第十二話
世界の全てを敵に回しても誰かを守ろうとする……そんな言葉を誰もが聞いたことがある筈だ。
勿論、それは現実ではなく、歌の中の歌詞などでしか聞けない言葉であり、本当に誰かからその言葉を、本物の思いと共に言われた人間など、そう居ないだろう。
だが、確かにそれだけの覚悟を持てる人間というものは存在する。
正確には、人間である筈なのに人間ではない者達が、人間の世界には紛れ込んでいるのだ。
それを人々は時に化け物と言い、異常だと罵り、そして……妖と呼び、恐れた。
本当にたった一人の為にそれ以外の全てを敵に回すと言うのは、聞こえは良いものの、実際はただの狂人だ。
本当にその者の為に生きると豪語のならば、世界中を敵ではなく味方にするつもりでなければ、いずれ潰れる。
本当にその物を守りたいのならば、二人だけで逃げ続ければ良い。
人間ではその程度しかできない……その他大勢とぶつかることなど、できはしないのだ。
それができてしまう者は、人間ではなく、人間のふりをした妖なのだ。
だから、人間には世界を敵に回すことはできない。
人間には、幻想を現実に浸食させる力があっても、それで現実を塗り替えてしまうだけの力も、覚悟もない。
だが、超越者はその力も、覚悟も持ち合わせている。
本当に世界を変えてしまいかねない力を持っているからこそ、彼らは超越者なのだ。
「ゴハッ……グエェ……オエェ……」
暗闇の中、彼は不意にこみ上げた吐き気に思わず吐いた。
彼の吐いたどす黒い何かは、地面を濡らすことなく、そのまま透過していく。
『虹色の肋骨』である彼を構成する要素は、この地球上のどの物質とも触れ合えない。
彼は蘇った死者であって、その拠り所となっている宿主と、同じ『虹色の肋骨』、更には妖しか彼に触れることはできないのだ。
彼は荒い息をしながらも、確実に己が超越者の領域に近づきつつあることに思わず笑みを浮かべた。
その体に怨念を背負い続けたことで、吐血してしまう程に体はボロボロになってしまっているが、それでも間違いなく彼は目的に近づいている
夜空に浮かぶ星々に手が届く日はそう遠くない。もうすぐ、彼が憧れた者と同じ領域に辿り着ける……それが、彼に精神を破壊しかねない程の痛みと、苦しみを乗り越えさせた。
世界を一人で破壊しつくせる程の能力を持っていた者と、同じ領域に辿り着ける……それこそが、痛みを麻痺させる最大の要因だ。
彼はまさしく世界全てを敵に回してでもたった一人の大切な者を守ろうとした超越者に、もうすぐ並べる。
そう考えるだけで、彼はどんな怨念も、どんな殺戮を行うことも、耐え続けることができた。
「グッ……後は……アアアアアアアア!!」
次の瞬間、彼は絶叫と共に、その体からいくつもの偽物を再現した。
彼には本物の劣化である偽物を生み出すことしかできないが、その代わりにそのリスクは低い。
ただ、今回ばかりは己の背負う怨念の一部を宿す偽物を再現した為に、苦痛が伴う。
その腕も、足も、眼も……殆どの要素が偽物で構成されている彼は、既に自分というものがない。
全てが借り物で、贋作で、偽物だ。
だが、ただ一つ……星に手が届くのを夢見たことだけは、紫炎の超越者に憧れたことだけは、はっきりと覚えていた。
夢の為だけに怨念をその心臓に宿し続け、結果として彼の精神は擦り減り、今や記憶もあやふやだ。
しかし、精神は歪ではあるものの、殺戮に愉悦を覚えることなどできなかった。
彼は、かつて伝説とまで言われた妖狐最強の殺戮者……碧のように、誰かの心臓を握りつぶすことに興奮するような戦闘狂ではないのだ。
ただ、それ以上に強大で、誰よりも神に近かった鬼のように、静かに、ただ夢だけを追っていたかった。
だから彼は進む……その夢がもしかしたら最初に願ったものとかけ離れているかもしれないとしても。
だから彼は食らう……人間を殺す度に、怨念がその罪を教えることに、かすかな痛みを覚えながらも。
だから彼は静かに冥福を祈る……今彼の心臓に宿る、千を超える犠牲者達に。
その祈りがいかに傲慢で、滑稽なものかを知りながらも彼は祈った―――少しでも、憧れた超越者に近づく為に。
早朝、一鬼は余りの激痛に目を覚ました。
全身を針で刺されたような痒みの伴う、精神を食い尽さんとする激痛に、彼は無意識の内に強く歯を噛みしめてしまう。
全身から噴き出る冷や汗を気持ち悪く感じながらも、彼は起き上がることすら難しい今の状態に、内心苦笑した。
苦笑するとは言っても、実際にできる程の余裕は彼にはなく、ただ声を上げないように力の限り歯を噛みしめるだけだ。
「ぐ……が……」
既に二百キロを超えた体重を誤魔化す為に常に生み出している空気の足場を維持することすらも難しくなり、一鬼がのたうち回る度に、その体を支えるフローリングが悲鳴を上げる。
上手く呼吸をすることすらも危うくなり、必死に酸素を求めるように彼は呼吸をしようと試みた。
本当は、そのようなものなど必要ないのだと内心分かっていながらも、まだ払拭できない人間の部分が、それを辞めることを許さない。
人間の振りをしているだけで、妖である一鬼には酸素という要素は必要ない。
ただ、今は長年人間に擬態していたせいで、その癖をすぐさま矯正することが叶わないのだ。
今はまだ、人間としての部分が残っている。まだ、美空達と、父達と同じ人間で居られる。
だが、それは彼にとって同時に忌まわしい足枷でもあり、それを破壊する為に彼は怨念をその心臓に背負う。
その結果がこれだ……この痛みだ。
ブルー・シャーマンは忠告し、一鬼はそれを理解した。
しかし、怨念を背負うことが死ぬ程苦しいことを、今この瞬間彼は本当に理解したのだ。
最初は大したことがないと思っていた筈が、たった一夜置くだけで、精神を摩耗させる激痛に変わるなど、予想できる筈もない。
ただ、覚悟して甘受するしかない……死を覚悟する程の怨念をその身に背負うには、それくらいの覚悟は最低限必要だ。
「ぐ……っ!」
「一鬼……少し押さえさせて貰うわよ」
「~~~!!」
「あの骸骨……何が、少し過去への扉を開くよ! 私が与えた怨念の何百倍もの量を、一度に与えるなんて……!」
一鬼は、突然実体化した碧によって床に押さえつけられた。
両足に彼女の足が重く圧し掛かり、両腕はその手で以てしっかりと固定される。
その際に彼にかかる、今の彼の体重でさえ軽いと一蹴できてしまう圧倒的な重量に、彼は叫びそうになるのを堪えた。
現在の彼の体重二百キロ超を遥かに上回る、桁が変わる程の重量差に、彼はもがいても全く動けない。
だが、動けないだけで、痛みそのものは消える筈もなく、彼はそのまま力の限り歯を食いしばり、耐える。
一鬼のそんな姿を見て、不安と怒りに支配されそうになりながらも、碧は彼を押さえ続けた。
彼女は彼に不用意に少なくない怨念を背負わせてしまったことを後悔していたが、その量の何百倍もの怨念が、今彼の心臓に絡みついている。
それを齎したのはブルー・シャーマンという超越者であり、彼はその超越者を尊敬し、信用していた。
そんな彼に、この規格外の量の怨念を一度に背負わせるという非道さに、彼女は怒りを爆発させたくなる。
だが、今は彼をどうにかするのが先だ。
まだまだ彼女と比べれば力の差は歴然ではあるものの、既に彼は五尾に近い力を有している。
現在二人が居る場所は、かつて一矢の家であった場所であり、彼女達以外には誰も居ない。
暴れられても問題はないが、苦痛を乗り越えた後に彼が後悔するのは間違いなかった。
だから、彼女は彼を押さえ、そのまま動けなくするのだ。
「一鬼、ごめんなさい。私はただの殺戮者でしかないの。私には、貴方の痛みを消してあげることはできないわ」
「……っ……がっ!?」
「ごめんなさい……私にできるやり方は、これしかないの」
「あ……お……い……」
碧は、一鬼の顎に鋭い一撃を加え、気絶させた。
ただ殴るというだけの行為でも、彼女の圧倒的な重量と力が加われば、酷く乱暴で、必殺の一撃になり得る。
勿論、彼女はそれを完全に制御できるだけの力量と経験を持っているが、中途半端に頑丈な今の一鬼を相手に手加減するのは難しかった。
事実、今彼を昏倒させた一撃も、山吹や緋蓮に加えれば、それだけで殺害できてしまう程の威力だ。
彼女は強い……今の一鬼と比較して、実に千倍もの力の差がある。
だが、その力故に、彼女には壊すことしかできず、誰かを守る為には、他の何かを壊すしか術がない。
