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虹色の肋骨  作者: 修羅場ーバリアン
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第十一話





 その心臓に怨念を宿すことがどれ程までに苦しいことなのかを、彼は知っていた。


 生まれながらの超越者でない彼が超越者になる為には、それに見合うだけの精神力が必要となる。

彼では、ブルー・シャーマンのように生前の同志達の怨念を受け継ぐことはできない。

世界の片鱗と触れ合っても思考を保ち、寧ろそれを解明しようとする程のエネルギーもない。

だからこそ、その手で食らい、殺すという道しか選べなかった。


 現在彼が確認した超越者は三名のみで、その内後天的に超越者に辿り着いたのはブルー・シャーマンだけだ。

しかし、そのブルー・シャーマンの場合も、同じものを求めていた同志達の怨念がそれを助けている。

言うなれば、ブルー・シャーマンという超越者は仲間達の思いを受け止め、誰よりも真理に近づこうと必死だったからこそ、超越者になれたのだ。


 彼にはそのような、仲間達との絆などというものはない。

超越者になりたければ、ただ己の手で人間を食らうか、他の妖達を殺して、その心臓から怨念を奪い取るしかない。

特に後者に関しては、それが可能だったならば、彼はここまで苦労していなかった。

現在している妖達は、弱過ぎるか強過ぎるかしか選択肢がないので、効率的ではない。




「……歯痒い。これだけ食っても、まだ足りないというのか?」



 彼の宿主はゴールデンウィークなる機会を利用して、旅行をしている。

『虹色の肋骨』である彼にとっては、宿主が幅広い範囲で行動してくれるのは非常に有難い。

既にその心臓には、千にも匹敵する人間の怨念が収まっているが、超越するにはまだまだ足りなかった。

もっと力を溜めなければ、彼は望んでいる領域には辿り着けない。


 至高の存在と並べる程に強くなるには、この国の人間全員を食らうくらいのつもりで居なければならない。

しかし、実際にそんなことが可能かと言われると、可能ではあるものの、中々に難しい。

途中で間違いなく他の絶対強者達に目をつけられ、あっと言う間に滅ぼされるのがオチだ。

そうならない為にも、人間は無闇に食ってはいけない……目立ち過ぎれば、すぐに殺される。



「死ぬのは……星に手が届いてからだ」



 彼―――藍色の妖は静かにそう呟くと、闇夜の中に消えた。











 銀色の何かが脳裏に浮かんだ瞬間、ふわりとした感触と、背中や頬を撫でられたような感覚が、彼を刺激した。


 まるで碧に撫でられていた時のようなその幻覚……否、過去に感じた感覚は、彼を混乱させる。

いったい何時の記憶なのかは分からないが、少なくとも彼が物心つく前に味わった感触であることは間違いない。

それが両親に引き取られた後なのか、それとも前なのかが問題になるが……恐らく前であろうと、彼は感じていた。




「―――暗い」


『いたい……いたいよ……くるしいよ……』



 彼が思わず呟いたその言葉に応える者は誰も居ない。

今の彼の呟きは、実際は彼の脳内で呟かれている独白に過ぎず、誰にも届かないのだ。

暗闇の中、ただ不定期に頬や背中を撫でる感触が――誰かの声が、彼の背筋を凍らせる。

幼い子の声のようではあるものの、それに込められた怨念の重さは半端なものではない。


数日前に彼……一鬼が碧の言葉が引き金となって背負った怨念などとは比べ物にならない量の怨念だ。

これ程の怨念をただの声から感じるということは、それを放った誰かが背負っている怨念は半端なものではない。

姿は確認できないものの、その物が正気を保っていないことは、容易に想像できてしまう。


 実際、ブルー・シャーマンのように、超越者は圧倒的な存在感を放ち、その言葉に重さはあるものの、呪縛は無い。

超越者とは、言うなれば怨念を完全に克服し、それを己の内側に維持できる者だ。

つまり、どんなに大量の怨念を抱えていても、それが漏れ出すことは超越者にはあり得ない。

一鬼はそれを本能的に理解しており、言葉から溢れ出す怨念を感じたことで、その誰かが正気ではないことを悟った訳である。




「……お前は、誰だ?」


『……おねがい……たすけて……いたいよ……』


「……」



 ザラついた、全身に纏わりつくような怨念を感じながらも、一鬼はただ静かに待つ。


彼は今記憶の中に居るのであって、何かをした処で、この状況が変化することはない。

ただ、座して待つしか今はできないからこそ、下手に動揺しないように腰を落ち着かせる。

そうすれば、後は何がやってくるかは分からないものの、取りあえず気休め程度にはなるのだから。

気休めというものは意外とバカにできないもので、それがあるかないかで、精神的余裕も変わる。


 まるで全てを飲み込もうとするかのような貪欲さを感じさせる怨念は、確かに恐怖に値する。

一鬼も、もし怨念と向き合うのが初めてだったならば、ここまで落ち着いていられない程に、恐ろしい重さだ。

それでも、一度だけでも背負い、受け入れた経験がある彼にとって、その精神を汚染し、挙句には破壊しかねない怨念でも、背負うことは不可能ではない。


文句はあるものの、事前に彼に怨念を背負う機会をくれた碧に、一鬼は感謝するのだった。




『おねがい……かずき……』


「―――!?」


『お……の……は……一鬼だ』


『私の……子よ……』


『お前が、最後の一人だs』


「ぐっ……がっ……」



 不意に聞こえた、聞こえる筈のない己の名前に、一鬼は何かがフラッシュバックするのを体験した。

途切れ途切れで靄だらけではあるものの、確かに彼の脳裏に懐かしいと感じさせる声と、ぼんやりと浮かんでくる誰かの姿がある。

そこから始まる、己の記憶でない可能性すらある圧倒的な量の情報の出現に、彼は鋭い痛みが頭を襲うのを感じ、そこで不意に何かに引っ張られる感触を覚えた。




「――そこまでだ。それ以上は踏み込ませない」



 それと同時に聞こえてきた声が誰のものであるか、すぐに理解した一鬼は微笑むと、そのまま意識を失った。









「―――!!」



 次の瞬間、一気に覚醒した意識が、一鬼を現実に引き戻す。


目の前にはいつものように悠然と佇むブルー・シャーマンと、彼を心配そうに見守る愛梨の姿がある。

そこで初めて、彼は己が冷や汗をかいていることに気付いた。

たった数十秒の間怨念に触れていただけの筈だというのに、彼はまるで一瞬で数キロの距離を全力疾走したような疲労を感じていたのだ。


 怨念の量そのものは決して多くは無かった……だが、その質が桁違いにやばかった。

良く見れば、愛梨も微かに震えており、うっすらと汗ばんでいるのが見て取れる。

ブルー・シャーマンのみが、今この場で悠然と何事もなかったかのように佇んでいるものの、その平坦さが逆に何かあったことを告げているようだ。

もはや、ここまではっきりとした状況が見えてしまえば、彼が感じた悍ましい怨念は、元来彼らが想像していなかったものなのだろう。




「選ばれし子よ。特に異常はないか?」


「ああ、何とかな。それよりも、愛梨は大丈夫なのか?」


「私も、何とか……大丈夫です……でも、とっても怖かったです」


「……本当に大丈夫なんだろうな?」


「勿論だ。実を言えば、愛梨が抱えた怨念は一割は愚か、一分にすら満たない。半分人間である愛梨には、怨念はただの負担にしかならないからな。本来ならば触れさせることすら躊躇われる。一分以下にしても、最終的に愛梨が背負う怨念は下級の妖のそれに匹敵するだろう。今回、我々が暴こうとしている過去は、それ程に怨念を抱えている」



 淡々と告げるブルー・シャーマンに、一鬼は違和感を覚えながらも頷いた。

確かに人間の思念とは比べ物にならない重さである怨念は、半分人間である愛梨には猛毒だろう。

今でこそ一定時間ならば他者の思考を読み続けても平気な彼女だが、怨念は思念とは違い、本気で飲み込もうと、殺そうと襲い掛かってくる。


 その果てに、一鬼はそれすらも逆に呑み込んでみせるし、そうするしか道は無い。

だが、愛梨は人間である已上、半分はその怨念に対して全く態勢がないということになる。

彼と同じく精神を強く持とうとしても、そもそも頑健性も精神構造も大きく異なるのだ。

どんなに彼女が望んでもその事実は揺るがず、彼女では彼についていけないことは明白だった。




「一鬼先輩……その……軽蔑しました?」


「まさか。お前は身の丈に見合ったことで、できることをしてくれた。軽蔑するような要素など何処にもない。ありがとう。俺なんかの為に、手を差し伸べてくれて。本当に、本当に……嬉しかった」


「―――っ!! い、いえ……私も先輩が手を差し伸べてくれたから、今ここに居られるんです。だから、これは恩返し……当然のことです」


「その当然のことができない者がどれ程居ると思っている? お前は確かに俺や碧のように強くは無いだろう。ブルー・シャーマンのように全てを見透かせる程の能力もないだろう。だが、それでも俺はお前を尊敬する」


