第9話
旦那様に抱きあげられたまま家の中に入ると、二階へ階段を上り廊下の奥の部屋で降ろされた。すでに足は普通の感覚に戻っている。降ろされても何となく離れ難くて寄り添うようにそばに立ってみた。でも、旦那様はそんなことを思いもしないようで、スタスタと窓へ向かって歩き出してしまった。そして、部屋の窓を開け、家具にかけてあった布を次々と取り払っていく。
「お前はこの部屋を使え」
そう言って旦那様はわたしの服が入った袋を手に押し付けた。
この部屋を使え? え?
それを手にもったまま突っ立っていると、旦那様は、引出を開けてみせ。
「その服は、ここに入れるんだ」
旦那様は引出をそのままにして、部屋を出て行った。
じゃあ旦那様はどこに行くの?
そう思うと不安になって。急いで引出に袋をそのまま押し込もうとして入らない。引出に袋を乗せたまま、廊下に出る。キョロキョロと物音がする方へ歩いていくと、階段を上がってすぐ左の部屋だった。わたしの部屋は階段を上がって右の突き当たりだからずいぶん遠い。それに、わたしの部屋より小さい。
旦那様はその部屋だけでなく、他の部屋を回って窓を開け家具の布をはぎとり、引出やクローゼット、壁などを丹念に見て回る。
旦那様の荷物は袋に入ったまま部屋の寝台の近くに置かれていた。きっとここにいれば旦那様は帰ってくる。そのまま部屋で待つことにした。すると。
「リーシェっ! 自分の服くらいきちんと引出に仕舞えっ」
旦那様の大きな怒鳴り声が響いてきた。
どうやら旦那様はわたしが使う部屋とやらにいて、開けたままの引出を見てしまったらしい。せっかく旦那様の部屋で待っていようと思ったのに。
わたしが使う部屋に行き、服を仕舞うことにした。もちろん、少ないのだから、それはすぐに終わったのだけど。その後、旦那様の部屋へ向かうと、旦那様も荷物袋の中身を引出に納めていた。
その後、夕食を作るといって旦那様は一階の台所へ降りていった。こうなっては旦那様の部屋に居座ってる場合じゃない。もちろん一緒に階下へ降りた。
下の階は、家に入ったときから家具に布はかかっていない。
台所へついていくと、邪魔なので台所から出ていけと追い出されてしまった。
とはいっても、台所の扉を閉めるわけではないので、入り口で待つことにする。あちこちの棚からいろんなものを取り出してガタガタと音をさせながら旦那様が何かをしている。そうしてしばらくすればグツグツと鍋が煮えていい香りがあたりに漂いはじめた。
旦那様は何でもできるらしい。台所で忙しなく動く旦那様の大きな後姿を眺めていた。こういう姿もいいなと思いながら。
しかし、漂う美味しそうな香りに、今夜はどんな料理かなと匂いの元である鍋へリーシェは心を奪われていった。
マークは、入り口でずっと立っているリーシェが気になって仕方がなかった。
ぼけーっと立って何をしているのだろう。ただ眺めるだけなのである。機嫌はよさそうだから、問題はないのだろうが。
今夜の食事は適当に作って食べれればいいと思っている。野菜の皮をむいて鍋に放り込む。そして塩やスパイスを入れ煮えるのを待つ。料理をリーシェに手伝わせるという考えは、はなからない。火だの刃物だのを扱うリーシェに危険を感じたからである。何をしでかしてもおかしくはない、マークはそんな風に思っていた。
明日からは家政婦が来る。今日だけのことだ。リーシェには、当分の間、作られた料理の盛り付けと配膳だけをさせよう。そのくらいなら家政婦に頼めば、リーシェに教えてくれるだろう。
鍋が煮え出来上がった料理を皿に盛ると、マークは入り口で立っているリーシェに目をやった。待ってましたと目をキラキラさせ、マークを見つめ返してくる。唇を舌で濡らしているその姿は、ご馳走を前にした頭の悪い番犬そのものだった。
もういい? まだ駄目? ねぇまだ?
