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虹色の肋骨  作者: 修羅場ーバリアン
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第一話


 人を殺すことは、そんなに悪いことか?


 この疑問を抱いてしまったとしたら、それは既にその精神が普通ではなくなってきているということだ。

勿論、だからと言ってそれを疑問に思う者全てが社会に不適合な訳ではない。

適合不適合と正常異常は全く異なる要素であり、そこに強い相関関係はないのだ。

異常であろうとも生き残る者が居る。正常であろうとも、半ばで力尽きる者が居る。

異常正常は優劣を齎すかもしれないが、適合不適合には関係しない。


 しかし、それでもその疑問を抱いた上で、己の守りたいものと天秤にかけた上で、その行為に及ぶ者……逸脱者が存在するのも確かだ。

どんなにそれが悪行だと社会のルールが定めても、遥か昔に大罪だと決められていたとしても、人は時にそれを破る。

そうすることでしか生き残れないからこそ、弱肉強食に則って、滅ぼし、生き残る道を選ぶのだ。








「こいつは酷いな……」


 佐村敬吾はノイズのような雨音をBGMに、雨が作り出した水溜りの中で揺れる赤を、更にはその発生源を見遣った。

ツンとした臭いが己の鼻を刺激するのを感じながらも、彼は何がそこで起きたのかを想像し、歯噛みする。

恐らくは全ては一瞬では終わらなかったであろうことを、彼の経験は予感させていた。




「身元は分かったのか?」


「はい。ここから西に一キロ程の場所に住んでいる独身の女性でした。死因は今までと同じように、首と胴体がおさらばしたせいのようです……これでもう七人目ですよ」


「そんなことは言われずとも分かっている。問題は数じゃない。その七回がたったの一ヶ月で起きていることと、少しもその犯人の足取りが掴めていないことだ」


「単純計算で、四日に一人を殺しておきながら、その痕跡が少しも残らないのは妙ですよね。それに……犯行時間からして、目撃者が居ないのはありえません」


「そう、そこだ。最大の問題はそこなんだよ。犯行時刻は凡そ十八時時過ぎ……そして、遺体の発見はそれから十分程度後だ。これが何を意味するかは分かるな?」



 無精髭を撫でながら、佐村敬吾は部下を見遣った。


その瞳に潜みながらも潜みきれずにいる不安、怒り、焦り、その他様々な感情に、部下は静かに頷く。

四十一歳にして警視になったこの佐村敬吾という男は、二十代から警察に所属しており、優秀ではあるものの、その頑固さ故に地方の一警視に甘んじている。

何度も本庁から誘いがあったにも関わらず、それを断っていることから中央との仲は余り良くないが、しかし認められていた。



 元来ならば、より多くの犯罪が発生するであろう場所へ派遣されるべき男だ。

時に難事件の捜査に手を貸し、見事突破口を開いたこともあるこの男ではあるが、特別な力など持ち合わせてはいない。

この男はただ感じ、考え、それらを統合する当たり前の能力が優れているに過ぎない。

隠れた異常と言えるその男は、己の部下を今試しているのだ。




「はい。犯人はその十分程度で一人の人間をバラバラにして、尚且つ後処理を済ませたことになります。返り血などの処分も、何もかもを済ませて。つまり、犯人は短時間で人体を破壊できる何かしらの手段と、すぐさま逃げ去ることの可能な足……しかも、怪しまれずに返り血のついた服をしまえるものが必要になる筈です」


「正解だ。これだけ人体を破壊しちまえば、返り血はそれこそシャワーのように浴びる。それを処分して、尚且つ素早く離脱する足が必要だというのに、該当時間に車両の目撃情報は無い。しかも、返り血を浴びたであろう痕跡すらもない。こいつは――余りにも妙だ」


