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虹色の肋骨  作者: 修羅場ーバリアン
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第二十一話





 闇には濃さというものがあり、薄い闇は濃い闇に呑まれていく。

陰の中により濃い影ができるのと同じく、より一層深い闇は、そうでない闇を塗りつぶす。

そのより一層濃く、深い闇を生み出すのは他でもない光であり、闇の程度と光は非常に深い関係性を持つ。

光がなければ闇は皆同じ濃さでしかなく、そこに程度という概念は存在し得ない。

しかし、光が現れた途端に闇には程度が生まれ、光が差さない部分にのみ濃い闇が残る。


 超越者とはまさしく陰陽の陰そのものであり、光が強ければ強い程に、一層存在感を増す。

同時に光の消失によってそれは崩壊してしまうという危うさも内包しており、光を守ることこそが彼らの使命となる。

七色の光の元素を与えられた彼らは、まさしくその元素によって陽の部分を満たし、陰陽である闇を深く、濃くしていく。


故に、彼らは元来個が抱えるのが不可能な量の怨念……闇の象徴を抱えることが可能だ。

それは言うなれば、実際は真っ黒になっているのを白で薄めて、再び黒を重ねていく作業に等しい。

その白こそが光であり、闇を薄めているようで実際はそう思わせているに過ぎない。

闇は白に塗りつぶされてもその下で蠢いており、ただそこに存在する。消滅しはしない。

そうやって無限に怨念を背負うことが可能だからからこそ、彼らは恐ろしく強かった。




「はぁ……はぁ……この程度で……死ぬ……ものですか……」



 碧はそんな超越者を目指して、以前にも増して妖を殺し続けた。

その結果、彼女は己の限界を超える量の怨念を背負うことになり、日々苦痛に悩まされる日々を送っている。

光に触れあうことでその痛みは消滅し、彼女は安らぎを得ることができるが、飽くまで一時的なものだ。

一定期間を過ぎれば、苦痛がぶり返し彼女の精神は膨大な量の怨念に再び蝕まれていく。


 碧も心の何処かでは分かっていたのだ……己には八尾が限界だと。

八尾になって早二年……九尾に至っても良いのではと思う程の怨念を彼女は既に背負っている。

しかし、尾は八本から増えることはなく、彼女の能力は変化していない。

どんなに技術を研ぎ澄ませても、経験を得ても、怨念を背負っても、絶対的な力が変動しなくなった。


 そこから、彼女は一つの事実を改めて認識させられた―――彼女は、九尾にはなれない。




「どうして……届かないのよ」



 碧は溢れ出す汗を拭うと、そのまま布団に横たわった。

一言で布団とは言っても、通常のものでは彼女の体重を支えきれない為、特注の物だ。

『東』の一族が作った特注品であるそれは、一トンを超える彼女の体重にすら耐える。

同じ妖である『南』の一族から羽毛を分けて貰って『東』が作成した布団は中々に頑丈だ。

その上、しっかりと柔らかさも保っているので、非常に素晴らしい作品だと言える。


元々五尾までは体重は基本的に三百キロを下回るのだが、六尾以降になるとその体重は激増してしまう。

そして、六尾に達する妖はヴァンパイア、東西南北に加えて妖狐の一族の六つのみだった。

元来妖狐やヴァンパイアに対して自発的に交流を持とうとする一族は少ない。

他の五つの上位種族全てと交流を持つ『南』の一族が居るからこそ、この布団は作成されたのだ。


 他にも様々な面で『南』の一族は橋渡しをしており、『北』の一族以外の四つの一族はそれを重宝していた。

それを軽視したが故に『北』の一族は孤立し、結局他の一族の援護も得られず碧に滅ぼされるに至ったのだ。

他の一族ならば、そのようなことにはならなかっただろう。

距離的に他の一族の援護が間に合わないヴァンパイア一族も、もしも距離さえそう遠くなければ他の一族の援護があった筈だ。


 実際はそれも間に合わず、先に碧が全員殺した訳だが。




「光さえ……光さえ手に入れば……」



光さえ手には居れば、全て解決する……そんな幻想を抱きながら、碧は深呼吸をした。

今現在彼女の心臓には、彼女が今まで殺してきた二千を超える妖達の怨念が積み重なっている。

この二十四年間で彼女は恐らく二千を超える妖を殺害している。

数か月前までは千を超える程度だったのだが、この数ヶ月で彼女は五つ程大き目の一族を滅ぼした。


 結果として現在の彼女は数か月前の倍、もしくはそれ以上の怨念を背負う羽目になったのだ。

彼女が望んだことではあるものの、先日のヴァンパイア一族皆殺しで圧倒的な量の怨念を背負った為に、彼女は苦痛に耐える必要に迫られた。

ヴァンパイア一族はこの世で最も妖狐に追随していた妖である、その力は準妖狐と考えて良い程だ。

平均能力も妖狐に迫る程で、一時的ではあるが空を飛べることを考慮すれば、互いが五尾以下の個体ならばヴァンパイアに分があるかもしれないくらいだ。


 しかし、それは飽くまでも平均の話であって、最高の戦闘力は碧と翡翠が居る妖狐が圧勝している。

六尾相当が限界なヴァンパイアでは、碧一人を止めることは叶わない。

七尾である翡翠ですら、碧相手に数合持てば良い程度の実力差が存在するのだ。

六尾相当ではまさしく一撃で全てが終わってしまい、勝負にならない。

一撃で一人死んでいく為、数百回の拳でヴァンパイアは滅んだことになる。


 なんとも情けない話だが、六尾相当の妖が百体居て漸く碧の力に並ぶか程度の力の差がある已上、仕方ないことであった。




「おねーちゃん、起きてる?」


「……白雪、どうしたの?」


「きたの門のお外で、おねーさんが呼んでる」


「……おねーさんですって? いったい誰のこと?」


「歯がとがってて、背中にこうもりみたいな翼が生えたおねーさん」


「!? 白雪はここに居なさい!!」



 天幕に入って来た白雪の言葉に驚きながら、碧は体を起こした。

白雪が示す者は間違いなくヴァンパイアだ……しかし、それは彼女が数日前に皆殺しにした筈。

だからこそ、彼女は一つの可能性に思い至ってそのまま天幕を出た。

朝日が昇り、暁が闇を引き裂いていくのを眺めながら、彼女は北の門目掛けて走る。


 碧が思い至った一つの可能性はずばり、生き残りが居た可能性だ。

偶然先日の皆殺しの際にその場に居なかった者ということにはなるが、直接ここに来る已上、その力に自信があるのは間違いない。

八尾である碧の存在は有名だ。それを知っていながらものこのことやってくる者は余程の強者か、愚か者だけだ。

今回の者がその前者である可能性があるからこそ、彼女は急ぐ。




「! あれね……」



 そして、すぐに見つけた……北の門の外で仁王立ちする女性の姿を。

朝日を反射させるプラチナブロンドの癖毛が風に合わせて揺れ、その表面に光の波を生み出す。

上半身はお腹が出る露出の多い服で、碧よりも白く、シミ一つない肌が惜しげもなく晒されていた。

黒のピッチリとしたホットパンツから覗くすらりと伸びた生足が、巻かれた包帯によって妙な無機質さを感じさせる。


 白い肌の中にくっきりと浮かぶ桜色の蕾のような唇は固く結ばれており、体の前で組んだ腕が整った形の胸を強調していた。

明らかになっているウェストの細さも相まって、黒いホットパンツを押し上げるヒップが艶やかな曲線美を描く。

何よりも、均整の取れた顔の中に浮かぶ二つの太陽の如き黄色い眼が美しい。

その背中から生えている黒い天鼠の如き翼は折りたたまれており、まるで聖書に出て来る悪魔のようだ。


 容姿だけならば明らかに碧よりも上のその女性は静かに彼女を見ると、その双眸を歪ませた。




「……貴方が、私を呼んだの?」


「ええ。殺戮者……私の一族を滅ぼしたのは貴方ね?」


「貴方がヴァンパイアだというのなら、そうよ。敵討ちにでも来たの?」


「……そのつもりだったけれど、貴方を見て気が変わったわ。こんな道端の石ころに滅ぼされるような一族なんて、確かに滅ぼされるしかないわね。虚栄心ばかり高くて、愚図な輩ばかりだった訳だし」


