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虹色の肋骨  作者: 修羅場ーバリアン
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第二十話



 光のある処に闇はあり、光があれば闇は濃くなる。


 闇は光があってこそその真価を発揮し、光もまた同じく闇があってこそ大きな意味を持つ。

そうやって互いが互いを補い合い、反発しあい、光と闇は存在するのだ。

片方だけでは無と変わらず、そこらへんに転がっている石ころと何も変わらない。

しかしその両方が揃った時、圧倒的な力が生まれる……光はより強く輝き、闇はより濃い影を生む。


 二つの力は互いを強めあい、より高みへと向かう。

超越者とはそういうものだ。光を得たからこそ、圧倒的な闇を内包することができる。

怨念という、未来への希望や無念、怒り、憎悪の複合体である残留思念こそが、妖の力の源だ。

その怨念を抱えることができる量が実質無限に近いからこそ、彼らは強い。

圧倒的な量の怨念すらものともしない精神を得るのだ。


 しかし、誰もが光に触れることで無限に等しい闇を手に入れる訳ではない。

超越者になれる者というのは限られており、生まれながらにして決まっている。

選ばれた者だけが光に触れることができ、選ばれた者だけが光によって無限の闇を手に入れる。

それを知らずに光を求める者が居る。奪おうとする者が居る。消そうとする者が居る。

そんな外敵から光を守る為に超越者は存在した。


 彼らは光を独占する為ではなく、光を守る為に動く。光を愛するが故に戦う。


 彼らには光を守れる自信があった。光にとっての守護者である矜持があった。


 何も知らない一人の殺戮者が全てを無に帰してしまった、その日までは。














 暫くの間ただただ咽び泣いていた碧であったが、涙を拭うと、そのままゆっくりと手を紫鬼の母のお腹から離した。

名残惜しいが、いつまでも触れ続ける訳にはいかないということは彼女も分かっている。

この生命を紫鬼が何故守りたいと言ったのが彼女には理解できた。

これ程に圧倒的で温かい存在を彼女は知らない。妖狐は知らない。恐らくは、誰も知らない。


 この存在は確かに命をかけて守らなければならないと感じさせるものだ。

碧はそれを実感し、同時にそれを貫き通そうとする紫鬼の生き方に強く惹かれた。

この美しく、力強い存在を守ろうと誓い、そうすることで紫鬼のような意思の強さを手に入れたいと願った。

何故紫鬼が守ることを夢だと言ったのかが漸く彼女も理解できたのだ。


 この光を守ることは、他の何かを手に入れるよりも遥かに難しい。

誰もがこの光を求めるだろう。貪ろうと殺到するだろう。ただ依存し、食いつぶそうとするだろう。

それを紫鬼は止めようとしている……依存することなく、ただ守ろうとしている。

その強さに碧は憧れを見出し、同時にその強さを齎す光をより一層欲した。


 空虚でしかない彼女を埋め得る光を、心の底から欲しいと思った。




「殺戮者……良く分かっただろう。その子のことは絶対に妖狐の者には話すな」


「ええ……痛い程に理解したわ。この子は……妖狐に知られてはいけない。妖狐が知れば、すぐにここを攻撃するでしょうね」


「だからこそ、妖狐最強の戦士であるお前が防波堤となれ。お前が妖狐を御するのだ」


「……やってみるわ。幸いにも、私には力があるもの。一人で妖狐全てを皆殺しにできるくらいにはね」


「……そうか」



碧の様子を静かに見守っていた紫鬼は、不穏な台詞に片方の眉を歪め、静かに頷く。

彼は彼女が内心で己が一族である妖狐すら滅ぼそうという考えに至ったことを理解する。

それに気付かず、碧はただ目の前の女性のお腹に宿る生命を手に入れる為に、それ以外を犠牲にすることを誓う。

邪魔するようならば一族すらも滅ぼしてしまおうという考えが彼女の思考を支配する。


 しかし、それが愚かな考えであるとすぐさま碧は自覚した。

己が大切にしている一族をこうまで簡単に切り捨てて良い筈がない。切り捨てられる筈がない。

彼女は妖狐の一族を愛している筈だった。大切に思っている筈だった。

だから、そのような考えに安易に至る筈がない。至ってはいけない。

例えどんなに空虚であっても、浅ましかったとしても、彼女は同じ妖狐なのだ。同じ仲間なのだ。


 だというのに、目の前の生命は彼女を容易にそうさせた。

それは、彼女が本心では一族からの解放を望んでいるからだ。規律からの解放を欲しているからだ。

何にも縛られず、ただ己が夢の為に生きていきたい……そんな思いが彼女にはある。

彼女が隠し続けた本心は確かにそう願っているが、今まで彼女はそれを一度も露呈させたことはない。

だというのに、光はそれを一瞬で露呈させたのだ。


 そこに、彼女は言い知れぬ恐怖を抱く。




「……今のは冗談よ」


「そうなっても私は構わない。はっきり言わせて貰うが、妖狐はただ意味もなく破壊を齎す存在でしかない。もしもぶつかることがあれば、迷わず滅ぼすぞ」


「……私を前にしてそれを言うかしら?」


「私は、お前が防波堤になりきれなかった時の話をしているに過ぎない。警告だと思ってくれれば良い」


「信用云々を考えれば、そういうことはまだ私に言うべきではないと思うのだけど?」



 一切の躊躇を感じさせない、紫鬼の歯に衣着せぬ物言いに、碧は思わず眉を顰める。

仮定の話ではあるとはいえ己の一族が滅ぼされる話をされては、余程一族を嫌っている者でない限り心象穏やかではないのは当然だ。

況してや、族長の娘である碧ともなれば、尚更のこと印象は悪い。

だというのに、彼は平然とそのようなことをのたまった。


 碧は紫鬼とは先程会ったばかりだが、その意志の強さは既に知っている。

ただひたすらに何かを追い求めているという点では彼女に似ており、得ることではなく守ることに興味がある点は正反対だ。

碧は妖狐である已上、その虚無を抱えて歩まねばならない。内包するものが無いが故に他者から奪わねばならない。

しかし、紫鬼にはその必要が無いように彼女には見受けられた。

だから羨ましい。憧れる。それを齎しているであろう光をより一層求める。


 碧は力を持つが故に、弱者の気持ちは理解できない。

四尾相当の力しか持たない通常の鬼や、他の妖は彼女にとってただの弱者だ。

持つ者であるからこそ、持たない者の気持ちが分からない。持たない者だからこそ、持つ者の気持ちが汲み取れない。

彼女は恐らく今その状況に居る。


どちらが持っている者か持たない者かは重要ではない……その状況にあることこそが、彼女には重要なのだ。




「ごめんなさいね。紫鬼は嘘を言えない子なの」


「嘘を、言えない?」


「ええ、何故かは母親である私も分からないの。でも、確かにこの二十四年、一度も嘘をついたことはないわ」


「……私も、己が性急にことを運びがちなことは理解している。しかし、私が求めている守護者はそれについてくることができる者達だ」


「……私はその中に入っているのかしら?」


「これからの働き次第だ」



 紫鬼とその母の言葉に驚きながらも、碧は静かに縁側に腰を下ろした。

口頭で許可された訳ではないが、女性が身振りで腰かけるように示したからだ。

碧は客人であるし、まだこの女性のことを良く知らない。

しかし、それを断る訳にもいかず、彼女は取りあえず腰かけることにした。

その際には、紫鬼に質問を投げかけることも彼女は忘れない。


特に感慨もない様子でそれに答えると、紫鬼は紫電の眼を細めて空を見遣る。

そんな彼に呆れながらも、碧は彼の母である女性と話をした方が賢明だと判断した。

紫鬼の話は前提を理解している者にしか理解できない類のものなのだろう。

彼女にはその前提は欠如しており、どうしても理解できない部分が多くなってしまう。


 理解できないことは悪くない……問題なのは、そうさせる紫鬼の話し方だ。

それを理解できる者こそが超越者足り得るのだと気付かない碧は、己にそう言い聞かせる。

紫鬼が嘘を言わないという彼の母の言葉を信じ切れず、その言葉が何を意味するかを彼女は理解しない。

暗に今の彼女に超越者になる資格は無いと言われていることにも、彼女は気付けなかった。




「本当にごめんなさいね。ええと……」


「碧。それが私の名前よ」


「碧ちゃんね。綺麗な緑色の眼をしているから、そういう名前になったのかしら?」


「ええ、母はそう語っていたわ。その子には、どんな名前をつけるつもり?」


「まだ決めていないけれど、良い名前を考えるわ。普通の鬼の子につける名前を、ね。この子は世界を変えるかもしれない……だけど、私達の子だから。紫鬼の弟だから。鬼の子だから」