「あ……ありがとうございます!」



 怯えを垣間見せながら問う愛梨に、一鬼はただ淡々と、己の思いを語っていく。


彼が愛梨を尊敬する理由は、その強い心にあって、彼女の半妖としての能力などではない。

ただ単に能力だけを見れば、一鬼が愛梨を尊敬できる面などそうない……彼女にできることは大抵彼もできるのだから。

だが、彼女のように中途半端な能力しか持たないにも関わらず、何かに挑み続けることなど、そうできるものではない。


 一鬼は確かにそれなりの能力をほぼ全ての分野で持ってはいるものの、彼女のように挑み続けることはできなかった。

彼がすぐに飽きが来てしまい、何かを極めようとすることなど、そうそうできない。

だが、彼女にはそれができる……諦めずに、何度でもぶつかり、挑戦することが可能だ。

一鬼にはない、必死に切磋琢磨しようとする姿勢が、そこにはあった。


元々彼女は真直ぐで、自分に無いものを求めて努力しようとする向上心がある。

そんな彼女が、一鬼には眩しく見え、羨ましかった。彼女のようになれないことを、彼は悔やんだ。

彼の持つ向上心は、所詮は必要に迫られた場合に生まれるもので、それがなければ、彼は本当にただの生ける屍だった。


 そういう意味では、この死が隣り合わせの状況に彼は感謝すらしている。




「しかし……あのザラついた怨念はいったい何だったんだ? まるで、俺の全てを飲み込もうとしているような貪欲さだったぞ。あれがただの怨念な訳がない」


「……見当はついているが、確証を得るには、更に深く記憶を見るしかないだろうな」


「?……まぁ良い。とにかく、次で俺の出生は明らかになるんだな?」


「ああ、そうなる。速度だけ重視すれば、明日もするのが良いが……それは無理だ。今は感じていないだろうが、明日の朝分かるだろう。お前の心身への負担は、まだまだ大きい。次までは一日開ける」


「分かっている。無理をして再起不能になれば、本末転倒だからな」



 一鬼はブルー・シャーマンの返答に違和感を覚えながらも、そのまま今後の予定に同意した。


彼が感じた違和の正体は、間違いなくブルー・シャーマンの歯切れの悪さである。

一度味わえば忘れられない程の質と量の怨念を前にして、それが何かを少しも語らないことはおかしい。

まるで、そのことに言及するのが良くないことであるかのような行動に、一鬼はブルー・シャーマンへの疑念を抱く。


 愛梨も困惑している筈だろうに、あの背筋を凍らせる程の怨念の正体に関する説明が一切ないのは本当におかしいのだ。

ブルー・シャーマンは全てを見透かせる能力を持っている筈で、その正体に気付いていない筈がない。

事実、その態度には微塵も揺れが見られず、寧ろ想定の範囲内の出来事だったのだろうと邪推してしまう程に、落ち着いている。




「うっ……」


「! 愛梨、大丈夫か?」


「は、はい……ありがとうございます」



 立ち上がろうとしてふらついた愛梨を片手で支えると、一鬼は苦笑した。


彼女は彼にまだついていけると示す為に無理をしているのだ……そんなことなどなくとも、彼は彼女を置いていかないというのに。

半分人間である愛梨にとって、あれ程の怨念に触れることはキツいだろうに、それを必死に隠しているその意地に、彼は苦笑したのだ。

本当に彼女は強くなった……今ならば、何故ブルー・シャーマンが彼女に宿ったのかが良く分かる。


 愛梨とブルー・シャーマンには酷く似ている部分があるのだ。

双方共に何かを見透かす能力を持ち、何かの為に惜しみなくそれを扱えるだけの決意もある。

勿論、ブルー・シャーマンと比べてしまえば愛梨は随分と見劣りしてしまうだろう。

しかし、それでも彼女が決意のできる女性であることは変わらず、それは一鬼には妙に嬉しかった。

それをきっと、人は己が存在価値を見いだせた瞬間だと言うのだろう。


 一鬼は空虚な存在でしかない……そんな彼が、愛梨の助けとなることができたのだ。

確かに、彼一人が居た処で、何一つ世界は変わらないし、彼が死んでも世界はそのまま回り続ける。

しかし、それでも彼はたった一人ではあるものの、他者を救うことができたのかもしれない。

己は存在しなくても良い存在ではあるが、存在してはいけない存在ではないと、実感できる。




「余り無理はするな。ブルー・シャーマン、愛梨を暫く休めたい。」


「元々そのつもりだ。お前も休むと良い。それで、何か聞きたいことはあるか?」


「……ああ、一つだけ。俺が得るのは俺のみの記憶なのか? それとも、第三者から見た情報なのか?」


「後者だ。そうでなければ、出生の秘密など分かる筈もない。全ての怨念を背負う為には、全てを知る必要がある。己だけの記憶を呼び覚ましても無駄だ」


「確かにそうだな」



 ブルー・シャーマンは淡々と言葉を紡いでいく。


彼の内心を語るかのように揺らめく蒼炎を見遣りながら、一鬼はそれを受け入れる。

この点に関しては、ブルー・シャーマンは嘘をついていないことが、彼には何となく分かっていた。

ただの勘でそういったことを判断するのは余り良くないことだが、下手に刺激し合って、互いの逆鱗に触れることは避けるべきだ。


 下手に刺激し合えば、不必要な対立を生み出すことがある。

それを避ける為にも、一鬼はブルー・シャーマンに対して疑念を抱くことはあっても、明言しない。

それは無駄な争いを生み出し、大切な時に大きな綻びを生み出してしまう。

藍色の妖との戦いを直前に控えている已上、今は互いを疑いはしても、それを形にしてはいけない。


 そうでなければ、態々協力体制を取った意味がないのだから。




「選ばれし子よ、戻る前に、一つ忠告しておく」


「忠告?……何か見えたのか?」


「ああ、そうだ。殺戮者のことについてだが……あれを超えたら、すぐに始末するのを勧める。そうしなければ、お前は何もかも失うことになるだろう。特に、紫の妖とは接触させるな。させてしまえば、そこからお前の破滅が始まる」