「確かに、凶器のみが勝手に動いて被害者をバラバラにでもしないと、このような現場にはなりませんね。佐村警視はどう見ますか?」


「……正直な処、俺にもまだ分からん。検死で決定的な証拠が出れば良いんだが……」



 この町で突如始まったバラバラ殺人は、最初はすぐに犯人が見つかるであろうと予測されていた。


しかし、その予想に反して最初の犯行から一ヶ月経った今日、七人目の被害者が出るのを警察は許してしまっている。

確定的な証拠を掴めない警察への不信と、姿も形も分からない犯人の存在への怯えは、確かに住民の間に広がっていた。

警察もそれを知りながらも、有力な情報が殆ど得られないでいる。

手掛かりになり得るものが余りにも少なく、今犯人に繋がり得る証拠はまさしく皆無と言っても良い。


 検死解剖を行えたのは六名の被害者の内一名のみで、それで分かったことも、切断に使用された凶器がかなり大振りなものであることと、一撃で切断が行われたこと程度だ。

これは十分有力な情報ではあるものの、それに該当する凶器を所持する者など居る筈が無いという結論に落ち着いている。

日本刀よりももっと荒い刃で断ち切られている已上、凶器は西洋の剣などに近いものとなるが、該当するものがまるで見当たらないのだ。




「……こいつだけは絶対に捕まえなきゃならん。それが不可能なら……射殺だな」



 佐村敬吾は、静かに目を細めながら、ふつふつと湧き上がる怒りをそっと言葉にするのだった。










 雨の日というものは妙に憂鬱になる……そう思う人は根本的には根暗な人間だそうだ。


 滑らかに壁を流れていく滴に美しさを見出せはしても、空から降り注ぐ雨は肉体から熱を奪っていく障害に過ぎない。

五感で以て雨を楽しむのは如何せん代償が大きく、太陽の光に曝されるよりもずっとリスクが高かった。

要は、人間にとって雨とはあまり都合の良いものではないということだ。


 自然からすれば、晴れの日も雨の日も両方必要なもので、片方のみしか無ければ、死へと向かうしかない。

勿論人間もその自然の一部ではあるものの、半分は逸脱しているのだ。

文化というものを手に入れた瞬間から、人間は半分動物を止め、歴史を積み重ね、特別な存在へと変化していった。


 その結果生まれた現在の人間は、中々に複雑で、多様で、混沌だ。




「……今日も雨、か」



 その混沌に含まれるであろう一要素は、眼を覚ました直後に聞こえてきた雨音に低く、しかし響く声を発した。

起床直後にも関わらずはっきりと開いた眼の色は赤で、爬虫類のような瞳孔が異常さを際立たせている。

その頭を覆う髪の毛は夜空を想起させる藍色で、直毛とも癖毛とも言えぬ絶妙な髪質だ。


 その眼の奥には重い何かが見出せ、鋭い光が怪しい引力を生み出す。

布団を退けて曝したその肉体は、かなりの量の筋肉が高密度に存在し、その屈強さを強調する。

更には、立ち上がったことで明らかになる百八十センチを超える身長が、この男がいかに恵まれた肉体をしているのかを際立たせていた。




「雨の日はあまり好きではないんだがな……」



 時計を確認しながら緩やかな動作で着替え始めた男の名前は神谷一鬼という。

年齢は十九歳で、現在近所の情報系の大学に通っている、非常に健康的な肉体を持つ男性だ。

その眼は冷たさと優しさと温かさをごちゃ混ぜにした混沌を宿しており、何処か近付き難い雰囲気を放っている。


 百八十四センチの身長とかなりの量の筋肉を持つことに加え、仏頂面をしている為、初見では怖がられやすいこの男だが、実際はそこまで怖い男ではない。

寧ろ、その表情は変化する時には大きく変化するし、喜怒哀楽を表すことに躊躇しない素直さも持っている。

ただ、それを中々曝け出さないという悪癖を併せ持つが故に、中々理解を得られないのだ。




「……今日は一限からだったか」



 頭の中で今日の講義の時間帯を確認しながら、一鬼は部屋を出た。


彼は大学に自宅から大学に通っているので、現在この家には彼を含んで三人の住人が居る。

いや、正確に言えば一年前までは四人だったが、今は三人しか居ない。

彼の母、神谷夜空は一年前に事故で死亡しており、この家に居るのは彼と、父と妹の三人だけなのだ。

かつては居た者が今は居ない……それが喪失感を産む。彼らを苦しめる。


 家族というものは、一緒に居るのが当たり前の存在だ。

やがて子が独立し、各々違う道を進んでいくまで共に過ごす空間が、そこにはある。

そんな空間から母親という大きな要素が消えてしまった。それも、ある日突然。

今まで傍に居てくれた家族が一人居なくなった……その影響の大きさが小さい筈がない。

確かに一鬼という男はそれに耐えることができる。既に母から多くの繋がりを与えられ、生きる意味を託されているが故に。呪いにも似た願いを受け止めたが故に。


 だが、彼以外の家族にとってはそうではなかった。




「一鬼、起きていたのか」


「父さん、おはよう」


「ああ、おはよう。既に朝食はできている。美空はもう食べ始めているぞ」


「そうか。仕事は?」


「んー……ぼちぼちだ。今年中には出版されると思うぞ」


「了解」



 無精髭を撫でながら己を呼ぶ父……神谷明に、一鬼は静かにはにかんだ。


一年前に母が死亡してから男手一人で己と妹を育ててくれている父に、彼は心から感謝していた。

それを口にするのは何処かむず痒いものの、彼の感謝に偽りは無く、きっと妹もそう思っているに違いないと彼は確信している。

彼らの距離感は曖昧で近いのか遠いのか良く分からないが、少なくとも三人の間に大きな亀裂が無いことだけは確かだった。




「あっ、おはよう兄さん」


「おはよう、美空」



 既に席についている妹、美空に微笑と共に挨拶を返すと、一鬼は自分の席についた。


妹である美空は艶やかな黒髪を赤いリボンで結っており、鮮やかな黒のポニーテールが彼女の頭の動きに合わせて揺れている。

彼女は彼にとって大切な妹であり、彼に純粋な笑みを見せてくれる数少ない存在でもあった。

その笑みの裏側にある複雑な感情をある程度は理解しながらも、彼は敢えてそれを見逃す。

今それに迂闊に触れることができる余裕は彼にはないし、何よりも美空が準備できていなかった。


一鬼の家族は今、父と妹しか居ない……この二人がある意味彼にとっての全てと言える。

一年前に起きた大規模な交通事故で彼らは奇跡的に助かったものの、母を失った。

十人以上の死者と、数十人に及ぶ重傷者を出したその事故は突如この家庭から一人の家族を奪ってのだ。

その事故で失ったものは大きく、一鬼自身も一つ大きなものを失ってしまった。




「「「いただきます」」」



 皆同時に手を合わせて一礼すると、各々がそのまま箸を進めていく。


この平凡な動作の裏側で多くの思いが交差し、すれ違っていることを皆は知っている。

一鬼は口に含んだ白飯を咀嚼するが、そこに感慨は無く、ただ作業のようにそれを行うだけだ。

食事は人間にとって必要なものであり、それを促す為に美味なものを彼らは用意する。そこに味の追求が生まれる。

だが、彼のその作業的な動作はまるで味などどうでも良いとでも言わんばかりのものだ。味など分かっていないようだ。

そして、それこそが彼が一年前に失ったものであり、ある意味大きく彼の人生を変えてしまったものであった。


 彼には味覚が無い……いや、正確には今は無い、というのが正しい。

一年前の事故で妹である美空を庇った際に頭を強打してしまった影響で、彼はその日五感の一つである味覚を失ったのだ。

彼は妹を守ったことを少しも後悔していないし、己の味覚という犠牲のみで彼女の命を救えたことは寧ろ幸運だと捉えている。

しかし、時たま彼は思うのだ……その欠けた部分さえ取り戻せれば、彼の中に渦巻く空虚感を埋められるのではないか、と。


 勿論、それはある種の無い物ねだりであることも、叶わずとも生きていけることも、彼は感じている。


 彼はそういう風に育てられたのだ。そういう風に生きることを望んだのだ。




「ああ、そうだ。今日は友達が家に来るから。六時過ぎから八時くらいまで居ると思う」


「そうか。なら、その間は書斎で大人しくしていよう。というよりも、やることが多くて家に居ないかもしれんな。鍵を忘れないように」


「うん、分かった。兄さんは何時頃に帰ってくるの?」


「今日は六時過ぎになるだろうな。遅くとも七時には帰る」


「それじゃあ、ご飯は私が炊いておくね」



 黒い瞳を細めながらそう言う美空に、一鬼と明は静かに頷き、そのまま食事を続ける。


黒髪、黒い目……それらは実に日本人らしい身体的特徴であり、美空と明はそれに当てはまる。

一方、一鬼は澄み切った夜空のような藍色の髪に、血の如き赤の眼を持っていた。

明らかに日本人とは思えない異常な容姿は、しかし彼の生来のものであって、決して染めたりしたものではない。

この三人の中で一鬼のみがイレギュラーなのだ。明らかに異常なのだ。


 この容姿の異常さに加え、彼の名前は一鬼という、あまり縁起の良くないものだ。

一人の鬼と書いて一鬼……このような名前を名付けた両親の意図を内心理解出来ず、しかし改めて問い質せない彼が居る。

何故彼にそのような名前をつけたのか、理由を聞かなければならない日が来るのを彼は予感していた

しかし、それをした瞬間何か大きな変化がこの家族を襲いそうで、彼は怖いのだ。


 彼に巨大な変化が襲い掛かるのは怖くないが、家族の心を害し得るものならば、彼はそれを止めねばならない。


 飽くまで彼はこの家族の為に生きるというスタンスを取る。




「ごちそうさまでした」


「相変わらず早いな。育ち盛りだろうに、その程度の量で良いのか?」


「ああ、余り食べられないことは父さんも知っているだろう? 皿洗いは自分でしておく」



 一鬼は早々と食器を片づけながら、流しへと向かった。


その様を見る明と美空の表情に気付かぬまま、彼はシンクに食器を置いて、皿洗いを始める。

その赤い瞳が冷たさを内包し始めた瞬間、二人が眉を顰めたことにも彼は気付かない。

いや、彼らが複雑な感情を抱いていることは彼も知っている。その眼が全てを見抜いている。

ただそれを言葉にしないだけで、彼は己だけが異常であることに気付いていた。

彼は三人全員が微妙な距離感に居ると思っているが、実際に微妙な距離感に居るのは彼だけなのだ。


 己が名前に、存在に違和を見出し、他者と己の違いに不和を見出し、存在価値を見いだせずに居るのが一鬼という男だ。

彼は常に己が何者なのかも、何の為に生きているのかも見いだせず、空虚さと戦っている。

容姿も、精神も、何もかもが何処か常人とはずれている、そんな男なのだ。

幸い高い能力を持っている為、落ちこぼれることはなかったが、逆に言えばトップに居る訳でもない。




「歯を磨いてくる」



 一鬼は二人の返事を待たずに、いそいそと洗面所へと向かう。


そんな彼の様子に苦笑する明と、何処か憂いを含んだ表情と共に見守る美空に、彼は気付かない。

いつだって彼は気付かない……周りが彼をどう見ていて、どう感じているのかを気にせず、無関心だ。

彼にとって最も大事なのは己がどうするかであって、他者がどう思っているかではない。


 己が本当に鬼なのか、それとも人間なのか……そればかりに気を取られて、多くのものを見逃してきた。

だが、彼はそれを後悔している訳ではないし、結果をしっかりと受け止めている。

周りを見ていない訳ではないし、その本性を見抜くという点に関しては、彼は秀でていた。

それこそ、見透かしているかのように相手の本性を捉えるのだ。


 そんな不思議な力を持ちながらも、ただの心の機微を把握しきれていないというギャップこそが、彼の特徴と言える。




「……」



 沈黙の中で歯磨きをしながらも、一鬼はその赤い目を細める。

彼の十九年の人生の中で、この眼を怖いと言われなかったことは殆ど無く、基本的に彼には親しい人物が居ない。

ある程度まで仲良くなることはあるが、その程度止まりで、皆彼に踏み込まず、踏み込まれないようにするのだ。

まるで見えない壁でも存在するのではないかと錯覚する程に、彼と他者の距離は遠い。


 その距離感を生み出してしまう最大の原因は、やはりその眼にあると言っても良い。

彼の眼は無機質な光を宿しており、何処か人間らしさを欠如している上に、まるで相手を見透かしているかのような錯覚を覚えさせる。

だからこそ、彼に多くを見られるのを恐れて、皆距離を取ってしまうのだ。

その眼に己が本性を曝け出されそうで、己が全てを見透かされそうで、皆彼を恐れるのだ。


 そして、彼が自ら距離を取り始めることで、自然と彼は孤独へと向かった。




「……!」



 歯磨きを終えた一鬼は不意に気配を感じて後ろを振り向いたが、そこには誰も居ない。


 その気配は幻でしかないのだろうが、しかし彼の第六感はそれが確かに何かの気配であると感じ取っている。

本当の幻というものは、現実と区別がつかないというが、彼はまさしその状態にあるのかもしれない。

一年前の事故以降、彼は時たま気配を感じることが何度かあったが、ここ一ヶ月でその頻度は劇的に増えてきた。

最初は月に一度程度だったが、今や毎日何度もこの謎の気配を感じているのだ。



 一年前に頭を強打してしまったことが原因で、彼は味覚を失ってしまった。

しかし、それだけでなくこの幻覚にも似た後遺症が現れたのだとすれば、彼は再び病院の厄介にならなければならない。

一年前の事故に関わった者は多くが死亡し、生存者の多くが負傷し、後遺症を残している。

もしもこれが後遺症だと言うのならば、彼もその例に漏れなかっただけのことだ。


 更に失ったものが増えただけであり、彼はそこに悲しみを見いだせない。




「……重傷だな」



 彼はこの程度で臆病になって、己が狂い始めていると疑い始める程軟ではない。


この気配が幻であろうと本物であろうと、彼はその事実に絶望したりはしないし、できない。

