第十九話
この世には、知らない方が良いこともある。触れてはいけないものが確かにある。
十九年前のある日、彼らはそれに不運にも出会い、幸運にも生き延びた。
当時のチームの大半は既に死亡しており、現在生存しているのは片手で数えられる程度だ。
彼らは多くの価値のある物を得て、ある者は掛け替えのない存在を得た。
そんな彼はその時を境に少しずつ疎遠になり、今となってはその関係は酷く希薄なものだ。
当時のことを忘れるように皆が敢えて連絡を取らずにいたのだから、当然の結果であろう。
「明、それに敬吾……久しぶりだな」
「お久しぶりです、お二方」
「おう、柿坂に……今は両方柿坂だったか。二十年ぶりくらいか? 取りあえず上がれや」
「ここは私の家だぞ、敬吾。よく来てくれたな、二人共。上がってくれ」
その彼らが、今一ヶ所に再び集う日が今日来た。
神谷明、柿坂亮、柿坂愛子……当時見てはいけないものを見たにも関わらず生き残った、数少ない三人だ。
一年前まではそこ神谷夜空も居たが、彼女は既に事故で死亡している為、ここに同席することはできない。
部外者ではあるものの、そんな彼らの話を友人として聞く為に佐村敬吾もまた、ここに居る。
敬吾にとって明達が十九年前実際に何を見たのかは非常に興味があるし、何よりもそれは今後に大きく関係することだ。
一鬼のこともそうだが、彼らがこうして集ったのは過去に思いを馳せる為だけではない。
それをどう未来に繋げるかが最重要事項であり、もはや過去を振り返るのはその為の手段でしかないのだ。
そして、敬吾もまた無関係ではないと明が告げたが故にここに居た。
「ああ、明とは仕事で定期的に連絡を取り合っているが、敬吾は二十年ぶりか……本当に、あっという間だったな」
「そうですね……あの頃は不安で仕方が無かったけれど、今は愛梨も居て、一鬼君も居て……ふふ」
「おお、そうだ。明、一鬼君だが……本当にお前によく似て……いや、お前を更に大きくしたような子だよ。あの子が居てくれて良かった……お蔭で、うちの愛梨も助かっている」
「そうか……」
「三年だ。三年以上、あの子は愛梨の傍に居てくれた。お蔭で、最近はもう不安定さは感じられないよ。本当に、あの子は――人間ではないんだなと、改めて実感させられた」
感謝を述べる亮と、それに頷く明の姿に、敬吾は若干の寂しさと驚愕を覚える。
いつの間にか親友達も自分も親になり、子のことで話が広がるようになっている。
だが、彼は肝心の柿坂愛梨のことをまるで知らない。一鬼と関わりがあるということは、当然優希も知っているだろう。
しかし、優希はそういったことを彼にも、妻にも語りはしない。己で全てを解決してしまう。
そんな娘のことを思い出すだけで、彼は若干の寂しさを覚えるのだ。
そして、同時に敬吾は亮が一鬼が人間ではないことを知っていたことに驚いた。
人間ではないと思っていた敬吾ですら娘との付き合いに躊躇いを持つのだ。それを知っている亮達ならば猶更不安だろう。
だと言うのに、亮は笑顔で眩しいものを見るような表情で、明に一鬼のことを告げる。
異常を異常と知りながらも受け入れ、そこに憧れや尊敬を抱いていることが、彼を困惑させた。
置いてきぼりを食らう敬吾ではあるが、それは内心に留めて皆がソファーに座るのに合わせて自身も空いた席に座る。
「お前達、一鬼が人間ではないことを……」
「ああ、私も愛子も知っている。何せ、あの時あの子に出会ったのは私達四人だからな」
「……成程。それで、その愛梨ちゃんは……何か問題でもあったのか?」
「愛梨は……少しばかり特殊な子でな。生まれついて他人の心が読めてしまうんだ。そのせいもあってか、中学までは何とかなったんだが、高校一年生の頃に崩れた。私達は愛梨を上手く支え続けたつもりだったんだが、実際はそうではなかったんだ」
「その時、あの子が……一鬼君が現れたんです。偶然同じ高校に通っていたようで、そこから大分落ち着きました。学校には二年程行けませんでしたが、今は元気に通っています」
「成程なぁ……優希と似たような感じか」
敬吾は亮達の話を聞きながら、一人納得して頷いた。
要は彼の娘である優希がその容姿の異端さから苛められていたのと同じで、愛梨という娘は苦しんでいた。
そこに一鬼が現れて、救った訳だ。しかも三年間もの間世話をしていたというのだから、一鬼が明に似たのは間違いない。
明も同じように、誰かの心を守る為には精力的に行動する人種だ。
そういう処に惹かれて、敬吾達は明の元に集った。
だからこそ、血の繋がりがないとはいえ明の息子である一鬼がその一面を強く受け継いでいることが、彼らには嬉しいのだ。
明と夜空の精神を恐ろしいまでに忠実に受け継ぎ、守護者へと成長した一鬼は、血が繋がっていなくとも間違いなく彼らの息子と言えるだろう。
そんな親子関係に何処か羨ましさすら感じてしまうのを錯覚だと振り切ると、敬吾は再び口を開いた。
彼が疑問に思っていることを確認する為だ。
「定期的に連絡を取り合っていたと言っていたな? それなら何故一鬼と同じ学校に昔から通わせなかったんだ?」
「それは、私達は私的なことに関しては互いに余り口にしなかったからだ。余り距離が近づくと、十九年前のことを思い出すからな……特に一鬼はその象徴だ。下手に口にできないものだ」
「……言われてみればそうか」
「そう、三年前まではそうだったんだ。だが、一鬼君があの一鬼だと知ってね……すぐに出会って話をした。そしたらどうだ……私達の想像がつかない程にしっかりしていて、おまけに愛梨の力を打ち消せると来た。それ以降、明との連絡の密度を上げたんだ」
「まったく……お前達は揃いも揃って一鬼が理由で私に接触するな。まぁ、息子を褒められて悪い気はしないが」
口では文句を言いながらも、息子を褒められて素直に嬉しそうな表情をする明に、敬吾達は顔を見合わせて笑う。
照れ隠しにしてはバレバレではあるが、明はこういう人間なのだ。
真直ぐで、素直で、熱血漢で、隠し事ができない不器用な人間……それが神谷明という人間の本質だった。
一鬼も守る者としての精神を強く受け継いでいるが、あちらは人間味が薄い処か本当に人間ではない。
そういう意味では、敬吾は一鬼に感情移入しきれないでいる。
飽くまでも彼が見ている一鬼は最高の猟犬としてか、親友の息子としてのみの一鬼だ。
酷く残酷な見方ではあるが、彼にとっての一鬼はそういう存在なのだ。
人外さに恐ろしさを感じながらも、その圧倒的な能力を利用してきた彼は、ある意味一番その能力を理解している。
実際、猟犬としての一鬼に警官としての彼は助けられたし、娘の友人としての一鬼には、幾度も娘を助けて貰っていた。
近くに一鬼を置くのは恐ろしいが、しかしその能力を知っているが故に彼は一鬼が警察の一員となってくれるのを望んでもいる。
彼が求めるのは飽くまでも猟犬としての一鬼だが、それに関しては明が煩そうなのが難点だ。
明は一年前の事故もあってか、一鬼が危険に晒されるのを嫌う。
当時事故における最も重傷を負う筈の場所に一鬼が居たのだから、当然と言えば当然だ。
実際は、一鬼は現在ピンピンしている訳だが、妻を失ったことで臆病になっている明は中々息子を自由にしてやれないでいる。
「ふふ……しかも、つい最近ですけど、一鬼君が愛梨の彼氏さんになってくれたの」
「何!?……あいつも色を知る年頃か。まだ清い関係だろうな?」
「勿論そうだろう。お前の影響もあってか、彼はそういうのにかなり抵抗があるようだからな。いや、まず間違いなくお前のせいだろうが」
「そう言えば、夜空さんも美空ちゃんが生まれたのは奇跡だったって言っていましたね」
「夜空の奴、そんなことまで……そういうのは、得意ではない」
「ああ、知ってる」
敬吾は明の言葉に頷くと、肩を竦めた。
明は昔からそういったものに対する抵抗があり、積極的ではない。
かく言う敬吾もそこまで積極的だったかと言われると首を横に振らざるを得ないのが実情だが。
若い頃にそういったことに触れていないと、反動で年を取ってからエロオヤジになるという話をかつて誰かから聞いたことを彼は思いだし、苦笑した。
実際はそのような暇などなく、ただただ与えられた使命をこなし、守り続けることばかりに目が行く。
そもそも既に齢四十を超えた彼らからすれば、そのようなことに興味を持つ余力もつもりもない。
守るべき者が居る彼らはただ守ることに終始気を配り、得ることよりも守ることを優先する。
己が愉悦を追い求めるような余裕はないし、仮にあったとしても彼らはその愉悦を既に忘れていた。
守ることこそが至上のものであると思い込んでいる彼らは、子を守っているという現状で満足してしまう。
昔明の人柄に惹かれて集まった者達は、皆そういう守る意思に憧れていたのだから。
「まぁ、そういう関係になっているかどうかは置いておこう。取りあえず、私達としては彼を歓迎したい」
「愛梨ったら、本当に嬉しそうに一鬼君のことを話すんです。今日は何を話したとか、何処そこに行ったとか、普通の女の子みたいに……それが嬉しくて。一鬼君なら、きっとあの子を支えてくれると思います」
「……だが、その逆はできるのか?」
「逆、か……正直に言えば、保証は無い。一鬼君の支えになりきれる程愛梨は強くないだろう。だが、彼は守るべき者が居てこそその真価を発揮する子だと、私は思う」
「そうだな。明、自慢の息子の未来の嫁さんのことが気になるのは仕方がないが、奴と対等であって、しかも支えになれる奴なんてそう居ないぞ」
敬吾は明の言葉に呆れながら、そう言った。
明は一鬼が何処の馬の骨とも分からない女に引っかかるのを心配しているのかもしれないが、敬吾はその心配はしていない。
そもそもが、一鬼は一般的に近付き難い人種であって、そうそう誰かと深い関係になりはしないのだ。
かつては幼馴染であった優希とも最近は殆ど会っておらず、その繋がりは希薄と言える。
優希は避けてはいないが、一鬼の方は間違いなく彼女を避けていた。
一鬼は他者との距離を多めに取る傾向にあり、その傾向と容姿や雰囲気が相まって、他者を寄せ付けない。
