第二話
骨と筋肉は、生物にとって非常に重要な要素だ。
これらがあってこそ生物はその肉体の形を保つことができるのであって、これら無しではそれも叶わない。
必要故にどちらも頑丈にできてはいるが、残念ながら破損することは多々ある。
だが、それは大きな力を加えられた場合に限るものだ。
人体を容易くバらせる程の力を持つ者ならば、その筋肉も骨も強度は相当なものになるだろう。
事実、それが辛うじて可能かもしれない一鬼も、骨折の経験は一度としてない。
だからこそ、分かるのだ……目の前で起きたことが、いかに異様かが。
それがいかに恐ろしいことかが。
彼と同等の能力を持つリッパーの腕は、肉はおろか骨すらも潰された―――碧と名乗った女性の握力のみによって、握り潰されたのだ。
「あああああああああああああああ!?」
「脆い……悲しいわね。井の中の蛙はずっと井の中に居るべきだったのに」
「う……が……バカな……お前はいったい……何なんだ?」
「あら、貴方は聞いたことがなかったかしら? 私は妖狐一族最強の戦士よ。殺戮者と言えば、理解できるのではなくて?」
「……妖狐、だと? お前は何を言っている? この世界にバケギツネなんて存在しない!」
息を荒くしながらも距離をとるリッパーに対して、女性……碧は特に動くこともなく、それを許す。
まるでいくら足掻いても無駄だとあざ笑うその態度は挑発なのだと一鬼はすぐに理解した。
そこまでして何が変わるのだとでも言いたげな眼をして、襲撃者を挑発している。
絶対的な自信が込められたその眼は相手を煽り、攻撃を誘っていた。
それに乗れば命はない……不可避のカウンターがその命を奪うだろう。
しかし、それに襲撃者は乗らない……乗ってはダメだと理解しているからだ。
もしも誘いに応じれば、今度は腕どころか命を失うことになる……それが分るからこそ、応じない。
一鬼も、今までの会話や行動からリッパーは激情家ではあるものの、しかし冷静さも持ち合わせるタイプであると理解している。
そうでなければ、常に姿を消したまま人間を襲うという臆病さがある筈がないのだ。
こうなるのはある意味必然だったのかもしれない。
「あら、そう。大海の覇者のことを知らないとは、やはり井の中がお似合いのようね」
「……構わんさ。それこそ、大海の覇者とやらは、大海に居るべきなんじゃないか? 海水魚は淡水では生きられないものだ」
「確かにそうね。でも、ここは大海よ……貴方が居るべき場所ではない」
「ここが大海?……こんな島国にある田舎の町がか? 理解しかねるな」
「そう……貴方は何も感じないのね。なら、仕方ないわ。せいぜい背後に忍び寄る大魚に気を付けることね。でなければ、貴方はその大魚が竜であったと気付くこともなく八つ裂きにされるわ」
碧の際どいチャイナドレスから覗くすらりとした生足は、よく見れば地面についていない。
そのことに気付いた一鬼は、彼女もまたリッパーと同じく超自然の存在なのだということを認めざるを得なかった。
彼と同等の身体能力を有する者の腕を握力で潰せる時点で、その力はもはや人間のものではない。
一鬼には実際に他人の腕を潰した経験はないが、音から察するに骨も肉もズタズタになっているだろう。
そうなれば、内出血は深刻なものになるし、粉砕骨折のせいで痛みも倍増する。
この怪我を考慮すれば、今のリッパーが彼ら相手に脅威になることはないとも考えられるだろう。
しかし、彼女はいずれまた誰かを殺す……そして、その標的が一鬼の関係者になる可能性は高い。
相手は一鬼を再発見した際に、すぐさま攻撃してきたくらいだ……その言動から察するに、一度逃がした相手に粘着するのは目に見えている。
ましてや、これで一鬼は二度逃げおおせることになる……彼を狙いにくるのは明らかだ。
つまり、やるならば今しかない。
「碧さん、こいつは連続殺人をしている奴だ。逃がす訳にはいかない。ここで再起不能にしなければ……」
「ええ、知っているわ。貴方の中から見ていたから。それと、さん付けも敬語も必要ないわ。堅苦しいったらありゃしない」
「……?」
「貴方の意見も理解できなくはないけれど、生憎私は人間の為に戦うつもりはないの。私が戦うのは同胞の為だけ。覚えておきなさい」
「なっ!?」
一鬼は、碧の口から告げられた、突き放すような言葉に、思わず絶句した。
超自然の存在である已上、人間ではないとは思っていたが、まさか人間の為に戦うつもりなどないとまで言われるとは思わなかったのだ。
今ならば、戦力的にも状況的にもこちらが圧倒的に有利なのだから、彼としては今ここで連続殺人の犯人を再起不能にしたい。
それこそが、家族を守ると決めた彼の決断であり、ここで為すべきことだ。
しかし、碧にはそのつもりが全くないようだった。
ここでリッパーを再起不能……或は殺害すれば、少なくとも連続殺人は止まる。
そうすることでどれだけの人間の命が救われるかは、数えようがない……恐らくこのままいけば、何十人、何百人もの人間が殺されるに違いないのだから。
それを止められるにも関わらず止めない……それが一鬼には理解できなかった。
いや、本当は理解できている。碧という女性にとっての優先順位と、彼のそれが違うだけなのだということは。価値観が異なるだけなのだということは。
そして、それを理解できないのは当然だろうとも彼は思う。
人間と人外の考え方は大きく異なるであろうことは、容易に想像できる。
人間ですらも、それぞれで大きく異なるのだ……人間とそれ以外で考え方が異なるのは必至であろう。
それでも、彼は悔しい。ここで目の前の超自然の存在を潰すことで、彼の家族が危険から解放されるというのに、それができないのだから。
そう……彼がリッパーをここで潰したい理由は、結局家族の為だけなのだ。
「今回は見逃してあげるわ。でも、もしまたぶつかることがあれば、次はその体に風穴を開けるわよ」
「……覚えていろ。次は殺す」
気怠そうに告げる碧ではなく、その後ろの一鬼に向けてそう宣言すると、リッパーはその場から離脱を始めた。
一鬼はそれを追おうとするも、碧はまるで時間の無駄だとでも言いたげな眼を向けて、それを制止する。
彼よりも細い筈のその腕は力強く、リッパーの腕を握力のみで破壊したことにも、一鬼は納得した。
碧はリッパーよりも一鬼よりも強く、明らかに人間の限界を超えている。
だからこそ、一鬼は彼女がリッパーを見逃したことが歯痒いのだ。
「……いったい、何がどうなってるんだ?」
「そういえば、まだ状況を説明していなかったわね。あれは人間が妖を偶然殺した結果、生まれた後天的な妖よ。恐らく、アメリカ辺りのでしょうけど……大したことはないわ。あの程度の力、生まれたばかりの妖狐にも劣るもの」
「……妖というのは、所謂妖怪のことで良いのか?」
「ええ、そうよ。貴方達人間が古来から恐れている超自然の存在……それが妖。まぁ、その実態は自分達が理解できないものを超常現象だと言い張る為の方便なんだけど」
「それが実際に形を成した、ということか?」
幻覚というものは、妄想が幻想へと昇華していき、現実を浸食していく現象だ。
もしも、それが一斉に多くの人間に起きたのだとすれば、それは実質現実であると言える。
つまり、皆が事実だと、真実だと信じて疑わないものは、現実になるのだ。
それ故に、妖怪という想像の産物が、偶発的に実在のものになってしまったのかもしれないと彼は考えた。
「正確に言えば、違うわ。人間達は、私達を見て想像したのよ。人間の想像が私達を生んだのではなく、私達の存在が人間の想像を生んだという訳。とは言っても、実在する妖の種類は人間が語っているものよりも遥かに少ないの。人間様の想像力には頭が下がるわ」
「成程。昔話の中には実話もいくつかあった訳だ」
「そういうことになるわ。私は先程言った通り妖狐……それも、複数の尾を持つ、ね。貴方も聞いたことはあるわよね?」
「ああ、九尾の妖狐だろう? しかし……その姿は仮のものか?」
「いいえ、これが本当の姿よ。私達はこういう姿で生まれてきた。残念ながら、巨大な狐にはならないわ」
「……そんなことはどうでも良い。それよりも、先程俺の肋骨がどうのこうのと言ったな? あれはどういう意味だ?」
一鬼は自分の想像とまるで異なった妖の事実に若干の驚きを覚えながらも、しかし話を進める。