だからこそ、彼女はかつて一人の守護者の生き様に憧れ、その守護者が心の底から愛した存在を守ろうと思ったのだ。横から掻っ攫おうとしたのだ。
彼女でも、誰かを守ることができると、証明しようと思ったのだ。それを肯定してくれる光を手に入れようとしたのだ。
だが、碧にはできなかった……彼女は、所詮殺戮者でしかなかった。
守るどころか、彼女は怒りの余り、その至高の存在を一度は殺害し、己もまたそれを守護する超越者によって殺害された。
彼女にできるのは、破壊することだけ……だが、その破壊を外に向けることで、己の後ろに居る守りたい者を、守れる筈……彼女はそう思っていた。
だが、実際はその腕は背中に背負うべき、大切な存在を貫いたに過ぎず、彼女の夢が、幻想である証明にしかなることは無い。
「……次は、間違わないから。だから……お願いだから、私を貴方の守護者でいさせて」
「残念ながら、そうはいかないようだ」
「……ブルー・シャーマン……どの面を下げて、ここに来たの?」
意識を失っても激痛から解放されることのない一鬼を床に押さえつけながらも、碧は突如現れたブルー・シャーマンを睨んだ。
そんな彼女に対して特に反応することもなく、ただ蒼炎を纏う超越者は佇む。
彼女はその余裕が嫌いで、憎い……その態度が、彼女がかつて憧れた超越者を思い出させるが故に。
目の前に居る超越者が、彼女が憎む超越者の親友であるということを知っているが故に。
しかし、そんな碧の感情など歯牙にもかけず、ブルー・シャーマンは優雅に片腕を上げた。
「……確かに、まさかこれ程の怨念を背負わせることになるとは思わなかっただろうな。それに関しては私に非がある。だからこそ、私がその子の面倒を見よう」
「そうやって、奴に恩を売って楽しいかしら? そんなことの為に、この子を利用させはしないわ」
「殺戮者よ……私はそのようなことの為にここに来たのではない。愛梨が心配しているからこそ、私は今お前と相対している。ただやり直したいだけの、お前とは違う」
「……あの小娘の為ですって? 良くもまぁ、平然とそんなことを言えるわね。貴方達超越者は、そうやって嘘をつかない代わりに、全ての真実を話もしない。狡いのよ、貴方達は」
「それとこれとは話が別だ。己の好き嫌いを優先して、本当に守るべきものを失うことにそれ程慣れたいか?」
ブルー・シャーマンの言葉は、その全てが碧にとって鋭利な刃物だ。
彼女の心に深く刻まれた傷を抉るように突き刺さり、その罪悪感を甦らせる。
ブルー・シャーマンの蒼炎が彼女の世界を破壊した紫炎を、その鋭く研ぎ澄まされた空気が最高の戦士の持っていた空気を彼女に思い出させるのだ。
ブルー・シャーマンと向かい合う時、彼女はいつもその奥に紫の妖の存在を見ている。
共通点が多いが故に、彼女は超越者を憎み、そして羨む。
彼らは彼女がなりたかった存在そのものだった。
超越者とは、妖としての壁を超越した者であり、その本質は実質妖ではない。
妖であった頃の名残からか、その気配は妖のものと似通るだけで、根本が異なるのだ。
だが、実際に相対すれば分かる……彼らは妖とは一線を画した存在であることが。世界を変えられる程に強い精神と、力を持つことが。
それが彼女には羨ましかった。妬ましかった。
彼女も精神力はあるつもりだし、力も超越者に次ぐ程にあると自覚している。
だが、それでも格の違いというものは出てしまうもので、やはり彼女は超越者には絶対に勝てない。
事実、二百年前彼女は瀕死の超越者に、万全の状態でありながら、一撃で殺害されるという醜態を晒している。
それ程に、彼女と超越者の間には差があるが、その差が何なのかが、彼女には分からない。
だが、その何かを持つ超越者が彼女は憎い……それだけは確かなことだった。
「他者の闇を覗き見るような輩が、知った口を利くわね」
「否定はしない。そういうものだ。私はそのことを恥じることはないし、事実その子の役に立てている。私は、この能力を誇りに思っているのだ。その程度で揺らぐと思うな、弱者よ」
「っ……この私を弱者と呼んだのは、貴方が初めてよ。奴でさえも、そんなことは一度も……」
「当たり前だ。彼はお前を一応は認めていたからな。同じ守護者としてではなく、ある意味何かを極めた物として、だが。私もその敬意を考慮して、お前を殺さなかった。そうでなければ、既にお前は死んでいる。殺戮者よ、お前はお前自身が思っている以上に弱い」
「……だから、何だと言うのよ」
ブルー・シャーマンの言葉を否定したい碧ではあったが、過去を振り返れば彼の言葉が正しいことは明白で、否定できない。
彼女は確かにただの妖の中では最強であろう……事実、一度も負けたことはないのだから。
だが、超越者という妖でありながら妖ならざる存在には、彼女は勝てなかった。
己の誇りを捨ててまで、己が守ろうとした存在すらその手で傷つけて、それでも勝てなかった。
ただの一撃で、彼女は死んだ。殺された。
そんな彼女を、同じ超越者であるブルー・シャーマンが弱いと言ったとしても、彼女にそれを否定することはできない。
「良いか? 本来ならば、お前がその子の『虹色の肋骨』であること自体が危険なのだ。それを見逃しているのは、お前をいつでも消せるからであって、信用しているからではない」
「なら、今ここで試してみる?」
「バカを言うな。苦しんでいるその子を放置して、か? そもそも、愛梨が近くに居ない時点でお前の勝利はありえないのだぞ。私は死なない上に、お前を殺せるだけの力もある。お前が勝利するには、愛梨を狙うしかないのだ。しかし、それもその子が動けない時点で叶わぬ。忘れぬことだ……戦闘力だけあっても、ただの妖でしかないお前は超越者には勝てない」
「っ……」
「そこまで私の世話になりたくないのならば、今回は素直に引く。邪魔をされてその子に悪影響が出ては敵わんからな。だが、これだけは言っておく……その怨念がいったい何処から来たものなのか、お前は知らねばならない」
「?……どういうこと?」
ブルー・シャーマンに碧が勝てないことは、明白だ。
特に今の状況では、唯一の弱点である宿主は彼女の攻撃が届かない範囲に居る。
いくら攻撃しても死なないブルー・シャーマンと、動けない一鬼のことを考えねばならない碧では、まず勝敗は決している。
試すまでもなく、この状況では彼女が勝てないことが分かってしまう訳だ。
だからこそ、半分死を覚悟していた彼女であったが、ブルー・シャーマンの口から出た思わぬ言葉に、面食らった。
素直に引こうとするブルー・シャーマンを怪しく思いながらも、彼女は内心歓喜する。
彼女にとって大切な時間を……一鬼の面倒を見るのを邪魔されずに済むからだ。
結局の処、彼女も己の過去の傷をどうにかする為にこうして彼の世話をしている已上、ブルー・シャーマンのことをとやかく言える立場ではない。
だが、彼女にはその憎しみに任せて感情をぶつけることしかできないのだ。
ただの私怨であると分かっていても、碧は超越者と相容れることができなかった。
できれば超越者とは関わりたくないし、関わるのならば、それ相応の痛みを与えたいというのが、彼女の思いだ。
その願いはある意味生前に叶えることが出来たが、結末を見れば、彼女の完全敗北であったことは否めない。
紫の妖に与えた痛みと同じだけの痛みを彼女も背負い、結果として彼女は情緒不安定に陥ったのだから。
結局彼女は一度たりとも超越者に勝てたことは無い。
「いずれ分かる。その時こそ、お前が本当に守護者になれるのか否かが分かるだろう。まぁ、結末など分かり切ったことだが」
「いったい何を言って……」
「自分の撒いた種だ。自分で摘み取ってみせろ。それができないようならば、私と彼が動く」
「待ちなさい! 訳の分からないことばかり言っていないで――! くっ!!」
意味深な言葉と共に去っていくブルー・シャーマンに舌打ちしながら、碧は一鬼を押さえつけるのを再開した。
意味深な言葉が何を意味するのかは彼女には理解できなかったが、予想することはできなくはない。
ブルー・シャーマンは彼女が撒いた種と言った……つまり、過去に彼女が為したことが関係しているのは間違いないだろう。
だが、分かるのはそれくらいで、いったい何がこれから先、彼女が守護者になれるか否かを決めるかは分からない。
碧は苦笑するしかなかった……ブルー・シャーマンの言葉は意味深なだけで、何の役にも立たないのだ。
