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虹色の肋骨  作者: 修羅場ーバリアン
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第一四話




 深夜、鳴り響くパトカーのサイレンの音に、少女は目を覚ました。


 眠気の抜けない眼を擦りながら何が起きているかを確認しようとするものの、一瞬で意識を刈り取るかのように襲い掛かってくる眠気……いや、疲労にそのまま再び横になる。

覚醒しきらない頭は彼女が現在何処に居るのかすらも思い出させることなく、彼女が夢の世界に向かうのを許す。


少女は現在家族と共にゴールデンウィークを利用して旅行に来ていた。

現在彼女が居るのは安上がりのホステルで、同じ部屋で両親も同様に寝ている。

今回の旅行では、彼女達は主に文化財を博物館で見、その傍らで郷土料理に舌鼓を打っていた。

この旅行は酷く楽しいものである筈なのだが、しかし彼女達は心のどこかでそう思えずにいる。


 理由は、彼女達が滞在している近辺で起きている失踪事件だ。

元々彼女達が住んでいる町でも毎日のように数十人レベルの人間が失踪し、後にその遺留品が発見されていた。

それが、現在彼女達が滞在している場所でも起きている。それも、今回は規模が圧倒的に異なるのだ。


 昨日は百人レベルで人間が消えたというニュースが流れた。




「ん……」



 少女の日に焼けた健康的な肌を彩る艶やかな黒髪が、風に合わせて揺れる。

そこで彼女はいつ窓を開けただろうかと夢心地のまま疑問に思い、ぼやけた視界の中心に窓を捉え……見た。

そこに立つ鳥のような顔を持つ何かを。風になびくマントの下から垣間見える機械的な肉体を。

彼女はそれを夢だと断定すると、再び目を閉じてそのまま夢の世界へと意識を埋没させていく。


 彼女はまだ中学生だが、夢と現実の区別くらいはつく。

そのようなものが現実に存在する筈がないことも、存在してはいけないことも分かっているのだ。

人間の想像力は逞しいもので、時にはそんな夢を見ることも彼女は知っていた。

だからこそ彼女はそれを夢だと断定し、眼を閉じる。




「……幼子よ、何も知らずに眠れ。この世界には、知らない方が良いこともある」



 エコーがかかった声が聞こえた頃合いに、彼女の意識は現実から消えた。
















 佐村敬吾は思わず溜息をついた。


 ゴールデンウィークといえども警視である彼に休暇がある筈もなく、今日も彼は務めを果たさねばならない。

しかし、そのことは彼にとってまるで苦ではない。もう何十年も繰り返してきたのだ。苦しくは無い。

元々昔からの守るということを重視していた彼は、己の使命を誰かを守ることだと考えていた。

彼は親友である神谷明と同じく、誰かを守る精神を受け継いだ男だ。


況してや、毎日のように数十人の被害者を出す連続猟奇殺人が起きている町で、彼が非番になるようなことがあってはならない。

既に事件の管轄は遷移しつつあるが、丸投げしていては彼が一鬼と取引した意味がないこともある。

いつもならば、さっさと答えを導き出す筈の青年に未だに動きが無いことが、彼には不吉であった。




「あいつらしくもない……猟犬の嗅覚が鈍った訳でもなかろうに」



 敬吾の知っている神谷一鬼の直感と、それを証明する証拠への嗅覚は半端なものではない。

その能力値を考慮すれば、一鬼はとっくに犯人に辿り着いていなければおかしいのだ。

だが、まだ連絡がない已上、彼は一鬼が犯人にやられた可能性を彼は考慮せねばならなかった。

もしもそうなれば、最強の猟犬すら退けた犯人を追いつめる為には、人海戦術でもなければ無理だろう。




「警視。あれから、例の青年から連絡はありましたか?」


「いや、まるでない。もしかしたら犯人にやられでもしたのかもな」


「警視……確かに彼は私から見ても少々異質でしたが、その言い方はあまりでは?」


「お前はあいつのことを何も知らんからそう言えるんだ。実際あいつは俺が知る限り最高にして最強の猟犬だ」


「猟犬、ですか……?」



 敬吾の言葉に、彼の右腕である男は思わずそう問い返した。

それに静かに頷きながら、敬吾は過去に一鬼の協力を得た事件の数々を思い出す。

彼は今まで数々の事件を解決してきたが、その中でも難事件と言われるものには凡そ一鬼が関わっている。

それこそ、最後に彼が事件を解決できたのは一鬼と言う猟犬の存在が大きい。


 一鬼は言葉では説明できない嗅覚を持っていて、こと殺人事件に関してその嗅覚は圧倒的な精度を誇る。

まるで死者の怨念を辿って犯人に辿り着いているのではないかと思ってしまう程に、命が奪われた事件に関しては最高の猟犬ぶりを発揮するのだ。

それ故に今まで敬吾は一鬼を利用してきた訳だが、そろそろそれも限界が近づいてきていることを、彼も実感していた。




「そうだ。あいつはこと殺人事件に関しては他の追随を許さない猟犬ぶりを発揮してくれる。まるで死者の怨念に導かれるようなオカルトさを感じさせる程に、凄まじい猟犬ぶりをな。二年前に隣の町で起きた殺人事件を覚えているか? 西洋人形を現場に残していたあれだ」


「ああ……あの厄介な事件ですか。確か、犯人が西洋人形を現場に残していたにも関わらず、そこから追跡できなかったのを、警視が居場所を突き止めて捕まえた筈ですよね? 結局犯人は、ガイ者に何年も前に娘を殺された父親で、その娘が大事にしていた人形をそこに残しただとか」


「そうだ。あれは胸糞が悪かった。俺もまさか、数年前から一度も開封されなかった人形を、復讐を遂げた証としてその場に残すとは思っていなかったからな。その犯人の居場所についてだが、正確には俺が突き止めた訳じゃない。あれは、あいつにやらせたんだよ。当時まだ高校生だったあいつが、犯人の居場所を特定したんだ」


「っ!?……あの証拠がまるでない状態からどうやって、ただの高校生が?」


「生憎、あいつはただの高校生じゃなかった。言った筈だ……俺が知る限り最高にして最強の猟犬だと。あいつはそこから数日で犯人を特定して、俺に知らせてくれたよ」



 敬吾は当時のことを思い出して、苦虫を噛み潰したような表情をする。


思い出すだけで一鬼の異常性を理解できてしまい、それを利用していた己の迂闊さを呪う。

神谷一鬼はその父である神谷明から守護者の精神を受け継いでいることは彼も知っていた。

しかし、それがなかったならば彼が多くの殺人事件に一鬼を関わらせてしまうのは、最悪の殺人鬼を生み出す危険性を孕んでいたのだ。

いかに化け物じみていても親友の息子だからという甘えが何処かにあったのを、彼は否定できない。


 親友とその嫁の息子に対する教育がいかに素晴らしいものであったかを実感した敬吾は、同時に罪悪感も抱いた。

いくら一鬼が能動的に事件解決に協力してくれたとはいえ、それにつけこんで親友に断りもなく息子を危険に晒すのは余りにもナンセンスであろう。

そのナンセンスなことを彼はしでかしてしまった訳だが、それを助長してしまう程に一鬼は優秀過ぎたのだ。


 それも、今の一鬼を見れば一目瞭然であろう。

今の一鬼は齢十九にして、長年様々な事件に関わってきた敬吾が死を感じる程のプレッシャーを放てるのだ。

それこそ、今まで彼が出会ってきた様々な凶悪犯が可愛く見える程に、その重圧は恐ろしかった。

それ故に彼は一鬼を危険視し、それでもまだ不完全だと言い張る様に呆れる。




「しかし、いったいどうやってそこまで辿り着いたんですか?」


「一言で言えば、嗅覚だ」


「嗅覚……?」


「ああ。俺もお前と同じ疑問をあいつにぶつけた。その時、あいつはこう言ったんだよ……『人形の怨念と被害者の怨念があの人に向かっていた』とな。あいつはその怨念とやらを辿って犯人に辿り着いたそうだ。まさしく、猟犬だろう?」


「怨念……ですか。なんともまぁ、オカルトな話ですね。そんな非科学的なことを言うようには見えませんでしたが……心理テストの方は?」


「事件に関わる度に受けさせているが、特に異常はない。精々、自己評価が低過ぎるくらいの特徴しかなかった。あの能力で自己評価が低いだなんて、それ以下の能力しかない者達を嘗めているとしか思えんが、そこは今は関係ない話だ」