人外さを見せつける赤い眼は多くを見抜き、それが余計に一鬼を恐怖させる要因になる。
結果として一鬼は他者との関わりを失う形に行きがちで、一矢や羽月、愛梨達を除けば彼の知り合いはそう多くない。
その能力を高く評価し、扱おうと思う敬吾のような存在が居なければ彼はまともに修飾することも難しいだろう。
いかに日頃は自信溢れる者達でもその赤い眼を前にすると、どう扱うかがまるで分からなくなる。
敬吾も明の話を聞いていなければ……一鬼の幼少期を知らなければ、猟犬として扱いきれなかったに違いない。
一鬼が親友である明の子であったからこそ、敬吾が父の親友であったからこそ、一鬼は敬吾に御されたのだ。
そうでなければ、彼ではその異常を扱いきれなかった。
「分かっている。あいつは生意気にも、齢十九であそこまで到達した。認めたくはないが、既に私など超えている……私など居なくとも、生きていける。あいつには十分過ぎる力がある。そのことは、敬吾の話を聞いて再確認させて貰った」
「ああ、あいつは俺から推薦したいくらい優秀な猟犬だよ。こと殺人事件に関しては、奴は最強最優秀の猟犬だ」
「猟犬?……そういうことか。そう言えば、昨日の件はもう片付いたのか? テレビや新聞で見た映像では随分と酷い有様だったようだが」
「昨日のテロについてなら、まだだ。戦闘機やミサイル……もうここまで来ると私設武装集団でも居るのかと疑ってしまうくらいだ。しかし、実際はこの町にはそんな輩はいない。居てはいけない。だが……何十発ものミサイルが空に撃ちあがったのを多くの人間が目撃しているのも事実だ。はっきり言って、これは国の信用に大きく関わることだろう」
「だが、何故か百に近い量の列車もそこにあったのだろう? それはどう説明する?」
「それが理解できれば苦労はしない」
敬吾は昨夜起きた事件のことを考えながら、米神を押さえた。
死亡した人間の数は凡そ三十人程度……数十のミサイルが町に撃ち込まれたことを考慮すれば、圧倒的に少ない犠牲だろう。
敬吾は明達に数十のミサイルが撃ちあげられたと語ったが、それは部分的な事実でしかない。
実際は、その倍以上の量のミサイルが昨夜この町に存在した筈なのだ。
数十もミサイルが実際に打ち込まれ、数十のミサイルは空に射出されたにも関わらず、そのまま何処かに消えてしまった。
それが他の町や或は国に向かったのではないかという懸念も上がっているが、それにしては上が落ち着き過ぎている。
勿論本当に落ち着いている訳ではないが、ことがそのレベルの大きさにまえ発展していたのならば、上はもっと必死になっている筈だ。
そうではないということは、少なくとも国際問題に発展する程の損害を他国に与えてはいないということであろう。
勿論この事件のことが国際的に騒がれることは間違いないし、近い内に自衛隊なりが派遣されるかもしれない。
流石にミサイルを所持しているような相手では、警察ではどうこうできないレベルだ。
そうなれば、当然自衛隊が派遣されることになる。
上が焦っているのはそちらのことだ。
「ただ、一鬼なら何か知っているかもしれん」
「……まさか、例の連続殺人事件の犯人があれをやったと言いたいのか?」
「飽くまで可能性の話だ。そもそも一鬼は人間の枠を超えた存在だとお前達も知っているだろう? それに似た別の何かがこの町に居たと考えることはできないか?」
「それはまた随分と強引な考え方だが……一鬼君や愛梨のことを知る私達としては、否定はできないな。実際、最近のこの町には不穏な空気を感じている。それも、私達に無関係ではない何かを」
「亮さんの言う通り、このままここに居ては何か大切な物を失いそうな気がします。だけど同時に、私達はここを離れてはいけない……そんな気もするんです」
愛子の言葉に明達は絶句する……彼らも同じようなことを考えていたからだ。
この町に長居するのは危険だと感じながらも、同時にこの町に留まって何かを見届けねばならないような、そんな予感を彼らは感じていた。
何がそうさせるのかは、彼ら自身にもまだ分かってはいないが、そうしなければいけない気がするのだ。
きっとこのままこの町に居れば、彼らは大切なものを失うだろう。
だが、それでもこの町に留まらねばならないという思いが彼らにはあった。
「お前達もか……実は私達もそう感じている。この町で十九年前のあの日に決着をつける日が訪れる……そんな気がするんだ」
「そうか……不思議なものだな。十九年前のあの日を境に分かれた私達がこうして集う理由が、別れさせた原因そのものだとは」
「思えば、佐藤も高橋も皆この町にやって来た。何故だ?……それは、恐らく一鬼が居たからだ。一鬼が居たからこそ、この町に……あの日の怨念が集う」
「怨念、か。似たようなことを一鬼が言っていたな……当時は狂人の言葉だと思っていたがどうやら違ったようだ」
「おい、敬吾……お前は私の息子のことを……」
「いや、悪い、悪かった」
じろりと睨んで文句を言い始めようとした明を止めようと敬吾はすぐに謝罪をする。
明は息子である一鬼のことに関しては本当に親バカだ。
敬吾からすれば、実の娘である美空ではなく一鬼を優先してしまうのは少々おかしいのだが、明と夜空にとってはそれが普通だった。
血の繋がりが無いからこそ、それ以外の繋がりを強く求めたのかもしれない。
教え込めば教え込むだけ砂のように全てを吸収し、恐ろしい速度で成長していくその姿を見守るのが楽しかったからかもしれない。
どのような理由であれ、二人が一鬼を優先していたのは間違いなかった。
神谷美空も二人の愛を受けていない訳ではないし、寧ろ人並みには愛されているだろう。
だが、逆に言えば人並み程度の愛情しか受けておらず、それ以上の愛情と期待を一身に受けた一鬼との差は激しい。
常人の視点から見れば美空は十分良くやっているし、寧ろ能力はかなり高い方だと敬吾の娘である優希も認めている。
彼からすれば、娘の言う通り美空は十分能力があるし、決して他者に劣っている訳ではない。
しかし、一鬼という指標しか持たない美空は己を無価値だと思い込んでしまう。
一鬼を育てた時の経験を元に、美空のことは過剰に干渉しないようにしている明達の態度は、余計にその傾向を助長する。
一鬼と美空は違うと分かっているからこそ、明達が美空に過度な期待をしないように心がけるのは仕方ない。
だが、その態度から美空が兄よりも劣っていると自覚してしまうのもまた必至なのだ。
かと言って同様に扱えば、美空では一鬼のように上手く行かず結局劣等感を抱いてしまう。
己の子どもの扱いというものは実に難しいもので、親にとって世界で最も難しい問題の一つであろう。
「まぁ、良い。それよりも……昨日一鬼はあの地域に居たのか?」
「……恐らくは。昨日の電話で奴は犯人を止めたと言っていたからな。良いか……あいつは『捕まえた』ではなく、『止めた』と言ったんだ。つまり、昨日既に殺しを経験している可能性がある」
「……そう、か。本当に一体の鬼として振舞えるようになってしまっている、ということか。あいつは……もう私などよりもずっと遠くに進んでいるんだな」
「一鬼君が殺し、か。確かに、彼はそういうことを為せてしま怖さがある。過ちだと分かっていても、何かを守る為に為す怖さがある。その程度のことは、十分予想できた筈だ」
「……親の俺よりも知ったような口で言うのだな、亮よ」
「親ではないからこそ見えるものもある。お前と違ってあれこれと期待し過ぎしない分、本質は見えているつもりだ」
敬吾は亮の言葉に頷きながら、内心明の目が曇っていることを再確認した。
一鬼は殺しに手を染める危険性がある……それも愉悦の為ではなく、誰かを守る為に。
今回の連続殺人事件の犯人に関してもそうだった。最初に一鬼から止めるという旨の話を持ち掛けられた時も、『捕まえる』ではなく『止める』と言ったのだ。
それが何を意味するかを理解しながらも、敬吾は一鬼を送り出した。
結果として、昨夜のテロ紛いの事件が起きたのだとすれば、彼にも責任がある。
それらの事実を確認する為に、敬吾は今日一鬼の元を訪れるつもりだ。
「そう、か。私も大分目が曇ったようだな」
「私達も愛梨のことになれば同様だ。親は子に期待してしまう。己を重ねてしまう。だから、それは特別異常だという訳ではない。子からすれば迷惑な話ではあるが」
「分かっているとも。所詮私もその程度の人間だったのか、と自己嫌悪しているだけだ」
「その程度、ですか。明さんは相変わらず下のことは気になさらないお方ですね」
「言ってやるな。明はそういう奴だし、俺にもその気持ちは分かる。いかに他者より優れていると言われようとも、守りたいものを守れなければ苦痛は終わらない。贅沢な悩みだなんて言ってくれるな……持つ者に持たない者の気持ちが分からないように、持たない者にも持つ者の気持ちは分からないものだ。特に、守るべき者が居る居ないの違いは大きい」
敬吾はやんわりと愛子に注意をすると、明に対して肩を竦めてみせた。
彼にもまた守るべき存在が……妻子が居る。
守りたい者達を守れなかった時の苦痛は、己自身が傷つくよりも鋭く心に刻み付けられるものだ。
守るべき者が居ない者などそうそう居ない筈だが、守るべき者がはっきりしている者もそう居ない。
明はその守るべき者がはっきりしている者だ。
敬吾は可能な限り拾えるものを拾うタイプで、警察に属したのも可能な限り守ろうと思ったが故である。
結果として現在の彼は不特定多数の人間を助けるという可能な限り広く、深くを心掛けてはいた。
しかし、最初から守るべき者を少数に限って守っている明とでは、やはりその深さには大きな差が出てしまう。
それを理解しながら選んだ道ではあるものの、同じく妻子に対して同等のことができていないことを、敬吾は内心悔やんでいた。
彼の娘である優希は一鬼が居なければ今のように強い子には育たなかっただろう。
強かと言える程のその精神、そしてそれの裏付けになり得るだけの能力……それら全ては一鬼が居たからこそ生まれたものだ。
敬吾が優希にしてやれたことは、非常に少ない