まさに目で語りかけてくるリーシェ。
そんなに期待できるものではないのだが、マークは苦笑いを浮かべて頷いて見せた。
リーシェはピョンっと飛ぶように入ってきて、椅子に座る。行儀よく待つ。
先に食べてはいけないと思っているのか、食べてもいいと言わなければ食べないのか。
「食え」
マークがそう言うと、適当に作られた料理を美味しそうに頬張った。リーシェは味覚音痴なのかもしれない。食べられない程不味いわけではないが、さほど美味しい出来でもなかったのだから。
食事の後は、早めに二階の部屋へ追いやった。はやく自分の部屋に慣れてもらわなければ。明日からは一人で、家政婦もいるだろうが留守番をしてもらわなければならないのだ。
二階に追い払われたリーシェは使えといわれた部屋で上着を脱ぐ。服も脱いでしまい下着だけになる。どうにも服を着たまま寝るのはゴワゴワするような気がして眠れないのだ。
しかし、旦那様もいないし、早めに寝台に入っても眠れるわけない。と思っていたら、いつの間にか寝入っていた。
辺りはしんと静まり返っている中、リーシェは目を覚ました。目が冴えてしまい、眠れず寝台から起き出す。
耳を澄ませてみても、静まり返った夜の音だけ。サワサワと何か揺れる音や、キシッという木が軋む音。廊下の突き当たりの窓から差し込む、薄い月明かり。
リーシェは窓に向かって廊下を歩いた。
ギシッギシッと一歩ごとに音があたりに響く。音をたてないように静かに歩いているつもりなのに。
静かすぎる中では、かなり大きな音になっているような気がする。冷や冷やしながら、ようやく、たどり着いた旦那様のいる部屋の前。
で、こっそり中に入ろうとドアを引く、けど。
ガチャガチャッ。
開かない。
ガキッガツッ。
押しても引いても、開かない。
何度も何度もドアを揺らした。静かにするということは、既に念頭にない。
ガツッ、ガチャガチャッ、ドカッ。
大きな音を立てて押したり引いたり体当たりしたり頑張ってみたが。どうにも開きそうになかった。
何か見えないかとドアの隙間を探してみたけど、闇しか見えない。
じゃあ音は?と耳をドアに付けてみる。何も聞こえない。
とうとう諦めてドアを背にしゃがみ込んだ。
朝になれば、このドアはきっと開く。ここで待っていれば。旦那様に会える。朝になれば。
リーシェは膝を抱え、そこでウトウトと眠りについた。
鎮まりかえった夜半過ぎ。
マークはドアをゆっくりと開いた。それに従い、ドアに寄りかかったリーシェの身体もズルズルと崩れていく。床に倒れてしまう前に、彼女を抱き上げた。
下着姿でこんなところで寝込むとは。
さて、どうしたものか。
昨夜、何度も目を覚ましていたようだった。慣れない環境で眠りが浅いのかと思っていたが。一人だと怖いのだろうか。
昼間、食堂でビクついていた。迎えに行った時、俺を見つけたその顔は花が開くように見事な笑顔に変わった。まっすぐに見つめてくる瞳を直視していられず、すぐに目をそらしてしまったが。それが気に入らなかったのかリーシェは暫く膨れていたようだった。俺にだけ懐いているというのも不思議なものだ。決して懐かれるような愛想のよい人間ではないのだから。記憶を失って最初に見たせいだろうか。まるで、生まれたばかりの雛鳥のように。
今夜だけはここの寝台に寝かせてやろう。また目が覚めたとき、夜中に徘徊しなくてもすむように。明日には、この部屋に寝台をもう一つ入れよう。リーシェが一人で寝られるようになるまで。
リーシェを寝台に寝かせながら、我ながらえらく甘くなったものだと思った。最初は事件かもしれないと、それにばかり気を取られていたというのに、いつの間にか彼女の背景をあまり考えなくなっている。それがどういうことなのか。
マークは静かにドアを閉じた。