彼はまだまだ知らないことがあるが、幸い碧は情報提供に関しては非常に協力的だ。
その姿勢をリッパーの追撃に関しても発揮してくれたならば、一鬼も文句無しだったのだが、現実はそうもいかない。
一鬼はその赤い眼で以て、碧の新緑の眼を見据えて問う。
彼が必要とする情報を彼女は確実に持っているし、その眼の奥に潜むものは、確実に彼に向けられたものだ。
彼の眼は普通の人間とは全く異なり、相手の眼を通して何かを得る……そして、本質を見抜く。
だからこそ分かるのだ……今まさに彼を助けてくれた彼女の眼に、確かに敵意が宿っていることが。
だからこそ彼は知らねばならない……いったい何が起きていて、自分が何処に向かわねばならないのかを。
「一年前、私は貴方の肋骨に宿った。貴方達が話している一年前の事故とやらが関係しているのでしょうね。そこから、暫くの間はこの世界に対して働きかけることはできなかったわ。でも、時々できることがあった……貴方が感じていた気配はそれよ」
「成程。それで、こうして全身を現せるようになったのはつい最近か?」
「実を言うと、こうして肉体を現せるようになったのは先程が初めてなの。運が良かったわね……できなかったら今頃貴方は死んでいたわよ」
「確かにそうだな。感謝している……ありがとう」
「……中々素直ね。さて、ここからが貴方が本当に欲しがっていた情報よ。良い? よく聞いて。この町には、恐らくあの出来損ないと私を含めて七体の妖が居るわ。力の大きさはまちまちだけど」
「―――!? お前やあの連続殺人犯のような奴が他に五人居るのか!?」
一鬼はただただ驚愕した……彼が想像していた以上に、事態は深刻だ。
今目の前に居る碧もそうだが、妖は人間とは異なった思考をしており、リッパーのようになり得る。
だからこそ、他に五人も居るという事実は、実質この町にはリッパーを除いても連続殺人犯になり得る存在が六人居ることを意味しているのだ。
彼の見立てでは、少なくともこの碧という妖は人間を見下しているだけで、それを態々虐殺しようなどという類のものではなさそうだが、他の者までもがそうとは限らない。
しかも、恐らくは全員がリッパーのような超自然の力を有しているに違いないのだ。
リッパーが出来損ないだと言われるのならば、他の妖はそれ以上に能力を持っていることになる。
全員が脅威になった場合、その排除には命がいくつあっても足りない。
「恐らく、ね。ただ、私と同じように貴方のような人間を媒介に行動しているのは共通の筈。それともう一つ……私達は宿主から一定以内の距離でしか活動できないわ。気付いていたかしら?……私の場合は、貴方から五メートル以上離れられないの」
「……ということは、あのリッパーも宿主が居るということか。だが、それだとおかしい。少なくともここには誰も居ない。その活動可能範囲が百メートル程度あるなら別だが、それだと宿主は一矢さんし……か……」
「……答えは出ているみたいね。この辺りに居るのは貴方とあの男だけ。なら、必然的に宿主はあの男になるわ。貴方の兄貴分も、貧乏くじを引いたわね」
「待て……お前、どのくらい俺の身の回りのことを見ている?」
「ほぼ全て、と言えば気が済むかしら? 安心しなさい。私は、貴方を傷つけたりはしないわ。死なれたら私も困るもの。貴方が死ねば、恐らく私も消える……だから、少なくとも私が貴方を必要としている間だけは助けてあげる」
「……それは有難い。それで、俺を生かすことで達したい目的を聞いても?」
一鬼は碧の瞳の奥の敵意の意味を理解できないものの、少なくとも今現在彼が彼女に殺されることはないことを聞いて安心した。
そして、同時に理解する。彼と彼女のようなペアが少なくとも後六組存在し、その内の一組はあのリッパーと高橋一矢の可能性が高いことを。
いったいどういう仕組みで活動可能範囲が決定するのかは知らないが、途方もない距離ではないことは確かだ。
そうでなければ、リッパーはああして規則性を残したまま殺しを行ったりなどしなかっただろう。
もう一つ高橋一矢とリッパーを結ぶ証拠がある……彼の通勤する道と犯行現場の関連性は非常に高いのだ。
半径百メートル以内程度で活動可能ならば、彼がいつも通勤する道はまさに顕著な関連性を示す。
しかし、一鬼には一矢が自分の意思でそれを行ったとは考えられない……少なくとも彼は無関係で、リッパーが勝手にやっている筈なのだ。
一鬼の眼には、一矢が罪の意識もなく殺しをするような男には見えないし、彼は実際そういう男ではない。
寧ろ彼は感受性の高い男で、恐らく殺しなどすれば、それこそ覚悟をしていても一日は寝込む筈だ。
だからこそ、彼はシロでなければならない。例え宿主であったとしても、絶対にその殺しのことを知らないに違いない……そう一鬼は願った
「……私には妹が居たわ。その子を探したいの。生きているかは分らないけれど」
「妹? お前が死んだ時代によって生死の確立は大きく変わるだろうな。いつ頃だ?」
「時代は恐らく今から二百年程前。妖に寿命や病死という概念はないわ。それに、妖狐一族は最強だった……それこそ赤子の時ですら、他の一族の戦士に匹敵する程に、ね。だから、生きている筈」
「?……なら、何故お前は死んだ? 寿命の概念が無いのに、こうしてここに居るということは、お前は殺されたということだろう?」
「……私のことはどうでも良いのよ。問題は白雪……私の妹のことよ。あの子は生きている筈。いえ、生きていなければならないのよ……そうでなければ、説明がつかないわ」
意味深な何かを新緑の眼の奥に宿す碧に、一鬼は驚きながらも、二つのことを理解する。
彼女は何かを隠している……それも、とても重要に違いない、とっておきの情報を、だ。
それは恐らく彼女を窮地に追い込みうるもので、そして同時に一鬼にも何かしらの影響を与えるものなのだろう。
そしてもう一つは……彼女が敵意を向けているのは、一鬼自身ではなく、彼を見ることで想起する誰かであることだ。
碧は何も一鬼自身に敵意を抱いている訳ではないようで、彼の向こう側の誰かを睨んでいる。
実際ぐるぐると彼の回りを回りながらも、それとなく彼の体に触れるその手に敵意はない。
女性にしては随分と大きく、ゴツゴツとした戦士の手だが、しかし不思議と一鬼は安心感を抱いた。
それは恐らく、彼女に敵意がなく、そして彼と同じ異常な存在だからなのだろう。
彼は同類にも似た存在の出現に、内心喜んでいるのだ。
「先程の話を聞く限り、妖の存在を感じられるようだが、それで白雪を探せないのか?」
「やってはみたのよ。でも、ダメだった……何故かあの子のものだけ探せなくなっているわ」
「……死んでいる訳ではないんだな?」
「分らないわ。でも、私程ではないにしろあの子には力があった。他の妖にやられるなんてことはまずない筈」
「そのお前が殺されたのに、か?」
「一鬼、貴方はものを知らなすぎるわ。少なくとも、私が死んだ時点であの子を害しうる存在は死に絶えていた……私が殺したのよ」
一鬼としては、碧の話を聞く限り、彼女の妹は既に死んでいるという可能性の方が大きいと思えるのだが、彼女の意見は違うようだ。
確かに、彼にも彼女が歴戦の勇士であることはわかるが、それでも限界というものがある。
どういう死に方だったのかは分らないが、少なくとも彼女も死ぬのだ。
限界がある以上、彼女が本当に妹を害しうるものを全て排除できたかは怪しい。
「……まぁ、良い。とにかく、その妹を探すのを手伝えば良いんだな?」
「ええ。その為にも、できるだけ多くの妖と接触したいのよ。協力してくれるかしら?」
「……どちらにしろ、家族の安全の為に見極めなきゃならないんだ。手伝おう。だが、俺は飽くまで運び屋だ。実際に対峙したら後は自分でどうにかしてくれ」
「分っているわ。それだけしてくれたなら十分よ」
「しかし、それならリッパーを逃がして良かったのか? 彼女も何か知っていたかもしれないだろう?」
「いいえ、あれは知らないわ。妖狐という存在そのものを疑っていたもの」
碧の一言に、一鬼は静かに頷くと現状を整理することにした。
彼らのような人間と妖怪のペアが他にも六組居て、その内一組は既に判明している。
リッパーは潰すとして、残りの五組と接触、そして碧の妹である白雪の情報を聞いていく……その上で、それらのペアが脅威になり得るかを確認するのも必須だ。
