第20話
わたしは神殿の奥の一角で生活することになった。下着もなく白い薄衣を何枚も重ね腰を紐で縛るだけの衣装を着せられている。これ、夏はいいけど、今は朝晩が結構寒い。他の女性神官達も同じような衣装のようなので、文句を言い辛い。マークの用意してくれた服は、温かくて肌触りがよかったのに。
「わたしがここへ来るときに着ていた服は?」
と尋ねると、不思議そうな顔をされてしまい返事がない。
「あなた、ええと誰?」
「メイとお呼びください」
「そう。メイ。数日前、わたしがここへ来たとき着ていたオレンジ色の服はどこにあるの?」
「存じ上げません」
このやり取りを、世話してくれる女性神官が変わるごとに繰り返した。皆、知らないという。しかも、名前も『メイ』と名乗る。どうやら、わたしを世話する女性神官の呼び名であって、本人達の名前ではないらしい。わたしのことは『神の花嫁』と呼ばれ、他の呼び方はない。わたしに名前はないのかもしれない。確かにこんな日々では、名前など必要ないのだから。そして、この人達にリーシェと呼ばれたくはなかった。大事なわたしの名前を教える気にはなれない。
「神の花嫁、昼食の準備が整いました」
世話をしているようで、この人達はわたしに命令している。食卓へつかなければ食事は下げられ、夕食まで出てこないのだから。
外へ出たいと言えば庭には出られる。しかし、言わなければ庭へ続くドアには鍵がかけられている。部屋の窓は開いているけれど、飾り格子があって光は入るけど出られない。どうして鍵をかけるのか訊ねても、存じませんの一言で会話は終了する。会話が成り立ちはしない。
手に負えなくなれば、薬を盛られるらしい。初日に抵抗して暴れてみたら、変なものを無理やり飲まされて、寝台から起き上がれなくなったから。
朝、昼、晩と部屋に届けられる食事を女性神官達に見られながらとる。そして神への祈りを捧げ、庭を歩き、楽器を奏でたり、風呂へ入りオイルを塗り込まれる。
わたしの行動範囲は、神殿の奥、いくつかの部屋とそれを結ぶ廊下と白い壁に囲まれた庭という狭い一角だけだった。この奥一角につながる扉は、いつも閉じられていた。女性神官達が出入りする扉がどこか別にあるのかもしれない。それがどこにあるのかは、わからないけど。
何人もの『メイ』が、わたしを世話している。わたしを、見張っている。それは眠るときですら。
失くした記憶の中のわたしは、毎日こんな生活を送っていたのだろうか。
誰もがわたしを丁寧に扱う。食事もそこそこ美味しいし、疲れることもない。
ただ、何もない。
わたしの意思など必要とされない。言葉など意味を持たない。ただ、ここにあるだけ。
『神の花嫁』という生きた像なのだ、わたしは。
ここにいた記憶など必要ない。過去なんていらない。こんなところから、早く逃げださなくては。
そう思うけれど、逃げようと思ったからといって簡単に実行できるわけじゃない。相変わらずわたしの記憶が戻ることはなく、この場所からどうすれば出られるのかまるでわからない。唯一知っているのは、閉じられたままの連れてこられた扉だけなのだから。
わたしは歩ける範囲は歩いて、ようやく住んでいる場所を把握できるようにはなった。ここは神殿でもかなり奥まったところのようで、神殿へやってくる人々の姿を見ることはない。耳を澄ませれば遠くに人々の声を聞くことは出来た。会話を聞き取れるほど近くはない。出口は遠いようだ。
周囲は身長を遥かに越える程の高い白い壁に覆われている。庭からその白い壁を確認したけれど、見つけた外への扉は固く閉じられていた。最近取り替えられたらしい頑丈そうな木の扉は、押しても引いてもびくともせず、ここから出ることは出来そうになかった。白い壁の向こうにある背の高そうな木々を見れば、一番外には近そうなのに。
逃げる方法もなく過ぎていく時間に焦りが募っていく。マークのそばを離れて一体どのくらいの時が過ぎたのだろう。もうすぐマークが帰ってくる頃。待っていれば、帰ってくる。その言葉が何度も頭に繰り返しよみがえる。
リーシェは中庭で空を渡る鳥の群れを見上げた。赤く染まった空を鳥たちが巣へ帰って行くのだ。
あんな風に空が飛べたら。どこへでも行けるのに。
マークは、わたしが神殿にきて安心した?