 綺麗な笑顔と共にそう言った女性に、碧は再び母性を感じる。

しかし、今度はそれを一身に受けているお腹の子に嫉妬はしない。

寧ろ、もっと多くの愛を母から受けて欲しいと彼女は望む。もっと強くなって欲しいと願う。

そして、その愛を受け継ぎ、より一層暖かく、美しくなって彼女を愛して欲しいと、彼女は欲する。


彼女は光が欲しい。光を独占したい。

その為にも、今は光を包み込む母性には働いて貰わねばならない。

より一層光が強く輝くように、その苗床になって貰うのだ。彼女がその手で光を掴み取るまで光に愛を教え込んで貰うのだ。

そして、彼女は光から愛を得る。愛される。愛されることで愛を理解し、愛する。


それが良いと彼女は内心微笑んだ。そうするのが最善だと、妖狐としての彼女が告げた。




「ええ、私もそれで良いと思うわ。鬼がどのように名前をつけるのかは知らないけれど、どんなありきたりな名前でも、この子はこの子しか居ないもの」


「ふふ……碧ちゃんは中々分かっているわね。それにしても……綺麗ね。私なんかとは比べ物にならないくらい。こんな子が傍に居てくれるなんて、この子も幸せ者ね」


「そう言ってくれると嬉しいわ。まだ傍に居られるかは分からないけれど」


「きっと大丈夫。貴方に本当に資格があるのなら、この子は貴方を受け入れてくれるわ。無ければ……これが最後になるけれど」


「資格があるかは分からないけれど、やってみるわ」



 柔らかな笑みを浮かべる女性に、同じく柔らかな笑みで以て応えると、碧はその腹部を見遣る。

今はまだこの世に生を受けていない小さな命だが、一度生れ落ちればその存在は世界を揺るがすだろう。

そんな存在の傍に居ることが許されるかもしれない……そう思うだけで、彼女は己の頬が緩むのを感じた。


 紫鬼の意志の強さは、信念の強さはこの存在あってのものなのだろう。

この存在を中心に考えた時、碧は何となく紫鬼がどういう思考をしているのかを理解できた。

結局の処紫鬼はこの光に認められた者を集めることで、以後その生を守り、独占し続けるつもりなのだ。


 選ばれた者達だけが、この光に触れることを許される。

つまり、選ばれた者が碧だけならば、彼女は光を独占することができる訳だ。

そうする為には、まず他の選ばれた者達を見極める必要が生じるが、その機会はここに通えばいずれ生じる。

彼女は己の中に渦巻く欲望と策略の醜さに内心苦笑しながらも、止まらない。




「紫鬼、守護者には……いえ、超越者とやらにはどうすればなれるのかしら?」


「それは資格さえあれば自ずと分かる……嫌と言う程にな」



 その光を手に入れる為に、彼女は守護者の道を目指すことにした。


 碧は知らない……彼女を見る紫鬼の紫電の眼は、彼女ではなくその奥底にある怨念を見据えていることを。

紫鬼は知らない……彼が今日呼んだ妖狐が、これから先彼の計画を滅茶苦茶にしてしまうことを。

悲惨な結末が訪れる要因を、彼自身が生み出してしまったことを。


 紫鬼は守護者としての道を歩む……彼が生まれた瞬間に刻み込まれた使命が故に。


 碧もまた守護者を目指すが、本質では殺戮者でしかない……彼女が生まれた瞬間に刻み込まれた虚無故に。



 その違いは、後に彼らが守ろうとする者を殺す……それも、最悪の形で。













 一鬼は己が見たものに唖然としながら、暫くの間呆けていた。

そんな彼を見守るブルー・シャーマンは静かに片腕を上げ、時はそこで止まる。

風もない筈なのに揺らぐ蒼炎が美しく、ブルー・シャーマンの水色の外殻がそれによって彩られていく。

一鬼はその様子を傍目に、己がどういう存在なのかをよく理解できないでいた。

紫鬼の母であろう女性のお腹の中に居る子が己であろうことは、彼も既に理解している。


 だが、それだけだ……それ以外の要素はまるで分からない。

紫鬼が何故悪名高い妖狐と接触する必要があったのかも、初対面の碧を里に招いてしまったのかも謎だ。

血の繋がっている兄であるとはいえ、その考えを理解することはできない。

態々敵を招きよせかねない行動に出た理由は、彼には想像できなかった。




「ブルー・シャーマン……いったい何がどうなっているんだ? 俺には理解できない。何故紫鬼は碧を俺に引き合わせた?」


「当時、紫鬼は己以外の超越者を探していた……七人の超越者の内、私を除く残る四人をな」


「超越者は七人居るのか……待てよ、残る四人と言ったか?……この時、既にもう一人見つかっていたんだな?」


「そうだ。お前は既にその者を受け入れ、その者もお前に仕えることを決定した。お前は気付かなかったかもしれないが、先程映ったぞ」


「なん……だと?」



 ブルー・シャーマンの言葉に、一鬼は思わず目を見開いた。

既にブルー・シャーマンや紫鬼以外の超越者に会っていると言われても、彼には心当たりがない。

碧や妖狐は間違いなくそこから外れるので除外するとしても、それ以外の選択肢が彼には無かった。

紫鬼の母はまず違うであろうことが予測できるし、そうなればもはや候補は居ない。


 唯一当てはまるかもしれない物は、生物であるかすら怪しいのだ。




「お前は既に理解している。ただ、それを認めていないだけだ。今はそれで良い……今は、まだ気づかない方が良い」


「?……どういうことだ?」


「私はお前の守護者だが、お前に全てを語る義務はない。その方がお前にとって都合が良い時もある。お前も知っている筈だ……守るべき者に全てを話すのは、寧ろ枷になることがあることを」


「……確かにそうだな。俺も美空に対してはそうしていた。ブルー・シャーマン、お前の言うことを信じることにしよう」


「有難い言葉だ。さぁ、時間を動かすぞ……お前の一つの終末を思い出すのだ」



 ブルー・シャーマンはそう言い放つと、片手を再び動かした。

それに合わせて時間は再び流れだし、そこから何度も何度も碧が鬼の里にやってくるのを彼は目撃する。

何度も彼が宿っているであろう母のお腹に触れ、その度に感涙に咽び、少しずつ変わっていく。

その内側に一物抱えているにも関わらず、彼女は同時に守護者としての精神を得ていった。


 ある日を境に、碧は己に首輪をするようになった。

それは妖狐特有の願掛けの一種であるらしく、彼女はそれに光を得ることを願った。

首輪そのものは革製のもののようだが、どうやらそれはかなりの値打ちもののように見受けられる。

『東』の一族云々の話を聞きながら、彼はその価値を知った。


 そして、そこから日に日に顔つきが変わっていく碧の姿に、一鬼は思わず見とれてしまう。

柔らかい笑みを浮かべ、愛おしげに母のお腹を撫でる彼女の姿に、彼は確かな愛を見出したのだ。

流れ込む彼女の感情は確かに愛で、ただの独占欲などではない。

彼女はまだ生まれてもいない彼を愛してくれていた。紫鬼や、母もそうだ。


 少なくとも彼は生を望まれていた……それが分かっただけで、一鬼は目頭が熱くなるのを感じる。




「まだ泣くには早いぞ、選ばれし子よ。我々を選んだ者よ。ここからだ……ここから全ての怨念はお前に収束する。眼を見開いて見定めよ……お前の結末を。我々の無様さを。殺戮者の醜さを」