「分かっています。それにしても……皆さん、随分と落ち着いていますね。一鬼君が、罪を犯したかもしれないというのに」
「勿論、その落とし前はつけさせるべきだろうが……今回に限っては、正義が為されなかっただけのことだ。結果として食人鬼はこの世界から消えた……俺はそれで良いと思っている。あのまま放っておけば何千人死んだか分からんからな」
「警視の言葉とは思えんことを言うな。しかし……私もその意見には賛成だ。少なくとも私達の大切な者はこれ以上失われないで済む。それだけで十分だ。己の限界以上は、運が悪かったと言い訳をして見ない振りをする……それが賢い選択だ。皆そうやって生きている」
「身も蓋もない話だが、そういうことだ。俺達の両手で掴みきれないものは捨てていくしかない。そうしなければ全てを失うからな。あいつはそれをやった……ただそれだけのことだ。おめでとうさん、明……例え血の繋がりがなくとも、あいつは間違いなくお前の息子だ。お前の願い通り、本当の鬼になっちまった哀れな化け物だ」
「……分かっている。それ以上は言うな」
一鬼は恐らく昨夜、千人以上の被害者を出した連続殺人犯を殺した。
それはつまり、齢二十にも満たない一鬼が、その手を血で染めたということを意味している。
犯人を法で裁ければ良かったのだが、今回に限っては昨夜のことを考慮するにそれは不可能だっただろう。
一鬼はただ警察達では手に負えない者に止めを刺した……それだけのことなのだ。
明達はその事実を悔やみ、一鬼の手が血に染まってしまったことを嘆いている。
しかし、敬吾は寧ろその役割を担ったのが一鬼であることを喜ばしいとすら思っていた。
彼の部下達では恐らく何の抵抗もできずに殺されていただろうし、自衛隊が出て来ても、被害は甚大だっただろう。
その被害を一鬼は最小限に抑えてくれた……三十人余りの死者など、安いものだ。
一鬼の持つオカルト的な何かがなければ、恐らく昨夜この町はミサイルによって火の海に変わっていた。
それが、たった一人の青年に全てを背負わせることで、たったの数十人の犠牲で済んだのだ。
不謹慎だと分かっていても、敬吾は一鬼が多くを背負ってくれたことを喜ぶ。
所詮化け物でしかない一鬼のことを心配する必要はないのだから、全て背負わせてしまえば良い。
それが、偽りなき彼の本音だった。
帰宅した後シャワーを浴び、着替えた一鬼は既に起床していた愛梨と相対していた。
「「……」」
互いの間に流れる沈黙が、土砂降りを地面に雨水を叩き付ける音をBGMにただそこにある。
愛梨の黄金の瞳は若干の不安を映しながらも、逸らされることなく一鬼の赤い眼を見据えていた。
それに対して一鬼もまた、赤い眼を以てその黄金の眼を直視する。
親友の死に涙一つ流さなかったその眼はただただ残酷な程に赤く、彼の強い意思を示す。
一鬼の背後で不安げに彼を見つめる碧と、一鬼と愛梨の間で仲介するかのような位置に居るブルー・シャーマンは、その様子をただ見守る。
重苦しい雰囲気が場を支配し、それをどうすれば良いのか分からない碧を、ブルー・シャーマンはジロリと睨んだ。
途端に両者の間に殺気が生じ、一鬼と愛梨の両者が手で制止するまでそれは続いた。
丁度そんなことがあった直後に、ついに一鬼は口を開く。
「愛梨、もう感じているだろうが……緋蓮は消滅した。俺が殺した。羽月も死んだ―――俺が殺した」
「はい、ブルー・シャーマンから聞きました。佐藤先輩のことは、実を言えば余り好きではありませんでしたが、残念に思っています。介錯されたのでしょう?……私には痛みの程度は理解しきれませんが、先輩が苦しいのは分かります」
「ああ、そうだ。俺が……この手で介錯した。苦しかった。怒りを開放したいと思った。だから、俺は解放したんだ……その怒りを緋蓮だったあれに」
「このような言い方は不謹慎だが、お蔭でお前の鬼火が蘇った。今のお前ならば、間違いなく今日全てを知ることができるだろう」
「ブルー・シャーマン、そんな言い方……」
「いや、良い。ブルー・シャーマンの言う通り、俺は漸くあるべき姿へと向かい始めたんだ」
一鬼は愛梨の苦悩を知りながらも、今日ブルー・シャーマンの能力で過去を知ることを中止にはしたくなかった。
羽月の死に彼が衝撃を受けているのは確かだが、こればかりは先延ばしにはできない。
紫鬼のこともあるが、何よりもまだ見ぬ『虹色の肋骨』を彼らに仕込んだ者の存在が、その必要性を際立たせていた。
彼は今すぐ力を取り戻し、その黒幕に復讐をしたかったのだ。
今の一鬼ではその黒幕には力が及ばないかもしれないが、完全に目覚めれば話は別だ。
ブルー・シャーマンや紫鬼が注目し、守ろうとしているのだから、彼には何かがある筈だった。
それは唄かもしれないし、それ以外の要素かもしれないが、何にせよ、彼には間違いなく力がある。
まずはブルー・シャーマンの能力を利用して最低ラインまで戻らねばならない。
零に戻らねば、そこから先にはいけないのだ。負の値から正の値に跳ぶ術はないのだから。
「あるべき姿って……親友を介錯する為に、己が手を汚せるような姿ですか?」
「ああ、そうだ。俺は鬼になる……大切な者達の為に鬼になるんだ。この肋骨を仕込んだ奴に復讐する鬼となる。そして――この手でその心臓を握り潰す」
「先輩は、本当に野蛮なおひとですね。いつもの落ち着いた姿は所詮仮初で、その戦いを求める姿こそが本物なのでしょう」
「そうだ。それで良い。愛梨、俺はそれで良いんだ……お前が望むのならば、もう俺達の関係も終わりにしよう。だが、その前にもう一度だけ力を貸して欲しい。ブルー・シャーマンとお前の力を、貸してくれ」
一鬼の言葉に、愛梨の眉がぴくりと動いた。
少しずつ歪んでいくその表情は、数秒の間混沌としたもののままであったが、すぐにいつもの落ち着いたものに戻る。
彼女はそのまま眼を数秒の間閉じ、ゆっくりと開く。開いた眼には既に迷いや恐れは消えており、ただ真っ直ぐな意思のみが残っている。
そこから一つ深呼吸をすると彼女は口を開いた。
「……関係は、まだ終わりません。終わらせません。ですが……力はお貸しします。今の先輩は地獄の業火そのもの……焼き尽くすべき相手を宛がわなければ私達身の回りの者を全て焼き尽くしてしまいそうですから」
「そうか……助かる」
「ですが、これだけは約束してください……私達の方から離れるまでは、居なくならないと」
「勿論だ」
「……ブルー・シャーマン」
「ああ、早速始める」
ブルー・シャーマンの言葉に続いて、一瞬で世界が切り替わる。
鮮やかな蒼炎に包まれた世界……あの世とこの世の『境界』に、彼らは居た。
ここは死すら超越したブルー・シャーマンのみが自由に行き来できる世界で、一鬼達はその掌の上に居るに過ぎない。
一鬼は辺りを見渡して碧の姿がないことに気付いたが、取りあえずそのことは置いておくことにした。
彼女は一鬼に過去を知られたくない嫌いがある……今はここに居ない方が好都合だ。
以前のように蒼炎の中で佇むブルー・シャーマンの元へと歩きながら、一鬼はその赤い眼を細めた。
以前ここに来た時よりも妖に近づいている為か、今の彼にはこの空間がいかに凄まじいものかを感じることができる。
この世界における力は全てブルー・シャーマンへと向かっており、ここならばブルー・シャーマンは誰よりも強くなれそうだ。
現実世界での最強は紫鬼で間違いないが、ブルー・シャーマンはこの世界でならば最強なのだろう。
この世界でならば、紫鬼にすらも対抗できるかもしれない……彼にそう感じさせる程の力の奔流が、ここにはあった。
「選ばれし子よ……約束の時だ。今日、お前は全てを知り、我々超越者は漸く一つの転機を迎えることができる。愛梨、その子の手を取れ」
「先輩……今回もお付き合いします」
「頼む」
ゆっくりと両手で包み込むように手を握ってくる愛梨に微笑みかけると、一鬼は目を閉じた。
ブルー・シャーマンの能力が世界を超え、時を超え、事実を見抜くのを待つ為に。
これから彼はその能力によって己の過去を知り、未来を手に入れる。
現在を生きていく為に必要な二つの要素を手に入れることで、彼は己を取り戻す。
彼はその果てに超越するのだ……憧れた者達と肩を並べる為に。
「行くぞ……」
「ああ」
若干震えている愛梨の手を優しく握り返すと、一鬼はブルー・シャーマンの言葉に頷いき―――次の瞬間、彼の意識は闇の中へと沈んだ。
再び現実世界に置いてきぼりにされた碧は、倒れた一鬼を支えて膝枕をしていた。
完全に時が止まっている今の一鬼の体は酷く固いが、彼女はそのようなことを気にしない。
頬を撫でた時の感触や、そのずっしりとした体重すらも彼女は楽しむ。
今だけは彼はまったくの無抵抗で、彼女にされるがままだ。
勿論時間が止まっている為危害を加えることはできないが、そのようなことは初めから彼女もするつもりはない。
しかし、この状況はまるで完璧ではない。
「殺戮者よ、貴様は寝たままの相手を貪る癖でもあるのか?」
「煩いわね。そんな趣味は無いわ」
このブルー・シャーマンさえ居なければ、完璧だった。
碧は蒼炎の超越者を嫌う。紫鬼が唯一心から信頼したというブルー・シャーマンに、怒りを抱く。憎悪を抱く。
愛する者と触れ合うことすら許さないと言わんばかりの態度に、口調に、声に、彼女は紫鬼の影を見出した。
同じことを告げた超越者の影が彼女を苛み、過去を思い出させ、それをこれから一鬼が知ってしまうことが、何よりも彼女を恐怖させる。
碧は覚悟をしているつもりだった。できている筈だった。
しかし、今彼女は一鬼に過去の己を知られることを恐れている。結果的に捨てられることを怖がっている。
今まで散々彼に醜態を晒したのだ……今回が止めとなる可能性は高い。
本来ならば、この時点で彼女はもっと一鬼の奥底まで踏み込んでいる筈だった。
ブルー・シャーマンや紫鬼という存在が居なければ、一鬼とより深い関係になっていた筈なのだ。
「イライラしているな。やはり、自らの汚点を晒すのが恐ろしいか? あの子に捨てられることが怖いか?」
「……黙りなさい」
「私は怖いぞ。超越者があの子に何一つしてやれなかったことを知られるのが。その結果あの子に必要ないと一蹴されるのが」