つまり、一鬼がすべきことは、運が良ければ情報を集めるだけで、運が悪ければ全員を再起不能にすることになる。
もしも残る五体の妖が全員碧以下の戦闘力しか有していないのならば、まだやりようはある。
一鬼は人間としては間違いなく最上位に属する戦闘力を有しているし、ペアでの行動ならばまず負けないだろう。
しかし、もし碧以上の……それも、圧倒的に強い妖が居た場合は、その妖が友好的であることを祈るしかない。
一鬼もそのことは既に分かっているし、ある程度の覚悟はしている。
最悪の状況であった場合は、宿主である人間を殺すことも躊躇ってはいけない。
「なら、もしも次に会う時は……彼女を再起不能にしたい。手伝ってくれないか?」
「言われずとも、先程宣言した通り風穴を開けてあげるわ。安心しなさい」
「いや、殺せとは言って……」
「いいえ、貴方の示すその再起不能という言葉は、殺すという意味でしょう? 少なくとも、貴方の眼はそう語っているわよ」
「……っ」
「大丈夫、責めている訳ではないわ。だから、そんなに不安そうな顔をしなくても良いのよ? 私はただ、貴方が覚悟のできる男だと分かって安心しただけ。貴方はいざという時迷わない……それはとても大事なことよ」
そっと肩に手を置いてそう言う碧に対して、一鬼は何とも言えぬ感覚に襲われる。
新緑の眼には確かに偽りはないようだし、実際問題彼女は嘘をついてはいないのだろう。
どうやら彼女はかなり素直な性格をしているようだ……一鬼としても、その方が扱いやすくて良い。
彼女のようなタイプは思ったことを積極的に言葉にしてくれる分、彼としても動きやすいのだ。
だから、一鬼は己を落ち着かせることにした。
何故か暴れそうになる心臓の鼓動を感じながらも、彼は一つ深呼吸する。
「……ああ、そうだ。一つ確認しておきたいんだが、お前は宿主と妖にしか見えないのか?」
「ええ、そうね。少なくとも貴方達宿主と私達妖以外には見えないでしょう」
「……ということは、今こうしてお前に話しかけている俺は傍から見れば不審者になるな。済まないが、人が居る処ではあまり話しかけないでくれ。俺が宿主だとばれる可能性も上がるからな」
「大丈夫、私達は貴方達の肋骨に潜むことができるから、用がある時以外はそうしておくわ」
「随分と便利なものだな……まぁ、よろしく頼む」
「用がある時は呼びなさい。直ぐに出るわ」
肩を竦めながら姿を消していく碧の笑みに、一鬼も苦笑で返すと、そのまま歩み始めた。
確認すべきことはまだいくつかあるが、取りあえず彼がこれからすべきことは既に決まっている。
碧は彼にこう言った……次にリッパーと対峙した時は、風穴を開ける、と。
それが意味するのは、リッパーの完全なる再起不能であり、既に一鬼はその宿主のことを知っている。
そう、彼がこれからすべきことはただ一つ。
リッパーと再び対峙して、再起不能にすることだ。
高橋一矢は驚いていた……居なくなったと思ったイエロー・レディーが片腕を失って戻ってきたからだ。
イエロー・レディーが傷を負った……それは、彼が有する力が彼だけのものではないことを示している。
そして、その事実は彼女の口から実際に告げられた。彼以外に妖を肋骨に宿す者が存在することを。
しかし、実を言えば彼が一番驚いたのはそれではない。彼も既に自分と同じような人間が居ることを予想はしていたのだから。
ならば何故?……その答えはただ一つ。イエロー・レディーが対峙した妖の宿主が神谷一鬼であったからだ。
彼にとっては弟同然の存在が、同じく妖を宿している……それだけならば、まだ良い。
しかし、イエロー・レディーの話では、その妖こそが連続殺人の犯人だという。
実際問題、人間の限界を超えた戦闘能力を持っている筈の彼女が片腕を失ったのだから、犯行そのものは可能だろう
だが、一矢は思う……少なくともそれは一鬼の意思に関係ない場所で行われている筈だ、と。
確かに一鬼は外見も中身も常人とは大きくことなるが、しかし意味のない殺しを楽しむようなタイプではないのだ。
彼はいざという時に容赦なく誰かの命を奪えるだろうが、しかしそこには意味がある。
彼は意味のない殺人を楽しむような輩ではない。
「……どうするべきだ」
「どうするべきだと? 決まっている……一矢、あの男を殺してでも妖を止めるべきだ。このまま行けば、被害は広がるばかりだぞ」
「……イエロー・レディー、あの連続殺人事件は本当にお前の犯行ではないんだな?」
「しつこいな。私の活動可能範囲は二十メートル以内だと前も教えただろう? 私に犯行は不可能だ」
「そうか……しかし、その妖を止める方法は他にないのか?」
「無い。認めたくないが、奴は私よりも圧倒的に強い。真正面から戦えば、一瞬で勝負はつくだろう。結果は私の死だ」
一矢は一鬼の潔白を信じているが、しかしイエロー・レディーの話が本当ならば、彼の意思に関わらず妖は出てくるだろう。
活動可能範囲すらも分らない……しかも相手の戦力は人間も妖も向こうが上。
一矢達の方が圧倒的不利であることに違いはない……しかし、彼は一つだけ有利である点がある。
仮に一鬼に宿る妖が連続殺人の犯人ならば、一鬼は間違いなく一矢に協力してくれる。
彼らは多少の距離感はあったものの、兄弟のように育ち、今もその関係を維持している。
その絆が負ける程、妖の誘惑というものは強くはない……彼らは壊すことしかできないのだから。
一矢は環境故にその誘惑に屈し、まさしく彼を傷つけ続けた悪意を殺した。
だが、一鬼は強い……家族を守る為ならば己すらも殺す覚悟がある。
少なくとも、彼の家族に対して呪いのようなものを付加できる妖でもなければ、殺人鬼に手を貸すことはない。
一矢は昔からそんな一鬼に憧れ、羨んでいた……だからこそ分かる。
どちらの妖が連続殺人鬼であったとしても、彼らがすべきことはただ一つ。
そう、それは……ただ彼と一鬼が対峙することだけだ。
「――!」
「……誰か来たようだな。おい、一……!? 待て、行くな!!」
不意に鳴り響いたインターホンに、一矢は内心興奮を隠せなかった。
一鬼は昔から賢く、生死の観点においては覚悟ができていた子だった。そして恐らく、今インターホンを鳴らしたのも、同じ覚悟だ。
一矢は嬉々として、イエロー・レディーの制止を振り切って、玄関に向かう。
イエロー・レディーが必死になっていることからもほぼ間違いない。外に居るのは一鬼だ。
だからこそ、一矢は何の迷いもなく玄関のカギを開け、対面した……赤い眼で以て彼を見る男に。
「どうも、一矢さん。今、お時間よろしいでしょうか?」
「ああ、構わないよ。俺も君に用があったんだ」
「それは奇遇ですね。中に入っても?」
「いや、それはダメだ。君にも俺にも……この家は狭過ぎる。だろう?」
「……確かに」
一矢はそれとなく、一鬼に彼の真意を伝えようと思ったが、どうやら通じたようだ。
一鬼の眼に潜む覚悟と、まるで戦闘準備完了だとでも言わんばかりの気を放つ肉体が、それを告げている。
後は二人が何処に行くかだが……一矢は既に行く場所を決めていた。
他人を巻き込む可能性が非常に低く、同時に彼らにとって思い入れの強い場所がある。
彼らの家族が眠る場所……そこで、一つの結末を迎えようと、彼は静かに決意したのだった。
「一鬼君、日に二度墓参りに行くのは初めてかい?」
「はい。ですが、できれば二度目があって欲しいものです」
「そうか。そうだな……君には必要だ」
「貴方にも、でしょう?」
「……そうだと良いな」
互いに思いを込めた言葉で、決して妖達には理解できない思いを伝えあう。
一鬼は一矢が連続殺人鬼に加担していないと信じてくれているし、逆も然りであること、そして一矢が自分の妖が怪しいことをそれとなく仄めかす……ただそれだけだった。
ただそれだけで、互いは己がすべきことを理解した……そして、決意した。
彼らはもう既に必要な言葉を交わした……後は、さようならを言うだけだ。
しかし、彼らは話を続ける……最初で最後の対峙の為に、墓場へと足を運びながら。
「一鬼君はこれからどうなりたい? 俺は今までずっと君のように強い人間になりたいと思っていたよ。でもできなかった……」
「俺は強くはありません……俺は、なりたいものも、目指したいものもありませんから。ですが……守りたいものがあります。一矢さんや美空に、父さん、羽月……俺の家族です」