「ああ、見定めるとも……俺の未来の為に」



 ブルー・シャーマンの言葉に静かに頷くと、一鬼はその赤い眼を見開いた―――過去を得る為に。










 咽かえるような血の匂いに包まれながら、碧は頬を伝う血を舐めた。



 彼女の周りには数百に及ぶ量の死体があり、その全てが頭部や胸部を貫かれて絶命している。

今日も彼女は殺戮者として、妖狐最強の戦士として他の種族を滅ぼした。

特徴的な鋭い牙と、黒い天鼠のような翼を持つその種族……ヴァンパイアは、大きく人間に露出してしまっている有名な妖である。

平均的な能力は五尾相当で、中には六尾に達する者すら居る、妖狐を除けば最も平均値が高い一族だ。


 ヴァンパイアは妖狐に似てプライドが高く、しかし空虚さがない。

彼らは人間が想像しているように他者の血を吸ったりはしない。血を糧にはしない。

寧ろ彼らは食事の際には血を嫌い、血抜きを率先して行うくらいだ。

彼らは専ら人間を食料としており、血を抜かれた死体を見た他の人間が吸血鬼だと言い始めた。

しかし、その実態は戦い以外においては血を極端に嫌う一族である。


 人間の想像が独り歩きした、面白い例だ。


―――カタンッ




「……音を出さなければ見逃してあげたかもしれないのに、駄目な子ね」


「あ……」



 碧はふと物音がした方向を振りむき、その発生源に生き残りが居たことを改めて知覚した。

彼女からはその姿は見えないが、相手が幼子であることは理解できる。

碧や紫鬼のような絶対強者以外は、抱える怨念の少なさから体外の年齢は分かってしまうのだ。

今彼女が見ている方向に居るのは、幼い子どもでしかない……しかし、確かにヴァンパイアでもある。


 恐怖に目を見開いているであろう幼子の元に一歩一歩近づきながら、碧はその新緑の眼を細めた。

彼女が近づく度にその濃厚な怨念は相手に襲い掛かり、圧倒的な死の予感を齎す。

その気になれば人間など容易く発狂死する程度の恐怖心を、中級以上の妖は常に発することができる。

更にそれを研ぎ澄ませれば、下級妖を発狂死に至らしめる程の力を得てしまう。


 それが絶対強者というものだ。




「こんばんは。今日は綺麗な月が見えるわね?」


「あ……あ……」



 碧がゆっくりと廃墟と化した屋敷の扉を開くと、そこには床に座り込んでいる幼い少女の姿があった。

年の頃は五つに届くか届かないか程度で、彼女はその姿を見て妹である白雪のことを想起する。

肩口まで伸びたプラチナブロンドの髪の毛を風に揺らしながら、少女はただただ震えていた。

その足は用を足しておらず、恐怖によって完全に脱力してしまっているのが分かる。


 だから、彼女は柔らかな笑顔で少女に笑いかけた……最後の情けをかける為に。




「あらあら……そんなに怖かった? そうよね。皆死んでしまって、自分は一人ぼっち。しかも、目の前には皆を殺した張本人が居るんだもの。でも、もう大丈夫よ」


「……えっ?」


「貴方はもう皆の処に行っているから、一人じゃないわ」


「あ……」


 碧は握っていた少女の心臓を握り潰すと、そのまま踵を返した。

彼女が潰した心臓から、少女が抱えていた怨念が、未来への希望が、恐怖が、絶望が、彼女に取り込まれていく。

既に背後の少女から怨念は感じられない……彼女が全てを奪ったのだから当然だ。

背後で少女が倒れる音を聞きながらも、彼女は振り返らずにそのまま進む。


 碧は少女の中に白雪を見出し、同時にまだ見ぬ赤子の存在をも見出してしまった。

しかし、それでも彼女は少女を躊躇せずに殺せた。躊躇せずに命を奪い、怨念を更に重ねた。

当然だ……どんなに姿が重なっても、少女は白雪ではなく、彼女が望む光でもないのだから。

彼女はどんな赤子でも、老人でも、親友でも、己の道を塞ぐのならば殺せるだろう。


 今までも彼女はそうしてきたのだ。

人間も、妖も等しく殺して、殺して、殺しまくった。奪い続けた。

その結果今の彼女が居る。殺戮者と呼ばれている妖狐がここに居る。

そんな彼女が、己の光を手に入れる為に守護者になろうとしているのだ。

壊すことしか、奪うことしかしらない彼女が、守ろうとしているのだ。


 なんと滑稽なことであろうかと、本人すら思っている。




「くく……はは……ははははははは!!」



 碧はただただ笑う……己の歪さを自覚しているが故に。


戦いの中に見出す高揚感と、相手の心臓を握りつぶした際に感じる勝利の美酒と殺戮の愉悦が、彼女を今まで生かしてきた。

他者を見下し、嫉妬し、何かを奪い、殺し、ただ九尾を目指した。虚無を恐れてただ一族の悲願を目指し続けた。

それが、光との会合で変わったのだ。世界が色を変えたのだ。


あの光との出会いから、既に三ヶ月が経過した。

あの日以降、彼女は明確な九尾の目標を固め、そこを目指し続けている。

その為に殺す。上り詰める為に殺して、殺して、怨念をその身に背負い続けるのだ。

まだ八尾の域を出ていないのは彼女も理解しているが、やがて九尾に達することができるのではないかという希望が、今の彼女にはあった。




「ふふ……ヴァンパイア一族……貴方達は本当に良い栄養になってくれたわ。ありがとう」



 碧は歪んだ笑みを浮かべながら、誰も答えぬ静寂の中でそう告げる。

ただ血の匂いと、死と赤に支配されたこの場所において、彼女の言葉に応じる者は居ない。

ヴァンパイアは既に彼女が滅ぼした後で、ここには一人として生き残りは居ないのだから、当然だ。

彼女はいつも一人残らず殺す為、一族の生き残りによる復讐はあり得ないと自負している。


 碧はこの三ヶ月で今までにない多量の怨念を抱えた。

しかし、光と会って以来彼女は圧倒的な量の怨念を抱えることに多くの痛みを必要としない。

以前ならば数日間はもがき苦しんでいたであろう量の怨念を一身に受けても、今の彼女は一日の苦痛で済む。

光が彼女を強くした……彼女はそう思っていた。


 紫鬼は中々接触を許さない為、碧が光に触れたのはまだ十回程度だ。

しかし、その中で彼女は確かに光に受け入れられているような感覚を感じていた。

その度に彼女は罪悪感を抱き、邪な感情を抱いていた己を恥じる。しかし、それでも止まらなかった。

彼女は守護者として光を守ることを誓ったものの、それを他者と共有するつもりはない。


 あの光は己だけのもので良い……彼女はそう思っていたのだ。




「さて……そろそろ戻らないと族長に怒られるわね」



 碧は一つ深呼吸をすると、大きく跳躍した。

そのまま流れるように空を駆け、絶対強者のみに許された擬似的な飛行を行う。

ほんの数秒で音の壁を突破し、彼女は里に向かって帰還を開始した。

音の壁を突破する際の衝撃にすら耐えきる彼女の肉体は強靭で、余程の攻撃を貰わなければ傷一つつかない。


 今日のヴァンパイア一族皆殺しもそうだった……彼女は無傷で全員殺した。

元々似た者同士でありながらも、同時に大きく違う面を持っていた二つの種族は敵対関係にあった。

しかしその敵対関係も今日ヴァンパイア一族が滅んだことで終わりを告げる。

妖狐の力は益々強まり、必然的に彼女の名はより妖の世界に刻み込まれていく。


 彼女がこれまで滅ぼした一族はヴァンパイア一族を含めれば十五に及ぶ。

百にも満たない種族からなる妖の世界において、その一割近くを彼女が滅ぼしたことになる訳だ。

勿論実際の数は一族ごとに大きく違うので、それも飽くまで大まかな数字でしかない。

だが、その大まかな数字を一人で為したからこそ、彼女は最強と言われている。




「ふふ……」



 碧の母である翡翠ですらも、ヴァンパイア一族を一人で皆殺しにするのは骨が折れるだろう。

ヴァンパイア一族は六尾相当の力を得る者も存在する数少ない一族だ。

他にも六尾に達することがある種族は、四聖獣のモチーフとなった『東』『西』『南』『北』の四つの種族が存在する。

既にその四つの内の『北』の一族は彼女が滅ぼしており、今日ヴァンパイア一族も滅んだ。


六尾に達することのできる種族はこれらの五つの種族に妖狐を合わせた六つの種族のみ。

他の種族は六尾に達する戦士など居ない……紫鬼やこれから生まれるであろう子という例外が存在する鬼の一族を除けば、だが。

元来四尾相当が限界の鬼の中では、紫鬼達は明らかに浮いている。

八尾相当の力を碧に感じさせる紫鬼もそうだが、何よりもこれから生まれてくる子は、未だ誰も到達したことのない九尾相当の力すら持つだろう。


 その光を独占することを碧は望む。

しかし、同時に光によって心は浄化されていき、紫鬼達と光を共有するのも悪くないと考えている彼女が居た。

まだ紫鬼が求めているという他の守護者達には会ったことがないが、その性格によっては分かり合えるかもしれないと、彼女は思い始めていたのだ。

これから独占と共有のどちらに彼女が向かうかは、彼女自身もまだ分かっていない。


 だが、あの光を愛することは間違いない……それだけは彼女も分かっていた。


 だから彼女は笑い、ただ光のことだけを考え、妄想を続ける。






「あら?……」



 暫くの間光のことを考えていた碧は、いつの間にか妖狐の集落のすぐ近くまで辿り着いていたことに気付いて、速度を落とした。

どうやら考え事をしている内に、かなりの時間が経過していたようだ。

彼女の最高速度は後に登場する戦闘機にすら匹敵するマッハ四だが、それでも大陸を横断するのには暫く時間がかかる。

まず最高速度まで加速するのに数秒程を有し、一瞬で加速できるのはマッハ一が限界だ


最高速度ならば、単純計算で一秒に一キロ超の距離を移動できる訳だが、それでも大陸を横断するとなれば時間はかかる。

ユーラシア大陸を横断する為には数万キロを進む必要があるので、当然その単位は分ではなく時間だ。

常に最高速度を出しても、一時間で約四千三百キロ程度しか進むことはできない。

日が暮れて、空は既に藍色へと変化していることから、時間が経過したことは明らかだ。


 つまり、彼女は数時間近い時間を妄想に費やしたことになる。




「ふぅ……もっと気を引き締めないと」



 碧は頭を振り大きく深呼吸をして、そのまま集落に向かった。


 己に危害を加えることができる者など、彼女には紫鬼以外に心当たりがない。

とはいえ、彼女は妖狐の一族も、家族も、光も守らなければならない。

他の一族の場合ならば、家族を危険に晒すのが嫌ならば他の一族に危害を加えなければ良いだろう。

しかし、妖狐の場合はそうもいかないのだ。


 散々殺して、奪い続けた妖狐はその報復を受けることもある。

その時彼女は己の身だけではなく、一族の犠牲を可能な限り減らす義務があった。

彼女達に挑む復讐者達を圧倒的な力で以て蹂躙し、殺すのだ。

最強の戦士である彼女に負けは許されず、ただひたすらに勝ち続けるしかない。

彼女が負ければ、それ以下の力しか持たない一族は滅びたも同然なのだ。


 碧は、そう己に言い聞かせながら集落の入り口の近くに着地した。

入口で腕を組んで仁王立ちしている母、翡翠の方へ彼女は持っていたものを投げると、そのまま横を通り過ぎる。

それに合わせて隣を歩く母の視線はその手に握られたものへと向けられており、品定めするような遠慮のない視線が注がれていた。

やがてそれも終わったのか、握っていたものを懐にしまうと、翡翠は碧の方を向いて口を開く。




「今回は随分と早かったな。あのヴァンパイア一族を相手にして、一日もかからないとは思わなかったぞ」


「思ったよりも弱かったのよ……六尾程度の妖がいくら居ても大したことはないわね。勿論全員殺したわ……幼子も全て」


「そうか……それで良い。私達妖狐は常に他者に憎まれている。それを防ぐ為にも、他の一族を滅ぼす際には一人残らず殺すのが掟だ。そうやって私達は生きてきた……とは言っても、お前にはこの話は必要ないな」