彼が真に絶望できるのは、彼がこの世界にとって必要ない、ただの異質な存在であった場合だけだ。

誰かの為に生きる。何かの為に生きる……ただそれだけが満たされていれば彼は良い。

己が存在理由を他者に押し付けるということは、ある意味酷く弱いことであると彼も自覚している。


 だが、彼はその誰かを隠れ蓑にするつもりはない。

ただ己が誰かの為にしたいからするというスタンスは不変であり、相手の為にという部分を強調しはしないのだ。

相手の為だと押し付け続けた結果残るのは、己が我が侭の正当化に他人を利用したという事実と、決別と言う結果だけである。

己がそうしたいからするのだという部分から目を逸らせば、いずれ存在理由はただの隠れ蓑に成り下がる。


 彼にはそのようなことはできない。


そう教育された。そう望んだ。




「洗面所、空いた?」


「ああ、空いている」


「ん、ありがと」



 すれ違って洗面所に向かう美空を一瞥した後、一鬼はそのまま歩き出して、密かに微笑んだ。


少なくとも、妹が生きているという事実は、彼が生きていた意味の一つとなっている。

彼が居たからこそ彼女は今こうして生きている……その代償として味覚を失いはしたものの、彼はこの結果に概ね満足している。

彼はその味覚の消失の原因は彼女にはないと理解している。己が望みがそうしたと、割り切っている。

彼が美空を助けようとしなければ、美空は死んだ。それが嫌だから、彼は彼女を助けた……それだけのことなのだ。


 家族を守ることが彼の生き甲斐だ。今の彼にとって生きる理由そのものだ。

その為ならば、彼は己が命も惜しくないし、場合によっては捨てる覚悟もできていた。

元々虚無を宿すのだから、このまま生きていても誰かの役に立てるかは分からないし、己の夢を見出せるかも分からない。

だから、少なくとも他者の夢を守る為に、彼は生きようと思うのだ。

己の夢を追い求めることが叶わないのならば、せめて誰かの夢を守ろうと思うのだ。


 いかに自分勝手であろうとも、今の彼にはそれしか生きる意味が見いだせない。

彼が大切だと思う者達の為だけに生き、その為だけに死ぬという、一種の幻想こそが彼を生かしている存在理由なのだ。

歪で、幼稚で、ただの妄想だと嘲られても否定できない危うさばかりの生き甲斐だが、彼はその嘲りすらも乗り越えるつもりでいる。


 我儘を通す為には、それなりの覚悟が必要だと彼は理解している。


 彼はそう育てられた。そう望んだ。




「……行くか」



 一鬼は部屋に戻ると、教科書などを入れたバッグの中身を確認して、そのまま担いだ。

大学の講義の時間まではまだまだ余裕があるが、彼はそのままバッグを背負って玄関へと向かう。

あまりファッションを気にしない一鬼は、適当な服を着てそのまま黒い靴を履く。

彼にとって衣類などは一定以上の見た目であれば、後は機能性を重視するものでしかない。

ある程度の好みはあるものの、余程酷いものでなければ彼はどれでも良かった。


 一鬼は大学では特に親しい友人も居らず、寧ろ教授達との仲の方が良いくらいだ。

彼にとって大学は飽く迄社会というシステムの中に進んでいく前の準備の場所で、そこで青春云々を得るつもりは無い。

ある意味既に味覚を失うことでそれは損なわれてしまったが、それを今更求めるつもりなど、彼には無かった。


 目を歪めて、百八十四センチの長身に備わる立派な筋肉に力を込めると、彼は立ち上がる。

その赤い眼の中に玄関の扉を映し、鍵を開けると、静かにその取手に手を置き……そこでふと近づいてくる気配に振り向いた。

学生鞄を片手に慌てて駆け寄ってくる美空の姿を捉えながらも、彼は静かにそれを待つ。

黒い制服に身を包んだ彼女の姿は愛らしく、それなりに垢抜けている。


 それでも浮いた話一つない妹に、一鬼は思わず溜息をつきたくなった。




「待って! 私も行くから」


「そんなに慌てずとも、まだ間に合うぞ。」


「時間に余裕を持って、ゆっくり行きたいの」


「だとしても、態々出るタイミングを同じにすることに意味は無いだろう」


「むぅ……」



 不機嫌そうに眉を顰める美空に、一鬼は苦笑して、押そうとした片手をそのままに、彼女が靴を履き終えるのを待つ。


彼もそこまで人心に疎い男ではない……彼女が彼と何かを話したいであろうことは理解していた。

心の機微を読むことには苦手ではあるが、その大まかな方向性を感じ取るのは彼にとって容易なことである。

二人の兄妹仲は決して悪くないし、寧ろ良好とも言える部類である為、互いのことをそれなりに知っていることも関係しているだろう。

知っているからこそ踏み入れる領域がある、知っているからこそ踏み入れない世界がある。

今彼が目撃しているのは、踏み込んでも良い部分だ。


 そもそも、兄妹というものは世代が近い分、親よりも一緒に居て場違いさを感じにくい。

余りにも歳の差があるのは別だが、五年程度の違いならば特に問題もなく会話はできるものだ。

幼いころはぶつかり合い、奪い合うものだが、いずれ大人になっていき、高校生にもなれば、互いの立ち位置を理解できるようになる。


 そこで互いの間に余りにも大きな壁ができている場合もあるし、そうでない場合もあるだろう。

一鬼達の場合は後者の方に当てはまり、互いに齢十五を超えた今も、特に大きな隔たりは無い。

寧ろ、一年前の母の死を境に、父を含む三人の距離は以前よりも縮まり、より近くなったと言える。

そして、二人の関係は共依存というよりも、どちらかと言えば片依存……つまり寄生に近い。


その関係性が良いものでないことは彼も分かっているが、下手に変化させようとして悪化するのは避けたかった。




「ん、お待たせ」


「それじゃあ、行ってきます」


「行ってきます!」


「ああ、行ってらっしゃい」



 微笑と共に見送ってくれる父に微笑を返すと、一鬼と美空は家を出た。


扉を開けた瞬間に流れてくる空気に爽やかさを感じながらも、二人はそのまま進んでいく。

一鬼の通う大学は家の前の道路沿いに進んで徒歩十五分程度で、美空が通う高校はその途中にあり、徒歩十分程度だ。

だからこそ、二人がこうして肩を並べて登校する日も稀にある。


 一鬼と美空の年齢差は二歳で、同じ小学校に通っていた頃も同じように肩を並べて登下校していた。

そのことを一鬼は思い出しながらも、笑顔で隣を歩く美空を見遣る。

彼女が歩を進めるのに合わせて揺れるポニーテールは、まるで意志を持った生物のようにも見える。

だが、それはただの肉体の一部であって、そこに意思などない。感情などない。


 美空の容姿は全体を見れば上の下程度で、かなり綺麗な部類ではあるものの、決して絶世の美女だと言えるレベルではない。

実際問題、彼女は明朗快活ではあるものの、そこまで人気がある訳ではないと一鬼は聞いている。

彼女の性格を誰よりも知っている為、彼としては彼女に人気が無い理由が分からなくもない。

彼女の持つ弱さは酷く重いものであるとも言えるし、それに立ち向かうだけの胆力と、しかし無闇にかき乱さないスマートさを高校生に求めるのは酷なことだ。


だが、欠点に目を瞑れば良い子であることを知っている為、一人くらいは彼女のことが好きな男子も居る筈だと、彼は思っていた。


 彼とは違い、彼女は人間らしい。人間特有の弱さがあって、強さがあって、その形も内包する精神も、確かに人間のものだ。




「それで、何の用だ?」


「今日来る友達についてなんだけど、奈央なの。こんなこと言うのはあれなんだけど、六時半くらいに帰って来てくれると助かるな」


「成程。俺は確かにあの子には大層嫌われているしな。了解した」


「んー……私からすれば理解し難いけど、兄さんのこと、凄く怖いんだって」


「……それはあの子の方が正しいな。寧ろ俺と普通に話せている美空の方がおかしいかもしれない」



 一鬼は外見が怖い上に、何よりもその眼が異質であり、故に皆から避けられる。


彼は、実は美空も彼を内心では避けているのではないかという疑念を、静かにこの問いで確認した。

自然に進む会話の中で、こうして不意打ちの試験を行うのも、彼の悪い所だ。

他者を試して、見定めている……それをいきなり奥深くされるから、皆は彼を恐れるのだ。

だが、そうやって相手を見定めることは彼が学ぶ為に必要なものだ。彼が憧れる者達から多くを学び、その後を追う為に必要な能力だ。


 彼としては、これはもはや性であるのでどうしようもない。




「ふふ……でも私までそうなったら悲しいでしょう?」


「……それは勿論そうだな。たった二人しか居ない家族の片方にそんなことをされては堪ったものではない。だが、お前が―――」


「でしょう!? だから、このままで良いの! それよりも――」


「そう! それよりも、もっと建設的な話をしようぜ!」


「ああ……羽月か。おはよう」


「あー……どうも。佐藤さん」



 さも当然のように会話に割り込んできた男に、一鬼と美空は冷静に挨拶をする。


男の名前は佐藤羽月……一鬼の友人にして、現在絶賛無職中の十九歳だ。

百七十余りの身長と、細身でありながらも筋肉のついている肉体はしなやかな動きを生み出している。

人懐っこそうな雰囲気と、整った容姿を持ち、実際かなり他人と打ち解け易い男である。

白い歯を見せながら笑う彼に、一鬼と美空はそれぞれ違う思いを乗せて苦笑すると、肩を竦めた。


 羽月は一年程前にいくつもの宝くじで一等賞を取った結果、大金を手に入れてしまった。

その後は、その大金を少しずつ使いながら生活しており、本人はこのままその金だけで生きていくと明言している。

彼の能力が高いことを知っているだけに、一鬼からしてみれば複雑な心境ではあるが、彼が口出ししても、羽月が意見を変えることは無かった。


 羽月は一鬼とは高校時代からの友人であり、殆どの人間が彼と深い関わりを避け、彼自身も避けていたにも関わらず、友人となった。

明るく、何でも一番になれる能力を持っていた羽月と、何でもできるものの、多くの分野では決して一番にはなれない一鬼では噛みあいそうもなかったが、何故か噛みあったのだ。

それは、もしかしたら羽月が一鬼の中に何か自分と同じものを見出したからかもしれないし、その赤い目を恐れなかったからかもしれない。


 いや、本当はそのようなものではないと一鬼は既に理解している。


 ただ、羽月の為に言及しないだけで、彼は本質には気付いていた。




「うっす、一鬼に美空ちゃん。今日もラブラブだね~」


「羽月、お前の眼は腐っているのか?……済まない。失言だったな」


「なに、気にするな。あれはお互い災難だった。それよりも知っているか? 昨日また被害者が出たらしい」


「被害者って……あの連続殺人事件ですか? バラバラ死体の」


「そう、それ。これで七人目だな。警察もまだ犯人の足取りが掴めていないらしい」


「佐村さんでも無理だとなると……案外、犯人は人間じゃないのかもしれないな」



 羽月がこのようなことを一鬼に話すのには意味がある。


一鬼の幼馴染である佐村優希の父親、佐村敬吾は警視であり、現在この連続殺人事件を捜査している。

佐村敬吾という男は、行き詰ると様々な人間の意見をそれとなく聞いて、調査を進めていく。

その様々な人間の中には一鬼も含まれており、何度か意見を述べたことがあるし、それ以上に深く関わったことが何度もある。


 故に、羽月はさり気なくまたその出番が近づいてきていることを一鬼に知らせているのだ。




「人じゃない? 猛獣か何かか?」


「いや、俗に言う妖怪やUMAかもしれない、ということだ」


「いや、それはないと思うんだけど。飛躍し過ぎだよ? 兄さん、時々突飛なことを考えるよね」


「まぁ、本当にそんなのが居たら、案外正解なのかもしれないな。それに……人間だったとしても、ここまで痕跡を残さない時点である意味化け物だ」


「確かにそうだな。七人殺して何一つ痕跡が残らない時点で、ある意味人外めいている」



 三者がそれぞれの考えを述べている間も、皆の歩は進んでいき、少しずつ目的地へと近づいていく。


道には彼ら以外にも学生や社会人がおり、皆徒歩で、自転車で、自動車で通学・通勤している。

その殆どが黒目に黒髪や茶髪の中で、一人だけ藍色の髪と真っ赤な目を持つ一鬼は目立つ。

金髪や茶髪ならばまだ染めている、若しくは異邦人の一言で済むが、彼の場合は藍色だ。

しかも、それは染めている訳ではなく地毛なのだから、その自然さ故に尚更目立つ。


日本人としては高めの百八十四センチの身長と、それを彩る筋肉もまた、彼を目立たせる原因であろう。

日本人でも百八十四センチを超える者は居るが、ある種の異質さをここまで感じさせる者はそう居ない。

これで顔に傷でもあろうものならば、その道の人間だと思われても仕方ない程度には、一鬼は鋭い目をしている。


 何よりも、その身に纏う空気の鋭さは、明らかに年相応とはいえないものだ。




「他にも失踪事件も起き始めているみたいだが、連続殺人事件と関係あると思うか?」


「失踪?……この近くでか?」


「ああ、最近何人かが行方不明になっているみたいだ。そっちも一ヶ月前から始まったみたいだからな」


「その物言いからすると……行方不明になった物達と、連続殺人の被害者達は違うようだな」


「ああ、違う。連続殺人は通り魔的なものだし、行方不明者はまだ見つかっていない」


「あの……二人共、そういう暗い話は二人だけの時にしてくれない?」



 一鬼と羽月が事件について思考を巡らせていると、むっとした表情で美空がそれを制止した。


確かに、ただでさえ雨が降っていて憂鬱な気分になるというのに、このようなことを話していては、周りまで暗くしてしまうかもしれない。

しかし、一鬼と羽月からしてみれば、この事件は非常に興味深いものだった。

犯人はいったいどのようにして被害者を殺害し、逃走したのかまだ明らかになっていない。

これまでの事件は全てが十分程度の時間で行われており、犯人の手掛かりは一切ないという状況に、七回もの犯行を繰り返していながらなるものだろうか?