「……覚えておこう」



 ブルー・シャーマンから容赦なく告げられる碧を切り捨てろという提案に、一鬼は曖昧な返事を返すことしかできない。


彼としては、賛成はしかねるものの、内心ブルー・シャーマンの言葉を正しいとも思っているからだ。

確かに、いつ彼が碧と敵対することになるかは分からない已上、いずれ彼女と決別する必要もあるかもしれないだろう。

それでも、彼がそれをしようと思えないのは、単に彼が甘いからだ。


 一鬼には良く分からないものの、碧は確かに彼を守ってくれている。彼を心配し、彼を思ってくれている。

そんな彼女に応えようと思ってしまう彼は、確かに甘い。それでも、美空達を危険に晒すのならば排除しようと思えてしまう彼は、確かに残酷だ。

結局、彼にとって碧は酷く中途半端な立ち位置で、大切な者達の領域に半歩踏み込んでいるものの、そこ止まりだった。


 微妙な立ち位置にいる彼女がどちらに揺れるかは、まだ彼には分からない。




「一鬼先輩、碧さんのこと……信用していないんですか?」


「信用はしている。だが、信頼はしていない。俺は、そこまで割り切れないからな」


「嘘つきですね、先輩は。本当は、割り切りたくて仕方ないんじゃないんですか? 切り捨てて良いのかどうか、悩んじゃいますもんね」


「……鋭いな」


「妖である一鬼先輩の思考は読めませんけれど、予想はできます。先輩は、単純ですから」



 愛梨の言う通り、一鬼は碧がどの立ち位置に居るのか、測りかねている。


それを明確なものにする為にも、彼は己の出生の秘密を明らかにする必要があった。

碧を切り捨てて良いのか、それとも美空や愛梨達と同じ領域に入ることを許して良いのか、彼は決めたかった。

彼の出生に関わっているのがほぼ確定している彼女をどうするかは、出生を明らかにして決めるしかないと、彼は考えている。


 鬼が出るか蛇が出るかは定かではないが、少なくとも一つの決着がそこでつく。

一鬼は妖として完全に覚醒した時、今の感性を保ってはいられないだろうが、その時はその時だ。

もしかしたら、どんなことが過去にあったとしても碧を赦せるかもしれないし、八つ裂きにしても足りない程に憎むかもしれない。

そんなものは、蓋を開けてみなければ分からないことであって、事前の心構えは必要であるものの、考え過ぎるよりは考えない方が良い。




「単純、か……全く以てその通りだ。俺は単純で、どうしようもないバカだよ。こうして口では言っていながらも、それを理解できていない処が特に」


「一鬼先輩……大丈夫、単純な人の方が人と打ち解けやすいですから」


「それは確かにそうだがなぁ……まぁ、良い。取りあえず、俺はこのままで良い、と」


「はい。後は、信念さえあればそれで良いかと」


「信念、か……難しいものだ。それについては、これからゆっくりと考えるとする」



 信念を持つというのは非常に難しいことだ……好みは自然と生まれるものだというのに、信念は中々生まれてこない。

元々信念は好き嫌いの延長線上にあって、どんな生き方をしたい、したくないという考えそのものだ。

どう生きてどう死ぬか、何を選んで何を捨てるか……そんな好みそのものが信念である。

信念は決して綺麗なものではないし、綺麗ごとでもない。


 信念とは、ただ自分の願望がそこに反映されているだけの、怨念に似たものだ。

だから、簡単に揺らいでしまうこともあれば、不動と言える程に揺るがないことだってある。

今まで彼はそれに目を背けてきた……だが、今は向かい合おうと努力している。

いつまでも目を逸らしたままでは前に進めないし、報われる可能性すら生まれない。


 彼が、覚悟を決めるべき時が近づいていた。




「はい。私達には、まだ時間がありますから」


「ブルー・シャーマン、そろそろ元の世界に戻して貰っても良いか?」


「ああ、分かった。それでは、行くぞ……」



 まだ、一鬼には時間がある……生きる意味は、これから見つけていけば良い。


家族である美空と明に、親友である羽月、恋人である愛梨……それに、彼の妖の部分を呼び起こす妖達。

彼はこんなにも、多くの者達から生きる場所を、戦う場所を、守るものを、奪うものを、与えられている。

それに報い、完全な妖として目覚めた時が、決断の時だ。


 その時、一鬼は人間として生きることを完全に止めるか、それとも続けるかを決めることになる。

全ての怨念を受け止め、完全に目覚めた瞬間から、彼の戦いは次の段階に移るのだ。

己の居場所を、生き方を、流されて決めるのではなく、己の力で以て、意思で以て、決めていく。

その果てに、漸く彼は虚無からそうではないものへと変わることが出来る。



蒼炎の中で目を閉じながら、一鬼は己の再生の時が近いことを、感じていた。












 熱―――ただその一言に込められたものは、多くの意味を持つ。

それは、ただのエネルギーとしての熱であったり、生命現象に異常が起きたが時に発するものであったり、生命に流れる赤い血を意味していたり、感情そのものを表したりする。

とにかく、熱とは感情的なもの、力強いもの、生命に関するものであることが多く、エネルギーに関するものを表しているのだ。


 そして、彼女―――美空もまた、その熱を抱えていた。

一鬼達から告げられた妖の事実に揺らぎ、恐れを抱いてしまった彼女に罪は無いだろう。

彼女は確かに異常な面があるものの、飽くまで通常の範囲に収まる程度の常識を持つ人間なのだから。

そんな今の彼女では、平然と人間の死を細事のように扱う一鬼達にはついていけない。

完全に前提条件が異なるのだ……その違いは、もはやまともな話し合いすら阻害してしまうだろう。




「っ……頭が……」


「美空、大丈夫?」


「大丈夫……いつものことだから。山吹の教えてくれた薬を飲めば、問題ないよ」



 一鬼達と分かれて帰宅した美空を襲ったのは、最近起こるようになった頭痛だった。


山吹の言葉に平気だと答えてしまう程に、既にこの頭痛は彼女の日常に深く入り込んでいる。

丁度一鬼が碧を彼女に紹介した頃から、この頭痛は頻繁に起こるようになり、彼女の精神をかき乱していた。

脳をめちゃくちゃにかき回されるような錯覚すら覚える痛みではあるものの、何度も体験していればある程度慣れてくる。


 この頭痛は美空にとって未知のものだが、中々一鬼達に相談できないでいた。

健康診断などを見る限りでは、特に問題ないようなので、ただの頭痛でしかない筈なのだが、ここまで頻度が高いと流石に疑念が拭えない。

彼女の妖である山吹はそういうものに詳しいそうなので、山吹の言葉に従って服薬をすることで今は誤魔化している。

実際、一鬼達は彼女のこの頭痛に気付いてないし、彼女が言及しない限り、今後も気付かないだろう。




「あのねぇ……余り薬に頼るのは良くないわよ。耐性がついてしまうから、最悪効かなくなるわ。そうなると、別の薬に変えないといけないし、そんなことを繰り返していたら家計に響くわよ」


「うん、分かってる。余り使い過ぎるのは良くないもんね。それにしても、山吹って、結構家計とか気にするんだ?」


「医療はお金が掛かるから、結構あるのよ……助けられる筈の命が、お金の問題で救えないこと。医者というものは大変なのよ。私の場合は看護婦……今は、看護師たったかしら? だけど」


「ふぅん……山吹も、やっぱり私の知らない処で人間を食べてるの?」


「……私は食べていないわ。私には、人間を食料としては見られないわ。そもそも、妖は人間を食べずとも生きていけるのよ。どうして、態々助けるべき命を奪う必要があるのかしら? 私は妖である前に、医療関係者なのよ」


「……プロのプライド?」



 美空にとって、山吹が人間を食べないというのは、非常に有難かった。


もしも山吹までもが人食いであったのだすれば、彼女は周りに人食いしか居ないという事実に、更に心を閉ざしていたに違いない。

碧、緋蓮、ブルー・シャーマン……今まで彼女が出会ってきたこれらの妖が全て人食いであると言う訳ではないのだろうが、碧と緋蓮はほぼ確定だと、彼女は考えていた。

そして、そうでないブルー・シャーマンですらも、果ては宿主である一鬼達すらもが、それが当然のことであると受け止めてしまっている。


 詰まる所、美空は己の感性が正しい筈なのに、回りがそうではないことに、不安を覚えていたのだ。

妖である碧達はまだしも、兄である一鬼達までもが、人間の死を簡単に受け入れ、まるで日常の一部であるかのように扱ってしまっている。

それは、彼女に少なくない精神的ショックを与え、彼女の精神を不安定にさせてしまう。

元々一年前の事故を境に揺らぐことの多かった彼女にとって、この事態は余りにも恐ろしかった。


 一年前の事故を経験していた筈の兄達が、命の重さを理解していない筈はない。

何せ、一鬼も羽月もその事故において一度死にかけ、苦しんだ上に蘇った者達なのだから。

ならば、二人はそれを理解した上で他者の命をゴミのように扱っているということになってしまう。

二人は昔とは変わってしまった……一年前の事故を境に一鬼は異常なまでに強くなり、羽月も何かを抱えるようになった。


 彼女も変化していない訳ではないが、二人程ではないし、ましてや一鬼は本当に人が変わったように変化している。


 その変化が、彼女には恐ろしいのだ。




「まぁ、そんな処ね。矜持なくして、プロは務まらないの。例えそれで命を失うことになったとしても、譲ってはいけないものがあるのよ」


「つまりは、命よりも生き様を優先するひとなんだね、山吹は」


「ええ、人じゃないけど。それよりも、そこまで頭が痛いのなら一度医者に行ってみた方が良いわよ。何かの病気かもしれないし。この前パソコンで調べてたでしょう?」


「うん。そうする……明日にでも行く」


「それが良いわ」



 美空は元々体が頑丈な方で、特に大きな病気や怪我の経験は無い。

その為、ここまで頻繁に頭痛が続くのは、間違いなく何かしらの異常があることを意味していた。

山吹の言う通り、そろそろ一度病院で状態を確認しなければ、後々後悔することになるかもしれない。

薬で誤魔化し続けるのにも限界があるし、薬に頼り過ぎれば家計を圧迫する。


 今はまだそんな前兆は微塵も見られないが、迂闊さは後々大きな損失を生む。

今が大丈夫だからといって、今後も大丈夫であることの保障にはなり得ないのだから、打てる手は打っておくに越したことはない。

一度の診断で使う金の方が、最終的に薬で消費する金の総額よりも少なくなる可能性だってあるのだ。

ここは素直に山吹の言葉に従うのが正解と、彼女も判断した。




「はぁ……なんで、皆あんなに人の死を軽く扱えるのかな?」


「お兄さん達に非がある訳ではないと思うわ。多分、美空が知らない処で彼らは死に触れるような経験しているのよ。だから、麻痺しちゃってるんじゃないかしら? もしくは、余裕がないのかもね」


「ん~~……麻痺云々は分からなくもないけれど、余裕がないってどういう意味なの?」


「何かを守る為に必死で、他のものに目が行っていない、ということよ。特に大切なものを本気で守ろうとすれば、それ以外を見ている余裕はないものね。そういう可能性も考えないと、大切な者を失うことになるわよ?」