「ええ。言われずとも分かっているわ。私は貴方にそう教育された……一人残らず殺すように、と」


「その教育がお前や一族を今まで生かした訳だ。感謝して貰いたいくらいだよ……まったく」



 碧の言葉に苦笑しながら翡翠は、肩を竦める。


確かに翡翠のその教育が妖狐を生かしているのは確かなことで、それが無ければ今頃数えきれない復讐者が量産されていたことだろう。

碧は皆殺しによってその可能性をほぼ全て摘んでおり、少なくとも滅ぼした一族の生き残りに逆襲されることはない。

他の種族の者が敵討ちに来ることはあるが、それでも一族総出で来ることはなかった。


 仮に一族総出で報復に来たとしても、碧の前では無力でしかない。

そもそも、六尾に達する者が妖狐やヴァンパイア、東西南北の一族以外には居ないのだ。

妖狐は今日の時点で既にその内のヴァンパイアと北の一族を滅ぼしており、残りの三つの一族とは不可侵の約束をしてある。

これによって、牙が届き得る一族との衝突を避けている訳だ。


 とはいえ、紫鬼のような存在が居ない限り実際にぶつかっても勝つのは妖狐だ。

碧達が避けたいのは一族の無駄な死であって、それを顧みなければ、碧と翡翠が殺しつくして終わる。

元々六尾相当に達する者の数は妖狐が最多で、更にそこに七尾と八尾も加わるのだ。

六尾が限界の他の三つの一族全てが敵対するようならば話は別だが、そうでなければ妖狐の勝ちは揺るがない。




「それで、次はどうするつもり? 北の一族を滅ぼすのは簡単だったけど、他の三つはそうはいかないのでしょう?」


「ああ、一先ずは様子見だ。ここ最近、不穏な噂を聞くようになったものでな」


「不穏な噂……?」


「そうだ。超越者という言葉に聞き覚えはあるな?」


「!……ええ、概要くらいは。その超越者がいったいどうしたの?」



 超越者という単語が翡翠の口から出てきたことに驚きながらも、碧は頷く。


知らない筈がない……彼女はその言葉の意味を紫鬼から聞き、今目指している処なのだから。

超越者とは光に選ばれた者達のことであり、光を守護することを生き甲斐とする者達だ。

紫鬼もまたその一人であり、彼は光から紫の色を与えられたと語っていた。

光に色を与えられた者は絶対的な力を手に入れ、他者を寄せ付けない……それを紫鬼は超越と呼んだ。


光が与えるのは虹に相当する七つの色の席のみ……それに選ばれなければ、超越はできない。

碧は未だにそこに至っていないと紫鬼に指摘されている為、今も日々弛まぬ努力を続けている。

彼女の努力はひたすらに鍛錬し、戦い、殺すことであり、それは紫鬼も変わらない筈だ。

紫鬼に会って彼女にないものは何なのか?……それは彼女にはまだ分かっていない。


 それさえ分かれば、超越者になることも夢ではない……彼女はそう思っていた。




「下らん噂だと思っていたが、どうやら本当のようだ。先日『南』の一族に火の鳥が現れたという報告を受けた」


「火の鳥?……『南』の一族の悲願である、あの?」


「そうだ。遂に一族の一人が火の鳥と化したらしい……夢物語と思っていたのだが、どうやら本当に超越者は居るようだ。今後無闇にちょっかいをかけるのは以前にも増して固く禁ずる必要がある」


「成程……そういうことだったのね。他の一族はどうなの?」



 碧は超越者という言葉が出た理由に納得し、ゆっくりと頷いた。


東西南北の四つの一族はそれぞれ四聖獣のモチーフになった始祖と同じ領域に辿り着くことを悲願としている。

『北』は絶対防御を誇る黒い亀を、『南』は火の鳥を、『東』は雷を放つ青き龍を、『西』は白い虎を目指す。

元々始祖すらも七尾でしかなかった妖狐とは違い、彼らには明確な前例が存在するのだ。


 その内の『北』の一族は既に碧によって滅ぼされ、そこに達することはなかった。

しかし、他の三つの種族にはまだその可能性が残っており、もしもそこに辿り着けば八尾相当……いや、もしかすればそれ以上の力を得ることも不可能ではない。

つまり、その領域に辿り着いた者達には、単純な能力値だけならば光に選ばれるだけの資格がある訳だ。


 内心既に選ばれたであろう『南』の一族の誰かに対して、碧は嫉妬の炎を燃え上がらせた。

彼女は己の中で燃え上がる嫉妬の炎を外に出さないようにしながら、母の話の続きを待つ。

生まれつき嫉妬深い彼女ではあるが、それを下手に外に出すようなことはしない。

そういうことを言って良い時といけない場合は弁えなければ、後々困ったことになるのを知っているからだ。




「他は……正直な話、情報を得るのは難しいだろうな。『西』は最も我々と仲が悪く、『東』はまるで動きを把握できない。奴らは無欲な癖に、情報の隠蔽と鍛冶に関しては手を抜かないからな」


「ああ……確かにそうだったわね」


「取りあえず、下手に刺激はするな。刺激してしまえば、中々に面倒な事態に発展するかもしれない」


「ええ、心得ているわ」



 『東』の一族は人間が言う龍人のような姿をしており、男性はもはや完全に人型の龍だ。

女性はほぼ人間に近い容姿をしているが、尻尾や角、鱗などが存在する為、良く見ると異なる部分は多い。

妖狐のように完全に人間に化けることはできないが、角などを隠せばある程度はそれらしく見せることもできるだろう。

『東』の一族は、それくらいには人間に似ているのだ。


 そんな彼らではあるが、その生態は他の妖同様人間とは大きく異なる。

彼らは主に鍛冶等の生産職を生業としており、他の妖達にそれらを提供することで生計を立てていた。

彼らが生産を行い、数少ない完全な飛行を許された『南』の一族がそれを運ぶ。

四つの一族の中では『南』が最も他の一族と活発に交流を持っており、基本的に彼らが仲介を行っている。


 妖の世界において空を飛ぶことが可能なのは中級以上の妖のみで、その中でも完全な飛行を許されたのは『南』の一族のみだ。

他の一族の者は、絶対強者……つまり六尾以上の上級妖でない限り空を自由に動くことはできない。

ヴァンパイア一族も飛行は可能だが、所詮は一時的なもので数キロ程度が限度だ。

そういう意味では『南』の一族は妖の世界における物資の流通に最も貢献している一族と言える。




「いくら超越者が現れたとしても、生温い『南』の一族はそう簡単に他の一族に攻撃的になりはしない。奴らは甘く、情に弱いからな。しかし、『西』の一族は別だ。奴らは私達のことを敵視している」


「『東』も『西』も堅物が多過ぎて、『南』みたいにはいかないものね。まぁ、『北』の一族に比べれば遥かに柔軟だと思うけれど」


「ああ、そうだな。『北』の連中は一族の悲願のことしか考えていなかった。他の一族を軽視して、その結果お前が全員滅ぼした後も、他の一族からは少しも不満を聞かなかった。それだけ、他の者も無関心だった訳だ……無関心は無関心を呼ぶという教訓だな」


