紡いだ……己の判断が正しいと信じて。


 背後でそわそわとしている碧に内心呆れながらも、彼は静かに深呼吸を一つつく。

遂に、彼女との間に一つの決着をつける時が来たのだ。彼らの関係性を変える時が来たのだ。

一鬼はこれから迷いもなく己が信じた判断を下し、彼女との関係性を変化させる。

その為に、これから向かい合うのだ。彼女を向い合せるのだ。逃がさないのだ。

今までは許していた逃げを今回だけは彼は許さない。


 互いが罪と……過去と向き合うことでしか、決着はつかないのだから。






 窓を開けた瞬間頬を撫でた風に、一鬼は目を細めた。


風に合わせてゆらゆらと揺れる風鈴を眺めながら、一鬼は静かに椅子に腰かける。

この椅子は彼が小学生になった時に両親に駆って貰ったもので、付き合いはもう十数年だ。

ギシリと音を立てて彼の体重を支えるのも何度目になるか分からない程で、しかし実際は彼の体重全てを支えてはいない。

現在の彼の体重は恐らく一トンに達する程のものであり、常に他のものとの接触面に空気の足場を生成しておかねば、彼の体重は容易くそれらを破壊する。


 上級妖ならば皆できるこの能力とも生態ともいえる業は、正確には高密度の怨念を内包する肉体を怨念で以て支えているというのが正しい。

それ程に多量の怨念を上級妖は抱えており、超越者ともなればそれはもう無限に等しい量になる。

今夜、彼は最後の苦痛を通して空の超越者に戻るだろう……生き残れたならば、だが。

これから先、彼が歩むことになる覚醒と、その後に遂げる復讐を思って、彼はただ夕暮れの空を見つめる。


そんな彼を前にして、碧は落ち着かない様子で己の手を弄り、ちらちらと彼の方を見遣っていた。

彼はその新緑の眼に映る恐れと期待が綯い交ぜになった混沌に内心呆れながらも、ゆっくりと一つ溜息をつく。

碧の肩がそれに反応して一瞬揺れたことに気付かない振りをしながら、彼は彼女と向き合った。

赤い眼と新緑の眼から放たれる視線がぶつかり、一瞬で新緑の眼は怯えに包まれる。


 それに再び溜息をつきたくなった彼だが、ぐっと堪えると静かに口を開いた。




「話を始める前に聞いておくが……何か言いたいことはあるか?」


「……」


「ないようだな。なら、話を進めるぞ。まず一つ確認するが……白雪を探していたのは殺す為か?」


「っ……!」


「答えろ、殺戮者。黙殺は許さない」



 白雪の件を話した瞬間に碧の瞳が大きく揺れたのを見逃さず、一鬼は畳みかける。

彼に名前ではなく殺戮者という名で呼ばれることを嫌う彼女を煽り、答えを引き出す。

彼が見た過去では、彼女は常に白雪に対する嫉妬と軽蔑、そして愛を抱いていた。

しかし、その愛さえも彼女の嫉妬の炎の前ではないに等しい。

実際、彼女にとって超越者になる資格を有している白雪は憎い存在でしかないのだろう。


 しかし、それは一鬼も似たようなものだ。

これから話すこととこの話題が深く関係しているからこそ、彼はそれを最初に尋ねる。

彼の内側に宿る復讐の炎をかき消すには、最後の燃料を投下して酸素を失わせるしかない。

水をかけて鎮火させるのではなく、完全燃焼の末の鎮火を彼は望んでいた。

だから、その一旦を担う彼女に今逃げてしまわれては困る。


 己の本音と向き合って貰わねば、傍に置けない。




「……ええ、そうよ。だから、お願いだから……名前で呼んで。ちゃんと私を見て」


「ああ、碧。その答えを待っていた。だからこそ、次の質問に意味が出る。お前は……俺達にこの虹色の肋骨を仕込んだ者が白雪だと知っていたな?」


「っ……ええ」