「そうか。俺を家族と呼んでくれるんだな。俺を兄だと呼んでくれるんだな。こんなに薄汚い俺を、血濡れた俺を。聞いてくれ、一鬼君……俺は先日ある男を殺した。その男は―――」
「知っています。どういう男かも、何をしてきたかも。貴方の抱える怨念が、確かに見えます。貴方のしたことは確かに間違いだった。ですが、俺は貴方を責めません。俺にとっては身内が全てです。身内以外は―――どうでも良い」
「……一鬼君。それが君の強さだ。それが、君の恐ろしさだ。歪みだ。君は人間の枠に収まる者ではない……もっと別の世界に生きるべきだ。今はそれがない。今はただただこの世界に埋もれて、苦しむだけだろう。だが、いつか……いつかきっと、君の望む世界が来る」
一矢は今まで一鬼に伝えようと思っていたことを次々と伝えていく……今思いつく限りの言葉を全て。
そんな彼に応えるように一鬼もまた、言葉を伝えていき、二人は血の繋がりはないものの、まるで本当に兄妹のように、談笑し、励ましあい、本心を語る。
彼らには分っているのだ……もうすぐ二人は話すことすら叶わなくなるかもしれないことが。
もう少しで命を賭けた戦いが始まる。今は不気味な程に静寂を保っている妖達が始める。
今二人の会話にまるで割って入らない妖は入らないのではない……入れないのだ。
イエロー・レディーは碧という圧倒的格上を相手に迂闊に出られず、碧は二人が会話している間はイエロー・レディーの牽制に徹している。
勝負は一瞬で決まる……この距離ならばどちらが勝ってもおかしくはない。
だからこそ、イエロー・レディーは動けない……彼女の動きに反応できた一鬼を相手に、確実に一撃で仕留めるのは不可能だが、碧は一矢を容易く殺せるからだ。
そう……イエロー・レディーは一鬼と一矢を会わせてしまった時点で既に詰んでいたのだ。
「君は覚悟ができる男だ……覚悟を決めた時、君は鬼になる。だからだろうな……明さんが君に一鬼という名をつけたのは?」
「?……どういうことですか?」
「君にその名をつけたのは、明さんだ。以前一度だけ話してくれたんだよ。その名前に込められた意味は二つあるそうだ。片方は教えて貰えなかったが、もう片方は知っている。あの人はこう言ったよ―……覚悟した時、一人の鬼になれる男になって欲しい、と」
「……一人の鬼になれる男、ですか。初めて聞きました。父は一度も俺にこの名の由来を教えてくれませんでしたからね……」
一鬼は若干ショックを受たような表情をしながらも、自分の名前の意味を漸く知ることができたことが内心嬉しそうだ。
一矢も知っている……一鬼の父である明がこの十九年間の間、一度たりとも息子に名前の由来を伝えなかったことを。
それがいかに酷いことかも、彼はよく分っているつもりだ。
幼稚園や小学校で、名前の由来を聞かれることはままあるものだ。
子ども達の名前の由来は、中にはとても変な意味合いであったり、とあるアニメのキャラクターの名前だったりすることすらある。
とはいえ、少なくとも彼らにはその名がつけられた理由があり、親もそれを教えてくれている。
しかし、一鬼はそれに参加する権利すら与えられなかった……彼には、己の名前の由来を語ることすら叶わなかったのだ。
そんな彼をずっと見てきたから一矢だからこそ分かる……一鬼は、今感激している。
「それはきっと、あの人がまだ準備できていないだけだよ。今はまだ夜空さんの死に打ちのめされているから、怖いんだろう。それを告げることで、君が遠くに行ってしまうのが」
「……一度鬼になれば人間には戻れない、と?」
「ある意味正しいな。君は鬼にすらもなれる存在に実際既になっている……そう俺は思うし、恐らく明さんもそう思っている。だからこそ怖いんだよ。自分よりも遥かに強くなった君を再確認するのがね」
「……普通、親はそれを喜ぶべきものだと思います。少なくとも、俺ならばそうします」
「一鬼君、残念ながらそれは普通じゃないんだよ。子離れできない親というものは以外と多いものだ。俺の母親なんかまさにそうだったよ。明さんもそうだ……君が強くなればなる程に己の無力さを痛感してしまうんだ」
「……でも、俺とあの人の間に血の繋がりはない。そうでしょう?」
暫く目を伏せた後、決意を込めた眼を向けながらそう言った一鬼に、一矢は頭がぐらりと揺れたような錯覚を覚えた。
勿論彼も知っていた……一鬼は明達の実の子などではないということを。
しかし、その周知の事実は確かに今まで沈黙の中にしか存在しえなかったそれを、ついに一鬼は明言してしまった。
普通の子ですらも、外見がここまで違えば気付かない筈がない……一矢はそれが分かっていながらも、しかしショックを隠し切れない。
一鬼はその事実を了承した上で、明と美空を守る為に命を捨てる覚悟ができているのだ。
その事実を言葉にしても、尚二人を守ろうという覚悟が揺るがないのだ。
これ程に強い男になっていては、明が戸惑うのも無理はない……彼はそう感じた。
だからこそ、彼は選んだのだ。
この連続殺人を終わらせる為の処刑者として、鬼になれる彼を。
「……そろそろ墓が見えてきたな。まさか、こんなにも近かったなんて思わなかったよ。それで、君と明さん達の血の繋がりについてだが……俺もないと思う。それでも、君はあの二人を守るんだな?」
「はい。勿論です。俺には叶えたい夢はない……でも、守りたい人が居る。俺は夢を追いかけることはできません。でも、夢を追いかける人達を守ることはできる……大事な人達が夢を追いかけるのを支えることはできる。その為なら―――俺は鬼にだってなります」
「よく言った。そんな君だからこそ、俺は選んだんだ……この恐怖と狂気を終わらせ処刑者として。鬼になれ……そして、奪うんだ。殺人鬼から、その腕を、殺意を、命を」
「……一矢さん」
「君の大切な者を守るべき時が来たんだよ。そして、その中に俺は居ない……居てはいけない。俺は人殺しだから。俺は力の誘惑に負けたから」
墓地の石段をゆっくりと昇りながら、一矢は夕暮れの空を見つめた。
この昼と夜の境目の時間こそが相応しい……妖と人間の両方が触れあう時間としては最高だろう。
一矢がイエロー・レディーと出会ったのは約一ヶ月前のこんな日だった……突如前に現れた彼女に、彼は最初驚いたものだ。
あの時は自分に宿った妖とどう生きていくべきなのかすらも検討がつかなかった。
だが、今ならば彼にも分かる……妖は人間とは生きていけない。
どんなに己が歩み寄ろうとしても、互いが歩み寄らなければ、大きなすれ違いが起きてしまう。
一矢とイエロー・レディーはまさにそれだった……彼は所詮彼女にとって殺し回る為に必要な足でしかなかったのだ。
妖は同じだけ異常な存在としか生きていけない……共感できない。
人間など、妖達にとってはただの食糧でしかないのかもしれない……ただの玩具でしかないのかもしれない。
だからこそ、彼らのような人間が妖を宿した処で、いずれどちらかが死ぬ結果に終わるだろう。
肋骨に宿った妖達を従えるには、強くあらねばならない……それが彼にはできなかった。
だからこうなった。
だから、終わらせる。
「一鬼君。改めて言おう。俺こそが、高橋一矢こそが……イエロー・レディーの宿主だ。出てこい、イエロー・レディー」
「一矢さん。ならば、俺も改めて言います。俺も、神谷一鬼も……貴方と同じく妖の宿主です。碧……出番だ」
開けた場所で、二人は対峙し、互いに宿る妖に呼びかける。
それに呼応して、二人の隣に現れる妖……一矢と一鬼は、互いの妖の姿を初めて見た。
イエロー・レディーは茶色の髪の毛で顔の右半分を隠しており、目視できる左眼の色は黄色で、鋭く細められており、一鬼を睨んでいる。
両腕は異常に長い袖に隠されているが、明らかにあらぬ方向に揺れている右腕が折れているのは明白だ。
対する碧は、一矢にとって初めて対峙する妖だったが、彼は素直に美しいと思った。
妖特有の人間らしからぬ美しさもあっただろうが、しかし、彼が美しいと思ったのはそこではない。
彼女は完成された何かを感じさせ、その完全性こそが彼に魅力を感じさせているのだろう。
何よりもその新緑の眼が見せる優しさに、一矢は一鬼の安全を再確認する。
碧とイエロー・レディーは全く異なる……同じ妖でありながら、その方向性がまるで違うのだ。