 敬吾は苦笑しながら、己がいかに愚かなことをしたかを今更ながら実感していた。


一鬼は確かに心理テストなどの上では、ただの自己否定が強い人間でしかないが、今の彼と相対すればそのようなことはないことが分かる。

以前はなかった自信を持ち、以前にも増してその存在感は強くなり、確実に人間の領域から外れているのだ。

『同類』が傍に居ると一鬼は依然彼に言ったが、その『同類』が原因の一端を担っているのは間違いない。


 一鬼は元々敬吾が危惧していたような殺人鬼の道に進みはしなかった。

しかし、それと同時に彼が恐れた『鬼になれる男』への道に進み始めてもいるのだ。

このまま行けば、神谷一鬼は完全に人間としての道を外れて、それ以外の存在と化してしまうだろう。

たった一度の対峙で、彼はそれを悟った。悟ってしまった。

親友が手塩にかけて育てた息子を、彼は死と隣り合わせの世界に触れさせてしまい、結果としてより人間離れさせてしまった訳だ。


 『同類』とやらさえ現れなければ、まだどうにかなっただろうが、過ぎたことを悔やんでも何も変わらない。

どんなに否定しようとも、その変化の一端を敬吾が担ってしまったのは確実だ。

親友である明も既に気付いている……一鬼は本当に強くなった。否、強くなり過ぎた。

しかも、その強さは他者を突き放す強さであり、決して惹きつけるものではない。

その手が血に染まっても構わないという、ある種の麻痺が既に一鬼にはある。


 その強さは……その麻痺は、彼をいつか本当の鬼にするだろう。




「今回の事件も彼に協力をして貰っている、ということですか?」


「そうだ。察しが良いと話が速くて助かる。で、だ……もう犯人を見つけている筈なのに、連絡がない。これは、もう既にやられているのかもしれんな、と思っていた処だ。今回の犯人は別格過ぎる。あいつだけでは本当に死ぬかもしれない」


「警視……冗談でもそういうことは言わないでください……特に皆の前では。そんな私情丸出しの発言は、指揮に関わります」


「安心しろ。こんなことはそうそう言わん。それよりも、沖縄の方で起きたらしい連続失踪事件を知っているか?」


「はい。同期が沖縄勤務なので、概要を聞いてみましたが……全く同じです。間違いなく同一犯か模倣犯ですね。ただ、模倣犯なら同等の能力の持ち主になりますが」



 部下の言葉に敬吾は一鬼が連絡を寄越さない理由を悟り、静かに溜息をついた。


犯人が既に沖縄に行ってしまったことを一鬼は知っていた筈だ。だというのに、それを連絡しなかったということは、一鬼が直接手にかけるつもりである可能性がある。

最初に一鬼は彼に『逮捕には協力できないが、犯人を止めることはできる』という旨の宣言をしていた。

詰まる所、今回の事件で一鬼は完全に人間から外れようとしているのだ。


 敬吾は己が一鬼に最後のリミッターを外す切掛けを与えてしまったことに気付き、僅かながら絶望を感じてしまう。

己の親友の息子が、彼のせいで人間を辞める機会を得てしまったのだ。

明に何と言って謝れば良いのかと考えるだけで、彼は陰鬱な気分になってしまう。

まだ一鬼は実行には移っていないだろが、兎に角居場所を確認する必要がある。


 彼はすぐさま携帯電話を取り出すと、一鬼の携帯に電話をかけることにした。











 一度睡眠をとり直し、改めて起床した後にパソコンでニュースを確認した一鬼は、想像以上の被害を藍色の妖が齎したことに驚愕していた




「……なんだ、この数は?」


 画面に表示された千に及ぶ数字に、思わず彼は息を呑んだ。

たった三日程度で千人もの人間を食ったなど彼には信じられなかったが、しかしどの新聞社のサイトを見ても、同様の数字が表示されている。

警察からの発表もいくつかのサイトであり、更にはSNSなどを確認すれば、現場の近くの住民達の混乱が理解できてしまう。


 ここまで証拠が揃っていて、それを否定するのは幾ら何でも無理がある。

一鬼はブルー・シャーマンの言った通り、本当に藍色の妖が千を超える被害をたったの数日で出したことに驚いてしまった。

これ程までの被害がたった数日で出た例は無い筈なので、間違いなく今世紀最大の事件となるだろう。

ここまで大それたことができるのならば、やはり宿主と協力関係にあるか、純粋に行動半径が広いか―――或は両方の条件を満たしている。


 一鬼は改めて、今回の相手が本当に面倒であることを理解した。




「碧、どう思う?……俺の見立てでは、既に俺達では手に負えないレベルになっているのだが」


「……いえ、まだ私の手に負えない相手ではない筈よ。ただ……ここまで派手に暴れるということは、何か隠し玉があるかもしれないわね。そうでもなければ、目立つような真似はできないわ」


「確かにそうだな。俺ならもっと慎重にやる。他の妖の関心を引くのは間違いないからな」


「私もよ。いくら妖が同じ妖でしか倒せないとはいえ、肝心の宿主はただの人間だもの。こんなやり方をしていたら、すぐに特定されるわ。宿主さえ特定できてしまえば、暗殺は容易よ」



 碧の言葉に静かに頷きながら、一鬼は現状を再確認することにした。

藍色の妖は無作為に人間を食らっていた為、一鬼達はこの町での行動範囲をほぼ把握していた処だ。

その範囲で追い詰めれば、必然的に宿主に辿り着くことはできるようになる。

いかに足が速かろうとも、一鬼と碧のコンビならば追いつくことは然程苦ではない。


 藍色の妖は宿主を中心にかなりの距離で行動可能か、宿主と協力関係にあるか、もしくはその双方が考えられる。

しかし、ここまで人間を殺しているのならば、それを何とも思わない人間など限られてくるのだ。

一鬼ならば一目見れば、その身に宿る怨念から宿主を特定できるだろう。

それが無理な場合は、イエロー・レディーの時のように妖のみが勝手に行動している場合だ。


 一鬼は藍色の妖に関してはこれに当てはまると考えていた。

そうなると、人間ではその機動力についていけないであろうことは容易に想像できる。

だが、既に上級妖の領域に居る一鬼ならば、空中を足場にすることでそれに追いつくことができる筈だ。

機動力は彼が補えば良い……戦闘は碧の協力も得られる為、いかに上級妖であったとしても負けはしない。


 だからこそ一鬼は、藍色の妖が彼と碧だけではどうしようもない超越者になる可能性を危惧する。




「しかし、碧のような強力な上級妖ならば話は別だろう?」


「……一鬼、そうやって私を試すのは構わないけれど、余り無駄な遊びはどうかと思うわよ? 守ることは傷つけるよりもずっと難しいわ」


「……そうだな。確かに、俺は答えを知っていて敢えて聞いた。俺が藍色の妖なら、絶対にあんなことはしない。宿主を特定されてしまえば、どうしようもないからな。例えば俺なら宿主を特定すれば、佐村さん達警察と協力して宿主を追い詰めることができる。結局、宿主さえ潰せば『虹色の肋骨』など簡単に潰せるのは変わらない」


「ええ、まさしくその通り。宿主さえ潰せば、後はどうにでもなるのよ。だから、宿主が特定される危険性を増すような藍色の妖の動きには、それ相応の自信が伴っている筈なの」


「ああ、分かっている。その自信がもしも『超越』に関係するものならば……ブルー・シャーマンの助けが必要だ。どんな力を使ってくるか分からない已上、確実に仕留めなければ」