「……どういうこと?」


「男が他者を犠牲にしてまで守ろうとするのは、女か家族くらい、ということよ」



 山吹の言い分も分からなくはない美空だったが、中々素直に頷くことはできない。


一鬼は確かに彼女のことを考えてくれているし、大事にしてくれていると彼女自身も思う。

だが、果たして命を懸けてまで守ろうとする程の価値が彼女にあるかどうかと聞かれると、彼女は首を縦に振ることはできなかった。

彼は恐らく彼女を守ってくれるだろうが、それは彼女が家族だからであって、彼が彼女自身に価値を見出している訳ではない。


 それを考えれば、純粋に碧や愛梨の方が、余程一鬼にとっては価値のある女性だろう。

碧は彼に力を提供しているし、随分と互いを信用しているのが見て取れるし、愛梨も一鬼に尽くそうとしているのが分かる。

家族という血の繋がりを一切排除すれば、美空は彼に何一つ与えてはいない……ただ愛を強請ってきただけだ。

容姿でも劣り、人間性でも劣るという醜態を晒していることを、彼女は今漸く自覚した。


こんな彼女に、守る価値などある筈もない……それが彼女の考えだ。




「うう~……憂鬱。なんで、私は碧さんや柿坂さんみたいに綺麗じゃないんだろう? おまけに性格まで負けてるなんて……」


「私は、美空は十分可愛くて良い子だと思うわよ? 自信を持ちなさい。顔だけ綺麗な性悪女とは違う処を見せてやるのよ!」


「私よりも綺麗な山吹にそんなこと言われても、ねぇ?……」


「で、でもほら!? 私、胸もお尻も大き過ぎて少し垂れてるから、おばさんっぽいでしょう!? ね?」


「うう……どうせ私は胸もお尻も中途半端な大きさだもん」


「いや、そのくらいなら十分多きいでしょう……というか、いい加減面倒くさいわね、貴方」



 必死にフォローしてくれる山吹であったが、それに対しての糠に釘と言うべき美空の態度を見て、ついに諦めた。


そもそも妖である碧達の方が人間である美空よりも容姿が整っているのは当然だ。

妖は怨念という闇を抱えて生きる為、その反動から容姿や精神に影響が出てしまう。

結果として、妖は人間よりも整った形と、高い精神力を得る傾向にある訳だ。

実は妖狐はその例に漏れる、容姿に偏り、精神が不安定であるという特色もあるのだが、これを知る者は少ない。


 山吹は己の宿主の面倒さに一つ溜息を漏らすと、ベッドの上でゴロゴロしている美空を見遣った。

やはり、人間の範疇で見れば彼女の宿主は十分に整った容姿をしている……そう彼女は思う。

ただ、それを打ち消す程の別の要因が働いている為に、それは開花しない。

そのことに気付いていない己の宿主に苦笑しつつ、彼女はその兄の後ろ姿を思い浮かべる。


 衣服を押し上げる筋肉と、それに見合うだけの圧倒的な力……間違いなく、彼は鬼だ。

直接その力を見たりせずともはっきりと分かるその圧倒的な怨念の力は、未だに不完全な覚醒しか果たしていないとは思えない程であった。

完全ではあるものの、下級の妖でしかない山吹など、今のまだ半妖にすら達していない彼の腕の一振りで絶命することだろう。

それ程までに、圧倒的に地力が違うのだ。


 そんな一鬼を人間だと思い込んで兄と呼ぶ美空に対して、山吹は複雑な思いを抱かざるを得なかった。




「兄さんは……どんな女の人が好きなのかな?」


「さぁ、どうかしら? 中々に難しい処ね。そもそも、そういう好みがないのかもしれないし、案外とんでもない嗜好の持ち主かもしれないわよ」


「今は柿坂さんと付き合っているらしいけれど……やっぱり胸なのかなぁ?」


「いや、貴方と彼女の体型は然程変わらないでしょう。もっと性格の方面を気にしなさい」


「うぐっ……で、でもねぇ?」


「でもねぇ、じゃないわよ。妖が最も重視するのは精神と力。その力で勝てないならば、精神で勝つしかないでしょう?」



 山吹の言うことは確かにその通りなのだが、美空は内心勝てる気がしなかった。


愛梨も碧も明らかに意志の強い女性であり、彼女のような脆弱な精神しか持ち合わせていない者では、到底太刀打ちできない。

一度は碧に負けないと誓った彼女ではあるものの、やはり余りにも相手が悪いのだ。

一鬼も、碧や愛梨に対しては美空には決して見せない部分を見せているようで、それも彼女が二人に勝てないと思う一因だった。


 美空は一鬼に依存するばかりで、何一つ彼の為に為せていない。

その事実が重たく彼女に圧し掛かり、碧達に立ち向かうことを不可能だと思わせるのだ。

しかし、山吹から見れば、美空は存在そのものが一鬼にとっての救いとも言える。

彼女が守られる者として存在する限り、彼は己を守護者として定義することができ、己を失わずに済む。

そういう一鬼の本心が山吹には見えていた。


 妹という立場からは抜けられないだろうが、彼女は決して一鬼にとって居なくても良い存在ではない。

一鬼にとっては、残された二人の家族であるということは間違いないし、例えこれから関係が変わっても、彼はそれを続けるだろう。

彼は両親の守る者としての精神を受け継ぎ、それをまさしく彼らの血の為に使おうとしている。

例え一鬼が妖として生きる為にこの人間社会を捨てるとしても、彼女と父親だけは守るに違いない。


 それが、守る者としての精神であり、彼の血に流れる本能でもあるのだから。




「まったく、そうやって弱気になっても愛しのお兄さんは振り向いてくれないわよ。待っているだけで何もかも手に入る程、世界は甘くないのよ」


「い、愛しのって……」


「結局の処、最後は押しなのよ。自分の思いに素直になれない限り、欲しいものは手に入らないわ。それを忘れないように」



 美空は、山吹の言葉に対して、顔を真っ赤にして口籠るが故に気付かなかった。

山吹の浮かべる笑みが込めているものが、ただの微笑ましさに対するものだけではないことに。

その橙色の眼に込められた光は、ただの意思の光ではなく、決意した者のみが持つ強い光であることに。


 その眼が見ている先が、彼女の心臓のある場所であることすらも。











 静かに揺らぐ風鈴を眺めながら、羽月は溜息をついた。


 延々と続く検査と、それが齎した結果の再確認に、彼は辟易するしかない。

脳があと半年もすれば機能しなくなってしまうという未来を何度も告げられても、もはや感覚が麻痺した彼には面倒でしかなかった。

同時に、処方された薬の量にも、彼はうんざりすることとなるのを知っている。

半年間の間全く痛みがない余生を過ごすということはもう不可能であり、彼にできるのは、痛みを和らげるだけだ。


 それを実現する為に病院が薬を処方してくれるのは良いのだが、これの量がまた多い。

あと半年しか時間がないということもあり、依存症などに関してはそこまで考慮されていないのだ。

実際問題、羽月もそれに関してはそこまで気にしていないし、医療用の鎮静剤などにはそういった依存性が低いという説明も何度か受けている。

元来ならば、後半年の時間は入院して安静にすべきなのだそうだが、彼はそうするつもりは更々ない。


 一度たりとも父親越えをできずして死ぬつもりなど、彼にはないのだ。




「佐藤君、不機嫌そうね。こんな美人が診断しているんだから、もう少し幸せそうにしたらどうかしら?」


「そりゃあ……その内容が、自分の死期に関してで幸せにって言われてもねぇ……無理でしょう?」


「まぁ、その気持ちは分からなくもないわ。だけど、佐藤君の場合はもう少し慎重になるべきね。余り激しい運動をすると、脳の損傷が酷くなるわ。以前よりも悪化しているわよ?」


「……やっぱり、分かっちゃいますか?」


「それはもう、はっきりと。何なら、見せてあげても良いわよ? 頭の中がどんな状態か」


「いえ、遠慮しておきます」



 羽月は己の担当医の言葉に苦笑しながらも、それを拒否する。


彼に必要なのは、己の脳がどんなに酷い状態になっているかを確認することなどではない。

ただ、どの程度の時間を生きるのを許されているのかを再確認できれば、それで良いのだ。

いつかやってくる別れの日までに、彼は己の夢を……親越えを果たす。

ただそれさえできれば、彼はすぐに死ぬことになっても、それを果たせずして死ぬよりはましだ。


 それを為す為に、彼は己の父親に似ている一鬼に接近し、彼を擬似的な父親だと考えるようになった。

彼の父に横恋慕していた義母――元叔母である綾子からも、一鬼が父に似ているとお墨付きは貰っている。

羽月はそんな一鬼を超えることで、己の存在価値を見出したいのだ。

彼は本当ならば、もっとゆっくりと一鬼を超える準備をしたかったが、そうもいかない。


 碧達『虹色の肋骨』の出現により、一鬼は妖として覚醒を始め、恐ろしい程に強くなっている。

今や、彼が一鬼を超えることはほぼ不可能であり、例え彼に時間があったとしても、ゆっくりとしていれば、永遠に超えられない壁になってしまう。

当初の、一鬼に本当の父親になって貰うという計画も、今となっては不可能だ。

彼には、これ以上一鬼の守るべき者を増やしてしまうことなどできなかったし、その結果綾子が余計な危険に晒される可能性を生じさせたくはなかった。




「それは残念ね。きっと驚くと思うのだけれど」


「驚きの余り、ショック死するかもしれません。こう見えて、以外と繊細なので」


「そう。それなら、無理して動き過ぎたせいでショック死する前に、安静にしておいて欲しいわね。本来なら、まともに動ける状態ではないのよ。今の貴方は偶然脳が麻痺してまだ動けると思い込んでいるだけで、そう遠くない未来にその偶然は消えるわ。その時、貴方は激痛の末に死ぬでしょうね」