「……なんですって?」



 女性は酷く落胆したような声音で言うと、組んでいた腕を解いて肩を竦めた。

見下していることが容易に見て取れる、虫けらを見るような目つきで碧を見ると、女性はそのままゆっくりと彼女の周りを歩き始める。

その声に合わせて少しずつ上昇していく怨念の量はやがて、碧と並んだ。

ぴったりと同じ程度で止まったのだ……恣意を感じる程に同格で。


 黄色の眼を細めながら、バカにしたような笑みを浮かべる女性に、碧は握り拳を作った。

女性がヴァンパイア一族の者であることは、その背中に生えている天鼠のような羽が物語っている。

しかし、一族の仇である筈の碧を前にしても女性は少しも怒りを露わにしない。

それどころか、碧に滅ぼされた己の一族を、更には碧をバカにした笑みを浮かべる始末だ。


 この女性は何かがおかしい……そう気付いた瞬間、碧は戦闘態勢に入った。




「力の差も理解できずに、よくもまぁ戦おうなんて思えるわね。こんなバカに滅ぼされたなんて、益々救えない一族だわ……ある意味お似合いな結末ではあるけれど」


「……貴方、殺されたいの?」


「その言葉、そっくりそのまま貴方に返すわ。空っぽな妖狐には、力の差も理解できないのかしら? これが最強と呼ばれている殺戮者だなんて、笑えるわね」


「……っ!」



 挑発にイラついた碧は反射的に正拳を女性に見舞った。

一瞬で音速を超え、絶対強者すら殺しうる必殺の一撃……情け容赦のない、本気の一撃が放たれる。

しかし、それは空しく空を切り裂くに留まり、遅れてやってくる衝撃が木々を揺らし、木の葉を吹き飛ばしていく。

攻撃を躱されたことに驚き、そのまま固まった彼女の拳の上にふわりと女性は着地した。


その重さは精々人間の成人女性程度のものだった為、次の瞬間にはそれを振り払おうと彼女は動こうとし……そのまま無様にこけてしまう。


 突然女性の体重が変化し、碧はそのまま腕ごと地面に倒れ伏せてしまったのだ。




「ぐッ!?」


「……この程度の重さにも耐えられないなんて、呆れるわね」


「……こ……っの!」



激痛で以て異常を訴えかける腕の上に乗ったまま、女性は恐ろしい程冷たい眼で彼女を見下ろす。

それに対抗して碧は全力に腕を持ち上げ、女性を放り投げようと試みる。

しかし、一瞬早く後ろに跳躍した女性はふわりと地面に降り立つ。


小ばかにしたような笑みの中に浮かぶ、見下したような黄金の眼が碧の中の激情を刺激する。

その激情に身を任せたい衝動に駆られながらも、彼女は冷静になって相手の動きを見切ることを優先した。

ここでただ激情に身を任せても、待っているのは敗北のみだと彼女の勘が語っているのだ。

女性を注視すると、碧はゆっくりと構えを取った。


 そんな彼女に対して、女性は構えすら取らずにやれやれと呆れたように首を振る。




「本当に残念だわ……こんな雑魚一人に滅ぼされるような種族が私の種族だなんて」


「貴方はいったい何なの? 何故、一族を滅ぼされても怒り狂わないの? 何故、私よりも……」


「強いのかですって? 本当に分からないのかしら? 本当に心当たりがないのかしら? 貴方は既に分かっている筈。既に理解している筈。こうすれば、素直になれるでしょう?」


「――!……まさか……そ……んな……」


「ふふ、流石にここまで来れば理解するしかないものね。認めるしかないものね」



 碧は痛む腕が修復していくのを感じながらも、構えは解かない。

女性は彼女のその姿に対して更に嘲笑を向けると、ゆっくりとその翼を開いていく。

それに伴って膨れ上がっていく怨念の量はあっという間に彼女のそれを超え、何倍処か十倍、何百倍……そして遂には比較すらもバカらしい程の量にまで達した。

油断すれば意識をやってしまいそうな程の濃厚な存在感が、闇が、彼女を圧倒する。


 その羽を広げる動作はただのお遊びだと碧も理解していた。

だが、実際に膨れ上がっていく女性の力はそうではない……紛れもない事実なのだ。

今彼女の眼の前に居る女性は、間違いなく彼女よりも強い……それも、圧倒的に。

何割や何倍という程度ではなく、まさしく桁が違うのだ……強さも、抱える怨念も。

恐怖を感じながらも、同時にその中に一つの光を見出した彼女は眼を見開く。


 ただ驚くしかできない彼女の表情を見た女性はニヤリと笑うと、告げた。




「貴方は……」


「私の名前はカナリー・ロード―――光から黄色の席を承った、黄色の超越者よ」



 美しい顔を歪に歪めて、女性は微笑んだ―――驚愕の事実をその口にして。










 美空は病院の待合室で自分の順番が訪れるのを待ちながら、辺りをうろつく山吹の姿を眺めていた。

生前病院に勤めていたらしい山吹は、病院の様子を見て何処か嬉しそうにしている。

彼女からすれば何が面白いのか良く分からないが、しかし山吹は本当に嬉しそうに受付やその奥のファイルの棚などを眺めていた。

価値観の違いをそこに見出しながらも、彼女は静かに姿勢を正す。


 今の処頭痛は起きていないが、彼女の最近の頭痛の頻度は尋常なものではない。

一種の危機感を感じながらも、美空は手に持った紙を弄りながら、己の番がくるのを待った。

近年の病院は自動化が大きく進んでおり、受付も二回目以降は機械で行うことが可能だ。

カード読み取り、本人確認などの簡単な受付を終了すると、番号か書かれた紙が発行される。

順番待ちに関しては、待合室にあるディスプレイに音声と共に表示される番号と、その紙の番号を確認すれば良いだけだ。


こういった自動化は効率化に貢献しているが、同時に老人にとっては難しいものでもある。

病院といえば、県災害は人間を相手にすると思っている大多数の老人にとっては、この変化はついていくのが難しい。

そういった時代の流れに敏感な者ならばまだしも、そうでない者は結局人間の手伝いが必要だ。

それでも、全ての受付を人間がやるよりは遥かに効率が良いのは変わらない訳だが。



――ピンポ-ン



「あっ、私の番だ」



 不意に鳴り響いた若干間抜けな機械音に共に表示された数字は美空の手元にある紙に書かれたものと同じだ。


ゆっくりと診察室へと向かうと、穏やかに、しかしはっきりと聞こえるようにノックをする。

それに対して鈴を鳴らしたような澄んだ声が、「どうぞ」と入室を許可した。

声に導かれるまま彼女は扉を開こうとして……その奥に何かを感じ一瞬止まってしまう。

しかし、すぐに気のせいだと首を振ると、改めて扉を開け診察室の中に踏み入った。


瞬間、目の前に現れた女性の姿に思わず美空は息を呑む。

腰まで伸びた、サラサラで艶やかな白とも白銀ともとれる色の髪の毛に、知性を感じさせる碧眼、そして絹のように滑らかで、シミ一つない白い肌……絶余の美女がそこには居た。