寧ろ、下手に身構えさせてしまうだけな上に、いったい何に備えれば良いのかが分からないのだから、忠告処か逆効果になる可能性も高い。
意味深なことを言うくらいならば、何も言われない方が遥かにマシだ。
自分で考えろと言って放り出して良いのは、相手にその試練を乗り越えるだけの力量がある場合だけである。
それを見極めることができないような者が誰かを導こうとするなど、愚の骨頂だ。
一から十まで教えるのが面倒ならば、その必要がない者だけ相手取って生きていれば良い。
それができないのならば、一から十まで教えることを怠ってはいけないのだ。
もしも怠れば、結果としてすれ違いが起き、最終的には決別にまで繋がることになることすらあるだろう。
碧はまさにそれを経験していたが故に、意味深なことしか言わないブルー・シャーマンを嫌悪する。
「一鬼……貴方だけは、ああはならないで」
碧は、意識を失いながらも未だに苦痛に呻く一鬼に、静かに呟いた。
どんなにブルー・シャーマンが精神的に強く、圧倒的な能力を持っていたとしても、それを使おうとしなければ無能と何ら変わりはしない。
実際、ブルー・シャーマンは彼女に意味深な言葉を告げただけで、何一つ答えに辿り着けるヒントを与えはしなかった。
これでは何もできない無能となんら変わらないではないか。
集団の中では、働き者の無能が一番有害であるという言葉は、ある意味真理だ。
劣っていて、平均的な能力すら持たない者が進んで多くの事柄に関われば、話はこじれる。
そして、それは能力があってもまともにこなすつもりがない者の場合でも同じだ。
今回のブルー・シャーマンはまさにこの『能力があるのにまともにこなす気がない者』に当てはまる。
碧からすれば、良い迷惑でしかない。
『今の』一鬼もいずれ超越者になるかもしれない可能性がある。
既に五尾に匹敵する能力を持っている彼ではあるものの、未だにその妖としての気配は完全なものではない。
彼女が覚えている感覚では、まだ半分も覚醒してくれていない為、六尾の領域を超えるのはすぐだろう。
そう遠くない内に彼は彼女に匹敵する……いや、それ以上の能力を手に入れることになることを約束されていた。
その時、彼がブルー・シャーマン達のようになってしまわないことを、彼女は切に願う。
「……貴方に、祝福を」
一鬼の頬を撫でながら、彼女は静かに呟く。
彼女は心から彼の生を祝福し、そしてそれを己が今守っているという事実に歓喜する。
確かに彼女は破壊者でしかなく、殺戮者と呼ばれた彼女こそが本当の彼女なのは間違いない。
だが、殺戮者でも誰かを守ることはできると、彼女は信じていた。
そうあることを願った。
しかし、悲しいかな、生前それは証明されず、碧は殺戮者でしかないということが判明しただけ。
今まさに、第二の生を与えられたに等しい彼女にとっては、宿主が一鬼であったことはまさしく僥倖であった。
彼女の罪の象徴であり、希望である彼さえ失わなければ、彼女は一度は散った夢を取り戻せるかもしれない。
そんな淡い期待が、彼女にはあった。
結局の処、碧もまたブルー・シャーマンと同じく、一鬼を利用しているに過ぎないのは確かだ。
ブルー・シャーマンは己の崇拝する超越者の為に、彼女は己の夢を叶える為に、妹の為に、彼を助けている。
どちらも負い目があり、後悔があり、怒りがあるのも共通している点であろう。
しかし、それでも彼女はブルー・シャーマンとは違う。一鬼を心から愛せる自信がある。
彼に寄り添うことこそが、彼女の夢だったのだから。
愛梨は、嬉しくない答えを持ってきたブルー・シャーマンに思わず溜息をつきながら、一鬼の居る家から去ることにした。
元々、一鬼に異変が生じたというブルー・シャーマンの言葉に従い、ここまで彼女は来たのだ。
彼に異変が起きたというのならば、それは間違いなく昨日背負った怨念が原因であろう。
事実、一鬼の家の前までやってきた時、彼女は失神しそうになる程の怨念を中から感じた。
だからこそ、ブルー・シャーマンにすぐさま様子を確認して貰ったのだが、戻ってきた直後に言われた言葉が『帰るぞ』の一言だったというのが、彼女には納得できない。
聞けば、碧がブルー・シャーマンの協力を拒絶した為、ブルー・シャーマンは一鬼を下手に危険に晒さない為に諦めたとのことだった。
しかし、そんなことで諦められては、一鬼の容体が心配になる愛梨は不安でしょうがない。
勿論、ブルー・シャーマンが本当に危険な状態にある一鬼を放置する筈がないと彼女は信じているが、もしものこともある。
彼女は一鬼が本当に大丈夫なのかが、不安で仕方がなかった。
「碧さんは、一鬼先輩のことが心配じゃないの?……私なら、迷わずブルー・シャーマンに任せるのに」
「あれと愛梨では立場が全く異なる。あれは、超越者が憎いのだろう。だからこそ、私や彼を……紫の妖を嫌う」
「そんなこと……では済まされないか。私も、昔はこの世界が憎かったから、憎しみの力は良く分かる、かな」
「そういうことだ。憎しみはそう簡単に風化しない。否、してはいけないのだ……あの殺戮者の場合はな」
「?……何か知っているの?」
「ああ、少しばかりな……移動しながら話そう」
まだ午前五時になったばかりの時間帯である為、道路には人の姿は見えない。
ブルー・シャーマンの言葉に頷くと、愛梨は静寂が支配する早朝の道路を、一人歩いて自宅に向かっていく。
五月になっているとはいえ、まだこの時間帯では寒気を感じる気温で、突如体を撫でた風に、彼女は季節の変わり目を感じた。
深呼吸と共に、一鬼は大丈夫だと己に言い聞かせながら、彼女は歩を進める。
そこで愛梨は、首から下げたドリームキャッチャーが、人間には聞こえない音域の音を発して震えていることに気付いた。
愛梨の能力が発動しそうになると、特殊な波動を発するようにブルー・シャーマンが調整したそれが、彼女に己の能力の発動を告げる。
その時、彼女は初めて己の能力の制御が甘くなっていることに気付く。
幸い、能力が展開したのはほんの数メートル程度の範囲だったので、彼女は特に思念を感じることはない。
しかし、彼女が精神的に揺らいでいることを、それが告げているのは確かだった。
「安心しろ、愛梨。あの怨念はあの子にしか纏わりつきはしないし、明日になればあの子に食われている」
「……一鬼先輩は、そんなに強いの? そこまではっきりと断言できる根拠は何?」
「なんだ。あの子を信じ切れていないのか。安心しろ……あのような出来損ないの怨念にやられる程、あの子は弱くない。あの子こそが選ばれし子であり、至高なる者なのだ」
「ブルー・シャーマン……意味深なことだけ言われても、分からないんだけど」
「ふむ……まぁ、そのことを愛梨が知る必要は無い」
「……それで?」
ブルー・シャーマンが、一鬼や碧の過去について既にかなりのことを知っているのは間違いない。
それにも拘わらず、何か不味いことがあるのか、ブルー・シャーマンはそのことを彼女に明かそうとはしない。
まるで、彼女に知られては不味いことであるかのように、必死にそれを覆い隠そうとしているのが、彼女には良く分かった。
勿論、彼女がそれを不満に思わない筈がないのだが、文句を言うことはしない。
ブルー・シャーマンは一鬼の為に動いている……それだけは間違いないのだ。
愛梨もはっきりと理解している訳ではないが、蒼炎の超越者は間違いなく一鬼を守ろうとしている。
その理由が何かは、ブルー・シャーマン程の能力を持たない彼女には理解できる筈もないが、やはり彼が一鬼の為に動いているのは確実だ。
そこに感じるのは、後悔、後ろめたさ、決意……様々なものが綯い交ぜになっているが、しかし優しさを感じさせるもの。
ブルー・シャーマンは間違いなく一鬼を見守っている。
親が子を見守るように。兄が弟や妹を見守るように。
「殺戮者のことだが、あれは昔とある超越者に出会った。私も『彼』も認める、最高の超越者と、彼女は出会ってしまった」
「ブルー・シャーマンと、紫の妖が認める?……でも、最強は紫の妖なんでしょう?」
「ああ、守護者の中では『彼』が最強だった。しかし、最高の超越者は例外だ。いや、その超越者こそが全ての始まりだったと言うべきか」
「?……良く分からないけれど、つまり、その最高の超越者には、特別な力があったの?」
「そうだ。その存在を巡って争いが起き、最強の超越者は妖狐を滅ぼした。故に、殺戮者は『彼』を憎むのだ」
「一族の仇……そういう、ことか」