「それは怖いですね。主に、そういう怖い情報を患者に隠さず何度も話す先生が。健忘症だったりしません?」


「話せと言ったのは貴方でしょう。普通なら隠すわよ。健忘症の心配をすべきは貴方の方ね」


「そうでしたっけ?」



 羽月はおちゃらけながらも、己の最後を想像して憂鬱になる。


既に結末は決定されている……高度に発達した医療でも大きく損傷した脳の代替を用意することは叶わないのだ。

現在彼の脳は『偶然』動いているだけで、少しずつ無理が出てきている。

安静にしても半年あるかないかの残された時間も、実際は激しい運動のせいで数ヶ月にまで縮まるだろう。


 脳が幻を見ている限り彼は苦しくとも死なないが、永遠に続く幻など存在しない。

いずれ羽月の脳は現実に引き戻され、最後は想像を絶する程の痛みの末に死亡することとなる。

その時までに、彼が己の望みを叶えられる可能性は限りなく零に近く、もう少しで零になるだろう。

その時が来た時彼は絶望するかもしれないし、諦めの果てに何かを見出すかもしれない。

答えは定かではないが、彼は精一杯笑って、泣いて、怒って、その果てに死ぬつもりだ。


 彼はもう、絶望したりはしない。




「ええ、そうよ。本当はそういうことは教えないけれど、佐藤君がどうしてもと言ったんじゃない。やっぱり忘れちゃった? 健忘症のテストもした方が良いかしら?」


「いえいえ、覚えていますから。そういえば、先生は意中の人とは上手くいっているんですか?」


「うん?」


「いや、この前俺が明るい話題を頼むと言ったら、好きな人について話してくれたじゃないですか。少しばかり不器用だけど、優しいらしい彼との関係は、進展したんですか? 何となく気になるので」


「ん~……実は、余り進展はしていないのよ。こちらとしては、もう少し積極的になって欲しいんだけど、中々うまく行かなくてね」


「はぁ……大変ですねぇ」



 改めて己の主治医を眺めながら、羽月はどうでも良さそうに返事をする。


実際問題、彼にはどうでも良いことなので、その反応は彼の本心を表していると言っても良いだろう。

確かに彼の主治医は綺麗だが、生憎彼は彼女に興味などないし、彼女の意中の男性に精々頑張れと心の中で念じる程度だ。

結局彼に必要なのは、痛みを分け合う存在でも、彼を支えてくれる存在でもなく、彼に立ちはだかる存在なのだから。


 羽月の主治医、白石銀子は、その名前の通り、白銀とも白ともとれる色の艶やかな腰まで伸びた髪に、理性を感じさせる碧眼、更には白磁のように白い肌と、多くの女性が羨ましがるような美しさをしており、実に美人だ。