白衣で軽減されているものの、その全身の艶やかさは隠し切れず、黒のストッキングで覆われた足の曲線が非常に艶めかしい。

同性である美空ですらその美しさに驚き、ただただ言葉を失う。


 女性はそんな美空に微笑みかけると、口を開いた。




「どうぞ、座って」


「あ、はい」


「神谷美空さんで合っているかしら?」


「はい」


「私の名前は白石銀子って言うの。宜しくね」


「こちらこそ、宜しくお願いします」



 消毒液の匂いが滲みついた部屋の中で、女性は笑顔で名前を告げる。

その動作が一々完成されており、美空は女性……白石銀子に対して若干の嫉妬を覚えた。

仕草や雰囲気は完全にプロフェッショナルのそれで、無駄がない。

彼女は銀子程綺麗ではない。優秀ではない……そう思うだけで、彼女は嫉妬の炎が燃え上がるのを自覚した。


 美空はそんな己を恥じながらも、止められないことに苦悩する。

誰もが同じではないことなど分かっている筈だった。平等ではないことなど、とうの昔に理解している筈だった。

だが、実際に己よりも明らかに優れた者に相対する度に彼女は嫉妬してしまう。

昔から彼女は嫉妬深い性格ではあったが、ここまでではなかった。

最近になって、彼女は感情を制御しきれなくなってきたのだ。


 何が原因なのかは美空には分からないが、彼女の感情が揺れに揺れているのは間違いない。

一鬼に対する碧や愛梨の態度に揺らぎ、その思いの強さに、ひたむきさに彼女はいつも嫉妬していた。

未知への恐怖も何度か味わい、紫鬼との遭遇の際には恐怖の余り失禁した程だ。

たったの二週間程度で彼女の感情は制御できないレベルにまで達していたが、その原因となり得る様子は多過ぎる。


 彼女には、原因の特定は非常に難しかった。




「頭痛が酷いみたいだけど、具体的にはいつ頃から?」


「頭痛は一年前の……交通事故からです。多分ご存じだと思いますけど」


「……ああ、あれね。その時、精密検査はしたのかしら?」


「はい。私は無傷だったんですけれど、受けされられました。多分この病院だったと思います」


「あら、そうなの。心配なら、もう一応受けてみる?」


「……そうします……ッ!?」



 銀子の言葉に静かに頷くと、再びぶり返した頭痛に頭を抑えた。

視界がぐらつき、今まで見たことがないものが見え、聞いたことのない筈の声が彼女をかき乱す。

滑らかなテクスチャーが彼女の脳裏に浮かび、言いようのない興奮を呼ぶ。

まるで甘い蜜を啜っているかのような甘い錯覚に陥りながら、彼女は平衡感覚を失って揺れる。




「大……夫……?」


「は……い……」


「ちょっと……神……さん?」


「大……丈…夫……です、から……」



 脳裏に次々と浮かぶ様々な光景に、美空の頭は熱を孕み始めた。


処理しきれない圧倒的な情報量に襲われ、完全に平衡感覚を失った彼女は座ったままで居ることすら困難になる。

心配そうに声をかける銀子の声はくぐもり、姿はぼやけ、遂に彼女の視界は真っ暗になった。

バランスを保てずにそのまま崩れるように横たわり、荒い息をしながらも立ち上がろうとして失敗する。


 色を失い、音を失い、触覚も何もかもが消え失せていく中で、ただ彼女は恐怖を感じていた。

今まで味わったことのない未知の虚無に遭遇していた彼女はただ恐怖し、震える。

己の肉体の所在は愚か、存在そのものすらもあやふやになって、ただただ彼女は闇の中を彷徨う。

近くに誰かが居る筈なのに、それを知覚できずに彼女はその場でもがく。

いや、もがいているつもりだが、もがけているのかすらも分からない。


 そして、五感が著しく減衰し完全に何も感じなくなった暗闇の中で、彼女の意識は途絶えた。











 朝日が昇りきり、もうすぐ早朝から朝へと変わるであろう時間に、妖狐の集落の北の外れで碧はただ驚愕していた。


 彼女の前で腕を組んだまま胸を張って、彼女を見下ろすように見ている女性……カナリーの言葉を彼女は理解しかねている。

いや、実際は理解できているが、したくなかったのだ。己が何を望んだものを既に持っている者に出会ってしまったことを認めたくなかっただけなのだ。

目の前に居るヴァンパイアが光に選ばれていたなどと―――超越者であるなどと。


 カナリーの容姿は完全に碧を上回っており、その能力も桁違いに上であることは明らかだ。

あらゆる点で碧は目の前のヴァンパイアに負けている……それが彼女をイラつかせる。

激しい嫉妬の炎が彼女の中で燃え上がり、彼女自身すら焼き尽くさんばかりにその温度を上げていく。

しかし、いくらその温度が上がろうとも目の前のヴァンパイアを焼き尽くすことは叶わない。


 それが余計に彼女を苛立たせ、より一層燃え盛る嫉妬の炎を強めていく。




「ふふ……凄い嫉妬。貴方の眼が緑色なのは、きっと貴方が嫉妬の申し子だからね」


「……敵討ちでないというのなら……何をしにきたの?」


「光が……我らが主が選んだという貴方を見定めに来たのよ。少しは期待していたけれど……結果は散々ね。怨念もちっぽけ。技術もない。力もない。速度もない。何よりも、精神が脆い。本当に情けない程弱い女ね」


「好き勝手言ってくれるわね……」


「好き勝手言われる程に脆弱なのよ、貴方は」



 肩を竦めて苦笑するカナリーは隙だらけだが、しかしその隙をつくことすらできないことを碧は直感的に理解していた。

彼女の能力値では、目の前のヴァンパイアの後出しに反応することはできない。

だというのに、相手は彼女の攻撃を容易く見切り、それに反応できる。

今までの戦いは常に彼女が強者であり、敵は弱者であったが、今は真逆の状態なのだ。


 下手な戦士ならば、今のカナリーの無防備な状態に攻撃を仕掛けるだろう。

しかし、碧には両者の力の差を理解することができる。己の力が絶望的に足りないことが分かってしまう。

だからこそ、口では毒を吐きつつも動けないのだ。明確な負けの未来しか見えないから、ぶつかれないのだ。

明確な死が待ち受けるそこに行けば、彼女は光に触れることができない。


 もう二度と、あの光に触れることができなくなる……そう考えるだけで、彼女は遣り切れない思いに胸が引き裂かれそうになる。




「へぇ……そんな顔もするのね。意外だわ。紫鬼が歪と称するのも、無理は無さそうね」


「貴方……紫鬼よりも強いの?」


「まさか。私は愚か、他の超越者達も紫鬼には一度も勝てなかったわ」


「―――!?……そんなばかな。紫鬼は私と同じ程度の力しか持たない筈……!」


「ああ……成程。貴方、紫鬼が力を隠していたことにも気付けなかったのね。やっぱり、貴方は超越者にはなれないわ。最初から資格がないのよ、貴方には」



 おかしそうに笑うカナリーの姿は酷く美しく、残酷で、怒りを呼び起すものだった。

碧は怒りで頭がおかしくなりそうな錯覚すら覚えながら、己を嘲笑うヴァンパイアを睨む。

殺し損ねた生き残りではあるものの、もしも実際に相対していたならば、死んでいたのは彼女の方だっただろう。

彼女は運が良かった……それだけは確かだ。


 しかし、同時に超越者になれないことを超越者から指摘されたという点では、彼女は運が悪い。

このままいけば超越できるかもしれないという彼女の淡い幻想は砕かれ、現実が襲い掛かってくるのだ。

心の奥底では理解していた事実が明確に示されることで彼女は揺れ、心臓に溜め込んだ怨念がそのまま崩れろと囁く。

しかし、彼女にそうすることはできない。


 彼女は、光を手に入れるまで壊れる訳にはいかないのだ。




「ああ……まだそういう顔をするのね。諦めないのね。そのまま怨念に押し潰されて死ぬしか未来は残されていないというのに」


「道はあるわ……そうよ。光さえ、光さえ手に……」


「……なんですって?」


「が……はっ!?」



 碧が光のことを口にした瞬間、カナリーの表情は一変した。


そこから瞬きする暇すらない程の僅かな時間で、碧は首に衝撃を感じて咽る。

眼前で睨んでいるカナリーに首を絞められたのだと、彼女が気付いたのは一瞬後だった。

注視していた彼女ですら全く目で負えない速度で迫ったカナリーの腕はキリキリと彼女の首を締め上げ、そのまま持ち上げてしまう。

ミシミシと悲鳴を上げて捻じ曲がっていく骨は、まさしく危険信号そのものだ。


このまま首を断たれてしまえば、彼女は間違いなく死ぬ。

いかに全ての妖の原動力が心臓であったとしても、脳への力の供給が止まれば死ぬのだ。

首を折られたくらいでは力の供給は激減する程度だが、断たれてしまえば確実に死ぬ。

妖にとっての弱点は脳と心臓……それ以外の箇所なら、いくら破壊されても時間が経てば再生する。


 しかし、逆に言えばどんなに他の部分が無傷でも、そのどちらかが致命傷を負えば死ぬのだ。

それは八尾という規格外の力を持っている碧ですら例外ではなく、彼女はただ他者よりも頑丈であるに過ぎない。

それを上回る攻撃力を持つ者が居れば、容易に殺される可能性だってある。


 その脅威が、今まさに彼女の眼の前に居た……超越者という、完全なる格上が。




「光を手に入れる? 貴方が? 資格すら持たない貴方が? 嘗めたことを言ってくれるわね。光は手に入れるものなどではないわ」


「ぐ……がっ……」


「私達が光を所持するのではなく、光も私達も、空の超越者が所持するのよ。光はただの力でしかなく、それを扱う精神に私達はついていくのよ、貴方、この首輪はそう意味でつけた訳ではないの? そもそも光は私達の付属品などではないし、況してや貴方の欲望を満たす為のものでもないわ。まぁ、こんなことを言っても貴方には理解できないでしょうね……ただ求めることしかできない貴方には」


「っ……ゲホッ……ゴホッ……」



 ゴミを見るような眼で見ながらそう吐き捨てると、カナリーは碧の首を掴んでいた手を離した。


急に首が解放されたことで取り戻されたエネルギーの循環によって、彼女が咳き込んでいるのを見下ろしながら、カナリーはその翼を開いた。

閉じている状態ではかなり小さいが、片方だけでも二メートル近い幅を持つそれは、まさしく闇の如き黒一色だ。

碧は咳き込みながらも、立ち上がろうとし……その姿に威圧される。


 彼女は、純粋な力の差に対する恐怖などとうの昔に忘れていた筈だった。

十数年前までならば負けることはあったが、六尾になった十五歳頃には、彼女が圧倒的な力量差に恐怖することはなくなった。

その頃には既に力も技術も経験も歴戦の戦士と自負できる程にあったのだ。

そして今、八尾となった彼女に敵う者など居ない筈だった……だが、今彼女の目の前にそれは居る。


 彼女が滅ぼしたヴァンパイアの生き残りであるカナリーという超越者が。




「これだけは言わせて貰うわ……貴方が思っている程超越者は楽なものではないのよ。酷く痛みが伴うものであることを貴方は知らない……いいえ、知ることもできない。強く生きる者は皆痛みを背負うものなのよ……それに耐えねばならないのよ。その程度の量の怨念で押し潰されそうになっている貴方では、絶対に無理ね」


「っ……そんな……ことは……」


「あるわ。そもそも、貴方程度があの紫鬼と同等だと思っていたなんて、本当に滑稽な話なのよ? 同じ超越者である私達ですら、誰一人紫鬼には及ばない。あの力には、精神力には届かない。それを貴方如きが同格と思い込んでいた?……笑わせてくれるわ」