何かしらの異質さが、この事件からは漂っていた。




「確かにそうだな。この話はここまでで止めておこう。で、美空ちゃんは何を話したいの?」


「私? 私は……そうだな、例えば佐藤さんが今何をしているかとか?」


「俺なら、絶賛無職で遊び中だぜ!」


「いや、笑顔で言うな」


「佐藤さん……可哀相に」


「いや、なんでそんな可哀相な奴を見る目で見るかねぇ……俺は十分満足してるって」



 爽やかな笑顔でそういう羽月に、しかし一鬼と美空は素直に頷けない。


彼等も何も知らない訳ではないし、寧ろその事情を良く知る当事者と言っても良い立場にある。

だからこそ分かる……今こうして佐藤羽月が笑えていることが、いかに異常かが。

笑顔で毎日楽しそうに飛び回り、会う皆に笑顔を向け、ひたすらに生を満喫しようとするその姿勢が、歪なことかが。

故に美空は彼を内心恐れ、一鬼は密かに彼に親近感を抱く。


 いかに高い能力を持っていても普通の人間でしかない美空にとって、羽月は異質な存在だ。

彼がどんなに良い人間であると聞いていても、知っていても、その裏に何かがあるのではないかと疑う。

反対に一鬼は、己自身が異常であるが故にその程度の歪さは受け入れ、寧ろ好意的になれる。

その背景にある本質をその赤い眼で静かに感じ取り、ただ見守る。


己が異常であるが故に、同じ異常に対して彼は非常に寛容だった。




「じゃあ昨日は何をしてたんですか?」


「昨日は適当にぶらついていたよ。定期的に運動しないと体力落ちちまうから。まぁ……やり過ぎるのも考え物だけどな」


「……羽月、俺はそこまで運動していない。間違ってもそういう筋肉バカではないぞ?」



 一鬼は確かに肉体的に恵まれている方ではあるが、それは飽く迄自然とついたものでしかない。


間違っても、肉体美などを追及して毎日トレーニングに励んでいたという訳ではなく、気付けば自然に身についていたものなのだ。

格闘技などに携わる者からすれば、バカなことを言うなと怒鳴りたくなるようなことだが、事実だった。

それもまた、彼が他者との間に違和を感じてしまう原因である。




「分かってるって。お前は筋肉つけることばかりにこだわる筋肉バカじゃあないもんな。で、今握力はどのくらいあるんだ?」


「……七十キロだ」


「七十か。まぁ、訓練すりゃ誰でもいくレベルだな。」


「……七十ではない。百七十だ」


「「……うわぁ」」



 一鬼の訂正に、羽月と美空の表情が歪んだ。


人間で世界一の握力を誇る男と言えば、ギネスブックにも載っているマグナス・サミュエルソンだが、彼の場合は握力が百九十二キロあったという。

それとそこまで差が無い握力をまだ二十歳にもなっていない男が有していることに、何よりもその男が親しい人物であることに、二人は少し引いていた。

おまけに、その男は格闘技などに携わっている訳ではないので、余計にあれである。


 そんな二人の困惑を感じ取りながらも、一鬼は一つ溜息をつく。




「何がうわぁだ。まだ世界記録にはいっていないんだ。別に気持ち悪いレベルではないだろう?」


「いや、十分気持ち悪いわ。だってさ、俺でも八十キロ程度だぞ? 分かる? 倍だぞ、倍。お前、俺様一捻り、だぞ? で、ベンチプレスは?」


「……二百五十キロだ」


「……兄さん、体重いくつだったっけ?」


「百十五キロだ」


「うわぁ……毎日鍛えてる俺でもベンチプレス百キロちょいなのに……」


「いや、その細身でそれなら、佐藤さんも十分ひかれるレベルだと思いますけど。というか、やっぱり鍛えているですね」



 世界的に見れば下の下だが、羽月もかなり高い身体能力を持っている。


本当にただ遊んで暮らしている男の筋力とはとても思えない程で、その言動から実際に鍛錬していることも伺える。

高校時代の時も、羽月は身体能力においては、ほぼ全ての分野で高校生の標準を大きく上回っていた。

しかし、そんな羽月など可愛く見える程に一鬼の身体能力は高い。


 その身体能力の高さこそが彼の異常性の一つであり、彼に窮屈さを感じさせるものでもあった。

彼からすれば大した力ではなくとも、貧弱な人間相手では殺傷能力を持ち得るのだ。

況してや、彼が全力で拳を揮えば、美空や羽月を一撃で昏倒、最悪殺し得るだけの威力がある。

そんな力を持っているが故に、彼は常に力の制御を求められた。


 力を持ちながらもそれを揮えないことが、彼には酷く窮屈なのだ。




「美空ちゃんはそういうのは平均的だったっけ?」


「いえ、私もそれなりに高い方です。でも……二人程じゃありません」


「いや、そんな目で見ないでくれよ。落ち込むからさ……まぁ、割とどうでも良いんだけど」


「そ、そうですか……」


「とかなんとかやってる間に、さよならの時間が来たようだ。美空ちゃん、君のことは忘れない」


「何を言って……あっ」



 おどけて言う羽月に顔をしかめながらも、美空は彼の示した方を見、結果悟った。


話をしながら歩いている内に、既に三人は彼女の通っている高校の前まで来ていたのだ。

一鬼の目的地は彼の通う大学であり、ここで美空と一鬼は別行動となる。

羽月はそれを知らせる為に、そのようなことを言ったのだ。

美空はこの十分程度で結局羽月のペースに乗せられてばかりだったことに深い溜息をつく。

こうやって二人を掻き乱してしまうから、彼女は彼が苦手なのだ。


彼が居ない日のみ、彼女はゆっくりと、静かに一鬼と二人で登校することができる。


その平穏を打ち崩してしまうからこそ、羽月はある意味彼女の天敵だった。




「はぁ……それじゃ、また後で」


「ああ、また後で」



 苦笑する一鬼に同じく苦笑で応えると、美空は彼に別れを告げて高校へと向かった。


その様子を少しだけ見守ると、すぐさま一鬼は大学へと向かってしまい、一度だけ振り返った美空に気付くことは無い。

そんな彼らの様子に口角を歪めながら、羽月は一鬼に続いた。

心の機微を理解できていないことへの苦笑とも、それを肯定する笑みともとれるその表情は、一鬼からは見えない。


 だが、もしも見えていたならば彼はすぐさまその意味を理解しただろう。


 本質を見抜くことは彼の得意とすることなのだから。




「それで、事件はどうなんだ?」


「ん?」


「美空を翻弄したのは、時間稼ぎだろう? 本当に話したいことがあるのだろう? 最近何か嗅ぎまわっていたようだしな」


「……ご名答。実際に現場を見に行ってみたりしたんだよ。分かったことは殆ど無かったけどな」


 一鬼の言葉に、一瞬だけ驚きを浮かべた羽月だったが、すぐにその表情は満面の笑みへと変わる。


彼らは高校からの友人であり、その付き合いはまだ五年程度だが、その五年で互いが互いのことをほぼ理解した。

故に、阿吽の呼吸で物事を進めていくことができる。

いつもは羽月が先導していき、それに一鬼が合わせていくが、時たまこのように一鬼が舵を取る場合もある。

そういった時、羽月は一瞬反応が遅れてしまうが、何とかついていくことができる程度の能力はあった。


二人はこうして何かと協力してきたのだ。




「それで、何が分かった?」


「なに、簡単なことだ。今回の事件の犯人は多分人間だ。ただ、頭はマトモじゃねーな」


「……根拠を聞いても?」


「犯行現場と犯行時間に規則性がある。だいたい犯行時間は朝か夕方……つまり登下校、もしくは出社退社の時間と重なる。犯行時間についても、それに付随して規則的な配置をしている。ま、ここまでは警察も……というよりも、佐村のおっさんが既に気づいていると思うけどな」


「つまり……通勤の途中で殺しているということか?」


「ああ、それなのに証拠を残さないってのは、人間業じゃないが……多分堅気の人間が犯人だ」



 このように羽月が探偵の真似事をしているのには訳がある。


既に死亡した被害者には、彼の義母である佐藤綾子の同僚が含まれており、彼は母までもがこの事件に巻き込まれる可能性を零にしたいのだ。

家族を守りたい……それだけの為に、彼はこの真似事をしている。

羽月は幼くして両親を失い、叔母の綾子の養子となった。

一鬼には美空と明が居るが、彼には綾子しか居ない……残されたたった一人の家族を守る為に、彼は犯人を追っているのだ。


その結果、逆に犯人に特定されて家族を狙われる可能性があることは、彼も考慮している。


 しかし、今までの被害者には全く共通点が無く、犯人そのものをどうにかしなければ止まらない。




「羽月……逆に犯人に特定される可能性はどうする? 却って綾子さんを危険に晒す可能性は?」


「それに関してはないと思う。この犯人は殺人そのものに興味があるだけで、警察を出し抜いてやろうとか、証拠を隠そうとか、そんなことは少しも考えちゃいないみたいだからな」


「どういうことだ?」


「警察を出し抜こうだとか考えている奴は、特定のサインを残すもんだ。それに、証拠を隠すつもりならば、処分した痕跡も残るだろう? だが、今回の一連の事件にそんなものはない。ただ思うがままに切り刻んでいるだけだ。多分、この犯人はただ人間を生かしたままバラすのが好きなだけなんだよ」


「……それと羽月達が狙われないことは関係ない。犯人は捕まらない為に、お前を殺すかもしれないぞ?」


「そうだな。だが、俺もそこまで近づくつもりはないさ」



 肩を竦めながらそう言う羽月に、一鬼は苦笑した。


羽月が文武双方において優れていることは彼も知っているし、今回もそれを生かすのは明白だ。

能力に振り回されることなく、それを扱いきるだけの手際の良さが羽月にはある。

だからこそ、一鬼はそんな彼が少し羨ましかった。憧れ、その姿勢から多くを学ぼうとした。

それこそが彼に羽月との友人としての付き合いを続けさせている要因と言っても過言ではないだろう。


 能力だけならば一鬼の方が上であることは間違いない。

だが、その総合的な扱い方という点において、彼は羽月に一歩劣っている。

単純な暴力の観点から見ればその立場は逆転し、能力も技術もある彼の圧勝だろう。

それでも、全体的なバランスは羽月の方が格段に上で、能力の引き出し方は勝っている。

だからこそ彼は羽月を尊敬している。


 その能力の高さと、それを扱う精神の在り方があってこそ、一鬼は佐藤羽月に興味を持ったのだった。




「それよりも、問題はお前の方だ。お前は異常なものを惹きつけやすい。今回はそうならないようにしろよ? 何せ……っ!」


「?……どうした?」


「いや、気のせいだ。一鬼、取りあえずお前は今回の件には関わるなよ? 面倒なことになるからな」


「勿論だ。自分からそんな危険な処に飛び込むつもりはない」



 一瞬己の背後を見て目を見開いた羽月に、一鬼は疑問に思いながらも、同時にある可能性を見出す。


羽月が反応した瞬間に、彼もまた己の背後に気配を感じた……1年前の事故以来少しずつ顕著になってきたあの気配を、だ。

だからこそ彼は、それに反応したかもしれない羽月に違和を覚える。

もしかしたら、一鬼が感じているものは彼の幻覚などではなく、実在するのではないか?

馬鹿げた話ではあるが、羽月の反応がその幻覚である筈のものに対するものならば、話は別だ。

彼に纏わりつくその何かがもしも実在するのならば、少なくとも彼の感覚は狂っている訳ではないと言える。


ただ、その場合はそれがいったい何なのかが問題になるだろう。




「!……メールか」


「この時間にか。誰からだ?」


「垣坂からだな。今週の土曜日に遊ばないかの御誘いだ」


「お前……まだあいつと付き合っているのか? いい加減にしないと、その内取って食われちまうぞ」


「垣坂はそういう奴ではない。確かに独特だが。それに、それならある意味俺も同類だ」



 垣坂愛梨は一鬼達にとっては一つ年下の後輩で、高校時代に病欠で二年ダブった為、現在もまだ高校二年生だ。


少々普通とは異なる、癖のある人物ではあるものの、悪い人間では無い。

どちらかと言えば、一鬼のような何処か世界との間にズレを感じている人種だ。

現代の社会に適応できていないとも言えるし、実際問題普通の生き方はできないだろう。

一鬼も彼女も、異常であることと、何処か人間離れしていることを考えるに、普通の人間達と共には生きていけない。


彼等が他者を受け入れても、その逆は叶わない……故に、彼らも離れざるを得ないのだ。




「同類? 確かにお前もあいつもおかしい部分はあるさ。だが、少なくともお前はそれを扱えていて、あいつは振り回されている。それが大きな違いだ。良いか? あいつは自分と向き合えないからお前に依存しているだけで、お前に何一つ返せない。あいつはお前を食いつぶすだけだ……だから、その前に関係を断ち切れ」


「……考えておこう。それで、連続殺人の方はまだ調べるのか?」


「ああ、危なくならない程度でな」


「そうか。気を付けてくれ」


「お前もな。余り甘やかすと、本当に食われるぞ」



 それとなく互いに言葉を交わすと、二人は別れた。


これから一鬼は大学に向かい、羽月は街を漂いながら連続殺人犯の行方を追う。

日常と非日常の交差点で、今二人はそれぞれの道を進んでいるのだ。

元来ならば逆の道を進んでいそうな二人が、そうではない道を進むことを選んでいる……この齟齬は、いずれ修正されるだろう。


 彼らが居るべき世界は、今彼らが居る世界ではないのだから。









 いつからであろうか?……男が己を見失いそうになり始めたのは?


いつからであろうか?……様々な試練があったものの、順調に乗り越えてきた筈の彼に悪意に纏わりつき始めたのは?