「よし、良い子だ。さて、最後に最も重要な問いかけをしよう。お前は―――白雪を殺したいか?」


「……えっ?」



 名前を呼ばれたことで若干の笑顔を取り戻した碧は、しかし一鬼の三つめの問いかけに固まった。

彼が何を言っているのか理解できないと言わんばかりに見開かれた眼を見つめながら、一鬼は静かに頷く。

彼女が聞いた言葉は決して幻聴などではないと、はっきりと肯定してやる。

その心の中で燃え盛る緑色の炎を利用する為に、決意を促す。


 一鬼は白雪がこの一連の事件の裏に居ると、今回の過去を見て感じ取っていた。

勿論他の超越者がしたという可能性もあるのだろうが、紫鬼のことを考えればそれはあり得ない。

彼の兄が、簡単に捻じ曲がってしまうような輩達を超越者として認める筈がないのだ。

実際、ブルー・シャーマンのように何処までも強くあれる、まさしく超越者と呼べる者が居る。


 だからこそ、一鬼は超越者を疑うことはしない……超越者の志を持たぬ白雪を除いて。

白雪は一鬼と共に遺跡の中に居た筈で、恐らく明達はそれを十九年前に見つけたのだろう。

ならば、何故白雪はその時彼らと接触しなかったのであろうか?何故、彼女は彼と一緒に居なかったのだろうか?

そこから導き出される答えはないが、しかし一鬼は白雪が自由になってしまったことを確信している。


 だからこそ、この世界には妖の反応がないのだ……恐らくは、白雪が全員殺してしまったが故に。




「私は……」


「本音を言ってくれ。俺のご機嫌取りは必要ない。お前の本音が聞きたい。お前の本当の怨念を感じたい」


「わ、私は……私は―――白雪を、殺したい。白雪を殺して、超越者の席を奪いたい。私にないもの全てを持っていたあの子を殺したい」


「良くぞ言った……その言葉を待っていたぞ。俺は……白雪を殺す。一矢さんを死なせた原因となったあいつを殺す。羽月を俺に殺させたあいつを殺す。それで以て、人間としての神谷一鬼の人生に一つの決着をつける」


「……一鬼」



 一鬼の中で燃え盛る業火が再び具現化を始め、彼の肉体を虹色の炎が覆っていく。


しかし、それは飽くまでも表面をなぞるだけの微弱なもので、紫鬼が生み出した鬼にまでは至らない。

そもそも彼は漏れ出す力を抑えており、その漏れ出す炎も怒りが制御に甘さを生み出しているに過ぎないのだ。

彼の中に蘇りつつある虹色の炎は静かに彼の中で燃え盛る炎を具現化させていく。


 一鬼は、その虹色の炎が行き過ぎれば世界すら燃やし尽くすのではないかという錯覚に襲われる。

他の者がそのようなことを言うのはただの傲慢だが、超越者たる彼にはその可能性が十分あり得るのだ。

だからこそ、彼はその力を揮うことを内心恐れていた。まだ理解できていない己の力を使うことを忌避した。


 それでも、虹色の炎は彼の感情を表すように燃え上がり、その身を包む。


 碧はただそんな彼を見つめ、悲しげに眉を歪めるのだった。




「そんな顔をするな。俺もお前と何一つ変わらない。復讐を遂げるまでは前に進めない、ちっぽけな存在だ。しかし、ちっぽけだからこそ愛を捨てない。己の願う復讐を止めない」


「でも……私の力は……必要ないでしょう?」


「そうだな。だが、お前の意思は確認しておきたかった。今の内に言っておくが、お前は白雪が死んだ時、間違いなく悲しむ。俺を憎む」


「私が?……まさか、そんな筈がないでしょう?」


「いいや、お前はまだ心のどこかで白雪を愛している。妹のことを守りたいと思っている。己で決着をつけたいと思っている。だから、紫鬼を先に倒そうとしたのだろう? 違うか?」



