第十三話
「させるか!!」
振り下ろされたドラゴンの腕が羽月の心臓を貫くかと思われた瞬間、緋蓮が体当たりでドラゴンの体勢を崩した。
それによって生じた隙を見逃さず、羽月は咳き込みながらも、すぐさまドラゴンの腕から逃れる。
左側しか存在しない彼の視界の中で、緋蓮の蹴りがドラゴンの顎を打つ。
それに対して、ドラゴンは大きく仰け反り、そのままよろけるように後退した。
一見圧倒的な重量差があるように見える緋蓮とドラゴンだが、意外なことに重量はほぼ同等のようだ。
一鬼はできるだけ緋蓮達から離れると、すぐさま玄関に向かって靴を履いた。
このまま家の中に居ては綾子を巻き込んでしまう為、外で戦うことを彼は選んだ。
緋蓮もそれを察したのか、すぐさま彼に追随する。
そんな彼らに対して、怒りのような咆哮と共に、ドラゴンは駆け出した。
「っ……」
羽月は可能な限り速く、しかし長距離を走れる速度で見慣れた道を、人気のない方へと向かっていく。
この時間ならば、まだ無関係の人間を巻き込むようなことはないだろうが、もしものこともある。
そうなれば、羽月は隙を晒すことになるかもしれないし、仮に隙を見せないとしても、それは他者を犠牲にする可能性も示す。
できれば、彼はそうなることを避けたかった。
しかし、避けようとしても避けられなかった場合は、それも仕方ないことではあると羽月は考えている。
後方で、恐ろしい速度で迫ってくる二足歩行の竜の存在を脅威に感じながらも、彼は人気のない場所へと向かっていく。
思いの外ドラゴン……竜の速度が遅いのか、或は羽月の速度が速いのかは分からないが、両者の間の距離は縮まってはいない。
「おいおい! なんだよ、あれは!?」
「下級妖の一種だ! 竜みたいな恰好をしているが、実際はただのトカゲだ。私と同じか、幾分か上の位階の奴だな」
「そういうことじゃない! 今この世界には、お前達『虹色の肋骨』と、一鬼達くらいしか、妖は居ない筈だろう!?」
「分からないが、恐らくあれは紫の妖か藍色の妖の能力だ。妖としては気配が異質過ぎる」
「異質だぁ? どういうことだ?」
「とにかく、今は走れ! 人気のない処で、一気に止めを刺す!」
所々で緋蓮とやり取りをしながらも、羽月は近くにある公園へと向かった。
公園とは言っても、寂れてしまっている為、どの時間帯でも人は居ないことが多い。
寧ろ、人が居ることの方が珍しい場所なので、広さなどを考慮しても、丁度良い場所だろう。
早朝の五時から全力疾走する羽目になると思わなかった彼だが、緋蓮と竜の力量差が然程ないことに、安堵する。
碧達のような絶対強者でないのならば、いくらでもやりようはあるのだ。
羽月では勝てないが、一鬼が居れば、彼に押し付けるだけであの竜など一瞬で片づけてくれるだろう。
緋蓮の様子からも、やりようによっては勝てるレベルの相手であることは間違いない。
羽月はそれを実現する為に、頭を使えば良いだけだ。
「……見えた! あそこを戦場にする!」
「よし! 後は任せろ!」
羽月が目的地に着いた途端、緋蓮はすぐさま百八十度方向転換すると、ガントレットを装着している手を振り上げ、握り拳を作った。
そして、全く速度を緩めくことなく走ってくる竜の鳩尾に、その一撃を見舞う。
瞬間、竜の体が僅かに浮き上がり、その隙に緋蓮は回し蹴りをその顎に見舞った。
それによって無様に地面に転がる竜だが、すぐさま起き上がって反撃をしてくる様子に、羽月は驚く。
何故、地面に無様に転がる必要があるのか、更には何故竜が態々走って追いかけてきたのか、彼は理解しかねていた。
しかし、その理由は今判明した……この竜は『虹色の肋骨』ではないのだ。
辺りに宿主らしき人間も居ない上に、そもそもまるで理性を感じさせない雰囲気が異質だった。
更には、常に宿主以外の物質に触れていることと、先程無様に地面に転がったのが一番大きい。
『虹色の肋骨』ならば、そのまま地面を透過して、奇襲を狙う筈だ。
その程度の知性も持ち合わせていないということは、やはりこれはただの作り物でしかないのだろう。
本当の妖はここまでバカではない筈だし、実際ほぼ同レベルの妖である緋蓮にある知性が、理性が、この竜にはない。
無い振りをしている可能性もあるのだろうが、そこは最初に緋蓮が言った気配が異質であるという言葉が、否定してくれる。
狂ってしまったのか、はたまた最初から知性などないのかは知らないが、羽月の前に居る竜は、本当の妖ではない。
「……緋蓮」
「すぐに終わる。技術すら忘れているようなら、位階が上だろうと私の敵じゃない」
「忘れている……?」
「終わったら教えてやるよ!」
意味深な言葉と共に、緋蓮は再び竜を地面に転がした。
見た処単純な身体能力は殆ど変らないようだが、技という面においては圧倒的に緋蓮が勝っている。
羽月は今まで見たことのない鮮やかな技に驚くものの、同時にそれでも叶わない圧倒的な存在達を脅威に思う。
緋蓮はまさしく流れるような動きで、竜を翻弄しているが、それ程の技でも結局圧倒的な力を前にしては無力なのだ。
事実、既に妖として覚醒しつつある一鬼の身体能力を前にすれば、予測だの技だのと言っていられない。
良くフィクションにある経験による先読みや、技による力の制圧は、確かに魅力的に映るだろう。
しかし、実際に戦えば、圧倒的な身体能力を前にしては一対一ではまず勝てない。
実戦経験の殆どない、まだ妖として覚醒し始めたばかりの一鬼を相手にしても、緋蓮は軽くあしらわれた。
既に上級妖の領域に足を踏み入れ始めている現在の彼を相手にすれば、緋蓮はまず間違いなく数瞬で殺される。
況してや、碧程にもなれば、文字通り瞬きする間に心臓をその拳で貫いていることだろう。
「結局生まれ、か」
緋蓮と竜の一方的な戦闘を傍目に、羽月は目の前の人間と比べれば高レベルである筈の戦いすらも、赤子の戯れでしかない妖の世界に改めて恐怖を覚えた。
そもそも、人間の場合ならば能力の差は精々二、三倍程度が限度であり、余程の達人であっても、戦闘力の差はそこまで酷くないものだ。
だが、妖ならば、碧と緋蓮の間には実に十万倍の戦闘力の差があるという。
羽月からすれば、そんなものは言葉だけで、実際にそこまでの差がないと信じたい。
本当にそこまで差があるのならば、緋蓮を人間百人分の戦力と仮定すると、碧は一億人分の戦力に匹敵することになる
実際に緋蓮には人間百人程度ならば、全て縊り殺せるだけの能力があると彼は評価していた。
しかし、そうなれば、碧は一人で一国を滅ぼせるだけの力を所持していることになってしまう。
一方で、ブルー・シャーマンに関しては、本当にそう思えるだけの圧倒的な何かがあるのも事実だ。
碧の放つ殺気は元々頑丈な羽月の精神も揺るがす程だが、ブルー・シャーマンが本気で殺気を放てば、彼は精神崩壊するだろう。
言うなれば、住んでいる世界そのものが違うと実感させるだけの、圧倒的な力の奔流が、あの蒼炎の超越者には流れている。
しかし、どちらにも言えることは、結局能力のある者が勝ち残り、そうでない者が死ぬということだ。
「ったらああ!!」
「グ……ガ……ヒレェェエエン!!」
「なっ!?」
「見苦しい。そのまま砕けていろ―――この紛い物が」
「ガギャアアアアアア!!?」
緋蓮がガントレットを装着した腕を竜の胸に突き刺した時、竜が彼女の名を呼んだ。
そのことに驚愕した羽月であったが、そんな彼を置き去りにして、彼女は竜の胸から拍動する心臓を取り出した。
生々しい音と共に持ち主の体から取り除かれた心臓は、それにも拘わらず強い鼓動を続ける。
緋蓮はそれを見ることなく、忌々しげに握りつぶした。
傷口からどす黒い血が溢れ出す竜は、そのまま絶叫したかと思うと、その場に崩れ落ち、灰となっていく。
羽月はただその様子を驚愕しながら見守り、同時に妖の闘争というものを理解する。
妖の戦いでは、どちらかが脳か心臓を破壊するまで、終わりは見えてこない。
そして、脳は種族によっては異なる場所に移動させることが可能なので、実質狙うのは心臓のみだ。
心臓を取り出し、握り潰すことこそが妖の戦いにおける勝利の象徴なのだと、羽月はこの日初めて知った。
「……クソが。なんで作り物の癖に、心臓の造形だけは完璧なんだ。ご丁寧に心臓部分にだけ血まで作りやがって……腹が立つったらありゃしない」
「緋蓮……知り合いだったのか?」
「違う。これはただの作り物で、私の知り合いなんかじゃない。こんなに弱くない。こんなに愚かじゃない。こんなに空虚じゃない。だから、違う。こいつは突然襲い掛かってきた人形に過ぎない」
「そうか。なら良い。種明かしをしてくれないか?」
「……良いだろう。少し長くなるが」
忌々しげに返り血を眺めている緋蓮であったが、少しずつガントレットの水晶にその血が吸収されていくことに羽月は驚いた。
まるで水晶が意思を持っているかのように血を吸い取り、少しずつ輝きを増していく。
その様子はまるで血を啜っているよう見え、彼は本能的にそれが怨念の籠ったものであることに気付いてしまう。
怨念をはっきりと感じることは人間である羽月には叶わないが、嫌な感じがすることだけは分かるのだ。
「先程言ったように、こいつは恐らく紫の妖か藍色の妖のどちらかの能力で生み出された模造品だ」
「模造品、か。成程、だから不完全だったのか。奴の動きにはまるで知性が感じられなかった。妖は皆人間並みの知性は持っている筈なのに、おかしいと思ったんだ」
「そうだ。妖は人間と同等かそれ以上の理性を、知性を持つ。こいつは『東』の一族の一員を模造したもので、本物程賢くないし、強くもない。本物ならば、私はとうに八つ裂きにされているさ」
「『東』の一族?……その言葉は初めて聞いたな。いったいどういう一族なんだ?」
「さぁ? 私も良くは知らないが、かつて私にこのガントレットと鎧を作ってくれた妖がそう名乗っていた」
「成程……凡そ把握した」
羽月達を襲ったのが妖の紛い物であることは良いとして、問題はまだ緋蓮が羽月に全ての情報を伝えていないことだった。
彼からすれば、『東』の一族だと言われても訳が分からないし、その詳細を緋蓮自身も知らないことが更に事態を難しいものにする。
結局の処、やはり先程の竜は緋蓮が恩義を感じている妖の模造品で、だからこそ彼女は激昂していたのだろう。
羽月は思いの外繊細な緋蓮に言葉を投げかけようとしてしまうが、ぐっと堪える。
愁いを含んだ眼でガントレットを撫でる緋蓮の様子を見れば、相当な思い入れがあることは一目瞭然だ。
もしかしたら、その妖のことと、碧への復讐の執着心には関係があるかもしれない。
藪をつついて蛇を出す、と言わんばかりの状況になるかもしれない訳だ。
「やれやれ……そういえば、その鎧は一鬼に殴られても変形しなかったな。あの時、既に一鬼にはお前以上の力があったのに、だ。余程頑丈なんだな」