時間の感覚が麻痺し、ただただ課されたノルマを達成し、悪意に耐える日々がどれ程続いているのか、彼には既に分からなかった。

楽しかった仕事に浸食してきた悪意との苦闘、そしてそれに対する疲れ……様々な苦痛が彼から正常な判断力を奪う。


 ただ、はっきりとしていることがいくつかある。

彼は数年もの間悪意と向き合い続け、耐えてきたが、それも限界が訪れた。

彼の頬に刻まれた傷が、これは夢などでは無く現実であることを知らしめ、怒りと悲しみと恐怖を増大させる。

このままでは死んでしまう……心が死に、体がそれに従ってしまう。


だから、彼は復讐するのだ。生き延び、前に進む為に。




「……俺は、生きる。―――行け」



 夕焼けの中、その眼は前方を歩く男を確かに捉えていた。


熱を帯びる頬の傷を撫でながら、彼はその男の距離を測り、そして……呟いた。

死刑執行の合図であるその言葉を引き金にして、一人の男の人生を終わらせる為の弾丸を彼は今放つ。

その口元を苦痛に歪め、目を苦悩で細め、決断した。

生きる為に、同族を殺すと決めたのだ。同じ人間を殺し、其れで以て戦いを終わらせると決意したのだ。


 その数秒後に、見据えた男の服が真っ赤に染まり、その場に倒れる。

苦痛に歪んでいるであろう表情は見えないが、しかし、その死に様を彼は目に焼き付ける。

源泉から溢れ出す水のように流れていく赤い血の色を、全てを脳に焼き付けていく。

この数年もの間彼を傷つけた悪意は、今この瞬間世界から居なくなった。


彼が、殺したのだ。

その頬に傷をつけ、幾度も暴行を行い、彼の精神をすり減らした元凶は今この世界から消えた。

彼はもう自由で、すがすがしい気分の筈なのに、そうなれない。

他人を殺したという事実が生み出す吐き気と頭痛が、彼の思考を鈍らせる。


 そう……彼は人殺しをしたのだ。




「おい、倒れたぞ!」


「大丈夫ですか? 大丈夫ですか!?」


「血だ……血が出てるぞ! 誰か救急車を呼んでくれ!」


「……さようなら」



 己が手で死者を出したことで暴れる良心の呵責を振り払い、彼はそのまま進む。

既に肥大化しつつある騒ぎに紛れてその場から離れると、罪悪感に震える体に鞭打ち、静かに別れを告げる。

怒りも、悲しみも、憎しみも、彼からは二度と消えないかもしれない。


 しかし、少なくともこの瞬間、彼は悪意から解放された。

新たな痛みを抱え、怯え、苦しみ続けることになるかもしれない……それでも、彼は前に進めた。

前に進む為に必要なことを彼は成し遂げ、これから前に進んでいく。




「イエロー・レディー、行くぞ」



 背後に存在する筈のそれに、彼は声をかけてそのまま歩む。


彼以外には見えていないであろうそれこそが、彼を散々苦しめた悪意を葬った存在だ。

誰も彼が間接的に悪意を葬ったとは分からないし、分かってはいけない。

もしも分かったのだとすれば、それは特別な人間だ。彼の罪を糾弾し得る存在だ。

彼にとっての終わりを齎す、処刑人だ。


 男にとって、それはまさしく凶器そのものだった。

それが誰にも見えないからこそ、この殺人から彼が補足されないのであって、もしもそれが不可視でなくなってしまえば、途端に状況は一変する。

だが、そうなってしまったのならばそれまでのことだ。

それだけのことを彼はした……覚悟はできている。


 覚悟があれば何をしても構わない訳ではないが、しかし過ちを犯した時の結果は受けねばならない。




「……居ない? また勝手に放浪か。こちらにも見えないのが問題だな」



 イエロー・レディー……それが、彼がある日発言した力の名称だ。

自らの意思を持ち、彼を中心に半径二十メートル内で行動可能な、死をまき散らす暴力……それは彼にしか見えず、どんな方法を以てしても発見されない。

それが彼のみに与えられた能力なのかは分からないが、少なくとも彼がそれを持っていることは事実だ。


 だから彼はその力を使った……同じく力で以て彼を虐げていた悪意を葬る為に。

多くの人間を陥れ、しかし狡猾に証拠を隠していった、彼が知る限り最悪の男を、その力でたった今殺害した。

誰かの為ではなく、ただ自分の為に殺害し、そして今彼はその事実に恐怖と罪悪感と安堵を覚えている。


 いかなる目的も手段を正当化しないとは良く言ったもので、事実彼の心はこの殺人を正当化できないでいる。

否、そもそも正当化するつもりそのものがない……彼はこれが他でもない自分自身を救う為のものだと理解しているし、誤魔化してはいけない。

罪を受け止め、しかし壊れない図太さが今の彼には必要だった。




「……難しいものだ」



 前途多難であることを自覚して苦笑すると、男はそのまま自宅へと向かう。

今はただ平気な振りをしているだけで、一人の状態になればすぐに恐怖が覚悟を超える。

彼はいかに踏ん張ろうともただの人間であり、人間を殺したという罪を相手に平気ではいられない。

しかし、それでも彼は壊れはしないだろう。


 彼は覚悟した上で、殺人という罪を犯すことを選んだのだから。











 日没……つまり夕方は逢魔が時、黄昏とも言い、最も事故や事件が起こり易い時間だと言われている。

実際、この時間は昼よりも見渡しが悪く、しかし夜程ではないが故に、事故が起こり易い。

慣れ始めが一番危ないとは良く言うが、それと似たようなもので、中途半端に見えるが故にこの時間帯は危ないのだ。


 そんな時間帯に、神谷一鬼は太陽が沈みかけているのを傍目に帰路についていた。

いつもの時間、いつもの場所……そこならば危険など起こり得る筈が無いという幻想を抱きながら、彼はいつものように歩む。

大学の講義の内容を思い出し、課題を確認し、そして帰宅してからのことを考えながら、彼はその眼を細める。




「課題をやっておかないとな……」



 ついつい漏れ出す独り言に、一鬼は内心苦笑する。

独り言が癖になる者は基本的に何もかも一人でやろうとする人種で、確認し合う他者が居ないが故に、自分で話して自分で聞かなければならない。

心の中で己自身と対話できる程彼は優秀ではないし、容易に他人と深く分かり合える程オープンでも無い。


 一鬼は、他者を知ることに関してはそれなりに秀でている。

他者の機微を察することはできないものの、どういう人間なのか、どういうきっかけが必要かをくみ取る力はあるのだ。

それ故に、不器用ではあるものの、多くの者の奥底を知ってきた。

そこにヘドロのようなしつこさを見たこともある。磨けば光る原石を垣間見たこともある。


しかし、その希少な能力を持つが故に、彼は疎まれてきた。

他者の根底を一瞬とは言わないものの、すぐさま見抜いてしまうその力は異常だ。

しかも、肝心の彼自身がまるで見えてこないせいで、一方的に見透かされている恐怖が生まれてしまう。

だからこそ、多くの者は彼を避け、恐れる。

能力だけではなく、彼のその生態が孤独を呼ぶ。




「……結局、俺は社会不適合者なのか」



 彼はくみ取ることが苦手な上に、自分を伝えることも苦手だ。


 己が信念を伝える時や誰かを導く為ならば彼は饒舌になれるが、基本的には無口なのである。

他者を見てそれを伝えることができても、自分がそれをどう思うのかを上手く言えない。

感情というものを抑え込んで生きてきたが故に、彼は今非常に困っている。

感情を抑えこませたものが何なのかは彼自身にも分からないが、どちらにしてもこの現実は変わらない。


 彼はずっと昔から、何かに耐えて生きてきた。

目に見えないその何かは、ずっと彼を抑圧し、時に彼を死に至らしめようとさえし、彼はそれに耐える為に感情を抑え込んだのだ。

そこまでは分かる……齢二十に近付きつつある彼はそこまで理解できている。

だが、肝心のその元凶がまるで見えてこない……何一つ手がかりが無い。


 それが何か分かれば恐らく彼の心は自由になれる……自分の存在価値などに悩まずに居られる。


 力を揮えないこと以外に、彼を苦しめている要因が存在する筈なのだ。



「……!」



 不意に、一鬼は背後から忍び寄る気配に気付いた。


それは後方から一直線に、驚異的な速さでこちらに近付いてくる。

いつも現れる幻覚のような感覚に似ていて、しかしまるで異なるその気配に、彼は迷わず跳んだ。

驚異的な脚力が百十五キロの体重が軽々と宙を舞わせ、同時に先程まで彼が居た場所を何かが通過した。


 気配だけではなく、殺意をも感じ取った己のアンテナに内心感謝しながらも、一鬼はそのまま空中で態勢を整えて後ろに向き直る。

彼の第六感は未だにその何かの存在を感じているが、彼の視覚にはそれが反映されない。

まるで透明人間か幽霊でもそこに居るのではないかという錯覚を覚えながらも、彼はその感覚に従ってすぐさま逃げる。


 見えない何かの目的は不明だが、少なくとも彼はそれに構ってやるつもりはない。

殺意を向けて来た時点で、それが彼に対して友好的でないことは分かり切っている。

そんなものの相手をするのは愚かだし、リスキーなだけで何一つリターンがない。

ここは逃げるのが最善の手であって、立ち向かうのは愚かな選択だ。




「……っ!」



 何かが空を切る感覚に、一鬼は再び宙を舞い、体を捻った。

それとほぼ同時に紙一重の距離を何か小さなものが通過し、彼の衣類を切り裂いていく。

恐らく飛び道具の一種であろうと予想しながら、一鬼は着地と共に再び走り出す。

今彼の服を切り裂いたのは飽くまで投擲された何かであって、気配そのものはまだ彼の後方にある。

そして、今の処彼が全力で走れば逃げ切れるであろうことは容易に予想できた。


 彼が飛び道具の回避をしている間も然程距離は縮まっていない。

何か変なことでも起きなければ、このまま彼が全力で走るだけで逃げ切れる筈だ。

しかし、予想外の事態が起きればこの状況も一変してしまうだろう。


 故に、一鬼はすぐさま全力で走り出す。

それに追随する様に、背後から追いかけてくる気配も速度を上げていくのを確認すると、一鬼はすぐさま方向を百八十度変えて、今まで自分を追っていたそれに思い切り跳び蹴りを喰らわせる。