「おかーさん、おねーちゃん、何話してるの?」


「あら、白雪……まだ起きていたの?」



 碧はふと聞こえてきた声に振り向き、そこに妹である白雪の姿を見つける。


雪のように白い髪の毛を碧と同じように肩口まで伸ばしており、その銀色の眼が月の光を反射して怪しく光っていた。

彼女にとってこの妹は幼く、守るべき存在であり、同時に足枷でもあり、そして嫉妬の対象でもある。

白雪は碧とは異なり、生まれた際には三本の尾しか持たなかった。


その為、母は白雪を碧の時とは異なり、平均的なの妖狐として扱っている。

勿論まだ二歳である妹に厳しい試練を超えることができず筈もないだろうが、碧はそれを超えてきた。

二、三歳の時点から母、翡翠による英才教育を施され、何度も泣きわめいて、何度も死にそうになった。

結果として十歳の時点で彼女は五尾にまで上り詰め。十五にして六尾に、十八で翡翠と同じ七尾に到達している。

そして齢二十二の時に遂に八尾に到達したのだ。


 一方、白雪は通常の妖狐同様甘やかされており、本格的な訓練が始まるのは五歳になってからの予定だ。

碧はその三年近く前から訓練を開始され、苦しみ続けた。子どもの特権ともいえる遊びをすることもできなかった。

そういった歪みが彼女の生まれ持っての性質を助長し、結果として彼女は激情家となってしまったのだ。


 日頃は表には出さないが、その内側では常に業火が燃え盛るかのように、感情が燃え上がっている。




「うん。夜はあやかしの時間だもん。私も起きるよ?」


「ふふ……そうね。でも、闇の中で強くあれるのは強者だけ。今の貴方はまだ弱いわ」


「う~……いつまで待てば、おねーちゃんみたいに強くなれるの?」


「私みたいに? そうね……後十五年は待たないとダメよ。それくらいの時間は必要になるわ」


「じゅうごねん?……後じゅうご回も春を待つの?」


「ええ、そうなるわ」



 碧は白雪の頭を撫でようとし、ふと己の全身が乾いた血に覆われていることを思い出す。

白雪は弱い……同じ年頃の碧ならば、今の白雪の十倍は強かったであろう。

それ程に二人の間には力の差があり、心の距離がある。悲しい程に、分かり合えない距離が。

白雪は姉である碧を慕っているようだが、碧は白雪をそこまで大事に思ってはいなかった。

確かに同じ母から生まれた妹であり、守るべき弱者であることに変わりはない。


 だが、それだけだった。光とは比べるべくもなかった。

現在の碧にとって最も重要なのは光であり、一族や家族はその次に位置している。

もしも一族や家族を失うようなことになれば、彼女もその大切さを痛感するかもしれない。

だが、今強過ぎる光を前にしてそれ以外が霞んで見えている彼女には、家族の大切さは分からなかった。


 失わなければ気付けない大切な存在もあるのだと、彼女はすぐに思い知ることになる。











 神谷美空の意識が覚醒したのは、時計が午前九時を回った頃だった。


ここ最近悩まされている頭痛によって目を覚ました彼女はそのままふらつきながら部屋から出ようとし、ふと昨日己が一鬼に醜態を晒したことを思い出す。

紫の妖に対する恐怖の余り失禁してしまい、一鬼にそれを気付かれ、昨日はそのままずっと彼にしがみついていた。

流石に風呂に入る時は離れたが、それでも洗面所に待機して貰い、何度も彼の所在を確認してしまった。




「あうぅ……」



 顔を真っ赤に、そのまま布団の中にくるまった美空だったが、布団に残る一鬼の残り香に、余計に赤面してしまう。

恥ずかしさと安堵が入り混じり、恥ずかしいのか嬉しいのか分からない混沌とした状態に彼女は陥った。

既に一鬼と愛梨の姿はなく、美空はのそのそと起き上がると、着替えを始める。

薄いピンクのパジャマを脱ぎ、ジーンズとシャツに着替えると彼女はそのまま部屋を出た。




「美空、おはよう。昨夜は災難だったわね」


「おはよう、山吹。昨日のことは話さないで……余り思い出したくないから」


「分かったわ。お兄さん達なら居間に居ると思うわよ」


「ありがとう。二人共、なんで起こしてくれなかったのか……な……?」



 階段を下りて、そのまま居間に繋がる扉を開いた瞬間、美空は固まった。


彼女の視界にはソファーに横たわる一鬼に膝枕をして目を閉じている碧と、その向かい側のソファーで動かなくなっている愛梨、そしてそれらを見守るように佇むブルー・シャーマンの姿があった。