 碧の白雪に対する殺意と嫉妬は間違いなく本物だ。


しかし、同時に一鬼は彼女の心の奥底に僅かに残っている妹への愛情もまた本物だと見抜いている。

二百年前、碧は一族を滅ぼそうとしたにも関わらず、紫鬼に滅ぼされたことに驚愕し、悲しみ、紫鬼を今も憎んでいる。

矛盾しているようだが、彼女は愛しているが故に己の手で終わらせたいのだ。


 一鬼が白雪を殺せば、同じようなことが繰り返されるのは目に見えている。

だが、一鬼の半径五メートル以内から動けない碧では、美空に危害を加えるのは難しい。

そもそも彼が肋骨を摘出してしまえば、今の彼女には何もできずに消滅する以外の選択肢はないのだ。

それでも、彼は彼女が何かを仕出かすことに注意しておくことにした。

二百年前も、彼女の突飛な決断が妖狐と鬼を滅ぼす原因になったのだから、注意し過ぎることはない。




「……分から、ないわ。確かに……妹であるあの子を思う気持ちがあったのは確かよ。でも……それだけなの」


「それだけでも、復讐は始められる。己が血縁者を殺した者への復讐は、止まらない。特にお前の場合はな。だからこそ、言っておこう……白雪はお前に殺させる」


「……わた……しに?」


「そうだ。本当ならば、俺がこの手で殺してやりたい処だが、止めはお前に譲ろう。その手で己が血縁に決着をつけろ……それが、俺の傍に居る条件だ。できるか? お前の妹を、その手で殺せるか?」


「っ……やるわ。やってみせるわ……貴方の傍に居られるのなら、なんだってやって見せる!! 誰だって殺してあげる! 何でもあげる! だから……お願い。捨てないで……」



 最後は消え入るような細い声だったものの、碧はその意思を表明した。


彼女の新緑の眼の奥で燃え盛る炎を見透かしながら、一鬼は静かに微笑んで、立ち上がる。

それにびくりと震える碧にゆっくりと手を伸ばしながら、彼は内心彼女を見下していた。

八尾という領域に到達していながらここまで脆弱な姿を晒す彼女に、彼は最後の尊敬を捨てる。

彼女を己よりも明らかに格下であると決定し、それ相応の対応に切り替えることを決定する。


 それでも、その原因に己が関係していることを知ったが故に、一鬼には碧を拒絶できない。

空の超越者として、紫鬼の心臓を担う者として、神谷明の息子として、贖罪を果たさねばならないという使命感が彼にそうさせる。

己が罪と向き合わねばならないと、彼は教育された。己で決めた。今日改めて誓った。

彼は、己のせいで全てを滅ぼす切掛けになってしまった目の前の女性に、最後まで責任を持つと決めた。


 彼はその手を傷つける為に伸ばしたのではない……差し伸べる為に伸ばしたのだ。




「碧……脆弱な妖狐よ。手を取れ。俺はお前を捨てたりはしない。空の超越者として、約束しよう……俺は、お前を受け入れる」


「……本当に……良いの?一鬼」


「ああ、俺の傍に居てくれ……俺には、お前が必要だ」


「……かず……き……」


 ゆっくりと……恐る恐る伸ばされた碧の手は、やがて差し伸べられた一鬼の手を掴む。


感動に体を震わせて、しっかりと両手で彼の手を握りしめながら、彼女は彼を見上げる。

潤んだ新緑の眼は本当に美しく、そこにいつも浮かんでいた媚びはない。ただ、純粋な感動のみが存在を許されていた。

一鬼はそんな彼女を美しいと思う……媚びや恐れのない、自然なその姿こそが、最上だと感じる。


捨てられない為にした決断ではあるが、碧は確かに決意した。

だから一鬼もそれに答えたのだ……心臓をかけた誓いではなく、願いで以て。

二百年前、最後の最後に彼女が願った本心は、愛されること……それだけだった。

誓いという規律ではなく、願いという夢で以て彼女に、彼の決意を明らかにしたのは、それに応える為だ。


 誓いではなく、愛そのもので以て応えるのが最良だと彼は判断した。




「……ありがとう……過去を知っても、私を捨てないでくれて……ぐすっ……ありがとう」


「怖かったのだろう? もう安心しろ。俺はお前の存在を否定したりはしない。お前を捨てたりはしない……一度抱えたんだ。最後まで背負いきってやる。それが、俺の愛だ。俺の決断だ。俺の贖罪だ。俺の願いだ」