碧を駆り立てているものは、紫の妖への復讐……そして、その同類である超越者への嫌悪であると、ブルー・シャーマンは言っている。
愛梨もその言葉に、碧のブルー・シャーマンへの辛辣な態度を思い出し、静かに頷いた。
確かにその通りであるのは間違いないと彼女も感じているし、実際そうなのだろう。
しかし、それと同じくらい彼女はブルー・シャーマンが碧を憎んでいるのではないかと、内心感じている。
ブルー・シャーマンは声を荒げるようなことは全くなく、感情の起伏などないのではないかと思わせる存在だ。
しかし、そんな蒼炎の超越者も紫の妖の話になれば、憧れを含んだ声音でそのことを語る。
一鬼のことになれば、まるで親が子のことを話すように、暖かな雰囲気を発する。
彼に感情が存在しないなどあり得ないし、当然怒りや憎しみというものも存在する筈だ。
その地獄の業火のような灼熱を、彼が碧に向けている……愛梨にはそう見えて仕方ない。
最強の超越者であった紫の妖すらも死亡したという、昔の出来事が何か関係しているのではないかと、愛梨は考えている。
しかし、それでも紫の妖と、一鬼と、ブルー・シャーマン、そして碧の四人の妖を繋ぐ共通点は、彼女には見つけることができない。
その何かこそが一鬼の出生に大きく関わることかもしれないのに、ブルー・シャーマンはそれを話そうとはしないのだ。
ブルー・シャーマンの能力によって、一鬼が己で過去を知ることができるとはいえ、過去を既に知っているのに黙っているのは余りにも酷である。
その冷たさにも似たブルー・シャーマンの対応と、一鬼に向ける暖かい感情のギャップを、彼女は理解できないでいた。
「私にとっては海の向こうの話だったが、それでも妖狐がいかに非道だったのかは良く知っている。しかし、それでも……どんなに非道であったとしても、同胞の死というものは、復讐を促してしまう。特に、皆殺しともなれば仕方ないことだ」
「皆殺し……どうして、紫の妖はそこまで?」
「簡単な話だ。『彼』は最高の超越者の守護者であり、それを害する者達を滅ぼした。ただ、それだけの話だったのだ」
「先に仕掛けたのは妖狐だったということは……碧さんは逆恨みしているの?」
「……ある意味その通りだが、少しばかり説明するのは憚られる。後は、実際に見てみるのが良い。その果てに、殺戮者があの子の傍に居ることの危険性が理解できるだろう」
ブルー・シャーマンの言葉に静かに頷くと、愛梨は心の中で溜息をついた。
やはりと言うべきか、ブルー・シャーマンは実際に過去を見せる以外では、過去のことを詳細に語るつもりはないようだ。
そのことは仕方ないとしても、やはり一鬼のことが心配であることに変わりはないし、彼女は不安で仕方がない。
未知のものを前にして不安にならない者は居ないし、それは半分妖である彼女も例外ではないのだ。
超越者達でさえも、それは変わらない筈だと愛梨は感じている。
ただ、彼らは簡単に全てを知ることができてしまうが故に、未知のものというものに向き合う経験がないだけで、実際は未知を恐怖する筈なのだ。
そうでなければ、完全無欠とまではいかないものの、超越者は本当に隙が無い、恐ろしい存在であることになる。
一鬼がその領域に向かっているのを密かに感じ取っている彼女としては、そうではないことを祈るばかりだ。
もしも一鬼がそうなってしまえば、彼女は恐らくもう彼についていけない。
「ブルー・シャーマン……超越者は、やっぱり孤独なんでしょう? そこまで強い意思を持ってしまえば、他者と相容れることなんてできない筈だから」
「……そうだ。我々超越者は孤独だ。だが、寂しくは無い。何故ならば、我々には方向性は異なるものの、同じ境遇の同志が居るのだから。妙な話だが、私と紫の妖がそうであるように、絶対強者も、超越者も、孤独ではあるが、一人ではないのだ。それに、我々はただの人間や妖とだって、友好を結べる。道を違わない限り、あの子と愛梨達は離れ離れになることはない」
「……なら、安心かな。でも、私は……っ!? この……感覚は……」
不意に妙な気配を感じ、愛梨は辺りを見渡すが、何も見当たらない。
だが、確かに彼女の妖としての感覚が、何かが近くに居ることを示している。
彼女の感知能力は純粋な妖の半分程度のものでしかないが、それでも感じるということは、妖の類であることは間違いない。
彼女は回りを警戒しながら、すぐに動けるように腰を低くした。
「ブルー・シャーマン……いったい何が居るの?」
「ふむ……どうやら、藍色の妖が仕掛けてきたようだ。中々に粋なことをしてくれる」
「だから、いったい何が……」
「来るぞ……」
「だから……ひゃっ!?」
中々答えてくれないブルー・シャーマンに苛立っていた愛梨だったが、突如飛びかかってきたものに驚いて、後ろに咄嗟に飛び退いた。
その瞬間、彼女が先程まで居た場所に何かが重量感の伴う鈍い音と共に降り立つ。
何が飛来してきたのかを確認するよりも先に、彼女は本能的に距離を取っていた。
半妖である彼女は妖には及ばないものの、人間に比べれば比較的高い身体能力を有している。
その反動として体重はかなりあれなのだが、そこは彼女も諦めている。
取りあえず、いったい何が襲い掛かってきたのかを確認しようとした彼女だったが、眼に入った物に思わず目を見開いた。
そこに居たのは、人間に近いものの、明らかにそれ以外の要素を含んでいる異形だったのだ。
機械的な造形の土色の肉体と、濁りのある橙色の眼が特徴的な、爬虫類のような何かが、吠える。
「妖? でも、この中途半端な気配はいったい……?」
「これは紛い物だ。本物の妖にあるべき自我が感じられない。成程、これが藍色の妖の能力か」
「ブルー・シャーマン……勝てる?」
愛梨がそう尋ねると、ブルー・シャーマンはつまらなそうに頷いた。
当たり前のことを聞くなと言わんばかりのその態度に、彼女は内心安堵しながらも、目の前に居る何かの動きに注意する。
全く動かないことが却って不気味さを際立たせる為、彼女は警戒を解かずにじりじりと後退した。
それでも不動の相手に、彼女は違和感を拭い去れないが、警戒は解かぬように気を付ける。
「何を当たり前のことを。今の状態であっても、一万や二万程度はものの数ではない。況してや、たかが一体の下級妖を相手に、私が負ける筈もあるまい」
「それじゃあ、お願い」
「ああ、もう終わった」
「えっ?……あっ」
しかし、そんな愛梨の無意味と言わんばかりのブルー・シャーマンの言葉と共に、その何かはその場に崩れ落ちた。
一瞬何が起きたのか理解できなかった彼女だったが、すぐさまそれがブルー・シャーマンの能力であることに気付く。
一鬼や彼女を引きずり込んだように、目の前の怪物すらも、蒼炎の超越者は己の世界に引きずり込んでしまったのだ。
やはりと言うべきか、ブルー・シャーマンはまともに戦おうとすれば、絶対に勝てない存在であることは間違いない。
半径五メートル以内に入ってしまえば、彼は一瞬で相手を『境界』に存在する己の領域に引きずり込めるのだから。
確かに最強ではないかもしれないが、その能力は守護者としては最優秀かもしれない。
「……終わったの?」
「もうそれはただの抜け殻だ。既に本体はあちら側で処分しておいた。やはりと言うべきか、紛い物だった」
「その紛い物というのは何?」
「作り物だ。それは、ただ怨念を背負わせるのと、実力を確認する為の駒なのだろう」
「怨念を……?」
「微量だが、あのシェイプシフター程度の精神にならば効果はあるだろう。こちらをかき乱すことも目的かもしれん」
つまらなそうな口調で語るブルー・シャーマンを他所に、愛梨は既に事切れているという怪物の姿を改めて確認してみた。
ファタジーでいう竜人に近いのだろうが、改めて見てみると、やはり機械的過ぎる。
その理由が何なのか不思議に思っていた彼女だったが、すぐさまその理由を理解することになった。
事切れたそれの体の一部が崩れ、露わになった内部は空洞だったのだ。
これはただの人形で、本物ではない。
ブルー・シャーマンが紛い物だと言った理由は、これだったのだろう。
愛梨はそのまま崩れ去っていくそれを眺めながら、いったい藍色の妖の能力が何なのか考えてみることにした。
恐らく何かしらの操り人形を生み出すのが能力なのだろうが、果たしてそれは何処までのものを作成できるのかが問題になる。
ブルー・シャーマンですらも対応できないレベルのものまで作れるのか、それとも下級妖程度が限界か?