「………っ」


「今回は見逃してあげる。だけど、次は無いわ……私以外の超越者に会わないように精々気を付けることね。奴らは私程甘くないわよ」



 碧はただ唇をかんで悔しさに必死に耐えながら、去っていくカナリーを見た。

真っ直ぐ伸びた背筋に朝日が当たって、大部分が露わになっている背中に光沢を作る。

カナリーは碧よりも遥かに美しく、強い。全ての面で彼女はあのヴァンパイアに負けている。

どうすれば勝てるのかと考えることすら無駄であろう圧倒的な力の差に、彼女は拳を握りしめた。


 碧の中に渦巻くのは悔しさ、恥じ、そして……嫉妬だ。

彼女は恐怖に屈しはしなかったものの、全く相手にならなかった己の不甲斐なさを恥じ、悔やんだ。

全ての点において己を凌駕しているカナリーに彼女は憧れ、深く嫉妬した。

あのような化け物が他にも居るという超越者に憧れ、しかし嫉妬の炎を燃やさずにはいられない。


 空虚である碧には、器からこぼれ出す程の光で満たされている超越者達が羨ましかった。




「くっ……う……なんで、私じゃないの? どうして、私じゃ……」


「おねーちゃん」


「! 白雪……」


「おねーさんは?」


「……もう、帰ったわ」



 不意に背後から白雪に声をかけられたことで、碧はすぐさま泣きそうになった己を覆い隠す。

彼女は混沌とした感情に振り回された結果、三尾程度の妹の気配を察知しながらもそれを放置していたのだ。

いつもの彼女ならば察知した時点で己を切り替えることができていたが、今の彼女にはそれも叶わない。


 碧は超越者に超越できないと告げられ、戦いも一方的で、その言葉にも反論することすらできなかった。

まさしく完全敗北というしかない悲惨な結果に、彼女は内心涙を流す。

しかし、己よりも弱い白雪の前では、彼女は泣けない。強者である彼女は強固であらねばならない。

不安定さを露呈させることで、弱者を不安にさせてはいけないのだ。


 だからこそ、彼女はより一層光を欲する。

弱い己を惜しげもなく晒すことのできる上位種が鬼の里に居るのだ……それを彼女が求めない筈が無かった。

母は一族のことで頭が一杯で、一族の者達にとって彼女は恐怖の対象でしかない。

そもそも、妖狐は他者を愛することができない。感じることはできても、抱けない哀れな一族なのだ。


 だからこそ奪おうとする。他者から奪うことばかり考える。


 空虚な癖に力を持ってしまった一族……それが妖狐だった。




「けんかしたの?」


「そうね……お姉さん達は同じひとを好きになっちゃったから」


「なら、うばえば良いってお母さんが言ってた!」


「……そうね。それが妖狐だものね」



 碧は純粋に妖狐の教えを口にする白雪に微笑み、内心それを鼻で笑った。

愛せない癖に愛されたがる愚かな一族は奪うことしか知らない。与えることができない。

子に持つ愛情すらも、実際はただの執着心でしかない。己が所有物であるという考え方しかできない。

他者の物を奪う癖に、自分の物を奪われるのは嫌なのだ。平気で殺す癖に、殺されるのは嫌なのだ。


妖狐はそんな嫌悪感を誘発する醜い心を持つ癖に、容姿は妖の中でも非常に良い。

元々抱える怨念が全てを決定する妖の世界においては、抱える怨念の量がそのまま精神力、能力値、外見に関係してくるのだ。

妖狐はその中でも力と外見に特化しており、その反面精神は歪んでいる。

幾分か程度は下ではあるものの、ヴァンパイアも似たような存在だ。

傲慢で、虚栄心が強く、嫉妬深い。


 どちらも本当に醜く、哀れな一族だ。




「おねーちゃんは、そのさいきょーの妖狐なんだよね?」


「ええ、そうよ……だって、私は―――誰よりも殺し続けた殺戮者だもの」



その傲慢で、空虚で、嫉妬深い一族において、一際その特徴を併せ持つ碧はただ笑った。

誰よりも嫉妬深く、貪欲な己に他の妖狐を笑える資格などないことを理解しているが故に。

似たような種族であるヴァンパイアでありながら、超越者になれたカナリーの嘲笑を思い出して。

苦痛を訴える胸を押さえながら、彼女はただ微笑んだ……大した愛情も感じていない己の妹に。


 それを見つめる白雪の銀色の眼に、一瞬嘲りが浮かんだことにも気づかずに。











 世界が再びその時間の流れを緩慢にした頃、一鬼は今まで目撃した情報を脳内でまとめていた。

碧達の本質や苦悩、超越者達の在り方、紫鬼の思い、母の思い……それらを確かにその胸に受け止める。

まだ一つの終末は見えてこないが、近い内にそれを見ることになるであろうと彼は感じていた。

これは恐らく予感などではなく、想起なのだろうと思いながら、彼は隣に佇むブルー・シャーマンに目を向ける。


 相も変わらず悠然としているブルー・シャーマンは静かに頷くと、その全てを震わせる声を『境界』に響かせた。




「選ばれし子よ。全てを見せると言っておきながらいくつか省いてしまったことを許して欲しい。しかし、お前がお前を取り戻すのにそれらは不必要だ。我々がお前を守り切るのには、不可欠だ」


「信用しているとも。だからこそ、俺はこの先を見なければいけない。あのカナリー・ロードという超越者にお前、他の三人の超越者、そして紫鬼……これ程の圧倒的な者達がこの時代には居た。だというのに、今俺の眼の前には無力さを悔いるお前の姿がある。お前達は……俺を守れなかったんだな?」