「一鬼……一鬼……かずきいいい!!」



 一鬼はただの彼の名前を呼び続け、感涙に咽ぶ碧をそっと引き寄せると、優しく抱きしめる。


そのまま泣き叫ぶ彼女をただ抱きしめ続けながら、彼は同時に先程知った過去を振り返った。

己の心臓を奪った者を今彼は抱きしめている。鬼と妖狐を滅ぼした原因を、今その手で抱いている。

今ならば、今の彼ならば、一瞬でその元凶を殺して一つの決着を齎せるだろう。

しかし、それでは意味がない。罪を背負いきったことにならない。


 だから一鬼は碧を受け入れる……彼の罪の象徴である殺戮者を背負い、全ての怨念を背負う。

超越者になる資格がない彼女に夢を見せてしまったことを知ったからこそ、彼はそれが原因で壊れた彼女を背負うのだ。

あの時彼が彼女を拒んでいれば、それだけで全てが変わった……しかし、そうはならなかった。

彼女は壊れ、白雪も壊れ、紫鬼は死んだ彼を生き返らせる為に己の命を投げ打っている。


 全ての罪は彼に集約する……だから背負う。

その全ての怨念を背負いきる為に、彼はこれから白雪に一つの決着を与えに行く。

紫鬼の心臓にかけて、彼は全てを背負いきると決めたのだ。意思を曲げないと決意したのだ。

だから、彼はもう一人の己の罪の象徴である白雪と決着をつける……死という形で以て。

彼が白雪に殺意を向けるのは復讐故であるが、同時にそれは彼の罪そのものとの対峙でもあった。


 だから彼は白雪を殺す……己の手で終わらせる。




「もっと……もっと……抱きしめて」


「ああ、分かっているとも。碧……」


「もっと……もっと名前で呼んで! もっと受け入れて! もっと……もっと……愛して」


「何度でも受け止めてやる。何度でも……お前が望む限り」



 一鬼は己の胸の中で愛を強請る碧の頭を撫でながら、微笑んだ……全ての罪と向き合うことを決意して。

赤子でしかなかった彼に十分な判断能力があった訳ではないだろう……だが、それでも彼の罪であることに変わりはない。

だから、彼はそれを受け止める。怨念という形で、奪った未来と愛と怨恨と絶望を心臓に背負う。


美空を守り切ることはできなくなるかもしれない……しかし、それでも彼は背負わねばならない。

これが、紫鬼が望んだ未来ではないことを彼は知っている。誰よりも彼を愛してくれた兄の望んだ鬼になれなかったことも、彼は理解している。

それでも、彼は碧を受け入れる。白雪を殺す。元来逆である筈だった未来を、両者に齎す。


 全てが終わった先にあるものを自覚しながらも、彼はただその赤い眼を細めた。



―――空が虚空に変わる時は、近い。













 車の後部座席に腰かけて、外の背景を眺めながら愛梨は一つ溜息をついた。


 一鬼の力は益々強まるばかりで、彼女は少しも追いつくことができない。

彼の力を元に戻すことこそが今回の目的出会った為、彼の力が戻ることは悪いことではなかった。

だが、彼女ではそれについていけない……それが苦しいのだ。