いったいどういう状況なのか理解に苦しむ彼女に対して、その誰もが反応を返さない。

横に居る山吹も困惑した様子でそれを見守るだけで、口を挟まずに居る。


 そんな静寂を破ったのは、蒼炎の超越者だった。




「選ばれし子の妹か。現在愛梨とその子は私の力で過去を見ている。目覚めるのは午後になるだろう」


「過去?……過去って何の……ですか?」


「私達の過去だ。その子の過去だ」


「兄さんの……?」



 美空は訳が分からず、ただブルー・シャーマンの方を見遣る。

彼女は、ブルー・シャーマンが過去を見ることのできる能力を持っていると知らない。

それに加え、一鬼の過去を見て何をしようというのか、彼女には理解できなかった。

一鬼の過去は彼女にとっては己が共に過ごした十七年間

そんな彼女に対して蒼炎の超越者は振り返ることすらなく、ただ言葉を続けた。




「お前も既に気付いているだろう。お前の兄は人間ではない」


「っ……」


「愛梨に散々親の話を聞いて見ろと言われていた筈なのだが、やはりまだ確認していないか。お前は本当に私の予想を裏切ってくれんな……」


「それ……は……」


「追及するつもりはない。お前にその責任はないのだからな。ただ……責任がなければ、権利もないものだ。それを忘れるな」



 ゆっくりと振り返るブルー・シャーマンに、美空は恐怖を感じて鳥肌が立った。


何故そのようなものを感じたのかは彼女には分からないが、ただひたすらに怖いのだ。

ブルー・シャーマンに宿る蒼炎は美しさすら感じさせるものだというのに、彼女はそれを怖いと感じる。

昨夜遭遇してしまった紫の妖程ではないが、ブルー・シャーマンもまた恐ろしく圧倒的だ。

これで全力を出せていないのだから、超越者の底はまるで見えない。


 昨夜出会った紫の妖に何故あそこまで恐怖してしまったのかは、本人である美空も理解できなかった。

ただ、とにかく超越者は怖いのだ……彼女の中の何かがそれに震えあがってしまう。

ブルー・シャーマンの無機質な鎧とも骨とも取れるその外殻の中に宿る蒼炎は恐ろしく美しい。

その美しさは、妖とはある意味正反対の方向性のもので、まるで神聖なものであるかのような錯覚すら覚える。


 なのに、怖いのだ……恐怖で全身が竦んでしまう程に。




「……ご飯を食べたら、病院に行きます。兄さんが起きたら伝えておいてください」


「ああ、間違いなく伝えておこう」



 ブルー・シャーマンは美空の言葉に頷くと、そのまま沈黙してしまう。


身振りで何処にでも行けと示された美空は、逃げるようにそそくさとその場を後にする。

その間も碧はただ目を伏せて黙しており、彼女達に一切の反応を示さなかった。

愛梨と一鬼に至っては身動き一つ取っていなかったので、一見すれば恐ろしい場面だろう

ブルー・シャーマンが一鬼達に何をしているのかは彼女には分からないので、ブルー・シャーマンの言葉を信じるしかない。


しかし、ブルー・シャーマンに限って一鬼達に危害を加える筈がないという確信が、何故か美空にはあった。

理由は分からないものの、ブルー・シャーマンは少なくとも一鬼を絶対に裏切らないという確信が彼女にはあるのだ。

その不気味な確信の源を探そうにも、彼女はそれを見つけることができない。

確かの彼女の内側にそれは存在する筈なのだが、それが見えて来ないのだ。




 その見えない何かに悶々としながら、彼女は朝食を取る為に台所に向かうのだった。















 藍色の闇の中を、ただ月が放つ白い光だけが照らしていた。


 穏やかな風が頬を撫で、辺りに立ち込める湯下を揺らすのを見遣りながら、碧は血を洗い流した体を温泉へと沈める。

ゆっくりと体に滲みこんでいく熱ではあるが、しかしその温度は彼女の内包する熱量に比べれば温い。

八尾である彼女は途方もない熱量を内包しており、それが彼女に圧倒的な力を齎すのだ。




「ふう……温いわね」



現在碧が浸かっている温泉は妖狐の集落の近くにあるもので、妖狐以外がそこを訪れることはない。

そもそも、百度近い熱湯に浸かろうとする輩などそうは居ないだろう。

妖狐は全体的に内包する熱量が多く、余程の暑さでなければ根を上げることはない。

人間ならば間違いなく火傷を負う程の温度だが、彼女達妖狐にとっては大した温度ではない訳だ。


 特に妖狐の中でも圧倒的な熱量を内包している碧にとっては、百度に届き得る熱湯など大したものではない。

彼女自身が遥かに高温の熱を内包しており、戦う者達も同じように膨大な熱量を抱えている。

百度程度の温度に耐えられないような妖は存在せず、その熱耐性もまた力の基準になり得るものであった。

妖は全体的に熱耐性が高く、『南』の一族のように、熱を武器にして戦う一族も居るくらいだ。


 いつか、この場所に光を招くのも良いかもしれない……そんなことを考えながら、碧は微笑む。




「ふふ……」


「随分とご機嫌だな」


「……族長」


「今は私的な時間だ。入っても良いか?」


「……体を洗っているのなら、ね」


「なら問題あるまい」



 湯気の中から現れた母、翡翠の方を向きながら碧は、母の入浴を許可した。


そもそも族長である翡翠が許可を求める必要などないのだが、一応戦士としての序列は碧の方が上だ。

妖の世界においては強さこそが重要視され、それ以外の要素はその次に来る。

だからこそ、族長である翡翠よりも最強の妖狐である碧の方が、ある意味影響力は強い。

もしも彼女が謀反を起こせば、彼女の賛同する者の方が圧倒的に多くなるのは間違いなかった。


 それを誰よりも痛感し、恐怖したからこそ、翡翠は碧を規律でがんじがらめにした。

誰よりも規律を、約束を守るように教育して、一族がバラバラになってしまわないようにしたのだ。

そうしなければ、とっくの昔に妖狐は二分化され、間違いなく碧の居る方が勝っていただろう。

翡翠は碧に族長の立場を譲ることも考えてはいるが、少なくとも今の彼女には譲れない。


 碧は容易く着火し、圧倒的な火力で触れる者を全て燃やし尽くす炎そのものだ。

その激情も、規律の義務的な遵守も、全てが母である翡翠の教育によるものであるのは間違いない。

だが、その教育によって開花するような、生まれ持っての原型を彼女は持っていたのだろう。

だからこそ、碧という妖狐は最強の妖狐となり、最も空っぽで、最も嫉妬深い女になってしまった。

それが、翡翠に碧を後継者とすることを躊躇わせる。


 碧もそんな翡翠の苦悩をおおまかではあるものの感じ取っている為、ただ母の判断を待っていた。




「何か用? 白雪の方はもう良いの?」


「ああ、白雪は既に寝ている。それよりも、最近随分と調子が良いな。男でもできたか?」


「……何故そういう方向に思考が向かうのか、甚だ疑問だわ」


「やはりそれは違うか。だが、その眼は確かに守る者ができた者の眼だ。目指す者を得た者の眼だ……前よりも随分と健全な精神を得たようだな」


「今までは健全ではなかったと?」



 碧は翡翠の言葉に苦笑しながら、夜空を照らす月を見遣った。

美しい光を放っている月ではあるが、あれは太陽の光で光っているように見えるだけで、実際は光を発してはいない。

碧達はそのことを実際に確認した訳ではないが、つい最近実際に月の上ったことのある妖が居るという話だ。

月との距離は凡そ四十万キロにも及び、その距離を進むのは碧ですら容易ではない。


常に最高速度を出していたとしても、一日かけてやっと辿り着ける距離だ。

単純な距離のみならば十時間程度で辿り着ける程度のものだが、しかし月は、地球は常に動いている。

それを考慮して進まねば、月に辿り着くのは難しい。

だというのに、それを容易に成し遂げたという者達の話に、彼女は超越者の影を見出す。

彼女も超越すれば、それに匹敵するだけの力が、愛が得られる。


光に愛され、必要とされたい……そう思うからこそ、彼女は超越するのだ。

彼女は光を求め、愛されたいと願っている。愛したいと思っている。

彼女が知らないものを、彼女が持っていないものを、光に強請りたい。光に縋りつきたい……そう願っているのだ。

誰も格上と認められなかった彼女が初めて上位種だとはっきりと認識した光ならば、それらを与えてくれる。

空っぽな彼女を満たしてくれる……愛してくれる。


そう思っているからこそ、彼女はもがき、殺し、奪い、ひたすらに戦うのだ。




「ああ、以前のお前はまるで空虚だった。私の教育が生み出した、激情を内包した人形でしかなかった。だが、今のお前は違う。明らかに変化している」


「……何が言いたいの?」


「今までのお前はまるで捨て犬のようだった。何処か心の拠り所を探しながらも、見つけられていなかった。しかし、今のお前はまるで飼い主を前にした飼い犬だ。帰る場所がある。居場所がある。お前が愛する者が居る。お前に触れて、愛してくれる者が居る……そう見える。さぁ、言え……お前の心に首輪をした主は何だ?」


「……私の主は私自身のみよ」


「なら、質問を変えようか……鬼の里で何を見た? 何を得た?」


「……っ」



 碧は母の言わんとすることを理解しながらも……否、理解しているからこそ、口を噤む。

翡翠が彼女の中に光を見出し、その源に興味を持ってしまったからこそ、その質問は生まれたのだろう。

しかし、紫鬼との約束……延いては己自身による光の独占の為にも、彼女にはそれを語ることはできない。

語ってしまえば、妖狐は間違いなく光を奪う為に動き、鬼の里に攻め込むだろう。


 その果てにあるのは光の一族による独占だが、碧は一族が光に狂ってしまう未来が見えていた。

他の種族と比べて空虚さが際立っている妖狐が、それを埋め得る光を手放す筈がない。

己を制御できる筈がない……ただ無我夢中で強請り続け、光を貪り食らうだけだ。

それを分かっているからこそ、その時が来たならば碧は紫鬼の側につかねばならない。


紫鬼と翡翠の誓いは守られるべき心臓にかけた誓いであって、それを破るならばいくら母といえども、碧は容赦するつもりはなかった。

更には、彼女自身と紫鬼の誓いもある……光を妖狐から秘匿し続けるという誓いが。

その二つの誓いを守り続ければ、自ずと光は彼女の元にやってくる。

秘匿することが正しく、同時にそうすることが彼女自身にとっても最良の選択肢だった。




「答えられないか? 答えられないだろうな……お前は激情家だ。誰よりも強く依存し、誰よりも独占したがるお前は、その光を誰にも見せたくないのだろう? 分かっているとも……お前をそうしたのは私だ。他でもない、母親である私だからこそ、分かる」


「母親、ねぇ……今更母親面するつもり? 三歳に届く頃からひたすらに戦うことと、誓いの遵守のみを教え込んでおいて? この二十四年間、貴方は私に一度も愛を向けてはくれなかった。ただ恐れ、制御しようとした。規律で縛ろうとした……私がそれを理解していないとでも?」


「……分かっている。私は血縁的にはお前の母ではあるが、実際はそうなれなかった。お前の力を制御しきれないことを恐れ、ただ規律で縛り続けた。憎んでいるのだろう?……私のことも、白雪のことも」


「……憎んでいないと思っているのだとすれば、貴方は本当に母親失格よ」



 翡翠の言葉に、碧は怒りを露わにしながら、過去を振り返る。


来る日も来る日も戦いに身を投じ、殺し、奪い、苦しみ、ただ虚無を埋める為に彼女はもがき続けてきた。

生まれ持った激情を制御する為に一族を愛するように教育され、それ以外を憎むように誘導され続けたのを彼女は知っている。

だからこそ、彼女はその教育をいとも容易く凌駕する光を求めた。


 雁字搦めの己を開放することを碧は本心では望んでいるのだ。

紫鬼が規律などを守ることを自然体で行っているのに対し、彼女は無理をしている。

紫鬼と彼女の最も大きな相違点はそこにあり、その違いが両者の在り方を大きく分けていた。

碧は空虚さを埋める為に殺し、紫鬼は己の器に収まっている光を守る為に殺す。

碧は解放を願ってもがき、紫鬼は遵守を願ってもがく。


 紫鬼のその性質に目を付けたからこそ、翡翠は彼を碧と引き合わせたのだ。

しかし、翡翠が思っていた以上に碧の変貌ぶりは凄まじく、その方向性は良いとは言えないものだった。

鬼の里で彼女が紫鬼以外の何かと遭遇してしまったことを翡翠は悟り、故に今問いただしているのだ。

何かに依存することを覚えてしまい、自立した存在ではなく、飼い主に依存しきった飼い犬になろうとしている碧に、翡翠は危機感を覚えていた。


 妖狐としての翡翠の感性はそれを奪えと言っているが、族長としての翡翠の感性はそれを殺せと言っている。




「その眼だ。その憎しみと嫉妬に彩られた眼……その眼があるからこそ、私はお前を恐れる。規律を守るように教育しなければ、お前はとっくの昔に我々妖狐を真っ先に滅ぼしていただろう。今お前の中で最上位に属する飼い主は何者か、私は知りたい。私の長年の教育を凌駕し、容易く最上位の座を得た光の正体を」


「……紫鬼よ」


「嘘だな。奴は光を覆い隠す闇そのものだ。雁字搦めになることを恐れない、お前とは正反対の存在だ。お前の嫌いな規律を重んじる存在だ。お前の求めているのはあらゆるものからの解放であって、束縛ではない。ただお前を愛し、全てを委ねることを許す存在こそが、お前の望むものだ」


「何よ……そこまで分かっていながら、何故その正体が分からないの?」


「我が娘よ……我々はそこまで強くない。賢くない。何も知らない。所詮、我々は超越してないただの妖だ……全てを見通すという海の向こうに居る蒼炎の超越者にはなれない」



 咄嗟に紡いだ碧の言葉は容易に嘘だと見抜かれてしまう。


翡翠は確かに碧よりも弱いが、彼女よりも長い時を生きてきた為、踏んだ場数が違った。

高が二十四の小娘の咄嗟の嘘を見抜くことくらい、翡翠には容易なことなのだ。

更には、彼女が紫鬼という妖のことを知っているが故に、余計に碧の嘘は脆いものとなる。

碧にとって、その光はそこまでして隠し通したい存在であることに翡翠は驚き、同時に恐怖した。


 八尾である碧の怨念を受け止めきれるのは、それ以上の上位種のみだ。

そして、それに該当し得るのは翡翠の知る限り超越者という得体の知れない者達しか居ない。

妖でありながら、それ以上の何かでもある超越者という存在が、最近になって現れるようになった。

彼らは圧倒的な能力を有しており、特に海の向こうの大陸に居る蒼炎の超越者は他者の過去を見透かす。

それも読心などではなく、実際に起きたことや感じたもの全てを本人以上に明細に得るのだ。


 そんな得体の知れない上位種でしか、碧の全てを受け切ることはできない。

碧が依存し、全てを委ね、開放する為にはそれだけの能力が必要とされる。

それ程の能力を持っているのならば、碧が隠すまでもなく、翡翠達に手が出せる相手ではない。

だが、碧は『守ろう』としている……己よりもまだ弱いと感じているのだ。

つまり、その光は今はまだ碧よりも弱いが、同時にその怨念を受け止めきれる存在であるということになる。


 そのような歪な存在があるのだと感じた翡翠は、背筋が凍るような恐怖を感じるのだ。


 だからこそ、その正体を知ろうとする……未知なままにして、分からないことに怯えたくないが故に。




「くだらないわね……恐怖に負けて母親になりきれなかった貴方が、恐怖によって私と向かい合う羽目になるなんて」


「碧……」


「族長、私はいずれこの集落を出るわ。貴方の言う通り、全てから解放されてね。その時、私を止めようというのならば相手になるわよ……精々死なないように気を付けることね」