だが、それだけだった……少なくとも羽月にとってはその程度でしかなかった。

確かに彼女には造形的な魅力はあるだろうが、羽月には彼女が空っぽにしか見えない。

白とは空っぽを意味するもので、まさに彼女はそれだと彼は感じている。


 羽月は、一鬼や碧、ブルー・シャーマンのような何か一線を画した生き方をする者に惹かれるのであって、その外見に惹かれることはない。

確かに造形は大切な要素ではあるものの、彼にとって最も大切なのは生き様であり、信念だ。

それをまるで持たない空虚な者などに彼は惹かれないし、寧ろ嫌悪すらする。

彼にとっては、目の前に居る美しい女性も、ただの置物と大差ない。


 だから、彼は彼女の言うことに注目しはするものの、彼女に注目したことは一度もなかった。




「自分で聞いてきておいて他人事みたいな言い方されると、結構カチンと来るわね」


「実際他人事なんで。それで、どういうアプローチをしたんですか?」


「まずは、贈り物をしたり、昔話をしたり、私に会いにくる機会ができるようにしたり……色々としているんだけど、中々向こうからは動いてくれないのよ」


「それって脈がな……いや、なんでもありません。取りあえず、帰って良いですか? もう、検査は終わったんでしょう?」


「……誤魔化すのが下手ね。まぁ、良いでしょう。取りあえず、薬はいつもの通り、決められた量だけ飲んでね」



 銀子は怒らない……まるで、怒るということを知らないかのように。


怒っているように見えることはあるが、それはただの演技であることを羽月は理解している。

彼にとっては、そんな置物とまともに接するつもりはないし、恐らく彼女もそれを理解しているだろう。

とはいえ、内面が外に出ない処か、そもそも内面が存在し得ないただの置物に、彼は理解を求めはしない。


羽月はただ、銀子が己の役割を果たしてさえくれたならば、それで良い。

もしも、彼女が彼の主治医でなくなったとしても、彼にとっては特に関係のないことだ。

次の主治医が能力のある者ならば、それで事足りる上に、彼も気楽にやり取りができる。

一鬼のような空っぽだと思い込んでいるだけの者とは違う、本当に虚無に近い者を、彼は嫌う。

彼が彼女に求めるのは、ただ責任を果たすことのみで、それ以外の要素は望まない。


 彼は、己が求めるものとは対極の存在に、用は無いのだ。




「それじゃあ、またその内来ます」



 羽月は白石銀子という名の人形にただそれだけを言うと、そこを後にした。











 緩やかな斜面を登りながら、一鬼は強く彼らを照らす太陽を見上げた。


 もう五月になったからであろうか?……日差しは日焼けを引き起こす程に強く、日中には熱を感じさせる。

その癖、夜になるとそれなりに冷え込むせいもあってか、この季節は風邪をひきやすい。

体が元々頑丈な一鬼は問題ないが、昔は彼の幼馴染である優希がよくこの季節に風邪をひいたものだった。

それも今やただの過去であり、彼には価値があるものかは定かではないが、ただなんとなくそんな記憶が呼び覚まされたのだ。


 一鬼が彼の隣を歩く愛梨の様子を伺うと、彼女も彼を見返して微笑んでくれる。

今彼の隣には彼女が居る……半妖という余りにも複雑な立場に居る彼女だが、彼はできる限り彼女を守ろうと思っていた。

既に妖としての覚醒が始まって一週間程が経っているが、未だに彼の成長は止まらない。

今日触れた怨念が更なる覚醒を促すのは明白なので、明日になれば更に彼は妖に近づいていることだろう。


 人間である羽月達に、半妖である愛梨、そして完全な妖へと覚醒していく一鬼と、宿主は見事にその状況が分かれている。

不平等と言われても仕方ない程に宿主間の戦闘能力差は歴然としており、一鬼は他の宿主に戦闘で負けるつもりはなかった。

既に二百キロを超えている彼の体重は現在、上級妖の特権である空中に足場を作る能力を駆使して、体重を誤魔化してある。


 とはいえ、誤魔化せるのは他人だけで、実際の彼の体重は変わらない。




「一鬼先輩、体の調子はどうですか?」


「ああ、悪くない。昔と比べれば、遥かに閉塞感がなくなった。俺の中の妖が、目覚め始めているのが良く分かる」


「選ばれし子よ、明日は大分苦しいだろうが、それを乗り越えれば、残るは後一回のみだ。その時を待ち侘びると良い」


「ああ、そうさせて貰うさ」


「きつかったら言ってくださいね。私、看病しにいきますから!」


「……まぁ、必要になったら頼もう」



 もはや、肉体の変化は止められず、一鬼自身も止めるつもりはない。


彼の精神もまた、怨念を背負うことで変化し始め、より妖へと近づきつつあった。

既に人間に戻るつもりは殆ど彼にはなく、ただ藍色の妖を討伐し、紫の妖を見定めた後に彼が選ぶのは、妖としての生だろう。

だが、それもまだ完全に可能性が消えた訳ではない……美空や父の姿を見ている内に、覚悟が鈍るかもしれない。


 何が起こるか分からない已上、一鬼はその道を固定してしまうようなことはしない。

だが、最後に彼が妖として完全に覚醒した暁には、彼は迷いを振り切って、全てを決定する。

そうする為に彼は妖になろうとしているのであって、ただ強くなりたいからではない。

勿論、美空達を守る為の力を得る為という目的もあるが、やはり最上の目的は、彼の存在理由を得ることだ。


 その果てに、彼は本当の己を手に入れる。




「確実に必要になるだろう。場合によっては、今日集まった家に愛梨と共に泊まるという形もありだと思うぞ」


「ブルー・シャーマン……それは流石に愛梨のご両親が――」


「いえ、許可なら簡単に貰えると思います。二人とも、一鬼先輩のことがお気に入りですから!」


「そ、そうか……」



 ブルー・シャーマンの提案を実現不可能だという理由で否定したつもりが、それを肯定する愛梨の言葉に、一鬼は己が墓穴を掘ったことを理解した。


確かに彼が愛梨を守る為には、常に一緒に居るのが最も良いのだろうが、それでは美空達の守りが疎かになってしまう。

そもそも愛梨には、ブルー・シャーマンという超越者がついているのだ……彼女を最優先する必要は無い。

そういう意味でも、彼は愛梨と一緒に居る理由は彼女との絆を深める為であって、守る為ではなかった。


 最終的に一鬼は人間である家族か、半分とはいえ同類である愛梨かを選ばなければならないかもしれない。

その時、彼はどちらを選ぶことになるか分からない……変わっていく己が最終的にどんな判断を下すかは、彼には分からないのだ。

今ならば彼は間違いなく美空達家族を優先できるが、果たして覚醒の末に同じ判断を下せるかと言われると、彼には頷くことはできない。


 そういうことも考慮した上で、今の内に家族を守りたいという思いが彼にはあった。

心変わりは避けられないかもしれないが、それまでは守ってみせる……彼はそう決意している。

一鬼という名前を与えてくれた両親の為にも、彼はまさしくそこに込められた一つの願いを果たす。

一体の鬼となり、家族を守ってみせる―――それこそが、彼にこの名を与えてくれた両親へと報いることに繋がる筈だと信じて。


 そういう意味でも、今愛梨と深過ぎる関係になるのは、彼にとって余り好ましいことではなかった。


 しかし、それでも彼は彼女とこうして寄り添っている。傍に居る。守りたいと思っている。




「まぁ、その機会は今度に置いておきます。一鬼先輩も、今は自分のことで精一杯でしょうし」


「……助かるが、良いのか? 俺達は、明日死ぬかもしれないような状況に居るんだぞ。欲張った方が良い」


「その欲張りのせいで、未来を失うのは嫌ですから。それに、身の安全に関しては大丈夫だと思います……ブルー・シャーマンさえ居れば、負ける気がしません!」


「確かにその通りだな。ブルー・シャーマンの能力は絶大だ。そう簡単にやられはしないだろう」


「いや、余り過剰な期待はするな。私といえども、限界がある。それを超えた者が現れた時は、素直に諦めるしかないぞ」


「分かっているさ……紫の妖がそうだと言いたいんだろう?」



 ブルー・シャーマンにとって紫の妖が神に等しい存在であることは、既に一鬼も気付いていた。


行き過ぎた尊敬が崇拝を生んだとでも言えば良いのか……ブルー・シャーマンの中で、紫の妖は、絶対的な存在だと定義されている。

それが遠くない未来に、碧とブルー・シャーマンの戦いを引き起こす要素であることは明らかだ。

紫の妖を殺したい碧と、それを崇拝するブルー・シャーマン……この二人がぶつからない筈がない。


 そういう意味でも、一鬼は、今はまだ愛梨との距離を近づけ過ぎることを避けていた。

いざという時、彼は愛梨と敵対することを選べなければ、ブルー・シャーマンに殺されるかもしれない。

碧とブルー・シャーマンならば、宿主の体力の関係もあり、戦闘に限れば碧が圧倒的に有利だ。

しかし、ブルー・シャーマンの能力はそれでも絶大的で、しかも不死身という規格外の存在だ。


 戦うことになれば、間違いなく互いの宿主をどちらが先に殺すかで、勝負は決まる。

その時迷わない為に、彼は敢えて絆を一定以上深めないように気を付けているのだ。

あわよくば、愛梨に迷いを生じさせることすら計算にいれている己に、彼は自嘲した。

そこまでして守りたいものがある。そこまでしてでも、背負うべきものがある。

だが、それも彼が完全に妖として覚醒した時、そうでなくなる可能性が存在するという、あやふやなものだ。


 それでも、彼は手抜きなどしない……それが本当に守りたかったものだと失った後に気付くのは悲し過ぎるのだから。




「藍色の妖も、もしかしたらそうなるかもしれない。気を付けろ」


「そうなるかもしれない、ということは今はまだそうではないのか?」


「ああ、今は少しも脅威に感じない。だが、恐らく何かある筈だ。そうでなければ、私よりも上の階位に属することなどあり得ない。私や彼と同じ超越者でもなければ、元来あってはいけないのだ」


「……『虹色の肋骨』を俺達に仕込んだ奴は、そこまで見通していると?」


「そこまでは分からん。だが、『可能性』というものを読み取る力を持っているのは確かだ。犯人は妖に違いない……お前達以外に、生きている妖が居る」



 ブルー・シャーマンの言葉に、一鬼は何とも言えない可能性に行き当たってしまうが、それを必死に否定した。

もしもその可能性が正しければ、彼は碧と敵対しなければならなくなるかもしれない。

今の彼にはまだ碧を倒す処か、まともに戦うだけの力もない已上、その可能性が現実になるのは、ある意味最悪の事態だった。

覚悟はできるだろうが、力が足りないのだ。


 一鬼は今の処五尾に相当する力しか持ち合わせていない。

三尾以下の力しか持たない山吹や緋蓮など一瞬で殺せる上に、恐らく既に銃弾すら受け付けない程にその肉体は強靭になっているだろう。

しかし、それでも碧にはまるで歯が立たないであろうことは、一目瞭然だった。

どんなに頭の中で戦いを想定しても、彼には彼女の最初の一撃を凌ぐことがまずできない。

それ程までに、彼らの間には圧倒的な差が存在する。


 碧と敵対しても、ブルー・シャーマンと敵対しても今の一鬼では、生存確率は限りなく零に近い。

辛うじて零ではないのは、彼に対する両者の態度が、何処か躊躇いを含んでいるからであろう。

恐らく二人は彼に対して何かしらの躊躇いがあり、それは戦うことになっても引きずっている筈だ。

それがあるからこそ彼の生存確率は零にならないのであって、その情けすら消えれば、彼は確実に死ぬ。




「はぁ……面倒な話だ。この数日で、藍色の妖がどれ程の人間を食うか分かったものではない。俺達が……いや、絶対強者が居ないのを良いことに、大きく動くのは間違いない」


「そうなるな。数百……いや、下手をすれば数千の人間を食うだろう。ゴールデンウィークを利用して、観光地を餌場にしているのは間違いない。千程度の被害は想定しておくことだ。それと、その情報を知っても先走らないように」


「俺はそんなことはしないさ。下手に動いて入れ違いになるのは避けたい。そうなれば、家族を守る者が居ない」


「そうだ。だから私達も動かない。入れ違いになることこそが恐れるべきことなのだ。下手に戦力が分散してしまえば、各個撃破されかねないからな。千人も食えば、その力の程はそれなりのものになる。何せ、千人分の可能性を潰すのだ……背負う怨念の量も中々に多い」


「……しかし、本当にそれ程までに食うのか? 幾ら何でもそれは――」


「間違いなく食うだろう。今までの奴の動きを見れば分かる。我々が居るこの町ですら、奴は日に数十人食ったのだ……この絶好の機会を逃す筈がない」



 一鬼が下手に藍色の妖を追おうとして入れ違いになれば、家族を無防備に晒すことになる。

藍色の妖が彼らのことを何処まで知っているのか、何処まで興味を持っているのかは分からない。

だが、人間を食える機会があれば食う者であることは明白だ……それに美空達が巻き込まれる可能性もある。

そうなった時、傍に居ないようでは話にならないのだ。


 一鬼は恩に報いる為にも、残された家族を守らねばならない。

いずれ心変わりすることもあるだろうが、少なくとも彼はそれまでは守り続けるつもりでいた。

そう決意した彼が、態々守るべき家族の元を離れるのはナンセンスであるし、それで守れなかったとなれば、もうどうしようもない。

守ろうとするのは良いが、その為に守るべき者達の元を離れて疎かにしては、本末転倒だ。


 今は耐え忍ぶべき時であって、迂闊に動く時ではない。




「大量の人間が食われるのを知っていて、ただ待っているだけというのも、嫌な話だ。人間としては動くべきなのだろうが、今は動いてはいけないと冷静に判断を下す妖が俺の中に居る。まだ人間であろうとする己に笑ってしまう」


「良いのだ。そうやって苦しめ。悩め。それを乗り越えた先に、真なる妖としての覚醒がある。真なる強者とは、矮小であった頃の己も受け入れるくらい器が大きくなければならない。その領域に曲りなりにも入ろうとしているのだ……強い心を持て」


「それは大変だな。まぁ、やってみるさ……俺には、守るべきものがある。守れなければ、俺に存在価値などない」



 一鬼は守る者としての信念を、魂を両親から受け継ぎ、今こうしてここに居る。


守護者として家族を守ることで恩に報い、それによって彼の存在価値を己自身に示す。

彼は己の存在価値を、理由を他者に見せつけるようなことはしないし、するつもりもない。

ただ、己に問い続けるのだ……己が本当に必要な存在なのか。本当に誰かに必要とされているのか。

その果てに得られる答えが否であるのならば、彼はそういう存在でしかないと割り切るだけだ。


 こうして苦しみながらも、迷いながらも進むことも、彼が完全に覚醒してしまえばできなくなるかもしれない。

研ぎ澄まされていく精神はいずれ彼の悩みを吹き飛ばし、弱さを忌避するようになるだろう。

そんなことを考えながら歩んでいた一鬼であったが、不意に愛梨が歩を止めたことに気付いて、振り返る。

すると、そこには悲しそうに顔を歪める彼女の姿があった。




「一鬼先輩……そんなことで、誰かの価値は決まりません。存在価値とは、どう生きるかで決まるのではないのですか?」


「愛梨、忘れるな。そのどう生きるかが、関係しているんだ。俺は少なくとも今は守護者として生きる。そして、何も守れない守護者に価値は無い。他者ならば、過程も評価しよう……だが、己に求めるのは結果のみ。それが俺の生き方だ」


「それは……とても、悲しい生き方だと思います。己を苛め抜くだけで、愛せていないじゃないですか」


「自分を愛する、か……自分本位に考えるのは、そうとは言えないのか?」


「一鬼先輩の場合は、自分本位じゃなくて家族本位じゃないですか。それを望んでいるのは確かに先輩ですけれど」



 確かに一鬼は自分を愛しきれてはいないだろうが、しかし果たして少しも愛せていないだろうか?