依存し、そこから脱し、今度は自分が恩を返そうと考えている彼女にとって、彼の再生はある意味忌まわしくもあった。


 一鬼が元来の姿……空の超越者に戻る程に、彼女の必要性は益々失われていく。

況してや、彼に追随する超越者という圧倒的な守護者が存在する已上、彼女に出番はない。

彼と同じく、世界から愛された七人の超越者……その内のブルー・シャーマンは彼女に宿っている。

彼女が必要とされる理由は、ブルー・シャーマンを宿しているからではないか?……時々彼女はそう思うのだ。

実際、それは正しいのだろうと彼女は考えていた。


 一鬼は感情だけで動くことはあるが、感情のみしか持たない男ではない。

その行動には基本的に理由があり、愛梨を傍に置くのもブルー・シャーマンという駒があるから、というのも間違いではない筈だ。

彼が彼女を大切にしてくれているのは事実だし、そこに愛が存在しない訳ではない。

だが、ブルー・シャーマンという大き過ぎる駒が介入するが故に、彼女はその愛の比重がブルー・シャーマンに負けているのではないかと勘繰ってしまう。


 だからこそ、彼女は一鬼の本心を読めないことを不安に思うのだ。




「愛梨、随分と残念そうだな。そんなに一鬼君と一緒に居たかったのか?」


「それは勿論……そうだけど。先輩も今はいっぱいいっぱいだから」


「確かにそうだろうな……だが、一段落ついたら二人でゆっくりすれば良い。私達も彼のことは気に入っている。安心して寄り添え」


「そうね。ああ、そうだ。愛梨、今日のお夕飯は赤飯だった方が良いのかしら?」


「っ……赤飯って……もう、確かに泊まらせて貰ったけれど、そういうのじゃないんだから!」



 愛梨は両親の言葉に顔を赤らめながら、二人が心に抱いているものを否定した。


彼女と一鬼はそういう関係になってはいないし、まだそこまで進むのは難しいだろう。

両親が二人の仲の進展を望んでいるのは確かだが、残念ながらそこまで進展している訳ではないのだ。

確かに彼と彼女と正式に交際しているが、その関係性に大きな違いは生まれていない。

奥手である彼とはキスすらまだしたことはないし、それ以上に関係になろうと思えば、相当な時間がかかるだろう。


 その為にも、まずは一鬼が今日の夜から襲い掛かるであろう怨念に打ち勝たねばならない。

それで初めて彼にも余裕が生まれ、彼女も安心して彼に寄り添える。

ブルー・シャーマンや碧が居なければ二人の仲は良好だし、少なくとも前者は邪魔をしない。

残る後者をどうするかが問題なのだが、そちらは中々に強敵だ。

碧は一鬼に嫌われていることを恐れている為、彼に拒絶させるようなことはしないだろう。


 それでも、いつかあの女性に殺されてしまうのではないか?……そんな予感を彼女は拭えない。




「分かっているわよ。一鬼君は奥手だものね」


「そこも含めて、彼は明に似ている。夜空に似ている分もあるが、やはり明の方が近いな。あいつも、夜空の押しがなければ子どもは居なかったかもしれないレベルだからなぁ……」