「……そうだ。だからこそ、お前は知らねばならない。断罪せねばならない……無力だった超越者と、誓いを破った愚か者共を」


「進めてくれ……準備はできている。ここから、全てが壊れていくのだろう?……俺に終末を見せてくれ。俺が神谷一鬼となった全ての原因を」


「ああ、行くぞ……我らが光よ」



 ブルー・シャーマンは静かにその片手をあげ、再び世界の時間が動き出す。


これから始まるであろう一つの終焉に凡その予測をつけながらも、一鬼はただ黙してそれを見守る。

着実にその心臓に集まりつつ……いや、戻りつつある大量の怨念をしっかりと背負いながら。

その全身から滲みだす虹色の炎を見遣ったブルー・シャーマンが感動に打ち震えていることに気付くこともなく、彼は己の一つの終焉を見定めるべく、その赤い眼を見開いた。














 その日は、妙に空の雲行きが怪しい日だった。


 カナリー・ロードとの戦いから早一ヶ月程が経過した。


 雨が降り出すのかそうではないのか分からない微妙な空気に、碧は辟易していた。

何故か今日に限って風に揺れる森は妙に不安を煽り、鳥の囀りは一切聞こえてこないのだ。

じめじめとした空気が彼女の気分を重くし、つい最近の出来事も相まって閉鎖的な気分を生み出す。

先日の明確な敗北もそうだが、やはり彼女にとって一番辛いのは超越者になれないことだ。


 確かに碧は超越者であるあるカナリー・ロードに負けはしたが、それは然程重要なことではない。

妖狐最強のとしては非常に問題になるが、彼女個人にとっては、超越者にはなれないことの方が遥かに重要な問題だった。

そう……勝つ云々以前に、そもそも並ぶことができないのだ。

悲しいかな、今まで圧倒的な力で暴れまわってきた碧が初めて真摯に欲した光は彼女を選びはしたものの、彼女には資格が無かった。


 光に他者が触れた時、その強大さに、その愛しさに超越者は泣くそうだ。

紫鬼曰く、超越者は皆他者と大きく違う能力を持っており、それが時に迫害を生む。

彼らには心休まる居場所がなく、心の拠り所さえ存在しない。生きる目的すら持てない。

そんな彼らに光は安らぎを与え、心の拠り所になってくれる。生きる理由になってくれる。

故に、彼らはその光に報いる為にそれを守る。光を守ることこそが己達の使命であり、夢なのだと知る。


 そういう狂った部分を持つのが超越者だが、その力は確かだ。




「……まだ足りない」



 いつものように返り血で血まみれになりながら、碧は静かにそう呟いた。

彼女の周りにある百数十の死体は、所謂人狼と呼ばれる種族のものだ。

人狼の力は五尾相当が限界で、生前のヴァンパイアとは同盟を結んでいた。

今回彼女が人狼を滅ぼしたのは、彼らがヴァンパイア一族の敵討ちを画策していたからだ。


 珍しくヴァンパイアとかなり友好的な関係を築けていた彼らは、敵討ちをしようとした。

それを察知した翡翠によって碧は派遣され、ここに惨劇が生まれた……それが今回の顛末だ。

五尾相当が限界の人狼程度では、いくら束になっても彼女を倒すことはできない。

単純な力の差ですら千倍……飽くまで互いがまともに戦える状態であったならばの話だが。

実際は、人狼達は碧の持つ怨念に圧倒されて隙を露わにし、あっという間に葬られた。


 絶対強者を前にした時、一瞬の隙は絶望的な未来しか呼ばないのだ。




「駄目だわ……やっぱり何も変わらない。こんな奴らのちっぽけな怨念じゃ、変われない。もっと強い怨念が必要だわ。もっと渇いた者達の、飢えた者達の……」



 碧は血濡れながらも少しも興奮できずに居る己に苦笑しながら、死体を放置して歩き出した。

戦闘の中でのみ生を感じることができる……彼女は戦うことでしか、己の存在意義を確かめることができない。

戦いとは互いの命を賭けて行うものであり、その果てにある勝利においてのみ、彼女は己の生を実感できる。


 妖狐とは皆そういうものだ。

空虚で、他者を愛することができず、ただ力を揮うことしかできない。戦いの中でしか生きていけない。

だからこそ、そうせずとも生を実感できる他の種族を妬む。愛を知っている他の種族を憎む。

彼らは愛せない癖に愛されたいと思っている。愛するということすら考えない癖に、愛を強請る。


 碧もまたその妖狐の一人ではあるものの、少しばかり異なる面を持っていた。

彼女は愛することを知っている。歪ではあるものの、母が教え込んだ執着はいつしか愛へと変化していたのだ。

だからこそ、彼女は他の妖狐を嘲笑う。愛することのできない彼らを、内心では軽蔑している。

五十歩百歩でしかないことを知りながらも、その差を噛みしめていた。




「ああ、そうか……一番近くに、居たじゃない」



 空へと駆け上がりながら、碧は一人呟く……己が次の段階に進むのに必要なものに気付いたが故に。

己に足りないのは怨念……そう彼女は判断した。そう理解した。

実際は、今抱えている怨念にすら押し潰されかけていることを棚上げにして、彼女は今以上の怨念を抱えようとする。

愚行であり愚考であると知りながらも、余裕のない心がそれしかないと急かすのだ。


 超越者になることでしか、紫鬼達に碧が光の傍に居ることを許させる道は無い。

カナリーにすら勝てなかった処か、まず勝負にすらならない程に圧倒されたのだ。

他の超越者がそれ以下の能力しか持たないとしても、間違いなく皆彼女と同等かそれ以上の力を有している。

特にその誰もが勝てないという紫鬼に至っては、どうしようもない程に圧倒的なのだろう。


 碧が光を手に入れるには、超越者になるしか道がない。

いくら超越者を騙して一度光を手に入れることができたとしても、彼らはすぐにやってくる。

追いつかれるのはまず間違いなく、追いつかれてしまえば彼女は死ぬ。

どう足掻いても、彼女では超越者相手に逃げ切ることも戦って勝利することもできないのだ。


 だから、彼女は超越者を目指すしかない。




「くく……はは……はははははは!!」



 己の無様さに泣き笑いを浮かべながら、碧はそのまま一気に加速した。

音の壁を越え、音速の世界に踏み込んだ彼女は返り血が風で吹き飛んでいくのを傍目に、走り続ける。

己が生きていても良いのだと教えてくれた光を手に入れる為に、彼女は次の獲物に狙いを定めた。

それは、確実にどの一族よりも強く、誰よりも渇き、飢えている一族だ。


 殺戮者を生み出したその一族……妖狐を次の獲物に定めた碧は、そのまま狂ったような笑いを浮かべて空を駆けて行った。












 その日は、妙に胸騒ぎがする日だった。


何故か今日に限って風に揺れる森は妙に不安を煽り、鳥の囀りは一切聞こえてこないのだ。

じめじめとした空気が彼女の気分を重くし、つい最近の出来事も相まって閉鎖的な気分を生み出す

元来根暗な部分のある彼女……翡翠は、ザラついた感覚を拭おうと首を振った。

既に日は真上に昇っており、時間がやって来てしまったことを彼女は自覚する。




「大陸の向こうで掃除をしている為、紫鬼は今ここには居ない。居るのは四尾以下の雑魚だけだ……中央の屋敷以外は全て破壊しろ」



 いつものように空から見下ろすのではなく、生い茂る森に潜んでいる己の現状に苦笑しながら、翡翠は静かに片手を上げ、下ろした。

それに合わせるように森の中を走り抜けていく同胞……妖狐達が向かう先は鬼の里。

全ての妖の救いになり得る光があるというそこに、彼女は今回狙いを定めたのだ。

心臓の誓いは絶対であり、族長がそれを故意に破ることはまさしく一族皆殺しに匹敵する罰が与えられるべき程のものである。


 それを理解しながらも、翡翠は実行に移った。

己が長女である碧が……誰よりも空っぽで殺し合いの中でしか己を見いだせない妖狐の象徴そのものだった娘が、それ以外の希望を見出した光がそこにある。

だからこそ、彼女はそれを得ようと思った。その光を一族のものにすることで、一族を次の段階に移行させようと画策した。


 翡翠が望みは、一族が愛を知ること……ただその一点にある。

愛することを知れば、そこからより一層妖狐は強力な一族になっていく。

今までただの執着でしかなかったものが愛故の執着になり、益々怨念は強まるだろう。

愛することを知った時、妖狐は愛する痛みを知り、愛することで生じる強さを手に入れる。

それが、翡翠が娘である碧から見出したものであり、彼女に心臓の誓いを破らせた原因でもあった。




「……行くか」



 翡翠はゆっくりと前に進むと、その緑色の眼を細めた。

彼女のその緑色の眼は未来を見通す……とは言っても、限られた者達相手にだけだが。

未来を見るとは言っても、見ることができるのは一週間程度まで。

更には、一度実際に会ったことがなければその未来を見通すことはできない。

おまけに、一人の未来を一週間分見るだけで彼女は一日まともに動けなくなってしまう。


 その為、多用すれば様々な不利益が生じてしまう、諸刃の剣だ。

彼女が妖狐最強の戦士であった以前ならば、迂闊のこの能力を使うことはできなかっただろう。

しかし、現在は碧という彼女を大きく上回る戦士が妖狐には居て、それもすぐに戻ってくる。

娘が人狼の討伐も既に完了しているであろうことを彼女は察知しているのだ。


碧が戻ってくるその頃には光を見せてやれるだろうと笑いながら、彼女は一気に跳躍して里の中へと入った。

燃え盛る炎の中で多くの鬼が死に、妖狐はただただ殺していく……殺すことしか彼らは知らないが故に。

そんな様子を上空から眺めながら、翡翠はゆっくりと中央の屋敷へと向かう……そこに光があることを知っているが故に。




「……悪いことをしたな」



 翡翠の能力のことは、一族の者は愚か、娘である碧や白雪すらも知らない。

彼女がその気になれば、碧の許可など得る必要もなくこの里に娘を救った光があることを知ることはできたのだ。

それでも彼女は娘の口からそれを聞きたかった……もう大丈夫だと笑って欲しかった。

残念ながらそれは叶わなかった訳だが、もうそのことは彼女も気にしていない。


 碧の未来から、翡翠はこの場所のことを知り、そして光の存在を知った。

娘に責められる可能性もあるにはあるが、彼女はそのようなことにはならないと分かっている。

娘が欲しているのは光のみであり、個の里にあるそれ以外の要素はただのおまけでしかない。

彼女は碧にとっての立派な母親にはなれなかったが、白雪にとってはそうでありたいと思っている。


 既に他の者達は手遅れかもしれないが、白雪達以降の世代ならば光によって愛を十二分に学べる筈だと翡翠は踏んでいた。

少なくとも碧は既に愛というものをある程度理解しており、恐らくこれから更に上の段階に昇っていくであろうと、彼女は気付いている。

娘が新たな世代を導いていく指導者になれた時、己は引退しよう……そう彼女は考えていた。


 どんな妖狐よりも謙虚であり、一族そのものに拘った翡翠だからこそ、今こうして紫鬼との誓いを破った訳だ。




「……ん?」



 翡翠は中央にある屋敷の中庭に降り立った瞬間、そこに存在する違和感に気付いた。

彼女達が仕掛けた襲撃に鬼が反応しきれないのは仕方ないことだが、どうやらそれだけではなさそうなのだ。

縁側に座っている、淡い青色の髪を持つ女性に、彼女は眉を顰めた。

目の前の女性は今里を襲撃している妖狐のことを少しも恐怖していない。


 翡翠はそのことを不気味に思いながらも、ゆっくりと女性に歩み寄っていく。




「お前が光の母親だな。返事は必要ない……ただの様式美という奴だ」


「ええ、そういう貴方は碧ちゃんのお母さんね」


「……そうだ。何故分かった?」


「似ているからよ」


「そうか……似ているのか、私達は……っ」



 翡翠は頬が緩むのを自覚すると、慌ててそれを隠した。

碧が己と似ていると言われたことが彼女には嬉しかったが、それをここで表に出す訳にはいかない。

彼女は飽くまで碧にとっては母親になり切れなかった女でなければいけないのだ。

ここで彼女が愛の片鱗を晒せば、他の妖狐から娘に伝わってしまう恐れがある。


翡翠などよりもはっきりとした愛を光や紫鬼達から学んだ碧は、しかし空虚だ。

愛することを知っている者が己だけではないと知れば、娘は揺らぐだろう。自分の方が上だと言いながらも、傷つくだろう。

彼女はそのことを知っているからこそ、己が愛を娘に明かさずにそのまま隠し続けることを選ぶ。

次世代を導くのは己ではなく娘なのだと信じて、隠し続けることを選ぶ。


 この襲撃も、次世代の為であり、延いては娘の為でもあった。




「妖狐一族の族長さん……貴方の望みはこの子ね?」


「ああ、そうだ。その光こそ、私が長年探し求めていた一族を次の段階へ進ませる要素だ。漸く見つけた、碧に首輪をし、安堵させてやれる存在だ」


「……私を殺して、この子を取り出すの? まだ未熟なこの子を?」


「そのつもりだ。それに、未熟だということはあるまい。私の眼には十分過ぎる程に元気な子が見えている……」


「そう……貴方には、未来が見えるのね」



 同じ母同士である二人は静かに互いの眼を見据えると、そこに垣間見たものを確認し合う。

翡翠の眼には確かな決意が映り、女性の眼には何かを確信したような色が映る。

彼女はそれが何かを捉えきれなかったが、少なくとも目の前の女性の未来がここで途絶えることだけは確かだ。

彼女の眼にはそれが見えている……その未来視の中で、産声を上げる赤子の姿も彼女は捉えていた。


 光はここで死にはしない……その確信が彼女にはあるのだ。




「ああ、そうだ。お前はここで死ぬ……だが、その子は生き残る。我々妖狐が―――否、私と碧が大切に育てよう……愛することを知った者でなければ、育てきれまい。ただ求めるだけで、与えることすらできまい」


「貴方も、愛することを知っているのね……碧ちゃんの愛は、そこから来たのかしら?」


「まさか。私はあの子を恐れ続けただけだ。根暗な私はあの子の力を楽観視できなかった。だから、雁字搦めにしてしまった……そして、これから私はその子を利用してあの子を再び妖狐に縛り付ける。一族の為に、個を犠牲にする」