イエロー・レディーは殺しに積極的で、一矢に対しては何の感慨も抱いては居ないだろう。
対して碧は殺しには躊躇いが感じられないものの、一鬼に対して何らかの思いがある。
この差は大きい……一鬼は、一矢とは違い妖と共に生きていける素地があるのかもしれない。
一矢にはできなかったパートナーの制御も、彼はしてくれるだろう。
「一鬼君……やれ。終わらせるんだ……俺達を」
「……碧。約束の時だ……風穴を開けてやろう。漸く姿を見せてくれたんだ……風穴の空いた姿を観察するのも悪くない」
「ええ、分かっているわ。出来損ない、今度は片腕じゃなくて命を握り潰してあげる」
「やってみろ……私はただではやられんぞ!」
怒りに歪む表情をしたイエロー・レディーの袖の中から放たれるナイフに、一矢は反射的に一鬼が刺される光景を想像してしまった。
しかし、それは杞憂であったようで、ナイフは全て一瞬で碧の手の中に納まる。
まるで手品でも見せつけられているかのような光景に、一矢とイエロー・レディーの時間が止まる……そして、その隙を彼女は見逃さなかった。
眼にもとまらぬ速さで彼女の手の中からナイフは消え、代わりにイエロー・レディーの胸のど真ん中に、それらの柄が生える。
続く絶叫―――そして、殺し合いが始まった。
一鬼は内心、一矢を危険に巻き込んでしまうことを申し訳なく思い、しかし同時に己を襲う昂ぶりに困惑していた。
イエロー・レディーの胸に刺さったナイフを投げたのは間違いなく碧だが、それを目で追えたのは彼だけだろう。
それ程にその一撃は速く、まるで弾丸のような速度で、イエロー・レディーの胸に突き刺さったのだ。
それでも胸部を貫通しなかったのは、恐らくイエロー・レディーが何かを隠し持っているからであろう。
一鬼の見立てではイエロー・レディーは暗器使いだ……だからこそ、あそこまで不自然に長い袖をしている。
しかし、その暗器使いも、暗器使いであることが分かれば警戒されてしまうものだ。
だからこそ、彼女は透明になる能力を利用していた……しかし、今は何故か利用していない。
その理由を探しながら、一鬼は昂りの原因に漸く行き着いた……彼は、この殺し合いを楽しんでいる。
連続殺人鬼であり、しかも殺した処で誰にも咎められない妖という存在の命を奪わんとしていることに、そしてそんな自分に刃を向ける妖に、この状況に、彼はかつてない程の生を感じているのだ。
だからこそ彼は思う―――彼は一度鬼になりきってしまったら戻れない、と
「ぐ……こんなことが……あってたまるか!」
「! 一矢さん!」
「動くな! お前がこちらに辿り着くよりも、私が一矢の喉を掻っ切る速度の方が速いぞ」
「くっ……碧、止まるんだ」
不意にイエロー・レディーは一矢を人質にし、一鬼達から距離を取った。
一鬼の半径五メートル以内でしか動けない碧では、その距離には届かない……一鬼が動けば届くが、その間に一矢が死ぬ。
故に、一鬼は止まるしかなかった……一矢を犠牲にしてまで闘争を続けるつもりは、彼にはないのだから。
この状況はあまり芳しくない……全く状況が進展しなくなる。
「イエロー・レディー、やはりお前だったんだな。俺を盾にしたことで確信したよ。お前が……お前が、連続殺人鬼だ」
「ああ、そうだよ。私が殺した……楽しかったぞ、バラバラにするのは。まさか、再び殺人を楽しめるとは思っていなかったからな。お前がバカなお蔭で助かったよ」
「……そうか。活動限界範囲も、本当は二十メートルなどではなかったんだな」
「ああ、私はお前を中心に半径百メートル程度は動ける。私はお前に嘘をついていた訳だ」
「やはり、か。なら、遠慮はいらないな……一鬼君」
「! まさか!?……ダメだ!!」
「後は……頼む」
一鬼は慌てて制止しようとするが、もう遅い……彼は間に合わない。
彼は分ってしまった……一矢が何をしようとしているかが。分っていながら、止められない。
止めようとしようがしまいが結果は変わらないのだ……鮮血を見ることは決まっている。
だから、彼はすぐさま駆け出す……間に合わないと分かった瞬間、彼はその可能性を捨てた。
そんな彼に驚いたイエロー・レディーは気付かない……これから何が起きるか理解していない。
一矢は首につきつけられたナイフを掴むと―――己の首に突き立てた。
「なっ?……」
「一矢さん!!」
一鬼は走り、そして叫んだ……兄と呼んだ男が倒れていくのをゆっくりと見ながら。
彼は滾った……復讐という新たな殺戮の理由を与えられ、力任せに次の攻撃に出た。
未だに驚愕しているイエロー・レディーの左腕を掴むと、そのまま一気に逆方向に捻じ曲げる。
途端に枯れ枝を折った時のような音と、肉が裂ける音が混ざり合って彼の鼓膜を刺激する。
それを無視して彼はそのままナイフが首に刺さっている一矢を見遣った。
一矢はまだ息があるようだが、既に死へと向かい始めており、もう戻ることはできない。
だがその眼には力強い意思の力があり、今まさに死にゆく男の眼ではなかった。
寧ろ生き返ったとでも言わんばかりの安らかなその眼に、彼は悲しみを感じざるを得ない。
一矢にとっては、こうして誰かの為に死ぬことこそが救いだったのかもしれない。
一鬼と同じく、生きる意味を失っていたのかもしれない。
しかし、一鬼にとって、このような結末はあまりにも、悲し過ぎる。
「バカだ。本当に、バカだ。一矢さん、貴方って人は……」
「俺は……君のよう……に……なりた……かった」
「俺のようになる必要なんて無いんです。俺みたいになってはいけないのです。なのに、どうして……」
「俺は……人間……以外の……何、かに……」
光が急速に消えていく一矢の眼からは、後悔は見えない……しかし、一鬼は彼の決断を許さない。
彼が死を選んだのはある種の逃げだ……他者を殺した自分を背負うことを、購うことを放棄しただけだ。
確かに彼には殺戮を止めようという強い意思があり、他意はそこに存在しなかっただろう。
一鬼にはそれが分かる……だが、他の者から見れば、怖くて逃げだしただけだ。
一鬼は逃げることを許さない訳ではない……寧ろ、そういった方が良い場合は自ら勧めることもある。
しかし、一矢の決断は彼には許し難かった……一鬼にとって最悪の形の勝利を齎したこのやり方は、これから先一生彼を苦しめるかもしれない。
可能性はあったのだ……そこに賭けて、勝利を掴めるだけの能力が彼と碧にはあった。
だが、それは確実な道を選んだ一矢によって、一瞬で敗北に変わった。
このような勝ち方は、負けと変わりはしない……何も違いはしないのだ。
「この……このクソガキが!」
「……っ!」
両腕を失ったイエロー・レディーは、その苦痛と怒りに顔を歪めながら、彼に飛びかかってきた。
その口に加えられたナイフは刃渡り30cm程もあるもので、直撃すれば無事では済まないだろう。
しかし、そのようなことは一鬼にはどうでも良かった……彼はただ、背後に居る本当の化け物に目を向ける。
彼の視線に気づくこともなく、イエロー・レディーは背後から迫りくる腕に首を絞められた。
そして、次の瞬間……その胸から腕が生えるのを、一鬼は目撃する。
「ガ……ハ……」
「そこまでにしておきなさい……今生の別れを邪魔するのは無粋よ」
「こ……の……バケ……ギツネが……」
「宣言通り、風穴を開けてあげたわ……よく見ておきなさい。これが――貴方の心の臓よ」
口からも体に開いた風穴からも大量の血を流しながら、驚愕に目を見開くイエロー・レディーに、碧はその手に握っているものを見せつける。
未だに彼女の手の中に鼓動を続けるそれはグロテスクで、まるで別の生き物のようだ。
一鬼はその様子をただ静かに見つめながら、碧の表情が愉悦に歪むのを見た。
これが妖の本性なのだろうか?……しかし、一鬼はそれを美しく感じてしまう。
「あ……あ……」
「心の臓か脳を破壊されたら死ぬ……それはどの妖も共通よ。そして今――貴方は死ぬ」
愉悦に歪んだ笑みを崩すことなく、碧はその手に握った心臓を――握り潰した。
途端に弾け飛ぶ肉片が、一鬼の処にまで飛んできて、頬に付着したが……やがて消えた。
まるで幻だったかのように消えていくイエロー・レディーの体と、返り血を存分に浴びて興奮に震える碧だけが、そこには残る。
一鬼はただ、混沌とした微笑を浮かべると、既に動かなくなった一矢の眼をそっと閉じた。