「……もう。本当にバカなんだから」


「そこは親バカと言って欲しいな」


「そうね」


「はいはい、親バカ親バカ」



 愛梨は呆れたように親バカと言いながらも、内心では二人に感謝していた。


苦笑しながら彼女を見守る二人が居たからこそ、彼女は一鬼に出会うまでその心を保てたのだ。

そうでなければ、彼女は思念に押し潰されてとうの昔に壊れていただろう。

この二人が両親だったからこそ、彼女はそれを頼りに生きることができた。愛を知ることができた。

そういう意味では、彼女はある意味とても幸せなのかもしれない。


 少なくとも自分を愛してくれる両親が居る……それだけでも大きいというのに、今は一鬼も居る。

愛梨の能力を打消し、苦しみを焼き尽くす子守唄があってこそ、彼女はブルー・シャーマンと出会うまでにその下地を作れた。

蒼炎の超越者が行ったのは、その下地を生かす為の微調整の仕方の教授のみで、それ以上でも以下でもない。

言うなれば、力を扱う為の心構えはブルー・シャーマンと出会う前から既に彼女の中で完成していたのだ。


 だからこそ、ブルー・シャーマンは容易に彼女に力の制御を教えることができた……少なくとも、蒼炎の超越者本人はそう語っていた。


 事実しか言えない刃そのものである超越者の言葉なのだから、事実であることに違いはない。




「取りあえず、今日の夕飯はどうする? 愛梨の食べたいものにしようと思っているんだが」


「ちょっと亮さん、それは私の台詞ですよ。それで、愛梨は何が食べたいの?」


「ん~……それじゃあ、今日は肉じゃがで良い?」


「ええ、良いわよ。食材が足りないから、まずはスーパーに行かないとね」


「ああ、いつもの処に行こう。肉じゃがか……楽しみだな」



 肉じゃがは、一鬼の好物だった料理の一つだ。


一年前の事故で味覚を失った今の彼には、好物という概念は存在しない。

全てが無味で、食事が以前にも増して楽しめなくなったと苦笑した彼の悲しそうな姿を、彼女は良く覚えている。

それも、明日になればもしかしたら変わるかもしれない。

完全に妖として蘇った彼ならば、きっと味覚も取り戻せるだろう。


 反射的に肉じゃがと言ってしまった愛梨だったが、後悔はしていない。

彼女も肉じゃがは好きだし、何よりも一鬼にいつかそれを作ってあげたいと思っている。

今の味覚を失った彼に対しては残酷な行為でしかないが、味覚を取り戻しさえすれば、そのようなことは問題にならない。

だからこそ、明日彼が味覚を取り戻すことを彼女は望む。

何よりも、彼が怨念を乗り越えることを、誰よりも強く願う。


 愛梨の体力は本当にギリギリで、今日はもう一瞬たりともブルー・シャーマンを出現させられないだろう。

彼女は拾う故に襲い掛かる睡魔に抗うことなく、ゆっくりと意識を沈ませていく。

その最中でも、彼女は一鬼の生存を祈り、ただ彼に寄り添える未来が来るのを望む。

いつかそのような日が来るのを夢想する。




「……あっ」



 疲労故に、彼女はその変化に最初気付けなかった。


 今まで感じたことのない圧倒的な熱が彼女の体から解放され、同時に凍るように冷たい冷気が流れ込んでいく。

夢の中に沈みかけていた意識が急に方向を変えて浮上しだし、やがて目の前に広がる光景が明らかになった。

己の胸から腕が生えている……そんな多大な変化に彼女が気付くまで、実に数秒を有した。

夢心地だった精神が冷水を浴びせられたように急激に冷えていき、ただ目の前の現実を彼女に認知させる。


その腕は血に染まっており、白衣であろう服が鮮血でシミを作るのをただ愛梨は眺めることしかできない。

声を上げることも、体を動かすことも叶わずに彼女はただ静かに己の胸から生えた腕を見て、その手に心臓が握られていることに気付く。

それが誰のものなのか、彼女は理解した。理解できてしまう。理解するしかない。

今間違いなく彼女の意識は消失を始めており、その心臓には風穴が空いているのだ。


そして、彼女の眼は己の胸から生えた腕は無慈悲にも―――彼女の心臓を握りつぶした。




「?……愛梨?……愛梨!?」


「……う……あ……」


「い、いやああああああ!?」


「愛子!? あい…っ……」



 握りつぶされた心臓から飛び出た血がフロントガラスを濡らし、両親が愛梨の異常に気付く。


しかし、時既に遅く、既に彼女は死に向かっていた。全身から力が抜け、ただ澄んだ思考のみが外界の状況を受け入れ続ける。

血に濡れたフロントガラスの向こうに映るトラックが、そのまま突っ込んでくるのをただ彼女は受け入れることしかできない。

それに気付いた亮だったが、衝突を避ける猶予など残されておらず、クラクション音が鳴り響く。


 刹那、悲しい程に弱弱しい蒼炎が動けなくなった彼女が寄りかかっていたドアを焼き尽くし、彼女の体は外に放り出された。

道路の上をゴロゴロと転がっていく体は悲鳴をあげるが、彼女はそれに気付けない。

既に痛覚は消え去り、ただ視覚と聴覚のみが彼女に世界を認識させているのだ。

肌が裂けていることにすら気付けず、ただ彼女は限られた視界の中に映る景色を眺める。


 死にゆく彼女の僅かな生命力を吸って具現化した半透明の蒼炎の超越者の後ろ姿と、その向こうに見える真っ白な誰かを、ただ彼女は見つめた。




「やはり、こうなったか……貴様だけでも連れていきたいが……無理のようだな」


「ええ、無理よ。ブルー・シャーマン……貴方は強過ぎた。強過ぎる貴方にとって、その程度の生命力は実体化すら許さない程度のもの。ほら、もう消え始めている。先程の蒼炎で、その子の生命力は尽きたのよ」