 一鬼も碧も藍色の妖の行動の背後に絶対的な自信が存在することを感じ取っていた。


紫の妖、ブルー・シャーマン、碧と圧倒的な能力の持ち主を前にして、その自信が保たれる理由は、彼らが思いつく限り一つしかない。

この世界に愛された妖だけが辿り着く領域……超越者に、藍色の妖はなるつもりなのだ。

そして、それが達成されるという自信があるからこそ、超越者を敵に回す危険性を前にしても、大胆な行動ができる。


 若しくは、超越者達が敵に回らないという確信を得ているのかもしれない。

しかし、その場合は超越者のことを深く知っている者だけに限られる筈なので、ブルー・シャーマン達にも正体は筒抜けになる筈だ。

ブルー・シャーマンが嘘を言っていない限り、藍色の妖と蒼炎の超越者の間に関係は無い。

もしも嘘を言っているのだとすれば、一鬼はブルー・シャーマンが敵に回る可能性も考慮せねばならなくなる。


 そうなれば、彼が生き残るには愛梨を殺すしか道がなくなる。

だが、それには多大な痛みが伴う。大切な存在を、守ると決めた女性を己の手で殺すことは、辛い。

いかに彼が最優先するのが美空であったとしても、それ以外の価値は零にはならないのだ。

美空を守る為には、最悪愛梨を切り捨てる痛みに耐えなければならないことを彼は理解している。

彼はいざとなれば、尊敬するブルー・シャーマンも、大切だと思う愛梨も、羽月も、碧も、全てを葬る覚悟をしていた。


 彼は己自身すらも葬ってでも、家族との絆を守ることを誓ったのだから。




「癪だけど、仕方ないわね。生前の私なら一人で挑んだけれど、宿主が居る已上そうはいかないもの」


「済まないな……足を引っ張ってしまっていることは自覚している」


「良いのよ。貴方は、まずは完全に目覚めることを優先しなさい。貴方が強くなればなる程、私にも利益があるのよ」


「ああ、そうさせて貰う。そう言えば、昨日は結局訓練をできなかったな。悪いが、今日も手伝ってくれるか?」


「勿論よ」



 一鬼は伸びをしながら、時計を確認した。

時間は五時半……窓の外を見遣れば、まだ日も昇りきっていないことが分かる。

通常ならば、この時間に動けば家族を起こしてしまうが、その心配も今回は必要ない。

彼は現在かつて一矢が住んでいた家に居るのであって、家族の居る自宅ではないのだから。

碧さえ同意してくれたならば、彼は心置きなく動き始めることができる。


 単純に何処かに出かけるだけならば碧の同意は必要ないが、やはり割り切った関係でもそういった確認はした方が良い。

その方が互いに心の準備ができるというもので、いざという時の対応も素早くなる。

要は、覚悟する猶予をほんの少しだけでも与えるか与えないかの違いだ。

その違いは後々確実に大きな変化を生むであろうし、無視することはできない。

碧が使い物にならなければ、彼女を傍に置く意味がないと一鬼は考えているし、彼女もそれを理解している。


 今はまだ、碧を身内として受け入れることは一鬼にはできない。

それをしてしまえば、いざという時に彼女を切り捨てることができなくなる。

今の彼では、彼女すらも抱えた上で美空を守り切ることなど到底できない。

羽月や愛梨も守ろうとすれば、当然より一層難易度は上がる。

彼が彼女を身内として受け入れるのは、『虹色の肋骨』との決着がついた後だ。


 それまではいつでも切り捨てられるように、彼は碧との距離を保つつもりだった。




「……静かなものだ」


「この時間帯なら、大体の人間は寝ているわ。当たり前のことね」



 一鬼は玄関に向かい、靴を履くとそのまま外に出た。

まだ数回しか閉めていない割には慣れた動作で鍵を閉めると、彼はそのまま薄暗い道の中を歩き始める。

うっすらと地平線から光が見えているが、やはりこの時間帯はまだまだ暗い。

鳥の囀り程度しか音は存在せず、車の気配すら殆どしないことがこの町の侘しさを如実に語っている。


 大都市まではそこそこの時間で行けるものの、地域そのものには大したものがないという、微妙な地理に位置するのがこの町だ。

廃れている訳ではないがそこまで発展してもいない中規模の町……一鬼はここで育った。

感慨が無い訳ではないし、この場所には様々な思い出があるのは確かだ。

しかし、同時にこの町を酷く狭いと思ってしまう彼が居るのも事実で、少しずつその心がこの町の外側へと向いているのを彼は自覚していた。




「不思議なものだ……何度か海外に行ったことはあったが、それでも以前ならこの町をここまで狭いなどと感じはしなかった。だが、今俺ははっきりとこの町を狭いと感じている。俺も変わったな……確かに妖に近づいている」


「妖の世界は広いわ。こんな狭い町一つで世界を途切れさせてはダメよ。私達は世界中を飛び回ることができる。大陸さえも超えて、私達は世界中を旅できるの。楽しいわよ?」


「魅力的な話だな。『虹色の肋骨』のことに決着がついたら、是非とも一度世界を回りたいものだ」


「英語はできるようだし、金銭以外は特に問題ないでしょうね」


「金銭か……確かにそこは問題だな。一矢さんの残してくれた財産は、俺の私用などの為には使いたくない。となると……貯金か。二、三十万でどうにかなれば良いんだが」



 一矢が遺した高橋家の財産はかなりのもので、その多額の財産に、思わず一鬼は眩暈を覚えたものだ。

彼は一矢が両親の保険料を何かしらの形で使っていると思ったが、その全てを貯金し、更には己の生命保険、更には財産の全ての受取人を明にしていた。

その為、結果として神谷家は大金を得た訳だが、それを使う用途は今の彼らにはない。

一鬼としても、その大金は明や美空の為に使って欲しいと思っている。


 幸い、一鬼には二、三十万程度の貯金があった。

世界を回るには心もとない量だが、一鬼は上級妖である為、海も歩いて渡ることができる。

そもそも、三次元的に、しかも高速で移動可能な彼は乗り物を然程必要としない。

流石に大陸横断には時間が掛かるが、それでも今の彼ならば普通自動車程度の速度は軽く出せる自信がある。

本気で走れば自動車など置き去りにできるだろうが、その速度でも海や大陸を横断するのには時間が必要だ。


 しかし、移動に関してはそこまで問題にならない。

となれば、残る問題は生活費などのみになる訳だが、その点に関してはこれから地道に貯めていこうと一鬼は考えている。

明に話をすればそれなりの金銭は工面してくれるだろうが、彼にはそんなことはできなかった。

血の繋がりがない彼を明は息子として育ててくれ、居場所をくれ、更には守護者との精神という血肉すら凌駕する絆を与えてくれた恩人だ。


 今以上のものを望むことなど、彼には到底できなかった。




「金銭の件は、本当に面倒よね。これは個人的な意見だけど……高橋一矢のことを思うのなら、貴方達の為に残してくれたという財産をいくらか使わせて貰うべきだと私は思うわ」


「……理屈は分かる。確かにそうすべきなんだろうな。だが、今の俺にはそれを選べない……少なくとも今は」


「なら、地道に貯めるしかないわね。大学はどうするの?」


「休学……は正当な理由が必要だな。それに、今はまだ周りのことも気にしなければいけない。世界を回るのは、卒業してからだな」



 一鬼としては明に心配をかけたくない為、余り無理はできない。


彼が世界を回りたいなどと言えば、当然明はその真意を問うだろうし、内心反対する筈だ。

それを押し切ってまで己の願いを優先できる程、今の明達の状態は良くない。

彼は明達が今の状態からいずれ復帰することを信じているものの、それがいつになるかは分からない。

外の世界を見て回りたいと思っても、それを実際に告げるのは、彼らが立ち直った後にしたいというのが彼の考えだ。


 一鬼は既に一年前の事故を過去にしている。

事故に関するあらゆる痛みを過去にした上でそれと向き合い、克服しているのだ。

明が半ばそれを克服している為、彼はそのことに関しては心配していない。

しかし、問題は美空の方だ。彼女は一鬼達のように、事故を過去にした上で向き合うということができていなかった。


 思えば、一鬼は彼女が前に進めない原因が己にあるのではないかと最近思ってしまう。

昔から彼は美空が泣いて立ち止まった時、彼女を背負って前に進んで来た。

彼女は知ってしまっている……どんなに自分が行き詰っても彼が助けに来ることを。

だからこそ彼女は一鬼に依存し、蹲ったままでいるのだ。




「……成程。確かに、問題は大学や資金のことだけじゃないわね。まず家族をどうにかしないと、貴方も気がかりでしょう? でも……妹さんに関しては、寧ろ放っておいた方が良いと思うわ」


「……確かに、そうするべきなんだろうな」


「勿論、下手をすればあの子がそのまま精神的に潰れる可能性もわるわ。だけど、いつまでも負んぶに抱っこでは、自立できないわよ? ここは、貴方の妹さんを信じてみたらどうかしら?」