「当たり前だ。ただ、あの根暗野郎のような鎧を貫通する衝撃を放てる奴には無意味なのが辛いな。あの時は驚いたぞ……いくら妖として目覚め始めているとはいえ、まともな実戦経験もないあいつが、一回でそれを決めたんだから」
「あいつは色々と規格外だから、仕方ない。不公平だとは思うが、そもそも種まで異なるようでは文句も言えない。俺達人間からすれば、妖全てが不公平の象徴だよ」
一鬼は言わずもがな、妖の中では下級に相当する緋蓮ですら、人間相手ならば無双できるであろう戦闘力と、人間にはない鋭い洞察力を持っている。
根本的に人間と造りが異なる妖を比較対象にすること自体が傲慢であることは羽月も実感しているが、それを止められないのが人間の性だ。
人間は何時だって己を他者と比べる。理想と現実を比較する。何かと何かを比べてしまう。
比べなくなってしまえば、進歩できないことを知っているからこそ、そうする。
人間はそうやって常に差異を見ることで、成長し、繁栄してきた。
勿論、その比較がマイナスの方向に働き、結果として身を亡ぼすことだってある。
それでも人間は比較を止めない。止めてしまえば、そこは何の変化もなくなると知っているが故に。
問題は比較する対象と、その理由であって、比較するという行為そのものは悪手になり得ない。
良い方に転がるか否かは、本人次第、としか言いようがないだろう。
「あー……確かにそうだな。まぁ、妖は人間よりも圧倒的に強い代わりに、そこまで野心的ではない。シェイプシフターだって、人間を食うのは生きる為であって、殺すことが目的じゃないぞ? ただ……どの世界にも、例外は居るものでな」
「それが妖狐か?」
「ああ、そういうことだ。正確には、まだまだ居るんだが。妖は凡そ二十から三十の種族が存在し、争いを好んだのは私が知る限りその内の三つ程だな。『妖狐』、『白壁』、『その他』だ」
「?……『その他』ってのはどういうことだ?」
羽月は、緋蓮の言葉に思わず首を傾げた。
『妖狐』と『白壁』はその一族の特徴を示しているであろうことが分かるが、『その他』とはそのままの意味で良いのか、彼には分からない。
本当に言葉通りその他で良いのならば、態々一纏めにしたことには理由がある筈だ。
どんなに些細なものであろうとも、後々大きな変化を生む切っ掛けになることもある。
こういった細かいことを見逃して、後々苦しむのは彼としても困るのだ。
「『その他』は通称でな……正確には妖になった人間のことを指す。人間が妖になる手段はただ一つ……妖の怨念をその身に受けて、生き残ることだ」
「……つまり、妖を殺した人間しか妖にはなれないと?」
「正確にはその心臓をその手で握り潰した人間だけだが、要はそういうことだ。とはいえ、人間が妖の心臓を潰すなんぞ、簡単にできるもんじゃない。それに、そうやって妖になっても、結局は下級が限界なんだよ。中級以上になれるのは、生まれついての妖だけだ」
「ああ、成程。見下しているから、その他という区分にしたのか」
「ほぉ……やはり察しが良いな。態々妖を殺すという危険な行動の末に、得られるのは下級妖の能力だけとなれば、それこそ目も当てられない。下級とはいえ、妖になった已上他の妖の感覚に引っかかるし、人間から妖になった奴は大体がよからぬことを考えているから、一部の妖によって率先して間引きされる」
「……それ、一つも良いことないじゃねえか」
羽月は緋蓮の言葉に、思わず顔を顰めて文句を言った。
そのような方法で妖になれるのならば、『虹色の肋骨』の心臓を潰すことで、彼も妖になって生きながらえることができるかもしれない。
だが、その後他の『虹色の肋骨』に狙われることになるようならば、意味がなかった。
特に碧ならばまず間違いなく妖になった羽月を殺そうとするだろう。
その時、一鬼は羽月のことを庇ってくれるかもしれないが、それすらもすり抜けて羽月を殺せるだけの力を碧は所持している。
ただの下級妖では、彼女を前にしては一呼吸する間に何度殺されるか分かったものではない。
それに、彼が妖になることで緋蓮が敵対することになる可能性もあるのだ。
そうなれば、彼女程の技を持たない羽月は勝てない。
結局、どちらにしろ詰んでいるのだ。
「そうだ。だから、『その他』なんだ。種族云々を気にする必要はない訳だからな」
「まったく……それで、そのガントレットと鎧はどういうものなんだ? 血を吸い取る水晶といい、ただの鎧ではないのだろう?」
「ああ、これは言うなれば……呪いの武具だ。かつて『東』の一族きっての鍛冶師だったという中級妖の亡骸を利用して作ったらしい。その妖の怨念が、この鎧を不変の鎧にしているんだ。どんなに破壊されても、この鎧は何度でも蘇る……できれば全身分欲しかったんだが、残りの部分は他の奴に譲っちまったらしくてな。それだけが、心残りだ」
「へー……しかし、そうなると残りは肩の部分、右腕の部分、そして腰の部分くらいだろう? 何に使うんだろうな?」
「……知るか。私はそう聞いた。それだけだ」
左腕部を全て覆うガントレットと、腰から上を覆う鎧に、腿より下の部分が、緋蓮の所持している鎧になる。
そうなれば、残りは右腕部全てに、左腕の上腕の部分、そして腰と腿の部分になる。
頭部を守る兜も存在するのかもしれないが、妖の急所である心臓をカバーしていない時点で、妖にとっての鎧としての意味を為していない。
他の鎧で補っているなりしているのだろうが、羽月には今一その意図が掴めないでいた。
そこまで気にするようなことではないのは明らかなのだが、彼は妙な違和感を覚えるのだ。
態々半端な鎧を譲って貰うくらいならば、最初から別の鎧を作成して貰えば良い。
恐らく緋蓮の為に作成された鎧を譲って貰ったということは、つまり本来己に合わない筈の鎧を受け取ったことを意味する。
当然、再加工するなりしてサイズなどの調整はしている筈だが、そこまでする必要があるだろうか?
別の鎧を作成した方が遥かに己に合う筈だし、特別な理由がなければそうするべきだ。
そして何よりも羽月が気になったのは、そこまでの鎧を己が認めた一人にではなく、二人に分けて渡した『東』の妖の判断だった。
もしかしたら、片方はただのカモフラージュ、もしくは鎧は元々別々の場所に存在する必要があったのではないか?……そんな疑念が彼の脳裏を過る。
妖の世界は彼には到底理解できないものかもしれないが、それでも考えることを止めてはいけない。
止めてしまえば、彼など人間が道を歩く際に虫が踏み殺されてしまうように、何気なく殺されてしまうのだから。
「ふむ……まぁ良い。取りあえず、お前の背景はある程度分かった。それで、その鎧は上級妖に……碧に通用するのか?」
「……正直に言えば、分からん。通用して欲しいとは思うが、私じゃあ扱いきれないからな。それこそあのバケギツネなら、この鎧を扱いきれるんだろうが」
「ん? そういえば、その鎧はお前と同じで俺達宿主か、妖以外はすり抜けちまうんだよな? いったいどうなっているんだ?」
「さぁな……だが、少なくとも、お前達に移植された虹色の肋骨が関係していることは間違いない。何かしらの妖の肋骨か、もしくは妖が作ったものかは知らん」
「分からないことだらけだな……困ったものだ」
羽月は苦笑しながら、興奮によって薄れていた頭痛がぶり返すのを自覚する。
彼はまだ今朝の分の薬を飲んでいなかったことを思いだし、自宅へと戻ることにした。
同時に、他の宿主にも同じような刺客が向けられている可能性に気付きながらも、彼はそれを言及することをしない。
緋蓮もその可能性には気付いている筈だし、彼は他の宿主がこの程度の刺客を相手に後れを取る筈がないことを知っているからだ。
美空と山吹は別だが、愛梨にはブルー・シャーマンが居るし、一鬼に至っては碧の助けすら必要ないだろう。
羽月には妖の能力を定量的に感じる能力はないが、緋蓮の話では既に五尾の領域に突入しているとのことだった。
対して戦ってもいないのにそこまで強くなっていく一鬼に嫉妬を覚えずにはいられない彼だが、しかしそのようなことをしても意味は無い。
元々人間と妖ではポテンシャルが大きく異なるし、況してや一鬼もタダで強くなっている訳ではない。
妖は長い時間をかけての鍛錬の代わりに、人間ならば何百回も、何千回も発狂するような怨念と向き合い、克服することで強くなるのだ。
傍から見ればたた苦しんでいるだけに見えても、その実はそれだけの怨念と向き合っている。
その事実を知らされてしまえば、彼も文句は言えない。
長い間鍛錬に勤しむ人間にしろ、短期間で怨念を克服せねばならない妖にしろ、結局精神力がものを言う点は少しも変わらないのだから。
「一旦家に戻るぞ……薬を飲みたい」
「へいへい。分かったよ」
羽月はゆっくりと家に向かって歩き出しながら、己の無力さを呪う。
人間の中では遥かに上位に属するだけの洞察力と、感受性が彼にはある。それを活かせる頭脳もある。身体能力も、技術もある。
それでも、彼が超えたいと思っている男には敵わず、今この町で起きている戦いも、彼では足手まといだ。
何もかもが足りない……人間の世界で生きていくには十分過ぎるだけの能力がある筈なのに、そうではない別の世界ではまるで歯が立たない。
精神力という点に限っては、羽月も妖に匹敵するだけの自信があるつもりだ。
しかし、実際に相対すればその差は明らかになり、彼がいかに矮小な存在なのかが分かってしまう。
碧もブルー・シャーマンも、山吹も、緋蓮でさえも、彼よりも強く、歪な精神を持つ。
一鬼に関しても、彼ならばトラウマになるような状態から見事に復帰し、何の支障もなく生きている。
何度もトラックに撥ねられ、轢かれたにも関わらず、神谷一鬼という男はそれを乗り越えて平然としているのだ。
そんな一鬼に嫉妬しながらも、同時に羽月は敬意を抱き、そこに憧れを見出す。
妖であるからこそ生き残れたのではあろうが、それでも、例え人間であったとしても一鬼はきっと恐怖を乗り越えたに違いないと、彼は確信している。
羽月が一鬼を尊敬しているのは、能力が彼よりも勝っているからではなく、彼など比べるのもおこがましい程に強い精神を持っているからだ。
鬼は既に目覚めていたのだ―――妖として目覚めるまでもなく、ずっと前から。
一鬼が気絶してから……否、碧が彼を気絶させてから、既に十時間近くが経過した。
一向に目覚める気配のない一鬼ではあるが、その肉体は苦痛に反応してもがく。
故に、碧は未だに彼を拘束する為に、彼の上に圧し掛かって四肢を固定している。
彼女の質量は一トンを超える程である為、人間ならば彼女の体重のみで圧死するだろう。
しかし、不完全ではあるものの、人間ではなく妖である一鬼は、その彼女が更に力を込めているにも関わらず無事だ。
確かに五尾ともなれば一トン程度のものを持ち上げることも不可能ではない。
そもそも、碧の武器も重量ではなく速さであって、一トンを超える重量はその速さが生み出す重さを更に上乗せする要素に過ぎなかった。
