第11話
リーシェの夕飯の支度は、非常に時間がかかったが、それでもエンナの料理は美味しかった。
食事を済ませると、リーシェのボサボサ頭が目に入る。
風呂でも沸かすか。
マークはふとそう思いたち一階の部屋をあちこち見て回り、やっと浴槽を見つけ出した。この家には風呂場というものがなかった。今時、珍しい。比較的新しい建物では、火を焚いておけば水が沸き風呂場に湯が供給されるような仕組みになっているものだ。しかし、どうやらここにはそういった仕組みはないようである。
風呂場がないとなると、風呂に入るのは非常に面倒である。台所で沸かした湯を浴槽に移し替えなければならない。湯を入れてから浴槽を運ぶのは面倒なので、台所を風呂場がわりに使うことにする。
そうしている間、リーシェがちょろちょろとついてまわるが、既にさほど気にならない。他人には気を許さない方だと思っていたが、これは人というよりペットのような存在だからだろうか。
マークは二つの鍋にいっぱいの水をはり沸かし始めた。
「リーシェ、風呂に入れ」
「ここ、お風呂ないでしょう? どこかにあるの?」
不思議そうな顔だ。リーシェは風呂場があるところで暮していたのだろう。目の前にある大きな浴槽が風呂だとわからないらしい。
浴槽を指差し「それが風呂だ」と言うと、リーシェは目を真ん丸にしてそれを見た。
リーシェが驚くとは、珍しい。余程、自分の知っている風呂とは異なるようだ。
「どんなのが風呂だと思ったんだ?」
さり気なく尋ねる。自分の緊張を悟られないようにしながら。リーシェの返事は、昨日のことを話すように自然な言葉として出される。
「んっと、石で出来た部屋に水が入った四角い池があるとこ。熱いし、ごしごしされるから、好きじゃない」
今、思い出しかけているのだろう。表情を変えないように至ってさりげなく会話を続ける。
「誰にごしごしされるんだ?」
「お風呂場の人よ」
かなり大きな風呂場があったようだ。しかも使用人が身体を洗っていたのか?
上流の貴族の家でも、そこまでのクラスの風呂場を持つとなると、限られてくる。どこの出身かわかれば。
「風呂場の人って、知らない奴なのか?」
「知らない?ううん、知ってる人」
「誰なんだ?」
「誰? 風呂場の人は、風呂場の人よ」
使用人の名前を知らない雇い主一家というのはよくあることだ。あまりよい雇い主とは言えないが。質問を変えてみる。
「風呂は家族と一緒に入ったりしなかったのか?」
「家族って何?」
「両親や兄妹だよ」
「両親や、兄妹……」
リーシェは目蓋を伏せ考えこんだ。
思い出しているのか、答えをジリジリと待った。
が。
「家族……欲しいなぁ。どうしたら、家族ができるのかな」
リーシェはひどく切なそうな顔でつぶやいた。泣きそうにも見える。手の届かない、だが憧れるそんな遠いものを見るような。
家族がいない、のか? おそらく大きな屋敷に住んでいたのだろうに。
「覚えて、いるのか?」
マークのゆっくりとした問いかけに、やっとリーシェも気が付いたらしい。自分が過去の事を話していることに。
「風呂場はわたしの部屋より大きくて、何人かの白い服を着た女性が身体をごしごし擦るから、嫌い、だった」
「他には?」
リーシェは眉を寄せて目を細める。瞼の奥を見ようとでもしているかのように。
「白い壁があって、白い部屋で白い服を着た女性がいつも付いてくるの」
「何処なんだ?」
「わからない」
「思い出せるものや名前はあるか?」
「名前、わからない。わたしは……」
リーシェは俯いてしまった。
「まぁいい。少しは思い出したようだ。これから徐々に記憶が戻ってくるさ」
慰めるよう口にしたその言葉に、リーシェは妙な顔をした。記憶が戻って嬉しいとは思っていない。寧ろ、思い出したくないような。
グツグツという音に振り向けば鍋が沸騰していた。先に水を入れておいた浴槽に鍋の湯を移し、温度を調節する。
「いいぞ。風呂に入れ」
「えっ?」
もしかして、入り方がわからないのか。いや、わかるはずだ、説明すれば。
裸になり風呂に浸かって身体を洗うよう指示した。そして、身体を拭くための布を、部屋の端に寄せたテーブルの上に置き、部屋を出た。
いつまでたっても出てこないので、様子を見に行き。結局、髪を洗ってやることになった。頭の傷を確認できて丁度よかったと言えるのだろう。
しかし、そろそろ本気でリーシェに『恥じらい』を教えるべきだと思った。
手でリーシェの髪を丁寧にほぐし、クシャクシャに縺れそうだった髪もなんとか解く。明日、ブラシを買ってやろう。エンナには感謝しないといけない。
風呂から上がった彼女をさっさと二階に上げ、生ぬるい湯に自分も浸かることにした。
風呂を片付け二階へ上がると、 マークの部屋でリーシェが寛いでいた。
この部屋に居座る気満々だ。
ソファーと椅子を隣りの部屋へ移動させ、小さな使用人用の簡易な寝台を運び入れる。衝立も。
「硬くてもいいなら、そこで寝てもいい」
そう言って、衝立の向こうの硬い寝台を指すと、リーシェは喜んで寝台へ乗り上がった。
マークの気が変わらないうちにと思ったのか、すぐさま服を脱ぎシーツの中に潜り込む。
「今日からここがリーシェの寝台ね」
そう言ってシーツを引き上げる手の爪の間に、まだ土が入り込んだままなのが見えた。
「お休みなさい、マーク」
彼女は何が嬉しいのか顔を綻ばせ、そう言うと目を閉じた。
リーシェが苦労知らず世間知らずなのは間違いないだろう。
身内はいない、のかもしれない。
そして、どこかの金持ちの誰かの妻、なのかもしれない。彼女の年齢なら誰かと結婚しているべき歳なのだから。
家族がいるのは当然だと思っていたはずなのに。彼女に、本物の夫がいるかもしれないと思うことは酷く苦く胸を軋ませた。
記憶が戻るまで、身元がわかるまで面倒を見るだけのつもりだったというのに。
一緒にいて、情が湧いてしまったらしい。
彼女の寝台の前に衝立を置いた。ほんの少し視線を遮るだけの。
リーシェの記憶が戻ったとき、彼女はどう思うのだろう。
なぜ彼女に夫がいることを考えなかったのだろうか。
いいや、考えたはずだ。
子供のように無邪気に、そして、一途に頼ってくるのをいいことに、彼女が大人の女性であることを、考えまいとしたのだ。
自分だけに必死で縋りついてくるのが心地よく、たまらなく嬉しかった。
置いていくときに自分へ向けられる縋るような瞳。まるで他は必要ないとでもいうように。そして、帰れば、喜びと嬉しさとを全身で表現するように胸に飛び込んでくる。
自分だけに向けられる強い思いに。
助けてやりたかったのだ。
守ってやりたかった。
自分が。
他の誰でもなく。