「一応……考えておこう。いずれはぶつかる壁だ」



 肩を竦めながら言う碧に頷きながら、一鬼は赤い眼を細めた。


美空のことさえ解決すれば、明の負担も減るので結果的に彼の家族の問題は解決する。

そして、そうなれば彼の心配事はもうなくなったも同然で、それ以外の者達に心配は必要ない。

元々自立できている羽月は言わずもがな、愛梨も今の状態ならば彼が居なくなっても能力を制御できる。

安全面でも、このまま何事もなければブルー・シャーマンと緋蓮が二人を守ってくれる。


 ともなれば、一鬼が気にすべきは実質家族だけで良い。

藍色の妖、紫の妖、そして碧の妹である白雪の件さえ解決すれば、彼も家族の問題に取り掛かることができる。

なればこそ、彼はこれから慎重に行動しなければいけない。

家族達の問題を解決する為には、まずこの戦いを生き延びなければならないのだから。


己の為にも、更には家族の為にも、彼はこの戦いを勝ち残るのだ。




「それが良いわ。場合によっては、私も協力するわよ?」


「いや、それは止めてくれ……余計に話が拗れそうだ。人間の弱さを理解できないお前では、寧ろ不用意に美空を傷つけるだけにしか思えない。俺は十九年間人間として生きてきた分、まだ人間に対する理解はあるつもりだ。気持ちはありがたいが、遠慮させて貰う」


「うっ……軽はずみな発言はするものじゃないわね。確かに思慮不足だったわ」


「もう一度言うが、その気持ちはありがたいと思う。ありがとう、碧」


「っ……どういたし、まして……」



 一鬼と碧は、命をかけた戦いを楽しみ、最後に相手の心臓を握り潰すことに愉悦を覚える同類だ。

しかし、二人の間には大きな違いがある……それは、生きた時代や場所であったり、守護者であるか破壊者であるかであったり、人間の中で生きた経験があるか否かであったりする。

その違いは二人の視点に大きな相違点を生み、結果として行動にも反映されていた。


 碧は守る者の為に全てを滅ぼし、一鬼はそれに準ずるものの可能な限り抱える。

彼女は欲望のままに行動できるが、彼は守るべき者の為に己を律し、時に感情すら殺す。

彼女は己が望むままに生き、彼は己の本当の願望を抑え続けて、結果として抜け殻同然になった。

その相違点こそが、彼らの美空に対する対応を分かち、見据える未来の形を変える。


 本質が同じでも、その上に積み重ねられたものが違えば、選ぶ道もまた違うのだ。




「さて……始めるぞ」


「ええ……」



 いつも訓練に使っている場所に辿り着いた一鬼は、屈伸をしながらさも当然のように訓練の開始を告げる。


それに頷いて、構えを取る碧の動きを目で追いながら、彼はゆっくりと同じ構えを取った。

彼は今までまともに喧嘩をしたことなど数える程しかない……その力の差故に、彼は相手を一撃で殺しうるからだ。

そんな彼が、己の戦闘スタイルを確立することなどそうそうできはしない。

今まで鍛錬を積んでこなかった訳ではないが、それは所詮体作りであって、戦闘技術の習得は行っていなかった。


 現在の一鬼はほぼ身体能力のみに頼って戦っているに等しい。

羽月からすればその能力には確かな技術が伴っているように見えるのかもしれないが、彼からすれば己の技は余りにも未熟過ぎる。

彼が戦う相手は人間ではなく妖なのだから、より研ぎ澄まし、より洗練された技術なくして勝つことは難しいだろう。

一鬼は今までの記憶の中から様々な技術をコピーしているに過ぎず、それを己がものにできなければ、それ以上の進歩は望めない。


 だからこそ、一鬼は間違いなく己以上の技術を持つ碧を師とする。

ブルー・シャーマンの方が総合力では上だろうが、やはり純粋な身体能力ならば碧は彼の記憶の中で確実に最強の座にある。

その動きを真似し、そこから己が利用できるものだけを選別するのが、これからの訓練での彼の目標だ。

人間として過ごしていた頃の、ただ体を張る為の訓練とは違う、相手を殺す為の訓練が、彼には必要だった。


 彼が本物の鬼となる機会が、もうすぐ巡ってくるのだ。




「最初はいつも通り……はっ!」



 碧が何気なく放った拳の速度は圧倒的で、彼女の体重を考慮すれば、人体など一瞬で破壊されるレベルの威力だ。

新幹線が真正面から突っ込んでくるような迫力すら感じさせるその一撃だが、一鬼の眼には動きがはっきりと見えている。

そのまま彼は流れるように彼女の拳を受け止めようとし、ふとその重さに慌てて気付く。


しかし、一鬼は一度彼女の攻撃を受け止めてみることにした。

山吹の能力さえあれば、腕の一本程度持っていかれても治せる為、問題は無い。

それに、痛みを知っておかなければ、いざという時に痛みで動けなくなることもあるものだ。

一鬼はそう考えて碧の一撃を同じく片手で受け止めることにしたが……思いの外滑らかに動いた彼の腕は、彼女の拳を掴むとその場に完全に静止させた。




「……なに?」


「っ……止め、た?」



 碧は驚愕に目を見開き、実際に拳を止めた一鬼本人すらも、思わず目を見開く。

いかに本気ではないとはいえ、今碧が放った一撃は先日までの一鬼なら避けることすらできない速度だった。

碧はそのつもりで攻撃したのだし、彼もそれを承知の上で迎え撃つともりだったのだが……その予想を違えた結果に、両者は固まってしまう。


 元来ならばあり得ない変化に一鬼は戸惑い、碧も困惑している。




「どういう、ことだ?」


「……っ!」


「!? くっ!」


「また……止めた」



 碧は少しの間困惑した様子だったが、すぐさまもう片方の手で一鬼に殴り掛かってきた。

その拳の速度も、加えられている重さも、先程の一撃とは比べ物にならないものだ。

しかし、一鬼にはその動きが見えていた為、同じく開いている片手でその一撃を受け止め、その場に完全に固定する。

そのことに、再び一鬼と碧は驚愕するのだった。


 以前ならば間違いなく避けることも受け止めることもできなかった一撃を、彼は二度受け止めたのだ。

しかも、偶然などではなく、純粋に見切った上でなのだから、碧は驚くことしかできない。

一鬼自身も、先日までならば不可能だった行動を可能にした己に違和感を覚えてしまう程だ。

そこまで己が変わった自覚は彼にはないにも関わらず、彼は碧の攻撃を受け止めた。

彼は、そんな己自身に不気味さを感じてしまう。




「……碧、今のはまだ本気じゃないだろう? 一度本気で来て欲しい。どうやら……思いの外昨日の怨念は俺を強くしてくれたようだ」


「……分かったわ。痛いだろうけれど、我慢するのよ!」


「っ……」



 一鬼は碧の両手を開放して少しばかり距離を取ると、彼女に問いかけた。


そんな彼の言葉に一瞬だけ不安げな表情になったものの、碧はすぐに頷き、姿勢を低くする。

彼女の全身から溢れ出す力と、それに相対して消費されていく己の生命力を感じながら、一鬼もまた構えを取った。

向かい合う二人の視線が交わり、その猫目のように瞳孔が縦に開いている眼が互いにプレッシャーをかける。


 次の瞬間、一鬼は碧が動くのを目撃した。

先程までとは圧倒的に異なる、まさしく音を超えた速度で彼女の拳が彼に迫る。

だが、彼の体はそれにすら反応し、眼はその音速の拳すら見切り、己の掌にそれを収めた。

途端に襲い掛かる恐ろしい程の衝撃すらも彼の筋肉は耐え、完全にその場に彼女の拳を固定する。

少しばかり遅れてやってきた衝撃波が音を立てて周囲に突風を巻き起こす中、彼だけがそれに耐えていた。


 しかし、彼女の放った拳の重さに耐えきれなくなったコンクリートが悲鳴を上げ、足場を不安定にする。

一トンを超える重さを乗せた音速の拳は、それこそコンクリートなど容易く破壊する程に圧倒的な破壊力を生み出す。

それを感じ取った一鬼はすぐさまアスファルトと己の靴の間に足場を生成し、踏み止まった。

一瞬そのせいで隙が生まれたものの、碧がそこをついてくることはない。


これはただの鍛錬であって、殺し合いではないのだ。




「……止められるとは、思わなかったわ」


「今のがお前の本気の一撃か……速いな。確かにあんなものを食らえば、一撃で終わりだ」


「その一撃を軽々と止めている貴方がおかしいのよ。それに、足場が不安定になった瞬間にすぐさま足場を自分で作ったのも素晴らしい判断だわ。あの瞬間に足場を確保できなければ、私はもう一撃入れるつもりだったもの」


