第16話
朝食の席でリーシェは、わたしにも料理を教えて欲しい、と言ってみた。もっとエンナのように何でもできるようになりたくて。でも、エンナには、旦那様の許可がでたらお教えしますよ、と断られた。それはいつも同じ。そしてマークは、まだ早い、の一言で却下。
どうして教えてくれないのだろう。わたし、まだきちんと掃除できてない?
少々不満顔で仕事へ出掛けるマークを見送り、リーシェは掃除をしようと二階へ上がって行った。
エンナはリーシェが二階に行く後姿を見つめながら、旦那様がリーシェに料理をさせることはないだろうと思った。今でも、洗濯はハンカチだけに減らしており、そのうち、掃除も洗濯もさせないようになるのではないかと思うのだ。
あまりにもすることがないと、以前のように奥様が出かけて危険なことになるかもしれないため、他の何かを考えているのだろう。
旦那様は、あれで自分が奥様に甘いと自覚していないらしい。奥様が笑っているとき旦那様の顔は穏やかに緩む。それが照れくさいのか、すぐに顔をしかめてしまわれるけれど。無理なさらない方がいいのに。
エンナはくすくす笑いつつ自分の仕事に取り掛かった。
そうした穏やかな数日が過ぎていく中、リーシェは何か物足りなさを感じていた。
何かが足りないのに。それがよくわからなくてもどかしい。ゆっくりと何かが両手からこぼれ落ちていっているような。
不安定な気持ちのまま、日が傾く頃にはリーシェは二階の窓から外を眺め、マークが帰ってくるだろう道の先を見つめていた。じっと待ち、そして、そこに期待したものを見つけるや。
マークが帰ってきたっ、とリーシェは玄関に向かって走った。
「おかえりなさい、マークっ」
飛びつこうとするけれど、片手で制され、マークに飛びつくことができない。昨日も、今日も。
マークが肩を押さえているのを、唇を尖らせ不満な顔で見上げるけれど。
「食事にしてくれ」
疲れた顔のマークにそう言われ、すぐに台所へ向かう。もうエンナは帰った後だから、食事の支度はわたしの仕事だ。食事を温めて皿に盛って食卓へそろえる。美味しそうな匂いで、自分もおなかがすいていることに気が付いた。
そして、さっき何かを思いついたような気がしたのに、リーシェの意識は目前の食事へと移ってしまった。
食事を済ませ、リーシェは二階で眠るための支度をする。その時、さっき思い付いたことを思い出した。
以前はマークが髪にブラシをあててくれたのに、ちっともあててくれない。
以前は、わたしが二階へ上がって暫くしてからマークが部屋に入ってきていた。なのに、近頃は食後は居間へ行ってしまい遅くまでそこにいる。お酒を飲んでいるようで部屋へ上がってくるのは、わたしがうとうとする頃。
それに、前はお帰りなさいって飛びついても、受け止めてくれて抱きつけたのに。この二日はあの腕の中に入れてもらえない。近くに、行けない。あの木に登った頃から、少しずつ距離が遠くなっている気がする。
リーシェは、髪にブラシをあてながら考えた。どうしたらマークの側にいけるのか、どうしたらマークの腕の中に入れるのか、と。
「リーシェ、自分の寝台で寝るよう言っただろう?」
マークが部屋に入ってきた途端、呆れたような声でつぶやいた。もぞっとリーシェがシーツから顔を出す。リーシェはマークの寝台でシーツに潜って隠れていたのだ。
「自分の寝台で寝ないなら、リーシェの部屋へ連れて行くぞ」
マークはリーシェからシーツを剥ぎ取った。しぶしぶリーシェが起き上がる。
怒らせてしまったみたいだ。そんなにいけないことだった?
「ここでマークと一緒に寝ては駄目なの?」
「駄目だ」
リーシェが恐る恐る尋ねたのに、きっぱりと否定されてしまった。
でも、一緒にいたい。すぐそこで寝てるのにどうして一緒に寝るのは駄目なの?