一鬼がいかに彼女の体重に耐えられるだけの頑丈さを持っていても、彼女の振りぬく拳はそれを凌駕する威力で以て彼の心臓を破壊するだろう。
彼女からすれば、そのようなことをするつもりは毛頭ないが、不可能ではない。
「……おかしい。長過ぎるわ」
碧は、一鬼が一向に目を覚まさないことに内心苛立ちと不安を覚えていた。
彼が目覚めないのは恐らく怨念と向き合い戦っているからなのだろうが、それにしては静か過ぎる。
彼女から見ても多過ぎると言える程の怨念をその身に受けているのだから、もっと苦しんで、呻いて、悲鳴を上げる筈なのだ。
彼女の時はそうだった。殺戮者と呼ばれる程になるまで、彼女は殺して殺して、殺し続けて、その度に己を蝕んだ怨念に絶叫した。
碧は確かに絶対強者という、上級妖以上の者達が属するカテゴリにおいても、類を見ない強者だ。
超越者という例外は居たものの、それ以外の相手に彼女が殺し合いにおいて負けたことは無いし、師であった親もとうの昔に超えている。
しかし、最初は怨念の重さをものともしないとはいかず、常に怨念をその心臓に抱える度に苦しんで、泣き叫んだものだ。
殺戮者と呼ばれるようになった頃には、既に彼女もそれに耐えられるようになりはしたが、それでも、上級妖を殺害することで怨念を背負う度に、一日は苦しんでいた。
今一鬼が背負っている怨念は、彼女が背負った上級妖達の怨念に匹敵する処か、それ以上の量と質の怨念だ。
怨念を背負ったのはまだ実質二回目の筈だと言うのに、彼は慣れ過ぎている。
確かに彼は苦痛に呻き、暴れはしたが、碧が初めて怨念を背負った日は、このようなものではなかった。
その何百倍もの量の異質な怨念を背負っている彼が、この程度で済む筈がないのだ。
だというのに、彼は苦しみながらも苦痛による意識の覚醒もなく、意識を失ったままだった。
「どういうことなの……?」
碧の知る限り、全ての妖はそれこそ百に達する回数怨念を背負うくらいになるまでは、新たな怨念を背負う度に泣き叫び、短くて一日、長ければ数日の間気絶と覚醒を繰り返すものだ。
超越者は例外なのだろうが、少なくとも他の妖はどの位階であろうと関係なく、怨念を背負う度に苦しむ。
現在の碧ならば中級妖の持つ怨念程度までならば何の問題もないが、上級になればそうもいかない。
泣き叫ぶようなことはもうないが、やはり負担になるのだ。
しかし、一鬼はそのような状況に陥っていない。
碧が己の保身の為に背負わせた怨念に関しても、下級妖ならば数日間は絶叫し続ける程のものだった筈が、ただ気落ちした程度で済んでいた。
既に彼女も気付いている……一鬼の精神力、というよりも怨念に対する耐性は明らかに異常だ。
余りにも異常で、妖という枠を超越していると言っても過言ではないだろう。
それこそが、彼が『一鬼』である証だと彼女は知っている。
知っている筈なのだが、やはり実際に目の当たりにすると驚きが勝るのだ。
「あっ……」
ふと、碧は一鬼の体から漂う汗の匂いに気付いた。
全身がエネルギーの逃げ場を求めて熱を放ち、肉体に過剰にかけられた負荷が、苦痛が彼に汗をかかせているのだ。
そこで自然と、彼女は目の前にある彼のうなじに目が行った。
冷や汗であろうか?……雫になった汗が彼のうなじを静かに伝っていく様に、思わず彼女は生唾を飲み込む。
一鬼の肉体は改めてみれば引き締まっており、今は苦痛に歪んでいるものの、顔も決して悪くない。
碧が知る男と似ているという点だけは大きなマイナスだが、それでもやはり似ているだけで違う。
そこまで考えた時、彼女はふと己が置かれている状況に気付いた。
一鬼は意識を失っており、彼女を止める者はここには居ない……半径百メートル内には妖の気配が無い為、邪魔も入らないだろう。
己がいかに『おいしい状況』に居るかに気付いてしまった碧は、むくむくと湧き起こる衝動に身を任せたくなった。
それは元来彼女が決意したことに大きく反する行為ではあるものの、この一年間で彼女も変わったのだ。
実体化することもできず、ただ見ていることしかできなかった一年間で彼女は一鬼の多くの面を見てきた。
それ故に、彼女は今彼に対してある意味相反する二つの思いを抱いている。
「っ……!?」
いつの間にか碧の口元から垂れていた涎が、一鬼のうなじに垂れ、彼の体が一瞬びくりと動いた。
一鬼が起きてしまったかと思い、彼女は思わず一瞬だけ体を硬直させたが、それが杞憂であったと気付くと口元を拭う。
一度気付いてしまえば、元々欲望というものに忠実な妖狐はそうそう止まらない。
戦いという観点に関しては我慢というものも覚えさせるが、それ以外に関しては基本的に開放的なのだ。
元々欲求も殆どない為か禁欲的であった『東』の一族と比べれば、それこそ雲泥の差がある。
そもそも『東』の一族は人間とは大きく異なり、寧ろ獣に近い容姿を持つことを気にし過ぎていた。
伝説上の生物である竜のモデルになったその容姿は、確かに人間には程遠いだろう。
だが、女性は割と人間に近い容姿であるし、それならば禁欲的であることは、やはり別の理由と考えられる。
欲望に素直になれば良いであろうにと思う彼女ではあるが、元々欲望の大部分を鍛冶に費やす『東』の一族は、そういう風に考えることはないだろう。
どちらにしろ、妖狐である碧はここで態々己の欲望を抑える必要は無い。
だが、ただの妖狐としての彼女ではなく、彼女が目指した守護者としてとなれば、話は別だ。
守護者は庇護者を守ることのみに注力するべきであり、庇護者を傷つける行為はしてはいけない。
況してや、己の欲望の為に庇護者を貪り食らうなど、以ての外だ。
「っ……一鬼……」
碧は、その名を呼ぶだけで、己の体の芯が熱くなるのを感じた。
その名に如何程の思いが、願いが、怨念が込められているかを彼女は知っている。
余りにも忌まわしい過去に大きく関係する存在だと知っていても、彼女は彼を殺めることができなかった。
それをしてしまえば、彼女は紫の妖の言葉に、ブルー・シャーマンの予言に屈することになる。
どんなに望んでも彼女は破壊者でしかなく、殺戮者という二つ名を甘んじて受けるしかなくなってしまう。
碧は己の感情が果たして本物なのかどうか分からず、迷っていた。
彼女は一鬼に対して負い目があることも、打算もあることを自覚しているし、それを抱え込んだ上で彼の傍に居る。
いずれは彼の腕によってその心臓を貫かれるのだろうが、それまでは彼の守護者でありたいと彼女は思うのだ。
そういう意味ではその感情は非常に邪魔で、彼女の覚悟を揺るがす可能性もあるだろう。
とはいえ、彼女はその感情に任せて覚悟をなくす権利などなかった。
その点だけは絶対にブレてはいけない。それからだけは絶対に逃げてはいけない。
そうなれば、彼女は贖罪を果たすことなく、ただ一鬼に甘え、媚びるだけの生ける屍となってしまう。
本当はそうなりたい。だが、それは許されない。本心がそれを望んでも、現実はそれを許さない。
審判の日までは、ただ彼を守ることだけを生きがいとし、目的とするしか道は残されていなかった。
「……一鬼。一鬼、一鬼、一鬼一鬼一鬼―――」
一鬼の名を呪いのように繰り返し呟き、碧は必死にその名の奥にある意味を、背景を求める。
しかし、そうすればそうする程に彼女の脳裏には、紫の妖が過去に告げた言葉と、ブルー・シャーマンに言い渡された忠告が浮かぶ。
それに伴って湧き上がる復讐心が、目の前の遺産を貪ることを正当化させようとする。
彼女を突き動かす衝動には、何もやましいことはないと彼女に甘く囁く。
だが、そんなものはまやかしだ。
碧という殺戮者が目の前の鬼を貪るということは、確かに復讐になるかもしれないが、同時に己の誇りを傷つけることにも繋がる。
妖狐は誇りを大切にする種族であり、彼女もまさにその一人だった。
一度決めたことを覆すようなことは、それなりの理由がなければ許せない。
復讐はその理由に含まれるかもしれないが、それ以上に彼女は己の夢を優先したかった。
何よりも、そうすることこそが最大の復讐となることを彼女は知っている。
何もかも知ったような顔で、碧では守護者になれないと告げた紫の妖に対する復讐に、そして贖罪になり得るからこそ、彼女は一鬼を守る。
殺しては、彼女の夢も、贖罪も、復讐も全てが終わりを告げることを、彼女は知っているのだから。
だが、しかし……妥協しながらも、欲望に従うことを彼女は選ぶことにした。
妖狐の性だと嘯いて、己のこらえ性の無さを誤魔化して、彼女は彼を味見することを正当化する。
「ごめんなさい……ちょっとだけ。ちょっとだけだから」
碧は静かに一鬼の首元に顔を埋めながら、謝るように呟き―――味見を開始する。
そんな彼女を責めるように、外でカラスの鳴き声が響き渡った。
もう既に日が地平線に重なり、これから夜がやってくるのを予感させる頃合いに、美空は自宅へと向かっていた。
結局昨夜は帰って来てこなかった一鬼のことを心配に思いながらも、父もそのことを了承していたとのことから、彼女は文句を言えないでいる。
父が了承しているということは、それなりの理由があることを示しているからだ。
美空達の父……明は、一鬼が一矢の家に留まる理由を元々知らされていたか、或は察したのだろう。
その理由を理解しかねている美空からすれば、是非とも教えて欲しい内容ではあるものの、父は語るつもりはなさそうだった。
元々明と母である夜空は約束を守ることに関してはうるさく、美空も一鬼も余程のことがない限り約束を違えることがないように教育されている。
特に一鬼は、そこから更に守護者としての精神も刻み付けられ、外見こそ似ていないものの、美空よりも余程二人の子であると言えるだろう。
それなのに、一鬼は己と両親達の間に血の繋がりはないと、本当の親子ではないと言うのだ。
彼女よりも余程明と夜空の子に相応しいものを受け継いでおきながら、そのようなことを言う一鬼が、美空には悲しく、妬ましかった。
「……」
「美空、眉間に皺が寄っているわよ。まるでお兄さんみたいね」
「えっ? そうかな?」
「ええ。 美空のお兄さんは、いつもそんな感じね。無表情か、仏頂面が普通よ」
「う~ん……言われてみたら、確かにそうかも」
山吹の言葉に苦笑しながら、美空は一鬼の表情を思い浮かべてみる
確かに美空の記憶にある一鬼の表情は、半分程が平坦か、仏頂面ではあった。
笑っていることがない訳ではないのだが、基本的に彼はそういう表情をしていることが多い。
しかし、だからこそ彼の笑顔や驚いた表情がより色濃く記憶に残ることを、彼女は知っている。
そのギャップは中々に強烈なもので、恐らく愛梨もそれにやられたクチであろうと美空は予測していた。
一鬼は己を空虚であると評しているが、そのせいもあってか、誰かに求められると尽してしまう。
その際に、愛梨は日頃の無表情な彼と、感情を余すことなく顔に出した際の彼のギャップに惹かれたのではないだろうか?