「!……ならば、何故進んであの子の過去を呼び覚まそうとするの?」
「あの子は知るべきだからだ。私達超越者はあの子の為にある。あの子の為に生まれた。その超越者である私が、己の恐怖とあの子の恐怖のどちらを優先して排除するかなど、分かり切ったこと」
悠然と答えるブルー・シャーマンに、碧は思わず表情を歪めた。
圧倒的な忠誠心を持つのが超越者であることを彼女知っているが、ブルー・シャーマンが一鬼を紫鬼の弟としてしか見ていないことも彼女は知っている。
だからこそ、ブルー・シャーマンがそのようなことを言うことに、彼女は大きな違和感を抱く。
一鬼自身を内心軽視していた筈のブルー・シャーマンがそのようなことを言う筈がないのだ。
碧にとっては、一鬼が妖として目覚めるかなどどうでも良い。
ただ彼が生きていてくれたならば……彼女の傍で笑っていてくれたならば、それでも満足だった。
今度こそそれが叶うかもしれないと彼女は思っていたが、他の『虹色の肋骨』の存在がそれを邪魔する。
彼女にとって他の妖達は邪魔でしかなく、排除すべき存在だ。
彼女にとって己以外は、碧という妖狐と一鬼という鬼を引き離そうとする障害でしかない。
特に紫鬼に至っては、近い内に必ず彼女を殺しに来るに違いなかった。
紫鬼にはその権利がある。その義務がある。一鬼自身にもその権利がある。その義務がある。
しかし、碧はその断罪を受け入れるだけの覚悟がまだできていない。
もっと一鬼の傍に居たいという彼女の本心が、覚悟を鈍らせているのだ。
「貴方……数日前には一鬼のことを軽視していた筈なのに、随分とおかしなことを言うのね」
「言われずとも、貴様も分かっている筈だ。昨夜あの子は死闘の中で部分的ながらも『唄』を取り戻した。この調子で行けば、明日には完全に取り戻すだろう……私も期待しているのだよ、あの子のこれからの生き様にな」
「……期待している割には、一度も一鬼の名を呼んだことがないわね?」
「呼んでいる貴様がおかしいのだ。あの子の名前を呼ぶ権利は兄である紫鬼にしかない。私達には許されていないのだ。それに……これはケジメでもある。私はあの子に深入りし過ぎないという、な。盲目になっている他の者達と私は違う。だからこそ、紫鬼は私を信頼してくれているのだ」
「……第三者の視点に立つ者、ということかしら?」
「そういうことだ。不安を紛らわす為に選ばれし子の体温を求めている、愚かしい殺戮者よ」
はっきりと言い放たれたブルー・シャーマンの言葉に、一瞬碧の脳内を火花が走ったが、彼女は堪えた。
ここで戦っても彼女に勝ち目がないことは既に確定しているのだ。
愛梨を殺す以外の道でブルー・シャーマンに勝つ術はないが、その愛梨も現在はブルー・シャーマンの能力で時間を失っている。
彼女の拳では、その時間の喪失を無視して愛梨を傷つけることはできない。
対してブルー・シャーマンは一鬼の命を握っている。
超越者であるブルー・シャーマンが一鬼を殺すことはあり得ないと彼女は知っているが、ブルー・シャーマンの能力が底知れない已上、油断はできない。
目の前の蒼炎の超越者ならば、一鬼の肉体を傷つけずに『虹色の肋骨』を摘出し、碧を消滅させることすらも可能かもしれないのだから。
一鬼が妖として完全に目覚めていない今は敵対すべきではないというのが、彼女の判断だった。
「随分と抑えているな。昨夜あの子に愛梨を殺すように吹き込んだ者とは思えん。そんなに最後の鬼を己がものにしたいか? 『最後』の意味を変えてしまった貴様自身が?」
「……妖狐は貪欲なのよ」
「ああ、その通りだ。貪欲故にあの子を危険視し、同時に欲した。貴様達妖狐は殺し、奪うことしかできぬ。与えることを知らぬ。だから、超越者にはなれないのだ。貴様らの絆は妖狐の間にしか……いや、妖狐の間にすらない。貴様達は、誰とも繋がっていない」
「でも……でも、私はあの子との間に絆を感じた! 今も感じている!」
「それは絆ではなく、罪と言うのだ。覚えておけ、殺戮者よ……貴様らの辿った道は自業自得でしかない。復讐する権利など最初からないのだ。確かに貴様らには復讐する機会はあるだろう。しかし、その時私達は全力を以てそれを拒む。壊すか寄生するしか能がない者どもよ」
ブルー・シャーマンはそこまで言うと、そのまま沈黙してしまう。
その言葉全てが碧にとっては致死に等しい威力を持つ言葉の刃であり、彼女の罪悪感を助長する。
うつむき、動かない一鬼の横顔を見つめながら、彼女は己の過去を内省していく。
彼女が生まれた時から始まり、そこから彼女が何を為してきたか。何を得て、何を奪っていたか。何処から彼女の運命が狂い始めたのか……その全てを彼女は思い出していく。
全てが狂い始めたその時の追憶が、そこから始まった。
意識を取り戻した瞬間、一鬼は見知らぬ場所に居た。
彼が居たのは何処なのかも分からない空で、ただ眼下に広がる大地だけがそこにはあった。
意識が完全に覚醒するのと同時に流れ込んでくる何千何万もの思念と、緩やかに変化していく眼下の景色が、まるで早送りでも見ているかのような錯覚を彼に抱かせる。
そこで彼は眼下に広がる景色に一体の妖狐の姿を見出した。
早送りはそのまま続いていき、そこから妖狐は増え続け、いつの間にか数百に及ぶ妖狐が住む集落が、彼の眼下で生み出された。
「ここが殺戮者の生まれ育った場所だ」
「!……ブルー・シャーマン」
「今日この時間に、殺戮者は妖狐の長の娘として生を受けた。妖狐という愚かな妖達の中で、史上最強の座を約束されてな」
「これは……碧の過去なのか?」
「奴の過去でもあり、紫鬼の過去でもあり、我々の過去でもあり……お前の過去でもある」
いつの間にか一鬼の隣に立っていたブルー・シャーマンは、ゆっくりと握っていた掌を開いていく。
それに合わせて空に描かれる光景の中に、藍色の髪の毛を持つ赤子を抱える人間の姿があった。
否、見た目は完全に人間でも実際は違うのだろう……その赤子が紫鬼であるならば、そこに映っているのは『鬼の一族』だ。
淡い青の髪の毛を持つ男性が、愛しそうに抱き上げた赤子の姿が眩しい。
それと同じように、眼下の集落でも広場で族長と思わしき女性が赤子を抱きかかえていた。
族長はそのまま、赤子を抱えてその尾が四本であったことを告げ、驚く周囲を置き去りに話を続けていく。
「この子は最強の妖狐になる」だの「悲願の九尾に辿り着けるかもしれない」だのと言うその女性の緑色の眼と、色が消え去った白髪は煌々と光を放っていた。
「妖狐は皆例外なく三尾を以て生まれ、そこから成熟して最終的に五尾か六尾になる。この時までは、あの族長のように七尾が限界だった。だが、奴は四つの尾を持って生まれ、八尾にまで到達したのだ。一族の期待を一身に受けて、それに応える為に戦って戦って、戦い続けてな。しかし、それでも九尾には届かなかった。奴には八尾が限界だったのだ。それでも奴はより上を目指して殺して殺して、殺し続けて……いつしか殺戮者と呼ばれるにまで至った」
「そうか……紫鬼は?」
「紫鬼は、あのように早い段階でその異常性に皆が気付いたが、そのまま大事に育てられ、すぐに立派な戦士となった。『鬼の一族』は元来戦いを好まず、ただ静かに暮らすのを好む一族でな……そこに生まれた紫鬼の存在は、その力は……元来好ましくないものだった。しかし、彼らは彼を受け止め、それに応えて彼は守護者となったのだ」
「守護者と殺戮者か……生まれた環境が、両者の運命を決めたのか」
「そうだ。力を求めた妖狐は殺戮者を生み出し、平穏を求める鬼は守護者を生み出した……この違いは大きい」
ブルー・シャーマンの言葉に頷きながら、一鬼は眼下を見遣る。
まだ幼い碧は既に母である族長に戦いを教えられ、傷だらけになりながら戦っていた。
そして、時たま実際に他の妖と戦ってその心臓を貫き、怨念を背負う苦痛に泣き叫びながら過ごす日々が、彼の眼下で何度も何度も繰り返されていく。
一方で空に広がる鬼の里の様子は穏やかで、しかしその中で紫鬼は幾度も現れた外敵を撃退、あるいは討伐していた。
ある時碧は遠くに行き、他の妖を殺しまくった。ある時紫鬼は里を襲撃してきた多くの妖を殺しまくった。
ある時碧は他の妖の幼子を殺した。ある時紫鬼は里に居る幼子の世話をしていた。
ある時、碧は敗北してボロボロになって集落に帰った。ある時紫鬼は紫炎を発現させた。
ある時、碧は七尾になり母に喜ばれ、自身も笑った。ある時紫鬼は両親に力の使い方を忠告され、それに静かに頷いた。
来る日も来る日もそんな様子が繰り返され、紫鬼と碧は成熟した存在になっていく。
一鬼が見知った女性と、彼の兄だと名乗った男性の姿に、彼は微かに笑みを浮かべる。
双方がどのような環境で育ち、どのようなことを為してきたのかがはっきりと分かるからだ。
紫鬼は守る為に戦い、碧は奪う為に戦う。紫鬼は守護者として殺し、碧は殺戮者として殺す。
彼も想像はしていたが、実際に目にするとその対比は実に滑稽なものだった。
「……あれは?」
「奴の妹が生まれたのだ……」
「あれが白雪……」
ある日碧は母である族長が大事そうに抱えている赤子を微笑みながら見つめていた。
今までの壮絶な日々をまるで感じさせない穏やかな笑みと、その純粋さに一鬼は驚く。
そこまで純粋でありながら……いや、純粋であるからこそ殺しまくったのだ。奪い続けたのだ。
ここまで純粋な戦闘マシーンを生み出した彼女の母親は実に優秀な教師だと、改めて彼は実感させられた。
碧は戦いの中に喜びを見出すように教育され、それを疑問にも思っていない。
戦って、殺して、奪うことこそが妖狐のやり方なのだと教育されてしまっている。
それも、感情を殺すのではなく寧ろ増大させるやり方で以て、族長は碧を御していた。
怒りや憎しみを敵に抱かせ、味方には深い慈愛を抱かせるように彼女は教育されているのだ。
それが密かに蓄積し続けた精神の歪みを看過できずに、だが。
一方で紫鬼は何一つ変わることなく、そこに居た。
そして、ある時、鬼の里に……ブルー・シャーマンが訪ねてきたのを彼は目撃する。