「そうか……やはり、妖狐はお前にとって止まり木でしかなかったか。お前の望む光は……ここにはなかったのだな」


「ええ、なかったわ。だからこうも簡単に上書きされる。こうも簡単に捨てられる」



 碧は吐き捨てるように言うと、そのまま温泉から上がった。


戦士のそれとは思えぬ白磁の如き白い肌が月明かりに照らされて、その美しさを際立てる。

同時に、肩口で切り揃えられた金色の髪の毛が月の光によって、透明さを齎す。

不機嫌故に歪んでいる桜色の唇が白い肌の中で異色さを放ち、より一層その艶やかさを自己主張した。

それ以上に異色な新緑の眼は憎しみや怒りに歪み、彼女の奥底に潜む緑色の炎を具現化したように、鮮やかに揺れる。


 二十年近い戦いの中で、その肉体は引き締まっており、女性らしい曲線美をより一層強調していた。

女性としては身長が高めの彼女だが、その身長の高さも相まって、彼女の肉体は恐ろしい程に妖艶だ。

母である翡翠よりも少しばかり高い身長が、母よりも女性らしい彼女の体をより一層美しいものにする。


 碧は恐らくこの世界において有数の美女と言える部類に入るだろう……同時に世界で最も重い女性になり得るかもしれないが。

妖の世界においては、見た目ではなく実際に内包する熱量と、その質量こそが全てを決する。

碧という妖の持つ熱量は圧倒的で、質量に至っては人間の何十倍に及ぶ程だ。

一トンを超える質量を彼女は有しており、その重量が音を超える速さで動く。


 だからこそ、見た目の美しさに反して彼女は最強と言われていた。




「碧……すぐにここを去る訳ではないのだろう?」


「ええ、もう少し時間はかかるでしょうけれど……いずれ去るわ。それだけは確か」


「そうか……なら、その間だけでも白雪のことを頼む。あの子は姉であるお前に懐いているからな」


「ええ、その間だけなら良いわ……どの道私はすぐにここを去る訳ではないもの」


「助かる」



 碧は己に向けられなかった母の愛を得ている白雪に嫉妬しながら、しかし同時にそれを守ることを約束する。

どんなに憎んでも、妬んでも、白雪は彼女の妹なのだ。血の繋がっている、たった一人の妹なのだ。

その絆を容易に捨て去ることはそう簡単にできるものではない。

例え妹が地を這うゴミのような力しか持たなかったとしても、彼女の妹であることに変わりはないのだから。


 しかし、それを碧は捨てたいと思っていた。

守ろうという思いはあるものの、それは所詮教育が齎したまやかしであって、彼女自身の願いではない。

同じ一族であるからこそ、家族であるからこそ白雪を守ろうという思いが生じるのであって、それ以上の思いは彼女にはなかった。

白雪が生まれた時、彼女は笑顔でそれを祝福したが、それは新たな妖狐に対してであり、白雪個人に対してではない。


 碧は教育によって植えつけられた枷を破壊したい。そこから逸脱したい。

その本心からの願いこそが、結局彼女は破壊者でしかないことを示していると気付かずに。

己は破壊者でしかないことから目を背け、紫鬼の守護者としての生き様に憧れ、光を独占することを願い続ける。

紫鬼は決して光を独占するつもりはないというのに、光をただ害から守ろうとしているだけだというのに。


 それを理解できないからこそ、彼女は破壊者なのだ。











 建物が月の光に照らされて淡い光を反射するのを眺めながら、紫鬼は中庭で仁王立ちしていた。


 母の出産は後数ヶ月にまで迫っており、彼の弟が生まれるのはそう遠い日ではない。

ただそのことを感無量であると思いながら、彼は月夜を眺め、その身に宿る怨念を揺らめかせる。

彼は生まれながらの超越者であり、生まれ落ちた瞬間に一つの使命を背負った。

それこそが光の守護だ。これから生まれてくる弟を、命をかけて守ることだ。


 そもそも、超越者とは八つの席のどれかに座ることを許された者である。

紫鬼はその中で紫の席に座ることを許された、全体を通して第二位、守護者のみならば一位に属する超越者だ。

その戦闘力は間違いなく現存する妖の中では最強であり、これから生まれるであろう弟を除けば彼を倒せる者は居ない。

彼に続く程の能力を持つ者も居るには居るが、それでも最強は彼であることは揺るがない。


 紫鬼がその気になれば、この世の全ては彼の物になる。あらゆる物を手に入れることができる。

それを可能にする程の能力を彼は持っており、実際に今まで彼が負けたことはない。

しかし、彼はそれをするつもりは毛頭なかった。彼はただ己の夢と使命のみを見据える。

彼は光である弟を守ることに全力を注ぐことを既に決めており、それこそが彼の夢だった。


 それ以外は切り捨てられる。どんなに誰か愛しても、それが弟を害するのならば彼は排除する。




「紫鬼、月を見ているの?」


「母上……夜風はお体に障るので、お休みください」


「ふふ、ありがとう。でも、貴方が心配しているのは私じゃなくて、お腹に居るこの子なのでしょう?」


「……はい」


「良いのよ、そんな申し訳なさそうな顔をせずとも。私も分かっているわ……この子は世界を変える。良い方向か悪い方向かは分からないけれど、確実に」




 縁側に腰掛ける母に静かに頷くと、紫鬼は片手を握りしめて握り拳を作った。

現在彼が握っている拳で母を殺すのにかかる時間はほぼ零に等しく、母がそれに反応することは不可能だ。

完全に世界の理を超越した彼の最高速度は、光すら置き去りにすることも可能な程に速いのだから。

いや、彼でなくとも五尾相当の力を持つ妖ならば、一瞬で母を殺せてしまうだろう。


そんな貧弱な存在でしかない母から、彼を上回る存在が生まれようとしている……それはとても凄いことなのだ。

器たる母を圧倒的に上回る子がそのお腹に宿っている已上、出産の時に何が起こるのかは、彼も既に予想はできている。

彼が過去に通った道だ……それを弟も通らねばならない。最初の怨念をその身に背負わねばならない。


 彼はただ今目の前に居る母の未来を、そのお腹に宿る弟の未来を想像し、痛みを己の内に留めた。

超越者はいくらでも痛みを抱えることができる存在でなければならない。どんな苦痛にも耐えて、守るべき存在を守らねばならない。

彼はそう思っていたし、実際問題超越者というものは、そういう方向へと向かう。

彼らは痛みに対して麻痺はしないし、できない。それでも受け止め、傷つきながらも前に進む。


 彼らは一人ではない……常にその心には光が―――否、鬼が共にある。


だから、痛みは怖くない。孤独は怖くない。




「私ね、実は今まで不思議に思っていたの。なんで貴方は幼い頃からあんなにボロボロになってまで今までこの里を守ってくれたのかな、って。でも、今なら分かる。この子が普通に生まれて、普通に愛されて、普通に育つ場所を貴方は守っていてくれたのね。貴方の二十四年間は全て―――この子に繋がっていたのね」


「ええ、そうです。私はその子の……空の超越者の守護者として、生を受けた。たった一人の為、私は今まで戦ってきた。殺してきた。狂っていると言われるのは構いません。我々超越者は須らく狂うべきなのです。狂っていなければ、守り切れない。信念を保てない」


「金虎さんも、藍龍ちゃんも、カナリーちゃんも、紅鴉さんも……ブルー・シャーマンさんも、皆そうなの?」


「いいえ、彼らは私のように生まれながらにして選ばれた訳ではありません。その子がつい最近選んだに過ぎないのです」


「そう、なら紫鬼は……誰よりも長く、この子の誕生を待ち続けたのね。貴方達七人にここまで思われるなんて、この子は本当に幸せ者だわ。」


 愛おしげにお腹を撫でる母の姿に、紫鬼は一つの怨念を見出した。

それは彼女が密かに抱え続けた孤独……紫鬼との間にある、絶対的な距離感だ。

彼女と父は、それはもう上手くやっている。結婚して『二十三年目』だというのに、本当に仲が良い。

しかし、紫鬼は違った。紫鬼との間に彼女は常に距離感を感じている。


 紫鬼は彼女のことを母だと思っているし、そこに距離感を見出したことはなかった。

ただ勝手に彼女が距離感を感じているに過ぎず、今回の出産でそれが変わることもない。

だというのに、彼女は生まれてくる彼女の『第一子』を媒介として紫鬼との距離を縮めようとしている。

弟を誰よりも大切に思っている彼の思いを利用して、本当の家族になれると踏んでいる。

そのようなものがなくとも二人は既に家族だと紫鬼は思っているし、実際そうなのだ。


 母はそれを信じ切れず、確かな形の絆を求めていた。

その絆こそが彼女のお腹に宿る息子であり、その子は紫鬼の弟でもある。

紫鬼はそんな母の弱さを知りながらも、しかし責めはしない、跳ね除けることもしない。

ただ受け入れ、気付かない振りをする。気にせずに、弟を守ることだけを考える。

彼は超越者だ……光を失うこと以外のあらゆる痛みに耐えうる精神と力を与えられた、守護者だ。


 彼はその光が抱えることになるであろう母の怨念も受け入れる……将来弟がそれを背負ったことを自覚した時、助けとなってやる為に。




「七人……つまり、殺戮者も含めてですか」


「ええ、碧ちゃんは本当に良い子よ。ただ、持っていない物が多過ぎるだけで、それさえ満たせれば素直な子だもの」


「満たされていない癖に、力がある分余計に性質が悪いのです。あのような脆弱な輩には八尾程度が限界でしょう。あれには超越はできない。その証拠に、既に積み重ねた怨念に押し潰されかけている。精神が捻じ曲がり始めている」