「……成程、我ながら懸命な判断だった訳か」



 碧のもう一撃入れるつもりだったという言葉に苦笑しながら、一鬼は彼女の手を開放した。


実際、碧がもう一撃入れようとしていたとしても彼はそれに対処するつもりだったし、できた筈だ。

我ながらあり得ない程妖としての位階が上がったものだと、彼は苦笑する。

もはや一年前までの人間の振りをしていた彼とは違う……今の彼は、まさしく妖だ。

まだ器が完全に満たされた感覚には程遠いものの、少なくとも碧とまともに戦える程度の力は手に入った。


 これだけの力を有していれば、負けることなどないだろう。

しかし、油断はできない……これから一鬼達が戦うのは碧やブルー・シャーマンよりも格上の存在かもしれないのだ。

油断などしていては一瞬で命を刈り取られてしまう可能性が高い。

いかに己が高みに上っても油断してはいけないことを彼は理解していた。




「今の貴方は恐らく私と同程度、もしくはそれ以上の力を得ているわ。まさか、五尾相当から一晩で八尾相当に上がるとはね。正直な話、出鱈目すぎて、呆れているわ」


「俺も驚いている。苦痛にもがいて死にかけた甲斐はあったようだな」


「そうね。見守るこちらの心臓に悪いから、次からは止めて欲しい処だけれど」


「……次がどうなるかは分からない。少なくとも今回よりはマシだと思うが……どうだろうな」



 碧の不安げな色が宿る眼を見ながら、一鬼は静かに頷く。

元々ブルー・シャーマンが予定していたという量とは明らかに異なる量の怨念を、彼は背負うことになった。

同じことがもう一度起きないとは言えないし、寧ろその可能性の方が高いくらいだと思った方が良いだろう。

しかし、だからといって一鬼は過去を探ることを止める訳にはいかない。


 今回は何とか生き延びたものの、次は死ぬかもしれない。

そのリスクの高さを考慮すれば、やはり次の詮索は藍色の妖を討伐した後ということになる。

藍色の妖は死をまき散らしている為、間違いなく一鬼が守るべき者達を害する存在だ。

まずはそれを潰しておかねば、彼には安心して死ぬことなどできはしない。



「一鬼、本当に体に異変はないのね?」


「ああ、無い。筋肉痛のような痛みはまだ残っているが。何か気になることがあるのか?」


「ただの確認よ。特に問題がないようなら良いわ。」


「そうか。しかし……随分と遠くまで来てしまったものだ。本当に人間を辞めたんだと、改めて実感した」



 一鬼はふいに感じた風の流れに空を見上げ、次に町を見下ろした。


強弱をつけて彼を撫でる風が、その藍色の髪の毛を揺らし、服をなびかせて、引き締まった肉体をうっすらと衣服越しに浮き上がらせる。

隣に居る碧もまた町を見下ろすが、その髪も服も風になびくことはない。

『虹色の肋骨』である彼女は、同じ妖か『虹色の肋骨』の宿主でしか触れることはできないのだ。


 『虹色の肋骨』はいかに二度目の生を与えられた存在とはいえ、結局の処死者でしかない。

彼らは何にでも触ることはできるものの、それらが彼らに触れることはないのだ。

そもそも死者は生者の中でしか生きることはできない。生者が覚えていなければ、死者はただの過去でしかない。

だからこそ彼ら『虹色の肋骨』は宿主という媒介を以てこの世界に蘇ったのだろう。


 一鬼は死者のようだと愛梨に言われた時に、それとなく『虹色の肋骨』の在り方を理解した。

彼らは飽くまでも死者であり、媒介である者達と同類以外しか触れることはできない。

ならば、何故死者である彼らは他のものに触れることができるのだろうか?