今隣に居るブルー・シャーマンと寸分も変わることなく……いや、寧ろより一層強大な力を発しつつ、そこに蒼炎の超越者は居た。
紫鬼と向かい合い、何かを問答しているのが分かるが、会話は何故か一鬼には聞こえてこない。
「できれば紫鬼のことも全てを知って欲しい処だが、この辺りは省かせて貰う。ここは余分な部分でな……愛梨の体力を考慮して、抜かす」
「分かった」
「殺戮者と紫鬼が出会ったのはお前がお前の母に宿った頃……つまり、お前の母が妊娠した頃だ」
「……それはまた、随分と不吉な時に出会ってくれたな」
「まったくだ。お前の予想通り、ここから全ては変化していった……」
ブルー・シャーマンの腕の一振りで景色が変化し、妖狐の族長と紫鬼の姿がそこに映された。
崖の上に居る両者の片手はそれぞれの心臓部分に置かれており、族長の方は険しい表情をしている。
それに対して紫鬼はいつもの仏頂面のままでそれに対応しており、両者の余裕の有無が見て取れた。
何を言っているのかは分からないが、一鬼はそこで族長の後ろに碧が控えていることに気付く。
族長と紫鬼の話が終わったかと思うと、族長が身振りで碧に前に出るように示し、紫鬼と碧が向き合った。
刹那、紫鬼の紫電の眼と碧の新緑の眼が合い、互いの間に沈黙が生まれる。
そのまま少しばかりの時間が経つと、碧と紫鬼は互いに会釈をした。
何が起こっているのか理解できない一鬼を見守っていたブルー・シャーマンも彼の混乱を悟ったのか、再び説明を開始する。
「これは鬼と妖狐の一族が不可侵条約を結んだ時のものだ。紫鬼の力を過小評価ながらも脅威に思った妖狐の族長は娘である殺戮者との婚姻を条件に里を攻撃しないことを約束した」
「……紫鬼に首輪をつけようとしたのか? 一族の命を暗に人質にして?」
「そういうことだ。しかし、逆にこれを利用して紫鬼は超越者を集めることに専念した。超越者以外には後れを取らない殺戮者を妖狐への防波堤として扱い、世界中から己と同じ超越者を探したのだ」
「……それで?」
一鬼はブルー・シャーマンの言葉に頷きながら、族長と紫鬼のやり取りを思い出す。
両者は心臓部分に手を置いており、妖の世界における絶対の約束をしていた。
いかに妖狐が破壊を好み、裏切りすら厭わない一族であったとしても、誇りがある。
妖の世界における最上級にして最も遵守されるべき形式の約束を簡単には破れないのだ。
族長に厳しく育てられた碧もそのことを理解しており、その場を目撃している。
いかに紫鬼から見れば赤子同前の存在でも、碧は妖狐最強の戦士であり、彼女に勝てる者は妖狐の中は愚か、超越者以外には居ない。
そんな彼女が約束を守ることに拘れば……更には、それを破ろうとするものを許さなければ、妖狐は迂闊に動けなくなる。
皮肉なことに、激情家である碧が約束を破る者を憎み、怒る為、妖狐は己が最強の戦士に怯えなければならない
族長の今までの教育が碧にその約束を破らせることを許さず、結果として脅しの効力を半減させてしまう。
紫鬼は碧を抑止力として利用した訳だ。
「紫鬼は超越者を探す傍ら、既に戦士としての下地はできていた奴を母に宿っていたお前と会合させた。その結果、殺戮者はお前に心酔し、その守護者となることを望むようになった」
「……待て。いきなり話が飛んでいないか? こう、もう少し過程をだな……」
「そうかもしれないが、それが事実だ。今から起こる出来事を、お前の運命を狂わせた者達の生き様をじっくりと見ておくことだ……お前の未来はこの過去にこそあるのだから」
「ああ、そうさせて貰う」
ブルー・シャーマンの言葉に頷くと、一鬼は一つ深呼吸をした。
彼の準備ができたことを理解したかのように世界が歪んでいき、同時にいくつもの情報が、思念が彼の中へと流れ込んでいく。
多くの者の思念が流れ込み、記憶が流れ込み、客観的な事実が流れ込み、混沌を生み出していく。
人間ならば自我が崩壊してしまうであろう程の膨大な情報量と、主観と客観の入り乱れが精神を揺るがすのを彼は感じていた。
しかし、この程度の苦痛に耐えられなければ、これから先に待ち受けているであろうものは受け入れきれない。
それを受け入れることができて初めて、一鬼は己の過去の全てを知ることができる。
全てを受け入れ、飲み込み、己が力に変えていく。感情に変えていく。未来への糧にしていく。
少しずつ熱を孕み始め、痛みすら感じ始めた心臓を押さえながら、一鬼は目の前でこれから起こるであろうことをしっかりと見据えた―――その先に終わりがあることを何処かで感じながら。
碧にとって、母というものは超えるべき壁であり、尊敬すべき存在であり、枷であった。
妖最強の種族とされている妖狐の中でも、七尾に辿り着いた数少ない存在であり、その力は圧倒的だ。
彼女の母……翡翠こそが最初の絶対強者であり、その力は碧が生まれるまでは、他者の追随を許さないとまで言われていた。
そう、碧が生まれるまでは翡翠が最強の妖狐だった……最強の戦士だと言われていた。
だが、それは四本の尾を持って生まれた碧によって大きく変化することなる。
生まれながらにして四つの尾を持つ妖狐は妖狐の歴史上、彼女ただ一人のみであった。
七尾であったという妖狐の祖すら超える八尾になるのではという期待が、生まれてすぐに彼女にかけられるのに時間は掛からなかった。
そして、その期待に応えるだけの能力が彼女にはあったのだ。
彼女が八尾になったのは齢二十二の頃……時を同じくして、妹である白雪が生まれる。
その頃からの彼女はまさしく殺戮者と呼ぶに相応しい、殺戮を齎すのが存在理由と言える戦士になった。
一族の悲願である九尾になることを皆に期待され、彼女もまたそれを目指していたのだ。
殺して殺して、殺し続けて……今やその名は妖の世界において最も有名なものだった。
そして、彼女が齢二十四になる頃、とある話が話題に上がるようになった。
「碧、最近広がっている妙な噂を知っているか?」
「妙な噂?……心当たりがないわ」
「お前は……族長である私の娘なのだから、もう少しそういうことにも気を配れ。取りあえず噂についてだが……最近鬼の一族にちょっかいを出した蜘蛛の一族が滅んだそうだ」
「……鬼如きに、蜘蛛が?」
その日もいつものように母、翡翠と話していた碧は妙な話題に首を捻らせた。
蜘蛛の一族は四尾から五尾相当の力を持つ一族で、四尾相当が限界の鬼如きに滅ぼされる筈がないのだ。
妖の世界では、個々の力の差は人間のそれとは比べ物にならない程に隔絶したもので、妖狐ならば己数一本が約十倍の違いを生む。
つまり、鬼と蜘蛛の間には、凡そ個の間に十倍の能力差があるということだ。
それ程の圧倒的な差を前にして鬼が滅ぼされる処か、逆に蜘蛛を滅ぼしたなどあり得ない。
大方それ以上の力を持つ妖を仲間に引き入れでもしたのだろうと考えながら、碧はそのまま興味を失う。
どちらが勝とうと、八尾である彼女ならば一人で滅ぼせる規模でしかない。
彼女の興味を引く程の強者はそこには居ないのだ。
しかし、そんな彼女を驚愕させる言葉を、翡翠は彼女と同じ目を細めて告げるのだった。
「ああ、しかもそれを為したのは……たった一人の鬼だ」
「……冗談、ではないの? 二百近い蜘蛛を一人で滅ぼすとなれば、六尾程度の力はないと……でも、鬼にそんな力を持つ者が?」
「居る。実は、私も実際に会ってみたんだが……恐らくお前に迫る程の力を持っている」
「私に!?」
「そうだ。私を圧するあの怨念は、間違いなくお前と同等のものだ。何ならこの心臓にかけて誓っても良い」
翡翠の言葉に驚きながら、碧は母の顔を見る。
その表情は真剣そのもので、嘘をついていないことをすぐに彼女は理解した。
おまけに、心臓にかけて誓うとまで言われてしまえば、彼女にはそれを嘘だと笑うこともできない。
母の言う通り彼女と同等の力を持つ戦士が居て、しかもその種族が鬼である……これは非常に驚くべきことだ。
成熟すれば平均して五尾から六尾にまで達する妖狐の中でも、八尾の碧は異端と言える程の力の持ち主だ。
では、四尾が限界である鬼の中で八尾相当の力を持つ者が生まれたならばどうなるかなど……言うまでもなく、異端だ。異端でない筈がない。
その戦士は間違いなく突然変異で生まれた存在であり、人間が言う鬼子に近い存在だ。
その存在は彼女にとってすら脅威になるかもしれない……そう思うだけで彼女は若干の恐れと、多大な期待を抱くのだった。
「分かった。信じるわ……それで、その妖のことはどうするつもり?」
「私としては、できれば一族に招いて飼い殺しにしたい。お前の婿にでも、と思っているのだが……どうだ?」
「む、婿!?……で、でも、まだ会ったこともないのに……その……す、好きになれるかも分からないし」
「だから、今日会う約束をしてある。双方の不可侵を確かなものにする為に、是非とも婚姻は結んでおきたくてな」
「そんな急に言われても……」
困ったような表情で黙り込む碧に、翡翠は苦笑した。
母である彼女からすれば、碧は恐ろしい程に純粋で、歪な存在だ。
その潜在能力に期待していた彼女達は幼い頃から厳しい訓練を課し、怨念を背負う苦痛の余り泣き叫ぶ幼い碧に手を貸してやらなかった。
それでも碧は生き延び、結果として齢二十二にして八尾にまで到達してしまったのだ。
母である彼女ですら七尾に到達したのが二十六の頃であったのを考慮すれば、その才能は圧倒的だった。
碧は既に彼女が生涯で奪った命を優に超えるだけの殺しを行い、怨念を背負い、今や殺戮者とまで言われている程だ。
そんな娘が年頃の女子のようなことを言うのがおかしくて、彼女は笑う。
その力を恐れて妖狐に絶対に敵対しないように教育した翡翠には、碧を見守る権利はないが、義務がある。
教育と生まれ持っての性質の結果、激情家となった碧は日頃は大人しいが、怒ると恐ろしく怖い。
母である翡翠ですら全身が震えてしまう程に圧倒的な力を娘は既に持っていた。
今の碧ならば、一人で妖狐を滅ぼせてしまうだろう……それだけの力が娘にはある。
実を言えば、今回の縁談に関しても碧に首輪をつけるのが目的であって、婚姻そのものには意味がない。