最初の取掛かりどうにかなれば、一鬼は優良物件なので、惹かれるのも無理はない。
気配りはできるし、能力も高い上に素直で、ひねくれた性格はしていないし、何より一途だ。
心の機微に疎かったり、不器用な面があるものの、その不完全性こそが彼を遠過ぎる存在だと思わせない要因となる。
美空も妹でなければ、恐らく真っ先に狙っていたことであろう。
「あら、勝手にそんな理由だと決めつけられると困るわ」
「……か、柿坂……さん?」
「ええ、柿坂よ。貴方が今妄想していた一鬼先輩の彼女の。特に用はないわ。偶然通りかかっただけだから」
「うっ……そ、その……」
「大丈夫、心配せずとも怒ったりなんかしないわよ。貴方がどう思っていようと、私の先輩への思いが揺らぐことはないもの。寧ろ、そうやって勘違いしてくれていた方が楽で良いわ」
丁度曲がり角に差し掛かった頃に現れた愛梨に、美空は閉口してしまう。
美空は愛梨のことを苦手としており、できれば関わりたくないのが本音だ。
愛梨が一鬼の彼女であることを思い出してしまうが故に、彼女は会いたくないのだ。
しかし、会ってしまった已上は話をしない訳にはいかないので、彼女は仕方なく話をすることにした。
その思考すらも筒抜けであることを憂鬱に思いながらも、彼女は己よりも美しく、強い女性と向き合うのだ。
「そこまで褒めてくれるのは嬉しいけれど、生憎私はそこまで強い女じゃないの。勿論、そこらの人間に負けるつもりはないけれど、流石にブルー・シャーマン達には頭が下がるわ」
「いや、そこまでになったらもう比較する以前の問題と思うんだけど……」
「実際そうね。でも、私は上を見なくなったら終わりだと思うの。だから、できる限りは上を目指すわ。無理と分かれば、妥協するしかないけれど」
「柿坂さん……」
「それじゃあ、また今度会いましょう。本当に通りかかっただけだから」
「えっ?」
美空が余り話をしたくないことを、思考を読むことで理解したからであろうか?
愛梨は己の意見を告げただけで、その後は手をひらひらと振ると、背を向けてそのまま去ってしまった。
去っていく愛梨に唖然としながらも、美空はその後ろ姿から感じる力強さに圧倒される。
真っ直ぐ伸びた背筋から滲み出る意志の強さは、まさしく妖の部分を強く感じさせる程だ。
半妖である愛梨では、ただの人間である美空とは精神の強さがまるで異なる。
しかし、それを美空の弱さの理由にすることはできない。
同じ人間である羽月にしても、通常の人間とは大きく異なる強さを持っている。
片目を失い、惨劇を目の当たりにするというショッキングな出来事を前にしても、彼の精神は崩壊していない。
美空も崩壊までは行かなかったが、事故の日から精神が不安定になっているのは確かだ。
精神崩壊しないだけ、彼女もまだな頑丈な方ではあるのだろうが、やはり羽月達に比べれば見劣りしてしまう。
妖と人間で精神力を比較することはおこがましいことだが、同じ人間ならば話は別だ。
その同じ人間である羽月に比べても劣っているという点が、美空を追い詰める。
確かに羽月は美空よりも強い心を持っているだろうが、それでも互いに受けた被害を考えれば、美空の方が平気でなければいけない。
だというのに、彼女は一鬼に依存することで生き長らえており、羽月のように復帰しきれていなかった。
「……」
「美空、ちょっと良いかしら?」
「山吹?……どうしたの?」
「言い辛いでしょうけど、後であの子にはお礼を言っておいた方が良いわよ」
「え?……お礼? どういうこと?」
少しばかり躊躇いを含んだ声音で語りかけてくる山吹に、美空は驚いた。
何を言い出すかと思えば、愛梨にお礼を言っておく方が良いという進言であったのだから無理はない。
背景を理解していれば問題なかっただろうが、何の脈略もなく言われて固まらない者は居ないだろう。
いったい何故彼女が愛梨に礼を言う必要があるのかを山吹は説明していないし、美空にはまるで心当たりがないのだ。
そんな状態でそのようなことを言われても、混乱するだけなのは一目瞭然であろう。
山吹はそのような当たる前のことも分からないような者ではないことを、美空は知っている。
それならば、何故肝心の付加情報を伝えなかったのかと、美空は疑問に思った。
一鬼風に言うならば、『そこには必ず理由がある』からこそ、思考停止してはいけない。
だから、彼女は静かに頷く山吹に続きを促すことにした。
「もう消えているけれど、少し先に妖の気配があったわ。碧達とは違う気配だったから、恐らく紫の妖か藍色の妖ね。ブルー・シャーマンがそれを退けたの。殺害したのか、ただ撃退したのかは分からないけれど、あの子が貴方を守ってくれたのよ」
「えっ?……で、でも柿坂さんは私のことが嫌いだって……」
「恐らく貴方を助けたのは、貴方の為じゃないわね。寧ろ……」
「兄さんの、為?」
「ええ、貴方のお兄さんが悲しむのを恐れての行動でしょうね。あの子、凄いわよ……半妖とはいえ、そこまでできるなんて、只者じゃないわ。本当に美空のお兄さんが好きなのね。正直、怖いくらいよ」
「……そう、だね」
美空は少し前に愛梨に告げられた言葉を反芻しながら、山吹の言葉に頷く。
愛梨は一鬼のことを真っ直ぐ想っていて、何処までも一緒に行きたいと願っている。
ただ彼に甘えるだけの美空と違い、愛梨は一鬼の支えとなろうとしているし、その姿勢は一鬼に交換を抱かせる筈だ。
守護者としての精神を受け継いでいる彼にとって、同じように誰かに尽くそうとする姿勢は酷く好ましいものなのだから。
一鬼の肋骨に宿っている『虹色の肋骨』たる碧も同じく、彼の支えとなっていることだろう。
何せ一鬼は基本的に碧を引っ込ませないで常に実体化させているし、彼女もそれに応えている。
もしかしたら立場は逆で、常に実体化していようとする碧に、一鬼が応えているのかもしれない。
どちらにしろ、互いが互いを認め合っているという点では、美空よりも先を行っている。
何よりも、美空は碧が一鬼に対して、異常なまでに肉体的な接触を好んでいることを良く知っている。
何気ない動作の中で彼の肩に触れ、頬を、顎を撫でる、まるで彼を己の物と言わんばかりのその行動を一鬼は止めない。
それこそが、碧が彼にとってただの妖ではないということの証明になっていると、美空は考えていた。
一鬼に近しい女性の中では、やはり彼女が最も必要ないのではないか?……そんなネガティブな考えが、彼女の脳裏を過る。
「美空……余り深く考え過ぎない方が良いわ。考えても答えが出ない人間は、動き続けるしか道は無いから」
「……私は、自分で答えが出せない人間なのかな?」
「まだ分からないわ。でも、そういうこともあると知っておけば、悩み過ぎて自滅することはないでしょう? 覚えておいて損は無いわ」
「そうだね……覚えておく」
美空は山吹の言葉に頷くと、歩を再開した。
確かに彼女は勉強ができても、肝心の感情の整理などが得意な、己を制御できる人間ではない。
人間の命を軽視している一鬼達は、それが恐ろしい程にできていると言って良いだろう。
実際一鬼は不安定なのは己の出自に関することくらいだし、それ以外に対しては驚く程に強い。
羽月や愛梨もそれぞれ弱点はあるのだが、それ以外に関してはまるで隙が無いのだ。
その弱点すらも、いずれ超えてしまうのではないかと思わせる程に、彼らは強い。
友人達からも豆腐メンタルだと言われる美空ではあるが、同じ境遇になれば友人達もトラウマを抱えることになるのは間違いなかった。
何故、彼女以上の傷を負った筈の一鬼達はそこまで強くあれるのか、彼女には分からない。
それを分からないことこそが、彼女と彼らの差であることは、彼女も分かっている。
だが、いくら考えても、彼女にはそれが理解できなかった。
「……はぁ」
「あれ? 美空ちゃん?」
「えっ?……あっ、佐村さん。どうも」
美空はふと聞こえてきた聞き慣れた声に顔を上げ、そこに佐村優希の姿を見つけた。
一鬼の幼馴染であり、彼女にとっても既知の間柄である優希だが、最近は殆ど会っていない。
本来ならば、互いに名前で呼び合うような間柄であるべきなのだろうが、美空にはそのようなことはできなかった。
彼女にとって、優希はそこまで親しい存在ではないのだ。
一鬼も優希のことを余り歓迎はしていないことを、美空は知っている。
何が気に入らないのかは彼女には分からないが、一鬼は優希を酷く嫌っているのだ。
美空からすれば、どちらも高い能力を持っており、気が合わない筈はないのだが……どうにも謎であった。
確かにより上を目指すことを強いる嫌いはあるかもしれないが、そのようなものは適当に流しておけば、その内止む。
ただ、やはり美空も優希を好きになれないという点は同じだった。
一鬼や羽月のように高い能力を持ち、向上心もあり、上を目指すことを促しがちなこと以外は性格も良い優希ではあるが、彼女は言葉にできない壁を感じてしまう。
それこそが一鬼が優希を嫌っている理由なのかもしれないが、彼女にはそれを特定することはできない。
一鬼に関しては長年一緒に居たからこそ分かることも多々あるが、そうではない優希のことはまるで分からないのだ。
「今帰り?」
「はい。それで、何の用ですか?」
「いや、ただ声をかけただけなんだけど……迷惑だった?」
「いいえ、特に要がある訳ではないので」
「そう、良かった。ああ、そうだ。そういえば一鬼君は元気にしている? 最近会えなくて、少し心配なの」
優希は一鬼が常に自分と会える状況に居なければ気が済まないのだろうか、などと疑問を抱きつつも、美空はどう答えるべきか悩む。
やはりと言うべきか、物腰は柔らかい筈なのに何処か棘を感じさせる優希のことが、美空は苦手だ。