「どうして? 最初は一緒に寝てくれたでしょう?」
マークは渋い顔をして、声を途切らせた。
「あの時は……」
「どうして一緒に寝てはだめなの?」
リーシェは食い下がる。わからない。どうして駄目なのか。
「リーシェ。本当は、家族でもない男女が同じ部屋で眠るのはいいことではない」
「家族ではない……。じゃあ家族ならいいのね。どうしたら家族になれるの?」
マークがわたしと視線を合わせてくれない。わたしを見ない。見てくれない。どうしよう。
リーシェに不安が押し寄せてくる。
「お前は忘れているが、きっとどこかにお前の家族がいるはずなんだ。思い出せば、きっと」
「わたしはマークと家族になりたいのに? わたしの家族なんてここにいない。わたしはマークの家族になれないの?」
わたしの家族なんていないじゃない。ここにいない。ここにいるのは、マークだけなのに。
マークは目を細めてリーシェの頬へ手をそえた。そして、知らないうちに零れたリーシェの涙を拭う。
「リーシェ」
困ったようにマークがリーシェの名を呼ぶ。 でも。
「わたしが思い出せないから、いけないの?」
マークは目をそらせたまま眉根に縦皺を寄せ、涙を拭うその手は頬を離れていく。瞳から零れ落ちる滴は、さえぎられることなく頬を伝い首筋へと落とされる。次々と。
マークが答えに困っている。
そうなんだ。わたしが記憶がないから。記憶さえあれば。記憶さえ、あれば。
リーシェは記憶がないことを今迄どうとも思っていなかった。今さえあればよかったから。マークさえいればそれでよかった。でも、記憶がないと、マークとは家族になれない。
マークには家族がいるの? 他の家族がいるから、わたしのことはいらないの? でも、でも、わたしは妻だって。そうよ、家族でなくても妻なんだから、一緒に眠れなくても、そばにはいられるはず。
「いけないとか、じゃない。お前には」
「妻はわたしだけ、よね? 家族にはなれなくても、わたしは妻なのよね? マークのそばにいられるのよね?」
「妻は家族の一人だ、リーシェ。お前には、お前の家族がいて夫がいるかもしれない」
妻は家族?
記憶がないわたしは家族にはなれない。
だから、表向きの妻、なんだ。本当の妻、じゃなく。本当の妻にはなれないんだ。
わたしに家族? 夫? そんなのここにないのに。
マークの家族、マークの妻が、他にいて。そこにわたしはいない。
記憶がないわたしは、マークのそばにいられるの? いつまで? 明日は? 明後日は?
何もかもが消えてしまう。
マークは眼の前にいるのに、わたしには手が届かない、人で。そして、わたしは、やっぱり独りで。独りきり、で。
抱きしめてくれたのに? 手をのばせば届く距離にいるのに? わたしはそれを望んではいけないの? 抱きしめてほしいのに。そばに、いたいのに。ずっと。
「マークは、わたしがいらないの?」
リーシェがマークに腕を伸ばした。
お願い。お願いだから。いらないって言わないで。
たとえ家族になれなくても。たとえ本当の妻になれなくても。わたしはここにいる。だから。
マークを見つめ懇願する瞳に、マークは思わず目を閉じた。
マークの中で様々な思いが錯綜する。その腕に抱いてしまえば、手放したくないと思わずにはいられなくなる。だから、距離をおくようにしていたというのに。
彼女の言葉は、ただそばにいたいだけの言葉だと言うのに。雛鳥のように親に懐く親離れしていない子の言葉だと言うのに。
都合よく解釈しそうになる。
今はよくても、記憶を取り戻せば、困るのはリーシェだ。そう思うのに。
目を開けると、唇を噛んで見上げてくるリーシェと視線が絡む。リーシェが見つめる瞳の奥底にある感情を探ろうとしているのがわかる。必死で。そこに一欠けらの希望を見つけるために。
その視線は強く痛々しくて、上手く自分の感情を殺すことができない。目を閉じても、その視線を振り払うことはできそうにない。
降参だ。
マークはリーシェのために腕を広げた。
リーシェは待っていたようにその腕の中へ飛び込んでくる。マークの首に腕を回してしがみつき、首元に顔を埋めた。リーシェが首に回した腕が窮屈で、マークがそれを離そうとすると余計に首を絞められてしまった。離されるものかと、リーシェは一層首元に顔を埋め両腕を絡みつかせる。それがまた可愛らしく。今の自分は、さぞ奇妙な顔をしていることだろう。
腕の中にすっぽりと収まってしまうリーシェを胸に抱きながら、リーシェの中の記憶がどんなものであっても、それを受け入れよう、そうマークは思った。リーシェが望むなら、例え自分にとって辛い選択であっても選ぶことができるはずだ、と。