鬼の中に、妖狐である翡翠達には教えられないものを教えることができ、尚且つ碧に匹敵する力を持つ者が居た。
それを利用して、翡翠は娘が妖狐を滅ぼす可能性を完全に潰そうと思っているのだ。
だから、婚姻は形だけでしかない。名だけあれば良い……必要なのは愛ではなく、教育なのだから。
「取りあえず、考えておけ。何も婚姻である必要は無い。例えば、義兄弟の契りを交わすなりしても良いだろう」
「そう……それなら、大丈夫だと思うわ」
「向こうは飽くまで不可侵を求めているに過ぎない。お前という最強の戦士を預けることで、その誠意をこちらも示す訳だ」
「……私が先兵でないという証拠はどうやって示すの?」
「そのことに関しては向こうが考えてくれているようだ。さっさと行くぞ」
「そんな無茶な……」
母のいい加減さに溜息をついて呆れながらも、碧は歩き出した翡翠の後を追った。
彼女は母に振り回されているものの、実際はそれを振り払うことは容易いと自覚している。
彼女が暴力に訴えれば、翡翠は愚か妖狐の全ての戦士を相手にしても、彼女が勝つ。
それでもこうして彼女が振り回されているのは、飽くまでも彼女がそれを許容しているからに過ぎない。
碧は激情家であり、身内には深い愛情を抱き、敵には憎悪を抱く。
そうできている。そうなるように教育された。元々そういう性質を持っていた。
一族や家族に対する愛情が彼女に全てを許容させており、同時にそれが失われた瞬間に掌を返して牙を向く可能性も生じさせる。
彼女にとって一族を第一に考えるのが当然であるからこそ、これまで妖狐は滅ぼされることもなく無事で居られた。
「それで、何処に向かうの?」
「良いからついて来い」
「はいはい」
面倒くさそうに言う翡翠についていきながら、碧はその背中を見つめてみる。
碧よりも少しばかり小さい母の背中は、一族の全てを背負っているとは思えない程に彼女からすれば小さい。
母が一族の命運を背負っているとはいえ、そもそも妖狐を害することができる程の一族が存在しないのだ。
それだけに、碧は母のことを尊敬はするものの、そこまで頼りになると思ったことはない。
彼女の記憶にある母は、いつも彼女に試練を課し、怨念を背負う苦痛に泣き叫ぶ彼女を放置していた。
本当に愛されているのか分からなくなってしまう程に翡翠は碧を厳しく教育し、結果として今の彼女が居る。
翡翠も所詮は一族の族長でしかなく、一族以外のことには無関心なのだ。
今回の話も翡翠にとっては一族の為でしかないことに、彼女は薄々感づいている。
それでも黙ってそれに従う素振りを見せるのは、碧が母を愛しているからに他ならない。
碧にとって一族は皆家族であり、その家族の為に彼女は殺しまくる。奪い続ける。
そうでなければ、彼女は生まれついて持っていた激情で以て一族を排除していただろう。
彼女も既に気付き始めているのだ……妖狐には愛などないと。あるのは欲望だけだと。
翡翠が一族の為に動くのも、彼女が族長だからであって、一族を本当に大切に思っている訳ではない。
彼女の母は義務感で動いている……そこには、愛は感じられなかった。
「あの岬だ。そうら、もう来ているぞ」
「あそこ?……!」
翡翠の言葉に遠くにある岬を見つめた瞬間、碧は驚愕した。
そこには、藍色の髪の毛を風に靡かせて、紫電の眼で彼女達を見遣る男の姿があった。
それだけならば彼女も驚きはしなかったが、その男から漂う怨念は圧倒的過ぎる。
恐らくは彼女と同等の怨念を抱えているに違いない、歴戦の戦士の風格を彼は漂わせていた。
ただただそれに圧倒されながら、碧は母の後に続いて彼の元に向かう。
そのまま少しの間進み、やがて二人は岬に辿り着いた。
「待たせたな」
「そこまで待ってはいない。それよりも……以前話した条件は呑んでくれるのだな?」
「勿論だ。私はこの心臓にかけて、一族に鬼の里を襲撃させないこと、また私自身もしないことを誓おう……お前も、誓ってくれるな」
「勿論だ。この心臓にかけて誓おう……そちらが誓いを破らない限り、私は妖狐に攻め込まない」
「よし……これで、誓いは果たされたな」
何処か安堵した声で言う翡翠に、碧は思わず眉を潜めた。
平然としている口ぶりではあるものの、その仕草のぎこちなさが母の動揺を知らせている。
彼女は確かに目の前で心臓にかける誓いを交わしたことを確認すると、己もそれを遵守しようと心がけた。
例え一族の者であっても、それを破る者は処罰する……組織が健全である為には、そうあらねばならない。
碧達妖狐は基本的に欲望に忠実で、規律などないように思われがちだが、実際は違う。
欲望に忠実だからこそ、彼女達を纏める長はそれを律する力と、規律を必要とした。
どんなに強い戦士であろうとも、どんなに忠実な部下であろうとも、規律を破った者は等しく処罰される。
碧はそれを遵守させる為の力であり、ある意味規律そのものだ。
一族全てを敵に回しても彼女の力さえあれば、滅ぼすことは容易であるが故に、一族の誰もが罰を恐れて規律を守る。
その為に、碧は規律というものを守るように教育されてきた。
だからこそ、彼女には翡翠が今は誓いを破る気はないことが分かる。破らせないと誓う。
だというのに、何故母はそこまで困惑しているのか……その答えは、男の背負う怨念にあった。
碧はいつも怨念をある程度抑えているが、それを目の前の男はしていない。
だからこそ、翡翠はその怨念に圧倒されていたのだ。
「誓いとは、この程度でどうこうなるものではない。宣言は言葉で、証明は行動でする……そういうものだ」
「そうか。それで、お前はどのような行動でそれを示してくれる?……紫鬼」
「そちらが望んでいたものはこちらが提供する……その殺戮者の相手をすれば良いのだろう?」
「……分かっているじゃないか。碧、ご指名だ……後は二人で仲良くやれ」
「えっ? ちょ……」
突然訳の分からないことを言われて混乱する碧を置いて、翡翠は踵を返して歩き出した。
その背中がここに残れと語っていることに困惑しながらも、彼女は紫鬼と呼ばれた男を見遣る。
彼女よりも頭一つ分近く大きいその身長と、それを彩るかのようについている引き締まった筋肉、そして隙の無い身のこなしが、男が歴戦の戦士であることを暗に示す。
鬼の見た目は本当にただの人間と同じで、人間では見分けがつかない。
しかし、妖である碧は、その凄まじい怨念を痛い程に感じていた。
彼女と同等だと翡翠が言ったのも納得がいく程にその存在感は圧倒的で、しかし彼女とは違う。
何が違うのかは彼女には理解できないが、この男は彼女よりもずっと高みに居るような、そんな錯覚を覚え得た。
どのような者なのかはまだ彼女には分からないが、それは話をして見極めれば良い。
彼女にとって、己の同等の怨念を抱えている妖に会うのは初めてで、酷く新鮮だった。
「母があんなのでごめんなさいね。私の名前は碧……妖狐の戦士をしているわ。とは言っても、私を殺戮者と呼んでいるから、当然知っているわよね」
「ああ、殺戮者といえば千を超える妖を殺した者として有名だ。いつかは出会うこともあると思っていたが、よもや、このような形になるとはな。私の名前は紫鬼と言う。これからよろしく頼む」
「ええ、よろしく。それにしても、よく私を娶ろうだなんて思ったわね?」
「娶る?……ああ、お前の母がそう言ったのか。私が求めているのはそういうものではない」
「?……それじゃあ、いったい何を?」
母の言っていたことと違う答えに、碧は疑念を抱いた。
そんな彼女に苦笑しながら、男……紫鬼は去っていく翡翠の後ろ姿をちらりと見遣る。
彼には、彼の言葉を翡翠が都合よく解釈していたであろうことが容易に分かるのだ。
一方で何がどうなっているのか良く理解できてない碧は、そんな彼の態度によって益々訳が分からなくなる。
小首を傾げるその様は実に美しく見え、しかし男はそれを歯牙にもかけない。
最初から興味がないとでも言わんばかりのその眼の色に、碧は気付かない。
「私が求めたのは、花嫁などではない。私の弟を守る者だ」
「弟?……弟さんが居るの?」
「ああ、まだ母のお腹の中だがな。その子の為に、私は強者を探していた。その中で、お前に目を付けた訳だ」
「?……その弟さんの為に、何故強者が必要なのかが良く分からないのだけど?」
碧は紫鬼の言葉をよく理解できないでいた。
彼に弟が居て、その弟がまだ母のお腹の中に居ることは彼女も良く分かる。
何故まだ妊娠しているだけの段階で弟であると分かるのかが彼女には理解できないが、どちらにしろ兄弟が生まれることに変わりはない。
しかし、何故その子の為に強者を探すのかが、彼女には良く分からなかった。
餌とする為なのか、戦い方を教える為なのか……幾つかある可能性を考慮すれども、それが彼女である必要性はない。
態々妖狐と敵対してまで碧を餌とするのはリスクが高いし、恐らく彼女と彼の間にそこまでの差はないと彼女は踏んでいる。
余程のことがなければ、彼女は彼に負けはしないという自信があった。
戦い方を教える為だったとしても、それは紫鬼一人で事足りる筈なのだ。
どのようにして弟を守るつもりなのかが、彼女には今一理解できなかった。
「私が求めているのは守護者……私の弟を守る、守護者だ」
「守護……者?」
「そうだ。弟を守る守護者達を探している」
「分からないわ……その弟さんは、誰かに狙われているの? それなら、貴方はここではなく、傍に居てあげるか、狙っている者を潰しに行くべきだと思うわ」
「今はまだ狙われていない。だが、あの子が生まれた時には、その所在を巡って必ず争いが起こるだろう。その時、あの子を守る力が必要なのだ」
紫鬼の言葉に、その口調に、その眼に、今まで無かった何かが現れるのを碧は感じた。
まだ見ぬ弟のことを見据えているのだろうが、それは一見狂者の行動に見えてもおかしくないものだ。
しかし、彼女はその中に何か共感できるものを見出した。
彼女と同等の力を持ち、怨念を背負っている男が、何かをそこに見出していることに、彼女は興味を持った。
未来を見据えている者は、時として狂っているように見える……かつて彼女が殺したとある妖がそう言っていたのを、彼女は覚えている。