いったい何が彼女にそう感じさせるのかは分からないが、首の後ろがピリピリする感じが、彼女に警告している。
目の前に居る女性は危険だと、彼女の本能が知らせているのだ。
同時に、美空は心臓が重い熱を孕み始めたのを自覚し、妙な不快感に襲われる。
何か、今までとは全く違う感覚が彼女に、目の前の女性から離れろと教えるのだ。
それは、まるで目の前に絶対的な捕食者が居ることに恐怖する被食者になった気分のようで、彼女は背筋を冷や汗が流れるのを感じた。
いったい何がそこまで彼女の感覚に強く訴えてくるのかは分からないが、すぐさま優希から離れるべきであると、彼女は決断する。
「兄さんなら、いつも通りですよ。ただ、最近少し明るくなったかもしれません」
「へぇ……美空ちゃん、理由は分かる?」
「さぁ?……私も良く分からないんです」
「そう……引き留めてごめんね。帰ったら、一鬼君に宜しく。バイバイ」
「はい。さようなら」
美空の答えに特に深く追及することもなく、優希は退いた。
それに感謝しながら美空は彼女に別れを告げると、家のある方向へと一歩を踏み出す。
今から帰っても、一鬼はまだ帰って来ていないかもしれないが、それならばそれで仕方ない。
父の料理の手伝いをして、それから待っていればいつもの時間まで待っていて、帰ってこなければ二人で食事をするだけだ。
昨日久しぶりに父と二人きりで食事を食べることになった美空だったが、酷く寂しいものであった。
父も同じ感想であったらしく、いつもの寡黙な彼らしくもなく、一鬼の幼い頃についてポツリポツリと語ってくれたことは、彼女としては棚から牡丹餅であったが。
美空の記憶がない、まだ三歳から五歳頃の一鬼は、既にその時点で頭角を現しており、彼もそのことを相当喜んでいたらしい。
父は態々大切にしまっているアルバムを取り出して、幼い頃の一鬼の写真を見せながら様々なことを語ってくれた。
その時の父の表情は本当に昔を懐かしんでいるもので、いかに彼が一鬼を息子として認めているかを物語っている。
美空のことも同じくらい認めてくれているのかは彼女には分からないが、恐らくそれはない。
例え血が繋がっていなくとも、父である明の、更には母である夜空の意思を継いだのは一鬼だ。
美空にはそれができなかった時点で、彼女が父に認められることは永遠にないのかもしれない。
「ああ、そうだ。美空ちゃん……その妖には気を付けた方が良いよ」
「えっ?……あれ? 居ない……」
後ろからかけられた優希の言葉に、美空は振り返ったが、そこには誰も居なかった。
慌てて辺りを見回すものの、何処にも優希の姿は見当たらず、彼女は狐に化かされたような気分になってしまう。
今彼女が会ったのは、本当は佐村優希などではなく、実はただの幻でしかないのではないかという疑念が浮上するのだ。
勿論そんなことはないのだろうが、やはり気にせずにはいられない。
何よりも、優希の口から妖という単語が出てきたことが、美空には何よりの驚きであった。
何故優希がそのことを知っているのか、となれば答えは一つしかあるまい。
彼女もまた『虹色の肋骨』の宿主であり、美空達の妖のことを知っているのだ。
現在ここには藍色の妖は居ないと山吹達は言っていた為、残っているのは必然的に紫の妖になる。
その宿主が佐村優希である、ということはほぼ間違いないのではないだろうかと、美空は感じるのだった。
「山吹……佐村さんから妖の気配を感じた?」
「いえ、少なくともその気配は感じなかったわ。でも、分からないわね。妖同士は互いに実体化していないと気配を感じ取れないから。『虹色の肋骨』に引っ込んでいる間は感じ取れないのよ」
「そうなんだ……じゃあ、分からないね」
「ただ……あの子、一瞬だけ私を見たような気がするわ。注意はしておいた方が良いわね。美空のお兄さんや愛梨ちゃんはもう気付いているみたいだけど」
「えっ?……それって、佐村さんのこと?」
「ええ。ただの私の勘だけど、ね」
山吹はただの勘だと言うものの、美空はそれが限りなく真実に近いと感じる。
一鬼や愛梨、そして羽月ならば、一度でも優希と接触すればそのような予想ができてもおかしくはない。
況してや、妖という単語を何の迷いもなく優希は使ったのだ。
同じことを一鬼達が言われたのならば、すぐさま彼女が『虹色の肋骨』を所有していることに気付くだろう。
そもそも一鬼達は藍色の妖の動向を探っていたのだ。
優希と藍色の妖の動向の関連性の無さを考慮すれば、すぐに彼女が藍色の妖とは関係ないことが分かる。
美空の場合は、現在この町に藍色の妖が居ないということが事前に分かっていたからこそすぐに理解できたが、そうでなければどちらの妖の宿主なのか迷っただろう。
もしも優希が藍色の妖の宿主だったならば、彼女には優希を止めることができない。
なんだかんだで佐村優希と言う人間は頑固で、己の決めたことを中々覆そうとしない傾向にある。
妖という単語を意味深に語る時点で、彼女と彼女に宿る妖は無関係ではなくなる。
そうなれば、当然彼女は妖と協力関係にあると考えるのが妥当なのだ。
優希は一方的に誰かに利用されるのを嫌っていると知っているからこそ、美空はそう断言できる。
「やっぱりあの人達はレベルが違うなぁ……」
「そうね。彼らは頭脳に関してはそこまでではないけれど、勘や洞察力に関しては間違いなく天才よ。物事をなんとなく分かってしまう人種なんでしょう。まぁ、頭脳明晰でない分、まだ可愛げがあるわね」
「兄さんは賢いバカだし、しょうがないね。そこが良いんだけど」
「でも、賢いバカというのは、何をやらかすか分からないから怖いのよ? 未知数と言うべきか、不安定と言うべきか悩む処だけど……」
「確かに……」
美空は山吹の意見に思わず苦笑しながら、頷く。
一鬼達は読めない時と読める時があるので、そのギャップが恐ろしいと山吹は言っているのだ。
いつも読めないならば常に警戒していれば良いが、そこが曖昧な相手だと、いつ気を抜いてしまうか分からない。
そして、その気を抜いた瞬間に限って、彼らは予想を覆しにかかる。
もはやそういった才能があるとしか言えない程に彼らは好機を逃さない。
まるで他の者達にはない感覚を持っていて、それに従っているかのように、彼らは彼女達の想像を超えたことをしでかしてくれる。
何故そのような感覚を持っているのかは美空にとっては重要ではない。
ただ、それを為せるということが重要なのだ。
その差の理由を探し出そうとする程のエネルギーは、彼女にはない。
「取りあえず、まずは家に帰りましょう。あの佐村優希に関しても、今後の話はそれからね」
「……そうだね」
美空は山吹の言葉に頷きながら、歩き慣れた道を進んでいく。
その際、ふと彼女は山吹が優希のことをフルネームで呼び捨てにしていたことに若干の違和感を覚える。
しかし、その違和感は大したものではなかったので、すぐさま彼女はそのことを忘れることにした。
優希に対して山吹がどのような感情を抱いていようとも関係はないし、その逆もまた然りだ。
その違和感と優希の言葉を照らし合わせれば疑念が生じてしまうと知っていたからこそ、彼女は敢えて忘れることを選ぶ。
誰も彼も疑わねばならないとなれば、彼女はいったい何を信じれば良いのか分からなくなる。
そうなってしまえば、心の弱い彼女はその場に蹲って、今までそうだったように、一鬼が手を伸ばしてくれるまで殻に籠ることしかできない。
いつだってそうだなのだ。
一鬼はどんな時でも、彼女が躓いてしまった時、辛かった時に傍に居てくれる。
いつだって、美空は一鬼に寄生して生きてきた。神谷明と夜空の娘であることを利用して、一鬼に己を背負わせ続けた。
一歩間違えば命を失うかもしれないこの状況でも、彼女は彼に頼ろうとしている。
最後は彼に丸投げしようとしているのだ。
「……本当に空っぽだなぁ、私」
己の卑怯さを痛感し、それでもそれを改められない美空は一人そう呟きながら、彼女の家へと向かう。
変わらなければいけないと分かっていても、彼女は変わることによって一人で進まねばならなくなることが恐ろしかった。
一人で進み続ける自信など彼女にはない。
しかし、変わらなければいけないという漠然とした強迫観念も彼女の中にはある。
このままただ守られ続けて、依存し続けて、果たして彼女は一鬼に認められるだろうか?……答えは否だ。
もしも変わらなければ、彼女は永遠に彼に認められることはないし、彼の隣に立つこともできない。
ただ、泣いてその背中に背負われ続けるだけでは駄目だと分かっていても、それを内心望む己が居ることを彼女は知っている。
依存し続けて、一鬼を食いつぶすことを内心望んでいる己の卑怯さに、情けなさに苦しんでも、変われなければ意味がない。
神谷美空は神谷明と夜空の血肉を受け継ぎながらも、その精神を受け継げないまま、一鬼に依存している。
いずれは彼に依存するのを止めなければいけないが、彼女は本心では依存の継続を望んでいた。
だからこそ、己の卑怯さに苦しみながらも、結局は変われないのだ。苦しいのだ。
その様子を見守る山吹の瞳が怪しく輝いていることに気付くこともなく、彼女は歩き続ける。
その満足げに細められた橙色の眼が捉えていたのは、彼女の黒髪の中に混ざり始めた銀髪であった。
何も見えない暗黒の中に、彼は居た。
そこは前も後ろも分からず、果ては己がいったい何者であったかすらも忘れそうになる程の虚無。
己を保とうにも、そもそも己が何であったかを思い出すことすら許されない、忘却の彼方だ。
そこには何もない。何も必要ない。何も存在しない。
だが、そこで彼ははたと気付く。
何もないことを認識している彼の感覚は、本当に存在するのだろうか?