「貴方は―――っ!?」


「喋り過ぎたな。紫鬼が戻ってくれば全てが無駄になる。ここらで終わりにさせて貰うぞ」



 翡翠は右腕で女性の胸を貫き、そのまま掴んだ心臓を握りつぶした。


それに対して一瞬だけ眼を見開いた女性であったが、すぐにその表情は微笑へと変わる。

口から血を吐きながらも微笑むその姿は歪で、彼女は何故死に際に微笑むことができるのか理解しかねた。

この女性は己が死に行く中で微笑んでいる……憎しみも、恐怖も後悔も見せず、ただ微笑んでいるのだ。

そんな不気味さに内心恐怖しながらも、彼女はその眼を真っ直ぐ見据えた。


 彼女とて絶対強者と呼ばれた者だ……そう簡単に恐怖に負けるようなことはない。


どんなに恐ろしくても、それを受け入れることはできるつもりだった。




「……ふ……ふふ……この赤は……この死は……私の命は……この子のものよ」


「っ!?……これ、は……」



 しかし、目の前で起きたことを翡翠は理解できないでいた。

急激に命を吸われていく女性の体は発火を始め、虹色の炎がその肉体を包んでいく。

咄嗟に腕を引き抜くことで彼女はそれに巻き込まれることを防いだが、ただ茫然とするしかできない。

恐ろしいことに、その虹色の炎は目の前の女性を痛みもなく焼いているようで、女性はただ穏やかな笑みを浮かべ続ける。


 翡翠はいったい何が起きているのか理解しきれず、しかしそれに触れるのが危険だと理解していた。

あの炎に触れてしまえば、自分も命を吸われて死ぬ……そう彼女の直感は告げている。

少しずつ灰になっていく女性は未だに微笑み続けており、彼女はその笑みに大きな歪さを見出す。

歪みはどの妖も持つものだが、女性の持つそれは他の妖とは全く異なり、常軌を逸していた。


 やがて、完全に灰になった女性の肉体は風によって散らばっていき、その中にある赤子の姿が明らかになる。

見た目はただの普通の赤子だが……しかし、そこから溢れ出す力の奔流は既に翡翠を上回っていた。

産声を上げる赤子を血濡れた衣に包みながら、翡翠は静かにそう呟く。




「お前は……いったい何なんだ?」



 しかし、赤子はただ産声を上げるばかりで答えてはくれなかった。

当たり前だ。赤子が応える術を持つ筈がないのだから……そもそも言葉を理解できない。

まだ閉じられた眼は外界のことを何一つ知り得ないし、耳もはっきりと周りの情報を聞ける程ではないだろう。

今しがた瀕死の母の生命を吸い尽して誕生したこの赤子は、それ程にか弱い。


 だというのに、その力は既に翡翠を上回っているのだ。

殺すことは不可能ではないが、油断すれば殺されるのは彼女の方かもしれなかった。

しかし、それでも彼女はその子に触れることを恐れない。死を恐れない。

死を無差別に齎すのが光である訳ではないと、彼女はおぼろげながらも理解している。

ただ泣き続ける赤子の頬にそっと触れながらも、彼女は微笑む。


 圧倒的な力の奔流に手が焼かれるのを感じながらも、翡翠は微笑み続けた。

痛みがない訳ではないが、この程度の痛みに耐えることができない程彼女は弱くない。

だからこそ、その圧倒的な強さに微笑むことができるのだ。その未来を予想できるのだ。

もはや光は彼女の手に渡った……後は、次世代に全てを委ねるだけで良い。


 一気に空に跳躍し、彼女は里全体に聞こえる程の大声で撤退の旨を告げた。




「総員撤退だ!! ただひたすら駆け抜けろ!!」



 翡翠はそのまま返事を待たずに、一気に空を駆けだす。


これからはまさしく一分一秒を争う追いかけっこの……命がけの逃避行の始まりだ。

碧さえ居れば紫鬼を抑えることはできるだろうが、碧が確実に勝つという保証はない。

そもそも、誓いを破ったことで碧が敵になる可能性すらあるのだ。

とは言っても、その時は娘を言いくるめることができる自信が彼女にはあった。


 問題は、紫鬼が追いつくまでに翡翠が妖狐の集落に辿り着けるかだ。

集落に辿り着きさえすれば、彼女が長年かけて用意してきた結界が紫鬼を拒む。

元来弱者を遠ざける為にある結界だが、使い方次第では特定の者以外を拒絶することも可能だ。

その特定の者を妖狐にし、それ以外は絶対に除外するという結界を彼女は長年かけて編み出した。

結界が苦手な娘とは違い、彼女はそういった面での能力も高かったのだ。


 集落に辿り着ければ、その時点で翡翠達の勝利は決定する。

逃げ切れば、もう誰にも邪魔されることなく光を妖狐好みに育て上げることができるのだから。

光から愛を学び、強い怨念を持つことで彼女達は一層強大になることを約束されるだろう。

その為にも、今は逃げ続ける……虚栄心も、自尊心も捨て去って、逃げる。

翡翠は最も根暗でありながら、同時に最も謙虚な妖狐だ。


自尊心ではなく一族の繁栄を選べるくらいには、彼女は謙虚だった。




「……っ!」



 翡翠はただひたすらに最高速度を維持し、空を駆けていく。


後に続く他の妖狐達を振り返りもせず、彼女は力の限り全力で走り続けた。

今回彼女がつれてきた妖狐は皆六尾であり、彼女同様に空を駆けることができる。

絶対強者……つまりは上級妖である彼らのことを気遣う必要はないのだ。

紫鬼の前では六尾などゴミのように殺されるだけだが、少なくともそれ以外の敵に負けることはない。


 何よりも、一流の戦士であると自負している彼らの心配をしては、その誇りに傷をつけることになる。

同じく一流の戦士であると自負している翡翠には、それが分かっていた。

だからこそ、一点の迷いもなく囮になって貰う。足止めをして貰う。捨て駒になる覚悟をして貰う。

一流の戦士であるからこそ、彼らはそれに従う。より一層強い力を得る為に、従う。


 今までのどの族長よりも根暗で、謙虚で、強く、賢い翡翠だからこそ、彼らは従う。




「……!」



 暫くの間空を駆けていた翡翠は、漸く見えて来た集落に内心安堵した。

集落の中に入り切れていない已上、まだ安心するには早いが、取りあえず第一段階は突破したのだ。

後少しで結界の境界を通過できる……そうすれば、光はもう妖狐のもの同然である。

ある程度緊張を解し、しかしそれでも全力疾走を止めることなく彼女は集落の境界を―――超えた。


 圧倒的な力は追ってはこない。

思わず背後を振り返った翡翠であったが、やはり紫鬼の姿はどこにも見当たらなかった。

それを自覚した途端に襲い掛かってくる精神的な疲労と恐怖に押し潰されそうになりながらも、彼女は足を止めない。

止めてしまえばそのまま崩れ落ちてしまうと知っているからこそ、彼女は急いで族長の天幕へと向かった。


 その途中で赤子の力に驚愕している妖狐とすれ違うが、翡翠はそれを無視して真っ直ぐに族長の天幕に向かう。

恐怖にはまだ負けない。精神的な疲労は顔には出す訳にはいかない。出せば、それは一族に伝搬してしまう。

上に立つ者が揺れてしまえば、下の者達も混乱してしまうことは自明の理だ。

彼女はそれを防ぐ為に、ただ一目散に天幕に駆け込む。




「……ふぅ」



 安堵故に思わず漏れた溜息と共に、翡翠は椅子に座った。

族長用に『東』の一族に彼女が発注したその椅子は、彼女の性格を表したかのように堅実そうで実際は奇抜だ。

彼女は堅実そうな印象を相手に与えるが実際は奇抜な発想をする。

そういった精神性がその椅子には如実に表れており、彼女の娘である碧もそのことを以前語っていた。


 その奇抜な椅子も、実際に座っていれば非常に座り心地が良い。

翡翠は何度か深呼吸をすると、ゆっくりとその腕に抱いた赤子の頬を撫でた。

生まれたばかりの状態で音速を超える速度で連れ去られただと言うのに、赤子はぐっすりと寝入っている。

その力強い力の奔流は圧倒的だ……既に翡翠は愚か碧すら超えているその力に、彼女は震えた。


 天幕の外に控えているであろう妖狐達にこの赤子を見せるには、まず彼女が落ち着かねばならない。

彼女は、今はただ安堵故の弛緩に、恐怖故の硬直に、身を委ねてしまおうと決めたのだ。

ここならば彼女達は安全で、紫鬼の影に怯える必要は無い。

ただ、ここで光を育むことに注力すれば良い……それで、良いのだ。