「……その子は、そこまで、強大な力を持っているの?」
「会えばすぐに分かる。お前はあの子に惹かれる筈だ。一族全てを犠牲にしてでも守りたいと思う筈だ」
「どうかしら? 私はこう見えて、一族最優先よ」
「ならば、そのままで居るのが吉だ。お前はあの子に会う必要はない。会ってはいけない……歩む未来が変わるぞ」
「……そう言われると、気になるわね」
肩を竦めながらも、内心紫鬼の弟がどのような存在かを知りたいと碧は思った。
普通ならば、鬼の赤子などそこまで興味を持つ程の存在ではない……鬼そのものが精々中級程度の妖でしかないのだから。
しかし、紫鬼の弟は、碧と同等の力を持っているであろう紫鬼の弟なのだ。
更には、紫鬼がその存在が争いを呼ぶと懸念する程の何かを持っているとなれば、気になるのはある意味当然のことであろう。
仮にここに居るのが碧ではなくとも、余程他者に対して無関心な者でなければ興味を持つ筈だ。
「会わせても良いが、その際には一つ約束して貰いたいことがある」
「何かしら?」
「このことは誰にも言うな……勿論、族長にもだ。言えば、全てが終わる。お前の時間は――そこで止まる」
「?……妖狐に言わなければ良いのね? それくらいなら大丈夫よ」
「その心臓にかけて、誓えるか?」
「ええ、この心臓にかけて誓うわ……私は、貴方の弟さんのことを一族には明かさない」
碧は心臓にかけて、紫鬼の弟のことを一族に明かさないことを誓った。
彼女は一度した約束は絶対に守ると決めている為、その約束を絶対のものとして心に刻んだ。
己の誇りにかけて、約束を違えた時はその心臓を紫鬼に差し出すことを彼女は約束した。
戦士としての矜持と、妖狐としての肥大した虚栄心あってこそ、彼女はそうすることができる。
妖の世界において、心臓にかけて何かを誓うことは絶対的な誓いをすることである。
本来ならば、このように熟考もせずに気楽に誓って良いものではない。
しかし、碧は今までこの誓いを一度も破ったことはなかったので、即断したのだ。
そのことを紫鬼が知れば、愚行と笑っただろう。妖狐などそのようなものだと軽蔑しただろう。
碧が下した判断はそれ程に軽率で、元来あってはならないものだった。
「随分と簡単に決めるな……その誓いはそう安いものではない。易いものでもない。お前は、本当に一族の命運を背負う戦士なのか?」
「ええ、そうよ。私が、妖狐最強の戦士。貴方が鬼最強の戦士であるように、ね」
「……まぁ、良い。一度くらいは会わせてやろう。二度目についての保証はしないが。ついて来い」
「二度目は保証しない、ですって?……どういう意味?」
身振りでついてくるように告げる紫鬼の後に続きながら、碧は疑問を口にした。
一度目を許しておきながら二度目は許さないというのは、少々おかしい。
彼女と弟の接触を恐れるのならば、一度目すら許してはいけない筈だ。
だというのに一度目を許してしまうのは、余りにも軽率な判断だと彼女には思えた。
紫鬼は、見た目や雰囲気は慎重さを感じさせるが、実際はそうではないようだ。
彼女は先の己の判断を棚に上げている訳ではないが、それでもやはり紫鬼の判断の理由を分かりかねていた。
ただ話を聞いているだけのふりをしながらも、彼女は内心罠の存在を覚悟する。
一度だけ許すという言葉は、二度目を許さないのか、もしくは二度目がそもそも存在しないかの二通りにとれるのだ。
後者であれば、彼女は誓いを破ってでも生き残らなければならない。
一族最強の名を背負う彼女は、敗北してはいけないのだ。
「その通りの意味だ。お前とあの子の反応次第で全てを決める。場合によっては、二度目は許さない。不可侵の約束は守るが、もう一つの約束は即刻無効にさせて貰う」
「もう一つの約束?……」
「なんだ。聞いていないのか?……なら、族長に直接聞くことだ。私から話すのは契約違反なのでな」
「?……分かったわ」
「それで良い」
紫鬼は仏頂面のまま碧の返答に頷くと、一気に上空に跳躍した。
碧もそれに続いて大きく跳躍し、膨大な量の風を一身に受け、遂には音の壁を破る。
地面は遥か下に存在し、全てが小さく見えるが故の全能感が、彼女の脳裏を過った。
誰もが空を飛びたいと願う。翼を自由の象徴だと感じてしまう。
しかし、彼女達に翼などない。必要ない。
上級妖ならば羽などなくとも、その足で空を駆け、縦横無尽に駆け巡ることができるのだ。
特に他の追随を許さない自負を持つ碧の身体能力は、まさしく翼を持っているも同然の機動力を齎す。
その最高速度は音を抜き去り、後の時代に登場する戦闘機にすら匹敵する。
上級妖の中でも格段に頑丈な肉体と、それを維持する膨大な怨念あってこそ、成せる業だ。
紫鬼はそんな彼女についていく処か、寧ろ引き離せてしまいそうな程の速度で進む。
彼が彼女と同等の力を持っているのはもはや明白で、平然と音速を超えていた。
己と同等の力を持つ者の存在が妙に嬉しくて、更にはその存在が気に掛ける存在が気になって、彼女は微笑んだ。
新緑の眼を細めながら、彼女は空をかける。ただただ期待で胸を膨らませて、まだ見ぬ幼子との会合を望む。
「ふふ……」
碧はただただ笑う。まだ見ぬ幼子がどれ程の存在かを楽しみにして。
彼女と同等の力を持つであろう紫鬼が命がけで守ろうとする存在となれば、彼女達すら超える存在なのかもしれない。
そう考えるだけで妖狐としての彼女は嫉妬を覚えてしまうが、個の妖としての彼女はそれを喜んだ。
ただただ九尾を目指し続けた彼女は、持つべき目標が余りにも曖昧過ぎることに内心辟易していた。
紫鬼の弟はそれを明確なものにすることが可能になる程の存在かもしれない。
彼女と同じ妖の世界においてほぼ最強であろう者が命をかけてでも守ろうとする者がどのような者なのか、彼女には興味があった。
妖の世界に大きな戦いを齎すと彼が言った子がどのような子なのか、彼女には興味があった。
もしかしたら、彼女はその出会いを通して大きく成長できるかもしれない。見失いかけている目標を確かなものにできるかもしれない。
三十キロは進んだであろう頃に、漸く紫鬼は減速を始め、数十秒後に停止した。
それに次ぐ形で碧も空中で停止し、眼下に広がる樹海を見据える。
最初はただの樹海でしか存在しなかったが、目を凝らすことで彼女はその中に里を見つけた。
その里は恐らく下級の妖では視認することもままならない結界に囲まれて、光を屈折させている。
「結界を使って、下級の妖が迷い込むのを防いでいるのね」
「やはりお前には効かないか。鬼は穏健だが、同時に争いの火種を嫌う傾向にある。ここにやってくる下級の妖は皆その火種である場合が多い」
「成程……」
碧はただただ闘争のみを求めた為、結界というものに関してはてんで駄目だ。
しかし、膨大な量の怨念を背負う彼女には結界などは通用しない。
絶対強者というものは結界を破壊することができて当然で、最終的に行き着くのは拳による闘争なのだから。
そもそもが、結界そのものが飽くまで弱者に対する一種の配慮でしかない。
結界は『ここに近づいてはいけない』という一種の警告だ。
結界がある場所は、力のない者が下手に近付かないようにするのが目的であって、閉じ込めることではない。
人間が進行に置いて聖域を生み出すのと同じで、守るべきものがあって結界を作るのだ。
中に入れたくない弱者が居るからこそ、結界を作るのだ。
対象が内側に居るか否かは置いておいて、弱者を遠ざけることが目的であることに違いは無い。
つまり、強者しか存在しない世界で戦う碧達には無縁の技術であるということだ。
規模としては数百人居るか居ないか程度であろう鬼の里を見下ろしながら、彼女は鬼が弱者であることを改めて理解した。
いかに四尾相当の力を持っているとしても、結界を必要とする時点で弱者に配慮し過ぎている。
妖狐はそのようなものは基本的に使わないし、必要すらない。
そんなことを考えている碧であったが、不意に紫鬼の横を何か光の筋のようなものが通り過ぎるのを目撃した。
「……!」
「どうした?」
「今、貴方の横を何か光が走ったような……気のせいかしら?」
「気のせいかもしれないな。とにかく行くぞ……あの子が待っている」
「え、ええ……」
一瞬ではあったが、確かに彼女は光の軌跡を目撃した。
それが何だったのかは彼女には理解できないが、幻などではないと断言できる。
紫鬼はそんな彼女に対して、気のせいかもしれないと言いはしたものの、否定はしない。
どうでも良さそうに言うその様子に、彼女は若干の理不尽さを覚えるが、これから出会うであろうまだ生まれていない子のことを考えて、思い留まった。
ここで紫鬼に手を出せば、間違いなく彼は碧と応戦することを選ぶ。
更には、彼の弟であるという赤子には合わせてはくれないだろう。
勿論彼を倒せば会うことは不可能ではないが、そこまでして強硬手段に走る必要性は皆無だ。
そもそもが、今の碧には紫鬼の弟を特定する術は無い。
妊娠している女性が一人しか居なければすぐに分かるが、数百人単位の集落ではそうも行かないだろう。
紫鬼の機嫌を損ねないように気を付けて、彼女はその後に続いた。
「既に里の者達に話はしてある。警戒はされないだろう」
「そう……それを聞いて安心したわ。自分の一族ですら怯えてしまうことがあるくらいだもの」
「それは妖狐の在り方に問題があるのだろう。妖狐は心の底では他者を信用しない。例え同族であってもな。奴らは他者と繋がることができない。常に孤独な、哀れな存在だ」
「……随分とはっきりと言ってくれるわね、それは、私にも言えることなのかしら?」
「今はまだ定かではないが、恐らくそうだろう。お前も本質は変わらない。しかし、大切なのはその本質の上に積もっている経験がどう生きるかだ。それさえあれば、変わることはできる」
碧は紫鬼の言葉に内心イラつきながらも、しかし同時に納得もしていた。
妖狐の一族を大切に思っている彼女ではあるが、妖狐が虚栄心や欲望に忠実なだけで空っぽであることは理解している。