彼は、己の信念を不完全ながらも持っていて、それを達成する為に動いている。

それを自分本位とは言うものの、自分を愛せているとは言えないかもしれない。

しかし、それでも彼は愛梨の言葉に納得できずにいた。


 今は愛せていないかもしれない……だが、己を愛する為に一鬼は己の出生を知ろうとしているのだ。

彼は心の底では己を愛している……否、愛そうとしている。

己の存在価値を見出すことを最上の目的とし、同時に現在の己の存在価値の元となっている家族も守る……彼はそんな我儘を通そうとしているのだ。

ここまでしているというのに、己を愛していないなどとは、彼は思えなかった。




「その家族本位に考えるのも、俺が自分で望んでいることだ、それは、自分の為だと言えないのか?」


「確かにそうかもしれません。でも、一鬼先輩は……自分を愛する為に己の出生を明かそうとしているんじゃありませんか? それは、つまり――先輩がまだ自分を愛せていないということだと思うんです」


「……そうかもしれないが、そんなことはどうでも良い。俺は―――」


「そのどうでも良いというのは禁止です。自分のことをどうでも良いだなんて、言わないでください。本当に自分を愛せているのならば、そんなことは言わない筈ですよね?」


「……分かった。確かに俺は自分を愛せていないだろう。自分を見据え、愛する為に足掻いているのも否定しない。しかし、不思議なものだ……こんな俺のことを心配してくれる者が居るというのは。俺に価値などない筈なのに、何も持たない筈だというのに……価値があるのだと思わせてくれる。それが自分に都合の良い幻でしかないと分かっていても、嬉しいものだ」



 人間の価値とは、所持しているもので決まる。


何を為したか、何を為そうとするのか、何を得たのか……そういう『所有』があって初めて、人間は互いに価値を見いだせる。

兄妹だって、親だって、子だって、自分の血族というカテゴリに所属している。そういう属性を持っている。

何も持たない者は評価されないし、実際何も持たない者など居ない……何故なら、彼らは命という最低ラインに必要な要素すら持たないのだから。


 愛梨はまだ不安定な部分があるものの、前に進もうとする強い心を持っている。

羽月も本当は苦しくて、絶望を感じている筈なのに、本当の己を隠せる程に厚い仮面を持っている。

美空も、一鬼の妹であるという属性を持っていて、それが彼に彼女を守らせる要因となっているのだ。

皆何かを持っている……己の居場所を、己自身を確かなものにするものを。




「俺から付加価値を取り除けば、ただの虚無だ。何もない……」



だが、一鬼が持っているものは、何だ?

家族、人間としての己、親友、慕ってくれる女性……確かに彼は多くを持っているだろう。

だが、それらはただの付加価値で、彼自身の価値を決めるものではない。彼自身には、価値などない。

家族は血の繋がり処か、そもそも種族そのものが異なる上に、そのことすら教えてくれなかった。


人間としての一鬼は既に消滅しかけていて、親友だと思っている羽月も彼に本当の意味で心を開いてくれはしなかった。

本当は彼も理解しているのだ……羽月は何かしらの理由があって、彼を利用する為に親友という役割を演じてくれていることに。

愛梨も、一鬼が妖でなければ……特別な者でなければ、救うことはできず、慕ってくれることもなかった。


 神谷一鬼が持っているものは、その殆どが偽物でしかない。




「……だから……一鬼先輩は……人間であることではなく、妖になることを選んだのですか? 虚無な人間としての己ではなく、妖である己を」


「ああ、そうだ。俺は、美空達を守る為だと嘯いて、本当は自分を手に入れたくて妖になることを選んだんだ。妖になれば、俺は美空達を守れる。居ても良い存在だと、己に言い聞かせることができる。妖になれば……人間のふりをするのを辞めれば、俺には同じ仲間達が――妖達が居る。俺は―――孤独ではない」


「……先輩にとって私達はただの他人で、本当はいつも孤独だったと――そう言いたいんですか? 先輩は私達のことを本当は無価値だと思っていたと、言いたいんですか?」


「それは違う!! 俺は、お前達が羨ましかった! 血の繋がり、確かな生の感触……他にも多くのものをお前達は持っていた。羽月も、美空も、一矢さんも……皆、俺にはない輝きを持っていたんだ! だから、俺は悩んだ。憧れた。苦しんだ……俺だけが虚無なのだと! 俺だけが、空っぽなのだと!」



 本当に己が空っぽであると考えるのは、ただの逃げでしかない。


空っぽだと思うならば、そこに何かを詰め込もうとすれば良いだけのことで、一鬼はそれを妖として覚醒することで為そうとしている。

そんな彼の心を今まで守ってくれた家族に、親友達……彼らに恩返しすることで、彼は己の存在価値を見出す。

空虚な己に価値があるという幻想を抱く為に、彼は足掻いているのだ。


 本当は一鬼も既に分かっていた……その空虚さが何を意味するかに。

彼は同類が居なかったから寂しくて、本当の己が殺されていたから苦しくて、精神を摩耗させていたのだ。

日に日に強くなる肉体と精神、背負う怨念……そこに彼は己の生を見出していた。

目の前で戦う碧を美しいと思った。羨ましいと思った。同じようになりたいと思った。

強く、揺るがない精神を持つブルー・シャーマンを尊敬した。その全てを見通すような蒼炎に、親しみを抱いた。


 彼は、妖達に憧れていたのだ。




「そうやって自分を空っぽだと言って、誤魔化すんですか? 無価値な存在と考えることで、親しい者達を悲しませるんですか? 一鬼先輩、貴方が本当にしたいことは何なんですか? 本当は分かっているんじゃないですか? 本当は、認めているんじゃないですか? 微温湯に浸かるのに疲れているんじゃないですか?」


「……確かに、そうかもしれない」


「私には、一鬼先輩の思考を読める程の力はありません。だけど、予想はつきます。一鬼先輩は、この二週間少しで本当に活き活きとした表情をしてくれるようになりました。それは、きっと……いいえ、間違いなく『虹色の肋骨』達との出会いが、戦いが関係しています。一鬼先輩は、本当どうしようもなく純粋な妖なのではありませんか? 途方もなく貪欲な戦士なのではありませんか?」


「ああ……ああ、そうだ」


「一鬼先輩は……本当は……本当は―――狂おしい程に闘争に惹かれているのではありませんか?」


「―――そうだ。俺は命の駆け引きをどうしようもなく楽しんでいる。碧がイエロー・レディーの心臓を握りつぶしたのを見た日から、この手で相手の心臓を握りつぶす光景を何度夢見たことか。何度、そんな己を呪ったか。俺は―――化け物だよ」



 一鬼は今でもはっきりと思い出せる……イエロー・レディーの心臓を握りつぶす碧の姿を。その時の彼女の、昂りの余り浮かべていた獰猛な笑みを。

彼はその光景を美しいと思った。そんな彼女に憧れた。彼女のように、その手で敵の心臓を握りつぶしたいと思った。

それこそが、彼が隠し続けた欲望であり、同時に妖になろうとする理由の一つでもある。

守護者としての精神と、荒ぶる闘争を求める精神が同居しているが故に、彼は妖となることを望む。


 一鬼が妖となることに拘っているのは、詰まる所己の本質がそこにあると、本能的に感じているからだ。

教育によって生まれた守る者としての精神――即ち家族との絆の為に、彼が力を望んでいるのは嘘ではない。

しかし、それと同じくらい彼は己の中で暴れる闘争を求める声によって導かれている。

碧と同類であるが故に、彼もまた絶対強者になろうと、本能的に妖に戻ることを求めるのだ。




「っ……なら、一鬼先輩は少しも空っぽなんかじゃないです。ただ己の中にあったものから、目を逸らしていただけでしょう?」


「……そうかも、しれないな。しかし、怖くないのか? 愛梨は半分人間である上に、感性も人間に近い筈だ。逆の立場ならば、俺は恐れるだろうな」


「……正直に言えば、怖い……です。でも、私は先輩に救われました。だから、その借りを返します。それに……私は、先輩のことがそれ以上に好きですから」


「――!……お前は……ここまで愚かで、醜い俺を……まだ好きだと言ってくれるのか? 慕ってくれるのか?」



 一鬼は、愛梨の言葉に、感情が昂るのを感じた。

人間として生きていくには空っぽで、妖として、誰かを傷つけることでしか生きていけない彼を、彼女は好きだと言ってくれるのだ。

それがとてつもなく嬉しくて、しかし悲しくて、彼は彼女の金色の眼を見据えた。

少しばかり怯えを含んではいるものの、しかし真っ直ぐと彼を見据えるその眼に、彼は彼女の強さを見る。


 愛梨は半分妖であり、しかし同時に半分人間なのだ。

そんな彼女にとって、完全な妖に向かいつつある一鬼は同類ではあるものの、しかし決定的に違う。

彼の赤い眼は日に日に鋭さを増し、怪しげな光を宿して、彼が妖に向かうことを示している。

しかし、その眼は碧の怪しげな引力とは異なる、静かで、安らぎに満ちた、彼女がいつも感じてた引力を有していた。

いかに妖に向かおうとも……否、戻ろうとも、彼の本質は変わっていないと、それが彼女を気付かせる。


 それが、彼女が恐怖に負けてしまわない最も大きな理由であった。




「はい。私が好きになったのは……人間だとか妖だという括りの関係ない部分なんです。こんな私を支えて、救おうとしてくれた先輩の必死さに、健気さに、私は心打たれたんです」