「……こんなき綺麗な笑顔で死なれてしまった已上、俺も恨み言は言えん。さぁ、行こう……警察を呼ぶ」
「……一鬼。貴方、怖くないのね。私はたった今目の前で殺人鬼とはいえ人間の形をした者を惨殺したのよ? ここまで冷静でいられると、逆に怖いわ。もっと恐れても良いのよ? 怒って良いのよ?」
「そうか。なら、ここで怯えれば良いのか? 絶叫しながらお前から逃げようとすれば良いのか? お前を人殺しと罵れば良いのか? そんなことに意味はない……俺も同類だ。今日はっきりと分かった。俺は――殺し合いが好きなんだ。お前を恐れる権利も、怒る権利も俺は持ち合わせていない。同じ穴のムジナなんだよ、俺達は」
「そう……良かった。なら、安心してこれからもペアを組めるわね。改めて確認するわ……私と一緒に妹を探してくれる?」
困惑した様子の碧に、一鬼は自嘲しながら事実を告げる……彼が死合いを楽しんでいるという事実を。
命の駆け引きの際に、何か根底にあるものを刺激されるような感覚に、彼は逆らうことができない。
彼は理由なき殺戮を楽しみはしないが、理由さえあるのならば、大義さえあるのならば、彼は殺しを楽しむだろう。
一鬼にはそれが嫌になる程分ったのだ……血の繋がらない兄のように慕った男の死を前にして。
だからこそ、確認するように尋ねる碧に、彼は何の迷いもなく答えることができる。
彼が本当は同類であると知らせ、共にここから歩んでいこうと宣言することができるのだ。
ポツリポツリと降り始めた雨の音をBGMにして、彼は宣言した―――己の覚悟を。
「ああ。約束しよう……俺はこの町に居る妖全員を殺してでも、お前をお前の妹まで導いてみせる」
「その言葉を待っていたわ。神谷一鬼、私はこれから先、貴方を守る盾となり、貴方を害する者を貫く矛となるわ……これからよろしく頼むわよ」
「ああ、こちらこそよろしく頼む」
この日、この町からバラバラ連続殺人の犯人は姿を消し、代わりに一体の鬼が生まれた。
血まみれの男の死体を見遣った瞬間頭の中に走った火花が血の気を奪うのを感じながら、佐村敬吾は深い溜息をついた。
彼はその男を知っていた……名前は高橋一矢、年齢は25歳で近くの有名企業に勤めており、彼の同僚も数日前に通り魔によって殺害されている。
彼もまたまさにそれと同じ死に方をしていると言えるのだが……どうにも妙なのだ。
「一矢、まさかお前がガイシャになっちまうとはな……」
「佐村警視、通報してくれた男性に会いますか?」
「ああ、勿論だ。元々その内会いに行くつもりだったんだからな」
高橋一矢の肉体には殆ど傷がなく、ただ首にナイフのような鋭い凶器が一突きされているだけなのだ。
普通の殺人であるのかもしれないが、この町で起きている猟奇殺人事件と関連性がある可能性もある。
そして、もう一つ彼には気になる点があった……それは、この死を通報した男の存在だ。
降り注ぐ雨の中、赤い眼を細めて佇むその男の名前は神谷一鬼……佐村敬吾の娘の幼馴染にして、連続猟奇殺人の容疑者の一人だ。
容疑者とはいっても、それは敬吾の中でのものでしかなく、彼は他人に口外はしていない。
一鬼が、犯行が可能な能力を一部とはいえ持ち合わせていることを、彼は知っている。
その一鬼から一矢の死を知らせる通報があったことに、彼は少しばかり混乱しながらも、その赤い眼を直視した。
「一鬼……まさかこんな形で会うことになるとは思わなかったぞ」
「俺もです、佐村さん。まさか、こんな形で一矢さんが死ぬとは思いもしませんでした」
「お前の話では、墓参りで一緒にここまで来て、お前が少し離れていた隙にやられたそうだが……それは本当か?」
「ええ、俺は犯人の顔は愚か、姿すら見ることが叶いませんでした。いえ、ある意味それで良かったのかもしれません……もしもそれを発見できたのなら、俺はこの手で犯人を殺していたでしょうからね」
「……お前が言うと冗談に聞こえん。お前にはその力があるし、それを成すだけの覚悟もあるからな。だからこそ、問わせて貰う……お前ではないんだな?」
「ええ」
己の問いに、一点の曇りもない眼を向けて応える一鬼に、敬吾は何とも言えぬ違和感を抱く。
確かに一鬼という男がこの事件を起こす可能性は低いし、敬吾自身その可能性は無いと分かっている。
神谷一鬼はその名の通り、鬼の一面を持つ……身内の為ならば、他者を犠牲にすることを厭わない危うさがある。
身内と言える一矢を殺すなど、それこそ一矢自身が望みでもしない限りは、絶対にあえり得ないのだ。
だからこそ、この事件の犯人でないとしても、いずれ犯人に辿り着いて殺してしまうかもしれない。
昔、敬吾の娘である優希を苛めから助けてくれた際も、一鬼は何人か半死半生を出したことがある……大の大人さえも例外ではなく。
まさか幼稚園や小学生の時代にそのようなことができる者が居る筈がないと思ったこともあったが、彼だけは特別だった。
一鬼はいずれ誰かを殺す……そういう確信が、敬吾の中にはある。
彼が自発的に命を奪う訳ではないが、彼は強い……その強さは脆弱な者を殺すには十分過ぎるくらいだ。
そう、彼はいつか誰かを殺すだろう……あまりの強さ故に、彼自身も驚く程簡単に。
一鬼は強過ぎ、人間は弱過ぎる。その差こそが、新たな悲劇を生む。
「なぁ、一鬼……お前に聞きたいことがあるんだが、良いか?」
「ええ、答えられることなら何でもどうぞ。例えば、連続猟奇殺人の犯人についてでも」
「……何か知っているのか?」
「犯人は、いずれ逆襲されるでしょう。己が獲物だと思っていた者達から、しっぺ返しを食らう。そして、そのまま―――闇に沈む。そうして漸く理解するんです……獲物は己の方だった、と」
「……戯言にしか聞こえんな。一鬼、お前らしくもない。もっとはっきりと言ってくれ」
「分りました。犯人は恐らく―――己よりも強い者を標的にしてしまい、殺される。それが俺の言いたいことです」
一鬼の眼にちらつく炎に、敬吾は彼が静かに怒りに燃えていることを悟る。
そこには少しの恐怖もなく、一鬼がいかに異常で、恐れがない存在なのかを如実に表していた。
だが、相手は人間を短時間でバラバラにできる程の能力を持っている……いくら彼でも、どうしようもないだろう。
しかし、何故か敬吾は、一鬼と犯人が対峙した時に生き残るのは、一鬼の方である気がしてならなかった。
「素直に自分が狙われたら返り討ちにすると言え。しかし、それをしたらお前も人殺しだぞ? 例え相手が連続猟奇殺人の犯人だったとしてもな」
「確かにそうですね。ですが、構いません。ルールに従っていては、守れないものもあります。それは己自身の心であったり、家族であったり……人それぞれですが」
「はぁ……お前は相変わらずだな。その決意を他の部分で生かせば、道は開けそうだが、そう上手くはいかんか。お前は平和なこの国ではなく、紛争地域にでも行った方が活き活きとしていそうだな」
「……そうかもしれませんね」
自嘲するように笑う一鬼の眼は、しかし笑っていない。
敬吾にとって一鬼は娘の幼馴染ではあり、最高の猟犬であるものの、何かあった場合は容赦なく逮捕するつもりだ。
しかし、この男がそう簡単に捕まってくれるとは思えず、仮に捕まえたとしても、逃げられてしまうだろう。
長年の経験を以てしても、この猟犬を狩れるという自信は、敬吾にはなかった。
一鬼は他の人間とは何かが大きく異なる……少なくとも敬吾はそう思っている。
特に、今日の彼は今までとは何かが大きく異なっており、敬吾を戦慄させた。
何が違うのかは上手く言い表せないが、一言で言えば、彼は鬼だった……人間などちっぽけな存在程度にしか思わない化け物だった。
「もう話は聞いたんだな? こいつを家に送っても良いか?」
「ええ、メモもとっています。彼には帰っていただいて結構でしょう」
「なら、俺が送ろう。その後署に戻る」
「了解しました。皆には私から知らせておきます」
「来い、一鬼。家まで送ってやる」
部下の承諾を得ると、敬吾は一鬼と共に己の愛車に向かった。
彼の後ろを静かに歩む一鬼は、不気味な程に人間の気配を感じさせないでいる。
敬吾は今まで多くの殺人犯を見てきたが、彼はそのどれとも異なり、そもそも人間であるとさえ感じさせない。
昔から危惧はしていたが、彼はこの男をどう扱えば良いのか分らずにいた。
今までは互いの利益が一致したが故に扱われてくれていただけで、彼が巧みに扱っていた訳ではないのだ。