紫鬼の言葉はどうしようもなく正しい。妖狐の本質は空虚であって、強欲はそれを覆い隠す為のものでしかない。
しかし、碧は己だけは違うと思っていた。一族を守るという目的があり、九尾を目指すという夢がある。
だが、その夢である筈の九尾という目標があやふやで、不確かなものである時点で満足な反論にはならない。
彼女が必死に紫鬼の言葉を否定しようとしても、現状を振り返れば振り返る程に、それが正しいことを彼女は自覚してしまう。
そうして追い詰められた彼女が選ぶのは逃げの一手である。
己が最強の戦士だと言い聞かせ、妖狐は強者なのだと言い聞かせ、その空虚さから目を逸らす。
それを鼻で笑う者達の存在も知らずに、妖狐である彼女はそうする。
「貴方はどうなの? 貴方は空っぽではないの?」
「私の夢は、既に決まっている。守るべき存在を守る……それだけだ。守ることこそが、私に与えられた使命だ。夢そのものだ」
「……守る、ねぇ。貴方は本当にそれが自分のとるべき道だと思っているの?」
碧は紫鬼の強い意思の籠った眼を見て、思わずそう問うた。
確かに夢というものはそれぞれで異なるが、いくら何でも守ることを夢だと言うのは彼女には理解し難い。
彼女にとっての夢とは何かを得ることであり、既に得ているものを守ることではないのだ。
守りに入ってしまうということは現状維持を望んでいるに過ぎず、それは結果として現状維持に繋がらない。
維持しようとすれば落ちていくだけなのは決まっている。昇ろうとしなければ落ちていくだけだ。
碧にとって紫鬼の言う夢はただの戯言でしかない。
夢というものがあやふやになって迷っている彼女が言えたことではないが、彼の夢は歪だ。
既に存在するものを守ろうとする者は得てしてそれに執着し、依存している。
それを失うことを恐れているだけで、それそのものを大切に思ってない場合も多い。
ただ維持することにばかり意識が行って、本当に大切なものを見失う可能性が高いのだ。
それと同じ道を紫鬼が辿っているのではないかと彼女は思っていた。
「ああ、そう思っている。守ることこそが私の本質であり、守るべき存在を私は生まれた時から知っていた。天啓とは確かに存在する……選ばれた者のみが、それを受け取ることができるのだ」
「……貴方、狂っているわね」
「何を当然のことを。超越者は須らく狂うべきなのだ。それが超越することであり、あの子に選ばれるということだ」
「超越者?……貴方は何を言っているの?」
「お前もいつの日か分かるだろう……己が本当の夢が何なのかを」
「……私の本当の夢?」
碧の言葉に対して紫鬼は少しも揺るがない。
それどころか、誇らしげに狂っていることを肯定し、それが当然の結果だと言い放つ。
いつの時代も正気と狂気の定義は一定ではないが、狂っている者は等しく一種の恐怖を感じさせる。
出会った瞬間に、第六感がその危険性を警告するのだ。心を死へと向かわせ得る脅威だと認めるのだ。
紫鬼からは狂気を感じないが、しかし彼が狂っていることを碧は確信した。
大抵の狂気というものは雰囲気に滲み出るものだ。
かといって隠そうとすれば、それは歪さを生む。明らかに何かが欠けているのが分かってしまう。
一見完璧に見える者がその裏で多くの歪みを抱えているのは、そういうことだ。
元来全ての存在は生まれながらにして限界があり、長所があり、短所がある。
完璧な精神を持つ者など人間は愚か、妖の中にも居ない。
そういったものを持っているかのように見える者は居るが、そこに確かな歪が生じる。
元来ないものをあるように見せているせいで、そこに歪が生じるのだ。
虚無をそうではないと錯覚させようとして、それが錯覚であると教えてしまうのだ。
しかし、紫鬼にはそれがない。本当にただありのままに、全てを話している。
碧はその意味深な言葉に疑問を抱きながら、同時に恐怖した。
目の前の男はそのような一種の真理を超えた存在なのだ。
「この話を理解できた時、お前は扉を開けるかもしれない。ああ……あの家だ。私の両親は鬼の一族の長をしていてな。お前と私の立場はそれなりに似ている」
「え、ええ……」
話を中断すると、紫鬼は何事もなかったかのように里の中央にある屋敷に向かってしまった。
その後に続きながら、碧は内心混乱しそうになる己を必死に律する。
紫鬼の言葉はまるで意味をなさない言葉の羅列に過ぎないと己に言い聞かせ、理解することを放棄する。
そうしなければ己の中の何かが変化してしまいそうな気がして、彼女はただただ恐ろしかった。
紫鬼の言葉は碧には理解できない……その事実だけを彼女は見ることにする。
言葉を理解できないので、結果として痛みを感じることはない。揺らぐことはない。
そう、理解できない言葉はただの雑音でしかない。ただ聞き流せばよい。ただ聞き流すのだ。
彼女はそうすることで、理解できないにも関わらず、何故か彼女の心に突き刺さる言葉から逃げる。
受け入れる必要はないと言い聞かせ、己の理解できないものから目を背けた。
「……フッ」
一瞬、ほんの一瞬だけだが……そんな彼女を横目に見て紫鬼は鼻で笑った。
息をするように行われたその行為に碧は気付かず、彼の後に続いて空から屋敷の門の前へと降り立った。
彼女がそのまま中に入っていく紫鬼の後をついていくと、中庭の縁側に行き着く。
そこには、何処となく紫鬼と似た顔つきをした女性が居た。
一目で身重であることが分かるその女性は穏やかそうな笑みを浮かべて空を見ている。
女性は暫くの間空を見上げていたが、やがて紫鬼の存在に気付いたのか、碧達の方を向いて微笑んだ。
碧からすればただの弱者の一人でしかない鬼が、一万倍以上の力を持つ彼女を前にして微笑んでいる。
それが何処か不思議で、彼女はむず痒い感覚を覚えた。
そんな彼女と紫鬼を交互に見遣りながら、女性はゆっくりと口を開いた。
「おかえなさい、紫鬼。その子が貴方の言っていた、この子を守ってくれるかもしれない子ね?」
「はい、そうです。母上……どうか、この娘にその子と触れ合う機会をお許しになってくれはしませんか?」
「ふふ……勿論良いわよ。金虎さんみたいに、この子のお友達になってくれるのなら、大歓迎だもの」
愛おしげにお腹を撫でる女性の姿に、碧は母性を見出す。
彼女の母からは感じることのできなかったものが、そこには確かにあった。
母性など、彼女はいつの間にか求めなくなっていた。存在しないと思い込もうとしていた。
しかし、母親の顔を見せる女性を前にして彼女はそれを思い出す。
母性という、言葉でしか知らないものが確かに存在するのだと、感じる。
そして、同時にそれを一身に受けているであろうお腹の子に碧は嫉妬を覚えた。
己が抱えている感情がいかに子供じみたものであるかは彼女自身が一番良く分かっている。
しかし、妖狐が生まれ持つ空虚さと嫉妬深さは留まるところを知らない。
まだ名前も与えられていないであろう赤子にすら嫉妬する己を恥じながらも、止まれないのだ。
それこそが、妖狐の持つ性であり、彼女が忌まわしく思う業でもあった。
だからであろうか?……ただ何となく彼女は女性が紡いだ聞き慣れない言葉をオウム返ししてしまう。
「じんふー?」
「気にするな。それよりも触れてみろ……お前に資格があるのならば、分かる筈だ」
「その……本当に良いのかしら?」
「ええ、良いわ。この子に触れてやって頂戴……きっと喜ぶから」
「母上もこう言っている。触れてみろ」
「それじゃあ、お言葉に甘えて……」
碧は心の中に渦巻くものを振り払い、ただ目の前の女性のお腹へとゆっくりと手を伸ばした。
力の差があり過ぎるが故に、下手に力を入れて壊してしまわないようにゆっくり伸ばした手は、やがて女性のお腹に触れた。
次の瞬間、掌から伝わって来た膨大な力に彼女は驚き、後退してしまう。
そんな彼女に優しい笑みを向けながら、女性は和らかな手でそっと碧のゴツゴツとした手を掴み、ゆっくりともう一度お腹へと導く。
触れた瞬間に再び膨大な力の奔流を感じるものの、今度は碧も驚くことなくそれに身を委ねた。
恐ろしい程に圧倒的なその力の奔流は彼女や紫鬼すら上回り、彼女の脳裏に九尾の二文字が浮かぶ。
目指すべき高みがどこに存在するのかが今まで彼女の中では不明瞭だった。
しかし、それも今日この瞬間、彼女の中で明確なものへと変わる。一つの実態を持ったものへと変わる。
そして、同時に―――彼女は止めどなく溢れだす感情と、涙に襲われた。
「あ……あ……」
「光……それがこの子。闇……それが私達。覚えていて……夜の後には夜明けが待っていることを」
「……ああ……ああああああ」
「おめでとう。貴方は一先ず選ばれたわ……私達の大切な子に。闇をより濃くする光に」
碧はただただ言葉にならない声をあげて泣いた。
制御できなくなる感情を圧倒的な力がそっと包み込んでくれるのを感じて、彼女はただただ感涙に咽ぶ。
感動の余り感情が制御できなくなり、孤独さ故の虚無が、恐怖が、寂しさが、消えていく。
掌越しに伝わってくる暖かい力に、そこから聞こえてくる微かな子守唄に、彼女は圧倒されることしかできない。
紫鬼が何故運命が変わってしまうなどと語ったのかが、彼女には良く分かった。
この力は凄まじ過ぎる。優し過ぎる。一度味わえば、忘れることなどできる筈がない。
妖狐がこの力を知れば、嫉妬深く強欲な彼女達は動き始めるだろう。光を手に入れようとするだろう。
だが、彼女はそうするつもりはなかった。黙っていれば、この光を独占できると直感で理解したからだ。
彼女もまた妖狐であり、嫉妬深く強欲であることは変わらない。
碧は心の奥底に潜んでいた何かが芽吹いたのを感じ、同時にこの光を独占したいと願う。
己に道を示してくれる上位種の存在を知ってしまったが故に、彼女は依存してしまう。
二度目を望んでしまう。誕生を心から願ってしまう。拒絶されることを恐れてしまう。
そうやって己の中で荒れ狂う醜い心すらも光は癒し、彼女を包み込んでくれる。
何処にも行き場所を見いだせなかった戦士に、新たな道をしめしてくれる。
だから碧はただ咽び泣いた……その光を守ることを誓った―――その守護の先に独占があることを願って。