透明ではあるものの、その息遣いは補足できないものではなく、その行動に相手が驚くのを一鬼は容易に認識した。


 瞬間、己が体重の倍程の重さを足に感じながらも、彼は見えない何かを蹴りあげた。




「!?」


「――ふんっ!」



 そのまま流れるように着地すると、彼の蹴りで宙に浮いているであろう相手に、回し蹴りを見舞う。


常人ならばこの二撃をもろに貰えば死の危険性も十分ある……しかし、一鬼は相手を人間だとは思わない。

彼の蹴りは人間一人を簡単に蹴り飛ばすだけの威力があるが、この相手はかなり重い。

ざっと彼の倍の二百キロ程はあると見て良い……それが実際に蹴ってみて彼が感じた重量だ。

その重さを持つ者の攻撃は、さぞ重たいであろうし、不可視の状態ではその全てを捌くのは困難だ。


 だからこそ、彼はすぐさま踵を返して全速力でその場所から離脱を始めた。

背後の気配は未だに着地することなく、不安定な状態なので、何かを投合されても彼は怖く無い。

彼の蹴りをまともに受けて無事なのは流石だが、生命の危機に際しては、彼は猛獣相手にも負けない自信がある。


 火事場の馬鹿力においては、他の追随を許さないと自負できる程に、彼はとてつもない爆発力を持つ。

一年前の事故に巻き込まれた際も、彼はその爆発力で以て妹を守ることに成功した。

その際には、妹の安全を優先し過ぎたが故に、己の味覚を失うことになったものの、彼は後悔してなどいない。





「……撒いたな」



 数百メートル程走った処で、気配が追いかけるのを止めたことに気付いた一鬼は、安堵の溜息をついた。

彼が体感したのは相手の重さだけで、どの程度の脅威なのかは理解できなかったが、少なくとも関わるべきではないことは分かる。

あそこまで明確な殺意を向けてくる相手に真正面から相対すること自体が間違っているのだ。


 そして、安堵した処でふと彼は見知った気配を感じて振り向いた。




「あっ、一鬼君。今帰り?」


「……佐村か。こんな時間にどうした?」


「私は買い物」



そこに居たのは佐村優希―――彼の幼馴染だ。


日本人らしからぬ淡い赤の赤毛と、黄昏のような眼を持つ彼女は一鬼と同年齢で、現在彼とは別の大学に通っている。

その普通とは異なる容姿故に、昔から彼女は苛めに会いやすかったが、その高い能力で黙らせてきた。

努力せずともそれなりにできるが故に、細事には手を抜きがちな一鬼と違い、彼女は努力も怠らないので、成績は常に全国でも上位陣に属している。


 そんな彼女は、一鬼にとって同じ歪な存在でありながらも、しかし相容れぬものだった。

彼と同じ異常を内包しながらも、しかし位置するのは彼とは全く違う普通の存在で、生きる世界が違う。

彼が生きる世界は今ここにはなくて、しかし彼女が生きている世界は確かにここにある。

その差異に、彼は妙な悲しみと怒りを覚えるのだ。


 それは嫉妬かもしれないし、勝手なシンパシーが生み出した敵意かもしれない。

とにかく彼にとって佐村優希という人間は、親しくはあるものの、そこまで大切な存在ではなかった。

彼という異常を恐れない点では確かに特別ではあるが、彼女は決して彼の居る世界に踏み込もうとはしない。

まるで踏み込めば全てが終わってしまうとでも言わんばかりに、彼女は彼の傍に居ることを嫌う。


それが、家族や羽月との違いだ。




「あれ? 一鬼君、服が切れているけど、どうしたの?」


「ああ、これか?……裂けたんだ。あまり普通の服で運動するものではないな」


「ふふ……一鬼君は昔から力が強いもんね」



彼も、かつては彼女を苛めから守ったこともあるし、彼女を苛めた相手を完膚なきまでボコボコにしたこともある。

しかし、そのせいで同世代の殆どの子から恐れられてしまい、その時彼は初めて己の異常性を自覚した。

彼にとっての普通の一撃は、多くの者にとっては普通ではなかったのだ。


 小学生の時でさえ、彼が怒りに任せて拳を揮えば、大の大人でも容易く傷つけてしまった。

だからこそ彼は怒りを抑え、怒ることをできるだけしないように努めている。

今となっては、それこそ一流のアスリート相手でもなければ、彼も本気の一撃を加えることはできない。

常に力を抑え続け、感情を殺し続け、見えない抑圧が襲い掛かる日々に、ただ彼は耐えるしかないのだ。


 一鬼にとって確かにこの日常は大切なものではあるが、しかし同時に退屈なものでもある。

父である明も、妹の美空も、親友である羽月も、彼が関わる全ての者が、彼にとっては大切な存在だ。

だが、それだけでしかないという一面もあり、やはり彼の居る世界とは何かが違う。

彼らは歩み寄ってくれるし、一鬼自身も歩み寄りはするが、それでも相容れぬ何かがそこにはある。


 彼はまるで己だけが人間ではないかのような錯覚すら抱きながら、毎日を生きていた。




「そうだ。そういえば、大学の方は順調?」


「ぼちぼち、だ。できるものは『秀』で、それ以外は『良』程度で受かっている」


「……高校の時と比べて大分学習意欲が無くなって来たね」


「そうだな」



 一鬼は高校時代には流れに乗って学習することができた為、高い成績を残すことができた。

基本的に彼は何かを自発的に始めることはなく、流れに乗って進むことを主にしている。

己にとって重要ではないものは適度にこなし、適度に流す……それが生き方だ。

その代わり、一部の分野に関してはその能力をいかんなく発揮する。


 特に、戦闘に関するものに関しては、一鬼は溢れ出る闘争本能を抑えるのに苦労する。

ただの勝負事ならばそこまで気にはしない彼だが、死合いというものに関してのみ、意欲的になる癖があるのだ。

それを抑えて生き続けているが故に、彼はくすぶっていた。

彼には力を行使する理由が必要で、今はそれがない。


 強過ぎる力を揮うには、理由が必要だというのが彼の考えなのだ。


 その信念が、彼に力の過剰な制御を強いる。抑圧を生む。




「一鬼君は元々頭が良いんだから、もっと努力すればどうにでもなると思うんだけどなぁ」


「しないのはできないのと同じ結果しか生まない。絶対にしないというのは、絶対にできないのと変わらないものだ」


「もう……そうやって屁理屈ばかり言っていても、何も変わらないよ。しないのなら、すれば良いだけ。できない人はいくらやってもできない。この違いは大きいよ」


「分かっているさ。頭では分かるが……どうにも本気になれない」


「まぁ、才能を生かせるかどうかは運だから、仕方ないのかもね。環境次第で才能は殺されもするし、磨かれもするから」



 優希が通っている大学は明らかに上位に属する大学なので、その言葉にはある種の重みがある。

彼女は己の能力を十分に磨ける環境に居たから、その大学に合格し、今も特に問題なく単位を修得しているのだ。

元々地頭が良いことに加え、努力を怠らなかった彼女だからこそ、上位ランクの大学でも苦も無く学習を行えていると言えるだろう。


 一鬼が通っている大学も上の方ではあるが、やはり優希が通っている大学と比べると見劣りしてしまう。

いかに能力が高かろうとも、それを活かせないのでは無いのと変わらない。

活かせる環境が最初から整っている者も居れば、そうでない者も沢山居る。


『運も実力の内』という言葉は、この現実を表す際に実に的確な表現だと言えるだろう。




「佐村、そういうのは止めてくれないか? 才能があると錯覚すると、それが違うと分かった時の痛みが段違いだ」


「大丈夫。一鬼君は才能があると思うよ。何でもできる上に、何かに特化してるタイプだと思う。ただ、周りがその能力を引き出しきれなかっただけ」


「……幼少期に関しては仕方ないが、自分自身で変わろうとしない限り、成長はできない。これは当たり前のことだろう?」


「確かにそうかもしれないけれど、でも人生は常に外からの刺激と、それに対する自分なりの答えが作り出していくものだと私は思うな」



 どこか達観しているような口調で諭す優希に、一鬼は若干の尊敬と、距離感を抱く。


彼女とかの間にある溝は深く、広い……いつの間にかできたそれは、きっとこれから一生二人の間から消えはしないだろう。

数年前に彼女から告げられた決別の言葉は、今も彼の記憶に残っている。彼による保護を脱し、独立することを宣言した日のことを。

一鬼はその事実に未練を覚えたことはないし、寧ろある種の決別がなされたと受けとめている。

だが、優希はどうなのだろうか?……それが、彼には分らなかった。


 実の処、一鬼は優希のことに対して興味がある訳ではない。

元々幼馴染であるから多少気にかけていただけであって、本人がそれを必要としないと言った今はその通りにしていた。

ある種の決別を経験した時から、彼は彼女に対してほぼ完全な不干渉を貫いている。

常に笑顔を張り付かせて、本性を見せない幼馴染の懐に自ら踏み込むつもりは彼にはないのだ。

もう一人立ちした彼女に干渉することは彼にとって忌避すべきことである。


 そもそも今の彼女を好きになれないというのも、彼にそうさせる原因であった。




「そうか……そろそろ時間が時間だから、話はここらで終わりにしようか」


「それじゃあ、そろそろお別れの時間だね。 また今度ね」


「ああ、また今度」



 互いに別れを告げると、一鬼と優希はそれぞれ別々の道を進んでいく。


いかに幼馴染とはいえ、既に二人の間にできた溝は深く、底が見えない。

未来がどうなるかは誰にも分らないが、少なくとも今のところ、それが埋まることはないだろう。

一鬼にとって、その溝はそういうものだった。そうあるべきものだった。


 だからであろうか?……一度だけ、ほんの一度だけ振り返った優希に彼が気付かなかったのは。


その黄昏の目に、怪しい光が宿っていることに彼が気付けなかったのは。




「!……また、か」



 一鬼が、不意に首筋を撫でられたかのような感覚を覚えたのと、背後に気配が一瞬だけ現れ、消えたのは全く同時だった。


一年前の大事故の後遺症は未だに消えず、彼の第六感に働きかけてくる。

その何かは、時に彼の頬を、首筋を、顎を撫でては消えていく……まるで弄ぶように、獲物を前にして舌なめずりをしているかのように、彼の感覚に干渉してくる。

滑らかなそのテクスチャーに似合わず、その触れ方は重く、依存的なものだ。


 それはただの幻だったのかもしれない……いや、少なくもそれは今朝までは彼にとっては幻だった。

だが、羽月の反応、それもほんの一瞬のそれが、彼に他の可能性を示してくれたのだ。

彼が狂っているのではなく、彼以外にもそれが感じられるという可能性が、少しだが見えている。

だとすれば、そこには非日常があるかもしれない。怨念が渦巻く渇きがあるかもしれない。


 勿論、それがただの幻想で、本当は偶然羽月がそういう反応をしただけである可能性もある。

しかし、一鬼はそれでも構わない……事実を受け入れ、ただただ己が狂っていることを受け入れ、静かに消えていくだけだ。

彼が狂っているのならば、いずれその狂気は他者への害となりうるだろう。そうなる前に、彼は消える。

社会の為ではない……家族の為だ。彼が守ると誓った者達の為だ。


 彼は真の意味では誰にも必要とされていないと感じているし、それが事実だと思っている。




「……どう言い訳したものか」



 故に、彼はもしも自分が家族すらも害することになるのならば、命を投げ出す覚悟はできていた。

自分が誰の為にも存在できないのならば、せめて誰かの為に死ぬ……そして、その誰かは彼にとって数少ない知人達だ。

彼は知りもしない誰かの為に生きるつもりも、死ぬつもりもない。


 一鬼は、異常な己と普通でありながらも向き合おうとしてくれた者達の為に死にたいのだ。

身勝手で、独善的で、どうしようもないと分かっていても、彼にとって守るべきものは身内だけだった。

どんなに建前で本音を覆い隠しても、彼は所詮そういう人物でしかない。


 それが自分でも理解できているからこそ、彼は余計に己が醜く見えるのだ。




「……これは罰なのかも、しれないな」



 赤い目を細め、自嘲ながら、一鬼は見えてきた自宅へと進んでいく。


その逞しさを感じさせる肉体とは裏腹に、彼は己の存在理由に苦しみ、個としての生きる意味を見出せずにいる。

一歩一歩自宅に向かうその足も、家族が居るからこそ動くのであって、そうでなければ向かうべき場所はない。

守るべきものがなくなった瞬間、彼は本当に生きる意味を失うことになる。


 玄関の前に立って、扉を開くその腕も、真の意味では自らの意思で何かを掴みはしないだろう。

その眼も能動的に誰かを捉えることはなく、言葉も使われることはなくなるに違いない。

彼を生かしているのは身内であり、それがなくなれば、今の彼に生きる意味などありはしないのだ。

存在理由を他者に大きく依存している今の彼では、強者にはなれない。


 だが、家族を守る為には彼はその強者にならねばならなかった。


 彼はそういう風に育てられた。そう望んだ。




「ただいま」


「おかえりなさい」


「美空……もうあの子は帰ったのか?」


「うん、さっき帰ったよ」


「そうか。良かった」



 玄関先で待っていた美空と言葉を交わすと、一鬼は一つ溜息をついた。


 美空の親友である荒木奈央は典型的な普通の人間だ。

能力も平均程度で、可も不可もない何処にでもいる女の子であり、最も一鬼にとって遠い存在でもある。

彼は幾度か彼女と会ったことがあるが、噛み合わず、避けられ、一鬼もそうすることにした。


 彼の眼は相手の根本を知る……だからこそ、荒木奈央が彼を恐れていることを理解した。

一鬼としても荒木奈央は、自ら近づいてまで仲良くなりたい人物でもなく、飽くまでその距離を保つことに努めている。

恐怖されることに既に慣れてしまっているが故に、彼にとってそんなことは些細なことだった。




「ごめんね……何度も言い聞かせているんだけど、奈央ったら少しも態度を改めようとしないの」


「良いとも。この程度のことは慣れている。俺のことよりも自分のことを考えろ。俺は大丈夫だ」


「何言ってるの。私達、家族じゃない」


「……そうだな。俺達は家族だ。だから、互いに助け合う。美空はもう沢山俺を助けてくれている。俺は今のままでも十分だ」



 一鬼にとって美空は生きる意味の一つであり、ただそれだけで大きな支えとなっている。

実の処、彼女が直接生きる理由になっている訳ではないが、それでも理由になっているのは確かだ。

生きる意味を見いだせない彼をこの世に留めてくれている……彼はそれだけで十分だった。

通常よりも遥かに強い絆で結ばれた家族の一員であるだけで、彼は十分幸せなのだ。


だから、これ以上は必要ない……与えられた分を返すまでは多くを望みはしない。




「私は十分じゃないの。それとも、私なんかじゃ助けにならない?」


「そういう訳ではない。もしもそうだったならば、俺はもうここには居ない」


「?……取りあえず、私が手伝えることがあったら何でも言ってね?」


「何でも、という言い方はあまり男にしない方が良いぞ。踏み込める距離を正確に測れないバカも居るからな。相手が魅力的な女の子なら猶更だ……気を付けろ」


「あー……うん、気を付けるね」



 混乱した面持ちで頷く美空に苦笑すると、一鬼は赤い目を細める。


美空は身内贔屓をするまでもなく、可愛い部類の女性に当てはまると一鬼は考えている。

素材は良いのだから、もっと化粧やお洒落にも気を遣えば良いのに、彼女はそういうものへの関心が薄い。

父も、亡くなった母もそういったものに無縁であったことを考えると、神谷家の宿命なのかもしれない。


 かく言う一鬼も、そういったものには無縁の、垢抜けないタイプだ。

基本的には機能性を重視し、デザインなどには無頓着、改める気もないという典型的なダサい人種に属することになる。

彼はそれを否定する気はないし、これからもそのままであることを半ば予感している。

容姿は上の方ではあるが、如何せんそれを活かそうとするつもりが彼になかった。


 彼に必要なのはそのような美しさではなく、精神的なものなのだから。




「夕飯は?」


「できてるよ。今日はシチュー。もうお父さんも待ってるから」


「シチューか。荷物を部屋に置いたらすぐ行く。待っていてくれ」


「うん」



 微笑と共に頷く美空に応えるように笑みを浮かべると、一鬼は荷物を置きに部屋に向かった。

ただ目的もなく生き続ける彼にとって、この家族こそが守るべきものであり、同時に彼が生きる意味となっている。

だからこそ、彼は思うのだ……少しずつ異常が忍び寄ってきている自分は、ここには居るべきではない、と。


 彼も既に気づいてはいる……彼と家族の間に血の繋がりがないであろうことに。

そもそも、ここまで似ていない親子が居るものだろうか?……美空は両親の特徴を強く受け継いだのに、彼には何一つ類似点がないのだ。

確かに彼女は親から血肉を与えられて生を受けているが、一鬼にはそれがない。

彼だけが、血肉を受け継がずにこの家族の一員となっている……そこに、彼は違和を覚える。


 彼が己のルーツを訪ねても、はぐらかす父の姿が示す……彼は、ここに居ても良い存在ではない、と。


 だから、彼はせめて彼らの為に生き、死のうと考えるのだ。












 雨が止み、分厚い雲の隙間から太陽が見え隠れするのを傍目に、男は石段を登っていた。

片手に折り畳み傘を、もう片手に花束を持った彼は、隈のある目を細めて、少しばかり息を乱しながらも、ゆっくりと進んでいく。

両脇に鎮座する墓石を捉えながらも、彼は目的の場所の前で、足を止めた。



「……」


 目の前の墓石にそっと花束を置くと、彼は両手を合わせて目を瞑る。

その瞬間に彼の中に溢れ出した様々な思い出が、喜びが、悲しみが、痛みが、世界を止めた。

走馬灯のように彼の中を駆け巡る過去が、何もかもを忘れさせる。




「父さん、母さん……俺は、もう同じ処には行けそうもない」



 その手で他人の命を奪った罪悪感は、そのまま何事もなかったかのように生きることを拒否させる。

罰せられなければならないが、しかし彼が犯人だと言ったところで、そこには証拠がない。

証拠がなくとも証言のみで立件することは可能だが、しかしそんなことで良い筈もなく、彼は悩む。


 彼一人が自己満足の為に自首するのは簡単だが、実際問題証拠など何一つない。

彼が得た力は彼にしか見えず、彼の持つその力が存在することを示しても、果たしてそれは証拠になるだろうか?