「そこはこの子が何とかしてくれるんじゃないかしら?」


「それを必要とした時点で、超越者ではなくなります。超越とは、それを可能とする潜在能力の持ち主だけが行えるもの。その資格を持たない者に光が情けを与えるなど……そんな輩に、光を守る資格も、触れる資格もありません」


「紫鬼は相変わらず厳しいわね。でも、そうね……確かに碧ちゃんは選ばれはしたけれど、資格の持ち主ではないわ。強いて言うのならば、この子が傍に居たいと思った八番目の妖なのでしょうね……あの子は」



 超越者にしか理解できないことがある。超越者の母だからこそ分かることがある。


紫鬼は碧が決して超越できぬことを分かっている。だから、必要以上に彼女を光に触れさせない。

母は碧が資格を持たないことを理解している。だから、光が彼女を選んだのは別の理由なのだと考える。

片や、現在最強の超越者であり、片やこれから生まれる最高の超越者の母である彼らは、碧に資格がないことを理解していた。


ただ、何故そんな彼女が光に選ばれたのかについての意見が異なるだけだ。




「光は闇を焼き払いもするし、逆に強めもするわ。この子はきっと、碧ちゃんの抱える虚無を……闇を振り払ってあげようと考えているのよ」


「母上、いくら貴方がその子の影響を受けているとはいえ、限度があります。貴方は超越者ではありません。貴方にはその先にある結末が見通せない。その子の死が見えない。だから、そのようなことが言えるのです」


「……そうね。確かに、私は所詮四尾相当の鬼。九尾は愚かそれ以上の力を持つ貴方達に見える物が見える筈もないわ。でも、忘れないで……持たない者にしか見えない物もあるの」


「ええ、分かっています。だからこそ、言うのです……正気を失った者にしか見えない物もあると。我々にしか見えない未来があるのだと」



 そう、超越者である紫鬼達には見えるのだ……碧がこの先どういう悪影響を齎すかが。


未だ現れぬ緑の超越者である可能性を考慮したからこそ、彼は光と彼女を引き合わせた。

しかし、彼女は一度目の出会いの時点で超越しなかった。光に選ばれはしたが、資格はなかったのだ。

確かにあの時彼女はその美しさに、力強さに泣いた。感動していた。

だが、それだけだ……彼女は触れあうことを許されはしたものの、肝心の力を持たない。


 碧は超越者にはなれない。

一度ならず何度も光と触れ合ったにも関わらず。超越できなかったことが、それを示している。

紫鬼のように生まれついて選ばれ、資格を持っていたでもなく、他の者達のように資格を持ちながら最初の出会いまで選ばれなかった訳でもない。

純粋に、彼女には資格がないのだ。なのに選ばれた。触れ合うことを許された。


 これは異常なことであり、紫鬼達超越者にとって由々しき事態でもある。

碧は己も超越者になれると勘違いして、今尚その心臓に怨念を溜めこみ続けているのだ。

資格を持たない彼女の精神はそれに応じて悪化の一途を辿り、近い内に崩壊する。

怨念を無限に抱えることのできる超越者ならばいざ知らず、そうでない者はすぐに壊れるのがオチだ。

碧はまだ良く持っている方で、通常ならばとっくの昔に壊れている。


 光と出会わっていなければ、既に彼女は己の抱える怨念に食われて死亡していただろう。




「でも、貴方達はこの子を守ってくれる……そうでしょう?」


「それにも限度がある。超越者とて、全能ではありません。だからこそ、我々は可能な限りその分岐へと向かう可能性を排除するのです。敢えてその可能性を残すなど、言語道断……いずれ殺戮者は殺します」


「……仕方ないことなのかもしれないけれど、悲しいわね」


「その子を守る為ならば、それ以外のものなど全て切り捨てましょう。この身すらも、その子に害為すようなことになるのならば屠れと、ブルー・シャーマンには言ってあります」


「それが悲しいと言っているの。貴方達超越者は、光しか眼中にない。それ以外の物を平気で切り捨てられる……それはとても悲しいことだわ」


「その気持ちは有難いものですが、我々超越者はそういうものです。そういう生き方しか選ばないのです。それで良いのです。我々はそうすることが幸せなのですから」



 紫鬼の母は超越者の生き方を悲しいと言う。

確かにそうなのかもしれない。確かに、光と繋がっていない者達からすれば、酷く不気味な生き方だろう。

だが、超越者達はそういう使命を背負っている。そういう夢を抱えている。

決められた生き方などではない……光が選んでくれたのは、彼らがそれを望んだからだ。その資格を持っていたからだ。


 彼らは己自身でそういう生き方を望み、そうすることを誓った。

少なくとも紫鬼は生まれながらにそれを決め、信念を貫き通してきたという矜持がある。

光に選ばれたことを自慢するような凝り固まった虚栄心ではなく、純粋に弟を大切に思う愛故に、彼は光を守るのだ。

その信念こそが、愛こそが彼の原動力であり、超越者の長となる者の兄としての在り方であった。


 生まれながらの超越者は母の愛を怨念という形でしか得ることができない。

だから、血が繋がっている紫鬼と父が愛してやらねばならない。愛がどういうものかを教えてやらねばならない。

そうすることで光はより一層強くなり、一層超越者の持つ闇を濃くする。

より一層、光を覆い隠す闇そのものである守護者は強くなり、同じ闇をである外敵を飲み込んでいく。


 紫鬼の思考は全て光を得ることになる弟に繋がっており、それを守り切ることこそが彼の信念だった。




「貴方達は一生他者を愛することもなく、ただこの子を守り続けるの? それだけで、本当に幸せになれるの? 私には、理解しきれないわ。この子の影響を受けても、いずれ貴方達が信念を曲げるようにしか思えないの」


「他の超越者ならば、それもあり得るかもしれません。私もその変化を黙認しましょう。ですが、私は……いや、私とブルー・シャーマンのみは最後までその子を守り続ける。そう決意し、誓ったのです。我々二人だけは絶対に最後までその子を見捨てないと。どちらかがその子と敵対するようならば、もう片方が殺すと」


「貴方達は……本当に狂っているのね。本当に、私達とは違うのね」


「それが超越者というものです。忘れないでください……超越者はこの世界に愛された者だということを。超越者は貴方達とは違い、この世界と繋がっているということを。世界は……貴方達を愛してはいないということを」



 月を背に、紫鬼は淡々と事実のみを述べていく。


彼には嘘をつくことはできない。誤魔化すことはできても、明確に嘘をつくことは許されない。

だからこそ、その言葉は研ぎ澄まされた刃物と化し、世界に愛されていない者達の胸に突き刺さる。

刃を潰すことはできても、刃そのものを取り除くことは、彼らにはできなかった。

その刃こそが、彼らが超越者である証なのだから。



世界に愛された者達のみが、世界の理を超えることを……超越を許された。


 生物としての限界を超え、まさしく一部ではあるが神と呼べる程の能力を彼らは得ている。

しかし同時に光という、世界と彼らを繋ぐ媒介なしでは精神を保つことすら困難な程の怨念が、その心臓には宿っていた。

世界に愛されたが故に彼らは歪で、しかし美しい。恐ろしく邪悪で、しかし神聖だ。

彼らが抱える闇と、それを照らす光の二つの相互作用が歪さを促進させる。


 だからこそ、彼らは生きる為に光を守らねばならない。己が己である為に、光を死守せねばならない。

そんな背景があっても、紫鬼はそのような自己保身の為ではなく、ただ己が守護者であるが故に光を守る。

血の繋がった弟だからこそ、彼は光を守る。


 自己保身ではなく、愛しているが故に彼は守るのだ。




「ええ、分かっているわ。でもね、紫鬼。貴方も忘れないで……貴方達は世界に愛されても、他者には愛されない、可愛そうな子よ」


「ええ、分かっています。ですが、それで良いのです。そうあるべきなのです。光がそこにあるだけで、我々は幸せなのです。だから……光は奪わせない。殺させない。その為に、私は殺戮者を殺すことになるでしょう……他者にも世界にも愛されない、あの哀れな人形を」


「紫鬼、貴方は……世界すら揺るがす程の怨念を背負っても、まだ背負い続けようというの?」


「……今度、少しばかり遠出をします。その日は金虎達も動けない為、この里が四半刻程無防備になる。その間は絶対に結界を張っておいてください。間違っても、解除などせぬようにお願いします。妖狐は貴方が想像している程甘くない」


「……紫鬼……貴方……」



 紫鬼は悲しげに微笑むと、そのまま母に背を向けた。


その大きな背には一切の後悔も悲しみもなく、ただ強さだけが伝わってくるのを感じながら、母は静かに涙を流す。

血の繋がらない息子が抱えている闇と、それを理解できず、恐怖するしかない己達の無力さ故に。

そんな息子が誰よりも愛している弟を、心のどこかで利用しようとしていた己の浅ましさが故に。


 超越者は強い……否、強過ぎる。

彼らは捻じ曲がらない……光の目標となる為に。彼らは責任を放棄しない……光を捻じ曲げない為に。彼らは逃げ出さない……光を守る為に。

恐ろしいまでに強く、高潔で、歪なその精神性の前では、他の妖など赤子同前だった。

彼らは確かに妖でありながら妖ではない。間違いなく、それを超えた何かだ。



 だからこそ、彼らを皆は尊敬と恐怖を込めてこう呼ぶ―――超越者と。







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