「だが、それも俺が完全に妖として目覚めれば変わって―――」


「いいえ、変わりません。妖であろうが、人間であろうが、根底は変わりません。先輩は人間でも、妖でも、きっと本質は今のままです」


「……いや、それは困るんだが」


「ふふ、大丈夫です。きっと……先輩ももうすぐ分かる筈です。私達にとって、先輩がどういう風に見えているのかが。先輩が、本当はどんなひとなのかが」



 愛梨の意味深な言葉に、一鬼は少しばかり困惑しながらも、彼女が意味することに気付いた。

つまり、彼女は彼が己の本質を見抜けていないだけで、彼女達にはそれが見えていると言いたいのだ。

その見えていない本質こそが彼そのものであり、彼女はそこに惹かれたのだと言っているのだ。

しかし、彼にはその言葉を信じ切ることができない。


 結局の処、今の一鬼にとって、彼自身は無価値な存在でしかないのだ。

それをどうにかする為に、己を愛する為に、彼は完全なる妖になることを望んでいる。

己を愛し、大切な者達を守る力を手に入れ、更には碧達と同じ命の駆け引きの世界へと踏み込む為に、彼は妖に戻ることを選ぶ。

そんな彼に、愛梨は既に彼は己を持っていて、ただ気付けていないだけだと言う。

彼にはそれを信じ切ることができる筈がなかったが、彼女の言葉を少しだけ……ほんの少しだけ信じてみようと、決めた。


 彼女が彼を慕ってくれるように、彼の言葉に重みを感じてくれるように、彼も彼女の言葉の重さを改めて背負うことにしたのだ。




「……そうか。それは、楽しみだ。これは、益々次の記憶の呼び覚ましには、期待しなければな」


「任せて貰おう。私と愛梨が、本気でお前の過去を暴く。その果てに、お前は完全に妖として復活する」


「私も、次は怨念ではなく、一鬼先輩の思念を背負います。先輩の過去への思いを、受け止めます。だから、安心して自分を取り戻してください」


「ああ、ありがとう……」



 一鬼は静かに頷くと、再び歩き出した。

それに合わせて愛梨も止めていた歩を再開し、彼の隣に並び、少し悲しげで、だが同時に決意に満ちた笑みを見せる。

今の彼にはその笑みの裏にある真意を測りかねたが、何となくその笑顔が意味するものを理解した。

彼女は無意識に彼に伝えている……いずれ、彼女では彼についていけなくなる、と。


 愛梨は確かに半妖であり、妖の思考にも対応できる柔軟性があるが、人間の領域から完全に脱することはできない。

一鬼が完全に妖に戻ってしまえば、彼女はいずれ彼についていけなくなるかもしれないのだ。

彼が強くなり過ぎれば、彼女はそこに己の存在価値を見いだせず、無力さばかりを嘆くようになるかもしれない。

そんな可能性を彼女は理解していて、それでも可能な限りついていこうとしてくれているのだ。


 彼のような、闘争に生きがいを感じる化け物に、そんな者が居てくれることはある意味奇跡であり、彼も感謝している。




「先輩……知っていますか? 鬼って、元々の語源では幽霊って意味だったんですよ?」


「ああ、らしいな。つまり、俺は幽霊だ、とでも?」


「いいえ。でも、ある意味一鬼先輩は、死者なのかもしれません」


「?……どういう意味だ?」



 展望台のある場所までたどり着いた頃に、愛梨は妙なことを言った。

一鬼はそれに対する解を持たないが故に、ただ疑問を言葉に変えて、しかし内心ある可能性に思い至る。

死者であることが大いに関係することを、彼は既に学習していた為、その可能性にはすぐに気付けた。

しかし、それが正解であるかどうかは定かではない。


 そんな一鬼の内心を知ってか知らずか、愛梨は焦らすように展望台から町を見下ろしながら、一度深呼吸した。

一鬼も静かに町を見下ろしながら、それを酷く狭い世界だと感じ、同時にそう感じる己に苦笑する。

今の彼ならば一夜で回ることができてしまう程にこの町は狭く、ある意味彼にとって牢獄のようなものだった。

だが、今やここは彼にとって牢獄などではなく、同類の集う場所であり、七人の死者が集う場所でもあるのだ。


 そう思えば、この窮屈な街も、今の彼にとっては妙に居心地の良い居場所となる




「死者を穢すことは誰にもできません。だって、もう死者は何も為さないし、何も失いませんから」


「……永遠になる、ということか。大切な者が、死後心の中で絶対的なものとなると?」


「はい。確かに、そこには美化が介入し、風化が記憶を捻じ曲げ、本当はどんなものだったのかを思い出すことを妨げます。ですが、それでもその重さは変わりません。とてつもなく、重いです。辛いです。きっと、それこそが怨念の背負い方なんだと思います」


「俺が幽霊のようだと言ったが……それは、つまり?」


「はい。先輩は、なんというか、そういう誰かの心に宿る死者そのものだと思うんです。指標となり、支えとなり、時に重さとなるそれこそが、私にとっての先輩であるように」


「ほう……中々に面白い表現をする。選ばれし子よ、愛梨の言いたいことはつまり、お前は生きながらも、最後まで評価が変わらない死者のような存在だと言いたいのだ」



 愛梨の、そしてブルー・シャーマンの言葉に、一鬼はやはりと静かに頷く。


死者は穢せない……その言葉は正確には正しくはないが、少なくとも愛する者の死は、穢せない。

そこに誰もが意味を見出そうとして、神格化して、最後までその重みを背負い続けようとする。

しかし、それができる程人間は強くない……だから、忘れる。風化させ、色褪せさせる。

そうしなければ壊れてしまうのだ。それを突き通せる程強くないのだ。

その弱さを彼は否定しないし、無理に強さを誰かに求めはしない。


だが、一鬼そのものがそんな重みになると、二人は言っているのだ。

それが本当ならば、彼が存在するだけで周りの者達にその強さを強いていることになる。

生きながらにして死者のように誰かの重荷になることなど、彼には認められなかった。

しかし、愛梨は愚かブルー・シャーマンまでもが認めた已上、それは事実であるに等しい。

ブルー・シャーマンは嘘を言わない……ただ、残酷な事実のみを突きつける。


 それを、彼は既に理解していた。




「そうか。死者のような生者か……言い得て妙だな。俺は、過去に何があったのかは分からないが、妖を辞めて人間の振りをしていた。ある意味、本当の俺は死んでいたのかもな」


「それは違います。先輩は、一度誰かの心に深く刻み込まれたならば、もうその人にとって途方もなく大切な存在なんです。それこそ、神格化された死者の如く、怖いくらいに」


「……それは、盲信と言うんだ。俺は、そんな誰かに盲信される程歪で、しかし強い魅力を持ってはいない」


「そうでもないぞ。いずれ分かる……この世界には、どうしようもなく歪な存在が案外居るものだ」


「それはまた……分からないでいたいものだな」



 一鬼は二人の言葉に苦笑し、しかし内心その言葉に該当する者の存在を信じられずにいた。

愛梨はそこに入るのか曖昧ではあるが、彼の直感は、半分正解で、しかし半分は違うのだと訴えかけている。

彼に好意を抱いてくれている彼女ですらその程度なのだから、それ以外の者達にとっては、彼など大した存在ではあるまい。


 だから、一鬼はその言葉は信じないことにした。

否、それは多少の事実を含んでいるものの、しかしそこまで重いものではなく、ただ少しばかり印象に残りやすい程度のものだと、決めつけることにしたのだ。

その判断が間違っていることに何処かで気付きながらも、彼は己の感性を誤魔化す。

そうすることで、彼は己が無価値だという自己認識を改めるのを拒否した。


 後々、その判断が大きな犠牲を生むことになることを、彼は知らない。知る筈もなかった。


 彼は知らなかったのだ―――怨念とは死者ではなく、生者こそが所持するものだということを。




 その心臓に絡みついた不気味な怨念は―――静かに彼を見ていることを。




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