否、そもそもその力ならば犯行が可能だったと証明しようにも、彼の力はそれをさせてくれないだろう。




「イエロー・レディー……ダメか」



 彼の力は、彼の予想通りそれを拒む。


彼は人殺しだ……己の力で以て、悪意の塊であった男を葬ったのだから。

それは確かに、その男の被害にあった多くの者達にとって復讐となり得たし、これからそこに加わるかもしれなかった者達を守れたという意味で救いにもなっただろう。

だが、所詮はただの人殺しだ……どんなに修飾されたとしても、それは人殺しなのだ。


 人殺しは、人間として生きていく上で最も忌避されるべき罪であり、それに罪悪感を抱けなければ、人間として生きていくことは難しい。

人間は互いの身の安全の為に人殺しを禁じ、協力してきたのだ……その大前提を脅かすことは、そのまま人間であることの否定に繋がりかねない。

それを犯した已上、彼は人間でありたいのならば罰せられなければならない。


 そんなことを考えている彼を不意に誰かが呼んだ。




「……一矢さん、ご両親の墓参りですか?」


「ん?……ああ、一鬼君か。君も墓参りかい?」


「はい。ここに母の墓があるんです」


「……そうだったな。夜空さんも、あの日の事故で――」



 男と一鬼という青年は、一年前にこの町で起きた大事故に巻き込まれ、しかし生き延びた者達だ。

十数人の死者と、数十人の重傷者を出したその大事故でも、彼らは生き延び、こうして社会に復帰している。

皆何かしらの喪失を味わい、しかしそれでも生きているのだ。


 彼らはまだ希望はあると、まだ諦めてはいないと、己に言い聞かせて、足掻いているのだ。

男はかつて両親が残した言葉を胸に、青年は己が残された家族の為に、今もこうして生きている。

生きながらに死んでいるとすら言える彼らだが、それでも足掻き、生きる意味を求めているのだ。




「大学はどうだい?」


「ぼちぼちです。そちらも仕事はどうですか?」


「それなりに上手くやっているよ。この調子でいけば、出世までそう遠くないだろうな。それで……味覚の方はまだ?」


「ええ、まだ治っていません。味を感じられないことがここまでショックだとは、事故以前は思いもしませんでしたよ」



 男……高橋一矢と青年……神谷一鬼は、共に考古学者の親を持ち、更には知り合いだった。

一人っ子である男にとって青年は弟のような存在であり、青年にとって男は兄のような存在である。

更には、二人は一年前の事故で家族を失い、今日まで互いに助け合うことで生きることができたのだ。


 青年は日本人らしからぬ処か、人間らしからぬ一面を持っていたものの、男にとってはこの一年間大きな支えになってくれた大切な存在だ。

彼とその家族が居てくれなかったら、彼は既に孤独に、痛みに、怒りに、浸食されていただろう。

悪意に屈し自殺でもしていかもしれないし、もっと早くに殺害していたかもしれない。


 今こうして男が発狂せずにいられるのも、彼らの存在があってこそなのだ。




「大変だな……俺には想像すらできないが、少なくとも苦しいのは分かる。何かあれば言ってくれ。力になる」


「ありがとうございます。では、早速一つ良いですか?」


「なんだい?」


「その頬の傷は、誰にやられたんですか?」


「……これは、自分で誤って切ったんだよ」


「そうですか……随分と容赦なく切りましたね。それに……弄るような傷跡だ」



 男は、青年の……一鬼の鋭い一言に一瞬反応が遅れながらも、笑顔と共にすぐさま答えた。


だが、一鬼はすぐさまその嘘を見破り、それが他者によってつけられたものだと断定する。

男は内心彼の鋭さに舌を巻きながらも、若干の恐怖と多大な憧れを抱く。

彼程に隠し事を見透かせる人物を男は他には知らないし、男自身もそこまで察しが良い訳ではない。

ひたすらに訓練を繰り返すことで能力を得たに過ぎない彼では辿り着けない領域に、青年は居るのだ。


 青年は納得したように軽く肩をすくめるが、その眼は騙されていないことを雄弁に語る。その空気が事実を見抜いているのだと訴えかける。

男は、己の嘘が見抜かれていることを理解しているし、それを押し通すつもりはない。

ただ、男は彼にこう言いたいだけなのだ……その領域には入ってこないで欲しい、と。

そして、青年にはそれを汲み取ることができるだけの洞察力がある。


 彼らは今までずっとこうしてきたし、これからもこうするだろう。




「そういえば……今この町で起こっている連続殺人事件をどう思う?」


「あの事件ですか。これはまだ断定できないんですが……恐らく俺は既に犯人に会っています。あれが人間だったなら、ですが」


「本当かい!? よく無事だったな。それで、犯人はどんな奴だった?」


「頭がおかしいと言われるかもしれませんが、これは事実です。良いですか?……相手は透明で、しかも推定二百キロ程度の体重。恐らく怪力ともいえる腕力の持ち主です」


「……透明で、怪力の持ち主?」



 青年の口から出てきたキーワードに、男は疑問を抱く。


彼が挙げている特徴は、まさしく男がつい最近得た能力であるイエロー・レディーに酷似しているのだ。

それには人体を破壊できる十分な力があり、彼以外には見えず、場合によっては彼にすら捕捉できない。

青年が、大切な家族ともいえる存在がそれに接触していたという事実に、男は背筋を凍らせた。


 青年は……一鬼は自分から相手を傷つけようとするような攻撃的な人間ではない。

ならば、接触は当然イエロー・レディーの方から襲撃されてした、という可能性が非常に高い。

しかし、たった一つだけ彼には腑に落ちない点がある……それは、連続殺人事件の現場と、彼の居た場所の関連性だ。




「ええ、確かに蹴りをくれてやったんですが、その際に二百キロ程度の重さはあると感じました」


「け、蹴りか……な、成程。しかし、透明だとは……俄かには信じがたいな」


「信じてもらう必要はありません。俺が一矢さんに言いたいことはただ一つです……危険だと思ったら、なりふり構わず逃げてください。でなければ、恐らく死にます」


「……気を付けるよ」



 高橋一矢は一鬼の言葉に部分的に己が力の存在を感じ、しかしもう半分の部分で信じ切れずに居た。


 彼の力には、イエロー・レディーには、行動できる距離に限りがあるのだ。

それもせいぜい二十メートル程度の距離で、少なくとも彼の前でそれ以上の範囲にイエロー・レディーが達したことはない。

そして、どの殺人事件も、果ては一鬼への襲撃すらもが、明らかにそれ以上の距離で行われている。


確かに彼の通勤に使う道の近くで犯行は起きているが、事件によっては数十メートルどころか百メートル近く離れた場所であることすらあるのだ。

イエロー・レディーという力を彼が完全に制御できている訳ではないが、少なくともそれ程の距離を進め筈はない。

だからこそ、男は……一矢は一つの可能性に行き着くのだ―――他にも、彼の持つのと同じような力を持つ誰かが居る、という可能性に。


 どちらの可能性が正しいかは定かではないが、見極めなければならない……それだけの価値が、それにはある。


 家族同然の者達を連続殺人の被害者にしない為にも、彼は確かめなければならない……彼が元凶なのか否かを。











 一年前の事故から、母の墓に一鬼が訪れる回数はもう、今日で数十回になる。


 一鬼は毎日のように思う……何故、一年前の事故で母が死に、自分が生き残ったのか、と。

異物である彼こそがあの日死ぬべきであって、母は死ぬべきではなかったのだ。

悲しい程に歪に人生は流れていき、死は優劣に関係なく無差別に大切なものを奪っていく。

何故自分ではなく大切な者が死んでいくのか苦悩しながら、生きていくしかないこともある。


 一鬼にとって必要なものは、生きる理由であり、生きることの無意味さではない。

彼が生きる為に必要なのは、己の存在理由であり、自己否定ではない。

だが、このままでは己の存在価値も見出せず、静かに朽ちていくことになるだろう。




「……何故俺なんだ?」



 一年前の事故で、一鬼は美空を庇った際に、後頭部を強打した。

その影響から彼は味覚を失い、更には謎の気配を感じるようになったが、こうして生きている。

逆に、彼の母である神谷夜空は死に、妹の美空はトラウマを背負うことになった。

だからこそ、彼と父である神谷明がしっかりとしなければならない。


 生きている意味を問う暇がない訳ではないが、何はともあれ彼は生きなければならない。

彼が居なくなれば、父と美空だけが残されることになり、いずれ二人共壊れてしまう。

父は平気な振りをしているが、今は一鬼と美空が居るからこそそう振舞えているに過ぎない。

一鬼が居なくなれば、彼は壊れてしまう……そして、そうなれば美空もどうしようもなくなる。


 一鬼は己が家族にとって本当に必要とされているのかは分らないが、少なくとも二人は彼を受け入れてくれている。

だからこそ、彼は二人が生きられるように、今こうして生きている……それだけだ。

彼にはそれしかできず、それしか理由が存在しない。


 だが、このままでは彼はいずれ生きることを諦めてしまう……だからこそ、生きる意味が必要なのだ。




「……母さん、もう行くよ」



 母の墓にそっと告げると、彼はその眼を細めて立ち上がった。

あの日死んだのが母ではなく彼だったならば……そう思い続けてもう一年になるが、後悔したところで現実は変わらない。

幻想は現実をより良いものにできる可能性を持つが、しかし、帰ることは叶わない。


 今は生きるしかない……彼が美空や父を置いて死ぬ覚悟を決めるか、もしくは生きる意味を見出すか、二択ある未来まで、彼は生きるしかないのだ。

どうすれば良いのか分らず、ただただ毎日を無為に生きるしかできない彼だが、その二択の未来しかあり得ないことは分っている。


 苦しみ、悩み、生きるしかない……今はまだ、耐えるしかないのだ。




「……!」



 不意に、一鬼は先日感じたものと同じ気配を感じ、すぐさま飛び退いた。

それとほぼ同時に、先程まで彼が居た場所を透明な何かが切り裂く。

気配に気づくのに一瞬でも遅れていれば危なかったことに冷や汗をかきつつ、彼はすぐさま逃げの態勢に入った。

相手の能力は未知数で、少なくとも人体を短時間で破壊しつくせる程度の力はある。


 いくら一鬼が高い身体能力を有しているとはいえ、まともに相手をするのはナンセンスだ。




「逃がさないぞ」


「!?」



 不意に聞こえてきた女性の声と共に、一鬼の足に何かが巻き付いた。

堅い金属音から察するに、それは恐らく鎖の類なのだろうが、不思議なことに、彼はその重さを感じない。

彼はこのままでは逃げられないことを悟ると、すぐさま鎖を持って逆に相手を引っ張ることにした。


 相手の力はかなりのものだが、能力的には一鬼も同じことをできる筈なのだ。

案の定、鎖を引っ張った瞬間に、彼は相手がこちらに引き寄せられる感覚と、それに対する動揺の気配を感じた。

確実に逃げ切る為にも、彼はすぐさま相手が油断しているであろう合間に攻勢に出ることにする。

見えない相手だろうが何だろうが、それ以外の感覚がその居場所を示す已上、攻撃を外すことはない。



「そこだ!」


「っ!」


「……ちっ」


 しかし、彼の放った蹴りは堅い音と共に金属版のようなもので防がれてしまう。

蹴りの衝撃はその何かに吸収され、分散してしまうことになったが、彼はすぐさま次の攻撃に移った。

鋭い左フックを放ち、恐らく彼の足に繋がる鎖を持っているであろう腕に一撃を与え、そのまま距離をとると、彼はふと気づいた。




「……見える?」



 彼の足に繋がる鎖は、不思議なことに地面から生えているが、しかしはっきりと彼の眼に見えるのだ。

試しに引っ張ってみると、地面から鎖の余った部分が次々と出てくる……その異様な光景に多少の驚きを感じながらも、一鬼は理解した。

彼の足に繋がっているこの鎖は、そして彼が相対している襲撃者は、やはり超自然の存在なのだと。




「成程……やはりお前が連続殺人の犯人か。確かにこれなら証拠は残らない。しかし……随分と臆病だな」


「……」


「……図星か」



 元々透明な存在なのか、それとも透明になれる存在なのかで、この襲撃者がどういう傾向にあるかが見えてくる。

一鬼の判断では、この相手は後者に該当する筈だ……人体を容易く破壊できる力を持ち、しかし道具を使って今までの犯行を行ったという事実が、それを表している。

今彼が対峙している何かは、臆病とも言える慎重さを捨てずに犯行を続けていた。

恐らく、その何かは己が一方的に相手を攻撃できる状況でなければ動かない。


そういう臆病さを相手が持っていると感じ取りながら、一鬼は話を続けた。




「この鎖を見る限り、お前に触れたものは返り血だろうが透明になるようだな。それとも……これもお前の一部か? ああ、どちらにしろ、こうして地面に沈んでいくなら、証拠は残らないか」