更に言えば、一度にどの程度の量までなら作ることができるのか、作ったものは完全に自立して行動できるのか?
どこまでができて、どこからはできないのかを明らかにしておけば、戦いの際に大分楽になるのは間違いない。
「見ての通り、それは空っぽだ……何もない。だが、間違いなく妖だ。無理やり魂を込めたのだろうが、生憎生命を再現するには、それでは足りぬのだよ」
「生命を、再現?……まさか、藍色の妖の能力は……」
「まだ完全に決まった訳ではないが、恐らく間違いないだろう。同じような妖に以前会ったことがある。しかし、このような手段に出たと言うことは……そろそろ動くな」
「藍色の妖が?」
「そうだ。この感じだとやはり大した能力はではないが。今のままならば、あの子に任せても問題あるまい」
「……本当に大丈夫なの?」
元々ブルー・シャーマンが一鬼と藍色の妖をぶつけるつもりだったことは、愛梨も知っている。
だが、藍色の妖は超越者である彼よりも位階が高いのだ……今の一鬼では勝ち目がないのではないかと、彼女は心配せずには居られない。
今背負っている怨念をどうにかできれば、それに見合うだけの能力を彼も得るのだろうが、それでもブルー・シャーマンに届き得ないだろう。
そんな状態で、ブルー・シャーマンよりも強いかもしれない相手とぶつかるのは危険過ぎる。
確かに一鬼を妖として覚醒させるには、それなりの相手が必要だろう。
ただ戦うだけではなく、実際に彼がその腕で心臓を貫き、粉砕することができる相手が。
だが、その相手にブルー・シャーマンよりも格上である可能性がある者を選ぶことに、彼女は賛成できないでいた。
「今のままならば、な。しかし、万が一の時の為に私も待機する。何かあれば、可能な限り全力を出す。その時は、次の日は動けないと考えろ。愛梨の体力では、私もそう力を使えん」
「……分かった」
「安心しろ。今回はあの子に戦いがどんなものかを教えるのが目的だ。それ以外にも、あの子がどちらに転ぶのかも見たいが……そこまで期待できる相手ではない」
「どちらに転ぶ?……どういう意味?」
「そのままの意味だ。あの子が殺戮者と同じ側に転ぶか、我々と同じ側に転ぶかを、見極める。可能であれば、だがな」
一鬼は昨日、己自身の口で闘争を望んでいると確かに言っていた。
愛梨もまだ実感してはいないが、碧がいかに闘争に愉悦を見出していたかはブルー・シャーマンから聞いている。
それに、緋蓮や山吹も同じことを語っている為、碧の件に関しては事実と考えて間違いない。
違う時代に生きた妖全てが知っている程に有名な妖ならば、噂も日の無い場所にたった煙などではない筈だ。
その碧と同じように、一鬼が戦うことを望んでいる。そこに愉悦を求めている。
ブルー・シャーマンはそれを理解している上で、見極めると言っているのか、そもそも分かっていないのか、愛梨は分かりかねた。
そもそも二つの異なる性質を持つと言う考え方はできないのだろうかと、疑問が生じる。
本当に破壊と守護は同居できないものなのだろうか?併せ持てないものであろうか?
少なくとも愛梨はそうは思わない。
現に一鬼は美空達を守ることを、己を手に入れるのと同じくらい最上の目的としており、守る者の精神を持っている。
決して、ただ破壊することを望んでいるのではなく、守るべき者を守りたいと思う気持ちがある筈なのだ。
そうでなければ、ここまで早急に力を求める必要もないのだから。
ただ暴れまわりたいのならば、今は潜んで力を蓄えていれば良い。
己から全ての妖と相対し、その危険性を見極めようとしている彼に、守護者としての精神がない筈がないのだ。
「両方を併せ持つ、という見方はないの?」
「……正直な処、分からないのだ。あの子に関しては、私も分からないことだらけでな……全く以て、二人揃って私を驚かせてくれる」
「むぅ……また、訳の分からないことを言って」
「こういう性分でな。取りあえず、あの子に藍色の妖のことについてメールを送っておけ。今はまともに話せる状態ではあるまい」
「……そうね」
愛梨は溜息をつくと、携帯を取り出して早速メールを送ることにした。
どうせ今送った処で、一鬼にそれに応じる余裕がないことは明白だが、早めに知らせておいた方が良いのは確かだ。
碧が代わりにメールを見てくれる可能性もある已上、このまま放置しておくよりは遥かに良い。
それに、彼女は彼の家を訪れたことをアピールしておきたいと思っていた。
他者との付き合いというものは、一定以上の関係にまで辿り着かなければ、互いに関心があることを示す必要がある。
そうしなければ、自然とその関係は消滅してしまうし、再開した時に、やり直すことも難しい。
一鬼がそういうことを気にする男ではないことを彼女は知っているが、保険の為にこうやって少しずつアピールしておかねば、彼女は不安で仕方なかった。
そして、何よりも彼に、関心を持っている者が存在することを彼女は伝えたい。
一鬼は居なくても良い存在などではないのだと伝えることには、大きな意義がある。
彼が最も必要としていることは、彼が彼自身を愛することであり、愛梨の行為はそれを手伝うことに繋がる筈だ。
実際に己は居なくても良い存在だと、内的な要因のみで判断している者など存在しない。
己が為したこと、誰かにありがとうと言われたこと、愛されること……そんな様々な外的要因を所持することで、己を愛するに至る。
彼女はその一部を担い、彼を導く。
そうすることが、かつて彼女を導いた彼への恩返しになるのだから。
ここ最近、羽月は毎日のように激痛で目を覚ましていた。
薬によって痛みを抑えるのも難しくなっているのか、それともそもそも薬など意味を為さないものなのか……その真相は彼には分からない。
だが、彼がこれから先健康的に生きていくには、薬の世話になるしかないことは確かだ。
薬が切れてしまえば激痛に苦しみ続けるだけで、残された半年も苦痛に塗れたものでしかなくなる。
それを避ける為に彼は薬を飲み続けるしかない……痛みの中で死ぬのではなく、安らぎの中で死ぬ為に。
「過ぎ去った時間は戻らない。だから、未来を変えるように頑張りましょう、だったか? あのヤブ医者、やる気あんのか?」
「いや、普通にあるだろう。ただ、人形なだけで役割をこなすことに関しては問題ない。本当にそれしかない空っぽなひとだが」
「白石銀子だったか?……あれは、余りにも空っぽ過ぎて驚いたぞ。あれを見ていたら、根暗野郎がいかに偉大なのかが良く分かるな。あいつも空虚さが半端ないのに、自分がある。尊敬するつもりはないが」
「一鬼の場合は、空っぽだと思っているだけだからな。単純に器が大きい分、そう感じ易いんだろう。まぁ、あいつがその器の大きさを自覚していない今しか、俺には勝ち目がない訳なんだが」
「……皮肉なもんだな。私達には絶望的に力が足りないのに、あいつはどんどん強くなってやがる」
羽月はいつものようにベッドの上でごろごろしながら、だらしない恰好で浮いている緋蓮と話をしていた。
これから先彼らが悲願を達成する可能性は非常に低く、時間が経てば経つ程に、その可能性は狭まっていく。
一鬼の成長……いや、覚醒は留まることを知らず、今や一瞬で彼らを殺せる程の能力を所持していると言っても過言ではない。
擬似的な父親越えを果たしたい羽月としては、一鬼にはこれ以上強くなられると困る。
結局、別の形で一鬼を超える必要に迫られるので、いっそのこと違う方向性を模索した方が良いくらいだろう。
しかし、残念ながら彼に方向性を変えるような時間は残されてはいない。
結局、能力では劣る已上、人柄というもので打ち勝つしか、今の彼には道がないのだ。
「そんなものだろう。天才と凡才の差ってのは、努力してもなかなか埋められないものだ……特に、相手も努力を惜しまない場合は。そもそも、俺とあいつでは人間と妖という、全く異なる種族だ。成長する速度がまるで違う」
「それでも勝ちたいのか? 無謀な挑戦で、まず達成できる可能性が限りなく零でも?」