もしかしたら、彼にはそのようなものなど存在せず、ただ幻を抱いているだけではないのか?
そんな疑念が彼の脳裏を過り、波紋のように暗黒の世界に響き渡る。
いや、そもそも、彼そのものも実在する存在なのだろうか?
ここまで何かを考えている己自身すらも、本当は存在しないのではないか?
しかし、それを彼は素直に受け入れることができなかった。何かがそうではないと告げていた。
それが何なのかを思い出せないまま、彼は暗黒の中を彷徨う。
「……血?」
暫くの間彷徨っている内に、彼は血の匂いが何処からか漂ってくるのを感じた。
己の声が聞こえたのかも良く分からない程に虚ろな彼の自我は、それに導かれるように向かう。
歩く足があるのかも分からない。触れる手があるのかも分からない。見る目があるのかも分からない。
感覚も曖昧で、ただ己がそこに居るかもしれないという幻想にしがみつきながら、彼はそこに辿り着く。
しかし、やはりそこもまた暗黒でしかなく、彼には何も見ることは叶わない。
確かに血の匂いが彼をそこに導いた。そこに何かがあると彼に知らせていた。
もしかしたら、そんなものはただの幻想で、ただ幻覚が彼を導いただけかもしれない。
だが、それでも彼はそこに何かがあると感じていた。確かな感覚を、そこに見出していた。
そこには何も無い筈だ。だが、彼の心臓が燃え上がるように熱を発し、そうではないと告げる。
そこはただの暗闇でしかない筈だ。だが、彼の胸部に宿る苦痛が、そこにあるものこそが、彼を暗黒から解き放つと約束していた。
だから、彼はそれに従って眼を開いた―――痛みが導くがままに、鼓動が求めるがままに。
その果てに彼が見たのは―――彼に向かって拳を振り下ろす殺戮者の姿だった。
「っ!!」
不意に、彼は目覚めた。
目を覚ました瞬間に彼は己が何者であるかを思い出すことにする。
結果、己の名前が神谷一鬼であり、神谷夜空と神谷明の養子であることと、年齢は十九歳であることを思い出す。
更には、美空という名の義妹が、羽月と言う親友が、愛梨という同類が居ることも思い出せた。
『虹色の肋骨』の存在も、それが巻き起こした悲劇も、彼は覚えている。
己が何者なのか、そしてその名前が何なのかを思い出せることに安堵しながら、彼は深呼吸を一つした。
未だに全身が筋肉痛に似た激痛を伴う状態ではあるものの、状況は暗黒の中に居るよりも遥かにマシだ。
完全なる無は、そもそも有無の概念すら存在せず、まさしく何もない。
そんな状態にいつまでも居るのは、余りにも苦痛だ。
安堵を抱いたまま全身から噴き出る脂汗を拭おうとして、彼は己が床に倒れていることとに気付いた。
そのまま起き上がろうとするも、何かが彼の上に乗っている為、どんなに力を籠めても動けない。
いくら疲労困憊とはいえ、妖である彼が動けなくなる程の重さのものなどそうそうある筈がないが、動けないのは事実だ。
一鬼はいったい何が乗っているのか見ようとして首だけ動かし、金色の耳が視界の端に映った瞬間、すぐにその意味を理解した。
「碧、か?」
「一鬼……もう大丈夫なの?」
「?……ああ、そうか。俺は……怨念に対する苦痛で……今、何時だ?」
「午前一時……つまり、翌日よ」
「あー……そうなると、ほぼ二十四時間このままだったのか。その様子だと、少しも休まなかったのだろう? 済まなかったな」
一鬼は、全身が痛むものの、既に怨念による精神への苦痛が消えていることを理解した。
確かにブルー・シャーマンの言った通り、このようなことになるようでは、連日で己の過去を探ろうとするのは不可能だ。
ブルー・シャーマンの話ではそこまで多量の怨念ではないとのことだったので、一鬼は己がいかに未熟かを実感する。
実際はその想定の何百倍もの怨念をその身に宿していたことを知らないが故に、彼はブルー・シャーマンを責めずに、己の弱さを責めるのだ。
そんな彼に若干疲労の見える碧は静かに頷くと、彼の上から退いた。
一トンは間違いなく超えているであろうその重量から解放された一鬼は、ゆっくりと立ち上がると、近くにあったベッドにもたれかかり深呼吸を一つつく。
改めて彼が倒れていた床を見遣れば、不自然にへこんでおり、いかに碧の重量が規格外なのかが良く分かる。
そんな重量で押さえつけられながらも良く圧死しなかったものだと、彼は苦笑した。
「良いのよ。約束したでしょう?……貴方は私が守ると。あの約束は絶対に破らないわ」
「そうか。なら、俺もお前との約束を守って、お前の妹を見つけ出さないとな。後は……紫の妖も、か」
「……そう、ね。この前言った通り、できればまずは紫の妖をどうにかしたいわ。その時は、手伝ってくれるかしら?」
「そうだな……可能な限りは約束しよう」
一鬼は決意の籠った碧の言葉に頷くと、その赤い眼を細めて白雪のこと、紫の妖のことを想起する。
まだどちらの妖とも彼は出会っていないが、話を聞く限りではどちらとも彼が敵対する可能性は無い筈だ。
しかし、実際に相対すればそうはいかないであろうことは彼が一番分かっている。
いかにブルー・シャーマンが紫の妖を尊敬し、その精神性の高さを保障しようとも、碧には関係のないことだ。
そのようなものでは碧は止まらないし、一鬼にも止めることはできない。
復讐はそう簡単には鈍らないもので、寧ろ鈍ってはいけないものだ。
復讐は確かに己の為に行うものではあるが、その根底には他者への深い執着が存在する。
その執着が弱ければ弱い程に復讐の切れは鈍り、簡単に別の道へと方向転換できてしまう。
碧はその点においては全くブレがなく、一鬼もその真っ直ぐさを見習いたいと思う程だ。
ブレの多い彼女に何がそこまでさせるのかは彼には分からないが、そこに深い怨恨が根ざしているのは分かる。
「それよりも、本当に大丈夫なの? 貴方は上級妖でも苦しい量の怨念を背負ったのよ?」
「?……どういうことだ?」
「ブルー・シャーマンが背負わせた怨念は、確かに最初は大した量ではなかったわ。でも、その怨念が他の怨念を呼んで、想定量の何百倍にもなってしまったの。私でも一日は激痛にもだえ苦しむかもしれない量の怨念よ」
「……何? だとすれば、俺は運が良かったのか? そんな量の怨念を背負えば、壊れてしまう可能性の方が遥かに高いだろう?」
一鬼はブルー・シャーマンの想定していた量よりも遥かに多い怨念を背負ったということに驚いた。
ブルー・シャーマンがそのようなミスをする筈がないと彼は心のどこかで思っていたのだ。
しかし、碧は嘘を言ってはいないことが彼には何となく分かってしまうので、ブルー・シャーマンにもミスがあるのだと認めるしかなかった。
実際そこまで頑なにブルー・シャーマンがミスをすることを否定しても意味がない。
ただ、一鬼はブルー・シャーマンから何かを感じ取っていたからこそ、そう思っていたのだ。
その何かがはっきりと分からないことが問題なのだが、彼はそれに関しては過去を知ることで分かるだろうと楽観視していた。
頭で理解することができないものの、感覚に訴えかけてくるものがそこには確かにある。
彼が己の過去を知れば、自ずとその答えも分かるだろう。
「ええ、まったくその通りよ。はっきり言って、まだ怨念を受けるのが二回目の貴方では生存確率はまず零……生きているのがおかしいの」
「零……だと?」
「ええ、ただの妖なら確実に死んでいるわ。私ですらも、二回目に背負う怨念があんなものだったら、まず死んでいるでしょうね。それ程に凄まじい量の怨念を背負って、貴方は生きている……これは、本当に凄いことなのよ」
「そうか……本当に運が良かった訳だ。しかし、次もそうとは限らない。ブルー・シャーマンには、次はもっと慎重になって貰わないといけないな」
「言われずともそうさせるわ。同じことを繰り返させるようなことは、私が許さない」
一鬼はいかに己の運が良かったかに気付かされ、同時に本当にそれだけなのかという疑念も持つ。
碧ですら同じ状態になったら生き残れないということは、それこそ圧倒的な量の怨念であることは疑いようがない。
それをまだ完全に妖として目覚めていない彼が受け止めきれるなど、確かに本来ありえないことなのだ。
なればこそ、一鬼はいったいどういう妖であったのかを知る必要が出てくる。
本当に偶然生き残った……で済ませてしまえる程妖の世界は、怨念は甘くないことを一鬼は知っていた。
それこそ、彼も暗闇の中で血の匂いによって導かれなければ、戻ってこられなかったかもしれない。
実際は戻ってくることができた訳だが、その理由を偶然であると片づけるのは早計だ。
他の理由を探しておいた方が賢明であることを、彼は本能的に理解していた。
「あの後だが、気付けば暗闇の中を彷徨っていた……それこそ、己という存在すらあやふやな暗黒の中を。だが、少しして何処からか血の匂いがしてな……その元に辿り着いた時、見えたんだ―――俺に向かって拳を振り下ろす誰かの姿が」
「っ!……そ、そう」
「しかし、あの血の匂いは何だったんだ?……本当にリアルだったぞ。まるで、現実で匂いを嗅いでいたような気がする程だった」
「さ、さぁ?……い、いったい何なんでしょうね?」
「?……碧、歯切れが悪いが、何か心当たりでもあるのか?」
一鬼は碧の歯切れが悪いことにすぐさま気付き、彼女に問いかけた。
実を言えば、彼は暗闇の中から目覚める瞬間に見た者が誰であるかははっきりと分かっている。
単にかまをかけてみただけなのだが、やはり彼の予想は間違いないようだ。
碧が良く見せる怯えと罪悪感は、彼の過去と深く関係していて、その具体的な内容は……恐らくすぐに分かるだろう。
元々一鬼が彼女の一族の仇である鬼の一族であることから、彼も凡その結末は予測できていた。
彼が垣間見たのはその結末の一部でしかないし、それを出しにして彼女を責めることに意味は無い。
そんなことをしても彼が過去を取り戻せる訳ではないし、実際に時間を共有したことのない同族に思い入れなどありはしないのだ。
例え一鬼と同じ一族の妖がこれから現れたとしても、彼は美空達を守ることを選ぶ。
彼は妖として生きていくことを選ぶつもりではあるが、一族云々に囚われるつもりは毛頭なかった。
彼が守りたい『身内』は妖か人間かでは区別できない別のカテゴリであって、彼は一族本位では考えていない。
「な、何でもないわ。それよりも、少し熱いと思わない?」
「確かに少し熱いが……冷や汗で服がびしょ濡れだ。着替え……いや、まずは風呂に入りたい。ッ……何とか、動けるな」