その答えは、恐らく死者は生者に触れることができるものだからだと一鬼は解釈している。

良く日本で言われる幽霊というものは、生者に干渉してくる。つまりは、触れることができる。

だが、その逆は叶わない……『虹色の肋骨』の在り方もまたそれと同じなのだろうと、彼は考えていた。




「違うわ。妖に『戻った』のよ。貴方は元来妖なの。それは大きな違いよ」


「ああ、そうだったな……俺が元来は妖だとお前が知っていて、俺が知らない。不思議なものだ」


「……確かにそうね。でも、それももうすぐ終わるわ。貴方は全てを知り、完全に妖となるのよ」


「分かっている。俺がそれを望んだんだ」



 一鬼は碧の言葉に頷きながら、拳を握りしめた。


彼はもうすぐ失われた過去を取り戻し、その果てに今まで抑圧していた己を開放する。

その為にも、彼はブルー・シャーマンの能力で過去を見据え、怨念を背負いきらねばならない。

己のことも、家族のことも、身の周りのことも全て解決した上で、彼は世界に旅立つのだ。

全てを終えるまでは彼は死ねないし、死ぬつもりもない。


 美空のことも、明のことも、それ以外の者達とのことも、一鬼は全てを解決したかった。

勿論彼自らが全てを解決する必要などないし、彼としても結果的に解決すればその過程は特に気にしない。

問題さえ解決できれば、彼は安心して世界に旅立つことができるのだから。

しかし、誰かが問題を解決してくれるのを期待して待っているようでは駄目だ。

結局の処彼に関係する問題は、彼が自分でどうにかしなければならないことに変わりはない。




「俺は……妖に戻る」



 待っているだけでは何も得られない。


 だから、一鬼は妖に戻る。

その果てに何があるのかはまだ彼には分からないが、それが己を良い方向に導くと信じて。

美空達を守れる力を得ることを信じて。己の存在理由を手に入れることを願って。

いかに無様だと、滑稽だと言われても彼は構わなかった。どんなに苦しくても、前に進もうと思った。

彼はもうすぐ変わる……本当の彼になる。


 痛みを訴える心臓を押さえながら、彼はそう誓った。












 美空は日が沈み始めた夕方、夕日で茜色に染まった道を歩いていた。

食材の入った買い物袋を片手に、夕日に彩られながら彼女は歩を進めていく。

そんな彼女に、山吹は少しばかり困ったような表情で追随する。

美空とは違い夕日に彩られることはない彼女は異質で、その様は『虹色の肋骨』が宿主や妖としか触れあえないことを如実に表していた。




「ねぇ、美空……本当に行くの? 美空のお兄さんは余り喜ばないと思うんだけど?」


「良いの。兄さんのことだから、どうせまともなご飯なんて食べて筈だもん」


「……それは意外ね。結構しっかりしていそうなのに」


「味覚がなくなったのも関係してると思うけれど、元々そういうのには無関心なの」


「へえ……意外と抜けているのね。可愛いところもあるじゃない」



 意外そうに言う山吹に頷きながら、美空は少しばかり歩を速めた。


一鬼は味覚を失う前から余り食事に関して関心が無かったことを美空は知っている。

特に栄養バランスなどに関しては殆ど考えておらず、今の彼の逞しい肉体がどうやって形成されたのかは、彼女にとってある種の謎だ。

どんなに鍛えようとしても、食を疎かにしては肉体は中々それに応えてくれない。

それでも一鬼は今の逞しい肉体を手に入れている。


一鬼はそこまで疑わずにはいられない程に、食事に無関心なのだ。

しかし、美空はそんな兄の欠点を嫌うことはなく、寧ろ好んでいる。

その欠点こそが、彼女が一鬼に勝っている部分でもあり、彼女が彼に尽くすことのできる部分でもあるのだ。

彼女が今まで一鬼に与えられてきたものは余りにも大きい。


彼女にはこのような形でしかそれに報いることができないが、少なくとも報いることはできる。

それは美空にとってはある意味救いで、同時に大切な時間でもあった。

彼女はただ彼に寄生しているだけではないと思える、ある意味己を誤魔化す為の行為でしかないことは彼女も分かっている。

分かってはいるが、それでもその時間は彼女にとって大切なものなのだ。




「可愛いかどうかはともかく、抜けているところがあるのは同意かな。そのお蔭で私も、ただ与えられるだけじゃなくて済むんだけど」


「確かに、あそこまで能力が高くて、もしも欠点すらなかったら、何をしてあげられるかまるで考えが湧かないでしょうね。そんな相手の傍に居るのは苦痛よ」


「うん……私も、兄さんは今みたいな欠点があるままが良いかな。最近、どんどん人間離れしてきたから、ちょっと不安なの」


「不安、ねぇ……美空、貴方は確か今十七歳よね? そろそろ兄離れも考えた方が良いんじゃないの?」


「っ……」



 何気なく山吹が告げた言葉に、美空は思わず息を呑む。

山吹の言うことは至極尤もなことだが、彼女にとってはそう簡単な話ではない。

彼女が今まで何度それを試みて失敗したか山吹は知らないのだ。

本当は一鬼に依存し続けることを望む己が居るからこそ、彼女はそれを止められない。

しかし、一鬼がこのままいつまでも依存させ続けてくれるとは限らないのだ。


彼は恣意的に他者に強さを強いはしないが、ある意味存在そのものが強制力を持っている。

他者を所謂『良い方』に向かわせていると言うべきか、とにかく変化させていくのだ。

羽月は一鬼と競い合うことで、この三年間程で加速度的に能力を伸ばしてきた。

愛梨も、美空が最初に出会った頃とは一変し、今は精神的にも酷く安定している。

色の感じられない無機質な人形から、熱を、色を持つ人間に生まれ変わったのも、彼の助けがあってこそだ。


 彼の幼馴染である優希も、昔と今で大分変った。

昔は美空と同じくらい弱くて泣き虫だった筈の彼女も、今や強かさすら感じさせる女性に成長している。

その強さの裏側に不気味な何かを宿しているものの、それでも優希は美空よりも他人の役に立つだろう。

唯一美空だけが大きく前に進めずに居るこの現状に、彼女は苦悩する。


 しかし、苦しんでも結局選ぶのは依存の継続なのだから、もう笑うしかない。




「まぁ、いきなり離れるのは難しいでしょうけれど、少しずつ離れていくしかないわ。それができないのなら……絶対に離れないで済む方法を模索することね」


「――!! 絶対に……離れないで済む方法? そんなものがあるの?」



 美空は、山吹が告げた酷く甘い言葉に思わず反応した。


それは元来拒絶すべきものである筈なのだが、しかし彼女はそれを求めてしまう。

彼女は所詮一鬼に寄生して生きてきた弱い女であって、それを止めることなどできない。

もしもそれができたならば、とっくに彼女は自立している筈なのだから。

そんな彼女が、山吹の言葉を無視などできる筈がないのだ。


 どんなに悩んでも答えは変わらない……美空は依存を止めることができないだろう。

その果てにあるのが破滅であることは、彼女も予感しているが……止められないのだ。

なまじ一鬼が依存を許してしまうばかりに、彼女はそれに甘えていつまでも依存し続ける。

だが、いつまでも一緒に居られる保証がない已上、いずれは自立しなければいけない。

山吹はその前提を覆す言葉を告げた。


その言葉は、彼女にとってはある意味活路と言える抜け道を示しているのだ。




「ええ。考えても見て。貴方のお兄さんはそもそも、何故貴方を見捨てずに居るのかしら? そこに、貴方が求める答えがあるわ」


「私を……見捨てない理由……?」


「!……美空、少しの間引っ込んでいるわ。続きは後にしましょう」


「えっ?……山吹?」



 意味深な言葉を残して消えてしまった山吹に美空は声をかけるが、返事は無い。

いったい何があったのかは彼女には分からないが、取りあえずこれから暫くの時間もやもやすることは確定した。

これから一鬼に細やかな恩返しを行いに行くはずが、その実思考は彼に依存することに関して働くのだ。

複雑な感情を抱くのも無理はない。


 遠くから聞こえてくるカラスの鳴き声が、彼女に寂しげな印象を与えた。

彼女はまさに夕方という昼にも夜にもなり切れない中途半端な時間に似ている。

しかし、ただ一つ違う点がある……夕方はいずれ夜に向かうが、彼女はそうはならない。

いつまでも夕方というどっちつかずの状態のままで、永遠にそこから動くことは無いのだ。

彼女は本当に中途半端で、何者にもなり切れない、弱い存在だった。


 一鬼は良く彼自身を夕方のように中途半端だと言っているが、彼は正確にはどれにも属さない。

美空からすれば、彼は昼にも夜にも、夕方にも明け方にもなれる稀有な存在だ。

まるで空そのもののような、恐ろしいまでの大きさの器を彼は持っていて、そこに彼女は収まっていた。

だからこそ彼女には分かる……今一鬼は少しずつその大き過ぎた器に様々なものを入れ始めていることが。


 そして、それを齎したのが碧達『虹色の肋骨』であることが。




「兄さんみたいにはいかないか……わっ!?」


「ふにゃっ!?」



 兄との間にある絶望的な差に内心絶望しながらも、曲がり角を曲がった美空は小さな少女とぶつかった。

可愛らしいと言うべきか、変だと言うべきか悩む声をあげてぶつかった少女に美空は思わず苦笑する。

眼尻に涙を浮かべて鼻の頭をさする少女の身長は凡そ百四十センチ程で、艶やかな黒髪を美空と同じく後ろで纏めている。


今はまだ半袖を着るには少しばかり寒い季節だが、少女はノースリーブの上着を着用していた。

惜しげもなく晒されている日に焼けた健康的な肌が、少女が外で遊ぶことが好きなのだということを容易に理解させる。

年齢は恐らく小、中学生相当であろうか?日本人らしからぬ茜色の眼が印象的だ。