「ああ、勝ちたい。俺はあいつを超えて、胸を張って死後に本当の父親に会いたいんだ。脳みそが腐っていると言われても良い。死後の世界なんてなくても良い。ただ、俺は……本当の父親の影をあいつに求めているに過ぎないんだからな」
「そうか。お前、やっぱり凄いな。人間の癖に、そこまで強くて、歪な精神を持っているのは驚きだ」
「褒めるなよ。照れるだろう」
緋蓮の言葉が決して褒め言葉ではないことを理解しながらも、羽月はおどけてみせる。
人間でありながら妖のような歪な精神を持つということは、即ち彼が人間としては異常であることを意味しているのだ。
彼は昔からそうだった……冷徹さを、他人への無関心を隠して、いつも仮面を被っていた。
それこそが、彼が歪足り得る最大の要因であり、彼その物と言っても良い要素だ。
佐藤羽月という人間は、酷く冷たく、余程能力のある者に対してしか心を開きはしない。
誰にでも心を開いているように見えるのは、彼がそういう仮面を持っているからであり、実際に心を開いているとは言えなかった。
大多数に対して、家族のような特別な存在に対して、そして能力を認めた者達に対してと、彼は少なくとも三つの仮面を持っている。
家族相手ですら羽月は欺くことを恐れず、罪悪を感じずに居られる。
親友と言っておきながらも、一鬼相手にただの親友を演じているだけで、本当は父親の代わりにしている。
羽月は結局の処、誰に対しても心を開いてはいないし、それは己の妖である緋蓮相手でも変わらない。
仮面を被らなくなってしまえば、それはもう彼ではないのだ。
そんな彼を、ただ一言緋蓮は凄いと言ったのだった。
「それで、まだ朝の五時過ぎだがどうする? もう動き始めるか?」
「ん~……散歩でもするか。まずは薬を飲んでからだが」
「そうか……そういえば、綾子のことは良いのか? 最近余り話せていないだろう?」
「良いんだよ。あの人は俺のことを義務感から引き取るような人だ。勿論死んだ親父の役に立ちたいと言う打算もあったのだろうが、真面目な人なのは変わらん。俺、真面目な人間ってのは好きじゃないんだよ」
「嘘を言うな。お前が嫌いなのは、頭が固い奴だろう。本当に真面目な奴ってのは、お前が一番好きそうな必死にもがいている奴らじゃないか」
「……否定はしない」
佐藤綾子は羽月の叔母であり、彼の父親に横恋慕していた女性でもある。
そのことを知っている羽月としては、己が父の依代にされているのではないかと疑ったこともあったが、その可能性はまずない。
彼は父親に余りにも似ていないと親戚から言われているし、綾子本人もそう語っていた。
寧ろ、彼の親友である一鬼の方が圧倒的に似ている。
羽月も綾子が所持している父親の写真を見た瞬間、一鬼との類似点には気付いた。
彼女は己の姉とその夫、そして子である羽月の写真を大事に保管している。
姉に嫉妬している筈なのに、もう彼の父に会えないと分かっている筈なのに、それでも彼女はそれを大事に保管するのだ。
きっと、その胸中では様々な感情が綯い交ぜになっているのだろう。
「頑張っている奴は、見ていて共感できるからな」
羽月は幼い頃から、いつも自分を死んだ父親と比べていた。
綾子に、親戚に父親がどんな人間だったのかを何度も聞いて、彼自身も父のような存在になろうとした。
中でも、父親が持っていたという、何かを命と引き換えにでも守ろうとする鋼の意思というものに、彼は興味を抱く。
しかし、彼は父からその精神を受け継げず、父のようになることはできなかった。
元々まるで覚えていない父親の影を追うことが詮無いことは、羽月も分かっている。
だが、彼はそれでも、かつて両親が死ぬまでに彼に与えた筈の何かを思い出したかった。
そもそも、そんなものはないのかもしれないし、あったとしても大したことではないだろう。
それでも、欠落した父性を手に入れたいが為に、彼は父に似ているという一鬼を利用する。
空しいことだが、彼にはそれしかないのだ。
「お前も努力するのが好きな奴だからな。しかし……本当に大丈夫なのか? 綾子は、お前と話したがっている筈だ」
「しつこいな……良いんだよ。こっちも、未練を持ちたくはないからな」
「なんだ……やっぱり自分の為か。まぁ、お前はそんなもんだよな。自分のやりたいことだけやって死ぬ……最高の死に方だと思うぞ」
「そうだな。美空ちゃんなら、きっと否定するんだろうが……一鬼なら、同意してくれそうだ」
羽月は苦笑しながらも、彼の思想に反対する美空と受け入れる一鬼の様子を思い浮かべる。
美空は確かに良い子ではあるものの、一鬼を受け入れている時点で普通ではないことは確定だ。
例え兄妹であったとしても、一鬼の持つ妖独特の雰囲気は人間を恐怖させてしまう。
実際、美空の友人には怖がられていると一鬼が語っていたことを羽月は覚えている。
何故美空が普通の感性しか持ちえない筈なのに、一鬼を受け入れているのかは羽月には分からない。
もしかしたら、彼女達の両親が一鬼を息子として受け入れようと努力した証拠かもしれないいし、純粋に一鬼が美空を今まで守り続けたが故である可能性もあるだろう
だが、そこに羽月は歪さを見出してしまう。美空が一鬼のみならず、他の妖達を受け入れているのは、おかしいのだ。
一鬼の話では、イエロー・レディーと高橋一矢の関係は、まさに人間と妖の感性の差が出ているものだった。
人間として強くあろうとしてもできなかったが故に殺しに手を染めた男と、そんな男の知らない場所で猟奇殺人を繰り返した妖の結末は決別だったと聞く。
人間性を考えると、一矢よりも精神が格段に弱い美空は、妖を受け入れることはできない。
妖が人間を食うことを認めて、それでも共にあろうとすることなど、不可能だろう。
だが、恐らく彼女はそれを受け入れる……そんな予感が羽月には合った。
「まぁ、あいつも結局は全部自分の為にやっていると分かっているからな。そこだけは、認めてやっても良い」
「ほぉ……お前が一鬼のことを褒めるなんて珍しいな。それで、美空ちゃんの評価はどうなんだ?」
「? どうして小娘の話が出てくるんだ? お前が興味を持つような相手じゃないだろうに」
「何、少しばかり気になってな。それで、どうだ?」
「あの小娘は……あのヤブ医者と似た匂いがする。空っぽに近いな。後は……依存的って奴か? とにかく、あの小娘は一つのもの深く依存して、それを失うと崩壊するタイプだろうな。根暗野郎に合わせて意見をコロコロ変えそうな危うさがあったから、あいつが拠り所だと思う」
「……だよなぁ」
羽月は、緋蓮の言葉に思わず頷いてしまう。
美空は歪で、妙な処で精神的に頑丈な処があるのだが、それは飽くまで一鬼が居て初めて成り立つものだ。
一鬼との話で、彼女がまだ一年前の事故を乗り越えることができていないことは羽月も既に知っている。
彼自身、事故の傷跡を克服できている訳ではないが、割り切るようにはなった。
もう変えようがない事実を受け入れ、後はそれをいかに最高の終焉に変えるかという段階に彼は居る。
そういう意味では、一年前の事故の時に時間が止まってしまっているのは美空だけなのかもしれない。
皮肉なことに、事故の時に酷い傷を負った筈の一鬼と羽月が事故を既に受け入れているというのに、体の傷はほぼ皆無だった美空はそこから進めないでいる。
羽月としては、美空は歪過ぎる為、余り一鬼の傍に置いておきたくない存在だ。
勿論それを決めるのは彼ではなく一鬼達なので、彼は口を出しはしない。
だが、それでも不安が残るのは確かだ。
美空はいずれ一鬼を食いつぶすのではないかという不安が羽月にはあり、場合によってはその可能性もあり得ない話ではない。
例えば、彼女達の父親である神谷明が死ねば、それこそ美空は一鬼に大きく依存するしかないだろう。
いや、父親という他者の眼がないが故に、歯止めの利かなくなった彼女はより一層依存するに違いなかった。
羽月は、そのことを考えるだけで面倒くささに溜息をつきたくなる。