「ようやく……光が見えて来たのだがな……」


「貴方は本当に恐ろしく強かったわ……光さえ失っていなければ、貴方の虚をつくことすら叶わなかった程に、貴方は完璧だった。流石は誰よりも紫鬼に信頼された探究者ね」



 ブルー・シャーマンが消えていく……蒼炎の超越者が、消えていく。


元々一瞬実体化することすら危険なこの状態で現れて、それを維持できる筈もない。

当然のように消滅を始めていくその姿は透けていく。存在感までもが希薄になっていく。

確かにブルー・シャーマンは強い……しかし、その宿主である愛梨はそこまで強くなかった。

ブルー・シャーマンの能力はまさしく世界の理に反した凄まじいものだ……しかし、その力を完全に発揮する為のエネルギーは愛梨にはない。


 だから、これはある意味必然なのだ。無防備を晒したが故の、当然の結果なのだ。

愛梨は薄れていく自我の中でそう納得しながら、それでも己を殺したであろう相手を見据える。

ブルー・シャーマンの力を行使できない已上、もう彼女にできることは一つしかない。

だから、彼女は最後の力を振り絞ってその黄金の瞳に相手を焼き付ける。怨念を乗せる。

一鬼がそれに気付くことができるように。彼が求める仇の居場所を教える為に。

全てを未来に繋げる為に、彼女は見た……夕焼けの中で佇むそれを。


 消滅していくブルー・シャーマンの向こう側に見えたのは、一人の女性だった。

百七十に届くであろう身長と、腰まで伸びた銀色の長髪、シミ一つない白磁のような肌、そして……その銀色の双眸が怪しげな魅力を引き出す。

黒のストッキングで覆われた足の曲線が非常に艶めかしく、左腕を濡らす赤が愛梨の心臓を貫いたのだと暗示していた。

その頭頂に見える、銀色の二つの大きな狐の耳が時折思い出したように震え、彼女が人間ではないことを知らせる。


 その女性は……妖狐だった。




「やはりというべきか、妖狐などこんなものか……白雪」


「ええ、妖狐は奪う者よ。殺すものよ。欲望に忠実な、獣よ。安心して……すぐに紫鬼も送ってあげる」


「ふん……貴様如きに紫鬼は殺せんよ。私相手に不意打ちしかできなかった貴様では、な」



 白雪……それは碧という名の妖狐の妹として生まれた超越の資格を有する者。

彼女はその身に受けた圧倒的な怨念によって崩壊することを恐れ、一鬼に縋った。

その一鬼は十九年前に遺跡を発見した明達によって保護されたという……ならば、白雪は?――答えは否。

死者を甦らせる虹色の肋骨などという超自然のものを生み出せるものが、そう居るか?――答えは否。


 愛梨は漸く理解した。漸く何が起きたのか、全てを掴んだ。

何故彼女達に虹色の肋骨が宿ったのか、どういう意図でそれが行われたのかを、彼女は本能的に理解する。

それを一鬼に伝えたい……全てを彼に教え、彼の望む復讐を遂げさせたい。

しかし、彼女にはそれは叶わない……もう指一本動かす力も彼女には残っていないのだ。

このままではメッセージ一つ残すことすら叶わずに、彼女は死ぬ。


 だから、ひたすら目の前の妖狐を愛梨は憎む。怨念を向ける。

その怨念が一鬼を全ての黒幕へと導くと信じて。彼女の今を一鬼の未来に繋げる為に、憎む。

彼女の眼は瞳孔が完全に開ききり、もう死亡しているも同然の状態だが、それでもただ見続ける……焼き付ける。

ピントがぼけて、何一つ見えなくなっても彼女はただ見続ける……刻み付ける。

誰よりも愛した男に最後の復讐を遂げさせる為に、彼女は事切れるまでそうし続けた。




「いずれ、また会うことになるだろう。その時まで精々怯えておくことだ。さらばだ……略奪者よ」


「ええ、さようなら……蒼炎の超越者、ブルー・シャーマン」




 そして、ついに消滅していくブルー・シャーマンの最後の言葉と、女性の冷たい言葉を最後のBGMとし―――彼女の命は途絶えた。







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