容姿はかなり整っている為、将来美人になるだろうと美空は予想した。




「ごめんね。痛かったでしょう?」


「うう……大丈夫。お姉ちゃん、心配してくれてありがとう」


「ふふ……どういたしまして」



 眼尻にうっすらと涙を浮かべたまま笑顔で礼を言う少女に、美空は思わず微笑する。


微笑ましさを感じさせるその仕草に、彼女は内心一鬼にとっての彼女もこうなのだろうかとふと思い至る。

己よりも遥かに未熟で、守ってやらなければならないと思わせるその姿は、まさしく守護者である一鬼が美空に対して感じているものなのではないかと、彼女は思うのだ。

勿論、彼がただ義務的に彼女を助けているだけという可能性だってある。


 しかし、彼女はそれでも、一鬼が能動的に彼女を守りたいと思ってくれていることを期待していた。




「あの……お姉ちゃん、ちょっと良い?」


「何かな? 私にできることなら、喜んで協力するよ」


「ここに行きたいんだけど、この辺りに来るのは初めてで、迷っちゃったの。何処にあるか知ってる?」


「ちょっと貸して貰っても良い?……あれ? ここって、一矢さんの家!?……あ。驚かせてごめんなさいね」



 美空は思いがけないものを見た為に、思わず声を荒げてしまった。

それに一瞬びくりと肩を震わせる少女に、驚かせたことへの謝罪を告げながら、彼女は内心何故少女が一矢の家に用があるのかを疑問に思う。

一矢は既に二週間以上前に死亡しており、もうあの家には誰も居ないのだ。

その所有権も既に美空達の父である明に移っている。


 何よりも、この少女を美空は一矢の葬式の時に見かけなかった。

つまり、少女は一矢の関係者ではないか両親か親戚が関係しているだけで、本人には関連性がないということになる。

若しくは、関係性はあったものの、その時出席できなかったかだ。

どちらにしろ、一矢に余り関係のある人間ではないことは、少女の話を一鬼から聞いたことが無い為、すぐに分かる。


 一矢は生前、色々と一鬼に話をしていた。

美空は余りそれを聞く機会はなかったが、一鬼から間接的に聞いたことが何度もある。

一矢はある意味一鬼に常識を教え込んだ恩師とも言える存在であろうと、美空は思う。

実際、一鬼は一矢と話したことをいつも嬉しそうに語っていた。

彼女はその姿を見る為に、一矢と一鬼が出会った後にその様子を尋ねていたものだ。

その為、一鬼が関係する部分に関してはほぼ彼女は網羅していたし、その中にこの少女が含まれていないことも理解している。


 結果として、彼女は少女を一矢と関連性の薄い人間というカテゴリに加えたのだ。




「知ってるの?」


「知ってるも何も、今から行く処だったの。折角だから一緒に行く?」


「本当!? ありがとう!」


「……疑ったりはしないの? 普通は怪しむべきだと思うんだけど」


「大丈夫。お姉ちゃんからは、そういうのを感じないから」


「?……そう。なら良いんだけど」



 どうせこれから美空は一鬼に会う為にそこに向かうのだ。

一緒に行こうと提案することに何らおかしいことはない……本当に彼女がそこに向かうのだと、相手が分かっていればだが。

そういう意味で、彼女は少女が簡単に彼女の話を信じたことに不安を覚える。

もしかしたら、とても純粋な余り、騙されやすい子なのではないかと彼女は思ってしまう。


 しかし、そんな美空に少女は不思議な返答をした。

まるで一鬼や愛梨、羽月達のような『本質を分かっている』者の言葉を少女は告げたのだ。

ある種の天才のみに許された、圧倒的感度の第六感の所持を、彼女は少女に感じる。

本当に所持しているか否かは重要ではない。彼女がそう感じたことこそが重要なのだ。

まるで、一鬼達と同じような何かを、彼女は少女から感じていた。


 だが、彼女にはそれが何なのかが分からない。




「お姉ちゃんは、その家に住んでいるの?」


「ううん、違うよ。私が住んでいるのは別の場所。今そこには兄さんが居てね……今から会いに行く処なの」


「え? それじゃあ、お姉ちゃんは高橋さんの妹さんなの?」


「……違う、かな。今あそこに居るのは私の兄さんで、一矢さんじゃないの。一矢さんは……」


「高橋さん、死んじゃったの?」


「っ……そう、なるかな」



 存外鋭い少女に驚かされながら、美空は一矢が既に死亡していることを認めた。


同時に、彼女は少女がそれを知らないことから、少女が一矢のことに関して余り詳しくないことを悟る。

やはり、一矢と少女の間には深い関連性はなく、誰かを中継して繋がっている可能性の方が高い。

美空は同時に、死という言葉をさらりと使った少女に不気味さを覚えるが、小さい頃はそんなものだ。


 幼い頃には、幼いなりの残酷さがある。

その言動が他者を傷つける可能性など少しも理解できずに居るのだから、制御するのは難しい。

寧ろ制御できてしまっている子が居るのならば、その子の方が異常扱いされてしまうだろう。

丁度、強過ぎる力で他者を傷つけないように、他者との距離を保ち続けていた一鬼のように。


 だから、この少女は特におかしい訳ではない。


 ただ、幼いが故に残酷なだけなのだ。




「そんなんだ……どうしよう。私、これを届けようと思ったんだけど、もう死んじゃってるなら無駄だったのかな?」


「これは……?」


「お父さんが高橋さんから貰ったものなんだって。昔高橋さんが発掘した遺跡のものらしいんだけど、お姉ちゃん何か知ってる?」


「発掘?……ごめんなさい。心当たりがない」


「う~ん……どうしよう?」



 美空は少女から受け取ったケースの中身を見たが、それが何なのかさっぱり分からない。


そこにあるのは骨のようなものだったが、飽くまでそう見えるだけで、何かの一部なのか、それともそれで完成された一つの物なのかが分からないのだ。

ただ、そこから何かしらの力を感じるのは確かで、彼女は五感とは異なる感覚がその力を捉えていることに気付く。

第六感など迷信のように思われがちだが、実際に体験したことのある彼女はそれに頷けない。


 美空は霊的なものは実在すると考えているし、実際『虹色の肋骨』はまさに幽霊そのものだ。

オカルト的な存在が実際に目の前に存在しているというのに、その実在を疑うことなどできる筈もない。

『虹色の肋骨』が彼女一人にしか見えていないものならば、ただの妄想であると言えるかもしれない。

しかし、一鬼達もまたそれらが見えており、実際に触れあっているので、彼女の幻ではなく、『虹色の肋骨』は実在するのだ。


 そのオカルト的存在である『虹色の肋骨』と似たような感覚を、少女が持っている何かは感じさせる。

美空はそういうものに詳しい訳ではないが、一鬼達に見せれば何かが分かるかもしれない。

一鬼の第六感の鋭さはある種神がかっており、そういった神秘的なものに対する感性は非常に豊かだ。

それに、一鬼には碧やブルー・シャーマン達がついている。

美空程度では分からないことも、彼らならば分かるだろう。




「そのね? 私の兄さんなら何か分かるかもしれないんだけど、渡しておこうか?」


「本当?」


「飽くまで可能性だけど、多分大丈夫だと思う。元々兄さんは一矢さんの弟分だったし、兄さんがそれを受け取るべきだと思うの」


「う~ん……それじゃあ、お願いしても良い?」


「うん、必ず渡しておくよ」



 少しばかり不安げな表情の少女からケースを受け取ると、美空は笑顔でそれを一鬼に渡すことを約束した。

一矢の所有していたものは、法的には現在全てが明の所有物になっているのだ。

それを受け取るべきは法的には明であるし、実質は一矢の弟分であった一鬼しかあり得ない。

少なくとも一矢との関わりが薄かった美空ではないことは確かだし、少女が持っていても意味がないものだろう。


 受け取ったケースを籠の中に入れると、美空は少女を真っ直ぐ見据えた。

少女の茜色の眼は何処か優希を想起させるが、少女からは一鬼や愛梨のような強い存在感はない。

確かに優希のような若干人間離れした『優秀な人間』の片鱗を感じさせるものの、一鬼達のような人外さを感じさせないのだ。

一鬼の赤い眼と愛梨の黄金の眼は、本人の異常さを雄弁に語り、同時にその圧倒的存在感を知らしめる。


 結局一鬼や愛梨と比べれば、美空は愚か優希達さえもちっぽけな存在に思えてしまう。

今美空の前に居る少女は、優希と同じく若干人間の域を外れているようなものを感じさせる。

しかし、飽くまでずれているだけでそこから完全に逸脱はしていないのだ。

それこそが一鬼や愛梨との違いであり、同時に美空が少女に優希の面影を感させる要因だった。




「名前を教えて貰っても良い? もしかしたら、この石について話を聞きに行くかもしれないから」


「うん。私の名前は柳恭子って言うの。柳の木の柳に、恭しいの恭に、子供の子」


「恭子ちゃんだね。分かった。私の名前は神谷美空って言うの。よろしくね」


「うん!」



 中学生の女の子にしては随分と素直というか、余りにもあどけない少女に美空は内心苦笑する。

元来少女くらいの年齢ならばもっと混沌としていて、他者を寄せ付けない雰囲気がある筈なのだが、少女にはそれがない。

それこそが少女の魅力なのだろうが、彼女はそこに若干の異常さを見出す。

一鬼達のような圧倒的な異常さではないものの、彼女の第六感に引っかかる程度には、異常だ。


 しかし、それを追求することに意味は無いし、彼女もそれを望んでいない、




「ちょっと待ってね……はい、これ私の電話番号と住所。もし何かあったら連絡してね」


「ありがとう、お姉ちゃん。それじゃあ、またいつかね!」


「うん、またいつか」