「ああ、そういうことか……お前なぁ、自分が死んだ後の心配なんてしなくて良いんだよ。そんな余裕があるのか?」
「……いや、ない。だが、親友の将来を心配するくらいはさせてくれ」
「親友ねぇ……良くもまぁ、そんなことが言えたもんだ。お前、あいつのことを利用しているだけじゃないか」
「ははっ、違いない。あいつもそれには気付いているよ。甘いから俺を切り捨てないだけだ。あいつは、そういう奴だからな」
そう……羽月は、既に一鬼が彼の目的に粗方気付いていることを知っている。
流石に彼が一鬼に父親の影を求めていることまでは分かっていないだろうが、何かしらの理由があってこそ親友に収まっていることは、筒抜けであろう。
神谷一鬼という男は昔からそうだ……あっという間に他者の本質を見抜いてしまう恐ろしさを持つ。
それ故に、羽月はこの五年間、内心いつ彼の目的を指摘され、決別を言い渡されるかという予想までしていたくらいだ。
しかし、羽月の予想以上に甘かった一鬼は、そのようなことはしなかった。
羽月が近づいた理由が己を利用する為だけだと内心気付きながらも、それを口にせずに見逃してくれたのだ。
羽月からすればその考えは実に甘いものだが、彼が有害な者ではないと一鬼が判断したのは、実を言えば彼にとって嬉しいことだった。
まるで黙って受け入れてくれる親のようなその懐の広さに、彼は父の影を見るのだ。
その男を超えてこそ、初めて父親越えを果たせる……彼はそう思っている。
「なんだ……益々、お前の方が惨めなだけじゃないか。そんなんで良く対等で居られるなんて思えるな。奴さん、お前なんか最初から眼中にないだけなんじゃないのか?」
「確かにそうかもしれない。だが、俺は違うと思う。本当にそうなら、あいつは既に俺を切り捨てているさ。あいつは甘い反面、冷徹だ。家族の為なら、それ以外を犠牲にする覚悟がある。それによって憎まれる覚悟がある。実際問題、美空ちゃんと俺のどちらかしか助けられない状況になったら、あいつは一瞬の迷いもなく美空ちゃんを選ぶな」
「……家族だからか?」
「そうだ。家族だからだ。それ以外の理由であいつは美空ちゃんを優先しはしないさ。もしも美空ちゃんではなく、全く知らない子だったならば、俺を優先するだろう。それくらい優先順位がはっきりしているんだよ、あいつは」
羽月も人のことを言えた義理ではないが、一鬼は恐ろしい程に守るべき者の優先順位が定まっている。
最上位には美空が、そしてその次には父親である明、愛梨、羽月と、一鬼の中では美空は最も優先して守るべき存在になっていた。
愛梨はそのことを快く思っていないかもしれないが、羽月からすれば当然の順位だ。
まず美空が最上位に居るのは、彼女が彼の義妹……つまり、両親の娘だからである。
一鬼が両親から受け継いだという守る者の精神は、彼にとって両親との絆の証と言っても良いものだ。
それで以て、彼らの本当の娘である美空を守ってこそ、彼は両親が育ててくれた恩に報いることができると考えている。
故に、美空は最上位に君臨し、父親である明すらも同列には並べない。
誰よりも、義父である明がそれを望むことを一鬼は知っているのだ。
「随分と辛辣な評価だが……まぁ、その通りだろうな。守るべき者でなければ、あの根暗野郎は命をかけない筈だ。良く言えば、身内を絶対に守ろうとする奴。悪く言えば、それ以外を全く顧みない奴だな。はっきり言って、こういうタイプが一番怖い。何をしでかすか分かったもんじゃないからな」
「ああ、あいつは家族を守る為ならば、本当に世界を敵に回すことすらできそうだからな。そんな奴が、己の存在価値云々で苦しんでいるのは、傍から見ればバカらしいんだが」
「なら、それを言ってやれば良いだろう? 実際問題バカらしいことだ。」
「言った処で納得する奴じゃない。それに……もうすぐあいつも答えを見つけるかもしれないだろう? 今はまだ見守っておくさ」
一鬼はこの一ヶ月程で変わった……以前とは違い、活き活きとした表情を良く見せるようになった。
羽月はそのことに気付いていたし、愛梨や美空も間違いなく気付いている筈だ。
特に碧……そしてブルー・シャーマンは、そのことを敏感に感じ取っているに違いない。一鬼の変化は間違いなく『虹色の肋骨』が齎したものであり、当事者である彼らが気付いていない筈がなかった。
いったい彼らの何が一鬼を変えたのかは、羽月には分からない。
彼の与り知らぬ場所で何かがあったのは間違いないし、それが彼らによるものであることも確定であろう。
とにかく、彼らと接している内に一鬼が変わり始めたのは事実で、皆がそれを感じている。
その果てに何があるのかは分からないが、彼は変わる……妖に戻ろうとしている。
その時、羽月は笑顔で彼に言ってやるつもりだ……『おめでとう』と。
「そんな悠長なことを言っていると、本当にあいつを超えられなくなるぞ?」
「その時はその時だ。悔しいが、そのまま死ぬしかない。復讐ではないからな……叶わなかったとしても、諦めることはできる」
「はっ……お前も所詮はその程度か。仕方ない……人間ってのは、弱いからな」
「そうだ。だから、そう苛めてくれるな。妖さんよ」
羽月は確かに一鬼を何かしらの形で超えて、父親越えを果たしたいと思っている。
だが、それは絶対に為さなければならないものではないし、叶わなかったとしたら、彼の力が足りなかっただけと割り切れる。
そういう、ある意味逃げの思考とも取れる考えは、しかし彼に余裕を齎していた。
故に、彼は緋蓮のように強迫観念に駆られるようなことはない。
緋蓮は、己を含め皆殺しにされた一族の復讐の為に、碧に挑む。
それが達成される可能性など、今となっては零同然であるにも関わらず、彼女は止まれない。
彼女と碧の間にある力の差は絶望的で、まさしく一匹の蟻が人間に挑もうとするような状況だ。
弱者は強者と戦う時、策や数の力を利用しなければ勝てないのに、その数がまず揃えられないでいた。
一族で蘇ったのは彼女だけで、仲間は居ない。
結果、彼女は一人で絶対強者たる碧に挑まねばならない状況に追い込まれている。
一人であることは碧も同じだが、しかしその力には圧倒的な差があり、状況がまるで違う。
羽月からすれば、本当に碧が緋蓮の十万倍に及ぶ力を持っているのか疑問ではあるものの、二人の間に圧倒的な差があるのは理解している。
実際に二人が戦えば、文字通り一瞬で緋蓮が殺されて戦いは終わる……つまり、戦いにならないだろう。
それでも諦めない緋蓮は、もはや勇敢を通り越して無謀だった。
「ああ、そうだ。そう言えば、ずっと気になっていたんだが……お前、アメリカに居たんだろう? どうして、緋蓮って名前なんだ? いや、そもそもなんで言葉が通じるんだ?」
「本当に今更だな、おい!?」
「いや、今までは何となく空気を読んで聞かなかっただけでだな」
羽月としては、もっと早い段階で聞いても良かったが、そこまで重要なことではないので、放置していたのだ。
特に、イエロー・レディーが連続バラバラ殺人事件を起こしていた際は、それを止めようと動いていただけに、余裕がなかった。
その後も、一鬼の妖としての覚醒や、ブルー・シャーマン達との接触と、中々に濃い時間を過ごしていた為に、疎かにしていたのは否めない。
だが、今ならばその余裕が幾分かはあるので、彼はこの機会に尋ねることにしたのだ。
シェイプシフターのように、人間に紛れる妖が、人間が同じ言葉を話しているのはまだ分かる。
だが、全く異なる国に住んでいた筈の緋蓮やブルー・シャーマンの言葉を羽月達が理解できるのはおかしい。
その理由を明らかにすれば、何故彼女達『虹色の肋骨』が生まれたのかが分かるかもしれないのだ。
「……まぁ、良い。その答えは簡単に言えば、お前達が私達の言語を理解できるからだ」
「?……どういう意味だ?」
「ああ、この言い方は訳が分からないか。つまり、私達は自分の言語を話しているが、それをお前達が理解できているんだよ。まるで、自動翻訳機でもついているかのようにな。恐らく、その肋骨を仕込んだ奴は妖だ。これはただの予想だが、その肋骨があるからこそ、お前達は私達の言うことを理解できるんだと思う」