愛を知り、強い愛が怨念をより一層強めることで、妖狐は次の段階へと駆け上がる。


 そんなことを考えていたからであろうか?―――瞬きする間もなく、その腕から赤子の姿が消えた時、彼女は混乱した。




「なっ―――!?」



 すぐさまその姿を探そうと思考が定まった瞬間、翡翠は目の前に立つ一人の男の存在に気付いた。

彼女よりも頭一つ分以上大きいその身長を覆う皮の鎧、夜空を思わせる藍色の髪、そして意志の強さを感じさせる紫電の双眸。

その全身から溢れ出す圧倒的な量の恩偃に、彼女はただ驚愕する。

ここに居てはいけない者が居る……その理由を理解しきれず、彼女は言葉を紡ごうとするもの、失敗してしまう。


 そんな彼女を、ゴミを見るような眼で見遣りながら、男は口を開いた……その片腕でしっかりと赤子を抱きしめながら。




「妖狐の長よ……お前には失望した」


「し………紫鬼……何故……ここ……に……? 別の大陸に……居る筈……いや、何故……結界を……?」



 そう、そこに居たのは翡翠が誰よりも恐れた存在……紫鬼。

鬼の一族最強の戦士にして、碧と同等かそれ以上の力を持つ圧倒的な絶対強者……いや、もしかしたら超越者にすら及ぶかもしれない程の力を持つ妖だ。

その紫鬼が、今彼女の前方で赤子を抱き抱えながら、紫電の瞳を失望と怒りで歪ませている。

彼を前にして、彼女はまるで蛇に睨まれた蛙のように、その場から動けずに居た。




「この程度の結界で私を除外できると思ったか? 甘いな……私達超越者に、お前達程度の力で立ち向かえると思わないことだ」


「あ……ああ……」


「お前達は裏切った……誓いに背いた。その罰は既に受けて貰ったが、敢えて言おう……妖狐は今日ここで滅びる」


「まさか……そん、な……」



 翡翠は気付いてしまった。


集落の中は全て彼女の索敵範囲内であり、彼女にはどの程度の人数の妖が居るのかが分かる。

その索敵が、彼女の傍にある以外の一切の妖の姿を映さないのだ。

唯一、彼女の背後にある気配のみが、彼女以外で生存している気配で、その気配が誰かを理解した彼女は内心安堵する。


 その安堵は絶望を塗り替える程の希望を見つけたが故のものであった。

白雪は生きている……それ以外の気配は一切消滅してしまったにも関わらず、健在だ。

目の前の鬼は、感情に身を任せはしないが、誓いを破った者には容赦しない嫌いがある。

それが、誓いを破った張本人である翡翠の娘を殺さずにおく訳がない。

だが、事実白雪の気配は健在で、紫鬼が敢えて殺さなかったことが容易に理解できた。




「安心しろ。お前の娘は生かしてある……この子を生かしておいたお前への、せめてもの情けだ」


「そう……か……」


「どうやら資格を持っていたのは妹の方だったようだ…あの子以外は死んで貰う。お前達を止められなかった殺戮者もな」


「十分だ……この裏切りの果てに、まだ次世代が残されるのならば……十分過ぎる程の情けだ。白雪を頼む……碧以上に歪なあの子を」


「ああ、この子を害さぬ限りは面倒を見てやる……超越者として目覚める日まで」



 むせ返る程の血の匂いと、肉が焦げる臭いが天幕の中に入り込んでくるのを感じながら、翡翠は静かに微笑んだ。


彼女の妖としての索敵能力は寸分の互いもなく外の妖狐の全滅を語っていたが、それが現実であるとそれらの匂いが示している。

返り血を一滴も浴びていない紫鬼がいかに恐ろしい強さを持っているかは、同じ戦士である彼女は痛い程理解できた。

そんな彼が相手では碧も生き残ることはできない為、実質妖狐は壊滅だ。


 だが、紫鬼が白雪を生かしてくれるのならば、妖狐の滅亡は防げる。

翡翠の第二子である白雪は純粋で優しい一面を持つが、同時に腹に一物抱え得る子だ。

まだ二歳でありながらも、既にその芽は見え始めており、紫鬼の腕の中で眠る子がどう娘の運命を変えるか、彼女には興味があった。

白雪ならば、妖狐を再び繁栄させてくれるに違いない……そういう確信が彼女にはある。




「白雪を頼んだぞ……紫鬼」


「言われるまでもない」



 紫鬼は怒りを内包した冷たい眼のまま静かに答えると、その場から姿を消した。

同時に消える白雪の気配に、彼女は紫鬼が娘を連れていってしまったことを知る。

どうしようもない完全敗北であった。様々な妖で試した結界が簡単に突破され、白雪を残す者が皆殺しにされ……彼女ももうすぐ死ぬ。

もう感じない鼓動と、胸から溢れ出すどす黒い血が、彼女にそれを知らせている。


 だが、もう少しだけ持たせなければならない……碧が帰ってくるその時まで。

碧の母親になりきれなかった彼女だが、せめて最後に一目会いたかった。

白雪は……次世代は紫鬼に任せて、彼女は己が生み出した怪物と向き合うことにしたのだ。

その怪物は今頃妖狐を次の獲物に定めているに違いない。彼女の眼はその未来を既に見た。

だからこそ、彼女はこの無茶な計画を実行せざるを得なかった……完成させた結界に全てを託すしかなかった。


 結果的に全てを無に帰した娘を憎む気持ちが無い訳ではないが、翡翠はただ碧に会いたいと思う。


 化け物でしかない娘を開放してやれるのは、彼女だけなのだ。












 碧は紫炎が全てを焼き尽くしていくのを見て、唖然としながら歩いていた。


 そこかしこに散らばっている妖狐の……同胞の全ての死体の胸部に穿たれた風穴は、恐ろしく美しい。

彼女ですらここまで美しい風穴を開けることはできないだろう……彼女の場合はもっと歪んだ風穴ができるだろう。

風穴を開けた者の技量の高さと容赦の無さがそこから伺え、この一帯を埋め尽くしている圧倒的な怨念が、それが誰かを告げている。


 発狂しそうになる程の怨念の中を、必死に正気を保ちながら進んでいる内に、碧は族長の天幕の内側に微弱な気配を感じた。

その反応は余りにも微弱で、もう既にその命が燃え尽きかけており、後少しで死亡することを雄弁に語っている。

その気配が良く知ったものであることを感じながらも、碧はそこへと向かう。





「……っ!」


 天幕の中に入った瞬間に晒された圧倒的な怨念の残り香に、全身の鳥肌が立つのを碧は自覚した。


六尾ですら発狂しかねない濃度のそれは、残り香と言うには余りにも強烈過ぎる。

故に、彼女は理解した……それが超越者のものであると。それが、光のものであると。紫鬼のものであると。

光が放っていた独特の力の奔流の残り香が彼女の感覚を刺激する為、間違いない。

紫鬼特有の怨念もまたここに満ちているが、以前彼女が感じていたものとはまるで濃さが違った。

カナリーの言う通り、紫鬼が今まで加減をしてくれていたのは事実だったということなのだろう。


 内心大きく揺れながらも、碧は族長の椅子に腰かけている母……翡翠の元へとゆっくりと近づいていく。

それに気付いたのか、翡翠はうつむいていた顔を上げた……血の気が失せて真っ青になったその顔を。

胸に風穴を開けられながらもまだ生きている母に彼女は一瞬驚くが、その肉体にこびり付いた紫鬼の怨念がそうさせているのだと、すぐに気付いた。


 圧倒的過ぎる怨念は、時に命を弄ぶ。

死へと向かう速度を限りなく遅くなり、翡翠の領域になればほんの数時間だけ死を誤魔化すこともできる。

ただし、それも飽くまで誤魔化しであって、心臓を失った状態では精々五分持つか持たないかであろう。

更に言えば、この命を弄ぶ怨念の所業は他者の怨念によってでしか実現できない。


 故に、翡翠が心臓を貫かれた状態で生きながらえているのは、紫鬼の怨念によるものだ。




「碧、か……漸く戻って……きたか。このバカ娘……が」


「どうして……何で……ここに光の……あの子の残り香があるの? 紫鬼の怨念が? 貴方達は……何をしたの?」


「一族の死よりも……そこか。まぁ、良い……どうせ、お前は……私達を殺すつもりだったのだろうからな」


「!?……何故……それ……を」



 碧はつい数時間前に初めて思い立った筈のことを見抜かれていたことに、驚愕した。


まるで最初から予見していたかのように言う母に、彼女はふと一つの可能性に思い当たる。