「……挑発しているつもりか?」


「やっと喋ったな。お前が何なのかは知らないが、姿を見せたらどうだ? どうせ普通の人間には見えないのだろう?」


「お前は確かに……普通ではないようだな。しかし、だからこそ姿を見せるつもりはない。お前は私に触れた……私の絶対的優位がお前には通用しない」


「……一応話が通じる相手のようで助かる」



 実際の処、一鬼は気配を感じ取っている為、態々姿を見せてもらう必要はない。

だが、視覚的情報は非常に重要で、それがあるかないかで生死を分ける可能性も十二分にある。

だからこそ、一鬼としては相手に姿を見せて欲しかったが、それは相手の優位を大きく崩してしまうものだ……相手が素直にそうする筈もない。


 しかも、相手の言ったことが事実ならば、普通に人間では触れることすらできないようだ。

つまり、触れることができる時点で、彼は相手にとって脅威になっている。

その脅威を相手にして、態々不利になるようなことをする筈がない。

もしも、それをするとすれば、それは余程のバカか、それが些細なことだと言える程強大な力を持っているか、だ。


 そして、一鬼の直感が正しければ、目の前に居る何かはそのどちらでもない。




「これから殺す相手に話をしてどうする?」



「話はできても、話すつもりはないか。では、こちらの話を聞いて貰おう。この町で起きている連続殺人事件、あれはお前の仕業だろう? どうしてあんなことを?」


「……話す意味はない。お前はここで死ぬ……なのに、何故返答を求める?」


「理由も分らず死ねるか。それに、生憎まだ死ぬつもりはない。死ぬのは、守り切ってからだ」


「くく……ははは! 面白い……実に滑稽な男だ。もしも私から逃げ切れたのなら、姿を見せてやっても良いぞ!」


「その言葉を忘れるな」



 一鬼は足に巻き付いた鎖を解くと、地面に沈んでいくそれを傍目に、そのまま走り出す。


それに追随してくる気配を背後に感じながらも、彼は赤い目を細めて速度を上げていく。緩やかな加速と共に全身から発せられる熱に、命を懸けているという事実に、彼は思わず口元を歪める。

命を懸けたこの駆け引きの中にこそ、彼の求める何かがある……そう感じるのだ。

体の奥にある何かに火が付き、まるで別人になったような、生き生きとした感覚が彼の中に生まれていく。


 今まで彼を抑圧し続けていた何かが少しだけその力を緩め、彼は背を少しだけ伸ばせた……そんな感覚だ。




「逃がすか!」


「……!」



 己の本能が命ずるがままに、一鬼は飛んでくる何かを避け、そのまま再加速する。


その際にも、投じられたものがいつ見えるようになるかの確認も怠りはしない……既に道具の透明化のからくりに彼は気付きつつあるのだ。

彼を追跡している彼女が持っている間は透明になるが、その手から離れてほんの数秒で、それらは姿を現す。

そして、彼女が持っている道具は、彼女の手を離れてほんの数秒で、少なくとも彼と彼女以外をすり抜ける……それこそ地面でさえも、だ。


 一鬼の予想はこうだ。

彼女は己の手で凶器を持って連続殺人を行い、その後同じように捨てた……そうすれば凶器は残らない。

問題は返り血だが、彼女が触れたものを全て自分の意思で透明にし、尚且つ目標と己以外をすり抜けるようにできるのならば、問題なくなる。

そこらの店から衣類を盗み、それで返り血を浴び、そのまま捨てれば良いのだから。


 しかし、そうなると一つ問題が生じることになる……地面がむき出しの現場でも足跡などが残っていないことだ。

雨の日ならば仕方ないかもしれないが、そうでない場合も多々あった……足跡が残らないのはおかしい。

消そうとすれば、消そうとした痕跡も出るだろう……しかし、一鬼が羽月から聞いた話では、そのようなものもなかった。


 つまり、もう一つ彼女には秘密がある。




「そろそろさようならさせて……欲しいものだな!」


「そんなにさよならしたいのなら、この世とさよならさせてやろう!」


「それは勘弁願いたい!」


「残念だが……そこは行き止まりだっ!」


「っ!?」



 曲がり角を曲がった瞬間、彼は不意に気配が前に回り込んでくるのを感じ、急ブレーキをかけた。

しかし、加速した彼の体は幾ばくかの距離をそのまま進み、やがて止まった……その全身に鎖を巻き付かせながら。

一鬼は思わず舌打ちしながらも、今彼の身に起こったありえない事態に、内心混乱する。


 後ろから来ていた筈の追跡者が突然前に現れた……しかも、まったくその前兆を感じさせずに、だ。

彼は相手の気配をそれなりに正確に把握できていた……それが、何故こうなったのかが、この事態の原因を、相手の持つ他の謎を示している。

彼には足音も、飛び降りた際に生じる音も聞こえなかった……壁を飛び越えたのならば、それはありえない。

ならば何故?……その答えは単純明快――最初から足音など聞こえていなかったのだ。


 一鬼は本能的に気付いた―――彼女は宙に浮いていて、壁をすり抜けてきたのだ。




「まさか自分も壁をすり抜けられる上に、浮いているとは……そこまでは流石に読めなかった」


「……寧ろ読まれては困る。読まれては、この機会を逃していただろう。現にお前はこの一回だけで理解した。お前は危険だ……私の障害となり得る」


「危険なのはお前の方だ。無差別に人をバラしているのだからな。もう七人目だったか?……いったい何がそこまでお前を駆り立てる?」


「……好奇心は猫を殺す。しかし、その猫は好奇心を満たされて死んだのかもしれない。お前が一度でも逃げ切れば教えてやろう。逃げられる筈がないがな」


「そうか……しかし、一つ忘れていないか? 俺は、一度お前から逃げおおせたぞ?」



 一鬼は言葉を交わすことで時間を稼ぎながらも、鎖を解こうとするが、いくつもの鎖が絡み合って解くのは困難だった。

このままでは今までの犠牲者同様に殺されてしまう……それでは困る。

彼がここで死ねば、家族はどうなる?彼が助けたいと思っている者達はどうなる?

彼はまだ死ぬ訳にはいかない……まだ諦める訳にはいかない。


 彼は決めている―――死ぬのは、守り切ってからだと。




「ふん……あれは腹立たしかった。私の人生の中でまんまと逃げおおせたのは、お前くらいだよ。かつてリッパーと呼ばれたこともあった私から逃げる処か、一撃くれたのも、お前くらいだ」


「リッパー?……切り裂きジャックのことか?」


「生憎私はジャックじゃない……私は私だ。そして、喜べ……お前こそが本当のリッパーを知らしめる新たな犠牲となるんだからな!」


「っ!」



一鬼は不意に感じた攻撃の気配に、反射的に仰け反った。

同時に頬を掠める刃物のようなものと、続く舌打ちに、彼はどうにか攻撃を回避できたことを悟る。

しかし、僅かに頬を切ったのか、彼の頬から信じられない量の熱が発生する。

そのまるで蒸気が噴出しているかのような暑さを彼はそこに感じ、内心驚愕した。

人間である筈の彼の肉体から蒸気のような熱量が放出されている事実が意味するものに、彼は気付いてしまったのだ。


そんな彼に対して、何故か追撃は来ない……代わりにきたのは、息を呑む気配と、静寂だけだ。

まるで世界が静止したかのように、リッパーはその動きを止めてしまった。

それに疑問と驚愕を抱きながらも、しかし一鬼はすぐさま鎖を引きちぎろうとするが、鎖は固く、千切るのは困難に思える。

数十秒あれば可能かもしれないが、しかしそれだけの時間があればリッパーは彼を二度は殺せるだろう。




「お前……まさか……いや、そんな筈は……」


「?……何を言っている?」


「そうだ……そんな筈はない。私は―――もう負けない!!」


「―――!」



 理解しかねる言葉の応酬に次いで、再び凶器が振り下ろされる気配を一鬼は感じた。


今度は逃げられない……が、どうにかしてその衝撃を緩和するくらいはできる。

例えば鎖に刃物をぶつければ、痛みはあるものの、即死する可能性は極端に低下する筈だ。

だからこそ、彼はこのまま刃物の気配と鎖の気配のする場所を合わせなければならない。

見えずとも、空気の揺れ、音、気配の全てから彼は凡その位置を掴める。


 しかし……それを実行しようとするのと同時に鎖が引っ張られ、彼はバランスを崩した。

それがリッパーによるものであるのは明白で、彼は内心舌打ちした。

先程のように避けられないように、彼女は彼のバランスを先に崩すことにしたのだ。

己がある意味絶体絶命の状態にあるのを悟りながらも、彼は無意識の内に何かを目で追っていた。


 それが何だったのかは彼には良く分らない……ただ、彼の眼には誰かの手のように見えた。

その手が誰のものなのかは彼には分らない……ただ、彼はその気配を知っていた。懐かしいと思った。

その手が何を求めているのかは彼には分らない……だが、その手が伸びる先に振り下ろされ腕があったのは分った。

その気配が誰のものなのかは彼には分らない……だが、視界の端に映った黄金は、美しかった。


 そして彼は見た―――その手が何かを掴むのを。


彼は聞いた―――リッパーが苦痛に歪んだ声を上げるのを。




「ぐっ!?……う、腕が……何者だ!?」


「自分だけが特別だと思わないことね……その力を得たのは貴方だけではないのよ」


「貴方は……いったい?」



 透き通るような声が一鬼の鼓膜を震わせ、妙に懐かしい感覚を与える。


不意に消えた鎖の感触によって、彼は己が自由になったことに気づきながらも、驚きに目を見開いた。

彼が今現在見ているのは幻でもなければ夢でもない筈だ……しかし、彼には信じ難かった。

彼は己を柔軟な思考の持ち主だと思っていたが、それはどうやら違ったようだ……この事態に、彼は驚きを禁じ得ない。


 そこに居たのは女性だった……澄んだ新緑の瞳と端整な顔つきに加え、緑で彩られたチャイナ服と、鮮やかな黄金の髪の毛が美しい。

それだけならば、彼はこうして驚きを隠せずにいることもなかっただろう……そう、それだけではないのだ。

その鮮やかな黄金の髪に混ざり強く自己主張する狐のような大きな獣の耳と、腰の当たりから生えている狐の尾のようなものさえなければ、彼はここまで驚かなかった。


 未だに透明なままのリッパーの腕を掴んだまま、女性は一鬼の方に向き、その新緑の眼を細め、告げる。


 彼を更に驚愕させる一言を、その桜色の唇を動かすことで、宣告した。




「私の名前は碧……貴方の肋骨によって再び命を与えられた妖狐よ」



 彼女は様々なものを宿した新緑の眼で一鬼を見ると、微笑んだ。






 次の瞬間―――肉が裂けるような音が空に鳴り響いた。





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