「……俺達宿主も、ある意味妖に近づいているということか?」
「それは違うな。お前達は、一時的に妖と意思疎通できるようになっているだけで、ただの人間だ。寧ろ、根暗野郎や電波娘のような人間じゃない奴を隠すのが目的だろうな。奴らは妖の言葉を理解できてしまうんだ。目立つだろう?」
「生き残っている妖は、『虹色の肋骨』と違和感なく意思疎通できてしまうからだと?……それ以外の宿主はただのカモフラージュの為に存在するとでも言うのか?」
確かに元々妖であった一鬼や、半妖である愛梨ならば、自然と妖と意思疎通できるかもしれない。
だが、言語というものは訓練によってのみ習得されるもので、過去に妖と接触したことのない彼らでは、理解はできない筈だ。
言葉ではない、別の意思疎通の方法があるのかもしれないが、そんなものがあるのならば、羽月が既に気付いているだろう。
不自然なまでに互いを理解しているような者は少なくとも彼の周りには居ないし、碧と一鬼の関係に亀裂が生じていたことから、そこまで高等な手段が存在しないことが分かる。
結局、言語という手段でしか彼らは意思疎通できていない筈だし、それ以外のものとなれば、ブルー・シャーマンや緋蓮のように、相手を見透かすしかない。
そういう点では一鬼も愛梨も、十二分に相手を理解できるだけの感受性を持っているだろう。
しかし、そのような読み合いを前提にした関係など、酷く窮屈なものでしかない。
少なくとも、羽月にはそのような関係は御免だった。
「ただの予想だ。しかし、考えても見ろ。『虹色の肋骨』は皆共通点がある筈だ」
「……いや、全員にはない。お前とブルー・シャーマン、紫の妖は碧と関係があることが分かっている。しかし、藍色の妖、山吹、イエロー・レディーにはそんなものはない」
「いや、ある筈だ。それが何か分かれば、あいつらに一泡吹かせる方法も見つかるかもしれないんだが。ちなみに、私の名前が漢字なのは、昔アジアから来た妖が名付け親だからだ。そいつの名前は知らんが、取りあえず相当強い奴だったらしい。今はもう死んでいるだろうが」
「……その妖と、他の『虹色の肋骨』には共通点はないのか?」
羽月は、不意に現れた新しい情報に食いついた。
その緋蓮の名付け親である妖が他の『虹色の肋骨』に関係がある者ならば、そこから七体の『虹色の肋骨』全ての関係性が見えてくる。
そこに期待して、羽月は望郷の念に襲われている緋蓮に質問をしたのだ。
しかし、そんな彼に対して彼女は意外そうな表情をすると、肩を竦めてそれを否定した。
「んあ? 無い筈だぞ。そもそも、私はその妖のことを殆ど知らないしな」
「おいおい、使えねえなぁ……戦闘じゃまるで役に立たないんだから、そこで格好良い処見せろよ」
「お前なぁ……さっさと薬を飲め。散歩に行くんだろうが」
「へいへい、分かりましたよ」
静かに怒る緋蓮から逃げるように、羽月は薬を手に台所に向かった。
緋蓮が活動可能な範囲は羽月から半径十五メートル以内の領域なので、家の中くらいならば別々に行動するのも楽だ。
一鬼を中心に半径五メートル以内でしか活動できないという碧と比べれば、破格の行動半径であろう。
五メートルなど、せいぜい隣の部屋に移るくらいの距離しかない為、必然的に同じ空間に居ることになる。
これが緋蓮と羽月だったならば、それこそ互いに様々な文句を言い合っていただろうが、一鬼達はそうでもないようだ。
寧ろ、彼らの場合は、それによって自然と多くの時間を共有することで、絆を深めているのかもしれない。
羽月からすれば少しばかり不安ではあるものの、今の処特に問題は起きていないようだった。
一鬼は昔から、誰かに触れられることを極端に嫌っている。
それに対して、碧は傍から見ても一目瞭然な程に、不自然なまでに彼にベタベタしていた。
いつ一鬼が怒るのか羽月は内心身構えていたものだが、未だにその様子は無い。
もしかしたら、既に一度か二度は怒っているのかもしれないが、それでも二人の関係性はそこまで変化しなかった。
これは、一鬼が彼女を受け入れつつあるか、もしくは単に妥協しているかの、二つの可能性を示唆している。
現在は後者であろうが、いずれ前者へと変わっていくこともあるかもしれない。
それが良いことなのか悪いことなのかは羽月には分からないが、少なくとも彼は、それが良いことであることを祈る。
「……全く、自分一人のことですら精一杯なのに、よくもまぁ他人の心配をするもんだな、俺は」
脳はボロボロで、この一年間の肉体の酷使で、後半年も持たない命。
そんな状態にある羽月が人の心配など、皮肉めいているとしか言いようがない。
まず自分の心配をせねばならない状況ではあるものの、既に彼は己の結末までの未来図を描いている。
だからこそ、諦めることのできる部分と、そうでない部分を明確にし、前者は切り捨て、後者のみを求めているのだ。
そうすることで、彼は常に幾分かの余裕を得ている。
要は、今の彼は不要だと判断した多くの物を切り捨てることで、余裕を生み出している訳だ。
不要なものを切り捨てる必要がある時点で無理をしているということに変わりはないが、少なくともそれを抱える必要はなくなる。
本当に必要なものだけを……本当に己が欲しているものだけを、彼は離さずにおく。
そうでもしなければ、今の彼には到底全てを抱えきることなどできない。
「……っ!?」
不意に訪れた浮遊感に、慌てて羽月は体勢を整えた。
ほんの一瞬ではあるものの、平衡感覚が完全に消え去り、完全に上下左右の感覚が狂ったのを彼は実感する。
流石にここまで来ると、彼も本当に己の脳がボロボロであることを実感せずには居られない。
もう二度と光を宿すことのない右目だけならば、まだ目だけの問題で済む。
しかし、平衡感覚の喪失や、不定期に訪れる鋭い頭痛は、それ以上のものを知らせてしまう。
本当に己はもう戻れない場所まで来てしまったのだと、羽月は気付いてしまうのだ。
後は死に向かうだけで、どれだけ善行を積んでも、悪行を行っても、結末は変わらない。
形は変わっても、その本質である、半年以内の死は揺るがず、彼を脅かす。
どんなに強い心を持とうとしても、本心では死にたくないという生存欲求が彼にもある。
それは如何なる手段を以てしても誤魔化すことのできない事実で、彼の限界がそこにはあった。
「羽月!!」
「ん? どうした、緋蓮? そんなに急いで……」
「避けろ!!」
「はっ?……がっ!?」
緋蓮の声に反応して振り返った羽月であったが、突然襲い掛かってきた衝撃に、そのまま床を転がった。
何事かと慌てて起きようとするも、予想以上に強い衝撃に、彼は上手く起き上がれない。
何かを緋蓮が叫んでいるのが聞こえるが、しかし彼は何が己に起きているのかを理解できないでいた。
ふらつきながらも彼は漸く立ち上がり、そして……それと目が合ってしまった。
「なっ……ぐっ!?」
羽月は死角から襲い掛かってきた衝撃によって、壁に叩き付けられる。
しかし、今度は見える左目でそれをはっきりと見据え、そして彼は思わず息を呑んだ。
彼の首を絞めるそれは、緋色の鱗で全身が覆われており、時折鋭い刃のような先のついた尾を揺らしている。
縦に瞳孔が伸びている金色の瞳に、勇ましい白い牙と角……その全てが、それが何かを如実に示していた。
しかし、羽月はそれが何なのかを素直に受け入れることができなかった。
いかに『虹色の肋骨』という、かつて死んだ妖達の亡霊の前例があるとはいえ、彼にはそれを実在するものだと断定するだけの柔軟さは無い。
故に、ただ驚きに目を見開き、絶句するしかないのだ……今まさに彼を絞め殺そうとしてる存在に。
「ドラ……ゴン……だと……?」
まさしく、彼が紡いだ言葉の通りの姿を持つそれ……ドラゴンは、静かに片腕を上げ、そのまま―――羽月に振り下ろした。