 礼を言い終えた後、そのまま走り去っていく少女……恭子に微笑みながら、美空はその背中を見送る。

小さな背中がいったいどれだけのものを将来背負うことになるのかは彼女には分からない。

ただ、余程のことが無い限り恭子は壊れないで済むのではにないかと彼女は楽観視していた。

優希のような若干人間離れしたものを感じさせるものの、彼女からは優希とは違う、良い方向の歪さを美空は少女から感じるのだ。


 一鬼のような圧倒的な異常にはなれないが、それでも人間の中では大いに成功できる部類の人間だろう。

恭子は美空よりもずっと前向きで、明るくて、何処か羨ましさすら感じさせるような少女だった。

その姿を見ていると、美空も頑張らねばならないと思える。

取りあえず、まずは受け取ったものを一鬼に渡そうと、彼女は再び歩を進めることにした。




「私も、頑張らないと」



 美空は笑顔と共にそう呟くと、一鬼の居る場所へと向かうのだった。










 もう日が地平線の彼方に消えてしまいそうな頃合いに、碧は一鬼と共に茜色に染まる坂をゆっくりと下っていた。


結局、あの後彼は碧と訓練を継続し、それに夢中になった結果半日近い時間をそれに費やしてしまった。

既に彼の身体能力は碧すら凌いでおり、単純な技術力さえどうにかすれば彼女に勝つことも不可能ではない……それが、今日の訓練で判明した事実だ。

もはや、今の彼は純粋な能力値だけならば碧を凌駕しており、技術なくして彼女に勝ち目はない。


 たった一晩で五尾から八尾相当に能力が上昇するなど、元来ならばあり得ないことだ。

しかし、碧は一鬼がいかに悪質で大量の怨念を一度に背負い、それを受け止めきったかを知っている。

そもそも、今彼が辿っているのは飽くまで再生であって、成長ではない。

彼はただ元来あるべきであった姿に戻り始めている……それだけのことなのだ。




「随分と長居してしまったわね」


「まったくだ。ここまで長居してしまうとは、我ながら随分と熱中してしまったものだ」


「私も久しぶりに同格以上と戦えて良かったわ。今の貴方相手なら、思う存分に戦えるもの」


「お蔭でいくつか衣服がダメになった。替えを持ってこなかったら、やばかったぞ?」


「ふふ、その埋め合わせは何かしらの形でさせて貰うわ。楽しみにしておいて」



 碧は肩を竦める一鬼に微笑みながら、風に揺れる彼の藍色の髪の毛を見遣った。

彼女は、彼の髪の毛の感触を知っているし、彼の頬の感触も、その肉体の逞しさも知っている。

既に彼は一人前と呼べるだけの男になっていた……彼女の助けなどなくとも、人間の中で己を失わずに居てくれた。

それは、彼女にとって酷く嬉しいことだ。


 一鬼はふとした瞬間に碧に礼を言ってくれる。

ありがとうと、その気難しそうな仏頂面から一転し、はにかむような笑顔で告げるのだ。

その笑顔は、その言葉は、その仕草は、彼女にとってとても美しく、尊いものだった。

何度も夢見たものの片鱗がそこに込められており、彼女はそれを実感する度に、内心歓喜する。

そして、同時にそれを一度は破壊した己を呪う。


歩んできた道が……選んだ道が違うからこそ、碧は一鬼の素直な礼に、過去の選択を思い出す。

一鬼はそれを知らないが故に、ある意味無邪気さすら感じさせるはにかみと共に感謝をと伝える。

その無邪気さに、その姿に、彼女は混沌とした感情を抱き、胸が張り裂けそうになるのだ。

己がいかに愚かだったかを思い知らされ、彼にこうして触れ合うことが、いかに身勝手なことなのかを彼女は毎日のように思い知らされる。




「そうだな……楽しみにしておこう。しかし、今日の夕飯はどうしたものか……最近空腹になることはなくなったが、食べる習慣をいきなりなくすと美空達に怪しまれる。少なくとも、何か食べた振りはしておかないとな。碧は何が良い?」


「……一鬼、まだ味覚は元に戻らないの?」


「ああ、味覚は相変わらず死んでいるが、余り気にするな。俺は既にそれを受け入れた。今更そのことで揺らぎはしない」


「そう……なら良いの。それじゃあ、私は……肉じゃがで」


「肉じゃがか……随分と気に入ったようだな。買っても良いんだが、美空か父さんに作って貰った方が良いな」



一鬼は碧の言葉に苦笑しながらも、美空か明に料理を作って貰うことを提案する。


碧からすれば、彼に自分で作るという選択肢がないことが若干引っ掛かるが、仕方のないことだ。

今の一鬼は味覚を失っており、料理をする際には、本当に分量などを細かく指定しなければ、まともな味付けにならないのだから。

白米を炊くようなことは普通にできるが、細かい味の変更をすることは、今の彼にはできない。


 碧はそれを知っている為、彼に料理を無理強いするようなことはしない。

実の処、彼女も料理はできるので、その気になれば肉じゃがだって自分で作れる。

しかし、彼女としては一鬼の作る料理を一度食べてみたいという思いがあるのも確かだった。

それがいかに残酷なことであるかは理解しているものの、彼女は彼の作る料理に興味があるのだ。


 そもそも、妖に通常の食事など元来必要ない。

妖は言うなれば怨念を燃料にして動く永久機関であり、食事はただの娯楽なのだ。

それに加えて、今の碧は実質彼の生命力を食って生きている死者でもある。

そういう意味でも、碧には食事は必要ないのだから、態々料理を強請る必要はない。




「そうね……でも、いつか貴方の作る肉じゃがを食べてみたいわ」


「難しいことを言ってくれる。味覚さえまともなら、できなくもないが……」


「なら、私が味見役をするわ。それなら大丈夫でしょう?」


「いや、その理屈はおかしい。その場合ならお前が直接作った方が良いことになるぞ? お前も料理はできるんだろう?」


「う……確かにそうね。思慮不足だったわ」



 碧は己の思慮不足に対する恥ずかしさに若干頬を赤らめながら、苦笑する一鬼から目を逸らす。

確かに彼女が味見役をするのならば、最初から彼女が料理した方が速いだろう。

それに、態々味覚を失っている彼に料理をさせようとすること自体が残酷なことなのだ。

足を失った人間に歩けと言っているに等しい行為だということは、彼女も自覚している。

そこに気がいく余り、彼女は効率的な面を疎かにしていた。


 実の処、碧は余り論理的に考えることができないタイプだった。

頭の回転は速いし、洞察力もあるにはあるが、彼女は論理ではなく感情を優先する傾向にある。

元々欲望のままに生きる妖狐の一族の一員である彼女が、論理的に動くなどそうない。

それを可能にする頭脳はあるが、その使い方が大きくことなるのだ。


 基本的に碧は己の感情を最優先しており、余程のことでなければ行き当たりばったりで生きている。

その余程のことに、一鬼の存在が当てはまるからこそ、彼女は現在行き当たりばったりに行動していないのだ。

彼に関してだけは、感情云々の話では済まないと彼女も理解している。

行き当たりばったりに動けば、彼女は再び大切なものを失う……それも、今度は永遠に。




「取りあえず、肉じゃがで良いなら一旦家に戻って財布を取って来よう。買うにしても作るにしても、スーパーに行かないとな」


「そうね……あっ、ついでに炭酸飲料なるものも買っておいてくれる? あれは中々面白い飲み物だったわ」


「ふむ……そうだな。ついでにいくつか菓子を買っておこう。食べたくなったら食べてくれ」


「ふふ、勿論食べさせて貰うわ。貴方も一緒に……!」


「!……この感じ……戻ってきたようだな」



 笑顔で語らっていた碧と一鬼だったが、ふと感じた気配にその表情を一変させた。

彼女達は、今まで外に居た気配がこの町に戻ってきた気配を感じ取ったのだ。

つい先日まで沖縄にて千に及ぶ死をまき散らした存在が、この町に戻ってきている。

そのことに気付いた瞬間、一鬼の赤い眼が鋭く細められたのを碧は目撃した。


 彼もその気配を感じ、それを滅ぼすことを欲している。

碧もまたそうだった。その腕で相手の心臓を貫くことを求めている。そうすることで大切な者を守ろうとしている。

今この町は愚か、この国で最も危険な存在であると言える相手が、戻ってきたのだ。

それを潰すことこそが、今の彼らの目標の一つであり、その為に犠牲者が出ている間も下手に動かずに居た。


 しかし、それももう終わる。




「藍色の妖……」


「碧、悪いが肉じゃがは後回しだ。すぐに羽月達を呼ぶぞ」


「そうね。もう待っている必要はないもの。一鬼、心の準備は良い?」


「当たり前だ。今日―――あれは殺す」



 一鬼はその拳を握りしめて、そう宣言した。


その姿に彼女の憧れた守護者の影が重なることはなく、ただ彼の姿がそこにある。

今の彼は彼そのものであり、ブルー・シャーマンが望んでいたような焼き増しには決してならないだろう。

碧はそれを理解して、内心ほくそ笑む……彼は彼女が望む方向へと向かっている。

紫色の鬼でもなく、蒼炎の超越者でもなく、彼女が望んでいる道に、彼は進んでいるのだ。


 碧には後悔がある。後ろめたさがある。打算がある。甘えがある。

それらを全て感じ取りながらも、一鬼は彼女を拒絶せずに居てくれる。受け入れてくれていた。

紫色の妖やブルー・シャーマンが拒み、危険視していた彼女を、だ。

彼の無知に、甘さにつけこんで、彼女は彼を彼女好みの道へと誘う。彼女の望む戦士にする。

その果てにある贖罪の日まで、彼女は彼に寄り添い、支え続け、導くだろう。





 彼女が望む唯一無二の鬼が生まれるその日まで。





 彼女の復讐と贖罪の双方を叶える、絶対的な鬼が目覚めるその日は―――近い。






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