不気味で、理解し難いこの男をどうすれば良いのかなど、そもそも分る筈がないのかもしれない
そんなことを考えながらも、敬吾は愛車の運転席に座ると、ドアを閉めてシートベルトをした。
それとほぼ同時に後ろで一鬼がシートベルトをするのを確認すると、彼は今まで疑問に思っていたことを尋ねることにする。
車の中ならば、彼らの会話を邪魔する者は居ない……彼の本当の目的はここにあった。
「一鬼、答えろ……何を見た?」
「何も。佐村さんこそ、何を感じているんですか?」
「俺か? 俺が感じているのは、怒りだよ。最低でも一人、多ければ三人はこの町に殺人犯が居る。それなのに、捕まらない……警察は今大慌てだ」
「成程。なら俺も協力しましょう。犯人を捕まえる自信はありませんが」
「お前にそれを求めてはいない。それは俺達警察の仕事だ……と言いたいが、お前相手ではそうもいかんな。だが、お前は猟犬であって狩人ではない。狩人の命令には従え。万が一犯人に遭遇しても殺すな」
「ええ、分かっています」
確かにこの世界には、法を守っていては守れないものがある。
敬吾もそれは分っているし、そういうことを分った上で、誰かを助ける為に犯罪を犯す者も確かに存在する。
しかし、目的は手段を正当化しない……どんなに崇高な目的があっても、それによって行われる行為は正当化されない。
それこそが、平時における絶対の掟であり、守らなければならないことだ。
しかし、それは文字通り平時にのみ当てはまるものでしかないともいえる。
緊急事態においては、最も必要とされるのは強い意思と覚悟であり、それがなければ生き残れない。
そういう面においては、一鬼という男は間違いなく稀代の才能を持っている。
だが、彼が生きているこの国は、この世界は、平時の中にある……彼の才能が発揮されることは少ない。
人の住む世界に、鬼の居場所はない。
「ああ、そうだ。佐村さん、一つ言い忘れていたことがあります」
「なんだ? 事件に関してか?」
「いえ、一矢さんについてのことです。一矢さんが殺される直前に話したんですが、どうやら俺の一鬼という名前は、いざという時に鬼になれる男になって欲しい、と父がつけた名前だそうです」
「……なら、既にその願いはかなっている訳だ。ああ、俺も一つ言い忘れていた……俺は、お前が殺人鬼にならないことを願っている」
「そうですか」
事件についての新たな情報でなかったことに落胆した敬吾は、皮肉でそれに答えるが、一鬼は気にしていないようだった。
彼の様子を見て、敬吾は思わず溜息をつくと、赤になった信号に気付いて車を停車した。
敬吾と親友である神谷明はそれなりに長い付き合いだが、今までそのような話を聞いた覚えはない。
勿論、そのようなことを話せば、敬吾が一鬼をより危険視すると考えてのことなのだろうが、それでも少しばかり彼は納得がいかなかった。
確かに敬吾は一鬼を危険視してはいるが、同時に娘の幼馴染としても評価している。
佐村優希は生まれながらに赤毛と、黄昏の瞳を持つ所謂突然変異というものだった。
そんな娘を苛めから庇い、時に手を取り、導いてくれた一鬼への感謝を彼は忘れてはいない。
敵にはしたくないが、味方にすればこれ程心強い者もそういない……そう思わせてくれるのは確かだ。
一鬼自身、昔からその容姿故に色々とあったであろうに、逞しく生きてきた。
敬吾が彼に最初に会ったのは、彼が幼稚園児の時だった筈だが、その時から彼は強かったのを覚えている。
その頃は泣き虫だった優希をよく支え、励まし、現在の強かな女性へと成長するのを手伝ってくれたのだ。
娘の幼馴染への感謝を敬吾は忘れないし、しかし同時にそれを仕事に持ち込むつもりもなかった。
しかし、思わずそれは彼の口から漏れた。
「……そんな名前、呪いと同じじゃねえか」
一鬼に聞こえぬように呟いたそれは、まさしく隠しようがない彼の本心であった。
一矢の死と共に降り出した雨が未だに止まないのを窓の外から確認すると、一鬼は深い溜息をついた。
あれから敬吾によって自宅まで送られ、捜査への協力を約束した上で、一鬼はすぐさま自室に戻った。
既に帰宅してから一時間程経っているが、一鬼はいまだに一矢の死に様を思い出している。
「碧……」
「何かしら?」
「一矢さんの死に方は、お前からすればどうだった?」
「正直に言えば、至極間抜けな終幕だったわ。あれは一種の逃避ね。でも……私はそれを責めるつもりはない。バカにするつもりもない。あれで、自分勝手に死ねて幸せだったんじゃないかしら?」
己の呼びかけに応じた碧の言葉に耳を傾けながら、一鬼はベッドの上に横たわった。
そんな彼を見守るように、碧は椅子に腰かけて、足を組む……そのすらりと伸びる引き締まった足はまるで白磁のように透き通っている。
彼女の肉体は引き締まっており、肩幅も女性にしては広く、両手も戦う者のそれだ。
身長は百七十五センチ程度で、一鬼とは凡そ十センチの身長差があるが、それを感じさせない存在感が彼女にはあった。
その金色の髪の毛や、ひくひくと動く彼女の耳に、時たま思い出したように揺れる尻尾と、中々に視線を釘付けにする要素は多い。
改めて見てみると、やはり碧は美人だ……一鬼は素直にそう思った。
「そうだな……自分勝手だと罵っても、結局は内心羨ましく思っているものだ。俺は、正直羨ましい。できるなら、俺も誰かの為に死にたいものだ。だが、俺はまだ死ねない……まだ、家族を残して死ぬことはできない」
「……血の繋がりもないのに、随分とご執心ね。いえ、寧ろ、血の繋がりがないからこそ、かしら? 貴方のその心意気は否定するつもりはないけれど、私の目的が果たされるまでは死んではダメよ?」
「分かっているとも。俺はお前の妹を探すまでは死ねない。例え家族が既に大丈夫だったとしても、な。その点に関しては信頼とまではいかないが、信用してくれると助かる。まだ会ったばかりで信用すらできないかもしれないが」
「あら、忘れたのかしら? 私は貴方のことを一年前から見ていたのよ? 貴方の人となりは一通りだけど理解しているつもりよ。まぁ、私に関しては行動で誠意を示すしかないけれど、ね。どちらにしろ、時間が解決してくれる問題よ」
「そうだな……時間の問題だろう」
時間の問題……それは、時間が与えられた場合にのみ使える言葉だ。
一矢にはもうそれはない……そう考えると、一鬼は何とも言えない気持ちになった。
死とは即ち終わりを意味する……もうその時点からプラスになることもマイナスになることもない、完全なる零になることだ。
死とは零に帰ることであり、それ以降それ以外の数値に変化することはない。
どんな計算がなされようとも、最後に出る解は零でしかないのだ。
「毎回そうして他人の死に向き合っていたら、耐えられないでしょう? 強くある必要はないのよ?……妹を見つける前に貴方にリタイアされたら私も困るの」
「そうだな……だが、命というものに重さを感じられなくなれば、誰かと共に生きることは叶わなくなる。それは絆の否定に繋がり得る。大切な者の死を悲しめなくなれば、それはその絆を否定するのと同じだ」
「貴方は真面目ね。でも、絆を持たない者の死を悲しまない程度の覚悟はしなさい。助けられるなら助ける。不可能ならば捨てる……それができないようなら、死ぬわよ」
「分かっている。俺は、躊躇わない。身内の為ならば、他人の命を見捨てることだってしてみせる。だが……救えるのならば救う。手を伸ばさなければ、結局何も手に入らない。捨てていけば、最後は何も残らない。だから、手を伸ばすことは止めない」
「……それだけ考えがはっきりとしているなら、大丈夫そうね」
一鬼の赤い眼と碧の新緑の眼が交差し、その奥底に潜むものを見抜こうとする。
結果、一鬼は碧から最後まで生き抜けというメッセージを受け取り、碧は一鬼から、彼の覚悟を受け取った。
二人の戦いは今日始まったばかりで、これからどうなるかは分からない。
一鬼は途中でリタイアするかもしれないし、碧もいずれ彼を裏切るかもしれない。
だが、ただ一つだけ確かなことがある……この二人が戦う理由は同じだということだ。
一鬼は生きている家族の為に、碧は生きているかもしれない家族の為に、それぞれ戦うことを決めた。
碧の言ったことは全て嘘で、別の目的の為に一鬼を利用しているのかもしれない。