わたしをもう忘れてしまった?
いつかみたいに探してはくれない?
心配してはくれないの?
もう一度、あんなふうに抱きしめてくれたら。
せめて、もう一度、わたしの名前を呼んでくれたら。
空を遠くを見上げたまま唇をかみしめる。涙が零れてしまったら、我慢できなくなりそうだから。遠くの空に浮かぶ雲にマークを思い浮かべる。少しだけ口元を綻ばせている顔。甘えるとほんの少しだけ緩む口元に、いつもその甘えを許されていると思ってた。何度もそれをみたくて許されるのを知りたくて、繰り返し甘えていた。
もう一度? いいえ。ずっと抱きしめていてほしい。何度でもわたしの名前を呼んでほしい。マークはその願いをきっと叶えてくれる。あの笑みを浮かべて、きっと受け止めてくれる。
だから、諦めたりしない。
この空はきっとマークのところへ繋がっている。
大丈夫、まだ頑張れる。
見えなくても、わたしは知っているのだから、この空の先にいる人を。わたしはいつでも思い浮かべることができるのだから、その笑みをその声を。
庭の真ん中で空をずっと見上げているリーシェ。
マークは数日前から木の上で壁の内側を観察し、やっとリーシェを見つけた。ここからでは遠すぎてどんな顔をしているのかまでは見えない。だが、あれがリーシェであることは間違いない。他の女性と同じ格好をしていても、見分けることは簡単だった。
どうやらリーシェが望んでそこにいるのではないようだった。いつも大勢の女性が遠巻きに見ていて、時々は嫌がる彼女を数人がかりで建物の中へ連れて入ることもある。
今、たたずんで空を見上げながら何を思っているのだろう。目の前にいるのに、手が届かないことが悔しい。あの薄着のままでは身体が冷えてしまうというのに。周囲にいる女性達は、声をかけることもせず見守るだけ。
なぜ手をのばしてやらないのか。きっと、その手を温もりをリーシェは待っているのに。
神殿でレイと遭遇してから、神殿へ侵入しようと探っているのだが。
「なんて複雑な構造になってやがるんだぁ」
レイが神殿の地図を前にぼやく。
見取り図を描いてはみたが、空白部分が多い。中に入れないのだ。
通常の神殿なら、かなり奥まで誰でも容易に入り込むことができる。ところが、ラデナート神殿は奥へ繋がる通路に見張りの神官が何人も立っており、関係者以外は入れないようにしているのだ。
神殿は国家権力がなかなか踏み込めない場所だった。決定的な証拠でもないかぎり。神殿神官組織の上部を動かすには時間がかかりすぎる。
「祭り当日、群衆に混じって入り込んで現場を押さえるしかないか」
「そこまで待ってはリーシェが危ない。できるだけ早く、救出したい」
「だが、今のところ、あの神殿奥の白い壁を越えるしかないぞ。中からでは出口がわからん。さすがに、証拠もない状態では、神官相手に剣で突破するわけにもいかないしな」
そう話しているところへ、ダナンが部屋に入ってきた。
「祭りが告示された。明日だ」
明日?
その事実にマークは目の前が暗くなるようだった。いきなり幕が下ろされたように。
ダナンが街で手に入れた告示の紙をテーブルに投げる。
マークがそれに目を凝らす間に、ダナンとレイが話を続けた。
「それはまた、急なことだな」
「住民達も驚いていた。今までは、少なくとも一週間以上は前に告示されていらしい」
「カティーガン氏とリケンズ家が捕まったことが、洩れたか」
「そうかもな」
「怪しいことこの上ないな」
レイとダナンの会話を耳にしながら、マークは神殿の地図を指差した。
「レイ、神殿の本殿には二階部分がある。そこで儀式が行われると思う」
「確かに、本殿では、そこが一番怪しそうだが」
「俺はリーシェのいる奥を見張って、彼女が奥から本殿への渡り廊下へ向かったら、正面から神殿へ入る。渡り廊下へ向かわなければ、壁を越えて一人で侵入する」
「それはまた」
レイとダナンは顔を見合わせる。マークは返事を待った。
「わかったよ。俺とダナンは、まず本殿二階へ上がる。明日は無理やりにでも、中を調べて儀式現場を押さえることにしよう」