妖は大小あれでも、何かしらの特異な能力を得るものだ……彼女のように、圧倒的なまでの純粋な暴力を得る者も居るが。

だが、彼女は母の能力のことを知らない……昔疑問に思って聞いたことがあったが、その時は上手く誤魔化された。


 その能力こそが関係しているのではないかと、彼女はすぐに思い当たったのだ。

勿論何の根拠もなかった訳ではない……今まで様々な一族の動向を翡翠はこの集落から動くことなく察知していた。

間諜が居るといつも彼女は言っていたが、恐らくそのような者は居ない……妖狐に進んで協力するような一族はいないからだ。

最も友好的な『南』の一族ですらも、そのようなことはしない。


 では、どのようにして察知していたのか?……そこで、母の能力の問題が出る訳だ。




「貴方は……能力を……」


「切り札は……最後までとっておくものだ。私の切り札は……未来視。お前の考えていることなど……お見通しだった」


「なら……未来が見えていたのなら……どうしてこんなことになったのよ!? 皆死んでいる! 皆紫鬼に殺されている!」


「私が、紫鬼との……誓いを破り、里を……襲撃したからだ。光を……奪ったからだ。お前が……私達を……滅ぼそうとしたからだ」


「そんな……心臓の誓いを破ったの!? 何よりも遵守すべきだと貴方が私に教えた、あの誓いを!?」



 碧は翡翠が能力を隠していたことよりも、母が心臓の誓いを破ったことに驚きを隠せなかった。


心臓の誓いは妖の世界における最高位の誓いであり、人間が言う『神に誓う』とはそのレベルが違う。

それを破ったが最後、もはや信用を取り戻すことは叶わず、言葉通りその心臓を捧げなければならない程に、それは重い誓いだ。

今まで心臓の誓いを破った妖を彼女は見たことが無いし、破ったが最後死を受け入れなければならないというのが妖の世界における暗黙の了解だった。


 それを母は破り、結果文字通り心臓で以てその報いを受けたのだ。

碧に誓いを絶対に守るように言い続けた母が……一族の命運を背負っている族長である母が。

彼女はその事実に眩暈を覚えながらも、今まさに死に瀕している母を睨んだ。

光を奪ったということは、紫鬼と光以外は皆殺しになったとみて間違いない。

碧もそうだが、妖狐は基本的に他の一族を襲撃する際には、絶対に誰一人生かさないのだ。


紫鬼に滅ぼされたのも、当然の報いと言えるだろう。




「お前が……お前が我々を滅ぼそうとしなければ……こんなことをしようとは……思わなかったさ……誓いを破る必要は……なかった」


「どう……いう……こと?」


「お前が我々を……滅ぼそうと考えてしまったから……私はそれを防ごうと……光を奪うしか……なかった。それしか……道は無かった」


「……嘘よ」


「本当だ……それが……事実だ。私の……真実だ。お前は……我々を殺した時、恐らく……壊れる。だから、こんな道しか選べなかった。お前を……妖狐を生かす為には……こうするしかなかった」


「嘘よ!! 嘘よ嘘よ嘘よ!! 私のせいで全部滅茶苦茶になったですって!? ありえない! 私は……私は……っ!!」



 碧は翡翠の言葉を口では否定しながらも、内心では否定しきれずに居た。


彼女がつい先程まで抱いていた妖狐への殺意は、殺戮の決意は、決して否定できないのだ。

それを否定してしまうのは簡単だが、その瞬間彼女の中に大きな闇が生まれる。

己を守る為に己に嘘をつくのは個人の自由だが、行き過ぎたそれは精神を歪めてしまうのだ。

結果として、彼女はそれを否定することを選んでしまうが、その果てに崩壊があるのは明白だった。


 光を思うが故に、超越者になろうとしたが故に、碧は己が一族である妖狐すら糧にしようとした事実は変わらない。

だが、それをどう捉えるかは彼女の心の状態によって大きく変わり、今の彼女の心はそれを否定すべきものとしていた。

紫鬼がここに居れば、その脆弱さに鼻で笑ったことだろう。ゴミを見るような眼を向けたことだろう。

超越者になれないと知りながらも、己を誤魔化し続けて無理をした結果がこれなのだ。


 その事実を受け止めなければならないというのに、碧は逃げた。

受け止めることによって壊れてしまうことを恐れ、己の心を維持しようと自分に嘘をついた。

元々限界を超える量の怨念を抱えていた彼女は、更に多量の怨念を抱えたせいで、壊れつつある。

それに気付きながらも彼女は突き進み、そして今まさに壊れようとしている……己が求めた結果とは余りにも異なる一つの結末に、気が狂れかけている。




「碧……私の娘よ。紫鬼は……白雪を連れて行った。あの子は、超越者になれると……言っていた……だが、お前は……奴に殺される。だから、逃げろ。頼む……生きてくれ」


「……なんですって?」


「私は母親になりきれなかった……だが、族長として……命ずる。碧よ……お前の心は、もう自由だ……誓いなど捨て去って―――己を開放しろ」



 青ざめた顔のまま微笑むと、静かに翡翠は眼を閉じて……そのまま動かなくなった。


 どの妖狐よりも謙虚で、根暗だった妖狐は今日、この瞬間完全に死んだ。

今日この時、最強の妖狐は己が一族を滅ぼされたことを悟り、そこに悲しみを覚える。

見下していた筈の一族が、自分にとっていかに大切な存在だったのかが、居場所だったのかが、分かってしまう。

失って初めてその大切さに気付き、既に事切れた母の最期の言葉に、その身勝手さに、彼女は涙を流す。


 そして、同時に一つの大きな決意が碧を動かす。心の中で燃え上がる緑色の炎が、それを支持する。

彼女は規律という枷も、誓いという重りも捨て去り、ただ怒り、悲しみ、嫉妬し、憎む。

母の言葉通りに、己が望むままに生きようと彼女は決めた。


目の前で紫炎に包まれて燃えていく母の姿をただ見つめながら、彼女は己が中で燃え盛る緑の業火に従うと決めた。




「……白雪……が……超越者ですって? 私じゃなくて……白雪が? あんなに弱い子が?」



 超越者、そして超越するかもしれない妹……その両者を滅ぼす為に、彼女は逃亡ではなく、立ち向かうことを選んだ。

彼女は一族を皆殺しにした紫鬼に、憎しみを、怒りをぶつけたかった。

己ではなく白雪が選ばれたということに納得できず、彼女はただ怒り、嫉妬する。

妹に嫉妬し、その命を奪おうと画策するその姿は傍から見れば滑稽だが、しかし彼女はそれで構わなかった。


 碧にとって、今残された希望は光のみだ。

それに、自分ではなく妹が選ばれた……そんなものを事実だと認めることは彼女にはできない。

だが、それを否定し続けることは不可能だ……白雪と再会してしまえば、彼女は事実を突きつけられる。

現在の白雪は力の使い方を知らない……翡翠は、碧の時とは違い二歳の妹に、戦い方を教えていないのだ。


 殺すならば今しかない……覚醒されてしまえば、碧に勝機はない。




「……ふふ……はは……ははははははは!! これが結末だなんて、認めない……認めるものですか!!」



 何かが己の中で壊れたのを感じながら、碧はただ笑った。


彼女の中で燃え上がる怒りと、憎しみと、嫉妬が緑の炎を地獄の業火に変えていく。

己自身すらも燃やし尽くさんとするその業火に、彼女の心は既に焼かれ始めている。

元々限界を超えた怨念を抱えていたこともあって、彼女は平常の判断力を失い、ただ光のある場所を目指すことにした。

そこに一族の仇である紫鬼が居る。超越者に選ばれた白雪が居る。


大きく跳躍すると、碧は鬼の里目掛けて駆け抜けていった。

血と怨念に溢れた妖狐の集落には見向きもせずに、彼女はただ光の居場所へと向かう。

まさしく飛んで火にいる夏の虫と言えるその行為は、ただの自殺行為でしかない。そこには死しかない。

しかし、今の彼女にはそうすることしかできなかった。そうしなければ、完全に心が崩壊してしまう。


 だから、彼女はそのまま鬼の里へと向かうのだ……そこに死しかないと何処かで予感しながらも。


 




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