一鬼の言ったことは全て嘘で、本当は少しも覚悟できていないのかもしれない。
それでも、彼らがパートナーであることに変わりはなく、片方か、両方が死ぬまでこの関係は続く。
今は、互いが互いの目的の為に協力するしかない。
「碧、済まないが俺はもう寝る。色々とあって頭がパンクしそうだ……寝て頭を整理したい」
「分かったわ。夕食に妹さんが呼びに来るまでに起こした方が良いかしら?」
「……そうだな。六時過ぎに起こしてくれ。頼んだぞ」
「分かったわ。良い夢を……とはいかないででしょうけど、悪くない夢を見られることを願っているわ」
「……ありがとう」
この一日で多くこのことが起きた……一鬼はリッパーと二度対峙し、碧と出会い、一矢を失い、リッパーを倒した。
たった四つの出来事が、それに付随する情報が、頭を混乱させる……休息を必要とさせる。
彼の肉体はまだまだいけると言うが、頭が休息を必要としている……心を整理しろと言うのだ。
冷静に判断できるようになるまで、時間を置く……その為に、彼は睡眠を必要とした。
眼を瞑った瞬間に、一矢の死に様が、リッパー……イエロー・レディーの胸から生えた碧の手が心臓を握り潰した光景が、彼の脳裏を走る。
すぐに寝ることはできないかもしれないが、今は休息が必要だ……眠ることで、整理をつけなければならない。
だから、一鬼は眠る……彼の中で静かに目覚めた鬼と、それと戦う「植えつけられた人間性」と向き合う為に。
静かに目を閉じて暫くして、彼は短く、しかし深い眠りに落ちるのだった。
神谷美空が自宅に帰ってきたのは、時計が五時半を示した頃だった。
今日は昼前から友人達と遊びに行き、映画を見て、ショッピングをして、カフェで紅茶を飲みながら談笑をした。
彼女はそういったことが嫌いではないが、余りにも時間がかかり過ぎるので、苦手だ。
しかし、友達付き合いは必要なことで、量をこなせばいずれ質が伴うことを彼女は知っている。
今日は友人の一人である荒木奈央も一緒だったが、やはりというべきか、彼女は一鬼の話題になると途端に拒否反応を示した。
美空としては、一鬼は少しも怖くないことを伝えたいのだが、それは常に空回りに終わっている。
他の友人達も、一鬼についての話をすると苦笑しながら受け流すので、中々理解は得られない。
大抵ブラコンと言われ、そこで話を切り上げられるのだ。
実際、単純に彼女が一鬼のことばかりを話すのが原因であることは否定できないのだが。
「はぁ……そんなに不思議に思うなら、一度会いに来れば良いのに」
美空からすれば、一鬼は命の恩人であり、誇るべき兄である。
一年前の大事故の際も、味覚を失うという後遺症を負ってまで、彼女を庇ってくれた。
その際の彼の必死な表情を、彼女は今なお鮮明に覚えている……一生忘れられそうにない表情だった。
大切なものを必死に守ろうとする意志の感じられるその表情を思い出す度に、彼女は申し訳なさと、淡い想いを抱く。
今までの十七年間の生で彼女を追い詰め、嫉妬させ、魅了した存在に、手を伸ばしたいと思う。
神谷一鬼はその強靭な肉体と鋭い目つきにも関わらず、実際は温厚だ。その腕が掴むのは死者の冷たさではなく、生者の熱だ。
時に鋭さを感じさせることはあるものの、根は優しく、素直な面もある。
寡黙なせいもあってか、勘違いされがちだが、彼は決して冷徹な人間ではないのだ。
ただ、あまりにも素早く、堅い決意をできてしまう残酷さを持つだけで、彼にだって赤い血は通っている。
玄関の前でさしていた傘を畳むと、彼女は軽くそれを振った。
「ただいまー」
玄関を開けて、刹那に兄と父の靴の存在を確認して声を上げるが、返事はない。
父は仕事で書斎に籠っているのだろう……書斎にそれなりの防音処理がしてあるのは、彼女も知っている。
なんでも、昔の同僚にうるさい人物が居たらしく、その人物を招いた時の為に態々防音処理したそうだ。
その人物ももう居ないそうなので、ある意味その防音処理は意味を為していない。
問題は兄である一鬼の方だ……美空は彼が返事をしてこないことを不思議に思っていた。
いつもならば、居間に座ってテレビでも見ている筈なのだが、今日は別の場所に居るようだ。
彼はテレビを見る際に、音量を下げて静かに見るタイプなので、彼女の声が聞こえない筈はないのだ……よって居場所はそれ以外の場所になる。
そうなると、トイレか、或いは浴室……いや、この時間帯なら自室かもしれない。
六時になれば父はキッチンで料理を始める筈なのに、それを手伝うにしても、まだ時間がある。
なので、美空は一鬼に会いに行くことにした……この数日間、彼は妙に緊張した面持ちだったので、その理由を確認したかったのだ。
「兄さん、居る?……兄さん?……入るよ?」
軽くノックをして呼びかけてみるが、返事はない。
余りにも静かなので中には居ないかもしれないが、不意に物音がしたので、美空は中に入ることにした。
もしかしたらイヤホンかヘッドホンをして音楽でも聞いているのかもしれない、と思いながら、扉を開けた彼女が見たのは、真っ暗な部屋である。
既に五時半とはいえ、少々暗過ぎると思った美空だったが、カーテンが閉められていることに気付いた。
静かに記憶を頼りに暗闇の中から電球のスイッチを探し当て、彼女は小さな電球のみを点灯させるスイッチを押す。
これは、この部屋で何が起きているのかを、彼女が凡そ察したからである。
「……やっぱり」
案の定、うっすらとした光の中で美空が見たのは、ベッドの上に寝転がって、静かな寝息を上げる一鬼の姿だった。
こんな時間に寝ていることを珍しく思いながらも、彼女は滅多に見られない兄の寝顔を覗きこんだ。
常人とは異なる藍色の髪の毛が寝汗で額に張り付いている……日頃は気難しそうに吊り上がっている目元も今はその限りではなく、端整な素顔を曝け出していた。
彼女は暫くそれに見とれていたが、ふと気づいたようにそっとその頬に触れてみた。
思いの外柔らかい頬の感触に、彼女は自然と頬が緩むのを自覚して、そのまま流れるように顎を撫でてみる。
その際に一瞬一鬼の体が動いて、慌てて手をのけるが、どうやら起きてしまった訳ではないようだ。
「……顔は良いんだから、もっと愛想良くすれば良いのに」
もう一度頬を触った後に、顎、首筋と少しずつ手を降下させていき、そっと厚い胸板を衣服越し撫でる。
一鬼はこの肉体は自然と身に付いたものだと言っているが、それは少し違う……正確には、一年前から極端に発達したのだ。
元々必要以上に強靭な肉体を有していた兄ではあるが、一年前まではそこまで抜きんでてはいなかった。
彼女はよく覚えている……この一年でどれ程彼が変わったのかを。
一年前の大事故を境に、彼の肉体は以前にも増して発達している。
彼の身体能力はこの一年で一流アスリートに匹敵は愚か量がするまでになっているが、それは何も自然になったものではない筈だ。
恐らく兄は自分達を守る為に密かに鍛えているのだろう……そんな甘い幻想を美空は抱く。
実際、それは真実であろう……しかし、それが一鬼の口から直接語られたことは未だない。
美空は兄がこういったことを裏でしておきながら、照れ隠しから口外しようとしないことを知っている。
素直な一面がある筈なのに、秘密で何かを用意するという癖が、彼には昔からあるのだ。
特に、誕生日プレゼントに関しては、兄は時々思い出したようにサプライズプレゼントをくれる。
そんな兄のことが、美空は好きだった。
「……もう少し、寝かしておいてあげよう」
そっと後退しようとして、ふと美空は思い出したように携帯を取り出した。
そして、カメラのアプリを起動すると、シャッター音をOFFにして、静かに一鬼の寝顔を取ったのだ。
その画像が保存されたことを確認すると、美空ははにかんで、一鬼が起きていないことを確認すると、そっと部屋を出る。
電球の電源をOFFにして、後ろ手で扉を閉めると、彼女は思わず笑ってしまった。
頬が赤くなっているであろうことを、その温度から察しながら、彼女は静かに自室に向かう。
いまだに心臓が早鐘を打っているのを感じながらも、携帯の画像ファイルを確認して、再びはにかむ。
まるで恋する乙女のような表情でその画像を見る美空は、まさしく年相応の少女だった。
だからこそ、彼女は気付かなかったのかもしれない―――彼女の背後に現れた手の存在に。