「一鬼、まだ動かない方が良いわ……いくら生き延びたとはいえ、圧倒的な量の怨念を背負ったことに変わりはないのよ?」
「分かっている。だが、このままだと汗が気持ち悪いからな」
一鬼は未だに残る鈍痛に耐えながら立ち上がると、着替えを取り出して風呂へと向かった。
不安げな表情でその後ろをついていく碧ではあるが、彼を止めはしない。
今現在、彼女は己の過去の行いへの悔恨と、今日自分がしでかしたことへの羞恥に悩まされている。
下手に口を開けばホロが出てしまうが故に、口を噤むしかないのだ。
一鬼はそんなことは露程も知らず、ただ不快感を解消する為に風呂へと向かう。
そのまま洗面所に辿り着いた彼は、冷や汗がべったり張り付いた上着を脱いで洗濯機に突っ込むと、大きく伸びをした。
彼の動きに合わせて隆起した背中の筋肉に、思わず碧は己の目が引き付けられてしまうことを自覚する。
確かにその背中はかつて彼女が憧れた守護者のものに似ていた……だが、こうして目の当たりにすると、余りにも異なる。
もしも、本当に今目の前に無防備に晒されている背中が碧がかつて憧れた男のものだったならば、迷いなく彼女は怨恨が導くままにその心臓を貫いていただろう。
しかし、今彼女が抱いているのはそのような負の感情ではなく、寧ろ正反対のものだ。
ある意味では仄暗いものではあるのだが、そこには確かに憎しみは存在しない。
ただ、その逞しさを感じさせる背中を見るだけで、彼女は己の涙腺が緩んでしまうのを感じた。
「……碧、済まないが、暫くの間一人にしてくれないか? ずっと見られたままでは風呂に入れない」
「っ!……そ、そうね! そうするわ! 私は引っ込んでおくから、何かあったら呼んでちょうだい!」
「ああ、済まないな」
一鬼の言葉に若干顔を赤らめながらも、碧は慌てて実体化を解除した。
彼女の姿がそこから消えたのを確認すると、一鬼は痛む体を動かして服を全て脱いで洗濯機に突っ込む。
そしてすぐさま浴場に入った処で一瞬迷ったものの、彼はシャワーを浴びることにした。
今すぐに体に纏わりつく汗を洗い流したかった彼には、選択肢はシャワーしかない。
すぐさまお湯が出てくることを有難く思いながら、彼は一度溜息をつく。
一鬼が海外で宿泊したことのあるホテルや寮では、お湯は中々でない上に、使える時間が決まっている場合もあった。
酷い場合はそもそもお湯が出ない場合もあるのだから、日本のインフラは良く発達している方だ。
勿論快適であることが素晴らしい人材を生むとは限らないが、少なくともインフラという点に関しては、日本は本当に恵まれている。
「っ……何だ?」
不意に水が滲みるような感覚を首筋に覚えた一鬼は、その部分に軽く触れてみた。
すると、そこにはうっすらと歯型のような凹凸ができており、所々皮膚が裂けている。
彼は何時の間にそのような怪我を負ったのか心当たりがなかったが、恐らく気絶している間であろうと見当をつけた。
その傷も歯型ではなく、何処かにひっかかってできた傷なのかもしれない。
取りあえずそこまで気にすることでもないと彼は判断すると、体を洗い始めた。
まずは少しばかり癖のある髪から荒い始め、じっくりとシャンプーを滲みこませていく。
シャンプーの柔らかさを感じさせる匂いが嗅覚を刺激するのを感じながら、その心地良さに彼は思わず溜息をついた。
全身に纏わりつく汗がお湯によって流れていくのに合わせて消えていく謎の不快感に、自然と強張っていた筋肉が解れていく。
百八十四センチの長身に備わっている圧倒的高密度の筋肉は、今の一鬼ならばコンクリートを砕き、車の一つや二つならば簡単に破壊するだけの破壊力を秘めている。
しかし、そんな強靭な肉体も怨念を背負うだけで簡単に疲労し、苦痛を訴えかけてくるのだから、おかしなものだと彼は思う。
そして、それをものともしないという超越者に、彼は尊敬を抱かざるを得ない。
「……俺も、あの領域に辿り着きたい」
一鬼はシャワーを浴びながら、思わずそう呟いた。
超越者の持つ圧倒的な存在感に、信念に、彼は何度も惹かれ、憧れる。
そこにこそ、彼が本当に求めたものが存在するのではないかと信じて、彼はそこを目指すことを望む。
超越者を嫌っている碧には反対されると分かっていながらも、その欲求の強さに彼は抗えない。
碧と同じく、戦いの中に己の生の理由を見出そうとしてしまう一鬼などでは、超越者にはなれないかもしれない。
ブルー・シャーマン達ですらも誰かを憎むことがあるだろう。誰かを贔屓にすることもある筈だ。
だが、それで良いのだ……超越者は詰まる所何かの為に妖を止めた妖でしかないと、一鬼は感じている。
ただの私見でしかないものの、彼はそれが正しいと思っていた。
「だが……超越する為に全てを捨てるのは間違っているか」
しかし、一鬼は守護者としての精神を神谷夜空と明から受け継ぎ、その精神を支えとして生きてきた男だ。
彼はどう足掻いても人間ではなく妖でしかないが、確かにその守護者としての精神は受け継ぐことができた。
空っぽだった彼に、両親は余りにも立派な精神を与えてくれ、それに応える為に現在彼は美空を守っている。
それらを捨ててまで超越したいかと問われたならば、今の一鬼はそれを即座に拒絶できた。
彼は確かに己を愛する為に今までもがき続けてきたが、その為に大切な者を捨てては本末転倒だと考えている。
確かに超越者は割り切れる者がなるのかもしれないが、大切なもの以外を全て捨てていけば、いずれ何もかも失うことになってしまう。
一鬼は何かを得る為に何かを捨てることを否定しはしないが、それを素直に実践するつもりもない。
抱えきれる分は抱えて、できる限り失わないように最善を尽くすのが彼のやり方だ。
守るべき者は揺るがないが、そこに拘り過ぎてそれ以外を排除するのは、彼からすれば消極的でしかない。
確実に守りたいと思うからこそ守ることに全力を注ぐのだろうが、結果としてそれのみに依存してしまう。
もしもそれを守れなかったならば、簡単に壊れてしまうのは目に見えている。
「……俺が薄情なだけかもしれんな」
一鬼は体も洗い終えるとシャワーで泡を流しながら、思わずそう呟いた。
彼は美空達を守ることで……つまりは守護者としての精神を実践することで家族との絆を保っている。
もしもそれを失えば、彼は居場所を失ってしまうことだろう。美空を守れなければ、両親の恩に報いることができなければ、彼に存在価値はない。
だが、それで彼が壊れるようなことはない。
確かに苦しいだろう。辛いだろう。悔しいだろう。
だが、言ってしまえば彼が抱くのはそこまでなのだ……絶望から壊れてしまうことはあり得ない。
彼にとってその絆は希望ではあるが、同時にいつかは捨て去らねばならないものでもある。
彼自身全てを理解している訳ではないが、恐らく彼は美空達を失っても、壊れはしない……それだけは確かだ。
寧ろ、一鬼は復讐の為にその力を揮えることを内心喜ぶだろう。
彼は復讐が好きな訳ではない……ただ、それが彼に何の制限もなく力を揮うことを許すからこそ、喜ぶのだ。
守護者としての精神などかなぐり捨てて、一体の鬼として全てをかけて復讐に挑める。
そして、その末に憎むべき仇の心臓を握り潰せたのならば……彼はその瞬間にこそ、最も生を感じることができる筈だ。
結局の処彼もまた碧と同じ殺戮者でしかない……違うのは、そこに至るまでにそれ以外の要素をできる限り抱え込むか否かだけだ。
「……」
『一鬼先輩は……本当は……本当は―――狂おしい程に闘争に惹かれているのではありませんか?』
静寂の中、シャワーの音だけが響き渡る。
一鬼はその静寂の中で、何度も愛梨の言葉を反芻し、それを肯定し続けた。
人間としての彼は守護者としての精神を人間から受け継いだが、妖としての彼は破壊者であろうとする。
その双方が同居する為には、守るべき者を害し得る存在が必要だ。
そして、それは確かに今存在する……藍色の妖という、人間にとって大きな被害を出している妖が。
明日にでもなれば、すぐさまこの二日間程で何人殺されたか、ニュースに出てくる筈だ。
彼の予測では、既に数百に上る人間が食われている筈だ……それ程の数の人間が同じ地域で死亡すれば、流石にニュースになる。
今日の情報伝達速度を考えれば、寧ろ既にニュースで流れていなければおかしいくらいだ。
少なくとも行方不明になった人間が数十人単位で居るのは間違いないのだから、新聞にも載るだろう。
そこまで明確に敵対できる存在が居るのだ……一鬼は何の迷いもなく、その力を揮うことができる。
彼は理由が無ければ力を揮うのを嫌がる傾向にあるが、理由さえあれば揮うことを躊躇しない冷徹さも併せ持つ。
理由が無ければ無害であるものの、逆に言えば理由さえあればどこまでも暴力的になれるという読めなさが彼にはある。
それこそが、山吹が彼を恐ろしいと評した理由だ。
『お前と俺は確かに同類だが、少し違う。それは、守る意思を受け継いだか、壊す意思を受け継いだかだ』
『分からないわ……貴方の言っていることが分からない。私も貴方も理由さえあれば、殺しを楽しめる歪なのよ? 何処に違いがあるというの?』
一鬼はかつて碧と衝突した際の互いの言葉を思い出しながら、栓を捻ってシャワーを止めた。
軽く頭を振ると、そのまま彼は洗面所に出てバスタオルで体を拭き、着替え始める。
その間も彼の中で様々な者達との会話が反芻され、その度に彼は己が何者であるか、イメージを確かなものにしていく。
結局はただの破壊者でしかない碧と彼の違いを明らかにし、超越者となるのに足りないものを探す。
神谷一鬼からただの一鬼になる……つまりは人間から妖に戻ることは、既に決定しているに等しい。
後は、妖に戻った後に何をするかが大きな問題となる訳だが、それも決まっていた。
彼は超越者を目指す……碧と同じく殺し合いに愉悦を見出す彼ではあるが、その決意は変わらない。
圧倒的な存在感を持つ超越者に憧れ、同じ世界に生きたいと思ったからこそ、彼はそう決意したのだ。
「……ふぅ」
着替え終えると、一鬼は未だに湿気の残る藍色の髪の毛をそのままに、洗面所を後にした。
全身に纏わりついていた不快感はもうすっかり消えている。
彼はそのことに満足しながら、同時に緩やかに引いていく痛みに内心驚く。
まだ全身が筋肉痛のように痛むものの、その程度は気絶する前の全身を針で刺されるような痛みと比べれば、遥かにマシだ。
峠は既に超えたのだと、痛みの程度が教えてくれているのだろう。
それ故に、一鬼は己が怨念を背負いきれたのだと改めて実感する。
今は気怠さを感じているが、もう少しすればそれも落ち着いて、いつもの彼に戻れる筈だ。器にほんの少しばかりではあるが何かが注がれたような、そんな充実感を彼は感じていた。
まだまだ彼を満たすには心もとない量ではあるが、それでも彼は確かに満足感を感じている。
まるで失ったものを取り戻しているかのように、パズルのピースが少しずつ埋まっていくかのように、彼は少しずつではあるが己が満たされていくのを感じているのだ。
「碧、もう出て来ても良いぞ」
「……気分はどう? 何処にも異常はない?」
「ああ、大丈夫だ。しかし……誰かに心配されるというのは、嬉しいものだな。俺が存在していても良いのだと錯覚できる。まぁ、所詮は錯覚でしかない訳だが」
「一鬼……他の者達はそうかもしれないけれど、私は違うわ。私は誰よりも貴方の存在を祝福するし、貴方の存在を肯定する。誰かに否定されても放っておきなさい。貴方の存在は貴方を否定する者達の為ではなく、貴方の存在を肯定する者達の為にあるのよ」
「……それは間接的に、俺にお前達の為に尽くせと言っているのか?」
「いいえ、違うわ。私が言いたいのは、何もかも受け入れる必要はないということよ。勿論否定的な意見も必要ではあるけれど、存在そのものを否定するようなものは無視しなさい。本当に生きていく気があるなら、そのような雑音は必要ないわ」
一鬼の言葉に待っていたと言わんばかりの勢いで実体化する碧に、彼は内心苦笑していた。
碧は本当に一鬼の存在を肯定してくれるという面では有難い存在だが、それが過剰過ぎる嫌いがある。
誰かに存在そのものを否定されることなど誰もが経験することがある筈であって、彼だけの問題ではない。
己の存在が本当に必要か不必要かを決めるのは他者だが、生きるか死ぬかを決めるのは本人だ。
どんなに存在を否定されようとも、どんなに苦しかろうとも、生きていこうとする意志があれば、生きていける。
殺そうとする者が居れば、それに抗えば良い。相手にも己の全存在をかけさせれば良い。
本当に生きる意志がないのならばそこで終われば良い。
一鬼は少なくともこのまま終わるつもりは無い……どんなにクズだと言われても、不必要な存在だと言われても生きていく。
それこそ、存在否定とは振るい落としのようなものだ。
生存競争の中で他者を否定して蹴り落とし、己が生き残る為の行動か、もしくはただの遊びかで評価は大きく分かれるが、他者を蹴り落とす行為であることに変わりはない。
ただ、それが前者であるならば互いに離れるかどちらかが倒れるまでぶつかり、後者ならば報いを与えるのが一鬼のやり方だ。
存在否定で壊れてやるつもりは、彼には到底なかった。
「碧、こんなことを言うのは無責任かもしれないが、俺は存在否定に素直に従って己を殺すつもりはない。己が他者を不幸にする存在だったと納得できたとしても、山奥にでも引き籠るさ。死んでやりはしない」
「でも、親しい者達を傷つけて、それを『お前の諦めが悪いせいだ』なんて言う輩も中には居るわよ?」
「バカな。親しい者を傷つけているのはそいつだ。そいつ以外の誰が悪いんだ? 俺が焚き付けたのか? 俺がそう命じたのか? 違う。全く違う。そうやって己が他者を傷つける為に他人を利用しているだけだ。罪悪感を否定したいだけだ。バカらしい……生きる為に必要なら、それにも全身全霊を込めて向き合うが、ただの遊びならそれ相応の報いを与えよう」
「成程……貴方はやはりそういう考えなのね。私も同じような考えではあるけれど、貴方程強くないわ。貴方は本当に……強いわね」
「そうでもない。俺は自分が本当は何者なのかを知るまでは死ねないんだ。ただ、それだけの理由で足掻いているに過ぎない」
一鬼は碧の言葉を否定しながら、内心己の無責任さに苦笑する。
結局彼も己の愉悦を戦いの中にしか見いだせない者なのだから、他者を蹴落とすことで愉悦を見出す者を見下すことはできない。
勿論一鬼は戦いを相手に強いることは自分側に確実な理由が無ければしないし、蹴落とすことに興味は無かった。
しかし、それでも他者を傷つけることで愉悦を感じているという点では同じだ。
違いは、強者を相手にするか弱者を相手にするかだけで、本質は変わらない。
一鬼はそれでもそういったものを否定する。
本質的に同じだとしても、他者を……しかも弱者を能動的に傷つけるようなことは、彼からすればナンセンスだ。
戦う意思を持っている者同士がぶつかり、互いの全てをかけて戦うのならば、それこそ彼にとっては理想の形だ。
だが、抗う意思すら持たない弱者を能動的に攻撃するのは彼からすれば信じられない愚行である。
それこそ、一鬼からすればそのような行為は個人的には好ましくない。
神谷一鬼としての彼が両親から守ることを第一とするように教育されたからこそ、彼は極端にそういった事を嫌うのだ。
そういう意味でも、彼が人間として過ごしたこの十九年間は無駄ではなかったと言えるだろう。
血が繋がっていないとしても、その意思を受け継ぐことはできると、家族は彼に示してくれた。
奇しくも、碧がかつて言った言葉が現実になったのだ。
「それを強いと言っているのよ。空っぽな者がそこまで強い意思を持つことはあり得ないわ。憧れも執着も抱くことがないのだから、当然ね。貴方は自分をその人種だと言っていたけれど、私の意見は違うわ。貴方はただ飢えているのよ……もっと刺激的で、血生臭い世界で生きたいと思っているのよ。空っぽなのは我慢しているからじゃないの?」
「……否定はしない。俺もお前と同類だからな」
「でも、貴方は人間を襲わなかったわよね? 考えても見て? この世界には腐る程人間が居て、『虹色の肋骨』である私の協力を得られたならば、殺しも証拠隠滅も容易なのよ? 貴方がその気になれば、ずっと刺激的で、血生臭い世界はすぐそこにあったの。それでも、貴方はブレーキを外さなかった。これは凄いことなのよ。空っぽであるからこそ刺激を外に求めてしまう筈なのに、貴方はそれをしなかった」
「俺はそこまで凄い存在ではない。ただ、そんな発想が無かっただけだ。そもそも、そんな力も戦意もない相手を何故殺さねばならない? 良いか?……俺が貫きたいのはお前達妖の……強者の心臓だ。理由がない限り、か弱い人間のそれは対象にしない。分別を持たねば歯止めが利かなくなる。そして、分別を捨てればいずれ全てを滅ぼすだろう。俺は全てを破壊するつもりなどない」
「ふう……そうよ。その信念こそが、貴方を貴方たらしめているの。貴方に強さを与えているの。人間でしかない両親から、妖である貴方は確かにその信念を受け取った。貴方は、確かにそこに絆を見出している。言ったでしょう?……例え血が繋がっていなくとも、本当の親子になれると」
「……ああ、まったくその通りだったよ」
一鬼は碧の言葉を肯定しながら、いかに彼女が彼のことを見ていたかに気付かされた。
まさしく彼が反芻していた言葉を……例え血が繋がっていなくとも本当の親子になれるという言葉を、彼女はここで告げる。
しかも、本当に心から美しいと思わせる最高の笑顔で、心の底からそう思っていると感じさせる声音で。
一鬼はそんな彼女に感謝し、同時にその裏にあるものを見出そうとする。
彼は元々碧との関係を割り切ったものにする算段で動いていた。
実際問題彼はまだ美空の為ならば碧を切り捨てることを即座に選べるが、このまま距離が縮まれば、迷いが生じてしまう。
その迷いが美空を殺し得ることを彼は予感していた。だから、碧との関係を割り切ったものにしたかった。
しかし、彼女はそんな彼の心算を知ってか知らずか、彼の懐に飛び込んでくる。
碧はまるで砂に滲みこむ水のように彼の心に入り込み、彼が明確にラインを引こうとするのを邪魔していた。
何かあった時には彼女を確実に切り捨てることができなければいけないというのに、そうさせまいと彼女は彼の懐に突き進んでいく。
その表情が、その声が、その仕草が彼を困惑させ、彼女が入り込む余地を生み出す。
そこに理由があるのか否かが分からない彼は、ただ一度決めた線引きを遵守しようとする。
しかし、その度に彼女は彼を揺さぶり、入り込んでくるのだった。
「一鬼、貴方はもうすぐ人間ではなくなるけれど、神谷一鬼であり続けることはできるわ。その精神を失わない限り、貴方は神谷一鬼よ」
「……そうだな。俺は神谷一鬼であり続ける。俺は神谷明と夜空の息子だ。例え血の繋がりがなくとも、この絆を失うことはない。俺は……確かに彼らから精神を、信念を受け継いだ。俺はこの絆を死ぬまで大切にしていきたい。俺は……彼らの愛に応えたい」
「ええ、それで良いの。貴方はそうやって、確かな意思を持っていて。そうすれば、怨念に負けることも無い筈だから」
「言われずともそうするさ」
一鬼は、少しずつ彼女が懐に潜り込んでくるのを肯定し始めている己が居ることに気付いている。
それが意味するのは、彼が確実に妖側に傾倒し始め、以前にも増して完全な妖に近づいたということだ。
しかし、それでも彼は美空と明を守ることを第一とすることを止めはしない。
このまま妖として覚醒を続ければ、いずれは碧までもが守るべき者のカテゴリーに入り込むのは明確だ。
彼の存在を肯定し、彼を導き、諌めてくれる彼女は、このままいけば間違いなく彼にとっての居場所の一部となる。
それでも……それでも彼は不確かな部分がある已上彼女を受け入れきれない。
彼女の妹である白雪や紫の妖、更には彼自身の出生についての決着がついた時、彼は今現在明確に引いているラインを新たに引き直そうと思う。
その時になれば、全ての『虹色の肋骨』との決着がついている筈だ。
少なくとも、彼が見極めるべき妖はもう居ない状態になる為、少しばかり手を遠くまで伸ばせる。
その時、彼は碧の手を取ろうと思う……その時まで彼女が彼を裏切らずにいれば、だが。
それはただの予感でしかないが、一鬼はいずれ彼女が原因で命を失うような、そんな気がするのだ。
「俺は―――神谷一鬼だからな」
その予感を振り払うように彼は笑った。
その笑顔を見た碧の心臓の鼓動が速まっているとも知らずに。その笑顔が彼女の執着心を助長してしまうとも知らずに。
その笑顔こそが、その姿こそが、彼女が求め続けたものだということも知らずに。
そう、彼はただ笑った―――これから先に待ち受ける結末を知らぬまま。




